2017年11月19日

イエス様のまなざし

ルカ22:31「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」:33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」:34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」
22:59 それから一時間ほどたつと、また別の男が、「確かにこの人も彼といっしょだった。この人もガリラヤ人だから」と言い張った。:60 しかしペテロは、「あなたの言うことは私にはわかりません」と言った。それといっしょに、彼がまだ言い終えないうちに、鶏が鳴いた。:61 主が振り向いてペテロを見つめられた。ペテロは、「きょう、鶏が鳴くまでに、あなたは、三度わたしを知らないと言う」と言われた主のおことばを思い出した。:62 彼は、外に出て、激しく泣いた。

最近、金曜会で開かれた聖書の箇所を次の日曜日でメッセージすることが多くなりました。金曜会で聖書を開いたときは、だいたい結論は出ず、聖書の学びとしては消化不良の状態で集会を終えます。私などは、何でこの箇所を開いたのだろうと未信者の方もおられたのに。という後悔もありました。私は、ルカ22:31,32を開いたのですが、それに関連して一人の兄弟が、「イエス様がペテロを見られた。」という22:61を開かれ、そこが印象に残ったのです。

1・篩にかけられる私たち

2・イエス様が捕まえられる状況

3・イエス様のまなざし




1・篩にかけられる私たち

:31「シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。

篩(ふるい)というのは、その編み目によってある一定の大きさより大きいものは篩に残り、小さいものは篩の下に落ちるという道具で、砂から石を取り除くときには、篩に残った石などを捨てるし、欠けていないお米の粒を選ぶようなときには篩から落ちたものを捨てます。とにかく、篩はそれを使う人が欲しいものを選び分ける道具です。
サタンのとしては、私たちを篩のようなものでゆさぶって、私たちの内から信仰が振り落とされることを期待するわけです。
サタンがシモンを初め、弟子たちを振るうことを願って、許されたとありますが、聖書に明文化されていませんが、状況からして、天のお父様が許されたのです。どうしてそういうことを許されたのかと思いますが、先ほどの篩の意味からして、天のお父様はサタンのふるいによって、弟子たちが素晴らしい信仰を持つことを期待されたのだと思います。そして、同じく、弟子たちの信仰が本物になることを期待されたイエス様は、まず、振るわれる弟子たちのひとりであるペテロが信仰を失わないように祈られたのです。イエス様は祈られるとき、弟子たちとその他大勢で祈られるのではなく、「ペテロ一人」と個人個人のために祈られます。私も個人的にイエス様に祈ってもらいました。
ペテロは、イエス様から「あなたたちは篩にかけられる」とあからさまに言われたとき、自分は立派に振るわれる。自分は最後までイエス様の弟子として経ち振る舞うというイメージを持っていたようです。しかし、イエス様の言われる「振るわれる」はペテロにとっては想定外の「イエス様を知らない」と言ってしまうことでした。

2・イエス様が捕まえられる状況

ヨハネ14:30 わたしは、もう、あなたがたに多くは話すまい。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることはできません。

イエス様が捕まえられるときの雰囲気というものは、その場にいた者にしかわからない恐ろしいものだったと思います。

:33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」

と言ったペテロもご一緒に捕まるどころか、イエス様の弟子であるということどころか、イエス様を全く知らないぐらいイエス様の無関係であると主張しました。その場の雰囲気は、イエス様が捕らえられたとたん、その弟子たちも一網打尽に捕らえられ、イエス様と共に処刑されるそんな恐怖感が漂っていたのだと思います。
イエス様は人類を救う鍵であられるので、サタンとしては、イエス様がいわば天の父に対する信仰を失ってくれたら儲けものと言う事で、最も苦しむ十字架刑を天のお父様に要求したら、天のお父様はそれをあっさり認められました。もちろん、十字架刑はイエス様御自身が受け入れなければ実現しないのですが、イエス様は祈りの果てにそれを受け入れられた。サタンは苦しみの極みである十字架刑を通し、イエス様が天の父への信仰を失い、救いの御業が霧のように消えてしまうことを期待しました。しかし、イエス様が十字架に掛けられ、よみがえられることによって、サタンも誰も邪魔できない救いの業が完成したのです。
しかし、その十字架はイエス様にとっても、できるものなら避けたいと願われるほど重荷であったし、周りの弟子たちにとっても、自分の肉性がえぐりだされるようなできごとだったのです。
私たちには、そもそも自分でコントロールできない、想定外のことを起こす肉性を持っています。幼児が保育園の運動会でかけっこを逆走するようなほほえましいシーンを見ますが、そこには、理由があって、大勢の観衆の前でテンパってしまい、思考が逆に働くという肉性のなせるわざでした。
ペテロは、自分は自分の能力、知力、理性を最大限に用いてイエス様を支え、助け、イエス様の弟子として、いのちを惜しまずユダヤ王国再建のために邁進している。そういうイメージを持っていたでしょうが、実際、イエス様が捕らえられ、底なしの恐怖感が吹き荒れる事態になって、自分でもコントロールできない、想定外のことを起こす肉性を持ったままの人に過ぎないことを思い知らされるのでした。ペテロは、恐ろしい状況になったら、いのちほしさのあまり、イエス様を知らないと言ってしまう肉性を持っていることを認めたくなかったのでしょう。でも、イエス様は、もともと私たちがそのような肉性を持っていることを認めておられ、むしろ私たち自身がそのことを受け入れるように促されるのです。私たちは、肉性のない自分の理性、知力、意志力などで救われるのではなく、それは、幻でありまして、まったく天のお父様の愛とイエス様の恵みと聖霊様の導きによって救われ、それは私たちが肉性丸出しでも救われるのです。
天のお父様がイエス様を十字架に掛けることによってなされる救いの業に、人は指一本、祈りにおいても手助けをすることができなかったことを確認するのも、イエス様の十字架を学ぶ上で大切なのです。
私自身、牧師先生のお勧めで、イエス様を信じ、その後、私を教会に紹介してくれた大学の同級生で、クリスチャンの友人の導きで、毎週欠かさず、礼拝に出席していましたが、途中で、自分は本当にイエス様を信じているのだろうか?救われているのだろうか?疑うようになりました。一つには、イエス様を信じたらすべての罪が赦されると聞き、それを信じて、イエス様を信じましたが、肉性の弱さという点では何も変わっていない自分を見て疑い始めたのだと思います。振り返っても、つかまり立ちできるような、バーも何もなく、疑いがどんどん広がり、深まり、下宿の部屋から出られなくなりました。そんなとき、ぱらぱらと聖書をめくり、読んだのが冒頭の聖書の箇所です。

