傷つけた人たちへ



日本が変えた台湾

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これは1904年のニューヨーク・タイムスの記事をご紹介します。
この年は日清戦争の勝利によって、日本が台湾の割譲を受けて9年目にあたります。
そしてこの年の2月には日露戦争が勃発しています。

日本による統治がいかに素晴らしかったか。
また、わずか9年という短い期間で、日本がいかに社会的インフラの整備を果したのか。
そして、なぜ日本は台湾統治にあたり、日本語を教えたのか等々が、たいへんわかりやすくまとまっています。

元記事は、2009年にブログ「台湾は日本の生命線」さんが紹介してくださったものですが、日本語訳について、ねず式で、すこし読みやすくしています。

ニューヨーク・タイムスの記事
(1904年9月25日)
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【日本人が変えた未開の島―台湾】
~他国家が征服できなかった民族と共に数年間で成し遂げた驚異の数々~
☆他の植民地主義国家への教訓☆
ニューヨーク・タイムス(1904年9月25日)

1904年9月24日、ロンドン。
本日のニューヨーク・タイムズ紙は、特派記者が取り上げる「日本の台湾変革」を掲載します。

どんな事業でも、成功のためには「生来の能力」と「綿密な対応」そして「経験」の三要素が必要です。
植民地経営も例外ではありません。
実際、ドイツは綿密な対応にもかかわらず、生来の能力不足からか、あるいは経験不足からか、植民地経営の試みに失敗しました。
どんな事業でも最初の試みは失敗しやすいのです。
そういう意味において、日本の植民地としての最初の試みは、格別に興味深いものがあるといえます。

日本が最初の植民地とした台湾島には、過去、他の国々が植民地化するうえで、絶対に克服できない困難がありました。
日本統治前の台湾島は、支那やその他様々な国からの無法者が跋扈していました。
野蛮さや、無法者の人口比率がかなり高いため、台湾島は、何度も侵略されながら、これまで決して植民地化されたことがありませんでした。
(註:清朝は、台湾のことを「鳥鳴かず、花香わず、男は強盗、女は売女」と蔑んでいました。)

スペインやオランダも、台湾の植民地化を試みました。
けれど絶望の内に断念しました。
支那は島を事実上の荒れ地として放置し、フランスや英国は、容易にこの地を取得できたであろうけれど、好んでこの蛮地の内部に足を踏み入れることはありませんでした。

未開原住民の懐柔・開化

1894~1895年の日清戦争の終結後、日本は台湾の割譲を要求しました。
このとき支那は、喜ばないまでも快くそれに応じました。
李鴻章は「日本はそのうち、この島はとんでもない悪い買い物であったと気付くであろう」と、皮肉っぽく論評しています。
(註:清とは清朝で、女真族、満州族の王朝である。この王朝では漢民族つまりシナ人は被征服者であった。)

日本が台湾に入った時、沿岸は海賊のなすがままの状態でした。
奥地は、野蛮な原住民によって支配されていました。
海岸部は、難破船を分捕ったり、島に漂着した船員たちを殺害することで生きている無法者や盗賊の集団に支配されていました。
実際、台湾が支那領であった頃、外国船船員に対する台湾民たちによる殺戮や攻撃が原因の騒擾が、米国や他の国々との間に何度も生じています。

1896年3月31日に、台湾は、日本の文民行政下に置かれました。
支那統治時代の台湾島の管轄者である支那の武官や官僚は、その地位を追われることを恐れて、台湾島の無法集団と手を結び、新しい支配者である日本に対する反乱を扇動しました。
日本の軍の掃討活動によって反乱分子の一掃が済んだのは、ようやく1901年の末頃のことです。
それまで台湾島は、常に不安定で混乱した状態が続いていたのです。

法令施行に於ける寛容さ

台湾が日本の法政の下で完全な平和を享受しはじめたのは、ようやくこの2~3年のことです。
ところが台湾島の様相、すなわち、すこし前までは未開の民であった台湾の原住民の様子は、180度違うものになっています。
台湾の人々は、日本の法政を理解し、それを賞賛し始めるようになっているのです。

日本が顕著な成功を収めている政策には、次のようなものがあります。

まず日本は、可能な限り住民の伝統的風俗に敬意を表し、文明の路を強要するよりもむしろ、穏やかに指導することを心がけています。
例えば、武装山賊の不意の襲撃や、火災、洪水、その他自然災害から住民を守るために、古来から支那がつくっていた「平和兵団 (註:台湾に古くから伝わる補助的な組織「義警」)は維持したけれど、同時に日本の進歩的な「成文法」を導入しています。
(註:むしろこの組織を通じて、新たに導入される日本の法律を住民に伝えています。)

そしてこれら「成文法」は、台湾在住の日本人に対しては完全に適用されたけれど、文明度不足や、文化的条件によって、法律の尊重(それによって文明は支えられる)に直ちに対応できない土着住民に対しては、大幅に緩和して適用しています。





阿片常用者の治療(漸禁策)

阿片吸飲や阿片取引は、日本及び台湾在住の日本市民にとっては様々な段階の懲役刑の対象となる犯罪です。
けれど日本は、台湾の原住民に対しては、阿片常用を認められてきている限りにおいて罰しないものとしました。
日本政府は、大酒呑みを徐々に飲酒から離れさせるのと同じ手法で、徐々に阿片消費量を減少させる目的で、阿片取引を専売扱いとし、その制度を賢明にも、阿片吸引の許容にも、阿片吸引の抑制にも利用したのです。
そして、公認を受けた吸引者だけが阿片を入手でき、厳格な監視の下でのみ、阿片を確保できるようにしています。

日本政府は、阿片供給をコントロールしながら、認可エージェントを通して、阿片を登録吸飲者に分け与え、警察は最高の警戒によって阿片吸飲者の仲間が拡大しないように監視しました。
そして同時に日本は、負わねばならない道義上のプレッシャーを与えました。

医師は皆、成人に対し阿片吸飲の害を常に諭しました。
教師は皆、阿片常用者の不法性や、それがもたらすモラル低下を子供達に教えました。

台湾島の人口は、現在ざっと300万人です。
1900年9月時点では、その内169,094人が阿片吸飲者でした。
1902年3月末時点では、152,044人だけが阿片吸飲者として登録され許可されていました。

17,020人の減少は、死亡や阿片常用癖断絶によるもので、現行の賢明な施策の結果、登録者数が更に急速に減少するであろうことに疑いありません。
1900年に3,392,602円であった阿片輸入額は、1903年には1,121,455円になっているからです。





財政収入の観点からは、台湾での阿片使用抑制策は好ましいものではありません。
なぜなら国家にとっては、阿片の制限は一面では深刻な収入減をもたらし、反面では阿片吸飲者の管理・監視のための経費増をもたらすからです。
(註:阿片を売り込んでいたのは主として欧米諸国。尚、1905年、台湾には纏足(てんそく)婦女子が女性人口の7割の80万人以上もいた。総督府が禁制策を取り、1930年には約14万人まで減った。)

