空中庭園な日々

「空への軌跡」別館 ―― 北海道の詩誌を中心に & 気になるニュース

坂道

『坂道』第16号

坂道『坂道』
発行:ささきひろし(さいたま市)

巻頭詩に震災十周年特別企画として新川和江作品が載る。「わたしがいる、と」。すべてが波にさらわれたとしても、私がいる。一個の身体があるということを叫んでください、と。
ささきひろしエッセイ「ファミリーヒストリー」。亡き父の回顧録をまとめたとある。天井裏から日記とはライトノベルのようではあるのだが、事実なのであろう。その父は、乗り込んだ戦艦が撃沈されても生き残る強運の持ち主であり、予科練の教官時代に、”死ね”ではなく”生き延びよ”と教えていたというのがなんだか不思議である。どうして他の教官はシネであるなかで、それを吃驚したというのだろう。ちょっと興味深い。同時に私は父に聞き損ねてしまっているのだ。
濱田美枝子エッセイ「表現世界の一端に触れて」。カメラマンであるロジャー・オダネルの作品に「焼き場に立つ少年」という一枚があり、その凄まじい張り詰めた姿の写真を見て、画家の増田常徳は、まったく違う虚脱と喪失の少年「喪失のヴェール」を描いた、と。
ヴィヴィアン・R・リーチ作品「コロナウイルスから人類への手紙」。タイトル通りの話であるが、つまりウイルスもまた地球上でしか生きられない生命体ということか。しかしガイア仮説を考えると、これでもなんだか優しく思えるから不思議だ。

『坂道』第15号

坂道『坂道』
発行:ささきひろし(さいたま市)

小林栄作品「恋ダンス」。ドラマ「逃げるは恥だが役に立つ」で人気になった踊りということですが、知らんそんなもの! である・が孫には弱いということらしい。ソシアルなら知ってるよに対して、変なこと知ってるねって…うーん。まあ、楽しいならいいやね。
野々辺恵作品「サンマ」。昨年はとにかく不漁であるから、首の一つや二つ曲がっていようと気にするな、といいたくなるかな(笑)。氷風呂に灼熱地獄、くわばらくわばらというところ。しかしこの軽みがすごくいいと思うのですよね。
杉野紳江エッセイ「ちょうどよい「死に時」」。見つかったときには呼吸をしていないというのは、まあ、いいことなんだろうと思う。変に人工呼吸器を付けて、場合によっては胃瘻というふざけた”医療”をされると、死ねなくなる。下手に管を抜けば殺人だ。ただその時には本人は選択できないからね。遺書なり、とにかく周りに尊厳死を望むと言い続けることであろう。
ささきひろしエッセイ「初めてシニア・オペラに出演して」。声を出すのは好きなんだが、曲に合わせるのはそれほど得意でも上手でもないもので、できれば生で演奏者が、私の声に合わせてもらうのがいちばんだ。とまれ、ささき氏は無事大役を果たされたようで、何よりです。

『坂道』第14号

坂道『坂道』
発行:坂道の会・代表 ささきひろし(さいたま市)

月谷小夜子作品「ともだち」。この友達は鳥のことであるわけだ。薪割りの木肌から出る虫って、そんなに多くいるものなのでしょうか? その辺りが分からない北海道の住人です。挨拶をするような仕草に来年を思うというのは、なかなか素敵です。
野々辺恵作品「六月の朝に」。病み上がりの不精髭って、勝手に剃られるわけでもないんだと妙な食いつきをしております。夏の気配を感じられるほどに良くなりつつあるのでしょう。ただ、個人的には”迷い子のように見あげる”という言い方は一考した方が良い気がします。
ささきひろし作品「無神論者のわがまま」。昨日母の葬儀がありまして、宗教を分からない妹は勝手に変な宗派での葬儀を申し込みをする。無神論の葬儀という発想がなく困ったものだ。さて、ここではあと何年生きられるかとの医師の診断後に、神よ仏よと泣くわけですが一般にはそれでいいと思います。何に対してどう祈るのかが形になっているならば、いいのであろうと思うのです。
山添勝弘エッセイ「突然の意識喪失…」。原因が二カ月前の転倒とは、大変な思いを成されたのですね。まあ、好みの問題でもありましょうけれど、調子が戻ったのでしたら作品化したいですね。眠ることと死ぬことは大して変わりは無いと思いますし。

