カンボジアを旅行してきた。そのひとつが、トゥールスレン虐殺博物館とキリングフィールド。政治による結果がここまで悲惨なことになってしまったことが記録として残されていた。
カンボジアといえばアンコールワットなどの遺跡だが、こちらは旅行サイトをご参照いただきたい。ここでは、1975年から1979年まで政権を持った政党、クメールルージュとその指導者であるポルポトが引き起こした大虐殺の記録がカンボジアには残されているが、そのなかのプノンペンにあるトゥールスレン虐殺博物館、プノンペンから程近いチェンエクとシェムリアップにあるにキリングフィールド(処刑場)を訪れてきたことのメモを記してみたい。
■拷問による自白
ポルポト政権は、極端な共産主義思想のもと農民が最も優れているとして、高所得者だけでなく、知識人や教育者、外国語を話す人などを次々と捕らえ、拷問により罪を自白させ、虐殺していった。なかには眼鏡をかけているだけで知識があるとして捕らえられたそうだ。また、クメールルージュの内部でも命令に背くと同様に収容所に送られ、誰が何の理由で送られるか分からない恐怖政治が続いたという。
他にも都市部の住民は、農村に強制移住させ、経験もないのに農業や農地の開発などの強制労働に従事させ、命が奪われていった。
現地での説明によると、粗末な食事が一日二回だけで、餓死や病気によって亡くなった人も多かったようだ。当初は、2,3日で戻ると言われてトラックに載せられ二度と戻れなかった人がほとんどで、人口250万人とされていた首都、プノンペンは数日で誰もいなくなったほどだったという。
■トゥールスレン虐殺博物館とキリングフィールド
拷問を行っていた場所として有名なのは、プノンペンにあるトゥールスレン虐殺博物館だ。高校だった施設を独房に変え拷問を行ったところで、この場所だけでは収容する人が増えすぎてしまい、虐殺する場として「キリングフィールド」へ収容者を移動させ、そこで次々と処刑していた。その手法は残忍で、弾がもったいないとして銃殺は行わず、鍬やこん棒で頭を殴り、鋸の歯のような木葉で使い首を切っていったという。
そのキリングフィールドは、国内に300か所あったとされる。そのうちの二か所を訪れたのだが、現地には供養塔が建てられ、その中には犠牲者となった方々の頭蓋骨だけが納められていた。他の体の骨までは収容しきれないのだそうで、別の場所に保管されているという。
また、現在でも骨が見つかるそうで何人が虐殺された分からないほどの数の白骨が見つかるという。
犠牲者は老若男女を問わない。母親の目の前で乳児を樹木に叩きつける虐殺も行われていたそうで、血痕がその樹木には残り、キリングツリーと言われ現在でも残されていた。
人類の大虐殺としては、ユダヤ人約600万人が虐殺されたナチスドイツのホロコースト、民族間の紛争として約80万人が虐殺されたルワンダ虐殺が知られるが、ポルポト政権での虐殺は、誰が何の理由で虐殺されるか分からない全国民が対象となっていたことから最も残忍な虐殺ともいわれている。
■事実を伝える意義
トゥールスレン虐殺博物館では、当時の施設が残され、行われてきた事実を伝えている。そこには、また10人以下という数えるほどしかいない生還者の方が、その虐殺の記録を残すために書籍を作り販売されていた。
その中のひとり、CHUM MEYさんに会った。彼は、目隠しをされて連行され、12日間、昼夜を問わず殴打と電気ショックで拷問され、それまでに聞いたことのないCIAという組織のための反革命活動家であると自白したという。そのような自白により、ほとんどの人が処刑されるのだが、彼の場合は、自動車整備工だったことから自白を記録するためのタイプライターの修理をすることになり命が救われた。
彼は生存したことの罪悪感で悩まされたが、正確な記録を残すことが必要と考えこのような書籍の発行などで伝えていくことや犠牲者会の設立を行い、また、2003年からカンボジア政府と国連で共同法廷が設立されたさい、クメールルージュの上級幹部の裁判の証人として法廷に立つなどの活動を行っている。

■ポルポト政権の背景
ポルポト政権ができた背景には、複雑な国際関係がある。
フランスが長らく統治していたが(太平洋戦争時には日本により一時的に独立)、1953年にシアヌーク王の元で独立をしたもののベトナム戦争が起こり、北ベトナムへの物資補給ルートとしてアメリカから空爆を受ける。その時の爆弾は、太平洋戦争で日本に投下された爆弾の3倍以上とされ、約200万人が難民となりプノンペンに集まるようになった。