日本政府は、決して宗教や慣習への干渉で原住民の感情を傷つけないよう努力する一方で、彼らのあらゆる面での条件を改善することによって、日本のルールの利点を明白な形で証明しました。
最初の段階で、遵法者の料金徴収者が、強盗集団に威嚇されたり虐げられたりすることはまったくなくなりました。
台湾の民衆は、公正な政府の下で自由を謳歌できるようになったのです。

次の段階では、社会福祉面で多くのことがなされました。
台湾はこれまで伝染病にかなり苦しんできたのです。
それは澱んだ水溜まりや汚染された流水から原住民が取得する極めて質の悪い水が主な原因でした。
そこで日本人は、浄水の供給を始めたのです。

日本が整備した台北水源地一帯
1903年着工~1905年完工
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台湾で掘られた井戸の総数は不明です。
けれど総人口の10分の1が住む台北地域だけでも、800以上もの井戸が堀られました。
(註:台北の上下水道システム敷設は、東京よりも早かった。功労者はイギリス人のウイリアム・バルトンとその愛弟子である浜野弥四郎。バルトンがマナリアで倒れると、その遺志を継いだ浜野は台湾の上下水道普及に23年の歳月を捧げた。)

素晴らしい学校制度の開始

台湾総督府医学校
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教育は、あらゆる進歩の基本であり且つ出発点です。
日本は、台湾に素晴らしい教育制度を導入しました。
60名の教師と2,000人の生徒を抱える日本人用の学校が存在する一方、原住民用の初等科学校130校が存在し、そこでは521名の教師スタッフが18,149人の児童を文明化された存在に変えるべく教育に携わっています。

しかし日本は、原住民に対する初等教育の提供で満足している訳ではありません。
というのは与え得る最善のものを台湾に与えるという志を持つからです。
日本は原住民が利用できる医学学校、日本語学校、教員養成学校を設立しているのです。

台湾の医学学校には、中国系の学生に対して現代科学の一般課程及び医学の実習を提供する「極東で唯一の学校」という重要な特徴があります。学校は台北にあり、現時点で約150名の学生が、有能な日本人教授達の指導の下で医学を学んでいます。

日本語学校には二つの役割があります。
ひとつの目的は、原住民の間に日本語を広めることです。けれど同時に、日本人に現地語を学ぶ機会を提供することで、彼らが奥地で先生・通訳として活動できる準備をすることでもあります。
(註:中国国民党軍が1945年に台湾を占拠後、彼等は全ての現地語の使用を禁止し、北京語の使用を強制した。これは、時効の無い戦争犯罪行為であり、日本の施策とは大きな違いがある。

日本語の役割は、
①共通語を持つことと、
②近代科学や技術、医学、哲学、文学、宗教などを学ぶ手段として不可欠であった。
つまり、西欧近代文明を取り入れた日本語教育がなければ台湾の近代化は不可能であったのである。
総督府は教育不毛の地を教育先進地域にしたのである。)

個人の幸福感は、安全、暴虐からの自由、身体的な安寧によるだけではなく、経済的な繁栄にもよります。
日本は、新植民地の繁栄増進をも、その目的としています。

鉄道網の構築

日本が台湾の割譲を受けた頃には、台湾島に道路は存在していませんでした。
そのくせおかしな話ですが、粗末な建造で、貧弱な運営で殆ど役に立たない、短距離鉄道だけは存在していました。
この鉄道は、運賃や貨物運送の時間が、ほぼ毎日変更される他、都合の良い時だけ運航する列車でした。

日本は台湾が基本的に求めるものを理解し、島の多くの地域に組織的な道路建設を始めました。
米国領事の最近のレポートによると既に1,000マイル以上の道路が建設されています。
そして日本は、同時に包括的な鉄道制度を精密に企画し、28,800,000円(ほぼ3,000,000ポンド)の予算を計上しています。
これは日本のような国にとっては殆ど信じがたいような大金です。

明治橋
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日本人が当初台湾で見た鉄道は、いまでは完全に整備され、さらに新竹-高尾間の新線建設が、両方のターミナルから同時に全力投球で始まっています。

1897年から1903年の間に95マイルの線路が敷設され、37の駅が建造され、210輌の貨車及び客車と機関車20輌が導入されました。
この期間に、運送旅客数は4倍に、そして輸送貨物量は10倍に伸びています。
加えて、軽便鉄道が導入され、125マイルの線路が2~3ヶ月で敷設されました
更に52マイルの軽便鉄道が間もなく建設される予定となっています。

台北停車場
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郵便、電信、電話も、既に導入されて、大きな成功を収めています。
1896年から1902年の間に、一般大衆向け郵便局87局が島中に開設され、1902年には13,285,105通の封書・ハガキ及び114,779個の小包を取り扱い、336,207件の国内為替が発行されています。

台北に置かれた郵便ポストと集配人
(なつかしい赤ポストです)
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電信の距離は1896年の900マイルから1902年には2,600マイルに伸び、1,350マイルの電話線が敷設され、1902年には3,690,228件の通話が行われました。

日本人が入る前から続いていた台湾の地元産業は、殆ど満足できるようなものはありませんでした。
土地は実り豊かな土地なのです。
けれどその耕作法は、科学的なものはおろか、伝統的・絶対的なものでさえ知られていませんでした。
原住民は主として人の手が加わっていない自然の恵みに依存していたのです。

台湾の農民たちは、米の二期作や三期作さえも享受しながらも、収穫は労苦に見合ったものではなく、収入も全く不十分なものとなっていました。
それが日本人が導入した改良手法を通じて、1896年から1902年の間の米の生産量は10%伸びています。

農業実験場1903年創設
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同じ期間のお茶の生産量は5倍となり、砂糖、甘藷、サトウキビ、ラミー麻、黄麻、ウコンなどその他主要農産物もかなり大きな伸びを見せています。
(註:この後、バルトンの教え子である八田与一による烏山頭ダム建設と嘉南大洲の沃野開発、磯永吉・永末仁の12年もの地道な努力から生まれた画期的な蓬莱米などの品種改良、新渡戸稲造博士による製糖業の大改革など、更なる発展がある。「飢餓の島」は一大食料輸出地に変貌したのである。)

広大な森林の利用も不十分なものでした。
原住民は不経済で、例えば楠(くすのき)から樟脳(しょうのう)を取り出す際に得られた樟脳油は、地元の精製者は廃物として取り扱われていました。




日本人が導入した改革の結果、樟脳の生産は、1897年の1,534,596斤から、1903年には3,588,814斤へと着実に増え、樟脳油の産出も1897年の638,603斤から1903年には2,670,561斤へと伸びています。
鉱業も同様に最も浅薄で且つ不明意なやり方で継続されたため、最大限の労力を費やしながら最小限の結果しか産まれていませんでした。

ところが日本の忍耐強い指導と穏やかな主張により、あらゆる産業において改良手法の導入に成功しています。
農業収穫はより良くなり、森林は科学的に開発され、数百万本の楠の若木が適地に植林され、そして鉱業は直近の2~3年間で大きな進歩を遂げています。

