空中庭園な日々

「空への軌跡」別館 ―― 北海道の詩誌を中心に & 気になるニュース

旭川詩人クラブ

『詩め〜る旭川』第16集

詩めーる旭川『詩め〜る旭川』
発行:旭川詩人クラブ(旭川市)
編集:東延江、立岩恵子

東延江作品「初雪」。黒岳に雪、えっもうかよ!と言いたくはなるのだ。確かにテレビでその映像が流れていた気もする、だからテレビとかは大嫌いである。が、日露戦争の話をしてくれたジッチャンのことだから、もう少し前のことかもしれない。
柴田望作品「贈り物」。オリジナルの社員手帳、特注品。まあ、あまり見かけなくなりつつあるけれども。書けと言うことが好きだ。アナログであるということは全然悪いことじゃあないのだ。
立岩恵子作品「九月の扉」。二十年前にあなたが、その時のわたしは抱き留め、今九月に孫が開く扉。連なる命の感覚は女性という性だけしか、持てない感覚なのであろうね。
沓澤章俊エッセイ「教会について」。教会という精神性が中心の所は、なかなか他の場所とは違う。そうでありつつ必要ではあるのだ。もちろん組織というシステムが、ややこやしくはあるのだと、一応のクリスチャンは思う。
富田正一エッセイ「無名の詩人 小山政明氏」。富田氏の16歳上の先輩詩人。誰に忘れ去られようとも、詩を書くという行為の残る限りに続くであろう、無名の系譜ではある。

『詩め〜る旭川』第15集

詩めーる『詩め〜る旭川』
発行:旭川詩人クラブ(旭川市)
編集:東延江、立岩恵子

出雲章子作品「道東の夏祭り」。砂州(さす)の道は見たことがない。北海道の東端、野付崎のイメージとしてのカタチはあるのだが。海に向かって描く弧、幟旗、大漁旗、船影。短い夏は北海道では当然としか言いようがないが、悲しげな笛の音、地を這って。一度見に行きたいのであるが。
立岩恵子作品「さくら」。春という過去の幻影を短く見積もるのは癖のようなものであるが、あの日を思い出せるのであれば、明日もまた見ることはできるでしょう。
森山幸代作品「平和の種」。この種は弱弱しく、ほんの少ししかない。その通りに、豊かになったならば世界に溢れるといいとは私も思うが、そんな日は来ない。それは必ずその種を守るという強い意志の中にしか芽生えることなどないから、気を緩めてはいけないものだからだ。
富田正一エッセイ「詩作の傍ら作詞」。余技と言いつつあちらこちらで、作詞しているのですね。旭山動物園のイメージソングなんて可愛らしい。子どもをメインに考えないと難しいでしょう。

『詩め〜る旭川』第14集

詩め〜る旭川『詩め〜る旭川』
発行:旭川詩人クラブ

富田正一作品「味」。味覚というものは人それぞれで、どれがいいというものはない。そうであって、同居する人との関係が最終的には味を決めていくものであろう。失った妻という人の料理を思い出す。いないことでかみしめるもの、そして懐かしむ妻との時間の味。
沓澤章俊作品「ハードル」。何であろうとも褒められた思い出が、記憶を作っていくのであろう。教師なのか先輩なのか、そしてその後の社会という中でも思いは一緒であるのだろう。しかし現実のハードルは厳しい。常に褒められるということがない。大体足を引っ張るタイプが多いのだ。にしてもここのハードルに喜びを持ち込まないのは、これは筆者の思いであろうか。
東延江作品「買物公園=駅前から八条まで」。旭川の駅前にある買物公園という通りはその名の通りに、市民が買い物をするところなのであるが、ずっと旭川に住むと記憶の中の店が甦る。善しも悪しくも資本主義はお店を淘汰する。それがまるで自分の記憶をも淘汰される気になるのだろう。
立岩恵子エッセイ「真夏の夜の夢 否 現」。なんとも耳掻き棒そのまま耳に突き刺して鼓膜が破れるアクシデント。まあ、起こってしまったものは仕方ないが、しかしだからといってその怪我をも楽しみましょうとは…。私はできるかなぁ〜。

