2012年01月20日

●コダック社倒産、昔のかかわりなど

 米国の写真フィルム企業の大手イーストマン・コダック社が、ま、平たく言えば倒産したと、昨日ニュースが世界を駆けまわった。

 うーむ、当時を懐かしく思い出す。私は若い頃、米系広告代理店のPR部に在籍し、約5年ほど日本市場におけるコダック製品(主に写真フィルム)のPRを担当していた。プレス・レリースの執筆やプレス・コンタクトが主要業務だった。

 プレス・レリースとは報道向け資料のことだが、米国コダック社が発行する英文プレス・レリースの翻訳ものと、日本側独自に話題を作り執筆するものの2種類があった。両方合わせて年間で60〜70本発行していた。

 ◆K氏のこと

 現在は、コダック株式会社という日本法人ができているが、当時は、コダック製品は長瀬産業コダック製品部というところで扱っていた。そこの広報部には、今から思えば大変な大物K氏が顧問をされていた。大変可愛がられお世話になった。

 K氏の年齢は当時の私のちょうど2倍だったことを覚えている。その年齢での顧問とはいえ、顧問というより陣頭指揮の実務派で、それはそれは多岐にわたりいろいろとご指導いただいた。

 K氏は何と、世界第二次世界大戦で敗戦した日本が、東京湾に停泊する米国戦艦ミズリー号の艦上で1945年9月2日、降伏文書に調印したわけだが、その時、日本記者団を代表して、このミズリー号艦上で取材していたのだ。同艦上でのセピア色の記念写真を見せていただいた。

 この調印式で、署名の位置が違うことを指摘した日本側随行員・岡崎勝男氏が私の出身高校の大先輩(旧制中学の頃)であることは、このブログの2011年8月6日付けでも書いた(このブログの「岡崎勝男」検索で読めます)。

 ミズリー号に私と近く遠く関わる人が絡んでいたことは興味深い。しかも、その年、私は生まれている。

 K氏は、俳句に造詣が深く、17文字の中に何をどのように込めるか、という俳句的観点から、プレス・レリースの見出しも、少ない字数の中で如何にインパクトのある内容にするかという点には、特に厳しいご指導を受けた。有難いと思っている。宵闇せまれば、彼が昔常連だった由緒あるいくつかの酒場などへもご案内いただいた。

 彼と同世代のママだから、とっくに賞味期限切れだけど、どのママも彼をファーストネームで呼び、彼の上品な客質が歓迎されていたことがうかがわれていた。彼は当時はすでに酒を止めており、私のためにわざわざ引き回してくれたのだった。まだ30代前半の小僧っこの私には、お教えいただいた何もかもが新鮮な刺激だった。

 ◆渥美清のこと

 当時の業界は、富士フィルム、さくらフィルムが大きなシェアを占め、コダックは確か10%前後だったように記憶する。

 そこに持ちあがったのが、映画「寅さんシリーズ」で人気上昇中の渥美清を広告のキャラクターに起用したことだ。TVCMに登場していない最後の大物俳優という触れ込みであった。

 当時、3,000万円の破格の契約金で驚いたが、後で週刊誌か何かで、渥美の事務所に渡ったのがたったの800万円だったとかスッパ抜かれ、クライアントはもちろんCM制作やPRキャンペーンに携わったわれわれ一同も、椅子からズリ落ちんばかりに更に驚いたものだ。

 「カラリンシャン、コダックぅ〜♪」とかいうサウンド・ロゴで、渥美が草原にゴロンと転がるシーンが思い出される。

 ◆高橋恵子のこと

 コダック社はフィルムの他にも、ポケット・カメラやインスタント・カメラも手掛けた。ポラロイド社が1社独占の日本市場へコダック社もインスタント・カメラを導入した時、イメージ・キャラクターとして起用したのが、当時、デビューしたての、今流にいえばピチピチ・ギャルの高橋恵子だった。

 どのような販促キャンペーンの仕組みだったかは、今となっては思い起こせないが、そのための助っ人として宮崎県へ出張したことを覚えている。

*******

 思い起こせば直球しか投げない青春の一時期、コダック製品のPRに関わる中でいろいろと学ばせて頂いたことを大変ありがたく思っている。

 

この記事へのトラックバックURL