銀行・通貨制度

台湾銀行台北総行
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台湾の貿易や産業の改善の結果、銀行機関や通貨制度の改善が必要であることが自ずと明らかになりました。
その結果、この島の中央銀行機関として台湾銀行が創立され、より重要な中心部に民間銀行の事務所も開設されました。

郵便貯蓄銀行も開設され、かなり満足のゆく成功を収めています。
預金者数は、1896年の5,847人から、1902年には41,145人に、預金額は1806年の228,487円から、1902年には763,575円に増大しています。

台湾通貨も改革を必要としていました。
台湾は、ずっと支那と同じく為替の媒体が使われていました。
それは硬貨ではなく、金塊だったのです。
扱いにくい大きな銅貨のせいで、どんな規模の商業取引も不可能でした。
今では日本の最新の貨幣制度がこの大昔の貨幣制度に取って代わっています。

日本はお金を湯水のように台湾に注ぎ込みました。
粗糖、白糖、硝子、紙などの生産工場を創設し、最も優秀な人材を管理者として送り込んでいます。
疑いもなく日本は、その開けた政策に対する報酬を然るべき時期に受け取ることでしょう。

この島が完全に鎮圧されてから僅か2~3年が経過したばかりで達成された経済発展は、大変に著しいものです。
そのことは、住民の繁栄の増大として、政府の仕事や事業、阿片専売、関税や種々の税金に由来する総合歳入が、1896年の2,711,822円から1903年の12,738,587円へと、ほぼ10倍に拡大していることから、見て取れます。
主として土地・家屋や事業などへの課税で構成される地方の通常歳入は、1898年の747,850円から1902年には1,952,220円へと、4年でほぼ3倍に伸びました。

しかも、一般課税及び地方課税の徴収において、これらの輝かしい成果を達成するために、不当な圧政が行われたことは、これまでにいちどもありません。
従って、台湾の人口がその資源開発と共に急増していることは、正に当然のことといえます。
1897年に2,455,357人であった台湾の人口は、1903年には3,082,404人に増加しています。

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昭和天皇の大東亜戦争開戦の詔勅に、
「東アジアの安定を確保して、世界の平和に寄与する事は、大いなる明治天皇と、その偉大さを受け継がれた大正天皇が構想されたことで、私が常に心がけている事である。そして、各国との交流を篤くし、万国の共栄の喜びをともにすることは、帝国の外交の要としているところである」という一文があります。

上のニューヨーク・タイムスの記事は、その陛下のお言葉通りの統治が台湾で行われたことを物語っているといえます。
このことは満州も同じでしたし、パラオなどの南洋諸島もインドネシアも朝鮮半島も同じです。

日本が統治したそれぞれの外地は、みな等しく、社会的インフラが整備され、社会資本と社会制度が整い、教育が充実し、瞬く間に近代化し、農産物等の生産高も飛躍的に伸びています。

英国はインドをはじめ、世界各国を統治したけれど、その国の民衆は貧しいままに置かれていた。
アメリカは、フィリピンを戦後もずっと統治したけれど、現地の人々はずっとずっと貧しいままでした。
五族共和とか、八紘一宇とかいうと、いまどきの人は、右翼だの軍国主義的発想だのというけれど、ぜんぜん違います。
まさに万国共栄を、そのまま実現しようとしたのが日本です。

世界の歴史をひもといて、他国に行き、他国を統治して、これほどまでにその国の発展に寄与した国家が、歴史上、日本のほかにあったでしょうか。
戦前の日本の軍人さんも、軍族も、民間人も、みんなこういう理想のもとに働いたから、理想があったから、そして実績があったから、それを正しいと信じたし、命がけで戦うこともできたのです。

このブログで、なんども書いているけれど、戦前の日本の軍人さんや軍族、民間人すらも、命を捨ててまで戦うことができたのは、なにも、「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓があったからでも、上官の命令があったからではないのです。

左翼や在日系の人は、命令だけすれば人は動くものだと勘違いしています。
ぜんぜん違います。
ひとりひとりの人生の目的と、国家の進むべき道が一体となっていたからこそ、諸国の繁栄があったし、日本の兵隊さんが強かったのです。

日本の兵隊さんといえば、昔はとにもかくにも白兵戦となったら日本兵に勝てる国はないとまで言われたものです。
米軍は、そのためにたいへんな物量作戦で白兵戦となることを避けようとしました。
日本軍に斬り込まれたら、勝ち目がなかったのです。
そのくらい日本の兵隊さんは強かったのです。

どうしてそんなに強かったのでしょうか。
たとえば拉孟の戦いで活躍した九州の「龍兵団」は、日本軍最強とまで言われる軍団です。
なぜ日本軍最強かというと、軍団の中に柳生新陰流免許皆伝の猛者がいて、陸軍内の銃剣術試合で毎度優勝をさらっていたからです。
けれど、だからといって「龍兵団」の全員が猛者というわけではありません。
みんな徴兵兵なのです。
普段の生活は、そこらのお兄さんやおじさんです。

けれど、この「龍兵団」を含む1200名の日本軍が、なぜ国民党軍の5万の最強軍団を相手にして陸戦で120日間も持ちこたえることができたのかといえば、特定のひとりの才能や能力の問題ではなく、全員が日本を守るために、強い責任感を持って戦ったからだとわかります。
個々の兵の強さというのは、実はひとりひとりの勇気や武術の能力や気迫以上に、責任感の有無、もっというなら、自分の責任を果たそうと言う気持ちと、国家や軍の目標がひとつに融け合っていたからこそ、日本軍は強かったのです。
でなければ、とうの昔にみんな逃げています。

人は命令で動きます。
しかしそれだけでは、画竜点睛を欠くのです。
そこに入る瞳は、まさに国家国民が一丸となって「正しきを行う」おうとした、まさにそのことを指すのだと思います。

台湾は、もともと国境などなかった縄文時代には海洋民族として日本人と一体だった人たちです。
あとから大陸からわたって行ったならず者もいましたが、台湾の村人たちの強さに、たいていは退治されています。
世界中の人たちから「ならず者」と言われていたもともとの台湾の人たちにとって、よそ者の横暴から勇気を持って村を守ることは、まさに責任そのものであり、村の目的でもあったわけです。

そういう人たちだからこそ、日本の統治をちゃんと理解し、そして最後には進んで日本人となってくれました。
そして当時を知る台湾のお年寄りたちは、いまも自分は誇りある日本人であるという強い信念に支えられて生きています。


ねずさんのひとりごとより













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小名木善行 ねずさんの ひとりごと



陛下の新年のお言葉と御製

2016年01月02日08:26  日本人の心 

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毎年元旦に、陛下は国民に向けて、新年のご感想と御製五首を賜われます。
この5首は、前年に陛下が詠まれたたくさんの御製の中から、陛下ご自身によって選ばれます。

たくさん詠まれた御製の中の5首なのです。
そこに国民に向けてのメッセー性が「ない」、あるいは、文字通り額面通りの歌としてしか読まない方が、私はどうかしていると思います。