詩誌『青芽』no.571

青芽詩誌『青芽』
編集発行:富田正一(旭川市)

文梨政幸作品「棒そして縄の話」。50年前の詩の作品のことが話されている。棒のように固い精神と強くよじった縄があり、それは凶器となって襲い掛かっても来る。そして月日は別の、棒は一本の木に、縄は柔らかくぶら下がるものになったとか。
宮沢一作品「目玉の黒」。焼かれた魚の目は、白くてどうも好きではないという。だから自分が死んだら火葬にせずに、そのまま埋めてくれないかということなんだが、まあ、ホルマリン漬けでも何かを見つめていたいという気持ちは分るんですが…。
佐々木虎力作品「愛犬ルパンとの別れ」。息遣いが荒いと動物病院へ走り、体調を崩すごとに車で病院へ走る。まるで、死を迎えた人間の老人を目の前にした家族の姿だ。死を受け入れるという構えが、全く出来ずにおろおろして、家で看取ってやるということをしない。苦しませて苦しませて、長びかせることを愛情と言ってほしくはないなぁ〜。びみょーです。
富田正一作品「うたた寝ソーラン」。いくつになっても、打つ買う飲むは、男の性であると言っていいのかな。まあ、嫁さんが許してくれているならいいでしょう。なかでも金というのは、夢にも出てくるものかもしれないですねぇ〜、はああ。
今回は『青芽』70年の軌跡展に関しての話題が多数掲載されていた。

詩誌『詩め〜る旭川』第10集

詩め〜る詩誌『詩め〜る』
発行:旭川詩人クラブ(旭川市)

東延江作品「猛暑」。ふむ、考えるほどに今年の北海道の夏は異常であった。あまりに長くほぼ一カ月を越えたであろう(本州人には理解不能の言い回しであろうけれど)。ほんとに紫陽花の気分である。
富岡由香子作品「サーカス」。サーカスというものは、なかなかお目にかかれない。札幌で一、二回いったことがある程度なのだ。でも、昔は確かに親に、悪いことするとサーカスに売り飛ばすぞ!的なことは、言われていたような、TVの内容かな〜。ま、逆に言えば、逃げるつもりなら、サーカスに行くといいということでもある。わははははは。
山口敬子作品「層雲峡にて-姉を待ちつつ-」。層雲峡で石狩川を思うというのは、あんまり考えたことがなかった。ではあるが、人も川も、季節の中で立ち止まる瞬間があるというのは、確かなことであると思うのだ。
富田正一エッセイ「大雪系詩人再び」。昭和20年代の話らしいが、北海道の中でも旭川のエリアの詩人への呼称として「大雪山系」というのがあるとは、初めて知った。まあ、広大であるわけでそのなかでも高さの旭川というところかな。

詩誌『詩め〜る旭川』第8集

me-ru旭川詩誌『詩め〜る旭川』
発行所:旭川詩人クラブ(旭川市)

旭川を中心とした詩人18名による詩とエッセイ集である。出雲章子作品「恋文」。傍らに置かれ渡す相手も書いた本人も鬼籍に入ってしまえば、その恋文は、リボンに包んで棺に入れた。まあ、こればかりは代読するわけにもいかず、致し方ないのかな〜と妙に納得。
小林実作品「罰の道連れ」。業に対して素直に生きることは、法を犯しさえしなければ、むしろ構わないことであろうとは、私的ナ感想。来世を良しと見るのは、現世を悪しと見ることだと読んだ覚えがあるが、友を失えば、こうした逆説にもなりうるか…。
山口敬子作品「海の記憶」。炭鉱の中で見つけるアンモナイト。見つけられたアンモナイトにとっては悲しいことであっただろうか。だが、まあ、その発見した老人もまた、埋もれていくのだしね、と。すべてが埋もれていくのであろう。
立岩恵子エッセー「ふるさと」。ふるさとは生まれた土地だと思っていたのだが、生まれ育った家である・と、はっきりした認識を示している。分かっているようで、割とそのようには思っていないものであった。
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