『坂道』第13号

坂道『坂道』
発行人:ささきひろし(さいたま市)

月谷小夜子作品「人参になった私」。土の中に眠るオレンジ色を引き抜き、とろ火で仕上げる。最初は小さな種であり、人間も土と無縁ではないわけで、それは死ということを考えても、半分棺桶に足を入れているのは、半分土に還ろうとすることと変わらない。その比較であるのだが、まあそうだよなぁ〜と。
秋田芳子作品「下町風俗資料館」。たまたま、不忍池の辺の資料館に足を運んだことがある。そのときの写真を見返しながら、北海道生まれで育ちであるから、私的には昭和のかすかな匂いしか感じるものは無かったのだが、”当時”ということに触れる場所があることは素敵なことかもしれない。
ささきひろし作品「さよなら 北の大地を走る鉄道よ」。北海道の留萌であり増毛である。一度行ったことはあるが、国稀酒造という美味しい酒蔵がある。そこに行く人はそれなりにまだ、いるようではあるが。なにせ広すぎる北海道であれば、これからも終着駅であり始発駅である鉄路は…。

『坂道』第12号

坂道『坂道』
代表:ささきひろし(さいたま市)

曽根よし子作品「旅」。”貴女”との旅であるわけだが、それは誰のことかと思えば、娘のことなんだね。どうも男親としては、息子に何か感じるものがあるかというと難しい。家を継ぐだのということは、職業が固定化している時代のことだし…。しかし女性は外国に嫁に行く娘に、さようならを言うのですね。
米田かずみ作品「それでも信じて」。おだやか、ゆるやかというモノを手放してしまったのは、いつのことかといえば、きっと資本主義なんてものに手を染めたときであろうと、私は勝手に思ってはいる。だからここでいうモノは何となく分るのだが、その分だけ無理っぽい気もしてしまうのですね。
秋田芳子作品「鬼の居場所」。鬼がいる…鬼はいるのか、作るのか、成るものなのか。ふむ、と思いつつ自分を見つめる気になっていく、のであろう。
ささきひろし作品「心の故郷」。明治の津軽海峡を渡ってきた祖先、というのはやはり自分の親のことであろうね。どうも私的には転校が多すぎて、この地にという気になかなかなれないわけで、それでも故郷は北海道であるとまでは思っているのですが。

『坂道』第11号

坂道『坂道』
発行:ささきひろし(さいたま市)

編集後記によると、今回11号を向かえ、テーマ詩を設定するとのことである。今回のテーマは「椅子」である。
ささしひろし作品「残された上着――O氏を偲んで」。人身事故の話である。同僚の席に上着を残して帰らぬ人となったO氏のこと。組織人になりきれない、彼を慕う人の影というものが、提示されていく。どうも私の身近にも、帰らぬ人となったものはいるのだが、それが自殺かどうかとなるとよく分からない。見知らぬ事故の現場にいたことはあるのだが、なんとも。
月谷小夜子作品「総理の椅子」。タイトルがなんとなく陳腐という気はする。しかし述べていることは考えねばいけないことが多い。現在の日本国憲法で問題なのは9条そのものではない。96条問題という改正に関する部分なのだ。改正する数値を2/3から1/2に修正することで、いつでも勝手にいじれるようにしようという裏口だけの議論で追わらせ、平和というテーマから切り離して十分な議論をしないで、改正しようとしていることなのだ。その政治家への一票は、そう、我々がいれたのだ。であるから今後も監視していかないといけないのだ。
秋田芳子作品「路地」。なんとなくこういうテーマはいいなあ、好きなんだろうと思うのです。再開発という名目で、裏路地というものはすべて清潔に切り捨てられている。しかし人間はそれなりにヤバイところを持っているのであって、無理くりに清めてもなぁ〜、と感じるのですよ。