つまり陛下の年頭の御製5首は、陛下の新年のメッセージと並んで、その年の新年を迎えるにあたっての陛下から国民に向けてのメッセージなのです。
そこで今日2日は、このご紹介をしたいと思います。


天皇陛下のご感想(新年に当たり)
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/gokanso/shinnen-h28.html

昨年は戦後70年という年に当たり,多くの人々が先の戦争に思いを致した1年でした。
新年を迎え,改めて国と人々の平安を祈念します。

東日本大震災から間もなく5年を迎えようとしています。
未だそれまで住んでいた地域に戻れずにいる人々や,仮設住宅で苦労の多い生活を送っている人々があることが案じられ,こうした人々が寒さの厳しい冬を健康に十分気を付けて過ごされるよう,そして,被災地域の復興が少しでもはかどるよう,願っています。

私どもの住む日本は誠に美しい自然に恵まれる一方,自然災害を受けやすい環境にあり,今年も日本人一人ひとりが防災の心を培うとともに,お互いが気を付け合って,身を守る努力を続けられることを心より希望しています。

本年が日本と世界の人々にとって幸せな年になることを祈ります。

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はじめに昨年が戦後70年であったことを述べられ、続けて「改めて国と人々の平安を祈念します」と述べられています。
戦後の70年は、保守系の多くの論者の方が、「戦前戦中は良かった。戦後の70年はひどかった」かのように述べられます。

けれど、それは違うと私は思います。
明治維新から終戦までが80年です。
日本は、この80年間に、戊辰の役、西南の役、佐賀の乱、日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、支那事変、第二次世界大戦と、なんと8つもの大きな戦乱に巻き込まれています。
そして戦乱の都度、多くの生命が失われています。

世の中に、戦争ほど悲惨なものはありません。
多くの生命が理不尽に奪われるのです。
勝っても負けても、深い傷跡が残ります。
それが80年に8回です。
精神文化という面において、戦前の日本は極めて高い民度を持ちましたし、ひとつひとつの戦争は、それぞれ意味があって起きたことですし、ですから否定するつもりはありません。

ですが、その明治維新からの80年と、戦後の70年を比べたとき、「戦後の日本が戦争をしないで済んだ」ということは、これは戦後を高く評価し、見直すべきことなのではないかと思います。
昨日、元旦のこのブログに書きましたが、干支から見たとき、まさに「新たな60年」が始まっています。
その新たな60年が、平和と繁栄の60年となること。
そのことを陛下は「新年を迎え,改めて国と人々の平安を祈念します」と述べられているのだと思います。

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一方、東日本大震災については、震災から間もなく5年を迎えようとしているのに、被災地は相変わらず瓦礫の山です。町の復興も遅々として進みません。
関東大震災のあとや、阪神淡路大震災あと、5年も経てばかなりの復興がすすんでいた、それができた日本なのに、東日本大震災に関しては、いまだ被災地は混乱の中にあります。

これは由々しき事態です。
なぜ、このように混乱しているのでしょうか。
原因は明らかです。
はじめの一歩が間違ったからです。
震災当時の政権は民主党政権であり、菅直人が総理大臣でした。
国のトップが、はじめの一歩でボタンの掛け違えた。たったそれだけのことで、5年も経って、いまだに被災地の復興が進まないでいます。

「はじめの一歩の間違い」というのは極めて大きな影響を持ちます。
あとからの修正がなかなか進まない。
その意味でも、昨年、今年、そして来年までの三年間は、今後の日本にとって、実は極めて重要な意味を持つ3年間になると思います。

陛下は、東日本大震災の被災地の人々について、「未だそれまで住んでいた地域に戻れずにいる人々や,仮設住宅で苦労の多い生活を送っている人々があることが案じられ,こうした人々が寒さの厳しい冬を健康に十分気を付けて過ごされるよう,そして,被災地域の復興が少しでもはかどるよう,願っています」と述べられています。

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しかし、このことは、ただ額面通りに「被災地」に限定したお言葉と解釈したら、解釈を誤ります。
なぜならその前の段で陛下が「国と人々の平安を祈念」すると述べられているからです。
つまり陛下の「未だそれまで住んでいた地域に戻れずにいる人々や,仮設住宅で苦労の多い生活を送っている人々があることが案じられ,こうした人々が寒さの厳しい冬を健康に十分気を付けて過ごされるよう,そして,被災地域の復興が少しでもはかどるよう,願っています」というお言葉は、そのまま「国と人々の平安を祈念」する人々へのお言葉であると拝します。

つまり、「国と人々の平安を願う」人々が、
未だ本来の日本に戻れずにいる。
仮の日本で苦労の多い生活を送っている。
国と人々の平安を願う人々が、戦後という日本の精神文化の冬の時代のなかにあって、寒さの厳しい冬を過ごしている。
そして日本精神の復興が少しでもはかどるよう願っています、と述べられていると拝することができようかと思います。

国の価値観が拝金主義となり、拝金主義の敗戦利得者たちが国の政治を壟断して個人の巨富を得る一方、日本人の普通の若者や中高年男性が、まともな就職にさえありつけない。
父親の月収よりも、高校生の娘のコンビニのアルバイトの方が収入が高かったり、そもそも子育て世代のご婦人が、子供よりも生活費を稼ぐことを優先しなければならない世の中というのは、やはりどこか間違っています。


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初代の神武天皇以来、日本における「ただしい政治」というのは、とにもかくにも「みんなが食える世の中」を築くことにあります。
あくまでも「みんな」です。
一部の在日の大金持ちが、不正不当な手段で個人年収数百億円から数千億円を得ていて、その一方で、生活保護費以下の所得でも、頑張っている多くの日本人がいるわけです。
これはおかしな事態です。

なぜこのようにおかしくなるかといえば、世の中の価値観がお金にしかないからです。
稼ぐ人が勝ち組で、稼げない人は負け組などという発想は、そもそも日本人の発想ではありません。
たくさん稼げる人も、そうでない人も、みんなで助けあって、より良い未来を担っていこうとしてきたのが日本の歴史です。
そこには、上下という概念もありません。
誰もが人として対等なのです。

そういう対等感に支えられた日本を復興する。
陛下は、東日本震災の被災地の方々のことだけでなく、そういうことまでも含めて、このお言葉を述べられているのだと思います。

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続けて、陛下の年頭の御製です。
五首あります。

 父君の蒔かれし木より作られし
 鍬を用ひてくろまつを植う

 作られし鯨もいでて汐を吹く
 集団演技もて国体開く

 深海の水もて育てしひらめの稚魚
 人らと放つ富山の海に

 開拓の日々
 いかばかり難かりしを面穏やかに人らの語る

 この年もあがたあがたの田の実り
 もたらさるるをうれしく受くる

一首ごとの解説をしてみたいと思います。

 父君の蒔かれし木より作られし
 鍬を用ひてくろまつを植う

この歌は、昭和58年に石川県で開催された第三十四回全国植樹祭の際に、昭和天皇がスギの種子をお手蒔きになられ、その杉の間伐材で作られた鍬で、今上陛下が昨年5月に同県で開催された全国植樹祭においてクロマツの苗木をお手植えになったことをお詠みになられたものです。

