空中庭園な日々

「空への軌跡」別館 ―― 北海道の詩誌を中心に & 気になるニュース

『饗宴』vol.76

饗宴『饗宴』
発行:林檎屋・瀬戸正昭(札幌市)

荒巻義雄作品「ボクシング」。副題に〈動詞〉を主体とする実験詩、とある。成る程、体を使うスポーツ系の表現としてはわかる気はする。ところでボクシング自体を知らないもので、例えば野球のラジオ放送とどの位違うものなんだろうかが、実は分らないのですが・・・。
塩田涼子作品「春までは―」。夏の時期に”春”というのが、なんとなく時節モノとするなら考えてしまうが、一行ごとに行を開けるというのは、ゆったり感としてはアリだなと思えるのです。
木村淳子作品「歩く」。第二連目の”私たちはいつも一緒だ。この人ごみの中でも離れ離れにならないのだから。”との一文が、好きだ。当たり前が当たり前でなくなる日が来るわけで、それは年齢が書かせる唯一のもの。その曲がり角をしっかりと書き表しているということだ。
吉村伊紅美作品「魚篇 鰯」。ううむ、現代の政治的な話題からの作品なのだろうか。どうもシリーズで書かれるもののなかなので。その意味ではシリーズというのも制約の一形態ということなのだろう。
瀬戸正昭連載エッセイ「林檎屋主人日録・36」。終了したと思っていたのだが再開とのことだ。2016.1.1から4.30までのこと。

スウェーデンの政治

皆一緒に森へ還る
 スウェーデンの政治の面白い点は、ランスティングやコミューンの議会の議員の大部分が、政治家とは別に本業を持つ兼業議員であるという点だ。
 「彼らは議員職を通じて、歳費をもらっているわけではなく、会議に出席した時間に応じて時間給をもらっています。本職は会社員、医師、看護師、大学教員、農家だったり様々で、いわばパートタイムの政治家たちなのです。議会は月に一度、議員たちが本業の仕事を終えた17時頃から開かれます」(湯元氏)
 中には執行委員会のメンバーの一部に専業の議員もいるが、わけのわからない出張をくり返し、釈明の会見で涙交じりにわめき散らすようなダメ議員が皆無であることは言うまでもない。
 徹底した合理性を求めるスウェーデン人の国民性は、墓の形態にも表れている。
 以前は、スウェーデンでも日本と同様、個人の墓が一般的だった。しかし、最近急速に増えてきているのが、ミンネスルンドと呼ばれる匿名の共同墓地だ。スウェーデン人の死生観に詳しい中京大学の大岡頼光准教授は語る。
 「ストックホルムの郊外には『森の墓地』という世界遺産にもなっている最大の共同墓地があります。 遺骨は完全に灰になるまで焼かれ、墓の管理人が林に撒きます。匿名性が重視されるので、どこに灰が撒かれたかわからないように、家族は散骨に立ち会うことはできません。 先祖を崇拝する日本の価値観とはことなり、死んだらそれで終わりという価値観が根底にあるのでしょう。気を付けてみると、骨の破片が林に転がっていることもあります」
 充実した信頼できる福祉制度のもと、安心して人生を送り、死んだら森に還る――北欧の楽園には、日本人が学ぶべき幸せのヒントが無数に転がっている。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150927-00045514-gendaibiz-bus_all&pos=2
「週刊現代」2015年9月26日・10月6日合併号より(←出典

『飛揚』第63号

飛揚『飛揚』
発行:横山智教、編集:葵生川玲(東京都北区)

今号の特集は「からだ読本」というものである。高橋英司作品「点検中」。つい、うっかり特集のお題を忘れて読んだのだが、そもそも身体のことではないのだ。時代を点検しているのであって、ね。であるからラストのぶらさがっている”カボチャ”は何かということを点検する。特集のことを意識しての逆説的手法であろうか。
葵生川玲作品「不謹慎叩き」。第1連の”マスゴミ”からして、気になる。ゴミであるマス媒体との意味合いをも含んでの言葉であろう。であるから第4連の”戦争の民営化”という言い方も気に掛かるのだ。アメリカ的な資本主義中心で考えれば、軍需産業のための安いコストとしての兵士であり、右肩上がりの経済学でしかないのであろうけれど。さて、日本はどうしうるのか、というところになるのだろう。
翻訳で森井香衣訳・報告「グラダナ詩祭報告 ルベン・ダリオ没後100年記念」。グラナダ詩祭というイベントが評価されるとしたとき、スペイン語の世界というものはドン所であろうかと思う、今日この頃。どうも世界は英語中心としか思えないのだが、EUから英国が離脱すると、欧州での英語国家はアイルランドだけ?というニュースに驚く。なかなか、世界は広いようで狭いのかもしれないなぁ〜と。
ファン・ヤウチエン「地名編算学」。ああ、言葉というものは、その小さなコミュニティから発達してきたのだということが、とてもよく意識できる気がするのだ。

