2008年12月18日

『ジャップ・ロック・サンプラー』

6f21465f.jpg イギリス人、ジュリアン・コープが書いた、日本のロック黎明期に異常に詳しい本『ジャップ・ロック・サンプラー -戦後、日本人がどのようにして独自の音楽を模索してきたか-』を読んだ。

 当事者でも知らなかったようなことが細かく描写されている一方で、私でもその間違いに気づくほどの、とんでもない勘違いをもとに逞しい妄想でストーリーを組み立てて書かれた部分もあり、当時を知らない後追いとしては、その本の内容を、どこまでを信用していいものか、正直言って、迷う。

 しかし、一人の音楽ファンのノートとして読むと、とても興味深いものだった。


 故・黒沢進の著書や、白夜書房のロック大全など、私がこれまで興味を持ち、収集したなかでも触れられてこなかった、アンダーグラウンドなグループについての記述が中心になっていることに、強く惹かれる。 アンダーグラウンドなグループ・・・それが、かなり著者の趣味に偏ったものではあるのだが。

 まず、目についたのは、村八分のドラマー、カントが、 <村八分の> としてではなく <○△□の> として紹介され、ベスト50に選ばれていること。

………その他のコミューンバンドのなかで、おそらくもっとも伝説的な存在だったのが○△□だろう。60年代なかばにおこなわれたハイレッドセンターのアクションにも数多く参加したドラマーの渡辺カント作郎率いる、フリークアウト・クインテッドである。………(p128)


 この時期のロックバンドとして、第一にフラワートラベリンバンドが挙げられ、評価されるのは、当然のこととしても、裸のラリーズ、スピード・グルー&シンキ、3/3、ブルースクリエイション、だててんりゅうなどに、多くのページが割かれていることが、嬉しい。

 しかし、残念なのは、当然ここで名前が挙がってくるはずの村八分が、著者にはまったく認められていないことだ。

 「村八分は音楽的に重要ではない」とか「彼らの音楽は大半が単調なクズ」(p131)と述べたうえで、「外道のサウンドこそ、私がイメージしていた村八分だった」(p334)と言い、あろうことか、村八分を真似たと言われている外道をベスト50選に入れている一方、村八分は50選に漏れている。

 不思議なことは、まだ続く。JAシーザー、ファーラウト、ファーイーストファミリーバンド………あまり耳にしたことのなかったアンダーグラウンドなグループが評価されている。 いったい、どんなグループなのだろう。

 村八分の評価が低いことについては、日本語版スペシャル企画として巻末に収められた、マーティー・フリードマンとの対談で近田春夫が、「出来のいいライブの時の冨士夫のギターはすごいグルーヴがあって、チャー坊もほかの人にはないパフォーマンスだったけれど、レコードはそんなによくない」(p373)と、著者が実体験によらないでレコードだけで、村八分に低い評価を与えてしまっていることを指摘していた。

 冨士夫に関する記述も、あやしい。 「冨士夫が当時、フジオダイナマイトと名付けたスーパーグループを作った」とか、「冨士夫が、チャー坊と出会ったのは、六本木で野外コンサートのリハをしていたときだった」とか、「冨士夫のバックバンドにいたシタール奏者の石川恵樹」(p297)とか、これまでの冨士夫のインタビューを集めた限りではなかったような話が、ある。

 しかしながら、この本は、このような間違った記述や村八分が評価されなかったことを差し引いたとしても、これまで日本人が誰も書かなかったことを、これほど詳しく記したという点で、すごい本だと思う。


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2008年11月21日

真剣師・小池重明

a6cdbfaf.jpg団鬼六・著『真剣師 小池重明の光と影』を読んだ。

小池重明は、将棋の真剣勝負、つまり、賭け将棋で渡世するギャンブラーで、この本は彼の晩年を支援した団鬼六による回顧録的なエッセイである。

小池は、将棋の神様といわれた加賀敬治を倒し、アマの全国タイトルを取り、
プロにも楽勝するほどの実力がありながらも、
プロ棋士にはなれず、
破天荒な人生を送った異端の男。

人妻との駆け落ち3回、全国を股にかけた寸借詐欺、
勤め先の金を持ち出しては逃亡と放浪を繰り返した末、
飲酒をはじめとする不摂生がもとで病に倒れ、
晩年は入院と病院脱走を繰り返した。

医師に死を宣告されてからは、
ますます生活が荒み、
駆け落ちまでして愛した人妻をも刺し殺そうとさえして、
狂気のうちに精神病院で44年の生涯を閉じた。

なんとも壮絶な人生を送った人である。


小池は、娼婦だった母親と、その再婚相手だった義父とともに、
名古屋のドヤ街で育っている。
実父とは、幼い頃に別れているようだ。
義父は身体が不自由で、傷痍軍人として祭りの催される神社に行っては
喜拾を集めてくる人だったという。

家が貧しかったため、小・中学生のころは東京の親戚の家に預けられて過ごした。
中学二年で実家に戻ったが、
少年時代に家族と暮らせなかったことが、小池にとってはずいぶん寂しかったようだ。
高校生のとき、父親に将棋の手ほどきを受け、将棋にのめりこみ、高校を中退。
将棋をはじめて1年後に、いきなり県下の大会で学生チャンピオンになった。

当然、周囲の人にはプロの道へ進むよう、上京を勧められた。
しかし、そのとき、小池は断った。
当時は、一家の生活が落ち着き、せっかく両親と共に暮らせるようになった頃で、
家族の元を離れるのが嫌だったからだという。

当時、プロ棋士になるには、年齢規定があった。
プロになるには、26歳までに奨励会を卒業して、
4段にならねばならなかったのだ。
このときの判断が、その後の人生を大きく変えてしまったともいえる。

19歳で父の勤めていた葬祭会社へ就職し、一時はサラリーマン生活を送ったが、
2年ほどすると、再び将棋クラブへ顔を出すようになった。
21歳で上京し、上野の将棋道場に勤め、プロを目指すものの、まもなく道場の金を盗んでホステスと逃亡。
小池は、プロ将士の夢を諦めざるえなくなってしまった。

再び名古屋へ舞い戻って、実家の葬祭業を手伝っていた25歳のころ、14歳年上の人妻と駆け落ちして上京。
新しい家庭を築くべく、小池は心を入れ替えるが、その矢先、妻が子供を遺して亡くなってしまう。
その後、小池は再び将棋にのめりこんだ。
新宿を根城に真剣勝負で勝ちまくり、
「新宿の殺し屋」とまで呼ばれるほどになったのだ。

大阪通天閣では、当代一といわれた将棋の神・加賀敬治をも倒したが、
小池が強すぎるあまり、真剣で対局する相手がいなくなってしまったことが、不幸だった。
そして、将棋を指せるだけでもいい、とアマ名人戦に出場。
全国タイトルも取った。

プロになれるだけの才能は充分すぎるほどあったが、
そのときには、小池はすでに35歳になっており、
年齢規定により棋士志願できなくなっていた。

支援者らが連盟に対して小池を特例でプロにするよう求め、
連盟の会長との対局で勝利を収めて会長の推薦を得たにも関わらず、
素行の悪い小池を棋士に起用することに反対する者が多く、
夢は叶わなかった。

これには、小池も
「いちど与えられた希望を取り上げられるのは、残酷だった。私の絶望感はますます深まった」
と、相当落胆したという。

身から出た錆とはいえ、
棋力以外の部分で、プロ入りを認められなかったことは、
悔やんでも悔やみきれなかっただろう。
小池は、再び将棋を諦めた。

小池の経歴を見てみると、何年間も将棋の世界から離れている時期がある。
女と駆け落ちしたり、借金を踏み倒したりして、逃亡しているときだ。
ほとぼりが醒めるまでの数年間は、飯場で土方をするなど、日雇い労働をしていたらしい。
夜、簡易宿泊所で横になっても、疲れきって眠れないとき、
小池は、いつも頭のなかで将棋を指していたという。

プロにもなれず、
方々で不義理をしていたために道場へも顔を出せなくなっていた小池が、
再び将棋を出来る場所を求めて現れたのが、
当時、将棋雑誌を主宰していた団鬼六のところであった。

逃亡後数年のブランクを経ての久々の対局でも、小池はめっぽう強かった。
相手はたいてい、対局が決まった日から、小池の棋譜を取り寄せ、稽古相手をつけ、前日までみっちり研究して、当日に臨む。
その一方で、小池は対局が決まると、懸賞金をあてにしてツケで方々を飲み歩く。
試合当日の朝まで飲み明かし、泥酔してやって来ることもあったという。
前夜に暴力事件を起こし、留置所から直接やって来たこともある。
そんな試合でも、常に小池の圧勝だったというから、かっこいいこと、このうえない。


100万円の懸賞金がかかった勝負のときは、借金取りがそれを当て込んで会場の外に行列した。
当然、小池が勝利をおさめ、多額の懸賞金を手にしたが、それらの借金を返すと、手元にはほとんど残らなかった。

小池に余命が宣告され、自暴自棄になっていたころ、
団が小池に、アマチュアの強豪・天野名人との対戦をセッティングした。
小池は病院を抜け出して対局に駆けつけ、それでも見事に勝ったという。
これが、最後の勝負となり、小池の二日後に亡くなった。



いまや、真剣師という稼業は消滅しているという。


「人間としては出来損ないであったが、
その出来損ないに出来ているところが彼の人間的魅力だった」
団鬼六が小池を評した言葉が、いつまでも私の心に残った。


http://www.youtube.com/watch?v=Gs0xecq5pdE&NR=1
http://www.youtube.com/watch?v=JYsCdAp7_sI&NR=1

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2008年10月22日

『三億円事件』

d4a61da2.jpg 『三億円事件』を、ご存知だろうか。

 1968年に府中で、現金輸送車が白バイを装ったニセ警官に止められ、3億円が奪われた事件である。3億円は現在の貨幣価値でいうと、30億円に相当するほどだが、この事件は7年後の75年に公訴時効、88年に民事時効を迎えて、迷宮入りしている。
http://gonta13.at.infoseek.co.jp/newpage70.htm
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%84%84%E5%86%86%E4%BA%8B%E4%BB%B6


 90年代末になって、作家の一橋文哉氏が事件の関係者と思われる人物に接触することに成功し、事件の核心に迫る6時間に及ぶインタビューまで行っていた。
 その一部始終が、一橋文哉・著の『三億円事件』に、ノンフィクションとして描かれている。 手に汗握る、実に面白い作品だった。


《以下、ネタバレ注意》

そもそも、一橋氏がこの事件を調べなおすきっかけになったのは、1本の匿名電話。
真実は小説より奇なりというが、実際に、謎の人物が、真犯人に繋がるヒントを一橋氏に与えた。
一橋氏が半信半疑で周辺の人物をあたってみたところ、次々とその裏づけが取れていくのだ。

舞台は、当時、福生のはずれにあったゴーゴークラブ「P」。
この店は暴力団と繋がりがあり、米軍関係者との麻薬や拳銃の取引が裏で行われる、あやしい店だった。
ここを根城にしていた不良少年グループに、ボス的存在の「ジョー」という青年がいた。
この「ジョー」が、事件の重要な位置を占める。

彼は、米軍関係者の白人と、米兵専門クラブでホステスをしていた女性とのあいだに生まれたハーフ。
米軍関係者だった父親と「ジョー」は、横田基地にフリーパスで出入りできる立場を悪用し、麻薬や拳銃を横流ししたり、逆に国内の故買品や女を米兵に売っていた。

取材を進めるにつれて、この「ジョー」と、ここに出入りしていた「先生」と呼ばれる年上の男性と、「ジョー」の子分である「ロク」という少年の3人にによるものだったことを裏付ける証拠が、次々と明らかになってくる。
「先生」が犯行を計画し、「ジョー」が車を盗み、「ロク」が白バイ警官に扮して実行。
事件後はほとぼりが醒めるまでその大金を、「ジョー」が警察の手入れが及ばない基地内に隠していた。
事件後、「ロク」は姿を消す(その後、交通事故で死亡していた)。
時効を迎えた7年後、「先生」と「ジョー」は、その大金を米軍機でアメリカへ運び、自らも渡米する。

事件当時のレート(360円)では3億円は83万ドルだが、137円で換金したとすると219万ドルに増やした計算になるという。
「先生」と「ジョー」は、それらを元手にLAで事業を始めるのだが、事業はうまくいかなかった。
数年後、二人は残額を分け合って、袂を分かつことになる。

そして、その後、「ジョー」は南米ティフアナへ向かうのだ。
一橋氏は、LAで接触に成功した「先生」から情報を得て、「ジョー」を追ってティフアナ入りする。
しかし結局、「ジョー」に接触することは叶わなかった。

ティフアナは、中南米からLAやマイアミにコカインを運び込むための拠点となっている、国境の町。
取材を進めてわかったのは、「ジョー」は麻薬カルテルの巣窟といわれるホテルを定宿とし、麻薬ビジネスに関わっていたらしいということ。
そして、どうやら危ない取引に失敗して逃げた、ということだった。
「ジョー」は仲間に、「オレは昔、どでかいことをやったんだ」、「かつて親友を裏切ったことがあって、今でもその傷を引きずっているんだ」と、いう話をしていたことがあるという。

コロンビアのサンタフェ・ボゴタへ行ったらしい、という情報も掴んだが、最終的に追いきれなかった。

そして、数年後、一橋氏は、「ジョー」が南米で麻薬で身を持ち崩して心身ともにボロボロになって亡くなっていた、という話を耳にする。(一時は日本に帰国して精神病院に入院していたという情報も。)

「先生」も、一時はビバリーヒルズの豪邸に暮らすなど羽振りがよかったものの、事業に失敗してからは一家離散し、アメリカを離れた。



大金を掴んだところで、人間は幸せになれないということだろうか。
読後は、いろんなことを考えさせられた。

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2008年10月18日

ジャズ界のパトロン・ニカ夫人

86ef4bf5.jpgジャズ界には、有名なパトロン・ニカ夫人という人がいるそうだ。
(写真は、ニカとモンク)
この人がすごい。

ニカ夫人(キャサリーン・アニー・パノニカ・ロスチャイルド)は、ロスチャイルド家の令嬢として生まれ、フランスの外交官ケーニングスウォーター男爵と結婚するが別居。
その後、ニューヨークの高級ホテルへ移り住み、スウィート・ルームで、食事つきのジャム・セッションを開くなど、多くのミュージシャンの後援者として、経済的のみならず、精神的にも支え続け、ミューズと呼ばれていた。

チャーリー・パーカーとセロニアス・モンクにいたっては、最期を看取っている。

とはいえ、彼女は誰の愛人でもなく、誰と恋愛関係になることもなかったという。
なぜか?
彼女の答えは、「ミュージシャンは友人にするには最高だが、恋人や夫にするには最悪だから。」(爆)

大金持ちの彼女にとっては、彼らの不安定な収入面は、まったく問題ではなかった。
酒やドラッグ、女、奇行が問題だったわけでもない。

ニカ夫人が、どうしてもミュージシャンとは友人以上になれないと思っていた一番の原因は、実は、ジャズ。

彼らはミュージシャンであるがゆえに、ジャズ以上に大切なものはなかった。
ミュージシャンの妻や恋人は、そのことを受け入れるしかないのだ。

彼女は、「自分が、好きな人のジャズ以上の存在になれないほど悲しいことはない」と考え、彼らとは終生、恋愛関係にはならず、自身の5人の子供を愛したのと同様に、ミュージシャンたちにも無償の愛を貫いたといいます。


セロニアス・モンク<パノニカ>
ホレス・シルヴァー<ニカズ・ドリーム>
ソニー・クラーク<ニカ>
ジジ・クライシス<ニカズ・テンポ>
ケニー・ドーハム<トニカ>
ケニー・ドリュー<ブルース・フォー・ニカ>
バリー・ハリス<インカ>
フレディ・レッド<ニカ・ステップス・アウト>
トミー・フラナガン<セロニカ>
  ・
  ・
  ・
彼女に捧げた曲として知られているものだけでも、これだけある。

60年代には、ニカ夫人が300人のミュージシャンにインタビューしたという本も出ているそうだ。

探して読んでみたくなった。

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2008年09月05日

『越境者 松田優作』

9819e35e.jpg優作の前妻であり作家の松田美智子が書いた評伝『越境者 松田優作』を読んだ。

在日コリアンの路地裏から脱出し、下積み時代を経て、スターの夢を叶えた優作について、美智子自身がいろいろな人に取材して、まとめた一冊である。
伝記の出来は、どれだけ客観的に事実を押さえられるかが、重要なポイントとなってくる。
無名時代から全盛期までの11年間を、優作と一緒に暮らした美智子は、エピソードとなる材料には事欠かない。
問題は、事実を偏りなく正確に捉えることができるかだ。

作品の序章は、美智子と娘が、優作に最後に会った場面から始まる。
離婚した妻が書いたとは思えないほど、その情景は冷静な描写だ。
さすがに、作家でなければ書けないものだと感心した。

時は遡る。
二人はともに21歳のとき、劇団で知り合った。
まったくの無名で、どうしようもないほど貧乏で、でも楽しかった同棲時代。
若い二人には希望が溢れており、このころの話は、明るい。

ある日、優作が同棲中だった彼女と喧嘩して、美智子のアパートに転がり込んで来た。

「一緒に暮らそう。ダメなら別れよう。」

優作は、いつも無理難題を言い、美智子にすべてを受け入れてもらえるのか、試し続けた。

「養子にしてくれ。でなければ、お終いだ。別れよう。」

韓国籍だった優作は、美智子の養子となって、日本国籍を得たかったのだ。
優作の要求は、いつも唐突で極端だ。
国籍のことは、のちに子供が生まれるとき、美智子が父親に頼んで、元首相に優作の帰化を早急に取り計らってもらうことができた。

「来月、ここを引っ越すからな。今度の部屋は日当たりがいいんだ」

ある日、新しい物件を見てきた優作は帰宅するなり、美智子に引越しを宣言した。

「引越しの費用はどうするつもりなの」

美智子が尋ねると、

「おまえが『文学座』を受けるつもりで用意していた授業料があるだろ」

それは、美智子が優作と一緒に劇団を受けるつもりで置いておいたが、優作に大反対されて諦めたために使わなかった金のことだ。
結局、それだけでは足りず、祖母や母から譲り受けた指輪やネックレスを質に流して、美智子は金を工面した。

このような美智子のサポートもあり、
その後、優作は一気にスターの階段を駆け上っていく。

優作、26歳の誕生日、同棲5年目にしてケジメの入籍。
式も、指輪もなかったが、それでも、幸せだった。
二人のあいだには女の子が生まれ、優作は娘をとても可愛がっていた。

優作が共演女優と噂になることはそれまでにもあったが、現場が終われば、その関係は終わっていた。
だから、美智子が深刻に考えたことはなかった。
ところが、今度ばかりは違っていた。

「俺の妹分だから、いろいろ相談にのってる」
優作の言葉を鵜呑みにしていた美智子は、かえすがえすも自分は鈍感すぎた、と当時を回想する。

美智子は当時、育児はもちろん、優作の体調管理、食事作り、訪問者への接待など、日々、夫の仕事のサポートに邁進していたが、
俳優として常に刺激や変化を求め続けている優作から見れば、いつしか美智子は外れてしまっていた。
美智子が気がついたときには、すでに家庭崩壊の危機であった。

相手は、『探偵物語』で共演した女優、熊谷美由紀。
当時18歳であった彼女の新鮮な感覚に惹かれた優作は、ついに自宅に帰らなくなった。

優作は、無名時代からの親友であろうと、「こいつは自分のレベルに追いついてきていない」と感じると、あっさり関係を変えた。
それまでの関係を、帳消しにするかのように。
同様にして、糟糠の妻を捨てたのだ。
美智子は1年間悩み、優作を待ち続けたが、最終的に離婚を決意する。

「離婚しても姓は松田のままにしておけ」
送られてきた離婚届には、新しい戸籍を作るための用紙も入っていて、姓の欄に、優作の字ですでに松田、と書き込まれていたという。

離婚後の美智子は、週刊誌の記事を読むたび、不快になった。
優作は、インタビュアーが女性であると、無防備に喋りすぎるからだ。
美由紀夫人に宝飾品を贈ったことや、豪邸を新築したという緩んだ発言をする優作に、美智子は悔しさを隠せない。
このあたりから、次第に文章から冷静さが欠けてくる。

晩年の優作は、ある宗教家と出会い、新興宗教に走った。
亡くなるまで病状が知らされることがなかった美智子にとっては、まったくの他人である宗教家に優作が信頼を寄せていたことに対して、嫉妬の念があるようだ。

なぜ、あの優作が最後に求めたものが、彼の血を分けた子供ではなく、宗教だったのだ。
そのことが、美智子にとって歯がゆく、不思議でならない。
なんとしてもその理由を探るべく、宗教家を追及しようとするが、逃亡される。

その宗教は、誰が見ても胡散臭いことに、違いはない。
しかし、優作は信じることで、迫り来る死の恐怖から逃れられたのかもしれない。
優作の心に最期、少しでも平安がおとずれたのならば、それでも良かったのではないかとも、思える。

そして、美智子がもう一人、怒りを向けるのは、癌の治療を行った担当医だ。
美智子は、医師が優作に対して、病状を本当に正しく説明していたのか、不信感をあらわにしている。
優作が死期が迫っていることを知っていれば、遺される母子にするべきことをしたはずという期待があるのだろう。

しかし、明らかなのは、優作が最初に運び込まれてきたときには、もう手の施しようがなかったということだ。
医師は、優作の強い意思を尊重して、抗癌剤を使わない治療方針を決めた。
優作は医師を信頼していたし、その医師が優作の意思を酌んで、仕事を優先させるべく対応してきた。
優作は、壮絶な痛みと闘いながらも力を振り絞って『ブラックレイン』を撮り終え、その短い生涯を閉じた。

遺族の立場で考えれば無念拭えないが、はっきりしているのは、結局、優作という俳優は、家庭や子供よりも、映画のために生きた人だったということだ。

なにごとも妥協を許さなかった優作は、人との付き合い方も極端だった。
納得できないことがあると、相手の人格を全面否定するほどの激しさで批判し、手も出した。
それゆえ、恨まれることも多かった。

その一方で、優作ほど人間として惚れた男はいない、という人も多い。
優作は徹底的に相手を罵倒した翌日にでも、けろりとして、邪気のない笑顔で遊びに誘った。
周囲は毎度、振り回されたが、純な少年には、悪意がないのだった。
優作の照れを含んだその魅力的な笑顔に、みんなやられた。
愛しい存在だった。

優作はいつも、人の温もりや愛されることに飢え、
「おまえは俺のために死んでくれるか。それほど愛してくれるのか」
と周囲に問いかけ続けていた。

身近な人間の伝記を書くことほど難しいことはないとされるが、
美智子はできるだけ私情を取り除いて、優作と向かい合うことができていると思う。
過剰に褒めることも、貶めることもせず、よい評伝だった。

ただ、ひとつだけ足りないとすれば、美由紀夫人とその子供たちへの取材がないことである。
美由紀夫人から見た優作の話も含まれていれば、評伝としてはより完璧で、もう少しバランスよく全体的な優作像が見えたかもしれない。
やはり、なんらかの確執があって、取材は叶わなかったのだろうか。

同じひとりの男を愛した者どうしであれば、いまなら分かり合える部分もあると思うのに。

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2008年05月05日

大西ユカリと新世界

316b4ac4.jpgナニワが生んだ『平成のゴッド姐ちゃん』大西ユカリ、昭和歌謡を熱唱!