父君のお手蒔きになったことといえば、終戦の詔勅があります。
その勅の末尾には次の言葉があります。
「持てる力のすべてを未来への建設に傾け
 道義を重んじて
 志操を堅固に保ち
 誓って国体の精髄と美質を発揮し
 世界の進む道におくれを取らぬよう心がけよ」

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戦後の日本は、まず「持てる力のすべてを未来への建設に傾け」てきました。
それは、焼け野原となった日本において、まさに戦後復興の槌音となりました。
戦後の日本は、焼け野原から瞬く間に復興し、高度成長を遂げ、人々の暮らしは戦前では考えられないほど豊かになりました。
その復興は、主に住むところや食うことのために費やされました。
そりゃそうです。
食う寝るところに住むところがなかったのです。
だから国民は一丸となって、未来への建設のため、まさに寝る間も惜しんで働きました。

けれどその間、道義を重んずることや、志操を堅固に保つこと、国体の精髄と美質を発揮することは、後回しとなりました。
気がつけば、金権腐敗、カネが全ての世の中になり、学校教育でさえも、道義心や志、操などの観念は、まるで教えられないどころか、教えないことがまるで正義であるかのような論調まで生まれました。

けれど70年前に、先帝陛下によって、しっかりと種は蒔かれているのです。
そして昨年、今上陛下は、その先帝陛下の蒔かれた種によって育った杉材で、くろまつの植樹をされました。

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クロマツというのは、雄松とも呼ばれ、枝も幹も太く、葉も固い種です。
日本固有で、生命力が強く、大樹になると春日神社のクロマツのように樹高が66メートルに達します。
海岸の岩の上や、砂浜海岸に植えられている防潮林は、ほとんどがこのクロマツです。
そのクロマツは、環境汚染に強い種としても知られています。

そしてクロマツは、人が手を入れることで生育する種でもあります。
自然放置では育たない。
つまり、これから日本が道義を重んじ、志操を堅固に保ち、国体の精髄と美質を発揮する日本として、クロマツのように強い種として新たな成長をしていくためには、そこに人為が必要なこと、そして汚染に強いことが肝要であるわけです。
まさに、これからはじまる新たな時代、新たな世紀に向けての植林であり、幕開けを詠んだ御製であるといえます。


 作られし鯨もいでて汐を吹く
 集団演技もて国体開く

この歌は、昨年9月に和歌山県で開催された国民体育大会開会式に御臨席になられたときに、式典前演技において大型の鯨の模型が競技場の中央に引き出され、汐を吹く様を現した様子を御覧になっての御製です。

前の歌に詠まれた新しい日本は、日本人らしい集団性を元にしたクジラのような巨大な日本であり、またクジラの潮吹きのように世界に向けてその道義心、道徳心、日本文化が発信されるものでなければなりません。
陛下は、その思いをこの歌に託されたのではないでしょうか。

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 深海の水もて育てしひらめの稚魚
 人らと放つ富山の海に

この歌は昨年10月に富山県での全国豊かな海づくり大会において、富山湾の深層水で育てられたヒラメの稚魚を御放流になったことをお詠みになった御製です。
実は陛下は、まさにシラス国(知国)の最高位の人として、日本国内に起きている様々なことを実に詳細にご存知になっておいでになります。
そして、戦後70年、深海に埋もれていた日本のこころの息吹が、まさに昨年、解き放たれたのです。
それは、まだ稚魚かもしれません。
けれど、確実に新しい時代は始まっているのです。
そして稚魚はやがて大魚となり、海洋国家日本は、悠然と世界の海へと泳ぎだすことになります。


 開拓の日々
 いかばかり難かりしを面穏やかに人らの語る

この御製は、戦後七十年に当たった昨年、天皇皇后両陛下が6月から8月にかけて、戦後の引揚者により開拓された宮城県蔵王町北原尾地区、栃木県那須町千振地区、長野県軽井沢町大日向地区を御訪問になられた際に、各地区で入植者らと懇談され、その話をお聞きになられたときのことを詠まれた御製です。

戦前戦中に、満洲開拓団として大陸に渡り、終戦後に艱難辛苦の末にようやく日本に帰ってきた開拓団の人々は、すでに国内に行く宛もない状況となっていました。
そうした人々が、あらためて開拓地として宮城県の蔵王や、栃木県の那須に入植し、そこで土地を拓いて行ったのです。

陛下は、それら入植者らと懇談されました。
懇談した方々が体験したご苦労は、まさに筆舌に尽くしがたいものがあります。
けれどその苦労を経た開拓団の人々のお顔は、実に穏やかな気品に満ちたものとなっています。

戦後、闇市のデンスケ賭博やパチンコマネー、あるいは牛や豚の窃盗、企業製品に故意に異物を混入させてライバル企業を破綻に追い込んで利権を握る等々、ありとあらゆる悪事の限りを尽くして財を成し、いまや国政さえも壟断する敗戦利得者がいる一方で、筆舌に尽くしがたい苦労を重ねて戦後を過ごしてこられた方々もいるわけです。

本来、社会に求められていることは、一部の大金持ちが贅沢三昧をする世の中ではありません。
地道にコツコツと努力を重ねる多くの人々が、安心して普通に暮らせる世の中こそ、求められる社会の姿であるし、日本はそういう国作りを、天皇を中心にずっと行ってきたのです。


 この年もあがたあがたの田の実り
 もたらさるるをうれしく受くる

この歌は、毎年の新嘗祭において、各都道府県の農家から献上された新穀が供えられて、その際に天皇皇后両陛下が各都道府県の関係者と献上農家に直接お会いになって感謝の気持ちをお伝えになる行事に際して詠まれた御製です。
歌にある「あがた」は、「県」のことです。
ですから「あがたあがた」は、全国のそれぞれの県という意味です。

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陛下がお喜びになるのは、日本が、餓死者を多数出している貧しい国から大量に果物や野菜を買ってきて、日本人が飽食の時代などと天狗になることではありません。
日本人が、日本で採れるお米に感謝し、それを大切にいただける、そういう国を望んでおいでなのだと思います。

ちなみに今年は伊勢神宮のある三重県でサミットが行われる運びになっていますが、伊勢神宮では、神職の方々の食べ物から、衣服に用いる麻や絹、諸道具類、各柱にかかっている榊(さかき)から神宮内の各施設の木材に至るまで、そのすべてが神宮の境内内の敷地からとれるもので賄われています。
つまり伊勢神宮は、それ自体が自給自足なのです。

ですからこの御製は、陛下が日本人に、あるべき価値観を取り戻しなさいと詠まれている御製なのではないかと解きます。

陛下は古来、政治には直接関与しない存在です。
けれど、政治に何が必要なのかという、そのメッセージは歌に託して詠まれます。
そして、およそ政治家たるものは、いかなる主義主張があろうと、「承詔必謹」みことのりを受けては必ずつつしめ、というのが日本の基本です。