中古車で十分-の先にある不幸

 日本のクルマが売れるか売れないかの話で、日本経済の未来を占おうというページであるのだが、面白いのが生活が苦しいと節約を選ぶのだが、クルマなら”中古車”を選ぶと長期的には不幸になるという話である。
(前略)
●キーワードは合成の誤謬・・・ さて、節約は堅実な戦法であるとして、皆でやるとどうなるだろうか? 経済の世界には「合成の誤謬」という言葉がある。部分の最適化が全体最適と相容れないケースの話だ。例えば、映画館で火事が起きたとしよう。個人の生存を考えればできるだけ早く逃げ出すことが正しい。最初に脱出するのと、最後に脱出するのではリスクが違う。だから個人の最良の選択肢は「誰よりも先に逃げ出す」ことになる。しかし、全員が同じことを考えれば、狭い出口に人が殺到し、将棋倒しになって誰一人助からないということも起きかねない。こうした場合に全体最適化をするためには退出順序を決め、全体の効率を上げて「最後の人を最も早く脱出させる」方法を考えることだ。
 日本人はこういうことが比較的得意である。例えば、電車の乗り降りの際、降りる人を優先して左右に分かれて出口を広く開け、降りる人の退出を最速化することが、結局は乗り込む人が最も早く乗れる方法だということをほとんど誰もが知っていて、駅員が整理を行わなくても自然にフォーメーションが実行されている。世界的にも恐らくは希なことだと思う。仮に単語としては知らなくても、日本人は合成の誤謬を実践レベルで知っているのだ。
 こうした合成の誤謬の観点から冒頭に記した中古車購入の話を見たらどうなるか? それはもう言うまでもないだろう。新車が売れなくなってメーカーの業績が下がる。業績が下がるからサプライヤーを含めた自動車産業従事者の給料が下がる。労働人口の10%を占めると言われる自動車産業従事者の所得低下は消費を押し下げてほかの産業の業績も下げることになる。こうして国民大部分の給料が下落すれば、より中古車指向が強まっていき、そのスパイラルは再度日本を深いデフレの淵へ飲み込んでいく可能性があるのだ。
 個人の判断としては正しい「消費の抑制」が、合成の誤謬によってさらなる個人経済の悪化に循環的につながってしまうのである。ここで「だから個人がお金を使わなくてはいけない。新車を買え」という結論を出すのは短絡的に過ぎる。全員がそうすれば確実に状況は変わるが、気の早い人だけが頑張って新車を買ったとしても、多数派が追随しない限り結果は変わらない。結果として全体最適化につながらなければ、個人的判断の間違いになるだけのことだ。
●出口はあるのか?・・・ こういう状況だから出口は簡単ではない。ほかの指標を見ても分かるのだ。これだけ税収が足りないと言いつつ、なぜ国の借金が増え続けていくのか納得がいかない人は多いだろう。それはこういうことだ。個人が消費を抑制し、企業がコストダウンをして内部留保を貯める。それは金融機関にどんどん貯め込まれる。貯め込まれたお金には当然金利が発生するので、銀行は何か運用しないわけにはいかない。
 個人も企業もお金を使う気はないので、国に使ってもらうしかない。もし誰も使う人がいなければ預金金利を払えず銀行が潰れるのだ。それは銀行という企業の問題ではなく金融システムの崩壊だ。となれば国が国債を発行するしかない。そして国債を発行して財源を用意してしまった以上何かに予算を付ける。そうやって「国民の借金」が増えていく。
 生活者としての実感と正反対の話だが、今世界中で起きている現象は「金余り」だ。だから日本は国債残高がどんどん増えていくし、余ったお金の運用先を求めているから、常に世界のどこかでバブルが発生することになる。(後略) 

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160530-00000024-zdn_mkt-bus_all (←出典