R&Bと昭和歌謡を見事にミックスさせた <大西ユカリ と 新世界>が登場。
漂う昭和に酔いしれ、ユカリにパワーをもらった、大阪で一番アツい夜。

                 2008.05.05 堺・三国ヶ丘FUZZ


【 ホームタウンは新世界 】

「新世界は、古いもんと新しいもんが共存してる街。
人情味も、活気も、すごいある。
バンドに『新世界』と名付けたからには、新世界に住まんならん。」

 大西ユカリは、いま新世界に住んでいる。
この街の中心にあるのが、大阪のシンボルタワー、通天閣。
その真下にある、通天閣歌謡劇場で <大西ユカリ と 新世界> は月1回、ライヴをする。
これも、ユカリが、「自分の住んでいる町で、歌いたい」と、言い出したことから始まった。
昭和40〜50年代の「唄もん」と呼ばれる歌謡曲のカヴァーや、オリジナル曲を演奏するユカリの公演はいつも好評で、出演はすでに30回を超えた。
いまでは、もっと大きなホールを満員にできる実力はあるが、いまでも、あえてここに出演し続ける。
それは、ユカリにとって、この街が創造力の源であり、どんなときでも、初心に戻ることのできる、特別な場所だからだ。


【 ライヴハウスならではの熱狂 】

 5月、<ハコツアー>と銘打ち、ライヴハウスを巡った。
5日には、堺ファズに出演。

 今回、<ハコツアー>をしたのには、わけがある。
小さなハコでカヴァー曲を存分にやってみたい気持ちが、強かったからだ。
この日は、遠方からも多くのファンが駆けつけ、開演の2時間も前から、店はオールスタンディングで満員になった。

メンバー7人の登場と同時に、客席からは大きな拍手と歓声が起こった。
メンバー全員が、レトロなデザインの赤色のスーツに、身を包んでいる。
ステージ中央に立ったユカリは、盛り上がったウイッグと大きなつけまつげ、そして、アイラインを太くひいたメイクで、いかにも昭和の女性歌手、といった雰囲気だ。

 和田アキ子や野口五郎などの「唄もん」の数々が、生バンドで演奏され、ユカリによってソウルフルに歌い上げられると、時代は昭和にタイムスリップ。
興奮は最高潮に達した。

 酒場、女、別れ、異国情緒、旅情・・・。
昭和40〜50年代の歌謡曲は、歌詞の世界に広がりがあり、楽曲もしっかり構成されているものが多い。
繰り返し聴いても、色あせることがない。
ユカリの歌声に酔い、迫力あるバンド演奏に圧倒される。
懐かしいヒット曲に思わず口ずさめば、胸が締め付けられるような想いが去来する。
そして、曲の合間には、テンポのよい大阪弁のMCで、爆笑の渦に巻き込まれる。

 反応がダイレクトに響きあうのは、小さなハコならでは。
ステージと客席で掛け合う、ボケとツッコミは、まるで、漫才を見ているかのようだ。
サービス精神旺盛なユカリは、母親が客席にいるのを見つけると、早速ネタにして、笑いを取った。
ユカリの「しゃべくり」がおもろいことには定評があるが、この日は、いつも以上によく喋り、喝采を浴びた。

 「サチコ」、「釜山港へ帰れ」、「私鉄沿線」、「アパッチ野球団」・・・・。
カヴァー曲を中心にした選曲で、2度のアンコールにも応え、観客を大いに満足させた。


【 朱里エイコや欧陽菲菲を夢中で歌った、小学生時代 】

 ユカリは、幼い頃から、歌うことが大好きだった。
小学生のころ、テレビの歌番組にかぶりついては、イントロ部分から一曲をまるごと口真似して歌う、「歌ごっこ」に夢中になった。
当時は、山口百恵、桜田淳子、フィンガー5といったアイドルが、子供たちに人気で、妹や周囲の友達は、アイドルを歌マネしていた。
ところが、ユカリが好んで歌ったのは、朱里エイコの『北国行きで』や、欧陽菲菲の『雨の御堂筋』。
どういうわけか、オトナ向けのシブい歌謡曲にばかり、惹かれるのだった。

「真っ暗なステージにひとり、ぽつんと立つ歌手にだけね、スポットライトが当たってて。
そんなんが、子供ごころにも、かっこええなぁと思っててね。」

 小学校4年生になると、のど自慢大会に自ら応募。
初めてバンド演奏をバックに歌った。
そのときの気持ちよさが、印象に残った。

 高校卒業後は、ブティックに勤務し、夜はスナックでアルバイト。
そのスナックは、ハコバンがついている店だった。
カラオケテープでなく、生演奏で歌えることが、ただただ嬉しかった。


【 初めてのバンド結成は22歳 】

 ちょうどその頃、ユカリは、あるバンドの応援に夢中だった。
シャネルズのメンバーだった山崎廣明とクレイジー・ケン・バンドの横山剣。
彼らがやっていたバンドを熱心に見に行くうち、裏方を手伝うようになった。
しかし、バンドが解散。
そこで、彼女はお客さんたちに声をかけてメンバーを集め、自分のバンドを結成。
それが、自身のバンド活動の最初だった。

「解散が、もったいなかったんですよ。ルックスとかも、かっこよかったし。
コピーバンドでもいいから、自分でやってみようと思ったんです。」

 そのころは音楽だけでやっていくつもりなど、なかった。
バンドはあくまでも、生業を持ったうえでの、楽しみだった。
 86年、ユカリが22歳のときのことだ。


【 震災と離婚。そして再びバンド 】

 やがて、転機が訪れた。
結婚して神戸で暮らしていたとき、阪神大震災に遭い、自宅が傾いた。
仕方なく、大阪に避難すると、以前の楽しい日々が次々と思い出された。
結婚してからの5年間は、音楽から遠ざかっていたが、そのとき「急にバンドがやりたくなった」。
いったん思い立つと、結婚生活に終止符を打つ決心が、ついた。
そして、「せっかくやるからには、かたちにしたい」と、レコーディングを開始。

 魅惑的な歌詞、もの哀しいメロディー、パンチの効いたリズム・・・。
小さい頃に憧れた、大人の歌謡曲には、艶っぽいムードがあった。
いま聴いても惹かれるものがある。
「唄もん」の魅力をフューチャーしつつ、これまで影響を受けてきたR&Bやゴスペルなど、さまざまなものを詰め込んでみると、ユカリ独自の世界観に行き着いた。
ようやく、アルバムが完成したときには、1年が経っていた。

 出来上がったのは、一見すると、帯のついたレコード。
そのLPジャケット風のパッケージを開けると、中身はCD。
なのに、時代外れな歌謡曲。
なんとも、風変わりなものができた。
「わたし、こんなんです」と差し出すと、手に取った人には、「なんやこれ!?」と面白がられた。
評判になり、やがて、あるラジオのディレクターの目にとまった。

 2001年、ユカリは37歳になっていた。


【 逆境に立つと、願望に目覚め、夢を叶える人 】

 ライヴ終了後、店の前で、ユカリは大勢のお客さんに囲まれた。
お客さんは一様に、感激が大きく、興奮がおさまらない。
ユカリは、ひとりひとりの手を握って「おおきに」と声をかける。
サインの求めに応え、カメラに笑顔で収まった。
そして、最後のひとりが帰ってゆくまで、手を振って見送った。

 新旧が交錯し、混沌とした街にある力強さや人情味、活気。
新世界という街の魅力はそのまま、ユカリ自身にも通じている。

 私がユカリのライヴで感じたものは、曲の懐古主義的な雰囲気よりむしろ、ユカリの自由さ、勇気、たくましさだ。
ユカリはこれまで、バンドの解散や震災といった逆境で、自身の願望に目覚め、そして、一念発起で夢を叶えてきている。
どんなときでも、周囲を味方につけ、牽引してきた人だ。
ユカリは、自分自身の願望には素直で、やりたいことがぶれない。
ユカリの頼もしさが、昭和の歌とよく合う、と感じた。


【 密接に関わる、実生活とバンドの世界観 】

 デビュー以来、ユカリはその「おもろい」人間性やしゃべくりを、テレビやラジオで大いに発揮。
バンドも、全国的に多くの支持を得ることができた。
仕事が増えるにつれ、東京へ拠点を移す話はあった。しかし、そのことに対しては慎重だ。

「大阪は、厳しい街。
大阪でまだ、ちゃんとでけへんのに、東京行ってどうすんねん、って思う。
それくらい、大阪に対して敬意を持ってる。」

 大阪、特に新世界では、すべてにおいて反応が「大げさ」なところがある。
人情厚いが、そのぶんシビアでもある。
だから、通天閣のステージに立つことは、嬉しくもあり、毎回、身が引き締まる思いもする。
ユカリの場合、バンドの世界観が、そのまま実生活と密接にリンクしているから、この街に住んでいること自体が、パワーに繋がる。
そして同時に、この街でよい評価を得ることが、他の場所でも自信を持って活動ができるという拠り所にもなっている。

「新世界という街は、古いものと新しいものがごっちゃになって、仲良う暮らしてる。
そんな街が、わたしは好きなんです。
この地にどっかと根をはって、いろんなものを感じてみたい。
そして自分でも、そのようなことを曲にできたらなぁ、と思てます」

 誰が言いだしたのか、ユカリには『平成のゴッド姐ちゃん』という異名がついている。
言い得て、妙。
しかし、ユカリのように強い人なら、きっと、できるだろう。

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2008年04月09日

Ra:IN新譜キャッチコピー

43b1e54e.jpgエキセントリックなオリエンタリズム!

切なくも美しい
エレクトロニカとハードロックの融合。

国境や時代を超越し、よりハードに放たれる

衝撃のサード・アルバム!



METAL BOX / Ra:IN

http://www.rain-web.com/

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2008年04月03日

花田裕之 うつみようこ ライヴ

hanada1ありそうでなかったコラボレーション。
花田裕之(ex. ルースターズ)と
うつみようこ(ex.ソウルフラワーユニオン)による
大人のためのアコースティック・ライヴ。

        2008.04.03 堺・三国ヶ丘FUZZ


ルースターズやソウルフラワーのカヴァーを聴いて、ちょっと懐かしい気分に・・・。


 ルースターズもソウルフラワーユニオン(メスカリンドライヴ)も、80〜90年代の日本のロックシーンで、第一線で活動していたバンドだ。
当然、二人は当時からの友人なのだろうと思えば、実際は違うらしい。
 「もちろん、名前は知ってました。けれど、面識ができたのは、最近なんです。」
と、うつみ。
池畑や下山とは親交があったが、花田には近寄りがたい雰囲気があったようだ。

 昨年秋、うつみがライヴをするとき、一緒にやってみたい相手として浮かんだのが、花田だった。
うつみから声をかけ、ライヴが実現した。
 「ルースターズを聴き出したのは、実は数年前。
その頃に出たボックスを聴いて、なるほど、と思うことがあって、それからは、ずっとヘビーローテーション。
すいません、後追いなんです。」

 花田に、うつみの印象をたずねると、
 「いい感じの人。一緒にいてラクです」。
 こうして、この二人によるコラボレーションは始まった。


utsumi
 この夜、FUZZで行われたライヴは、うつみが30分、その後、花田が30分、それぞれが8曲をアコースティックギターで歌う、というものだった。
 ステージに登場したうつみは、客席に知人を見つけ、最初から毒舌でとばす。
たしか、うつみは海外で育ったいわゆる帰国子女のはずだ。
しかし、メンタリティーは、おもしろいことに生粋の関西人。
とにかく、よく喋る。

 新曲『しのゆび』を披露したあとは、ボ・ガンボスやキャロル・キングのカヴァーを演奏。
 「この曲を聴いたとき、中川くんはいい曲つくるなぁと思って、2秒だけ惚れました(笑)」
というMCで始まったのは、『満月の夕』。
95年の阪神大震災直後、ソウルフラワーユニオンの中川敬とヒートウェイヴの山口洋が共作し、この13年間、神戸の被災者を勇気づけてきた名曲だ。
 そして最後は、ルースターズの『恋をしようよ』。
女性であるうつみが「♪俺はただアンタとやりたいだけ〜」と歌っているのは、よく考えてみれば少しおかしくもないが、マイナー調にアレンジされていて、なかなかおもしろい。
この曲は、5月にリリースされるカヴァー・オムニバスに収録される。

hanada2 うつみがステージを去ると、代わって花田が登場。静かに椅子に座り、膝にギターを抱えると『SADNESS CITY』を歌い始めた。
客席は、その超然としたたたずまいに圧倒され、固唾をのんで聴いている。
『お願いひとつ』、『追憶のハイウェイ』、『Freewheelin’ way』、『どこへ行っても』(山口冨士夫)、『花・太陽・雨』(PYG)、『風の跡』と、次々に曲は進む。
最後に『hey girl』を歌い、ライヴは終了した。
二人が一緒に歌うこともあるらしいが、この日はそれが叶わなかった。


「ギャルバンしようかな、と思ったら、ロックをやっている同年代の女子がいなくなってた!寂しい〜!」
そんなうつみはいま、ソウルフラワー時代からの盟友である奥野真哉(Key)、フラワーカンパニーズの竹安堅一(G)、グレート前川(B)、ミッシェルガン・エレファントのクハラカズユキ(Dr)とともに、<うつみようこ& YOKOLOCO BAND>として活動している。
4月には、3rdアルバム『ADULT NOIZE』もリリースした。

 「女子は歳とったら、男子みたいにシブイとは言われない。女子は1.5倍くらい努力しないといかんかもしれんけど、オレはちゃんと歌っていきたい。」
 意気込みも新ただ。

 一方の花田も、アコースティック・ソロのライブアルバム『NAGARE at SOAP 2007』を5月にリリースする。
これは、昨年の夏、北九州・小倉にある、花田のよく知る友達の店でレコーディングされた。
 リラックスして演奏した15曲が、このアルバムでは聴ける。

 花田のスケジュールはいま、自身のバンド<ロックンロール・ジプシーズ>のほかにも、多くのセッションやソロツアーで埋まっている。
一つの身体で切り替えは容易にできるのだろうか。

 「俺は音楽的に器用な人間じゃ、全然ない。でも、不器用ななかで、いろんなことをやりよう。一本でいくのがカッコいいと思ってやってた頃もあるけど、いまは違う。いまは、やりたいことをやれてるね。」
 花田は、あまり言葉で自分を飾ることをしない。
しかし、その男気のある存在感だけで、周囲を惹きつける。
不思議な人だ。


 うつみが「動」とすると、花田は「静」。
二人は対照的な雰囲気を持っている。
なかなかいいコンビだが、今後どのようになるのかは、誰にもわからない。
それぞれが旅の途中で、偶然一緒になったり、離れたり。
このコラボには、そんな感じに近いものがある。
きっと、こうして、旅は続いていくのだろう。

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2008年02月29日

木村充揮(ex.憂歌団)ライヴ

kimura大阪が生んだ偉大なるブルース・シンガー 木村充揮
今宵も、FUZZの聴衆を一瞬にして歌の世界へ連れ去った。


2008.02.29 堺・三国ヶ丘FUZZ


憂歌団の無期限活動停止から、10年。半世紀越しの盟友、花岡献治が久々に登場。

「キムラ〜。オレ、せっかく見に来たったのに、もう、リハ終わったんか?早いのう。まぁ、はよ終わったほうがエエわな!ワッハッハ!ほな、本番まで呑みに行こかっ」
 この日、木村充揮の楽屋には、花岡献治が訪ねて来ていた。
花岡とは50年来の幼馴染であり、憂歌団として20年間一緒に活動を続けてきた盟友である。
顔を合わせるのは久々ということもあり、二人とも笑みを浮かべ、嬉しそうだ。
話に花が咲く。

「そういや、憂歌団のころ、木村、よう指つっとったのう。
後ろから見てたら、演奏中に手ぇ振ってんねん。
こいつ、サービス精神旺盛やナァ、余裕あるワ、とおもてたら、ちゃうかった。
指つっとってんて(笑)。な?」

「そういうのも、あったなぁ。けど、おまえかて、シビれてたやん」

「あれは、感電してたんやっ!オレ、あのとき、バンド辞めたる〜!ておもた。だって、感電してるのに、おまえら、『はよ弾け!はよ弾け!』って。こっち、死にそうやのに。やってられんワ」

まるで、掛け合い漫才だ。
二人の息の合い方が絶妙である。
花岡が、頭髪の薄い木村に帽子を取らせて、周囲の笑いを取ろうとするのだが、そんなツッコミ役の花岡の顔には、なぜかバンドエイドが貼ってある。
そちらのほうが、なんだか笑いを誘うのだ。

「このあいだ、テレビでアイク&ティナ・ターナー観てん。
ダンスのスイングからして、すごい。
ティナ・ターナーやったら、ヘンな男なんか、全部食いつぶすくらいのパワーがある。
抱いたら潰されるんちゃうかな(笑)」

 木村が、オフのときによく観ているというテレビの話題をすれば、花岡が答える。

「そやろ。聴いた瞬間にブッとぶやろ?
歌のノリ方が違うねん。ええ音楽というのは、鳥肌が立つもんや。
ほんで、酒がすすむナァ」

 そして、花岡の酒がますます、すすむのである。

 バンドである前に、気の置けない仲間であるということ。
20年ものあいだ、憂歌団を続けてこられた秘訣は、こういうところにあるのかもしれない。


<天使のダミ声>誕生秘話。

 1954年。木村は、生野で9人兄弟の末っ子として生まれた。
花岡の証言によると、

「木村とは小学校2年から一緒やけど、当時からアイツの声はガラガラやった」

 木村も、いまとなっては意外な過去を振り返る。

「学校の音楽の時間に、歌って笑われたことはいっぱいあるけど、褒めてもろたことはなかったナァ」

 1970年、万博で盛り上がりをみせていた大阪に、B.B.キングが初来日。
木村と花岡は一緒に、コンサートを観に行った。

「ドーン!ときた。
レコードは聴いていたけど、ナマで見たB.B.キングは、もっとエエなぁと思てね」

 本場アメリカからやって来たブルースマンに、圧倒的な衝撃を受けた。
高校2年生のときのことである。

 その年、花岡と、同級生だった内田勘太郎とともに、バンドを結成。
のちに、島田和夫も加わり、75年にこの4人で憂歌団としてデビューした。

花岡の話によると、
「最初は青春の思い出として1枚だけレコードを作る、という約束だったはず」。

当時、花岡だけが大学へ進学していたこともあり、バンドを続ける気は、なかった。
ところが、気づけば、2枚目を作ることになっていた。
花岡は、言う。

「みんな、金に目がくらみよったんや!裏切り者や!」

 しかし、無理もないだろう。
ディレクターから受け取った小切手には、当時としては破格な高額が書き込まれていた。
公務員の初任給が3万円の時代に、300万円。
その数字を目の当たりにし、花岡も結局は反対しなかった。
すぐに、2枚目をレコーディング。
休む間もなく、怒涛のような全国ツアーに突入していった。
こうして、長きにわたる憂歌団の歴史がスタートしていったのだった。
(その後、花岡は8年間かけて大学を卒業した。)

『神が与えたもうた天使のダミ声』。

木村の歌声を、人々は敬愛を込めて、こう称す。
これは、作詞家の康珍化(かんちんふぁ)が、憂歌団がデビューするときにつけたキャッチコピーだ。
その声は、バラードでは優しく響き、聴く者をすっぽりと包み込んでくれる。
アップテンポの曲ではリズミカルに跳ねることができるし、喜怒哀楽をソウルフルに表現することができる声だ。
彼が持つ天性の美しいダミ声と、その表現力に、多くの人が魅了される。

しかし、意外にも、ブルース・シンガー木村充揮が生まれた瞬間は、偶然だったようだ。
「ギターを持っている仲間と遊んでたときに、『おまえ、ちょっと歌ってみろよ』と言われて、たまたま歌ったのが、初め。
『こういう声やから、歌え』というのでは、なかった。
歌うと、歌の世界に入るやん?
歌には、ちょっと違う時間がある。
ただ、何も考えんと、ふわっと歌ったら、『エエかんじやんけ』って友達から言われて」。

 歌い続けて、今年で33年。
21歳でデビューして以来、木村は関西のブルースシーンで常にトップを走り続けている。
その日も、彼の唄を聴こうと詰め掛けた人々で、FUZZは満員になっていた。
 

喜怒哀楽+ボケのステージは、今日も満員御礼。

 スポットライトの中へ木村が姿を現すと、客席からは、盛大な拍手が起こる。
と同時に、関西において最高の賛辞である「キムラ〜!アホ〜!」の声援も聞こえてくる。

1曲目は、G−baby。
椅子に座り、ギターを抱えるようにして弾きながら歌う。
リズムをとる両足が、曲に合わせて跳ねる。
数々のレパートリーがメドレーとなって進行してゆく。
個性的な声に恵まれただけではない。
歌い始めると、独特な雰囲気を醸し出していた。

 名曲『胸が痛い』のイントロが始まると、客席から感嘆のようなため息が漏れた。
拍手喝采と指笛で少々騒がしくなったものの、唄に入ると、一瞬にして空気が変わった。
会場全体が静まり、歌の世界に引き込まれる。
聴衆は、それぞれの切ない思いを胸に秘めながら、木村の歌を味わって聴いた。

そのとき、たまたま私のうしろにいた男性客の涙声が、偶然、耳に入った。

「あかん・・・。オレ、もう泣いてまいそうや・・・」

木村の唄に酔い、不思議な音楽空間に迷い込んだ大のオトナは、どうやら、うかつにも泣いてしまったらしい。

しっとりした大人のバラードで聴かせたあとは、『ゲゲゲの鬼太郎』。
「いちびり」な歌い方で、静かになった聴衆をズッコケさせる。
『おそうじおばちゃん』などノリのいいブギウギで盛り上がったあとも、突然、脈略もなく、『ウルトラマンセブンの歌』になる。