そういう社会を、これから再び日本は取り戻していく必要がある、それが今年の日本の大きな課題であり、陛下の大御心に添うことなのではないかと思います。

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陛下は年間にたくさんの御製を詠まれます。
そして前の年の「たくさん」の御製の中から、5首を選んで新年の御製として公開されます。
たくさん詠まれた御製の中の5首なのです。
そこに国民に向けてのメッセー性が「ない」と考える。あるいは、文字通り額面通りの歌としてしか読まない方が、私はどうかしていると思います。
つまり陛下の年頭の御製5首は、その年の新年を迎えるにあたっての、陛下から国民に向けてのメッセージなのです。

古来、日本における天皇は「政治権力者」でもなければ、「政治指導者」でもありません。
天皇が政治に口を出さない。政治よりももっと上位の国家最高の権威であることが、我が国の国体です。
天皇が民衆をおおみたからとしてくれいるから、民衆は権力者によって私有化されない、自由の民でいられたのです。
ですから天皇が直接政治に口をだすこともありません。
出す時は、政治が統治能力を失った異常時だけです。

ただし、だからといって天皇は架空の存在ではなく、実在の存在です。
ですから目の前にある政治や民衆の活動等に、天皇はその思いを歌に託されます。
天皇は「政治に口をはさまない存在」ですから、当然、その歌も、一見したところで、政治にも行政にも国家統治にも無関係に見えます。
けれど、そこから察するのが日本人であり、日本人の文化であり、日本人の伝統なのです。

「明察功過」は聖徳太子の十七条憲法の第11条の言葉ですが、いまも、その憲法は日本人のなかに生きているのです。

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「『従軍慰安婦』なるものは存在せず」私が見た従軍慰安婦の正体 …元陸軍少尉 小野田寬郞氏



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911:名無しさん@13周年:2014/01/17(金) 14:52:05.15 ID:0u7VWBP+0
小野田さん「従軍慰安婦は朝鮮人が経営していた」 
「軍の行く先を朝鮮人経営者が付いて回っていた」 
 
https://www.youtube.com/watch?v=NRwKTJghR2A 


これが事実だよ。 
つーか最近まで元気だったの番組放送から1年後に急死とか。 

【関連】
元陸軍少尉の小野田寛郎さん死去、91歳 終戦知らず比ルバング島で30年過ごす


916:名無しさん@13周年:2014/01/17(金) 14:53:19.66 ID:R82RBeLR0
>>911 
まさに追軍売春婦といったところだなw 


667:名無しさん@13周年:2014/01/17(金) 13:42:41.77 ID:sCuzMmEM0
私が見た従軍慰安婦の正体-小野田寛郎  (1) 


首相の靖国神社参拝や従軍慰安婦の問題は、全く理由のない他国からの言いがかりで、
多くの方々が論じているところだ。 

南京大虐殺と同様多言を弄することもあるまいと感じていたのだが、
未だに妄言・暴言が消え去らない馬鹿さ加減に呆れている。 

戦後六十年、大東亜戦争に出征し戦場に生きた者たちが少なくなりつつある現今、
私は証言として、「慰安婦」は完全な「商行為」であったことを書き残そうと考えた。 

外地に出動して駐屯する部隊にとって、治安維持と宣撫工作上最も障害になる問題は、
兵士による強姦と略奪・放火である。 

そのためにどこの国もそれなりの対策を講じていることは周知の通りである。 
大東亜戦争時、戦場には「慰安婦」は確かに存在した。 
当時は公娼が認められている時代だったのだから至極当然である。 

野戦に出征した将兵でなくとも、一般に誰でも「従軍看護婦」と言う言葉は
常識として知っていたが、「従軍慰安婦」と言う言葉は聞いた者も、また、使った者もいまい。 

それは日本を貶める為に後日作った造語であることは確かだ。 

淫らな言葉だが、中国戦線では「ツンコ・ピー」「チョウセン・ピー」と呼んでいた筈であるが、
他の人の見ている所でする筈のないことだけに、「慰安所」のことも「慰安婦」のことも、
公の場で自己の見聞を正確に発表する人が少ない。 

あまり詳しいと「よく知ってるね」と冷笑されるのが落ちだろう。 
では何故、君は、と私に聞かれるだろうが、幸い私はその実態を外から観察出来る立場に
あったから、何も臆することなく、世の誤解を解くために発表することが出来るのだ。

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680:名無しさん@13周年:2014/01/17(金) 13:46:05.03 ID:sCuzMmEM0
私が見た従軍慰安婦の正体-小野田寛郎  (2) 


◆漢口の「慰安所」を見学 

商社員として十七歳の春、中国揚子江中流の漢口(現武漢)に渡った私は、
日本軍が占領してまだ五カ月しか経っていない、言わば硝煙のにおいが
残っている様な街に住むことになった。 

当時、漢口の街は難民区・中華区・日華区・フランス租界・日本租界・
旧ドイツ租界・旧ロシア租界・旧英国租界に分かれていて地区ごとに
それぞれ事情に合った警備体制が敷かれていた。 

日華区とは日本人と中国人とが混じって住んでいる地区で、
そこに住む中国人は中華区に住む者と同様「良民証」を携帯しており、
そうでない者は警備上難民区に住まされていた。 

難民区は日本兵も出入りを禁止されていて、私たち在留邦人は届け出て
許可を得なければ出入り出来なかった。それだけ危険な場所だった。 

私は、仕事が貿易商だから、難民区以外はよく歩いた。 

ある日、汚れた軍服を着た兵士に「慰安所はどこか知りませんか」と路上で尋ねられ、
一瞬思い当たらず戸惑った。 

しかし看板に黒々と「漢口特殊慰安所」と書いて壁に掲げていて、その前に歩哨と
「憲兵」の腕章をつけた兵隊が立っている場所を思い出したのでその通り教えてあげた。

映画館と同様に日華区にあった。汚れた軍服から推測して、作戦から帰ってきた兵士に
間違いない。街を警備している兵士は、そんな汚れた軍服で外出してないからだ。 

私は「特殊慰安所」か、なるほど作戦から帰った兵士には慰安が必要だろう。 

小遣い銭もないだろうから無料で餅・饅頭・うどん他がサービスされるのだろうと
早合点していた。ところが、私の知人が営む商社は日用品雑貨の他に畳の輸入もしていて、

それを「慰安所」にコンドームなどと一緒に納入していたので
「慰安所」の出入りが自由であった。 

彼に誘われて一般在留邦人が入れない場所だから、これ幸いと見学に行った。 
私たちは、憲兵に集金の用件を話してまず仕事を済ませた。 

日が暮れていたので「お茶っぴき」(客の無い遊女)が大勢出てきて、
経営者と私たちの雑談に入ろうとしてきたが追い払われた。 

そこには内地人も鮮人も中国人もいた 
(現在、鮮人は差別用語とみなされ、使われない。しかし朝鮮半島が日本統治だった
当時は「日本人、朝鮮人」などと言おうものなら彼らに猛烈に反駁された。
彼らも日本人なのだからと言う理由である)。