『水の呪文』No.43

水の呪文『水の呪文』
富沢智個人誌(群馬県)

詩作品「石を抱く」。木が石を抱くという言い方は、どこであったかは忘れたが聞いたことはある。しかしそれがどんなことであろうかと考えたことがなかった。成る程、書かれている通り、単純に考えるなら石の存在は根の進行を邪魔していくと思える。が、そうではなく逆に石が根に飲み込まれるというのだ。そして木を切り倒そうとするチェンソーの刃を弾くとも。また、根が飲み込むということでの三連目のコードの表現が面白い。静かに静謐に、力強く、個人宅の庭に年月を蓄えている姿。
エッセイ「まほろば通信 廖これによると『水の呪文』42号は2009年からの休刊であり、今回は復刊号ということだ。休刊というとついつい終刊号と思うし、なかなかこんなにうまく(?)休刊と復刊を続けられるというのは、すごいことだ。まあ、それだけ『い』という詩誌との絡みなどがあったということなのだが、ポエトリーステージは続けていくということではある。
萩原常夫エッセイ榛名団・分室 屐悒献絅ぁ戮箸いε后廖”娘十八、番茶も出花”は間違いで、”鬼も十八”なのだそうだ。醜い子でも若いということでの一瞬の輝きがあるとのことだ。う〜む。

スウェーデンの税金

●消費税25%でも、相続税はナシ! ゼロからわかるスウェーデン「超合理的な社会」のしくみ・・・
 スウェーデンの幸福度が高いのには明確な理由がある。いうまでもなく、世界トップレベルの福祉制度の充実だ。教育費は大学まで含めてすべて無料。医療は18歳以下は無料、成人も自己負担が年間で最大900クローナの診察料(約1万3000円)、1800クローナの薬代(2万5900円)と安く抑えられている。前編で見たように安心して介護を受けられる体制も整っている。
 当然ながら、このような充実した福祉サービスを支えるためには、しっかりとした財源が必要となる。
 国民の所得全体に対する社会保障費と税金の割合を示す「国民負担率」を見れば、わかりやすい。スウェーデンの負担率は58・9%と日本の43・4%を大きく上回っている。スウェーデン人が大きな負担にたえていることは明らかだ。
 具体的には例えば、消費税は25%。現在の日本の3倍の負担だ。ただし軽減税率も導入されており、食料品や宿泊費は12%、公共交通、書籍・新聞、コンサートやスポーツのチケットなどは6%となっている。
 他に主たる財源になっているのは、地方所得税と呼ばれる日本の住民税にあたる税だ。日本総合研究所副理事長の湯元健治氏が解説する。
 「スウェーデンは地方分権が確立されており、ランスティング(日本でいう都道府県)とコミューン(市町村)で成り立っています。
 税率は自治体によって違いますが、ランスティング税が約10%、コミューン税が20%程度が平均です。他に国に払う税金もありますが、高収入の人しか課税されないので実際に国への所得税を払っているのは、国民の15%程度です」
 一方で相続税は'04年に廃止された。これはもともと相続税が税収全体に占める割合が極めて低く(贈与税と合わせて全体の0・2%)、富裕層が税金対策のために海外に逃げ去ってしまっては逆に税収全体が落ち込む懸念があるという合理的な考えから廃止された。
 相続税が廃止された時も、「金持ち優遇策だ」という批判は起きなかったという。今年から相続税が強化された日本とは正反対の政策だ。
 「スウェーデンの政策は極めて合理的に決められています。財源をどう使うかは基本的に、各自治体に委ねられていて、様々な議論が行われる。
 例えば、ある医療サービスが足りないという意見があれば、今の税率を何%上げないと、そのサービスは行えませんがどうしますか、という議論になり、住民の理解が得られれば税率を上げてサービスを充実させる。
 逆に税率が高すぎるということになれば、どのサービスを廃止しますかという議論になる。受益者は自分たち自身であり、その見返りとして当然、負担が生じるということを住民はよく理解し、納得しているのです」(湯元氏)
 ひるがえって日本の場合は、医療保険制度があるので、保険料を徴収し、それでも足りない部分を税金で補っており、カネの流れが複雑だ。財務省は社会保障を充実させるために消費税を引き上げると説明しているが、具体的にどんなサービスが拡充されているのか、よくわからない。
 だから増税の議論になると、国民は反対せざるを得ない。払った税金が汚職で消えたり、利権まみれの政治家や官僚のポケットに入っているかもしれず、結果として日本人は、負担にふさわしい福祉を受けているという満足感がまったく得られないのだ。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150927-00045514-gendaibiz-bus_all&pos=2
「週刊現代」2015年9月26日・10月6日合併号より(←出典