 私が笑ったのは、ボブ・マーリィーの替え歌。
木村の手にかかると、『no woman no cry』 が「洗濯もんは俺がするから 心配せんとゆっくりしぃ」になるのだ。
男性が洗濯物を片付けてくれたら、泣いている女性でさえも、きっと落ち着くことができるに違いない(笑)。
そして、このレゲエのリズムは不思議なことに、いつしか『おじいさんの時計』に変化しているのだ。

 喜怒哀楽のあるバラエティに富んだ選曲。
そして、曲の合間にはボケがある。
この形式のライヴなら、毎回見ている人でも飽きることは、なかなかないだろう。

 そして、「最後にみなさん、一緒に歌ってください」と、始まったのは『いつか来た町』。
サビを全員で合唱して、たっぷり2時間のライヴが終了した。


「雑念を忘れ、ライヴを楽しみたい」

 「一生懸命というても、汗をかくことばかりが、一生懸命やない。肩の力を抜いてライヴを楽しみたい」
ポップス、ブルース、演歌、流行歌、ジャズ、民俗音楽・・・。
ジャンルに関係なく、いい音楽は、本当にいいものだ。ハートにグッと、感じることができる。

 1999年に憂歌団が活動を停止して、はや10年。
木村はソロになって以来、自分がグッとくる人とともに、グッとくる歌を集めてコンスタントに発表し続けてきた。
そして、いまはまた、近藤房之助とレコーディングをしている最中だ。
これは、おそらく『男唄〜昭和讃歩』に続く、第二弾になると思われる。

 また、4月には、木村が認めている若手女性シンガーLeyonaやアナム&マキを迎えての3日間連続のライヴもある。
彼女たちのことを語るときは、木村の表情が緩む。
「表現というものは、やろうと思っても、同じものを再現できるものではない。
雑念に紛らわされず、楽しんでやりたいナ。
ライヴは恐いけど、ライヴが一番面白いから。」

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2007年12月23日

黒塗りベンツに乗ったナゾの男

74fad161.jpg3000億円が闇に消えたとされる戦後最大の経済事件、イトマン事件の仕掛け人で有名な、あの許永中は言ったそうである。

「100万円なら人は断るが、1000万円なら受け取ってしまう」

中途半端では人は動かない。
相手がびっくりするほどの金額を示し、一挙に篭絡させよ。

許永中は、石橋産業事件で現ナマ10億円を持参し、
「ここに10億円用意しました。このカネをワシの指示に従って軍資金として使って欲しいんです」
と、180センチ、100キロの巨漢で迫った、と言われている。



あれは、8年ほど前の、ある日曜日の昼下がりのことです。
私は、赤ちゃんをベビーカーに乗せ、近所のデパートへ向かうべく、広い通りを歩いていました。
警察署の前に差し掛かったとき、車道を走っていた黒塗りの大型のベンツが私の横で停止。

「???」

と思っていると、運転席の扉が開いて、男が降りてきました。
どんなに怖い男が出てくるのだろうかと、思わず身が強張ります。
しかし、降りてきたのは、身長160cm弱、池乃めだかのような、ちんちくりんの50代の男。

いまどきのヤクザなら絶対身につけない、いかにもな、派手な柄シャツに金のチェーンネックレス。黒の革パン。両手の指には、大きな宝石の指輪をいくつも。そして、手にはブランド物のセカンドポーチ。
胡散臭さ200%です。

その男が、「ちょっと、奥さん!」と言いながら、私に近づいてきます。
もし、これが夜なら、呼び止められても歩き続けるところですが、真っ昼間の大通りで、しかも、本署の真ん前。 私はベビーカーを押しています。
まさか、こんな場所で、詐欺や拉致もないでしょう。

「その革パン、すごい、カッコエエなと思って。似合ってるし。どこに売ってたん?
いやいや、ワシ、アヤしいもんちゃうねん。こういうもんなんやわ。」
と、中年男は、おもむろに名刺を取り出しました。

渡された名刺によると、肩書きが、
「高級毛皮仕入卸会社の社長」。

「いや、ほんまに、商売柄、ファッションには目がいくんや。たまたま、通りかかったら、その革パン、よお似おうてはるから、思わず車止めて、呼び止めてもうてん。ごめんごめん。」

「はぁ・・・」としか、言いようのない私。
一応、革パンを買った店を答えました。

で、いきなり、この質問です。
「ダンナさんは?何する人?」
ヤバい人間でないことがわかると、
「今度、ワシの店に遊びにおいでや。
友達も連れて来たらええからな。
子どもさんも、一緒に連れておいでな。
ワシ、毛皮扱こうてるから、毛皮いっぱいあるねん。
気に入ったのあったら、あげるから、ここへ電話して、遊びにおいでな。
これから寒なるからな、お子さん風邪ひかさんように、気いつけたってや。
ほんじゃな。」
そう言い残して、またベンツに乗り込んで、そのちんちくりん男は去って行きました。

一体、あれは、なんだったのでしょう?

ナンパ?
新手の詐欺?
毛皮のデート商法?
それとも、愛人スカウト?
あるいは、吉本新喜劇?
いまだに、全然わかりません。

あの人はいつもああやって、ベビーカーを押す人妻に声をかけているのでしょうか。
そして、成功などするのでしょうか。

毛皮、欲しいけど、タダほど怖いものはないと言うし。
どうせくれるなら、1000万円くらい、ください(笑)。


gogoacb1969 at 13:51|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!その他コラム 

2007年12月08日

ムッシュかまやつライヴ

mousirスパイダースの「バンバンバン」から「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」まで、全10曲。
赤ちゃんのように澄んだ目で、ムッシュは超満員の観客を沸かせた。


2007.12.08 堺・三国ヶ丘FUZZ



ファズでは昨年末に超満員の観客でムッシュかまやつを迎えたが、今年のこのイベントも、超に超がつくほどの満員だった。
ムッシュが黒のスタインバーガーを手に登場すると、客席から盛大な拍手が沸き起こる。
この日のバックを務めたバンドは、「ははの気まぐれ」。
彼らに合図を出し、1曲目は「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」で、ライヴがスタートした。
「ゴロワーズ・・・」は、75年に発表されたシングルのB面。しかし、不思議なほど現在もまったく色褪せることのない名曲だ。途中、歌詞を忘れてしまい、アドリブで「赤ちゃんのように澄んだ目で生きていたいものだ」と、歌う場面もあった。

その後も、「ヘイ・ボーイ」「恋のドクター」「エレクトリックおばあちゃん」と、続く。
ムッシュは終始リラックスした様子で、「楽しいね〜」と笑顔。

実はこの日、ライブ前に、親交のあった故・中島らものご遺族が、ムッシュを訪ねて来ていた。そういえば、らもも、ムッシュ同様に少年のような心を持ったまま大人になり、「赤ちゃんのように澄んだ目で生きて」いた人だった。だから、きっと、二人は深い魂の部分で繋がっていたのだろう。
ムッシュは、「今日は、中島らも追悼ライヴの気分だ」と観客に告げ、哀悼の意を表す。

そして、「あの時君は若かった」「ノー・ノー・ボーイ」「なればいい」を、プレイ。
「最近、僕がやっているポリススタイルのノー・ノー・ボーイを、ちょっと演ってみます」と、ドラマーとの二人だけで一風変わった「ノー・ノー・ボーイ」を披露するという一幕も。

終盤の「バンバンバン」「サティスファクション」では、溜めていたパワーが一気にブレイク。その勢いで、客席も一緒に湧き上がった。
アンコールでは、「やつらの足音のバラード」を演奏し、トータル10曲、約45分のライヴが終了した。

最前列の女性たちに熱狂的に握手を求められると、「なんだか杉良太郎みたいだ」と照れながら応じて笑わせ、アンコールを求められると、「年寄りあまりいじめないで欲しいよ」と言いながら、本当に嬉しそうにしている。
そんな、ムッシュのその楽しそうな様子を見て、こちらまで楽しくなれるというライヴであった。


近年のムッシュには、auのジュニアケータイや、サントリー・フラバン茶のCMソングで、私たちは日ごろから、お目(耳)にかかっている。そのほかに最近は、ドラマーとムッシュの二人だけで結成した「省エネ」バンドなるものも、演っているらしい。
それに飽き足らず、さらに「メンバーとスタッフ全員が女性ばかりのバンドを作ってツアーをしたい」などと、本気とも冗談ともつかない好きなことを日々、発案。そして、実際に実現もしているそうだ。
この日はさらに、「チャーやジョニー吉長、ルイズルイス加部とツアーをしたら、ハプニング続きで面白いだろう」と、とんでもないことを、ムッシュはまた考えついてしまった。

ムッシュは言う。
「ホントの意味で好きなことをやれる余裕が、この歳になってやっとできたのかもしれない。今は楽しい。」

ムッシュにはこれからも現役ミュージシャンとして長生きして、楽しいことをいっぱい実現していってもらいたい。

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2007年12月06日

ジョニー吉長バンド

johnny史上最強のロックバンド「ピンククラウド」のドラマー、ジョニー吉長
待望の完全復活ライヴを敢行!
ex.ハウンドドッグの鮫島秀樹、西山毅を率いて、本格始動


日本人離れしたソウルフルなヴォーカルとセクシーなドラミングで、ファンを魅了する、ジョニー吉長。
「緊張感のあるライヴこそがロック」

2007.12.06 堺・三国ヶ丘FUZZにて


---ジョニー、完全復活を宣言。

 「おかえり〜」
 ジョニー吉長がステージに姿を現すと同時に、客席から、そんな声が聞こえた。
 「ただいま〜。待たせたな!やっと、タイコを叩けるようになった。こんなに嬉しいことはねえ!」
 涙ぐむファンを前に、ジョニーは満面の笑みで、完全復活を宣言した。
 ジョニー吉長は、94年にピンククラウドを解散した後、自身のソロ活動や、鮫島秀樹(ex.ツイスト、ex.ハウンドドッグ)らと、バンド The Sons(Sons Of Blues)で活動してきた。近年は、息子であるノブアキやKenKenの活躍が目覚ましい。しかし、ここ数年のジョニー自身は、度重なる病気や怪我に見舞われ、不本意ながら休止状態だった。

---強力なサポートメンバーとの出会い。

samejima この復活を支えているのは、鮫島秀樹(b.)と西山毅(g.)。トリオ結成のきっかけを紐解くと、なかなか興味深い。ジョニーと鮫島のコンビはThe Sonsが最初だが、その誕生は、いまから十数年前、現FUZZのオーナーが当時、堺で企画したイベントに遡る。
 出演オファーを受けた鮫島が、松浦善博やICHIRO、エコーズの今井勉をセッションに誘った。しかし、直前に今井が倒れてしまい、急遽、ジョニーに代役を依頼。リハーサルもなく、いきなりの本番。にも関わらず、彼らのあいだに、素晴らしいグルーヴが生まれる瞬間があった。「一回限りのセッションで終わるのは惜しい」と、その時、The Sonsが生まれた。
 今回のセッションに鮫島は、ハウンドドッグの盟友、西山を誘った。西山もベテランだが、ジョニーに比べると、年齢はほぼひと回り下。79年に、ジョニー・ルイス・&チャーが伝説のフリーコンサートを行なった時、西山はまだ高校生だった。
 「そのライヴを見たのが、まさに、俺がロックギタリストを志した瞬間。その憧れの人と、いま一緒にやることになろうとは。だから、いまだに緊張が取れない。」

---リハーサル、一切なし。緊張感こそが、ロックの根本。

nishiyama 聞けば、このトリオ、音を出すのは、今回のライヴで、まだ2回目。それなのに、本番前のリハーサルも、しない。
 「2回目って、女とつきあって、一番新鮮なときだよ(笑)。バンドも2回目くらいがちょうどいいんだ」と、鮫島が笑う。ジョニーも、横で頷いている。
 「リハーサルは、やればやるほど、煮詰まる。緊張感を持って、本番でバシッとやりゃいいじゃん。俺たちは、パッケージになってないんだよ。毎日が違う。」
 緊張感こそが、ロックの持っている根本。着地点を決めないまま、ステージで心地よいプレッシャーを楽しむことが、ライヴの醍醐味。ジョニーのスタンスに、鮫島と西山が大きく共感する。

---三人三様でいて、プレイは完璧。新鮮なセッションをナマで体感。

 一曲目は、ジャコ・パストリアスで有名な「Chicken」。2曲目は、クラプトン風の「Hide away」。3曲目は、ジョニーが歌う「IN MY POKET」。西山のソロアルバム『虎音』からも、「春航」など2曲を披露。あらかじめ決めているのは、曲順だけ。ステージ上の3人のアイコンタクトが、初々しい。セッション特有の新鮮な感覚が、客席にまで伝わった。
 ジョニー吉長のドラムには、独特の「あそび」がある。一生懸命さを、感じさせない。けっして、手を抜いているわけではない。力の抜き具合、そのセンスが超一流である。女性が、ジョニーのドラムをセクシーだと熱狂する理由は、きっと、このあたりにある。
 「早く帰って、寝かせろよ!」毒づくMCとは反対に、後半にいくほど調子も上がる。三人三様のスタイルでプレイしながらも、音が合う。アンコールを含めて、全13曲。ベテランの緊張感漂う仕事を見た、あっという間の1時間半だった。

---音楽には色気が必要。セクシーなドラム・プレイの秘密。

 ジョニー吉長はいま、58歳。なぜ、この歳で、これほどセクシーなドラムが叩けるのか。
 「歳なんて、カンケーねえんだよ。身体が動いてりゃ、音楽は出来る。それを得手としてやってるんだから、いい音が出るに決まってんじゃん。スネアを一発 バン!って叩いて、そんだけで“イイ〜”って言わしたいね。」
 鮫島も、ジョニーのドラムは「ポンと落とすところが上手い」と、言う。
 「女の人は、子宮で音楽を感じている。ミュージシャンとしては、女の人に響く音をいかに出すかというのが、結構大事なこと。ギターやボーカルは色気を出しやすいけど、リズム隊でそれを出すのは難しい。だから、“セクシーなドラム”というのは、一番の褒め言葉だよ。俺だって、“いやらしいベース弾いてますね”って言われたら、嬉しいよ(笑)。」

 来年3月は、このメンバーで、再びツアーに出る。新譜の発売も視野に入れ、本格的に活動をスタートさせた。ベテラン揃いの、この新しいトリオバンドに、来年は注目だ。(敬称略)

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2007年11月05日

陳信輝・加部正義 Marbles ライヴ

marbles凄腕の元祖不良バンドが新結成
横浜の「陳信輝」率いるMarbles、奇跡の来阪ライヴが実現!
加部正義とのツインギター



 1960年代、横浜の米軍基地から流れてくるロックに夢中になった不良少年たちは、やがて、日本のロック黎明期に活躍し、伝説となった。40年の時空を超えてFUZZのステージにやってきた彼らにはまだ、バタくさい不良の危険な匂いがした。
2007.11.05 堺・三国ヶ丘FUZZにて


 「ゴールデン・カップスのときはパワーハウスが、かっこいいと思っていた。チャーとやっているときはTENSAWが、かっこいいと思っていた」。グループサウンズ全盛期に、ザ・ゴールデンカップスのベーシストとしてデビューし、ジョニー・ルイス&チャー(ピンククラウド)でも活躍した加部正義は、以前そう語ったことがある。加部に今年、展開があった。元パワーハウスの陳信輝やTENSAWのメンバーらとともに、新たなバンドを結成したのだ。
 バンド名は“マーブルス”。メンバー6名は以下のとおり。
 ギタリストは、横浜の陳信輝。60年代後半の日本のロック黎明期に、本格派のブルースとハードロックで玄人を唸らせた伝説の人物である。66年に、加部と結成したミッドナイト・エクスプレス・ブルース・バンド(ミッキー吉野や柳譲治も在籍)を皮切りに、柳田ヒロ、角田ひろと結成したパワーハウス、そして再び加部とフードブレインやスピード・グルー&シンキを結成、活動してきた。イギリスのロックやホワイト・ブルースをルーツに持ち、サイケデリックでヘヴィーなサウンドは圧倒的で日本人離れしている。74年を境に、活動からは遠ざかっていると言われていた。なお、加部は現在、ギタリストに転向しており、マーブルスでは陳とのツインギターになる。
 リズムセクションの鈴木享明と富岡“グリコ”義広もまた、80年代初頭の横浜のロック・シーンから生まれたバンド、TENSAWのメンバーである。タイトでアグレッシヴなサウンドは、アマチュア時代のX-JAPANやプリンセス・プリンセスなどに影響を与えてきた。近年は、加部と新たなバンドで活動中である。
 キーボードの篠原信彦もまた、グループサウンズ時代からのベテランだ。ハプニングス・フォーや内田裕也プロデュースのフラワー・トラヴェリン・バンド、トランザム(後藤次利や石間秀機らと結成)を経て、現在も数々のセッションに参加している。
 そして、ヴォーカルには、多田克己。彼もまた、横浜である。
 敏腕ばかりが見事に揃った。期待して間違いないだろう。結成は、陳が昨年秋、1回限りのイベントのために呼びかけた、セッションがきっかけだった。

 マーブルスは今年に入って、地元横浜で徐々に活動を開始。そして、ついに、去る11月5日には、三国ヶ丘FUZZへもやって来た。
 フロアの明かりが落ちると、6人のメンバーがおもむろにステージに登場。SEが止むと、大音量で激しい演奏がはじまった。1曲目は、フリートウッド・マックの『Oh Well』。想像していたヘヴィー感はもちろんあるが、よりタイトで、かなりハードでもある。メンバーの息もぴったりだ。2曲目は、マディ・ウォーターズの『Hoochie Coochie Man』。3曲目は、プロコルハルムの『青い影』。切れ間なく曲が進む。パンキッシュな『Purple Haze』、ジャジーなアレンジを試みた『Voodoo Chiled』。アンコールまで13曲のカヴァーが演奏され、あっという間の1時間半だった。この日は、加部の59歳の誕生日だったため、曲間に皆でお祝いするという楽しい一幕もあった。
 70年代、フードブレインの音は「重戦車のようだ」と表現された。現在の音もヘヴィーではあるが、以前のそれとは異なる。マーブルスは、いま現在のロック・テイストを持った、まったく新しいバンドである。ブルースを、スタイリッシュに成立させているバランス感覚などは本当に素晴らしい。テクニックのみならず、その芸術的な才能に感心させられる最高のライヴだった。

 陳が70年代に参加してきたバンドの音源は、現在までに何度もプレスされ、多くの人に聴き継がれてきている。40年近く経ったいま聴いても、間違いなく「本物」である。それでも、以前はリタイアを考えていたという。「ロックはイギリスやアメリカの本物の人に任しておけばいい。昔はなかなか演奏できないなかで、演奏するだけで意味があった。でも、今は意味がない」。しかし、マーブルスを始めたいまは違う。「イギリスやアメリカの人がやっていない新しいことを見つけた」 。
 リアルタイムを知らない私たち世代にとっては、現役のミュージシャンに伝えてもらいたいものがまだある。斬新なサウンドも、彼らになら可能だ。形骸化してしまったロックに対してのアンチテーゼもあるに違いない。陳は、マーブルスは、何を伝えようとしているのか。
「それが見ている人に伝われば成功だし、伝わらなければ成功じゃないということ」。
 実際にライヴを体感した人は、何を感じ取ったのだろう。私はこれから、とことん見極めたい。(敬称略)

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2007年08月10日

Ra:IN DVD プロモ原稿

312ec23e.jpg"HARD RAIN & ROCKS LIVE"

Ra:IN、結成から5年。

その集大成といえる"HARD RAIN & ROCKS LIVE"

デビュー以来、国内のみならず、アジア、ヨーロッパなど
国境を越えたアグレッシヴな活動を展開し
ライヴバンドとして高い評価を受けてきたRa:IN 。
そんな彼らの真髄でもあるライヴ貴重シーンが見事に映像化された。

収録されているのは、ハイ・ヴォルテージでぶつかりあう06年の凄まじいツアーファイナルと、hideミュージアム(05年に閉館)で行なわれた感動的なラストライヴ。
ボーナス・トラックには、
台湾ツアー写真 (06年)とPV"海 (KAI)"を収録。
今年、正式加入したDIE(key.)も全曲においてゲスト参加している。

全14曲 ¥3,800 (Tax in)


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2007年08月07日

映画<スティル・クレイジー>より

sc3Still Crazy
スティル・クレイジー



Why is a nice wee girl like you...puttin' herself through all this crap again?
Revenge or something?

I still love their music.
I want to stand in the dark and see an audience feel the way I do.

Panic-striken.

なんでキミみたいなカタギの女が戻ってきた?クソみたいな世界に。
復讐のつもりか?

私は音楽が好きなの。
夢中になってる観客をステージの脇から見ていたい。

そりゃ、アブナイね。



sc4Your problem is you see yourself as the keeper of the fucking flame.
You got all these reasons for your anger: Ray's style, Ray's taste, Ray's lyrics.
You know what the truth is?
You had your shot you couldn't hack it.

お前の問題はな、昔にこだわりすぎることだ。
だから腹が立つんだろ、レイのスタイルにも、レイの歌詞にも。
それは転落の逆恨みだ。
お前は自分の失敗を受け入れられないんだ。



sc2The tragedy for people like me is our lives peak too early.

Tragedy? Famine's a tragedy. Or knocking down the rain forest.
Anyway, some people's lives never peak, ever. Think about it.

俺にとって悲劇なのは、若い頃に栄光を見ちまったことだ。

悲劇?悲劇って飢餓のことや、熱帯雨林の伐採のことよ。
それに、人生、栄光とは無縁の人もいるのよ。



For crissake, this was about us.This was our second shot.
And it was working.Anybody who was at Antwerp saw it.
We were fucking brilliant.We were better than we ever were.
We were a great band.We stupid bastards.
Why coudn't you bury the past before it buried us?

情けない。今度こそ復活のチャンスだったのに。
せっかくライヴも認められはじめたのに。
昔よりずっとうまくいって、いいバンドになってきたというのに、
どうして昔にこだわって、そのチャンスを潰そうとするんだ?



When he came back from the States a few years ago, he was a right basket case.
I couldn't risk littin' him mix with the other guys...puttin' him through all that shit again.

Maybe it wouldn't have been "all that shit again", if he'd been with them.

But it was.
People don't change.There's no blindin' flash on the road to Damascas.

Listen,Hughie, the guys don't deserve this.
You saw how close they were. You were there.