ルカ22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

私はこれを読んだとき、その聖書の字が浮き上がっているように見え、イエス様御自身がこの言葉を語っておられるように感じました。よくわからないけれど、イエス様は私のために祈って下さる方なのだ。その祈りによってのみ、私は救われているのだ。
自分のどこかに、自分が救われたのは、自分の徳、知性、意志などによっていたと言う考えがあったのだと思いますが、自分の救いは、まったく天の父の愛により、恵みにより、導きによって自分は自分が救われるために、何もできないのだということを、ルカ22:31,32を読んだときに悟らせていただき、そういう自分をイエス様は救って下さったと言う事を実際、イエス様との出会いで確認させていただいたのだと思います。

3・イエス様のまなざし

:61 主が振り向いてペテロを見つめられた。

ペテロは、自分がイエス様の弟子でないばかりか、イエス様の存在さえも知らないイエス様と無関係の人間だと言い切りました。ちょうどその時、イエス様が尋問を受けた大祭司の家からむち打たれるために外に連れ出される時でした。イエス様は、ペテロが言い放ったことを聞かれたのです。監視している者たちに引かれているイエス様が振り向かれたとき、イエス様の目とペテロの目が合いました。イエス様がどのような目をされていたか?思い巡らして下さい。私は、このメッセージを準備する間、イエス様の目はイメージしていると言うより、現実に見ていました。
その目は、言うまでもなく、「わたしの言ったことが当たっただろう。」と自慢される目でも、「なぜわたしを知らないと言ったのか。」というペテロを責める目でもありません。
それは、肉性丸出しの私たちを、慈しみを持って見つめられる目であり、「そういうあなたのために、わたしは今から十字架に掛けられるのだよ。」と言う目なのでした。実際、この直後にイエス様は大祭司の家の庭で目隠しをされてむち打たれ、「当ててみろ。お前を打ったのは誰だ。」など侮辱する言葉を浴びせられたのでした。
だいたいイエス様の目がどのような目なのか解釈することより、大切なことは、私たちが、そのイエス様の目に、何をすべきかを考えることだと思います。
私たちは、私たちを見つめられるイエス様の目に何をしたら良いのでしょうか?イエス様ごめんなさいと謝りますか?イエス様ありがとうと感謝しますか?イエス様頑張って下さいと励ましますか?私は、イエス様のその目を見ながら礼拝をすべきだと思います。私たちは、イエス様のその目を見ることによって、自分を正しく認識できると思います。私たちはイエス様の目を見ることによって、イエス様は私たちの肉性を受け入れておられ、その肉性を持った私たちのためにイエス様は十字架に掛かられたことを認識できます。そして、イエス様は間違いなくその後十字架に掛かられ、あがないの業をされたことを確信できるのです。
そのイエス様の目を見て礼拝を献げましょう。そして、イエス様の目を見て日常生活を送りましょう。そして、イエス様のその目を見て救い主の証しをしましょう。

2017/11/19/8:00訂正

godaniel129 at 05:00│Comments(0) キリストの十字架 | ルカ福音書

この記事にコメントする

名前:
URL:
  情報を記憶: 評価: 顔   
 
 
 
カテゴリ別アーカイブ
月別アーカイブ