『いのちの籠』第33号

いのちの籠『いのちの籠』
編集発行:甲田四郎(東京都大田区)

原子修作品「谷地蕗の花」。第一連において、”文明の荒野”とけなしつつ、願がわくは・と言い、させたまえと言う。これは谷地蕗という、実のところ我々が蹂躙した、言わば最も弱いと思えるものへの、祈願ではないですか。そんな小ささに自分の陰を見いださねばならないという警告でもあるのだろう。
北村真作品「もうしわけない」。ヤマシタのおっちゃんが常の口癖。モロタイから帰ってからの日課は、もうしわけないと言い募ること、鳥居の前で。それは今までのことの全てに対してなのであろう、死ぬまで続ける。問題は、言葉だけでなくそれをどこまで実行したか、ということなのではないか…。
月谷小夜子作品「夜空」。何億光年という宇宙創世からの出だし。戦争が身近になりつつある、おそらく今の政治体制への批判。でありつつ、そう思うからの反対署名を集めるのだ。次の世代への橋渡しとして。多分当然のことを言っている。そうであって生まれた時の明かりとは何か。宇宙物理学の成果という意味かな?
葵生川玲エッセイ「連載「小選挙区制に反対する詩人の会」のこと」7。1992年の法案提出時の話だが、いかんせん仕組みを大して理解していない。が、7月10日の参院選比例区で「支持政党なし」というクズのような騙し討ちの政党が出てきた。これもそういした弊害の一端なのか、調べるべきかもしれないと思う。

『小樽詩話会』no.594

小樽詩話会『小樽詩話会』
発行:十和田梓恭子(小樽市)

高橋明子作品「イヌイットの壁掛け」。日用品がアートであるということを見抜ける・というのは、目利きであるということなんだろう。まずはオホーツク北方博物館に寄贈できたから、いいのかなと思っておく。第3連にあるように”貯蔵という習慣がない”というが、本来は最も素晴らしいことなんだが、過ちを繰り返さないためには必要なことにもなるわけで、その象徴を展示するわけだ…難しいですねぇ。
竹田美砂子作品「おにぎり」。母に祖母に自分と奥さんだが、誰の奥さんなのか、いまいち不明瞭。さらには、本が出来上がるという作業・というが、詩話会の会員以外には分らないであろう。そうでありながら、塩加減まちまちの”おにぎり”にこめるものを考えると、コンビニでは絶対というくらいに味わえないもの。しかも、日本人でないと分らないかもしれないとも思いつつ、日常の一面を映し出している。
下田修一作品「山は参勤交代」。不思議なお話ではある。参勤交代しているのは水であろう。大気の循環までの広大無辺を一巡り。この大きな感じが好きですね。
おのさとし作品「小樽教会布教百二十年」。文中にも教祖金光大神とあり、金光教一宮教会は2015年に120年目であったから、この話は金光教のこと。で、「祈りの内実が虚妄でなかったことは、云々」「利用できるものは神だろうと例外なく、云々」とある。が、科学と宗教は相当に異なるもので、そもそも取り上げること自体が、微妙なのだが、なかなか筆者は怖いものなしのようである。

エンゲル係数急上昇?