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695:名無しさん@13周年:2014/01/17(金) 13:49:45.07 ID:sCuzMmEM0
私が見た従軍慰安婦の正体-小野田寛郎  (3) 


群がってきた彼女たちは商売熱心に私たちに媚びてきた。 
憲兵は特別な事情の時以外は、部屋の中まで調べに来ないからである。 

料金は女性の出身地によって上中下がある。

また、利用時間も兵士は外出の門限が日没までだから日中に限られるが、
下士官は門限が長く、将校になれば終夜利用出来る。
料金も階級の上の方が割高で、女性たちは当然、同じ時間で多く稼げることになる。 

半島出身者に 
「コチョ(伍長─下士官)かと思ったらヘイチョウ(兵長─兵士)か」 
「精神決めてトットと上がれ ネタン(値段)は寝間でペンキョウ(勉強)する」とか、 
笑うどころではない涙ぐましいまでの努力をしているのも聞いた。 

内地人のある娼妓は
「内地ではなかなか足を洗えないが、ここで働けば半年か一年で洗える」といい、 
中には「一日に二十七人の客の相手をした」と豪語するつわものもいた。 


◆どこにもいなかった「性的奴隷」 

ここで親しくなった経営者の話を紹介しよう。 
「体力的に大差がない筈なのに、内地人は兵士たちと言葉が通じるために情が通うのか、
本気でサービスして商売を忘れ健康を害してしまう。 

そのために送り返さねぱならず、経営者にとって利益が少ない。
兵隊さんには内地人ばかりで営業するのが本当だが」と本音を漏らしていた。 

私の育った街には花柳界があったので、芸妓と酌婦をよく眼にしたが、
当時は玄人女と呼ばれた彼女たちの外出姿でも一般の女性と見分けることが出来た。 

その目で見れば漢口の街でも同様だったが、特に朝鮮人の女たちは特色があった。 

というのは彼女たちは数人で外出してくるのだが、民族衣装ではなく、
着慣れないツーピースの洋装のせいで着こなしが悪く、また歩き方にも特徴があって
一目で見分けられた。彼女たちは実に明るく楽しそうだった。 

その姿からは今どきおおげさに騒がれている「性的奴隷」に該当する様な影は
どこにも見いだせなかった。 

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709:名無しさん@13周年:2014/01/17(金) 13:52:00.33 ID:sCuzMmEM0
私が見た従軍慰安婦の正体-小野田寛郎  (4) 


確かに、昔からの言葉に、
「高利貸しと女郎屋の亭主は畳の上で往生出来ぬ」というのがあった。 

明治時代になって人身売買が禁止され「前借」と形は変わったが、
娘にとっては売り飛ばされた」ことに変わりはなかった。 

先述の「足を洗う」とは前借の完済を終えて自由の身になることを言うのだが、
半島ではあくどく詐欺的な手段で女を集めた者がいると言う話はしばしば聞いた。 

騙された女性は本当に気の毒だが、中にはこんな話もある。 
「『従軍看護婦募集』と騙されて慰安婦にされた。 

私は高等女学校出身なのに」と兵士や下士官を涙で騙して
規定の料金以外に金をせしめているしたたかな女もいた。 

またそれを信じ込んでいた純な兵士もいたことも事実である。 
日本統治で日本語が通じた故の笑えない喜劇でもある。 

ところで、その「慰安所」にどれだけの金が流れたのだろうか。 
これが「慰安婦」が「商行為」であった確かな事実である。 

私の次兄が主計将校で、漢口にある軍司令部に直接関係ある野戦衣糧廠にいたので
「慰安所」について次のような統計があると教えてくれた。 

当時、漢口周辺には約三十三万人という兵力が駐屯していたが、
ある理由で全軍の兵士の金銭出納帖を調べた。 

三分の一が飲食費、三分の一が郵便貯金、三分の一が「慰安所」への支出だった。 

貯金は給料の僅かな兵士たちにとって嬉しいことではなかったが、
上司から躾として教えられている手前せざるを得なかったのが実情だった。 

私も初年兵として一ケ年、江西省南昌にいたが、食べたいのを我慢して貯金した。 

一人の兵士がそれぞれ三等分して使った訳ではないだろうが、
人間の三大欲は食欲、睡眠欲と性欲と言われるだけに、
貯金を睡眠に置き換えると全く物差しで測った様な数字である。 

ちなみに当時の給料は兵は一カ月平均十三円程で、
その三分の一を約四円として計算すると三十三万人で総額約百三十二万円になる。 

「零戦」など戦闘機一機の価格は三万円と言われたが、実に四十四機分にも相当する。 

サラリーマンの初任給が四十円そこそこの頃だったのだから、
経理部の驚くのも無理のない話である 


743:名無しさん@13周年:2014/01/17(金) 13:59:19.73 ID:QUdKdETF0
>>709 
これを正確に英語に翻訳して拡散すべき。 


752:名無しさん@13周年:2014/01/17(金) 14:00:49.39 ID:d3ESpuFU0
>>743 
有志の人々がおこなってます 

証言「私が見た従軍慰安婦の正体」 元陸軍少尉 小野田寬郞氏 

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720:名無しさん@13周年:2014/01/17(金) 13:54:26.30 ID:sCuzMmEM0
私が見た従軍慰安婦の正体-小野田寛郎  (5) 


以上が、私が商社員として約三年半の間、外部から眺め、
また聞き得た「慰安所」と「慰安婦」の実態である。 

私が漢口を去った昭和十七年夏以降に、漢口兵站(作戦軍の後方にあって
車両・軍需品の前送・補給・修理・後方連絡線の確保などに任ずる機関)の副官で

「慰安所」等を監督した将校の著した『漢口兵站』と照合してみたが、
地名・位置等について多少の相違点は見いだしたが、
本題の「慰安所」について相違はなく、より内情が詳しく記されていた。 

これでは誰がどう考えても「商行為」であるとしか言いようがないだろう。 

「商行為」ではない、軍による「性的奴隷」であるとそれでも強弁するとすれば、
知らな過ぎるのか、愚かで騙されているのか、そうでなければ関西人が冗談めかして言う
「いくらか貰うてんの?」なのかもしれないが、あまりにも馬鹿げた話である。 

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*補足

◆問題にして騒ぎ出す者たちの狙い   

次に、軍関与の暴論について証言する。  
私は二十歳で現役兵として入隊、直ちに中支の江西省南昌の部隊に出征した。

初年兵教育が終わって作戦参加、次い

で幹部候補生教育、途中また作戦と、
一ケ年一度の外出も貰えずに久留米の予備士官学校に入校してしまったから、
外出して「慰安所」の門を潜る機会に恵まれなかった。   

だが初年兵教育中、古い兵士には外出がある。

外出の度にお土産をくれる四年兵の上等兵に「外出でありますか」と挨拶したら
「オー、金が溜ったから朝鮮銀行に預金に行くんだ」と笑って返事をしてくれた。

周りは周知の隠語だからクスリと笑うだけだった。 南昌には師団司令部があった。

「慰安所」には内地人も朝鮮人も中国人もいて、
兵士は懐次第で相手を選んで遊んだのだろう。

私は幹部候補生の教育を、南昌から三十キロ以上も離れた田舎の連隊本部で受けた。

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「慰安所」は連隊本部の守備陣地の一隅に鉄条網で囲まれて営業していた。
教育の末期に候補生だけで本部の衛兵勤務につくことになった。

