2017年09月17日

主の祈り(2)御名があがめられますように

マタイ6:9 だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。:10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。:11 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。:12 私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。:13 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。』〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕

ある金曜日の金曜会で結城先生のテキストで聖書の「主の祈り」から「御名があがめられる」について学びました。そこに、途中から教会に初めて来られた方が来られましたが、私はそれを学ぶモードになっていたので、その学びを強行しました。同席したクリスチャンの友人が、あとでメールで、「新しい方が来たときは、あの聖書の学びはしないようにしましょう。」と忠告をされました。その方は、「御名があがめられる」という意味が非常に難しいと思われたからです。でも、弁解するわけではありませんが、「御名があがめられる」の意味は簡単で、未信者の方でも祈るべき祈りなのです。

1・「御名があがめられる」の意味

2・御名があがめられるように祈るべき理由




1・「御名があがめられる」の意味

:9 だから、こう祈りなさい。『・・・御名があがめられますように。・・・』
「あがめられる」のギリシャ語原文は、「ハギアゾー」(きめる、聖別する)の命令法・三人称単数受身形です。「御名」は天の父の御名、天の父の権威、人格、ほぼ天の父御自身のことです。だから、「御名があがめられますように」という祈りは、「天の父の名がきよめられますように」という意味です。そう言うと、逆に意味がつかめにくくなるかもしれません。
「きよめる」という意味について深く考えさせる聖書の箇所がカデシュでの出来事を記述した民数記20章です。そこに

民数20:12 しかし、【主】はモーセとアロンに言われた。「あなたがたはわたしを信ぜず、わたしをイスラエルの人々の前に聖なる者としなかった。それゆえ、あなたがたは、この集会を、わたしが彼らに与えた地に導き入れることはできない。」

とあります、モーセは、主を「きよくしなかった」のです。そのことが重要なのは、その地名が「カデシュ」であることからわかります。「カデシュ」は「きよくする(カーダシュ)」の動詞から来ているからです。カデシュという地名は、モーセが御名をカーダシュ(きよめる)べき土地だったと言う事で、後にカデシュという名前が付けられたのではないでしょうか?
モーセの姉が召された直後、民は水がないとモーセとアロンに逆らいました。その状況に主は

民数20:8 「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。あなたは、彼らのために岩から水を出し、会衆とその家畜に飲ませよ。」

と言われました。しかし、モーセは

民数20:10 そしてモーセとアロンは岩の前に集会を召集して、彼らに言った。「逆らう者たちよ。さあ、聞け。この岩から私たちがあなたがたのために水を出さなければならないのか。」:11 モーセは手を上げ、彼の杖で岩を二度打った。すると、たくさんの水がわき出たので、会衆もその家畜も飲んだ。

と怒ったのです。このことを主は「あなたはわたしを信ぜず、わたしを聖なる者としなかった。」ととがめられ、モーセはカナンの地に民を導き入れることができなくなったのです。
モーセが怒ったのも無理はないと私も思います、聖書中、モーセほど精神的に安定した人はいなかったのですが、

民数12:3 さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。

しかし、モーセは腹に据えかねたのでしょう。でも、ここで主のお心を考えたいのです。
せっかく、主にエジプトから解放していただき、カデシュまで来れたにも関わらず、水がないと文句を言い、モーセとアロンに逆らうような民とモーセの間に、主は水を与え、御自身が聖なる者であることをお示しになられたかったのです。
「聖」「きよい」とは、主の属性であり、一点の曇りもない素晴らしい方のことなのです。主は、主がそういう方であることを、モーセと民に何よりも示すことを望まれたのです。しかし、モーセも民も主が聖なる者であられることを示すことをしなかったのです。もちろん、モーセ以上にイスラエルの民が主をきよい者としなかったのですが。モーセと民が、主が聖なる方であることを示さないのなら、二者がカナンの地に入る意味がないとも言えるのです。

2・御名があがめられるように祈るべき理由

カデシュの、メリバの水の一件が、「御名があがめられますように」と祈るべきとイエスさまが教える理由になったと思います。
その一件は、どのような状況の中にあっても、私たちは、御名があがめられるために祈り、行動すべであることを教えているのです。
極端に思われるでしょうし、あまりにも理想的、甘い.と思われるでしょうが、今の北朝鮮のミサイル問題も、主はそこにおいて御名があがめられることを望んでおられます。確かに北朝鮮は悪いけれど、例えばアメリカが堪忍袋の緒が切れたと北朝鮮を攻撃するようなことがあるとすれば、アメリカは主をきよい者としなかったことになります。覇権国家から降りなければならないことになる。ではどんな方法があるのか?私たちとしては祈るしかないし、また祈らなければならないのです。
私たちの実生活においても修復不可能な状況になることがある。でも、それも、主は御自身の御名があがめられるところとして期待される。もし、そこで、すべてを投げ出してしまうとすれば、そこには、相当の理由があるわけだけれど、主の御名をきよくしなかったことだけは確かなのです。できるできないは、今後主の教えを待つわけですが、「御名があがめられますように」と祈らなければ、そのための知恵も与えられないし、行動もとれません。少なくとも、私対は、「主は、すべての状況で、御名があがめられる」ことを望んでおられるという認識を持つべきなのです。
このメッセージを北朝鮮もトランプ大統領も聞いてくれないのですが、これを読まれる人は私のメッセージを聞くことになるので聞いていただきたい。
私たちは教会には様々な人がいる、お互い、性格を変えろとか、考え方を変えろとは言いません。ただ一点だけ、考え直していただきたいことがある。主は御名があがめられることを望んでおられること。そして、そのことを祈るならそれは起こる、不可能ではないことを信じていただきたいということです。
教会において、牧師だけが信じていてはだめです。教会につながる人すべてが信じるべきであり、祈るべきなのです。教会とは、そのように私たちが信じ、祈り、御名があがめられるところであり、世に御名をあがめさせるところなのです。

充がけがをして9月16日で10年が経ちました。充のために何もできず、充のけがの意味を自分なりに考えて充に言っても納得してもらえず、もちろん、彼はけがの直後から主のご計画があることは信じて疑ったことはありませんが、いやしのために祈っても100%納得してくれず・・・。しかし、充のけがのことで御名があがめられることを祈ることは同意してくれると思います。
御名があがめられますように、そう祈ることは、どんな人も、どんな状況にある人も、祈ることができるし、いや祈るべきだし、いや誰もが最初に祈らなければならない祈りなのです。


godaniel129 at 03:30│Comments(0) 神の主権 | マタイ福音書

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