(前略) 第2次世界大戦中や戦後直後の食糧難時代には再度エンゲル係数は60%程度まで上昇したが、経済復興の過程で1950年代に戦前水準まで低下したのち、その後の高度経済成長期の生活向上を経て現在の20%台の水準へと急速に低下した。(略) そうした中、わが国のエンゲル係数は2005年の22.9%を底に反転し、2015年には25.0%と急上昇した点が印象的な動きとなっている。戦後の一貫した傾向が逆転したため、やや、驚きをもって受け止められているといえる。
 こうした最近のエンゲル係数の上昇については、次のような要因が考えられている。
  《短期的要因として》
・収入の伸び悩み・減少(エンゲルの法則どおり収入が減っても食費は減らせない)
・消費税アップによる生活水準低下(可処分所得の減の影響)
・円安効果(輸入が多い食料品の相対価格の上昇の影響)
  《長期傾向だが最近強まった要因として》
・共稼ぎ夫婦の増加(惣菜・弁当などの中食や外食の増加)
・高齢者世帯の増加(教育費やマイカー費などの減。食費は減らせない)
・1人世帯の増加(1人分の食料購入は割高)
・安全志向・グルメ志向(高額につく安全な食品あるいは美食へのこだわり)
 エンゲルの法則からは、収入や税金の動きに伴う生活水準の低下がエンゲル係数の上昇に結びついたとする見方が説得的である。最近アベノミクスの負の側面が顕在化しているという見方と結びつける理解がここから生まれる。
(中略) 生活水準が低下し始めたのはバブル崩壊の1993年以後の傾向だが、その時期、エンゲル係数が下がっており、異例な動きだった。最近、やっとエンゲルの法則に沿った動きとなっている。(略) この時期に何が起こったのであろうか。実は、この時期は、情報通信革命が家計に大きな影響を与えた時期なのである。(略)生活が苦しくなっていたにもかかわらず、それまではゼロであったパソコン、インターネット、携帯電話・スマホといった新技術に要する経費が急にふくらんだため、食費を必要以上に切り詰めざるを得ず、その結果、エンゲル係数はむしろ下がっていたと考えられる。最近は、変化が一段落し、こうした新技術への家計支出が一時期ほど大きくふくらむ情勢ではないので、エンゲルの法則が再び働くようになり、生活水準の低下に応じてエンゲル係数が上昇しているのではないかと考えられる。
 すなわち、携帯電話普及の時期に、本来上がるべきエンゲル係数がむしろ下がっていたので、それが生活水準の上昇が継続しているという錯覚を生じさせることになり、その結果、最近のエンゲル係数の上昇が突然の現象に見えることになったと捉えることができる。エンゲル係数上昇の犯人は意外なところにいたようだ。
(中略)欧米主要国の動きを見る限り、米国と英国を除いて、反転の時期は異なるが、日本と同様に、下がり続けていたエンゲル係数が最近上昇に転じている。しかも、日本と同様に1995〜2005年の時期には、米国と英国を含めて、すべての国でエンゲル係数が下がり続けていた状況が認められる。

http://diamond.jp/articles/-/92176?page
DIAMOND online 2016年6月8日 (←出典

セレクション『有馬敲言行録』

有馬言行録セレクション『有馬敲言行録』
田中茂二郎・著(土曜美術社出版販売)2016.6.11

オーラル派といわれる有馬敲の言行録である。
話のなかでは「詩は詩。うたはうた。」という一文が重要かな。うた・とは何かということなんだが、言葉は確かに語るということから始まり、それも歌ということでの伝達手段は人の営みの中から出てきたものであろう。ではあるからといって、うたが詩になることはない。書くという行為が人間の意志としてあり、それを解き放つという行為が発語である。そのふたつの合致とはまた別なのだということに非常にしっくりする。
「自己批評としての文学」。時代によって役割というものは変化するのであろうけれど、”卑怯な自分、やせ我慢する自分、矛盾した自分、欲張りな自分、などなど”を晒すという行為に対して、考えることが多い。
「現代のガリヴァ」。サルトルの言葉の引用で、革命者が世界の超越者であるのに対して、反抗者は自分の対象を失うことのないように弊害をそのままに残す・ということはなかなかショックなことだ。実際当たり前の話ではあるが、では、自分はどうだろうと思うと結構怖いことになりかねないわけであろう。
まあ、それにしても有馬氏は本当に、色々な所へ行っているのだなと思うわけだ。ゲーリー・スナイダーだの、スペイン、モンゴルと歩き回っているということである。そういえば「詩朗読きゃらばん」のことがで「3・札幌にて」が村田譲のHP「空への軌跡」がママ掲載されている。おお、と思ったりするわけである。わははははは。