『坂道』第10号

坂道『坂道』
発行人:ささきひろし(さいたま市)

秋田芳子作品「ロープ」。犬を散歩に連れて歩くように、我々もまた、会社というよく分からないものに、繋がれている。さらには、妻とか夫とかの役割というものにも。まあ、このところはあまり考えないのは、それなりに緩め方を覚えたからかもしれないが、無くなったわけではないのだ。
ささきひろし作品「ゆれる」。基本は地震という、どちらかといえば日本的な話題ではあるが、それを歪みと捕えると、様々な亀裂に気付いたりする。原発問題はかなり深いものではあるだろう。
曽根よし子作品「桃源郷」。古河城主が江戸時代に桃を植えるという発想をする。ふむ、もともと桃には神秘の力を認めていた(黄泉比良坂の話とか)としても、どんな発想であったのかを聞いてみたい気はするものだ。その実を踏んで歩く・・・なんかすごい。

詩誌『坂道』第9号

坂道詩誌『坂道』
発行人:ささきひろし(さいたま市)

秋田芳子作品「紺絣」。農家作業衣として多く需要のあったものであるが、今は若い女性にとっての見たことの無いファッショナブルなものとしてある。筆者にとっては戦争の記憶のもの。女性同士が伝えあう時代の繋がりでもある。
月谷小夜子作品「ぱれーど」。普段は歩道を歩くんだ、歩いていたはずなんだ、という言い訳しか出来なかった大人と子どものパレードだ。反省だけならサルでもできるという広告は、今でも通用しそうである。
ささきひろしエッセイ「国際映画人・高野悦子さんを偲んで」。28年前の出会いからの付き合い。まあ、長い時間を付き合える人は、実のところそんなに多くはないだろう。そのなかで、私であれば「映画」は絶対すたれないと言い切ることが、どこまでできるだろう。そういう友人は大切にしたいものだ。

詩誌『坂道』第8号

坂道詩誌『坂道』
発行:ささきひろし(さいたま市)

各同人が詩とエッセイを掲載している。結城文作品「檜のお風呂」。ホテルに泊まってのちょっとした贅沢に触れる。木の香り、外国から来たお客への、そして日本人のお客への檜の香り。こんな時、旅先でしか見つけることの出来ないもの。
秋田芳子作品「席」。ここに現される席次というのは、兄妹といった家長制度の残像。葬儀のときに最もはっきりと見せられるのだ。私も長男の長男なわけだが、あまりに馬鹿げていて一度親戚の次男坊と喧嘩したこともある。本当に下らないことなんだが。
ささきひろしエッセイ「第一回秋谷豊・ランプ忌の開催」。秋谷豊自宅が資料館として、詩?(しりゅう)館と名付けられ、今回の開催場所となったとのことだ。「不幸な時代だからこそ、一人ランプに向かって詩をかこう」「ああ、ランプは眠れない愛のことばだ」との思いから、人形の町巣鴨市に、輝く光として生まれてきたとのことである。

詩誌『坂道』第7号

坂道詩誌『坂道』
発行:ささきひろし(さいたま市)

曽根よし子作品「北欧回想」。なんかちょっと憧れるわけではあります。冬の寒さは北海道の比ではないにしても。しかし私の場合はまずはパスポートの取得からなのですが。
月谷小夜子エッセイ「新手の詐欺か?」。若い男子が、年上の女性に声をかける。「お話をしたい」のだそうな。まあ、女性に愛と夢を渡して代わりにお小遣いを貰う・ジゴロという職業も昔からあった気はする。詐欺といえばサギ?かな。しかし現代は本当に、話だけを聞いてくれという神経症の人もいるので、難儀ではある。
秋田芳子作品「疎開っ子」。なんだか、戦時中の話がそのまま東日本の震災の話に、ダブってしまう。それでも残る写真があれば、いいね・とのみ祈る。
ささきひろし作品「泪をながす鮭」。故郷に帰るということ、帰れる故郷ということは、震災の後では、切実な問題となりつつある。
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