2019年03月24日

北海道大学学術交流会館 20.19.3.16

日本・ポーランド国交樹立100周年(1919~2019年)記念の《第89回例会》。ブロニスワフ・ピウスツキ没後100年記念 講演の集い~ポーランド、サハリン、北海道~の2回目である。
講師は井上紘一北海道大学名誉教授で、タイトルは「ブロニスワフ・ピウスツキの生涯と仕事」。没後100年と言いつつビウスツキの碑は、第3碑が2017年にリトアニアに、第4碑はポーランドのジョリと、この30年に4基建てられ、つまり評価は割りと最近になってからのことである。
皇帝暗殺未遂事件に関わり1887年基本は死刑であるが、貴族の家系で歎願もあり流刑となった。1896年に北樺太で減刑となるが移動はできず、その地に留まり土着のギリヤークのフィールドワークなどに従事する。浦塩(ウラヂヴォストク)で1902年父が永眠。1902年に樺太に戻りアイヌ関連の作業に従事、東部アイコタンのバフンケと会い、チュフサンマとアイヌ式の結婚式もあげる。樺太では識字率を高めるように進言をしたりもするが、しかし1905年の日露戦争の影響を受け愛妻を置いて欧州へ脱出する、その際に日本へ7カ月ほど立ち寄り二葉亭四迷などとの交流があった。欧州に戻るがポーランドは分割され亡国の状態であった。1907年には幼馴染のマリアと結婚する、しかしマリアには法律上の夫がいたというからややこやしい。1910年(の日英博覧会だと思うが)平取などからアイヌの方たちが参加し、その聞き取り調査を行ったようだ。1914年には第一次世界大戦がはじまりウィーンへ。その後ポーランド独立運動に参加するも1918年にセーヌ川で自死したとされる。DSCN1656
次いで北海道大学大学院の新井藤子氏による「日本で取り組まれてきたブロニスワフ・ピウスツキ研究の系譜」。系譜とは何かということであるが、時間の流れということがある。以前はチュフサンマは弟の妻として紹介、誤解されていた。弟のユゼフの方がポーランド共和国の建国の父にして 初代国家元首として有名だからだ。兄であるブロニスワフの肩書は多く、民族学者、人類学者、言語学者、社会主義活動家、流刑人etc、で位置付けが不明瞭である。そのなかでブロニスワフといえば蝋管レコードで知られている。その蝋管はポーランドでは古文化財で扱いが難しく、国際プロジェクトとなる。さらに直接触れられないデリケートなもので、再生には音響工学の知識が必要で、同等なものを作成するには歯学の技術も必要、さらに直接針を置かない様にレーザーでの読み込み、雑音を消す技術的サポートもいる。結局『ビウスツキ著作集』は1986年に刊行を決定するに至る。研究は研究では終わらないものであり、人間にまで戻らないものは意味をなさないだろう。例えば、白老でのアイヌの舞踊もコマーシャル的との批判もありつつ、時代に合わせて変容する自由度がなければ生き残れないものでもあるということだ。


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