その後、軍事クーデターにより親米派のロンノル政権となるが、親米政権への批判、ロンノル政権の腐敗、さらに国民に人気のあったシアヌーク国王(当時は国王ではなかった)が、当初は敵対していたポルポトを支援することで勢力が強まり、1975年4月17日にクメールルージュがプノンペン入りし、内戦に勝利、政権を奪うことになる。
これらの背景から、当初は、英雄としてポルポトは国民に迎え入れら、正規の政権として国連へ出席をしていた。
だが、行ったのは上記のような虐殺だった。虐殺は、犠牲者の声が周辺に漏れないよう大音量の当時の国歌を流したり、穴を掘って埋めた遺体から腐敗臭が分からないようにDDTをまいたり(最後にはDDTを飲ませたという)虐殺が分からないようにしていたとの説明もあった。国際的には、虐殺がなかなか分からなかったようだ。
結局、農業政策の失敗などもあり国力は衰退。ベトナムに逃げていたカンボジア人などがベトナムの支援を受けて再び戦争が起き、親ベトナムのヘン・サムリン政権ができ、ポルポト政権は崩壊するが、ゲリラ戦などを続けクメールルージュ自体は残り続いていくが、1993年に国連監視下で立憲君主制が採択され、国政選挙が行われている。
しかし、1998年の選挙のさいフン・セン政権は、最大野党の党首を国家反逆の疑いで逮捕して党を解党に追い込んだことや政府に批判的なメディアを次々と閉鎖に追い込むなど、強引な形で批判勢力を抑え込んだことで、一党独裁政権となり、政権の正当性への問題があり(NHKニュース カンボジア総選挙 与党がほとんどの議席獲得する勢い/2018年7月30日)、政治的な安定はまだまだのようだ。
■思うこと
クメールルージュは、農村の貧しい子どもを兵士として育成し、教育を受けさせず党の方針だけを覚えこませて戦士に育て、政権にとって都合の良い兵士で軍隊を組織していったとの説明もあった。同様のことは、少年兵を育成するほかの地域でも聞く話だ。
あらためて教育の意味を知ることにもなった経験だった。
そして、何よりも、事実を伝えていくことの大切さを知ることにもなった。
とかく過去を振り返らず、目先のことだけで判断をしてしまいがちだ。過去に何が起きたのかの教訓を未来に活かすことが、どこに住んでいようと行うべきことだ。
中東情勢が危ない今、日本が何をしてきたか、伝えられているのかも考えさせられた博物館でもあった。日本のように選挙で選ばれた政権ではないが、政権という権力をとることは、時としてこのようなことをしてしまうことの典型かもしれない。ここまでのことはないにせよ、似たようなことはないのかとも考えさせられた。政権、権力者を縛るための憲法、議論による政治の大切さも痛感する。
考えてみれば1979年まで政権を持っていたのだから、今から41年前に行われてきたことだ。そういえば、報道でカンボジアのことを聞くことはあっても、その内容を理解することはなかった。やはり現地に行くことで体に事実がしみ込んでくることも実感した訪問だった。
今回の内容は、あくまでもメモとして記したもの。正確な内容などは書籍などを参照してほしい。もっと複雑な背景がそこにはある。短い時間の訪問だったが、今後も関心を持っていきたい歴史だった。ご都合がつけば、ぜひ訪問してほしい。
※戦争で国政調査がなく正確な人口が不明で虐殺者数には諸説ある。現地では300万人との説明があった。2019年8月5日付朝日新聞によると170万人
▼写真(上から)
・チェンエクのキリングフィールドの供養塔で弔われている頭蓋骨。年齢などが調査されており、20歳以下の頭蓋骨がこのスペースには集められている。つまり、子どもも虐殺されていた
・チェンエクの供養塔。中央部に頭蓋骨が供養されている
・連行されてきた犠牲者の様子。足枷と目隠しをされている。このまま、処刑されていたようだ
・キリングツリー 数多くの供養物が捧げられている
・CHUM MEYさんとその書籍「生還者」。日本語にも翻訳されていたので購入してきた
・トゥールスレン虐殺博物館の独房。鉄条網は外部からの侵入者を防ぐのではなく自殺者出さないためのもの。死なさず虐待を続けることが自白へとつながると説明されていた。死んだほうがましとの証言もあり
・トゥールスレン虐殺博物館内部には、収容された人たちの写真が飾られている。写真と自白調書を取られ、ほとんどの人は虐待で死ぬかキリングフィールドで死ぬかの二択しかなかった
・中庭からのトゥールスレン虐殺博物館。植物がたくさん植えられていた学校であったことが分かる
・キリングフィールドでは何層にもわたって出土した頭蓋骨が供養されている