数年前、彼は帰国したが、精神を病んでた。
そんな状態でバンドに連れ戻すのは、あまりにも危険すぎた。

彼がいれば成功したかも。

そんなことわかるか。
人間なんて、そう簡単に変わるもんじゃないんだ。

でも、みんな頑張ったわよ。
復活まであと一歩だったのよ。

1998年/イギリス/ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント配給
上映時間95分
監督: ブライアン・ギブソン


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2007年06月30日

チコヒゲ公式サイト制作

chicohigeex.フリクションのドラマー、チコヒゲのオフィシャルサイトを制作しました。
制作途中ですが、とりあえずリンク。
http://chicohige.web.fc2.com/

★ライヴ情報★

2007年9月28日 大阪アメリカ村ソシオ
2007年9月29日 名古屋得三

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2007年06月28日

ジライヤ参上@中日新聞

本日付中日新聞朝刊に掲載のジライヤの記事、
企画と取材コーディネートさせていただきました。

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2007年06月22日

騒音寺 --遅咲きの男

soong1からだにべったりとまとわりつくような、ブルージーなロックンロール。

以前から私は、関西で活動する一部のバンドには、ある種の傾向があるのではないかと思っていた。
70年代の桑名正博のファニーカンパニーや世良正則のツイストから始まり、90年代でいうと、イージーウォーカーズ。京都の村八分もそうかもしれない。彼らのバンドには、特有の気風がある。乾いているというよりは、湿っている感じ。泥臭い、という人もいる。歌に、ネトネト感がある。

彼らに共通するのは、ブルースをルーツとした日本語のロックという点。そして、ヴォーカリストがバンドより一歩前に出て歌い、MCでは笑いのセンスが光るという特徴もある。
京都の騒音寺も、ひとことで表現すると、そういうバンドだ。

soong2騒音寺は、ロックのみならず、ジャズ、歌謡曲、童謡、音頭・・・幅広いジャンルの音楽をベースに、よりキャッチーなメロディーに置き換え、ロックに仕立て直し、わかりやすい日本語で歌っている。いずれの曲も、イントロからエンディングまで楽曲がきちんと構成されており、歌詞も聞き取りやすい。

カラダにぴったりと張りつくようにしつらえたフリルつきのラメ地の上下。ピンク色の豹柄の生地を紐で編み上げたつなぎ。グラムロックかと見まがうようなド派手な衣裳を細い身に纏い、ステージで堂々と歌い上げるヴォーカルのナベ。MCでは、関西独特のしゃべくりで観客を沸かし、テンポよく次の曲へつなげる。バンドで唯一のオリジナルメンバーにしてリーダーの彼は、いま自信に満ち溢れ、堂々としている。背も高く、風貌からして彼はロック・ボーカリストだ。

近年、騒音寺はライヴが好評で動員を増やし続けている。今年は、東京、名古屋、大阪の立て続けのワンマンと、京都での5日間連続ライヴを敢行。ライヴバンドとしては、関西でいまNo.1と言っていい。アルバムも、4月に通算6枚目となる『騒-Gaya-』をリリースし、彼らはいままさに絶好調である。

soong3しかし、聞けば、この道のりは長かった。
ナベは、もともとロッカーではなく、レコード・オタクだったという。学生時代は、レコード音楽研究会というクラ〜いクラブに所属。ジャンルに関わらずありとあらゆるレコードを収集しては、聴きまくった。やがて、それらを聴き尽してしまうと、満足できるレコードがなくなってしまった。「それならば」と作ったのが<騒音寺>。いまから12年前のことである。

当時、彼はギタリストだった。自分は作曲を担当し、ヴォーカルは別の人物に任せるつもりだった。ところが、なかなか理想のヴォーカリストが見つからない。仕方なく、ナベ自身がギターを弾きながら、仮歌を歌った。曲は溜まる一方だが、いつまで経ってもライヴができない。ナベが、ギター・ボーカルとなり、そのまま活動を続けたものの、メンバーの脱退で活動休止に追い込まれた。いっそ辞めてしまおうとも思ったが、もう一度だけやってみようと考え直した。彼自身がヴォーカルに専念し、新しいメンバーも得て、活動を再開。それでも、すぐに人気が出たわけではない。地道な活動をコンスタントに続けて6年。いま、ようやく、ワンマンができるようになった。

ナベは、現在39歳。
10代からバンドを始めて、20代で極めるミュージシャンが多いとすれば、ナベの人生はかなりの遅咲きである。しかし、レコード少年だった頃がなければ、騒音寺の魅力である楽曲の幅広さは、ありえなかった。少し回り道をしたかもしれないが、そのことは、決して無駄にはなっていない。
そんなナベに次の目標を聞いてみた。

-------チャップリンが「僕の人生に必要なものは、夢と希望と少しのお金」と言ったけど、僕はいま、それに近くなってきている。とりあえず、いま目の前にある目標をクリアしたら、また次のステップが見えてくるんじゃないかな。(ナベ)


騒音寺は、これからもまだまだなにか起こりそう、ナベならやるかもしれない、と思わせてくれる素晴らしいバンドだ。これからも、ナベの快進撃は続くだろう。期待したい。

                         (2007.05.25 取材)


http://www.so-on-g.com/

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2007年04月17日

『伝説のグルーピー』

567c1f21.jpg※ 下ネタ注意。

『伝説のグルーピー(The inside story - I'm with the band)』パメラ・デ・バレス・著を読んだ。

この本は、パメラ自身による、60年代後期に出会ったロックスターたちとの恋愛(?)の実録である。

ロックスターとの出会いのたびにロマンスを信じ、すぐにフラれる、を繰り返し、傷だらけになるパメラ。
浮き沈みが激しいパメラの日記は、あまりに主観的で、私はそのなかに面白味を発見することができず、なかなか読み進めなかった。
最終的に彼女は、伯爵の称号を持つロックスターと結婚することになり、ハッピーエンドなので良かったのだが、現実には、こんな展開、宝くじに当たるくらいにありえない確率、と言えるだろう。

しかしながら、このなかに登場する、それとはまた別種のグルーピー<シンシア>の話は、あまりにもブッ飛んでいて、面白かった。

<シンシア>は、<プラスター・キャスターズ> を自称するグルーピー。
<プラスター・キャスターズ> を直訳すると、「石膏型取り隊」といったところだ。

彼女は、ロックスターの <そそり立ったメンバー> のかたちを永遠に留めるという大義のために、スターと寝る。

石膏の型取りをしたことがある方はご存知だと思うが、対象が静物であったとしても、その作業にはとても神経を使う。
なのに、シンシアは繊細な <メンバー> の型取りを、見事にやってしまうのだ。
どうやって?
そのプロセスを知りたい方は、この本を読んでみてください。
ロマンティックな雰囲気のかけらもなく、セクシーなどというものからは程遠い、職人技の世界です(笑)。

シンシアの潔さは、パメラのように夢見がちなグルーピーたちとは、別のもの。
不思議なもので、読んでいるうちに、その一連の作業に、崇高さを感じてしまう。
儀式のようですらある。
型取りには大量の材料と道具が必要になるため、彼女はいつもそれらを詰めた大きな荷物を引きずって、ホテルの廊下を行き来していた。
そこまでして、60本以上もの<メンバー>を所有した、シンシアの不屈の精神!
なんだか、よくわからないけれど、恐れ入りました m(_ _)m。

あのロックバンドKISSも、そんな彼女のことを、こう歌っています。

♪ Plaster's getting harder, yeah she's a collector.
                 -----「Plaster Caster」(『Love Gun』1977)

コレクターなんですね。

それにしても、ロック・スターという方々は、ご自身の音楽活動とはまったく関係のないことなのに、型取りさせるなんて、なんと気前がいいのでしょう。
さすが、大物です。

ちなみに、記念すべき0001号に選ばれた、ジミ・ヘンドリクス。
彼がライヴの本番前に型取りを行ったところ、あろうことか、石膏から抜けなくなってしまいました。
ようやく無事、型が外れたときには、本番に遅刻。
しかも、演奏中に痒くなってきて、プレイに集中できず・・・。

本番前に、いったい何をやってるんですかっ、ジミは。ったく。
本末転倒ではありませんか。
しかし、そこまでして協力したジミにも、なぜか「お疲れ様でした」と、労いたくもなったります。

それにしても、ロックスターたちが、こぞって石膏型を残したがったのは、なぜなのでしょう?

0001号がジミヘンだったため、他のスターたちも競って、彼女のコレクションに加わりたがった?
型取りすることが、「スターである」ということの証明、ある種のステイタスのようになっていた?
彼女の崇高な精神に、感銘をうけた?

型を取るシンシアの心理もわかりませんが、取らせる側のロックスターの心理も、てんでわかりません・・・。

ちなみに、下記のサイトでは、<ジミ・ヘンドリクス>が税別$1500で販売されています。
ご興味のある方は、どうぞ。
http://cynthiapcaster.org/casts/casts.htm



この本は現在廃刊しており、入手が難しいため、復刊運動中です。
http://www2.rocketbbs.com/620/pamela.html

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2007年04月07日

Ra:IN プロフィール原稿

Ra:IN
http://www.rain-web.com/

PATA(Guitar/ex.X-JAPAN)、michiaki(Bass/ex.TENSAW)、向山テツ(Drums/ex.CoCCo,レッドウォリアーズ)という、敏腕ミュージシャン3人により結成された、ハードロック・バンド。

日本のロックシーンでそれぞれに名を残し、セッション・ミュージシャンとしても最前線で活躍してきた彼らが、自らの活動の核となるパーマネント・バンドを作るべく、2002年に結成。
70年代のブリティッシュ・ロックをルーツに、より斬新でヘヴィーなグルーヴで攻めまくるラウドなハード・ロックは、音楽関係者からの評価も高く、国内外で熱い支持を集めている。

デビュー以来、2度にわたる国内ツアーのほか、アジア、ヨーロッパでライヴを行うなど、国境を越えたアグレッシヴな活動を展開し、2枚のアルバムと、1枚のマキシシングルをリリース。
2007年には、05年に惜しまれながら閉館になったhide MUSEUMでのライヴ映像を、DVD"AT LAST hide MUSEUM"として、発売予定。
現在、3rdアルバムのレコーディング中。

ユニゾンでスリリングに上がってゆく音圧、嵐のようなリズム、強調されたベースライン、フューチャーされる強烈なリフ。
ハイ・ヴォルテージでぶつかりあう3人の洗練されたプレイにより、バンドのシルエットが鮮明に浮かび上がってゆく、凄まじいステージ。
Ra:INは、高い演奏テクニックがある彼らだからこそ実現した、3ピースのインスト・ロックであり、ハードロックのジャンルでは、他に類を見ない独自のスタイルであるといえる。


■Ra:INのおもな軌跡■

2002年 結成。
     ジョン・エントウィッスル追悼ライヴで、デビュー。
2003年 マキシシングル"The Border"、アルバム"The Line"リリース。
     初全国ツアー。1年間で、国内100本のライヴを行う。
2004年 中国・上海で2daysライヴを敢行。
     上杉昇(ex.al.ni.co)とのコラボレーション・ライヴ。
     台湾のロックフェスに出演。
2005年 フランス・パリ、ロックの殿堂"ElyseeMontmartre"でライヴ。
     hide MUSEUM閉館のラストライヴ。
     ロックイベント、天嘉-四-[DANGER IV] で、日本武道館に出演。
2006年 セカンドアルバム "BEFORE THE SIREN"リリース。
     全国ツアー。
     台湾でも "BEFORE THE SIREN"をリリース。それを記念しての2daysライヴが、台北で行なわれた。


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2006年12月12日

映画『スーパー8』

33247374.jpgスーパー8 (2001/イタリア、ドイツ)
監督  : エミール・クストリッツァ


彼らは、ミュージシャンなのか、コメディアンなのか?
たぶん、ミュージシャンなのだろうが、ストーンズやラモーンズだけがバンドじゃない、ミュージシャンじゃない、と思い出させてくれるプロフェッショナルなエンターテイナーであることは、間違いない。

この映画は、『アンダー・グラウンド』や『黒猫・白猫』を撮ったクストリッツァ監督自身がギタリストとして参加している、<ノー・スモーキング・オーケストラ>の、ヨーロッパツアーに密着したロードムービーである。ライブ映像あり、リハーサル風景あり、シュールなプロモーション・ビデオあり。移動中や楽屋でのバカ騒ぎや取っ組み合いの喧嘩までしっかり撮られている。メンバーそれぞれが自然体で笑わせてくれるので、どこまでが仕掛けで、何が偶然なのかは、もはや判別不能。バンドのことを知らなくても、最初は興味がなくても、退屈はしない。

ノー・スモーキング・オーケストラを、わかりやすく説明するとすれば、ドリフターズやビジーフォーを彷彿とさせる喜劇的性格をもった、渋さ知らズオーケストラのようなミクスチャーバンド、といったところか。ただし、「喜劇的」と言っても、ステージ上でドタバタが繰り広げられるわけではない。

Tシャツ、短パン、ジャージ、禿げ、デブの中年男11人というメンバーなのだが、ひとたび音を出すと、演奏テクニックで周囲を唖然とさせる。
彼らが自ら「ウンザ・ウンザ・ミュージック」と称するところのその音楽とは、チューバやバイオリン、アコーディオンを含んだメンバーで演奏される、アップテンポの2ビート。(ウンザ・ウンザとは、私の想像だけれど、ズンチャ♪ズンチャ♪みたいな意味ではないだろうか) ラテンやジプシー音楽を聴いて育ってきた彼らが奏でるジャズ、ロック、パンク、ブルース、レゲエには独特の民族的な響きがある。私たちの耳には、新しく、とても魅力的である。


移動バスの中で、ブルース・リーのモノマネで盛り上がったり、イタリア人の大真面目なカメラマンを、まるで3歳の子どもがするようにからかってみたり、本番中に実際にベーシストの腕が脱臼してしまって、大騒ぎになったり。およそ大の大人とは思えないオチョケぶりに、呆れる。おバカなのだが、ただのバカではない。そこが面白い。彼らはもともと田舎の結婚式や葬式に呼ばれて演奏に行くような旅芸人的なミュージシャンだが、自分達で考えた寸劇でテレビ番組まで制作してしまうほどの、笑いのセンスがある。スタイリッシュで洗練された、という形容詞からはほど遠いのに、総合的に見てハイレベル。ジョニー・デップが、この監督のファンだというのも、わかる気がする。そして、なぜか、ジョー・ストラマーも出演していた。

旧ユーゴスラビア出身である監督の、一言では語りつくせないバルカン諸国への切ない想いも、映画全体を通して伝わってくる。最後のシーンが印象的だった。

渡るべき大きな川にかかる立派な橋がNATO軍の空爆により破壊されていた。
「アコーディオンを弾きながら、ボートで川を渡る。人生は楽しいと言い聞かせるために。」

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2006年11月14日

TENSAW バイオグラフィ原稿

BARKS TENSAW Biography
http://www.barks.jp/artist/?id=2000004565&m=bio

70年代後期、横浜で結成され、80年にレコード・デビューするものの、わずか2年で解散。
4人の強烈な個性が織り成す先駆的なステージは、当時からライヴバンドとして突出した存在で、松田優作やX-japan、プリンセスプリンセスといった多くのミュージシャンたちにも影響を与えてきた。
一時的な再結成はあったものの、アルバム3枚とライヴ映像1本を残し、92年を最後にその活動を一切止めていた。
TENSAWは、その数々のアグレッシヴなステージ・パフォーマンスとともに、長いあいだ伝説の存在であった。2005年12月より、完全オリジナルメンバーにより、13年ぶりに本格再始動。

メンバープロフィール
◆michiaki (Bass)
鈴木享明
TENSAW、POISON POP、THE TOYSを経て、現在はZoKuZoKuKaZoKu、Ra:INなどで活動中。
hide、上杉昇、吉井和哉、山口冨士夫、鮎川誠、高崎晃、山本恭司、モーガン・フィッシャー、アラン・メリルなどをサポート。
アレンジャー、プロデューサーとしても自身のバンドZoKuZoKuKaZoKu、Ra:INのほか、寺田恵子、 al.ni.co、本田恭章など多くのアーティストを手がけている。
http://homepage.mac.com/gokuraku/archive/michiaki.html

◆GRICO (Ds)
富岡義広 
TENSAW、THE TOYSを経て、ZoKuZoKuKaZoKu、MOSAW、BLIND HEADZなどで活動中。
セッションミュージシャンとして、忌野清志郎、矢沢永吉、ムッシュかまやつ、アルフィー、中村あゆみなどをサポート。
http://www.t3.rim.or.jp/~grico/

◆Take (G.)
横内健亨
ウオッカコリンズ、オレンジ、TENSAWを経て、宇崎竜童、かまやつひろし、佐野元春、白井貴子、レベッカ、矢沢永吉、山下久美子、渡辺美里などをサポート。
現在は、TORII、BambooShuffleで活動中。

◆SAYBOW (Vo.)
田中聖一
TENSAW、 POISON POPを経て、ソロ活動。現在は、The ReMIXとして活動中。

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2006年11月10日

TENSAW プロモ 原稿

横浜を代表するロックバンドTENSAW

完全オリジナルメンバーにより本格再始動



豊富なキャリアに裏打ちされた、疾走感のあるシャープなプレイ。
隙間のないサウンド。
そして、まったく色あせることのない楽曲。
これほど完成度の高いライヴで、ロックファンを唸らせ、ミュージシャンたちからもリスペクトを集めているバンドは、いま、TENSAWをおいて他にない。



2005年末に神戸で行なわれたTENSAWの再結成ライヴは、一部のファンだけでなく音楽シーン全体に、大きな衝撃を与えるものとなった。
集結するのは実に13年ぶりだったが、メンバーはみな、常にシーンの最前線で活躍してきた、正真正銘の凄腕。
それぞれが長年追求してきた独自の世界観を、深みのあるプレイで表現したそのステージは、あらゆる面において本物のロックを具現しており、観客たちに強烈な印象を残した。
待ち望んでいたファンが感涙にむせんだのは言うまでもないが、この再結成は、原体験のない若い世代にとっても新鮮な驚きであったのだ。

翌2006年、この模様を収録したDVDが発売され、以降行なわれた、新宿ロフトなどでのライヴはいずれも、超満員。
バンドとしては長いブランクがあるにも関わらず、プロ・ミュージシャンとしての30年あまりの経験を武器に、周囲を次々に魅了していくそのステージングは、圧巻としか言いようがない。
再結成以来、その鮮明な音楽性と圧倒的なテクニックで、予想以上に新しいファンの獲得にも成功してきている。


【TENSAWとは・・・】

70年代後期、別々のバンドでプロとして活動を始めていたmichiaki、GRICO、TAKE、SAYBOWという、4人によって横浜で結成された。
デビュー以前から、ライヴバンドとしての実力は他に追随を許さず、横須賀のライヴハウスで客の米兵たちを熱狂させていたことは、いまなお伝説である。
イギリスのロックバンドTHE WHOに触発された、楽器を破壊するなどのパフォーマンスに加えて、彼らは、ブリティッシュ・ロックのエッセンスを豊富に取り込んだ楽曲に、横浜独特の香りを持つ歌詞や、痛烈な社会批判をテーマにした歌詞を見事に融合させ、オリジナルのスタイルを築いていった。
斬新な楽器をいち早く導入したり、当時まだ珍しかったオーケストラとのレコーディングを行うなど、その先駆的な面においても、日本のロックが未熟であった当時において、注目を集めるものだった。
80年にレコード・デビューし、松田優作やX-japan、プリンセスプリンセスといったミュージシャンたちにも多大な影響を与えていたが、わずか2年で解散。
その後、一時的な再結成はあったものの、アルバム3枚とライヴ映像1本を残し、92年を最後にその活動をいっさい停止していた。


「TENSAWには、スケベくさい、麻薬のような魅力がある」と、かつて評したのは、プリンセスプリンセスの富田京子だ。
事実、4人の強烈な個性が織り成すファンキーでプログレッシブなサウンドには、ひとたび聴いたものの心を捉えて離さない中毒性がある。
依然として旧譜の評価は高く、ファンのあいだで廃盤の音源や海賊盤までもが高値で取引されるという、興味深い現象さえ起きており、2006年になってついに、88年のライヴビデオがDVDとなって公式に再発売されるという事態にまでなった。


TENSAW解散後のメンバーは、それぞれのバンド結成や、一流アーティストとの共演で、常にシーンの先頭集団を駆け抜けてきたが、2005年になって再結成を宣言。
翌2006年は、次々とライヴを成功させ、新旧のロックファンに、ヘヴィでソリッドな本物のロックの凄さを見せつける一年となった。
彼らの今後の展開が、音楽シーンに再び大きな影響を与えていくことだろう。

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2006年10月06日

妄想日記

昨夜、寝る前におっぱいが大きくなる薬を3錠飲んで寝た。
今朝起きたら、本当に大きくなっていて驚いた。
夢の薬、とはこのこと。
自信を持って胸を張って歩こう♪

今朝、冨士夫さんの、念願の新譜がようやく届いた。
諦めずに待っていてよかった。
意図的ではないにしろ、希少価値を最大限に利用して、ファンを喜ばせてくれる、最高な人です。

『急がば廻れ'99』に、ドアーズのレコーディングは、スタジオミュージシャンが行なったという記述があり、気になっていたので、先日、ジム・モリソンに質問のメールを出したら、今日、返事が返ってきた!
真相は?・・・ヒミツ。これはトクダネだから。

夜、碇健太郎のライヴに行って来た。
生前に聞きそびれたことを、全部聞けて満足。
なにより、最後に観たときよりも、ギターの腕が全然なまってなかったことに、一番驚いた!
ギターはもちろん、ファイアーバードだった。

深夜、ニューヨークの友達から電話がかかってきた。
チェルシーホテルのエレベーターで偶然、イーディーと一緒になって、話しかけたら仲良くなった、とのこと。
近ごろ、その友達はずっと彼女と一緒に過ごしているらしく、「JUJUも、はやくこっちにおいでよ〜。イーディーと遊べるし」って。
こんなチャンスは、またとないっ。
明朝のフライトで、ニューヨークへ飛びます!