注意!政党名「支持政党なし」

【参院選】「支持政党なし」は政党名です←こんな名前ってあり?
 「支持政党なし」「支持なし」。どの政党も支持できない、という意味で広く使われている言葉だ。 しかし、ご存じだろうか。7月10日投開票の参院選で、投票用紙にそう書くと、ある政治団体に投票してしまうことを。 その政治団体の名は、「支持政党なし」(略称:支持なし)。 今回の参院選では、比例区(全国)と、5選挙区(北海道・東京・神奈川・大阪・熊本)に候補者を出している。 ネットなどでは「勘違いする」と物議をかもしており、「間違って投票しないように」注意を呼びかける声が出ている。
●そもそも、どんな団体?・・・・・
 総務省の資料によると、団体の本部は東京都大田区にあり、佐野秀光という人物が代表をつとめている。 代表の佐野氏は、2009年の衆院選・比例代表北海道ブロックに「新党本質」という団体で立候補し、7399票に終わった。 2010年の参院選・東京選挙区では、3662票。 2012年の衆院選東京4区では、2603票だった。 当選には程遠い票数だ。
●「支持なし」で大躍進、当選の可能性も・・・・・
 ところが、「支持政党なし」として出た、2014年の衆院選・比例代表北海道ブロックでは、10万票を獲得した。これは、公明党のおよそ3分の1、社民党の倍という数だ。 得票率は4.19%。定数8の北海道ブロックでは議席を確保できなかったが、全国区でこの得票率を再現できれば、話は変わってくる。 今回の参院選に、「支持政党なし」は比例代表で2人、選挙区(北海道、東京、神奈川、大阪、熊本)で8人の立候補者を出している。 参院選の比例区は全国区で、定数が48もある。仮に得票率が2%を超えた場合、議席を確保できる可能性が出てくる。2010年の参院選比例区、社民党は3.84%の得票率で、2議席を得た。
●政治団体「支持政党なし」の公式サイトに掲載されている説明 ・・・・・
「支持政党なし」の政策とは。 「支持政党なし」は公式サイトで、「現在の日本の選挙制度では、支持する政党及び候補者がないとしても支持政党なし、該当者なしという選択肢がない」ことから、支持政党がない人の受け皿を目指すと主張している。 公式サイトには「政策一切なし」と書いてある。当選した場合、法案ごとに支持者に賛否を聞き、その結果に沿って行動するとしている。(後略)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160629-00010001-bfj-pol
BuzzFeed Japan 6月29日(水)17時0分配信 (←出典

 公式サイトで―政策一切なし―ということは、実に税金を掠め取ろうとする行為に他ならない。つまり、間違っても「支持なし」とか「支持政党なし」などと書いてはいけないということだ。ほとんど詐欺みたいなクズと断言してよい。間違えばこの政党に一票入るということだ。あなたが支持するに値しない政党ばかりであるならば、白票を!! しかし下らない。

『ゆうひろば』第159号

ゆうひろば『ゆうひろば』
発行:NPO法人さっぽろ自由学校「遊」

6月号で特集が「市民と選挙」というのは驚いた。衆院北海道5区候補池田まき氏は最終的には落選したのだが、その応援が意味するものは何なのかという問いなのだ。何だか分らない落下傘候補と自立を目指す女性候補が出るということで、ほとんど興味なんかないくらいのイメージ戦でしかないのだが、イギリスの国民投票なんかをみると、自分の一票がまさかこんなことになるとは思わなかったという報道による発言を聞くに、知らない振りはできないのだと改めて思う。全く、考えるということをベースにすると、単純に組織票であればいいという発想も危険であろうか。
にしてもイベント「土曜・ゆうカフェ」とか会員の部分を読むと、なんだか加藤多一氏とか花崎皋平氏とか、いつかどこかでの知った風な名前が随分載っているのには笑った。土曜の14時から二時間ほど、当日1000円会費であるようだ。

電気はクリーン、は嘘

 (前略)電気自動車は、米テスラ社のように新規参入企業であっても、モーターやバッテリーというモジュールを車外から調達することで、簡単に自動車を組み立てることができる。しかし電気自動車とは、一見クリーンな技術に見えるが、動力源である電気は外部から充電しなければならず、原子力発電が世界的に減少傾向にある中では、火力発電がエネルギー源であり、必ずしもクリーンな自動車技術とは言えない。
 さらに、体積当たりの動力源として考えれば、電気自動車よりもガソリンエンジン車の方が優れている。テスラの電気乗用車が300劼曚描行可能なのに対し、ガソリンエンジン車であれば、500〜600卅行可能な乗用車も存在している。より体積に対する要求が厳しい航空機を想定し、電気飛行機が実用化されないことを考えれば、体積当たりの動力源としてまだまだ内燃機関にポテンシャルがあることがわかるだろう。

