シンプル生命の詩

いつから人は分離を体験し、いつから人はその違いに思い悩むのでしょう?初めからそんなものは無かった。人の文明は幻想の中にある。誰も何も独占することなど出来はしないのに、あーだこーだと理屈をつける。彼此の間の法華経の非二元の詩。ただ無限なる「今ここ」のために。

宇宙を見ようと思った時
宇宙は見えず

ただある時
一宇宙としての空がある

時間を追って考える時
時間そのものではなく
結果の物語を追っている

ただある時
永遠無限としての無がある

ここではないどこか
今ではないいつか
完成された何か

思いを馳せども
夢遥か

あるいは儚く一夜の夢か

ただある時は一々の
音にも熱にも光にも

生命の気づきの詩なれば

どうにかするともしなくとも

天まで流れる天の川

あるがままにただある時
全てがあるがままにただあり

それは二つではない

生命エネルギーの光に向かって意識が薄れ、
気づいている事に気づいていけなくなっていく中に
その奥にあるもの・世界・感覚を知りたいと願い
ただ起こることに委ねながら意識を深く向ける。

そうするとそれは
意というマインドのおしゃべりも
五感による欲求も尽きた
それより奥の識の層へ
感じたい気づきたいという方向を
持ち込むことになる。

そこには当然
普段マインドで作り出している苦しみも
五官で感じている苦しみも存在せず
六根を生み出させ得ている
生きさせている純粋エネルギーがある。

意識が消え行く中での
注意深く苦しみの世界からエネルギー世界への
移行を経験し覚知することが
一瞥体験の契機の一つである。

形式的な難行苦行は必要ない。
気づくか気づかないかだけだ。

入浴中や急に立ち上がった時に起こる眩暈さえ
それに気づけば一瞥体験になる。

ただ、この段階の一瞥は
個別的パーソナルである。

そこでそれを超えるのは

現実の苦しみの多い生活の中で
やっぱりマインドが主導しているという
そういう状態のままで

もう無理という所よりもずっと深い
完全に力尽きて、生と死の境界が
見えるぐらいの時でも

マインドが降伏して気づけば
この苦しみそのままの中に
何一つ欠けることなく全てがある事に気づくことだ。

それに気づけば
たとえどんな苦しみの中にある人も
何一つ欠けていないという現実の中の実感を得
エネルギーの圧倒的存在感を伴って
手を差し伸べることになる。

そうしていくところに
瞬間的でパーソナルな一瞥体験を超えた
菩薩的な中期的な一瞥体験がある。

しかし、この状態自身への執着というものは
危うさや脆さがある。

その状態と、そうでない状態と
二元の中に埋没し矛盾をきたす。

自分はどこまでいっても救われきらない。

そこで信じ込んできたものが
脱落しきったあるがままの
非二元に向かい気づく段階へ向かおう。

ここには
これは一瞥で、これは一瞥じゃないとか

段階を経なければいけないとか、経なくていいとか

そんなことに答は無い。

ワークとしては私の推奨は
体感に意識を向けた
アルベア式律動法で

起こる現象に気づいていくことだ。

律動法は↓こちら。
「即身成仏」の現象化⇒「非二元」「悟り」の体感・体験3

非二元とは

ともすれば
とても無機質に聞こえるだろう

いや、それどころか
なんて残酷な事を突きつけるのだと

顔を背けずには
いられないかもしれない

問おう

まだまだやりたいことがたくさんある者に
あなたの命はもう長くないと告げることと

もう何の希望もなく苦しみしかない者に
それでも生きろと言うことは

どちらもが残酷ではないだろうか?

生命の輝き
生と死の問題の解決

どんな解釈を付けてごまかして生きていようと
その時にはありのままの事実しか訪れない

「非二元の解釈」なんて
何の役に立つだろうか?

もちろん仮定して実践して
実際の解放をもたらせていくことは
道に適っている

しかし、完成された解釈を得ることを目的とし
高説をのたまって
自分を偉く見せようというのは

それは違う

今、どれだけの人が思い込んでいる現実の二極の上で
どんなに愚かで醜く害をなす悪であろうとも

こと、その時に至るにあたって
本当の姿が映し出される時

はたしてそこに何が開かれるのか

どうして誰か、知ることができようか

どんな高説を聞かずとも既に
その人はそれなのである

そう信じて伝えるのだ

礼拝するが如くに
讃えて開かしむのだ

このことに対する妨害には
屈してはならない

生命の輝きを
敗北させてはならない

生命とは
生と死の問題を乗り越えて輝くことなのだ

仏とは生命なり

その大音声は
宇宙に轟き揺るがすに違いない

法華経の非二元とは
その大歓喜の凱歌なのである

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