「はれときどきぶた」みたいな妄想日記を一度書いてみたかった。

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2006年09月10日

TENSAW DVDプレスリリース

tensawdvdTENSAW UNDER GROWN 2005
- REUNION at KOBE CHICKEN GEORGE -

横浜を代表する伝説のバンドTENSAW
2005年、奇跡の再結成ライヴ
姿を消す神戸チキンジョージに捧げる

ストレートなブリティッシュ・ロックを完全に独自のスタイルに取り込み、疾走感のあるシャープなプレイで、70年代終わりごろから、横須賀のライヴハウスで客の米兵たちを熱狂させていた正真正銘のロックバンド、TENSAW 。
2005年12月、神戸の老舗ライヴハウス<チキンジョージ>のファイナルを飾るため、満を持して再結成したライヴを収録。

隙間のないサウンドは、以前にも増して冴え渡り、強烈なメッセージは不思議なことに、まったく色あせてはいない。このライヴでTENSAWは、まぎれもない本物のロックを、昨今の混沌とした音楽シーンに、圧倒的に見せつけてくれている。

結成当初の4人が、初めてTENSAWというひとつのバンドになったといえる記念碑的な名曲、<Me-Cha-Ku-Cha>。その曲の自由さゆえ、ライヴでしか聴くことができなかったが、本作品にはソロを含む29分におよぶ見ごたえのある1曲となって収録された。
また、<Dobuita St.><なやむことは>では、ゲストにミッキー吉野、加部正義を迎え、そのプレイはファンを唸らせるほどに圧巻である。
メンバーたちによるソロも完全収録。常にロックシーンの最前線で独自の表現を追及し続けてきた彼らのプレイは、より深みを増しており、存分に堪能できるだろう。

再結成にあたって、伝説の<88年汐留PITライヴ>当時の撮影クルーらも再び集結し、TENSAWの25年が凝縮されたステージを、6台のハイビジョンカメラで捉えた。ベーシストmichiaki自らのプロデュースにより、実に17年ぶりとなる究極のライヴ映像となって、ここに完成した。

全11曲、108分

■TENSAW

70年代後期、横浜で結成され、80年にレコード・デビューするものの、わずか2年で解散。
4人の強烈な個性が織り成す先駆的なステージは、当時からライヴバンドとして突出した存在で、松田優作やX-japan、プリンセスプリンセスといった多くのミュージシャンたちにも影響を与えてきた。
一時的な再結成はあったものの、アルバム3枚とライヴ映像1本を残し、92年を最後にその活動を一切止めていた。TENSAWは、その数々のアグレッシヴなステージ・パフォーマンスとともに、長いあいだ伝説の存在であった。

■メンバープロフィール

◆michiaki (Bass)
鈴木享明
TENSAW、THE TOYSを経て、現在はZOKUZOKUKAZOKU、Ra:IN、MOSAWなどで活動中。hide、吉井和哉、及川光博、モーガン・フィッシャー、アラン・メリルなどをサポート。アレンジャー、プロデューサーとしても寺田恵子、al.ni.coなど多くのアーティストを手がけている。
http://homepage.mac.com/gokuraku/archive/michiaki.html

◆GRICO (Ds)
富岡義広 
TENSAW、THE TOYSを経て、ZOKUZOKUKAZOKU、MOSAW、BLIND HEADZなどで活動中。セッションミュージシャンとして、忌野清志郎、矢沢永吉、ムッシュかまやつなどをサポート。
http://www.t3.rim.or.jp/~grico/

◆Take (G.)
横内健亨
TENSAWを経て、宇崎竜童、かまやつひろし、佐野元春、白井貴子、レベッカ、矢沢永吉、山下久美子、渡辺美里などをサポート。現在は、TORII、BambooShuffleで活動中。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/TakeWebSite/

◆SAYBOW (Vo.)
田中聖一
TENSAW、 POISON POPを経て、ソロ活動。現在は、The ReMIXとして活動中。
http://www.udjart.net/

■収録曲

1.Talking Words
2.Japanese Disco
3.Go-round
4.Yokohama Friday Night
5.Dobuita st.
6.なやむことは
7.Give Me Love
8.星の彩
9.Me-Cha-Ku-Cha
10.THAI-HAI!
11.Spectro Meter

■撮影:伊藤ヒロ/井出情児/藤枝静樹ほか

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2006年08月19日

megさん感激!ありがとう!

nydollsニューヨーク在住のmegさんから、誕生日祝いに、映像をいただきました。ありがとうございます!
The New York Dollsの再結成アルバムリリースのフリーコンサート@サウスシーポート by meg 
http://www.youtube.com/watch?v=wA3FNb9Orxg


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2006年08月18日

映画<スクール・オブ・ロック>より

schoolofrockThe School of Rock
スクール・オブ・ロック







You three...groupies.
And your job is simple.Just worship the band.

君ら3人は・・・グルーピーだ。
仕事は簡単。バンドを誉めろ。


You want me to be a groupie?

Groupie is an important job.

I researched groupies on the internet.
They're sluts. They sleep with the band.

No. That's not true.They're like cheerleaders.

私にグルーピーになれっていうの?

バンドには重要な要素だ。

だって、ちゃんとネットで調べてみたら、いつでもバンドと寝るオンナだって。

そうじゃない。バンドのチアリーダーみたいなものだ。



2003年/パラマウント/UIP配給
上映時間109分
監督: リチャード・リンクレイター

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2006年08月04日

GS登竜門 音楽喫茶「ナンバ一番」

4d693340.jpg1960年代のこと。
大阪の道頓堀の橋のたもとに、
「ナンバ一番」という6階建てのレジャービルがあり、
その館の5階にあった音楽喫茶のステージでは、
シャンソン、ウエスタン、ロカビリーの時代から、
夜毎ライヴが行なわれていて、大阪の音楽の発信基地でした。

66年ごろから、いち早くロックの輸入盤を手に入れたバンドが
そのカヴァー曲の演奏をはじめます。
本格的にGSブームの到来となり、
大阪では「ナンバ一番」がその一大メッカ、
プロデビューへの登竜門となるのです。

ブームの終焉を迎える69年までにデビューしたGSバンドは、全国で300とも400とも言われていますが、
「ナンバ一番」から出たバンドとしては、
失神バンドとして有名な<オックス>と、沢田研二の<ザ・タイガース>が代表格です。

当時、ライヴの入場料は300円で、
お客さんは2階でチケットを買って、時間になると5階ホールに集まりました。

一方、大阪の専属バンドの楽屋は4階、
東京から呼んだゲストのための楽屋は6階にあって、
ステージの時間になると、バンドは、それぞれの部屋から5階へ移動しました。
正確なキャパ数はわかりませんが、座席が150ほどあり、周囲は立見だったようです。

PAもなく、チューナーもなく、ボーカルアンプもひとつしかなかったような時代。
当時のバンドは、そんなお粗末な機材で、ライヴをよくやっていたものだと感心します。

ステージの高さは、約1m。
ライヴが佳境にはいると、紙テープが投げられ、
ステージから飛び降りるメンバーに、客席から駆け上がるファン。
そして、失神者続出!!
天井が低かったため、オックスの前座をしていた和田アキ子などは、
頭がつかえたという伝説も残っています。
一日何度もステージがあり、汗だくになった衣裳を、
休憩時間に脱いで、楽屋の非常階段の手すりにかけて乾かしたらしいです。


この「ナンバ一番」のオーナーは、中国人の実業家でした。
最初に、このビルはパチンコ店としてオープンし、
50年代半ばに、喫茶美術館となったのち、
60年代初めに音楽喫茶(いまのライヴハウス)へと業種替えします。

オックスやタイガースを東京へ送り出し、GSブームも全盛期を迎えるのですが、
バンドの出演料も高騰。
皮肉なことに、採算面から「ナンバ一番」は、幕を閉じてしまいました。


写真が、当時のビルの外観。
アーチ窓の連なる、戦前の美しいネオ・ルネサンス様式で、ビルの角は丸みを帯びており、総タイル張り。

道頓堀の、現在は新しいTSUTAYAになっている角地に、
このビルは2000年ごろまで廃墟となって存在していました。
私が小学生の頃は、1階にブティック、2階に雑貨屋があり、
おそらくその頃にはすでに、上階は封鎖されていたと思います。
子どもごころにも、繁華街の真ん中にそびえ立つ洋館が、
朽ちるに任せられている様子は異様で、印象に残っています。
母もむかし、ここでタイガースを見たことがあるらしく、
廃墟の前を通るたびにその話を聞かされたことを、思い出しました。

gogoacb1969 at 05:48|PermalinkComments(3)TrackBack(0)この記事をクリップ!その他コラム 

内田裕也ライヴ「ナンバ一番」ワンナイトスタンド!

a217b90f.jpg2006.07.29
「ナンバ一番」一夜限りの復活ライヴ@元精華小学校グランド


出演:内田裕也、
    加橋かつみ(ザ・タイガース)
    力也(→体調不良のため出演キャンセルになった)
    岡本信(ザ・ジャガーズ)
    真木ひでと(オックス)
    加賀テツヤとリンド&リンダース ほか

40年の時を越え、戎橋商店街組合の主催で実現した、夢の競演でした。
ミナミの繁華街のド真ん中にある、旧小学校の校庭に組まれた特設ステージに、
かつて「ナンバ一番」を熱狂させたバンドたちが時空を越えて戻ってきて、
往年のGSナンバーやストーンズのカヴァー曲などを演奏。
失神者こそは出ませんでしたが、
紙テープが乱れ飛び、大阪の女子たちを熱狂させた、それはそれは熱い一夜でした。

<加賀テツヤとリンド&リンダース>
当時の「ナンバ一番」では、ファニーズ(タイガース)より動員の多い、一番の人気バンドだったらしく、
ここへきて、ネオGSイベントなどに出演するなど、活動を活発化している。

もともと、リンド&リンダースは、坂本スミ子バックバンドで、
加賀氏が加入してGSになったとのこと。
当時、譜面を読めるバンドとして重宝された実力派。
70年以降も、ずっと活動していたのかどうかはわかりませんが、
加賀氏はいま、大阪のGS界を仕切る大御所といったポジションのようで、
今回のこのイベントを取り仕切ったのも、彼。
内田裕也も「テッチャンのためならと今回は一肌脱いだ」というわけのようです。
金色の長髪で、白いシャツ、革パン、そして、特注の派手なギターがトレードマーク。


<内田裕也>
突然、大音量のマツケンサンバが流れ出し、それをバックに踊りながら登場する裕也。
開口一番、「矢沢なんかにゃ負けてられねーぜ!」

長い金髪に、サングラス、黒のエナメルのロングコート、
シルバーの彫刻がついたステッキを振り回して、歌ったのは「route 66」「勝手にしやがれ」ほか2曲。
あまり声は出てませんでしたが、あのお方の場合は、パフォーマンスと、その存在感ですね。
クセが強すぎて苦手かもと思っていたのですが、やはりそのカリスマ性は、一見の価値はアリ。

ステージ前の立ち入り禁止ゾーンに熱狂的ファンが一気に殺到し、ステージに駆け上がる若者も。
警備員がステージ前を封鎖して観客に下がらせようとし始めたところ、裕也、マイクをつかんで言いました。
「警備員よぉ、(後ろへ下げなくても)大丈夫だよぉ。なあ、そうだろ?みんな?自己責任で頼むぜ」
警備員は、すごすごと下がっていきました。

近年は肖像権問題もあるため、撮影に遠慮気味だった観客に一言。
「みんな撮ってるか?こんなメンツが集まること滅多にねえから、写真撮っとけよ!」

実際、内田裕也が関西で歌うのも、
阪神大震災のときに募金を集めるとき以来の10年ぶりで、
東京をあわせて考えてみても、こんな豪華メンバーが集まるのは20年ぶりとか!

「これからもロック頼むぜ!
ジョニー大倉、白竜、ジョー山中、クリエイション・・・(ほかにもたくさん名前を挙げていたけれど忘れました)は、本物のロックだぜ!」
と言いながら、ステージを去ったのでありました。

<トークショー>

彼らは、レコードが日本で発売される前に輸入盤をいち早く手に入れて、擦り切れるほど聴いて、懸命に耳コピしたといいます。
33回転のアルバムを45回転で聴くと、ベースラインが浮かび上がって聴こえてくるという裏ワザの披露など、
当時のミュージシャンたちの苦労話は尽きません。


熱狂的なオバちゃんを見ていると、羨ましくなってしまいました。
私はなぜか自分の年齢に対して古いものばかり追いかけてしまって、自分のリアルタイムで夢中になったものがないから。

私が、オバちゃんたちの年齢になったとき、私をああいうふうに瞬時に昔に戻してくれるようなものは、あるのだろうか。

gogoacb1969 at 05:15|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!ライヴレポ 

2006年07月25日

オンナは子宮でロックを聴く

1cdb3ba8.jpg『湯川れい子のロック50年
〜見た!聞いた!会った!
世界のスーパースターたち〜』




テレビ番組のコメンテーターや80年代ポップスの作詞家として、よく知られている湯川女史ではあるが、この本は、
もともと<音楽評論家>の草分けである彼女の、初投稿からの主だった原稿と、
それに添えられた本人による最新コメントから成っている。

中面に、
カラー印刷された写真つきの年表がある。
ビートルズ、エルヴィス・プレスリー、マイケル・ジャクソン、
ミック・ジャガー、マドンナ、エルトン・ジョン、
ブルース・スプリングスティーン、ブリトニー・スピアーズ・・・
これまでにインタビューを果たした
そうそうたるスターらとの2ショット写真がずらりと並ぶ、
それはそれは華やかな経歴。

66年の<ビートルズ単独訪問>の記事は、なかなか興味深かった。
この<単独訪問>、その実質は、
来日した彼らの宿泊するホテルのスイートルームに
無断で忍び込んだという、グルーピーもびっくりな突撃取材であった。

「どうやってもぐり込んだか。
勝手ながら、そんなことはこの際関係なし、と申し上げたい。
会うことに意義がある。」
と妙に強気で始まるこの原稿について、現在の彼女は
「音楽的には何の内容もない、ミーハーインタビューだった」と
回想しているが、そこがまた、面白い。

「山が向こうから歩いてきてくれないかぎり、
こちらから歩いていくよりほかに、方法はなかったのだから」と、
メンバーの宿泊するスイートの、下の階に自分も宿を取って、
捨て身な勇気で、上階を訪問したのだ。
特別室の二重ドアは、そのとき開いていたという。
スタッフにつまみ出されないようにと祈りながら、黙って中に入ると、
メンバーがテレビを見てくつろいでいたので、
「今晩は。おじゃましてもいいかしら?」と接近。
「誰?」と聞かれながらも、
彼女が、世紀のスーパースター・ビートルズと交わした話の内容は・・・
ただの「雑談」(笑)。
ここでも、音楽の質問は一切していないが、
私は、これもある意味、正解だったと思う。

湯川 「あまり、こうやって話してみると、聞くことがないみたい。
     せっかくの時間を、わかりきった質問でブチ壊しにするのがこわいの。
     あえて雑談をしていたい、と思うんだけど」

ジョン 「グッドガール。勲章をもらったときの気持ちは?
     イギリスの王室をどう思いますか?好きな作曲家は?
     なんていわれたら窓から放り出すよ(笑)」

雑談だったからこそ、彼らもユーモアたっぷりで応じてくれたのだろう。

そのときに、リンゴスターと共に撮ったこの写真では、
こちらまでつられて嬉しくなるほど
彼女はとても嬉しそうな顔をしている。
ここに彼女の原点を見たような気がした。

その後も、彼女はBBキング来日の際などには、
ホテルの部屋へ遊びに行ったりしていたらしい。


71年には、彼女は長年の憧れであったプレスリーに会いに行く。
楽屋でキスされ、その興奮冷めやらぬままに書いた原稿が、
夕刊フジに批判されてしまう。
「ステージのことは書かず、
プレスリーにキスされたことをネタに自慢たらたらの原稿なんて、
不潔な売名行為としか受け取れない」。
しかし、彼女はこれまた、めげないで
「喜ばないほうが気味悪い。
ひとりでこっそりしまっておくなんてずるいし、それこそ不潔」
と反論するのだ。
そして、さらに現在の湯川女史いわく
「エルヴィスとは2回もキスしたもんね、わたし。
そして60を過ぎた今でも、その時のことを想い出すと、
ジワーっと胸のあたりが温かくなってくる」。


彼女の興奮をそのまま伝える原稿は、
読者によって、好き嫌いが激しいだろう。
私も、この後付のコメントがなければ、
醒めてしまったかもしれない、と思うところもある。

彼女のスゴさはいろいろあるだろうが、
才能のなかでもその特別さが感じられるのは、
多方面からの分析ができることと、
語彙がずば抜けて豊富で表現力があること。
テレビでコメントを求められたときに、
スラスラと答えられるのも、その能力のなせる技だと思う。

77年のプレスリーの死後に書かれた2本の原稿は、
熱狂的なファンのひとりとして
プレスリーの素晴らしさについて延々と説明している内容なのだが、
ある一人のスターに関してこれだけのヴォリュームのものを、
他の人はとても書けないだろうという点で感心して、
何度も読み返してしまった。

76年の<孤独なニューヨークを歌う女性シンガー達>という原稿では、
文章にはなかなか表現しにくいと思われる
「ニューヨークの寂しさ」というものが、
とてもよく描かれている。
これには、ミーハーなところは一切ない。

インタビューとして傑作だと思うのは、85年のZZトップ。
「15年も一緒にいれば、夫婦ならとっくに離婚しているけれど、
ムサい男3人が一緒にやって来れた理由は何ですか(笑)?」
と、しょっぱなから飛ばした湯川女史の質問には、爆笑。
テンポよくまとまっている。


本来、文章を書くということは、感動する自分と、
それを冷静に見つめる自分が必要なものだ、と思っていたけれど、
これらの湯川女史の文章から、興奮をそのまま伝えるやり方も
あるのだということを学んだ。

彼女のそもそものスタートは、
59年のスウィングジャーナルに投稿した
『ジャズ・ファンの気持ち』という原稿だったらしい。
これにも、やはり音楽的な難しいことは一切書かれていない。
彼女はこの頃から、
「自分がどう感じるか」ということを、
重視して書いてきたのだった。


音楽の理論立てた説明や、音のひとつひとつを分析したレビューを書いているのは、たいてい男性だ。
参考になるし、感心もするし、
私にもそのような能力があれば良かったのにと思うのだが、
私にはそういう聴き方ができない、と感じてしまう。
女性には女性の視点でしか書けない原稿もあるのではないかと
思っていたところ、湯川れい子大先生は、
大昔に同様のことを書いておられたのであった。


私は毛穴と心情とで音楽を聴いてきたようなものであって、
それをひとつの理論にまで高めるような作業は、とてもできない。
やはり女たちの大半は、
毛穴と心情と、子宮で音楽を聴いているのではあるまいかと思う。
レベルの高低ではなく、
どの部分をどう味わっているかの違いに過ぎないだけだと思っている。
      -------------湯川れい子「毛穴で音楽を聞いてきた女の私」
              (ニューミュージック・マガジン1973.6月号掲載)


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2006年07月17日

スティーヴ・フォックス波乱万丈記

b43ee60a.jpg『Who am I ?』
--不良、ロックスター、牧師
         自分を探し求めて--
スティーヴ・フォックス 著


元ゴダイゴのベーシスト、スティーヴ・フォックスの自伝本である。

スティーヴは、仙台の米軍極東放送のDJをしていたアメリカ人と、
レコード整理のアルバイトに来ていた日本人女性のあいだに生まれた、
4人兄弟の長男だった。

父親はその後、事業で財産を築き、
一家でハワイへ一旦移住するが、再び帰国して逗子へ。
かなり裕福な暮らしで、
このころ、初めてエレキ・ギターを手にし、
ギターの下4弦だけを使ってベースにして弾きはじめる。

13歳の時に、父親が亡くなったのが、彼の最初の転機だった。
横浜・本牧にある悪名高い
“横浜ハイスクール”(通称・ヨーハイ)へ行ってからは、
悪行の限りを尽す、札付きの不良少年に。
仲良くなった軍人にベトナムから
とれたて最高級のマリファナを大きなアーミーバッグ満杯で直送してもらい、
自宅の屋根いっぱいに葉を敷き詰めて、乾かしたりもしていたらしい。

その頃に、
ゴールデン・カップスのミッキー吉野との出会いがあり、
アメリカンスクールの仲間らと、
バンド<サンライズ>を結成する。
フリーっぽい音だったという、そのバンドは
ヨーハイの後輩であったアン・ルイスの口利きで
デビューが決まるが、レコーディングの途中で
ミッキーがバークレイ音楽学院へ行くことになり、
片面しか完成しないまま、空中分解に。
仕方がないので、
アイ高野や柳ジョージに声をかけて、もう片面を完成させると、
そちらがA面になってリリースされた。
当時、スティーヴ17歳、ミッキー18歳。
いまでは本人も持ってない、幻のレコードだ。
私も聴いてみたい!