http://diamond.jp/articles/-/91373?page=3
DIAMOND online 2016年5月18日 マツダにできて三菱自工にできなかったこと(←出典
* * * * * *
 次いで、山田修「展望!ビジネス戦略」(1月4日)の「電気自動車=クリーンの嘘 燃料電池車がエコカーの主役&ガソリン車を侵食する理由」である。
(前略)エコカーとしての燃料電池自動車(FCV)と電気自動車(EV)の優位性について議論が盛り上がっているが、環境の観点からみればEVのほうが分が悪いといえよう。総合的なエネルギー効率を考えると、原子力発電が全面的に停止している日本において、例えば火力発電では化石燃料という一次エネルギーを燃やしてつくられた電気という二次エネルギーをEVは使う。つまり「EVはクリーン」というイメージが強いが、実際には発電の際に大量のCO2を排出するなど環境負荷が発生している。

http://biz-journal.jp/2015/01/post_8461.html(←出典

 どうも”電気=クリーン”とは言い難いのである。原発を再稼働するならば別かもしれないが、今のところ世論は稼働の方向には捕えていないだろう。であるなら”エコ”と称して何が操作されているのか、ということであろう。 資本主義は何が何でも右肩上がりでなければならない。エコでも、クリーンでもお金が回らなければ、倒れるだけの独楽の様ではないですか(笑)。

詩集『雑記帳』

詩集雑記帳詩集『雑記帳』
今村博光・著(私家版)2016.6.11

作品「わたし」。部屋に誰もいない、と言い環境が述べられている。わたしもいないのだが、別に引っ越しをしたことがあるなら、そういうものだと思うよ。そこに居場所を探すのだから。
作品「昨日のこと」。20年前に失った友人は私という記憶の中には、まだ居て。しかし私とともに失われるのだということも確実で、であれば人類という大くくりも太陽系とともに滅ぶのだし。人間なんて所詮100年でしかないものだ。それでも生きていくのであるけれど。
作品「年賀状」。その場でのことというのは、思いやりで判断する必要はない。とくに金銭のやりとりはもっとシビアに、だますかだまされるかが資本主義のモットーであろう。もちろん常に強者の立場に居られるわけもなく、であるからのヤサシサである。騙しあいでいいのでは?
作品「昭和三十年」。筆者が社会に出ての二年目ということだが、私は生まれていないのだが、しかし本当に”昭和”というのは遠くなったのだなと、実感できるこの時代のスピード感がすさまじいと思うのだ。
作品「雑記帳」。本詩集のタイトルでもあるが、18ページにも及ぶ長篇だ。まさに日々であるのだが、タイトルが嬉しくない。ご本人のあとがきでは、記述的な要素が多くて…とのことであるが、こうした内容であれば当然にそうなるのであるが、手に取らせる工夫としてはいまいちである。何をもって詩であると定義するのか。そもそも定義は誰がするのかという問題もあるが、詩からは逃れられないから詩をかくのであろうし、ね。と単純に思っている。

『YOCOROCO』7

YOCOROCO『YOCOROCO』
編集発行:佐藤裕子(函館市)

渋谷美代子作品「朝から詩集を」。第一連”ページの下に曲線のアトが・・・”で、どうもこの主人公はそれは一体何であろうと、それなりにモンモンと印刷技術の技術発達の痕跡と思っているらしいことが、書かれているのだが。絶対ないから! そんなこと! と私は声を大にして言いたくて言いたくて。もしも隣で聞いてきたら、思わず叩いてしまうのではないかと思うくらいに、うあ〜となっていたのでありましたッ。朝から詩集なんか読むからだ!って?(笑) まあ、栞の刻印というのも、そんな風に見られるものであるのかと。
佐藤裕子作品「こうして生まれ」。細胞というものに実態を見つけることは難しく、どちらかといえば義肢にも似ている様で、そうであって求めるものは皮膚感覚。死という屍を重ねながら生きる渇き。使者をどこに見たのかは分らないのだが、連鎖の中にいることは理解できる。そのなかの自分というものの方向を、色を求める。本能という一言で終わらせるわけにはいかないのであろう、母という繋いでもらった運命がある限り、その自覚のある限りに。この詩誌のデザインは一枚ごとに別口の用紙を貼り重ねるという、手作り感が、それだけで指を留める。デザイン重視は(私の趣味でもありますが)素敵です。
WORLD ALARM

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