もちろん勤務は二十四時間である。   

私は営舎係だったので歩哨に立たないから何度も歩哨を引率して巡察に出た。
巡察区域の中に「慰安所」も含まれていた。前線の歩哨は常時戦闘準備をしている。

兵舎内の不寝番でさえ同様だ。
鉄帽を被り、銃には弾を装填し夜間はもちろん着剣である。

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その姿で「慰安所」の周囲だけならまだしも、屋内も巡察し、責任者の差し出す現在の
利用者数の記録を確認する。軍規の維持とゲリラの奇襲攻撃を警戒しているからである。

考えてみるまでもない、そこで遊んでいる兵士は丸腰どころではない。
もっと無防備で不用心な姿の筈である。その将兵を守るべき責任は部隊にあるのは当然だ。

それに性病予防の問題もある。そんな田舎に医師や病院がある筈がない。
性病予防のため軍医や衛生兵が検査を実施するしかない。   

「慰安所」の経営者は中国人だったし、日本では当時公認の娼妓と呼ばれた女たちも
中国人だった。彼らも食料やその他の生活用品が必要だ。大人数なのだから、
それなりの輸送手段もいる。辺鄙な場所だから部隊に頼る以外方法がない。

部隊が移動する時もそうなるだろう


私の話す湖北省の言葉もだいたい通じたので、
経営者と立ち話をして彼女たちについてそれなりの様子も聞き出せた。

今でも「慰安所」の両側に部屋のある中廊下を巡察した不粋な自分の姿を思い出すが、
こんな漫画にもならない風景が現実にあったのだ。これは私の部隊だけではないと思う。   

もう六十年も昔のことである。時代が変わり、また平時と戦時の違いもある。
したがって娼妓(ここでは慰安婦に相当する)に対する解釈も当然変化している。

そうであるにもかかわらず、すでに証拠も不完全になっていることを幸いに、
今更これを問題にして騒ぎ出す者たちの狙いは何なのか。

言えることはただ一つ、不完全だからこそ喚き散らしていれぱ、
何かが得られると狙っているということだ。   

戦場に身を曝し、敵弾の洗礼を受けた者として最後に言っておく。このことだけは確かだ。
野戦に出ている軍隊は、誰が守ってくれるのだろうか。

周囲がすべて敵、または敵意を抱く住民だから警戒を怠れないのだ。

自分以上に強く頼れるものが他に存在するとでも言うのならまた話は別だが、
自分で自分を守るしか方法はないのだ。   

軍は「慰安所」に関与したのではなく、自分たちの身を守るための行為で、
それから一歩も出ていない。 

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「異常に多く実を結んだ果樹は枯れる前兆」で「種の保存の摂理の働き」と説明されるが、
明日の命も知れぬ殺伐とした戦場の兵士たちにもこの「自然の摂理」の心理が働くと言われる。

彼らに聖人君子か、禅宗の悟りを開いた法師の真似をしろと要求することが可能なのだろうか。   

現実は少ない給料の中から、その三分の一を「慰安所」に持って行ったことで証明されている。
有り余った金ではなかったのだ。  

「兵隊さん」と郷里の人々に旗を振って戦場に送られた名誉の兵士も、
やはり若い人間なのだし、一方にはそうまでしてでも金を稼がねばならない
貧しい不幸な立場の女性のいる社会が実際に存在していたのだ。

買うから売るのか売るから買うのかはともかく、地球上に人が存在する限り、
誰も止めることの出来ないこの行為は続くだろう。

根源に人間が生存し続けるために必要とする性さがが存在するからだ。  
「従軍慰安婦」なるものは存在せず、ただ戦場で「春を売る女性とそれを仕切る業者」が
軍の弱みにつけ込んで利益率のいい仕事をしていたと言うだけのことである。

こんなことで騒がれては、被害者はむしろ高い料金を払った兵士と軍の方ではないのか。

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*補足 小野田寛郎「私が見た従軍慰安婦の正体」 「正論」一月号より 
http://www4.airnet.ne.jp/kawamura/enigma/2005/2005-01-16-onoda_ianhunoshoutai.html







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GHQが天皇陛下に対して行った復讐

GHQ2015/12/2313:04 

天皇陛下が、天皇誕生日に際し、今年も何事か述べられた。



http://www.yomiuri.co.jp/national/20151222-OYT1T50135.html?from=ytop_main5

天皇陛下、82歳に「先の戦争考えて過ごした」
2015年12月23日 05時00分

 天皇陛下は23日、82歳の誕生日を迎えられた。

 これに先立ち、皇居・宮殿で記者会見に臨み、「様々な面で先の戦争のことを考えて過ごした」と、戦後70年の節目を迎えたこの1年を振り返られた。

 ■戦没者への思い

 陛下は、「平和であったならば、有意義な人生を送った人々が命を失った」と述べ、戦没者へ深い哀悼の意を示すとともに、戦争を知らない世代が増えていることを挙げ、「先の戦争のことを十分に知り、考えを深めていくことが、日本の将来にとって極めて大切」と強調された。

 6月の戦没・殉職船員追悼式では、強制的に徴用され、十分な護衛もない中、命を落とした民間船の船員らを思い、供花されたという。慰霊のため4月に訪れたパラオでは、美しい海に無数の不発弾が残り、処理には大変な時間がかかると知ったとして、「島々に住む人々に大きな負担をかけてしまったことを忘れてはならない」と述べられた。

 ■被災地への気遣い

 各地で発生した自然災害の被災者も気遣われた。

 5月の鹿児島県口永良部島の噴火を挙げ、「みな無事でしたが、まだ避難生活が続いていることに心を痛めています」と島民たちの暮らしを心配された。一方、9月に鬼怒川の堤防が決壊した茨城県常総市の被災地で、多くのボランティアが復旧作業に協力したことに触れ、「困難に遭遇している人々を助けようという気持ちが、日本人の中に育っていることを心強く思います」と明かされた。

 ■うれしいこと

 喜ばしいこととしては、日本人研究者2人のノーベル賞受賞を挙げられた。

 以前、寄生虫病の「オンコセルカ症」で失明した患者たちの映像を見て心を痛めたといい、特効薬の開発に貢献した研究者の受賞を「本当にうれしく思いました」とたたえられた。

 日本製のジェット旅客機が完成し、試験飛行が成功したことも、「うれしいこと」に挙げられた。1962年に戦後初の国産プロペラ旅客機「YS11」の試験飛行を関係者とともに見守ったことを懐かしく思い出されたという。

 会見の終わりに、陛下は「この誕生日で82歳になります。年齢を感じることも多く、行事の時に間違えることもありました」と率直に明かされた。「一つ一つの行事に注意深く臨むことによって、少しでもそのようなことのないようにしていくつもりです」との考えを示された。

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