その後、家庭の事情で、一家でテキサス引越しののち、
バークレイへ行っていたミッキーに誘われて、彼もバークレイへ入学するも、
自信喪失からLSDにはまり込み、対人恐怖症に。
サイエントロジーをはじめ、ありとあらゆる新興宗教を試したのも、この時期。
そして、再び、ミッキーとボストンで
<フレッシュ・アンド・ブラッド>というバンドを結成する。

このバンドのツアーで訪れた町で、カルト教団と出会うのだが、
またまたここで、スティーヴは映画や小説でさえかなわない、
稀有な体験をしている。

ゴーストタウン化した、ある田舎町のクラブで演奏していたら、
最前列で熱心に見つめている少女達がいた。
グルーピーかと思い、声をかけたら、
彼らはなぜかシアターに連れて行かれることに。
ところが、このシアター、床も壁も全面、毛足の長い絨毯貼りで、
照明も音響設備も、これまで見たことがないほど、最高級。
レコーディングもできるようになっていて、
ミュージシャンにとっては、まさに夢の国。
ミッキーやスティーヴが、唖然としているところへ、
滑稽な姿の教祖様が登場して言うことにゃ、
「布教のために、アメリカ中を演奏して回り、世界一のバンドになろう!
この機材も、ツアー用の豪華キャンピングカーも、君たちのものだよ」。
スティーヴはもう、いちころで、契約書に飛びついてサイン。
1969年に、シャロン・テート惨殺事件が起こってはいたが、
彼はこの時点(1973年)では、
このコミューンには、そのような恐ろしいものを感じなかったという。
そういうことで、彼らは当時、ビートルズやストーンズでさえもやってないような
豪華ツアーに出発することになるのだが・・・。

ところで、彼はこのコミューンで、
専属バンドのドラマーであったトミー・シュナイダーと、
当時、コミューン幹部であった女性ミミに出会っている。
トミーは、のちのゴダイゴのドラマーとなる人で、ミミは奥様となる人。

教団の専属バンドとして、
当時はまだプロでさえも使ってないような超一流の機材を
自由に使えることに満足しつつも、
彼は次第に、この教祖のインチキに気づいてしまう。
ミッキーだけは、自分のやり方で世界一のバンドを作る構想があった
(この時点ですでに、バンド名は<ゴダイゴ>と決まっていた)ため、
コミューンのバンドを手伝ってはいたが、教団とは契約せずにいた。
「日本で新しいバンドをやろう」とミッキーはスティーヴを誘い、
スティーヴのビザを取るために、ミッキーは一足先に日本に帰る。
しかし、その間に、信じられない事件が起こってしまうのだ。

コミューンからの脱走を企てていた友達が、
首を切られた他殺体で発見されたのだ。
ミミもスティーヴも震え上がって、
日本へ逃走する決心を固め、
ミミを逃亡させる手段として、極秘裏に入籍するに至る。

そして、ハラハラドキドキの脱出劇。
日本に到着まもなくから、
ミッキー吉野とのバンド活動がスタートし、
これがのちに<ゴダイゴ>となる。

<ゴダイゴ>で、音響を担当していたのは、スティーヴだった。
コミューンで一流の機材を自由に扱っていた技術が
ここで役に立ち、
凝り性の彼は、ライヴでもレコーディングでも
とにかく時間をかけて妥協のない音作りをしていた。
そのため後年、彼が脱退後の<ゴダイゴ>では、その音が出せなくて、
ミッキーは相当困っていたという。
とにかく、スティーヴのそのこだわりようは半端でなく、
例えば、NHKでの『ビューティフルネーム』のレコーディングでは
機材を全部入れ替えさせたという功績もあるのだとか。

そんなわけで、ヒットを飛ばすのだが、
ファンの自殺をきっかけに
クリスチャンとしての布教活動をすることになる。
バンド活動との両立のために家庭をも省みないで多忙を極めていたところ、
夫人がストライキ。
ようやくワーカホリックだった自分に気づき、
最絶頂期での突然の脱退に至る。

その後の、伝道活動の話は、なかなか重くて、
ここではうまく書けない。
涙、涙だった・・・。

ハイスクールでさんざん放蕩した不良少年物語からはじまり、
カルト教団の実態暴露と命からがらのコミューン脱出劇。
ゴダイゴの音作りを担ったミュージシャンとしての回想録。
そして、キリスト教牧師となってからも迷える日々のこと。

様々な面を持つ、スティーヴ・フォックスに触れることができる一冊だ。

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2006年07月15日

加賀まりこ<とんがって本気>より

7b5c52dc.jpg手続きを踏んでいく恋愛が好きだった。
ひたすらオーソドックスに、
まずは電話をかけあい、
次はご飯を食べてのデートがあり、
だんだん深化させてさせていく恋が。
だから、ひと目会ったその日に
炎のごとく燃えて事に及ぶなんてことは、
まったくもってない。
「おいしそうなオトコね」と
女友達とささやき合うことがない
といえば嘘だけど、口ばっかり。
私の人生で邪な気持ちで始めた恋などない。
なのに。
私が男に惚れて「大好きよ」と
素直に伝えても、
相手が本気に受け止めてくれないことが
ほとんど。
       ------------------恋の初期作業


自分じゃそう意識してなかったけれど、
最近になって
「私、結構オモシロイ男友達に恵まれてきたかな」と思う。
恋愛感情のあった相手、なかった相手・・・
一線を越え、あるいは越えなかった男からも
私はさまざまなものを受け取ってきた。
形は違っても彼らはみな個性的で、
その人なりの流儀で私に愛を手渡してくれた。
       ------------------愛しき男友達


よく功名心とか虚栄心でとかいうけど・・・
はたして人は、先々に計算がついていて
そんな行動をするのだろうか。
私にはわからない。
わかるのは、のちのちの栄光のために
男を選ぶなんてことしちゃったら、
自分の心に屈辱の嵐が吹きすさぶだろうってことだけ。
それに、そもそも私は
セックスをしたから仕事に利がある
なんて信じる質ではない。
       ------------------自分と交わした約束


もちろん昭ちゃんがお目当てだったけど、
彼にとって、その頃の私は
ファンの女の子の一人に過ぎなかった。
いつもACBの舞台がハネると、
黒のMGに乗った得体の知れない女の人が
アッという間に昭ちゃんを攫っていく。
めちゃカッコよくて、
当時の私がどう頑張ったところで
太刀打ちできなかった。
第一、運転免許が取れる齢ではなかったのだもの。
それからほぼ7年後。
『オンディーヌ』の舞台を終えた私は、偶然、
キャンティで仕事帰りの昭ちゃんと会った。
お互い、連れもなし。
「ここ空いてるよ」
と知り合い同士で
同じテーブルについたその時、たぶん彼は
初めて私を一人の女として見てくれたのだと思う。
その日、私は明らかに彼と出会い、
恋に落ちた・・・。
       ------------------恋する不良少女


「もう一度、あの空間に抱きとられたい」
と思う記憶のシーンがある。
そこだけが日常と切り離された浮遊感に満ちていて、
身を委ねてると痺れていくような時が流れる、
あの感じ。
そんなの生涯に滅多にあるわけじゃないけど。
フランス語でいう<パ・マァル>、
「悪くないわ、この感覚」ってやつ・・・
忘れかけてたあの感覚の中に、
もいっぺん自分を放り込んでみたい欲求に駆り立てられる。
       ------------------清澄なる官能


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2006年07月14日

フランク・ザッパTシャツの先生

2054bcfb.jpg私がロックに目覚めたころに出会った、
K先生のことを書き留めておこうと思う。

当時、私の通う私立女子高校で
数学を教えていた40代のK先生は、
Tシャツとジーンズという、先生にしては少々ラフすぎる服装で、
ヒゲを生やしている人だった。

「60年代の音楽が好きで、フランク・ザッパ狂である」
という自己紹介が、1年生の最初の時間にあったが、
その時点での私は、ザッパを知らず、
極度の数学嫌いもあり、さっぱり関心がなかった。

ところが、ほぼ毎日ある、数学の授業。
K先生のTシャツは、毎日必ずザッパなのだが、
私はあるとき、そのザッパTが毎日、違っていて、
色もデザインも同じものがないことに、気がついた。
いったい、この先生は、ザッパTを何枚持っているというのだ!?
さすがに、私はその「異常さ」を無視できなくなりつつあった。

このK先生、何を思ったのか、時々授業を放棄して、
1時間まるまる、ロックや映画の話をする。
それも、聞き取れないくらいの、早口で!

ザッパの話はもとより、
ウッドストックとオルタモント
フラワーチルドレンとヘルズエンジェルス
ベトナム戦争とカウンターカルチャー
ときに、突然、ビートルズの歌を歌いだすことも。

はじめは、先生の趣味と、自分の好きなロックには接点がない
と思っていた私も次第に惹きつけられていく。

フリークスにはとうてい、ついていけないと感じつつも、
とうとうある日、私は学校帰りにレコード店に寄り
ザッパのCDを手に取ることとなった。
そして、私は驚いた。
セカンドアルバム「Absolutely Free」の解説を
書いているのが、K先生だったのだ。
どうやら、K先生は、日本におけるザッパ研究では
名の知れた人だったらしい。

そして、次の日から、
私の放課後の職員室通いが始まった。
K先生は、担任クラスを持たない講師ゆえ
時間的に余裕もあったようで、
連日やって来る私に
嫌な顔ひとつせず、飽きもせず、時間の許す限り、
60年代の話を、熱く語ってくれた。

ヒッピーとコミューン
シャロン・テート殺人事件とカルト教団
ドラッグ・カルチャーとサイケデリック
ターン・オン、チューン・イン、ドロップ・アウト
マハシリ師とティモシー・リアリー
マーク・ボラン、ジャニス・ジョップリン、ドアーズ、
グレートフルデッド、ビーチボーイズ・・・

ひとつ質問すると、話はどんどん広がってゆき、
話題は尽きることがない。
その時代をリアルに体験してきたからこそ語れる、相関的な世界観。
風俗と文化の変遷。
その博識ぶりは、見事だった。
本やテープを貸してくれる日もあったし、
紹介してくれる映画を書き留めて帰っては、
資料探しに夢中になる日々だった。

話し込んで、というより、ほとんど先生の話を聞くのみだったが、
ふと、気づけば2時間、3時間ということなど、毎回。
あるときなどは、
私の自宅に電話をしてきた先生とロックの話で盛り上がり、
4時間ほどの長話になってしまった末、
切るときになって、ようやく
「君は期末試験で欠点をとったので、夏休みに補講と追試をします」
というのが、その用件だったと、わかったこともあった。

なぜか、ザッパのメンバーとも面識があった先生。
在米のメンバーとファックスで緊密に連絡を取り合っており、
夏休みには、奥様と共に、
全米各地に散らばるザッパ関係者の家に泊めてもらいながら
横断してきたらしい。
60年代から抜け出せないどころか、抜け出そうともしない
K先生やその仲間の話は、フリーク・アウトそのもの。
面白くないわけがない。

しかしながら、私は最後まで
数学の授業にはついていけないまま。
補講までしてくださった先生には申し訳なかった。
でも、先生のお陰で楽しい放課後を3年間過ごすことができ、
高校を卒業した。

その後も何度か、手紙や電話で交流があったと記憶するが、
それもいつしか途絶え、あれから10数年の月日が流れた。

近年になって、
東京ロッカーズのドキュメンタリー映画を観ているときに、
音声スタッフとして、K先生の名がクレジットされているのを見つけた。
津島秀明監督、撮影:井出情児の、
フリクションやリザードを収めた『ロッカーズ』(1979)だ。
高校当時の先生の話に、東京ロッカーズが出てきたかどうか、
私の記憶にはない。
同姓同名の別人ということも考えたが、
この作品のタイトルアニメは、ザッパ研究で有名な八木康夫が手がけており、
ここは、やはりK先生本人である可能性が高いと思う。


多感な時期に出会い、
ロックの話ができる相手としては、
私にとって唯一の存在だった、K先生。
ザッパは難解で、ついぞ私が夢中にはならなかったけれど、
先生には、多くの影響と刺激を受け、
いま、とても感謝している。

K先生の現在の消息を存じ上げないが、
いまも、お元気だろうか?
またお会いしたい。

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2006年07月10日

音盤の検証とアーティストの魅力

0e06475e.jpg<ヴェンチャーズのレコーディング・メンバー
解明をめぐる対話と発見と遭遇の記録>

by Yuji Tsuruoka
http://www.addmoremusic.net/ventures/ven_toc.html


あるきっかけで知った、このサイト、
話が長いのだが、
かなり興味深い内容だったので紹介したい。

平たく言えば、
ネットを通じて知り合った
3人のロックおたくの往復書簡なのだが、
その内容を面白くしているのは、
彼ら3人には、共通する特殊能力があったこと。

クレジットの有無に関わらず、
実際にプレイしているレコーディングメンバーを聴き当てられるという
特別な耳を、彼らは持っていたのだ。

このサイトでまとめられているのは、
彼らが様々なアーティストのアルバムを議題に上げ、
トラックを聞きなおし、
真のプレイヤーを解明していくことで、
一度も顔を合わせたことがないまま
お互いの耳に対する信頼を深めていった
という軌跡である。

彼らが私信のなかで言っている「プロ」とは
セッション・プレイヤーのこと。
彼らの話によると、驚いたことに、
60年代のアルバムには、
「プロ」の仕事が相当多いらしい。

実際、ハル・ブレインの回想記
"Hal Blaine & the Wrecking Crew"にも、
60年代のハリウッドでは、よほどのことがない限り、
バンドのメンバーがスタジオでプレイすることはなかった、
と述べられているらしい。

モンキーズはじめ、ドアーズ・・・
ファンとしては、アーティストの名が具体的に挙げられると
愕然としてしまう。

彼らは自らを「偶像バスターズ」と称していて、
空っぽの偶像(アーティスト)にはまったく関心がなく、
音盤のみを愛し、
プレイヤーやエンジニア、プロデューサーを尊敬していると、
冷徹に言い放っている。
アーティスト信奉型の私とは価値観が違うものの、
彼らの言うこともまた真実のひとつであり、
ある意味、たいへん興味深い。

読んでいて、一番笑ったのは、
ヴェンチャーズの65年の日本ライブ盤。
実は、セッションマンによるスタジオライブに
歓声、口笛、拍手をオーバーダブしたシロモノだという。

また、あるときには、
使用されているギターの本数の検証のために、
12弦ギターを実際に弾いてみることまでしている。
キーの転調がかなり弾きにくいので云々などというやりとりもあり、
最終的にこれが、テープ早回しの、にせ早弾き曲の検証という
泥沼へ進行していく。

そして、ついに、彼らは
レコーディングに参加したと目される
「プロ」本人に単刀直入にメールで質問するに至り、
驚いたことに、あっさりとそれを認める返信を得る、
というクライマックスを迎える。

しかし、それでもなお、
彼らの影武者探しの旅は続くのだった。

彼らのような特殊な能力を持たない私には
さっぱりついていけないような論争だった。


ほんの少しでも、私に
そんな能力があればいいのに、と思う。

でも、もし私が、彼らのような耳を持っていたとしたら、
アーティストの持つカリスマ性や
ライヴのときに垣間見せる瞬発的な美しさに
これほど魅せられていたか疑問だ。
ライヴを観て、素敵な夢を見れただろうか。
知らないほうが幸せだった、ということもあると思う。


それでもやはり、ライターとしては、
ちゃんと音を聞き分けられる能力を持っていたい、と思う。
その上で、冷静にその魅力を解析できて、
全てを踏まえたうえで、
そのアーティストを愛することができたら、
最高だと思うのだが、
どうだろう。

gogoacb1969 at 17:05|PermalinkComments(5)TrackBack(0)この記事をクリップ!その他コラム 

2006年06月16日

狂ったダイアモンド シド・バレット

5fefe225.jpg映画『ピンク・フロイド アンド シド・バレット ストーリー』


ピンク・フロイドの初代リーダーで、バンドの斬新な音楽性を牽引していたシド・バレット。
彼は、どこにいても周囲を明るくする人気者であった。
喋り方、歩き方、彼の存在そのものに危うさがあり、儚く、多くの人が彼に恋をした。
この映像では、彼の絶頂期の美しさを、目の当たりにすることができる。

オープニングは、ピンクフロイドのPV的なフィルムなのだが、サイケデリックな照明、奇声やドラの音がフューチャーされた音楽など、当時としてはかなりアバンギャルドだが、完成度が高い。


彼もまた精神を病み、ドラッグで、向こうへ行ってしまった人だ。

ピンクフロイド脱退から7年後のこと。
バンドが彼に捧げる曲をレコーディングしたとき、
見覚えのない人物がメンバーの前に現れた。

頭髪も眉もなく、不気味に飛び跳ねる体重が100キロ以上の男。

その人こそが、狂ったダイアモンド=シドだった。
昔の面影もなく、シド自身も目の前のメンバーには気づかず、
視線は遠くまで突き抜けていた。

メンバー達は、彼の姿を見て泣いたという。

1978年、彼はロンドンから故郷ケンブリッジへ、「歩いて」帰った。

現在も彼は、ケンブリッジに居るが、
過去の話は、彼の精神を乱してしまうので、
バンドとの交流もなく、表に出てくることもない。

ときどきパパラッチたちにその姿を捉えられているらしい。

♪思い起こせ!若かったあの頃を
 きみは太陽のように輝いていた
 輝け!クレイジー・ダイアモンド
 今 その瞳に 狂気を宿し
 まるで空にあいたブラックホールだ
 輝け!クレイジー・ダイアモンド
 幼児性とスターダムの狭間で立ちすくむきみを
 鋼鉄の風がさらっていった
 きみは遠い嘲笑の的
 見知らぬ世界の伝説の人 殉教者よ
 さあ 輝き続けるんだ
----------"Shine On You Crazy Diamond" PINK FLOYD


※追記
2006.07.07 糖尿病により永眠。享年60歳。
http://www.sydbarrett.net/

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2006年05月19日

ジョニー・ウインター NYライヴ

jw041月のニューヨークで、
念願のジョニー・ウインターを
観ることができた。

かなりの日本嫌いだという噂のジョニー。
彼は結局、一度も来日を果たしていない。

90年に一度、来日が予定されたことがあるが、
直前に中止になった。
私は当時、高校2年生。
アルバイトをして貯めたおこづかいでチケットを買った、
初めての外タレだったし、
このときのことは、よく覚えている。

公演の1週間前になって、
「体調不良のため」という理由でキャンセルに。
噂では、「ヘロイン中毒の治療に専念するため」ということだったが、
本当のところはわからない。
ビザが下りなかったのかもしれないし、
本当に日本に来るのが嫌だったのかもしれない。
残念だった。

その次は、93年のサンフランシスコ。
ライヴハウスのスケジュールに
ジョニー・ウインターの名を見つけて心臓が高鳴ったのだが、
それは、私が帰国を予定していた翌日のステージだったのだ。
フライトの変更ができず、泣く泣く諦めざるを得なかった。

そして、2006年1月のニューヨーク。
日本を発つ前に、現地のライヴ情報をチェックしていたところ、
ジョニー・ウインターの名を発見!
ところが、
ネットでチケットを取るべく入力をしている真っ最中に
「売り切れ」になってしまう。
なんという不運・・・。
でも、まだ観れないと決まったわけではない。
今度は絶対に諦めないと決心して、ニューヨークへと飛んだ。

bbking03ライヴ当日の午後、早い時間にまず直接店へ足を運んでみた。
店は、タイムズスクエアのド真ん中に新しくできた
「B.B.KING BLUES CLUB」という名の、
ショウビジネス的なサパークラブ。
屈強なセキュリティーが入り口に立っている。

彼に、キャンセル待ちや当日券がないか質問してみる。
「開演の30分前にもう一度来てごらん」と言われ、
手ごたえを感じて一旦帰宅。
夜になって出直すと、
なんと、すでに30人以上がキャンセル待ちに並んでいた。
希望薄かもと落ち込みながらも、ひとりで最後尾へつく。

ところが、30分以上経っても、1番目の人さえ、まだ中に入れない。
諦めて帰って行く人が続出し、私も一旦は諦めそうになるのだが、
やはり最後まで待ってみようと思いなおし、待つこと1時間。
気づけば、しぶとく並んでいるのは、私を含めて約10人になっていた。

ショウはすでに始まっているはずだが、音が漏れてこないので、
ジョニーの演奏がはじまっているのかさえ、わからない。
チケットを持っている人たちは、どんどん私を追い越して中へ入っていく。
気持ちばかりが焦る。

こういう時って、ドアマンにそっとチップを弾めば入れるんだよね、
と、映画でいつか見たシーンを思い出し、
さて、いったいいくら渡せばいいのかしらん?と思っていると、
列が進みだした。
前売り券の人たちがほぼ入場した頃を見計らい、
いつまでも諦めないしぶとい私たち10人に、
おなさけで立見の当日券を発行してくれることになったのだ。
「バーエリアの端っこで見るんだよ」と。

bbking0231ドル支払って中に入ると、
そこは、いかにもベガス的なスタイルの巨大なショウクラブだった。
床にはふかふかの絨毯が敷き詰められ、
オーク材のテーブルが、100以上も並んでいる。

bbking01ステージ前の一番低いフロアはVIP席、
サイドにボックス席、
一段上がったところにもボックス席、
後方にも一般テーブル席、
最後方には大きなバーがある。

全てのテーブル席は埋まっており、
バーの前のフロアも立見客で身動きが取れないほど満員だ。
キャパはざっと1000人。

ウエイターやウエイトレスたちは、
アメリカンスタイルな肉の塊の料理を両手に、
テーブルの間をせわしなく運んでいる。
ステージでは、前座のミュージシャンが演奏しているが、
お客たちはあまり気に留めることなく、
料理を口に運んだり、お喋りに興じている。

しばらくして、ジョニーの出番に。
ステージ中央に、イスが一客とマイクが用意される。
右にベーシスト、左にブルースハープ、後方にドラマー。
バックのメンバーの平均年齢は、45歳といったところか。

ステージに司会者が現れる。
「紳士淑女の皆さん。
さてお次は、テキサスのブルースマン、ミスター・ジョニー・ウインターです!
かのボ・ディドリーがジョニーのことを<わが息子>といってた、
あの偉大なジョニーですよ。
ニューヨークにようこそ来てくれました!」

そこへ、ステージの袖から
一人の小さな老紳士がヨロヨロと登場。
ジョニー・ウインターだ!

立ち上がる人こそいないが、盛大な拍手と口笛で迎えられる。
腰がすっかり折れ曲がり、痩せた身体。
両目はしっかり閉じられたままだ。
白く長い髪は、後ろでひとつに束ねている。
身につけているのは、黒のTシャツと黒のズボン、黒の中折帽。
Tシャツから出た白く細い腕は、ほとんど骨と皮のようだが、
青い刺青が入っていることは、遠くからでもわかった。

中央のイスまでの距離はほんの5mなのだが、
コード類に足をひっかけてしまい、かなり危なっかしい感じがする。
転んだりすれば、それこそ骨がポキンと簡単に折れてしまいそうだ。
私は気が気でない。

スタッフに手を差し伸べられ、イスまで誘導してもらう。
そして、両手でイスを触って確認し、ようやく腰掛けるという具合だ。
セットされたマイクの位置を両手で宙をかいて探す、という様子から
ある程度察しはついていたが、
あとで聞いた話によれば、彼は完全に視力を失ってしまっているらしい。
61歳にしては、少し年老いすぎてしまっているように感じた。

イスに座った彼のもとへスタッフが持ってきたのは、
なぜか、白のスタインバーガー。
ジョニー・ウインターといえば、なんといってもファイアーバード。
いくら、ファイアーバードが
重いとか太くて弾きにくいとかという理由があるにせよ、
ヘッドがない、あのヘンテコな形のギターで、
ジョニーらしい音を期待できるのだろうか。
また不安になる。

スタインバーガーを構えた彼は、
試しに爪弾いてみることもなく、挨拶も一言程度で、
いきなり曲をはじめた。

jw01「すごい音!」
私は思わず叫んでいた。
ギターの音も、その歌声も、ジョニー・ウインターそのものだ。
CDで知っている彼の若いころの演奏と何ひとつたがいない。
全身に鳥肌が立った。

彼はその昔、「100万ドルのギタリスト」と言われていたらしい。
けれど、こんなヨボヨボじいさん(失礼!)が、
いまでも、こんなに素晴らしいブルースギターを弾くなんて、
信じられない。

jw02疑いたくはないけれど、昔のレコードに合わせて指を動かしてるとか、
もしや、アンプの後ろで他の誰かが隠れて弾いているのではないかと思い、
彼の手もとを注視してみたりした。
でも、どう見ても、聴こえてきているのは、
本人がいま弾いているナマの音なのだ。

登場の様子を見たとき、私は内心のところ、
「ショウビジネスというものは、
まったく、こんな年寄りまで引っ張り出して働かせるなんて、
なんて酷な世界なんだ。
早く引退させてあげるべきだなあ。痛々しくて見てられない」
とさえ思っていたのだけれど、
演奏が始まるなり、
「こういう天才には、死ぬまで弾いてもらわなきゃ。
彼は、みんなのギタリストだから」
に変わっていた。

jw03アンコールでは、
オールドのファイアーバードに持ち替えて数曲を披露。
1時間強のステージが終了するころには、
いまだ衰えのないその腕に、ただただ感服するのみだった。

見かけより体調はいいのだろうか、
いまでも彼は全米を精力的にツアーしているようだ。

★ジョニー・ウインター オフィシャルサイト
http://johnnywinter.net/welcome/


★B.B.KING BLUES CLUB
http://www.bbkingblues.com/


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2006年05月07日

恒松正敏ソロライヴ

tsunematsupicture元フリクションのギタリストで、画家の恒松正敏が、滋賀・近江八幡で、個展とライブを行なった。

近江八幡は、ヴォーリーズ建築の洋館と、和風の屋敷が見事に調和して立ち並んでいる一風変わった街並みで、また、その景観が美しく保存されている。その街に、ひときわ目立つ、立派な酒蔵を改装したギャラリーがあり、そこが今回の会場となった、酒游舘である。

恒松正敏は、ミュージシャンなのか、画家なのか?
ミュージシャンである前に画家だと、私は思う。それは、私がフリクションのツネマツマサトシを知る前に、絵のほうを知っていたからかもしれないのだが。

「自分はどちらが本職というわけでなく、両方が本職と考えて200%やっている」
と、恒松。

「ギターも弾いて、絵も描いて、おっちゃん大変やな」と、
連れていた私の息子が横から思わず言うと、
「うん。大変なんだけど、それがオトコなんだよ。オトコだからそれをやるんだ」
思いもかけず、名言が飛び出した。

フリクションをリアルタイムで知らない私は、この目の前の恒松氏がRECKやチコヒゲと共にバンドをやっていた人だということがことがピンとこない。恒松氏の持っている雰囲気は、他の2人のものとは、少し違うように思う。


tsunematsu恒松氏は、自身のロックバンドでも活動しているのだが、今回はソロでの弾き語りライブだった。

「今日は、中学時代に好きだった曲をやります」
と、オリジナル2曲以外の12曲は、全てカバー。

ジャックスの「時計を止めて」、
キング・トーンズの「グッド・ナイト・ベイビー」、
ストーンズの「as tears go by」、
ベン・E・キングの「stand by me」など
大切に歌われてきた感じがよく伝わる
甘く切ない恋の歌たち。

歌っている姿を見ていると、
一瞬、ステージ上に中学生の少年が見えた。
それは、恋人に弾き語り、聴かせている恒松少年だった。

魑魅魍魎の絵に囲まれ、いろいろなものが浮遊する中での素敵な2時間であった。

Friction - Crazy Dream
http://www.youtube.com/watch?v=HX5wnQX9vDg&search=friction%20crazy%20dream

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2006年04月17日

『イーディ 60年代のヒロイン』

edie460年代のニューヨークで、
アンディ・ウォーホールの取り巻きの一人として生きた、
モデルのイーディ。

大金持ち一族の娘として生まれ、
その美しさゆえに、父から性的虐待を受けていた子ども時代。
アンディ・ウォーホールと出会い、
一躍、アンダー・グラウンド映画のヒロインとなり、
有名人たちと、パーティやドラッグに明け暮れたスーパー・スター時代。
そして、ボブ・ディランに騙され、ウォーホールにも見捨てられ、
ヘロインという恋人との蜜月を経て、命を落とすまで。

パティ・スミス、ギンズバーグ、ニコ、ルー・リード、
リキテンシュタイン、ベッツィー・ジョンソンなどなど
10年がかりで250人余りに取材した この評伝は、
一言で<イーディの本>と語るには、もったいない。

原題に、
<EDIE - An American Biography>とあるように、
この本は、彼女の生きた60年代のアメリカの、ニューヨークの、
アート・シーン、ミュージック・シーン、社交界、
そして、クレイジーな人々に関する
資料としての価値もある。

いまでは想像もつないような、ブッとびかた。
それを肯定するわけではないけれど、
とても興味深いものがあった。

edie2膨大なインタビューひとつひとつは、
ごくごく断片的でしかなく、つかみどころがない。

ところが、全体を読み通すと、
目の前に、その時代とその周辺の人々が立ち上がり、
そしてイーディが動き出す。

銀色に染めた髪、
天使のような瞳、
蝶のようにしなやかな指、
すらりと長い腕に、
小鹿のような脚。

彼女は、その存在自身のはかなさゆえ、
クレイジーな連中のヒロインとなり、
詩人やゲイさえをも、虜にした。

edie1ディランの「Just like a woman」「Leopard skin pill box heart」は、
彼女のことを歌っていると云われている。

男も女も、彼女をひと目見れば、恋に落ちた。
それほど魅力的な女性だったが、
実際には、性的には、とても未熟だった。

彼女には、どんな階層の人とも順応できる才能があった。
裏を返せば、
彼女はあまりにも自分を持たない人だった。
それが、彼女だったのだろう。

読み終えたとき、とても哀しかった。
そして、たまらなく彼女が愛しくなった。

---------------------------------

イーディ・セジウィック(1943〜1971)

どんなふうにやってたのか、分からない。
火をそこいらじゅうにまきちらしていた。
メーキャップには何時間もかかった。
でも、彼女はちゃんとやった。
付けまつ毛も忘れなかった。
注文するのは三倍のライムで割ったジン。
そしてリムジン一台。
ブロンド・オン・ブロンドのヒロインだった。
みんな、知ってた。

ああ、こんなのフェアじゃない
ああ、こんなのフェアじゃない
あの白貂の髪は
男たちをきりきり舞いさせた
純白をしのぐ純白
ブロンドをしのぐブロンドだった
あの長い、長い脚
わたしは何回も頼んだ
いっしょに踊って
でも、一度だって
チャンスはなかった
ああ、こんなのフェアじゃない
あの白貂の髪は
すてきにスウィングしていたし
風を切っていたし
男たちはだれもかれもが
彼女といっしょに踊った
わたしには一度もチャンスがなかった
どうしてもと頼んだのに
こころの
ずっとずっと深い
あの、夢に目をこらす
場所で
彼女の動きのなかに
わたしがつかまえた
愛を読みながら
わたしたちは
くるくる回っていた
そして彼女は
くるくる回り
町じゅうのみんなを
くるくる回し
揺らした 揺らした
かがやく骨のからだ
ブライアン・ジョーンズの次の
二番目のブロンド・チャイルド
ああ、こんなのフェアじゃない
彼女の夢をわたしは見つづけたのに
眠りについた
眠りについた
永遠に
もうけっして踊れない
いっしょには けっして
こわれた
ベビーみたいに
窒息した
ベビーみたいに
ベビー・ガールみたいに
レディみたいに
白貂の髪の
ああ、こんなのフェアじゃない
もういちど、見たい
彼女が起きあがるのを
白い白い骨のからだを
ベビー・ブライアン・ジョーンズ
といっしょに
ベビー・ブライアン・ジョーンズ
顔を赤らめる
ベビー・ドールたち

------------パティ・スミス

『イーディ 60年代のヒロイン』
ジーン・スタイン、ジョージ・プリンプトン著
筑摩書房
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4480854681/qid=1145246994/sr=1-1/ref=sr_1_2_1/249-4812634-1731561

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2006年02月28日

映画『RIZE』監督インタビュー

RIZE“エッジ”を生きる若者たちが生み出した、
いま最も新しく、過激な、クランプ・ダンス。
天才ファッション・フォトグラファーが
炸裂するビートにのせ、ポップに写し取った
奇跡のダンス・ドキュメンタリー!


ギャングになるか?それともダンスか?

舞台は、全米で最も危険なL.A.サウス・セントラル地区。
ロス暴動が発生し、凶悪犯罪は日常化している。
ギャングや麻薬中毒の親のもとで育った子どもたちは、
生きる希望もなく、彼らもやがてギャングになるしかない。

そこへ、ピエロの扮装をしたダンサー、トミー・ザ・クラウンが現れ、
家々の誕生会を訪問してダンスを披露。
音楽に身をゆだね、体を解放していく「クラウン・ダンス」に
子どもたちは熱中し、トミーからダンスの楽しさと、
ポジティブに生きる喜びを学ぶ。
やがて、より過激なダンスを求めた若者たちはトミーのもとを離れ、
「クランプ・ダンス」という、オリジナル・スタイルを確立。
そこで、トミーは枝分かれしたグループを集め、
ダンス・バトルで対決させることに。
超満員の会場で、彼らはチームの名誉をかけ、技とセンスを競い合う。
観客までもトランスさせるほど、高い精神性を持った究極のダンスに、
あなたも目がクギづけになるに違いない。


刑務所から出たトミー・ザ・クラウンが、
友人の子どもたちを喜ばせるために始めた余興のダンスが好評で、
ひとつのカルチャーに発展。
彼のもとでダンスを学んだ若者たちは、
自らのダンスを創りだし、
サウス・セントラルの新しいヒーローとなっていく。

*トミー・ザ・クラウン
子どもが大好きな、あったかいピエロ。クラウン・ダンスを通じて、子どもたちに踊ることの楽しさを教え、勇気を与え続けている。

*タイト・アイズ
トミーのもとでダンスを習ったのち、独自にクランプ・ダンスを始めたメンバーの一人。“KRUMPERS”のリーダー的存在。

*リル・シー
おなじく、クランプ・ダンスの創始メンバーで、現在は、振付担当。本能のままに自らを解放する彼のダンスは、多く慕われている。

*ミス・プリッシー
彼女のクランプ・ダンスは、激しく、それでいてクラシック・バレエのようにしなやか。ダンス・バトルの対決シーンは圧巻!

*ドラゴン
トミーの弟子としてパーティーを任されるほどだったが、タイト・アイズらと出会い、クランプ・ダンスを創りだすことに。


クランプ・ダンスとは?
怒りや悩みから自らを解放するため、
肉体の限界に挑戦するかのように、
激しく、早く、闘うように踊るのが特徴。
顔や身体にはメイクを施し、トランス状態にまで至る高い精神性を持つ。
90年代後半からポジティヴに生まれ変わったヒップホップの流れと連動し、
トップ・アーティストからも支持され、
世界へ広まりつつある。


監督:デビッド・ラシャベル
1969年、アメリカ、コネチカット生まれ。
アンディー・ウォーホールの元で、
『インタビュー』誌の写真の仕事をはじめ、
これまでにマライヤ・キャリーや
ドリュー・バリモアなど数百人にのぼる
セレブリティたちのポートレイト撮影、
エルトン・ジョンやブリトニー・スピアーズの
ミュージック・ビデオ監督を手がけている。


サウス・セントラルで過ごすのが、最高の瞬間だったよ


<彼に撮れないセレブはいない>
とまで言われるほど多くのトップ・アーティストたちを撮ってきた
超一流のファッション・フォトグラファー、デビッド・ラシャペル。
初監督作品となる本作は、無名の若者たちを主人公にしたドキュメンタリーだ。

「多くの人に、サウス・セントラルに生きる
キッズたちのことを知ってもらいたくて、映画をつくったんだ。
僕が初めてミュージック・ビデオをつくったときに、
友達がサウス・セントラルから連れてきたダンサーと仲良くなって、
そのとき初めてクランプ・ダンスを見た・・・
あまりにも凄くて、開いた口が塞がらなかった!
人間の身体がこんな風に動けるなんて、知らなかったからね。
それから僕は、サウス・セントラルへ行くようになったんだけど、
そこでは充分な社会福祉もなく、キッズたちが育っていく環境は最悪。
けれど、彼らはダンスによって悲惨な現実を乗り越え、
そこからRIZEし(這い上がり)、前向きに生きようとしていた。
だから、葛藤を抱えたヒーローたちのポジティブな精神を、
エンタテイメント性を持たせた映画にしようと思ったんだ」

作品の出来具合には、とても満足しているラシャペル監督。
しかし、完成までには大変なこともいろいろあったとか。

「撮影費用は自己出費だったから、
それを稼ぐために、他の仕事も続けていかなくてはならなくて、
3年もかかってしまったよ。
でも、結果的には、彼らと長く過ごすことで、変化を見られたし、良かったね」

ニューヨークではトップスターたちとファッション写真の仕事をし、
その合間にサウス・セントラルに通っての映画撮影・・・
そのギャップは、いったいどういう感じなんだろう?

「すごく不思議な感じだったね!
フォトグラファーとして仕事を始めてから20年経ったし、
実を言うと、興味を持てない人の写真はもう撮りたくない。
だから、僕はサウスセントラルに戻るのが、待ち遠しかったよ。
町の人は、やがて僕が有名人であることに気づいたけど、
僕にとっては、あの町で過ごすことこそが最高の瞬間だったんだ。
僕たちがTVで見せられているサウス・セントラルは、
麻薬やギャングの事件のことばかりだろう?
でも、実際は、この映画のシーンのように、
ある家では、音楽がかかっていて、家族が居て、
お母さんが髪の毛を編んでもらってるような、心和む幸せな家族もいる。
ストリートには、踊る楽しみがあるし、たくさんの愛や希望もある。
人はステレオタイプばかり見せられてしまって、
自分が知らないことに対して恐がっているんだ。
でも、ほんとうは何も怖がることはないんだよ」


ダンサーたちの魅力に引き込まれて、夢中で撮ったんだ

パフォーマーとして登場するサウス・セントラルの若者たちは、
洗練され、カリスマ性もある。
映画から切り取られたワンシーンは、
まるでファッション写真の一枚かと見まがうほど、美しい。
ラシャペル監督らしい独特の色彩感覚と
ポップな映像が本作の魅力のひとつだが・・・。

「でも、アートディレクション、プロダクトデザインは、
まったくしていないんだよ。
ドキュメンタリー映画だから、
そういうことをしなくてよかったので、ホッとしてる。
パフォーマーたちも、僕が選んだんじゃないよ。
彼らの魅力に引きつけられて、夢中で撮っていたんだ」


あの感動的な場面が撮れたのは、ミラクルだった!

夕陽をバックに海岸での感動的なダンスシーンは、
ファッショナブルで、かなり印象的だったけれど、あれも偶然?

「リル・シーが怒りを爆発させるダンスをすることがあるって聞いていたから、
そのときは連絡してくれと頼んでおいたら、
あるとき、突然それを知らせる電話がかかってきたんだ。
慌ててカメラを持って海岸へ飛んでいったら、
彼が夕陽をバックに踊ってたんだ。
あれは本当に、奇跡の瞬間だったよ!」


http://www.rize-movie.jp/
http://www.davidlachapelle.com/

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2006年02月27日

ぞくぞくかぞく プレスリリース

ZZKZZKが本格始動!
Newアルバム3枚連続リリース


*ZZK Member*
加部正義“ルイズルイス加部”(Guiter)
鈴木享明“Michiaki”(Bass)
富岡義弘“Grico”(Drums)
手代木克仁“Tesshi”(Guiter)


動物的に感性で音楽をやっている。
それが好きなんだ。


アヴァンギャルド、ジャズのジャンルで
インプロビゼーション(即興演奏)を得意とするバンドはあるが、
ロックカテゴリーでは、
ZOKUZOKUKAZOKU(以下ZZK)をおいて他はあまり思い浮かばない。

ブルースロックを基盤に、ハードに疾走し、
時にはプログレッシヴロックに近づいたりもしながら、
フリーキーかつスリリングなサウンド。
フォーマットの決まらない面白さを追求するバンド。
それがZZKである。

メンバーは、
ゴールデン・カップス〜Johnny Louis & Char〜PINK CLOUDといった
名だたるグループに参加し、
日本のミュージックシーンに数々の伝説を残した
ルイズルイス加部こと、加部正義。
彼同様、日本のロックシーンに多大な影響を与えたTENSAW のベーシストで、
現在もプロデュサー、セッションミュージシャンとして第一線で活躍している、
鈴木“michiaki”享明。
同じくTENSAWのドラマーで、
その後、忌野清志郎リトルスクリーミングレビューに参加した富岡“Grico”義広。
そして、ギタリストであり、マルチプレイヤーでもある、
手代木“Tesshi”克仁(ex.東京少年)の4人。

彼らは、横浜を拠点に10年間もコンスタントに、ライヴ活動を続けてきている。
今回、インタヴューをするため、
ZZKが根城にしている横浜・関内、横浜スタジアムの近くにある
LiveBar Stormy Mondayへと向かった。

すると、入り口付近で、
加部が野良猫をあやそうと手招きしているのを見かけた。
「ネコ、好きなんですか?」と声をかけてみる。

加部:
ネコもウサギも生き物はみんな好きだよ。人間以外はね(笑)。
俺達は考えて音楽をやっているんじゃない。
動物的に感性で音楽をやっている。それが好きなんだ。


こちらが、音楽性について尋ねる前に、
その全ての問いに答えるかのような一言だった。

50人も入れば、いっぱいになる会場。
メンバーは、それぞれ気ままに音を鳴らし、リハーサルをしている。
Michiakiに、ZZK の結成のいきさつについて尋ねてみる。

Michiaki:
マーちゃん(加部)とは、昔から、同じ横浜で仲が良ったし、
Johnny Louis & CharとTENSAWは、当時、一緒の事務所だった。
マ−ちゃんの2枚のソロアルバムに参加もしてた。
その後、TENSAWとJohnny Louis & Charが解散して、
90年代初め、
マーちゃんと俺、大口広司、篠原信彦(フラワー・トラベリング・バンド)で、
山口冨士夫のツアーにも、参加したりしてて。
それで、マーちゃんのソロアルバム『eyeless sight』を僕とGricoで手伝ったり、
僕のソロユニット「MERCY KILLING」を、マーちゃんとGricoの3人でやったりして、
その発展形がZZKってわけ。
1995年にGricoが、NYで知り合ったTesshiが加入して、
それまでセッション的だったメンバーが固定されて、
今年で、結成10年。
バンドになったきっかけは、
マーちゃんの娘(マーサ)が”ぞくぞくかぞく”って名前を付けてくれたからかな。

ライヴのときは、インプロ中心で、決めてるのはキーだけ。
あとは、その日のコンディションとか、その場のエネルギーとかで、できてくる。
一旦、演奏が始まると、それが何処に向かってるのか?
ってことは、誰にも判らない。
だから面白い。
4人で方向が定まった時の疾走感、ドライヴ感、偶然ぴったり合ったりするのが最高だよ。

1stアルバムに関しては、
何もアイデアを持って行かないで、そのままスタジオに入って作った。
かなり無謀でもあり、また、斬新なレコーディングだった。
だから凄く楽しかったよ。

2ndアルバムは、レコーディング前に作った曲と、その場で作った曲。
まぁ、マーちゃんが来ないこととかがあるから、
自然に対応出来る様にはなっている。


今回、ライブアルバム2枚と、スタジオ盤1枚をリリースする。
ライヴ盤は、今年1月、渋谷DUOで行われた
‘anoyo’主催のトランスパーティー"P.O.D."でのライヴを収録した『Live@Shibuya』と、
去年11月から今年1月まで、7、8ケ所で行なったライヴのベストテイクを集めた『Flesh meeting』。
そして、スタジオ盤は、これが3枚目となる『TangerineSun』。

Michiaki:
当初、ライヴ盤1枚とスタジオ盤1枚の2枚組をリリースする予定だったのが、
渋谷のライヴが全テイク良かったから、
そのままの形でリリースすることになった。
ライヴ盤2枚で、今までのZZKのインプロの魅力的な部分を出せられたと思う。
スタジオ盤は、珍しくプリプロをして、
書き下ろしの新曲を揃えた、とても完成度の高い作品。
たぶん、メンバーみんなも納得出来てるはず。
変に作り込むと、このバンドは面白くなくなっちゃうから、
前向きないい加減さっていうか、その時の出て来た音を大切にしてきた。
ライヴでリフやコードを試したり、偶然の産物から印象に残る物をピックアップして、
それで徐々に固まってきたものをスタジオに持ち込んだりもしてきた。
でも、せっかく考えたアイデアを、
実際のライヴではやらなかったりすることの方が、多かった(笑)。


閉鎖的ではない開かれた音楽の場

Michiaki:
ミュージシャンとしては、自分のオリジナリティを出したアレンジをやりたいけど、
譜面通り弾かなきゃいけないとか、形のあるものに合わせなきゃいけない場合が多い。
決め事のある音楽の仕事をしている時って、ストレスがある。
でも、それを解放してくれるのがZZK。
やらなきゃいけないことがないから、ストレスもない。
長いこと一緒にやってきた産物だよね。
あ・うんの呼吸というか。
気心知れていない人とのセッションもスリリングなんだろうけど、
ZZKは、何も言葉交わさなくても音と会話できるようなメンバー。
それは、時間を掛けて出来たんだろう。

Grico:
マーちゃんがバンドの中で自由に泳げるように、
と入れたギタリストがTesshiだった。
アレンジメントをちゃんと持っていて、
マーちゃんが弾く時の引きだとか、やんない時の出が良かったんだ。
キープする訳じゃないけど、僕は全員の繋がりを出すクセはある。
こんなに自由に出来るバンドは、他にはない。
さて、どうでしょう?っていう、その緊張感が大好き。

 
緊張感という意味では、本番前のリハで、既にその感触を体感した。
それぞれが気ままに音出しをしているかと思ったら、
言葉や目線で合図することもなく、
二度と捕まえることの出来ない演奏が、ひとしきり始まる。
そして、音の波が引くように演奏が消え入る。
ライヴでも同様のことを自然にプレイするだけなのだ。
その目に見えない感覚を再現するものとして、
ZZKの音楽には‘サイケデリック感’という言葉がよくハマるのだが・・・。

Michiaki:
サイケデリック感?
アシッド感覚や曼陀羅模様。
トリップ感に浮遊感。
言葉で表現するのは難しいよね。

Grico:
音の絵を見るようなつもりで見ると、楽しめると思う。

Tesshi:
メンバーそれぞれの人格がサイケデリックなんじゃない?(笑)
 

Michiaki:
今はインターネットが普及して情報の差があまりないけど、
昔、横浜には、新しいものが真っ先に入ってきていた。
ガキの頃の横浜という街は良かったよね。
港には外国船が停泊し、米軍基地があり、中華街、インターナショナルスクール・・・。
その一方で、妖しげな外人バーがあったりもした、コスモポリタンな街。
僕達は、横浜の光も影も体感しているからこういう音になっているのかも。

カップスの映画”One More Times ”に始まって、
CHIBOちゃん(THE MOJOS)なんかも活発に動き出していて、
剣ちゃん(クレイジーケンバンド・横山剣)も
ルーツの横浜を大事にしながら活動してる。
ミッキー吉野も、最高にいい!
それから、TENSAWも再結成するんだよ。
また横浜に、新しいシーンが出来てきて、活気が出てきたと思うよ。


東京と実際の距離感はあまりない街で、
周囲に迎合することなく時間が流れてきた街、横浜。
その横浜で、脈々と培われてきたシーンの中でZZKは活動してきた。
敢えて声高に言うまでもなく、
ZZKは横浜ロックの流れを汲む集団なのである。
これからもZZKはそのスタイルを変えることはないだろう。


加部:
決まりのないことをやるのって、結構、難しい。
ワンコードで展開させるのは辛いとこもあるんだ(笑)


ふと、短くZZKの全体論を語る加部。
好きなようにプレイしているように見えて、
実は4人の中ではバンド全体を客観的に眺め、
一番思慮深く演奏している。
そして何よりも、ロックシーンでは歴戦の猛者が集まってきた集団であるZZKが、
加部にとって一番落ち着く場所なのだという。

加部:
気の結合、場の雰囲気が生むバイブレーション。
ZZKって誰が入ってもいいようになっているんだよ。
Gricoがお母さん、michiakiがお父さん、Tesshiが次男、オレが長男(笑)。
これが、いちばん落ち着く、いいメンバー。

もし聞いている音楽、ロックがつまらなくなっているなと思ったら
横浜に降り立ってZZKを聞きにいけばいい。
閉鎖的ではない開かれた音楽の場がそこにはあるから。
知らぬ間にわさわさと集まってくる感じ。
聞く人も‘ゾクゾクカゾク’になりえるのだから。


インタビュー・文:東雄一郎
構成:JUJU

http://www.zzk.me.uk/

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2005年12月22日

<鈴木いづみセカンド・コレクション>より

a37f1ce2.jpgいや、べつに
処女崇拝的な部分は、わたしにはない。
それどころか正反対で、
いつも過剰にワルぶってばかりいた。
悪女にあこがれ、
おとなぶりたかったわたしは、
積極的にアバズレを演じた。
そして、ほとんどの男性は、
それにだまされた。

『あたし、男なんて、いっぱい知ってるわよ。
あんた寝たいの?あっ、そう。
じゃあ、あそんであげてもいいわ』
という態度は、たしかに悪評判をまねく。

だが、カマトトが保身術であるとともに、
ワルぶるのも身をまもるひとつの手段なのだ。
男にとって、うぶな女をだますのはおもしろいかもしれないが、
アバズレにたいしてはそんな気をおこさいないのがふつうだから。
あそびの対象でしかない、ゆきずりでしかない、
と相手におもわせることによって、
わたしは----それこそ精神の領域において----自分を閉ざしていた。

---------------------赤い部屋
 

子どものころから愛情に飢えていて、
18歳になったときには
飢えすぎたあまりの無感動におちこんでいた。
そんなとき、
マイ・ロンリー・ファースト・ラヴを経験したのだ。
初恋の男によってすくわれた、とおもった。
だが、すぐに突きおとされた。
だれがわるいわけでもない。

他人には、
「シーンとした雰囲気がある、おとなしい娘」
というように、みられていたふしがある。

一方では、はしゃぎまくって、
意識的な狂躁状態をつくりだしてもいた。
総合的な評価は「わけのわからんバカ女」であった。

---------------------ダウン・ビート

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2005年11月21日

<鈴木いづみコレクション>より

izumi「ねえ、愛って、なんなの?」
「これのことだろ?」
彼は手をのばして、わたしの脚のつけねをおさえた。
---------------------ハートに火をつけて!だれが消す



狂騒状態で毎日をすごし、
痛みを感じるひまもなく不意に死ぬのが、
わたしの理想だ。
いつも走りつづけていたら、
突然ゆっくりと歩くことなんてできない。
---------------------ああッ!



いまだに18歳の、あの気分でいる。
100歳になったって、
18でいられる。
---------------------いづみの残酷メルヘン



他人が所有しているある観念を、まるごと吸収するのはむずかしい。
それが形成されるまでの雑多な道すじを、
もういちど疑似体験しなければならない。
そんなふうにおもいはじめるといつかみた青い空ではないが、
彼がながめた空の色とか
その恋人がいつもつかっているシャンプーのにおいまでが、
大切なことになってくる。
それはつまり、ある人間が生きた十何年なり二十何年なりを、
1週間とか10日とかで走りぬけようとすることだ。
わたしは親しい他人から「やさしい」といわれることがある。
やさしいのではなく、他人の身になっているのが好きなのだ。
それは同化したいというはげしい欲求と
自分が経験しなかった人生にたいする嫉妬でしかない。
---------------------乾いたヴァイオレンスの街



出あいがしらに夢中になるのは、いつでもわたしのほうだ。
彼らは、一様にとまどう。
本気なのか、からかわれてるんじゃないか、と。
そのうち、わたしの熱気に感染する。
そうか、じゃあ、じっくりつきあおう、という気になる。
ちょうどその時期に、なぜか、あたらしい男の子があらわれる。
そこでわたしは、つまり(あんまりいいたくないんだけど)
気楽に裏切る。
ほとんどの相手と、スピードがちがう。
決して、かるい気持ちではない。
濃縮された強烈な想いを、相手にそそぐ。
ひとには、情熱的にみえるだろう。
自分でもそうだと思う。
しかし、わたしの恋には、どこかわざとらしさがある。
たしかにパッショネイトではある。
そして、パッションというのは、自然発生的なもののはずだから、
簡単にさめてしまう。
「好き」から「きらい」への距離がみじかい。
ときには、自分が芝居してたんじゃないか、と思えるほどに。
演技と本気の区別なんか、(それがはげしくまざりあえば)つきっこないけれど。
この疾走を、くいとめたい。
でないと、だれにも愛してもらえない。
---------------------ハートに火をつけて!だれが消す



速度が問題なのだ。
人間の絶対量は、はじめから決まっているという気がする。
細く長くか太く短くか、
いずれにしても使いきってしまえば死ぬよりほかにない。
どのくらいのはやさで生きるか?
---------------------いつだってティータイム

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2005年11月19日

*哀悼*ブルースギタリスト・碇健太郎 II

ikariブルースギタリスト、碇健太郎(いかり・けんたろう)。
彼は、10代後半から20代にかけての私が、最も身近に音楽の影響を受けた人だ。

碇の経歴を紐解くと、80年代末期のバンドブームに遡る。神戸出身のビート・パンク系トリオバンド<マッド・ギャング>のギター・ボーカルとしてメジャーデビューするが、わずか2ヵ月後に脱退。この突然の脱退劇は、周囲にとっては衝撃的なものだったが、碇本人にとっては悩みぬいたうえでの、決意だった。

これには、以下のような経緯がある。もともとマッド・ギャングには別のパンク系のギタリストがいたのだが辞めたため、どういうわけかブルース・ギタリストであった碇が加入。碇が作曲したブルースをパンク風にアレンジして演奏したのがウケて、一気にブレイク。デビューの話がトントン拍子に進行したが、その一方で、碇自身は自分のやりたい音楽との板ばさみにあい、次第に矛盾を感じていった。レコード会社との契約も納得いくものではなかったようで、ジャケット写真の撮影のときに失踪騒ぎを起こしたりもしている。

しかし、脱退直後からは、精力的に活動を始めている。わずか2ヵ月後に、アコースティック・ライヴを敢行。解散以前から、新バンドのために作り溜めていたという15曲と、パンクにアレンジされる前の碇がつくったブルースの曲を、次々と披露していった。このとき急ごしらえしたアコースティックの<碇健太郎グループ>が、その後、ドラマーやベーシストの加入、エレキへの持ち替え、何度かのメンバーチェンジを経て、ブルースロックバンド<SouthSideShuffle>結成へと繋がってゆく。


私が、碇氏のライヴを初めて観たのは、この、解散直後の初めてのアコースティックライヴである。当時、解散のいきさつも何も私は知る由もなかったが、「ブルースってこんなもんだい。へへん!まいったか」と言わんばかりに、いきいきと全身全霊で歌っていたのが、印象に残っている。
毎回、観に行くうちに、私はどんどんブルースの魅力にとりつかれていった。MCで語るブルースマンの名前を覚えて帰ってはルーツを辿り、ジョニー・ウインターやスティヴィー・レイ・ヴォーンを知った。対バンで、ティアドロップスの山口冨士夫(*1)を知り、村八分を聴くようになっていった。
当時私は、16歳だったが、足繁く通っているうちに、打ち上げにも連れて行ってもらえるようにもなった。ブルースについて質問すればいろいろ教えてくれ、私は兄のように慕っていた。

酒も女もクセの悪さは、人一倍。その無茶苦茶加減に正直、嫌気がさすこともあり、実際、何度かブランクもあった。でも、憎めないのだ。人情味溢れる親分肌の人でもあり、気配りの人だった。<SouthSideShuffle>で上京していた碇氏にも、何度か会いに行った。近年は、地元神戸へ戻り、新バンド<美-miju-樹>を結成して、亡くなる直前まで精力的に活動していた。


葬儀の時、メジャーバンドから大きな献花が届いていた。ZIGGY、ウルフルズ、JUN(S)WALKERS・・・
インディーズバンドとの交流が多く、慕われていたことは知っていたが、メジャーなバンドとも親しくしていたことは、私にとって初耳で、少々驚きでもあった。

追悼ライヴは、神戸、大阪、東京で行なわれた。ZIGGY、プロペラ、ダイアモンド★ユカイなどメジャーをはじめとする、生前に親しかったミュージシャンが多数参加。彼らによって碇氏の遺した曲が演奏され、その楽曲の素晴らしさを再確認するとともに、多くのミュージシャンやファンから愛されていたことを、改めて知る宴となった。

竜之介テレビをつけると、小さなブルースギタリストが、<碇健太郎>と書かれた手ぬぐいを頭に巻いて、碇氏の名曲のひとつである<HEY BROTHER>を演奏していた。最近、テレビで話題の、浪速のギター少年「竜之介くん」だ。彼もまた、碇氏には大いに影響をうけた、ひとりらしい。
口達者で、唾を飛ばしながら歌うところなんて、そっくりである。私は、思わず涙ぐんでしまった。

碇健太郎の、骨太なブルースロックが、こうやって脈々と受け継がれていくといいのに、と思う。

碇健太郎 2004年8月5日 肺癌により永眠 享年41歳
合掌。


*1
碇氏が特別に尊敬していたミュージシャンが、山口冨士夫だったが、その冨士夫にも碇氏は評価されていたらしく、88年のインタビューで、「意識しているバンドはいますか?」という問いに、冨士夫は「あんまり名前出したくないけど、神戸のMAD GANGってのはいいですよ」と答えている。90年代中ごろ、冨士夫に呼ばれて、スタジオでセッションしたという話も、本人から聞いたことがある。

<美-miju-樹>のサイト(碇健太郎が遺した音源が試聴できる)
http://www.sound.jp/mi-ju/


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2005年11月11日

映画<あの頃ペニー・レインと>より II

109c3ac1.jpgAlmost famous
あの頃ペニー・レインと



You know,
because once you go to L.A.,
you're gonna have friends like crazy.
But they're gonna be fake friends.
They're gonna try to corrupt you.
You got an honest face,
and they're gonna tell you everything.
But you cannot make friends with the rock stars.

友達は増えるがニセ者ばかり
君を堕落させる
彼らが何でも打ち明けても
ロックスターとは親友になれない


If you're gonna be a true jounalist,
you know, a rock journalist.
First, you never get paid much.

ロック評論家になってもギャラは安いぞ


Oh man, you made friends with 'em.
See, friendship is the booze they feed you...
'cause they want you to get drunk
and feel like you belong.

マズイな 接近しすぎた
友情はアルコールと同じだ
酔えば仲間意識に溺れる
ホダされたな


you know, guilt and longing...and,
you know love disguised as sex...
and sex disguised as love.
Hey, let's face it.
You, got a big head start.

偉大な芸術は
罪悪感や憧れから生まれ
セックスや愛がからみ合ってる
立ち向かえ 今こそスタートの時だ

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2005年11月10日

映画<あの頃ペニー・レインと>より I

808b3063.jpgAlmost famous
あの頃ペニー・レインと



We are not groupies.
Groupies sleep with rock stars
cause they wanna be near someone famous.
We're here because of the music.
We are Band Aids.
We don't have intercourse with them.
We inspire the music.
We're here because of the music.

私達 追っかけ(グルーピー)じゃないわ
グルーピーはロックスターと寝るだけ
私達は音楽を愛してバンドを助けるの
支援グループ
彼らとは寝ないわ
音楽の霊感を与えるの
音楽が全て

She was the one who changed everything.
She was the one who said
"No more sex,
No more exploiting our bodies and our hearts".

ペニーは改革者よ
“ノー・モア・セックス”
“心と体を利用するな”

I always tell the girls never take it seriously.
If you never take it seriously you never get hurt.
If you never get hurt, you always have fun.
And if you ever get lonely...
you just go to the record store...
and visit your friends.

バンドとは本気でつき合わないわ
こっちが傷ついて楽しめないから
寂しいときはレコード屋に行ってヒマつぶしするの

You know,
to truly love some silly little piece of music,
or some band... so
much that it hurts.

心の底からバカげた音楽やバンドを愛するって事は、
自分もズタズタに傷つくって事よ


2000年/コロンビア・ピクチャーズ、ドリームワークス・ピクチャーズ提供
ソニー・ピクチャーズ エンタテインメント配給
原題:ALMOST FAMOUS/上映時間2時間3分/字幕翻訳:古田由紀子
Director/Writer/Producer : CAMERON CROWE

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2005年10月21日

TENSAW再結成ライヴ プレスリリース

横浜を代表する伝説的不良バンドTENSAW
一夜限りの再結成!


tensawjacket火を噴くアンプ、
床に叩きつけられバラバラに散乱するギター、
天井に突き刺さるベース、
蹴散らされたドラムセット・・・。

1980年代初め、破壊的なライヴを繰り広げ、
当時のロックシーンで
No.1ライヴバンドの名を欲しいままにしていたTENSAW。
彼らのデビューと時を同じくして、その歴史をスタートさせた
チキンジョージのファイナルを飾るため、
彼らは長い沈黙をついに破る!


横須賀ROCK CITY、
米兵たちがひしめきあう満員の店内、
宙に投げたベースが天井に突き刺さり、
大阪バーボンハウスでは、
SUNNのベースアンプから火が噴き、キャビネットが炎上!

アグレッシヴなライヴのエンディングに楽器を破壊し、
ステージを去っていく4人。
横浜で結成されたTENSAWは、
その圧倒的なパフォーマンスが注目され、
当時、新人アーティストとしては破格の強力なマネージメントを得て、
80年にレコードデビューした。

デビューを飾る<晴海オールナイトロックフェスティバル>では、
HIWATTのギターアンプとSUNNのベースアンプという、
70年代のTHE WHOと同様のステージセットを蹴倒し、
ギターを叩き割るパフォーマンスによって、
音楽ファンのあいだにTENSAWの名を強烈に印象づけることになった。

しかし、見逃せないのは、
高い演奏技術と
THE WHOに代表されるブリティッシュ・ロックのエッセンスを、
自分たちのスタイルに見事に取り込んだ楽曲の完成度。

プリンセスプリンセスの富田京子は、TENSAWを
「スケベくさい、麻薬のような魅力がある」
と評したが、事実、ファンキーでプログレッシブな隙間のないサウンドに、
「Dobuita st.」に代表されるような横浜独特の香りを持つ歌詞をのせたり、
疾走感のあるシャープなプレイに
痛烈な社会批判をテーマにした歌詞を融合させた楽曲は、
4人の強烈な個性が織り成すTENSAW独自のもので、
音楽シーンを熱狂させた。

いまは亡き俳優の松田優作が、
TENSAWの曲を自らのドラマのテーマ曲に起用したり、
X-japanの故hideや
プリンセスプリンセスの中山加奈子がレスペクトするバンドに
TENSAWを挙げるなど、
TENSAWは当時を知るミュージシャンたちに多大な影響を与えた。

技術面での探究心も旺盛で、
次々と新しいものを吸収し、
自らのサウンドを構築していった。
ヴォコーダーやMoogペダルベースといった斬新な楽器をいち早く導入。
オーケストラとレコーディングするなど、
当時まだ珍しいことにも挑戦した。
いまでは当たり前となっているチューニング「ドロップD」も、
これを最初に用いたのがTENSAWだったことも、
彼らがいかに先駆的だったかということを物語っていると言える。

数少ない本物のロックを体現するバンドとして
高い評価を得ていたものの、
82年に解散。
数々の過激なステージは、伝説として語られていくことになる。
88年と91〜92年、一時的に再結成するものの、再び活動停止。
その後は再結成を頑なに拒み、
メンバーはそれぞれのバンド結成や一流アーティストとの共演など、
常にシーンの最前線で精力的に活躍し続けてきた。

今年は、デビューから25年目、平均年齢50歳という節目を迎え、
再結成を熱望する周囲からの声は、特に高まっていた。
長いキャリアを積んでなお、
ロックに対峙する姿勢がますます熱く鋭い彼らは、
昨今の混沌とした音楽シーンや
形骸化したロックに対してのアンチテーゼを強く感じ、
ついに立ち上がることを決心した。

12月16日、
神戸チキンジョージの長い歴史の最後を飾るために、
4人は一夜限りのステージに立つ。
きっと期待を裏切らない、
緊張感みなぎる刺激的なステージになるに違いない。



<TENSAWプロフィール>

1977年、SAYBOW(Vo.)とmichiaki(Ba.)を中心に、
横浜でTENSAW結成。
その後、Take(G.)とGrico(Dr.)が加わり、
80年、キャニオンレコードからデビュー。

音楽業界からの注目度は高く、
JohnnyLouis & Char所属のSpace Outと、Beingがタッグを組んだ
強力なマネージメントがつき、
ビッグフェス<晴海オールナイトロックフェスティバル>では、
新人ながらもJohnny Louis & CharとRCサクセションのあいだの
一番いい時間帯に出演。

音楽的志向の異なる4人において唯一求心的な存在だった、
イギリスのバンドTHE WHOの“The Kids Are Allright”の映像に触発されたステージ破壊など、
過激なライヴパフォーマンスにより、
衝撃的にシーンに登場した。
短期間に猛スピードで駆け抜けた結果、
次第に4人の歯車がかみ合わなくなり、
アルバム『TENSAW』と『DELICATE MOTION』を残して
82年、解散。

88年には、東京汐留PITにてJohnny Louis & Charと共演で、
一夜限りの再結成ライヴを行ない、
そのライヴビデオ『UNDERGROWN』を発表。

91年からは、再びライヴ活動を開始し、
3rdアルバム『IT’S OK!』をリリース。

92年を最後に、再び活動停止した。

gogoacb1969 at 13:39|PermalinkComments(2)TrackBack(1)この記事をクリップ!お仕事 

2005年10月06日

再結成ウォッカ・コリンズ前史

bc7af019.jpg<ウォッカ・コリンズ>
アラン・メリル(guitar & vocal)
大口広司(drums)
加部正義(bass)
ムッシュかまやつ(guitar)

ウォッカ・コリンズはもともと、1972年に、大口とアランの2人で結成されたグラムロックグループだ。
96年になって、かまやつと加部を加えて再結成され、3枚のアルバムが出たのだが、そのベスト編集盤が、この2004年発売の、"boys in the band"。

アランは、ジャズ・シンガーの大御所ヘレン・メリルの息子で(ちなみに、ローラ・ニーロはいとこ)、60年代はニューヨークのガレージバンドで活動していたが、68年に来日。ブーム真っただなかだったGSを経て、大口(ex.テンプターズ)と、ウォッカ・コリンズを結成するに至る。そこへ、かまやつ(ex.スパイダース)や横内タケ(のちにTENSAW)も加わっていく。
活動時期が短かったために、語られる機会はあまりないが、当時は、ヴィジュアルも音も最先鋭なバンドだったようだ。

実は、このアルバムのタイトル"boys in the band"というのは、再結成の前に、加部+大口+篠原信彦+鈴木享明で活動していたバンドの名前である。大口が、チャーリー・ワッツがジャズバンドをやっていることに影響を受けて、加部や鈴木とともに西麻布のバーで即興のセッションをはじめたのが、再結成バンドの、そもそものはじまりだったらしい。そこへ、時々、アランやかまやつがやってきては演奏していた。感性だけが頼りの、クールな即興演奏であったという。真行寺君枝が歌ったり、saxが加わることもあった。

ロックの名曲、『I Love Rock'n'roll』はアランの曲だし、『Automatic Pilot』は大口の曲。そんな、ロックの名曲を生み出したミュージシャンたちによる、名曲ぞろいのベスト編集盤なのだから、聴きごたえがあるのも、なるほど納得がいく。

話は少し逸れるが、加部+大口+篠原+鈴木というメンツをみて、ピンと来る人はいるだろうか?・・・そう。92年の、山口冨士夫『アトモスフィア・ライヴ』のメンバーも、実はこの"boys in the band"なのだった。


<ウォッカ・コリンズ>
http://60spunk.m78.com/vodkacollins.html


gogoacb1969 at 16:49|PermalinkComments(2)TrackBack(0)この記事をクリップ!その他コラム 

2005年09月16日

ぞくぞくかぞく ライヴ @ 大阪

ZZK1ぞくぞくかぞくのライヴは、大阪の堺市、三国ヶ丘駅前の小さな繁華街を抜けたところにある、FUZZというライブハウスで行なわれた。

建物から、半地下へ階段を下りると入り口があり、中は市松模様のリノリウムのフロアだ。前方は、テーブル席が6つ。ステージへ向かって右手の壁面沿いには、立ち見用の取り付けテーブル。後方には、背の高いテーブルと、バー・カウンターがある。少しずつ客は増えて、50人くらいに。

今年、映画『ゴールデンカップス・ワンモアタイム』を観て、加部の現在のバンドを観てみたいと思い、私はその日、足を運んだ。
加部をモデルにした美しい人物が登場する小説『本牧ドール』を読んで、本人に興味を持ったというのもある。

SEのヴォリュームが下がると同時に、セッティング中にステージを隠していた黒い幕が開いた。
ぞくぞくかぞく with ミッキー吉野 登場。

まず、私の目に飛び込んできたのは、半ズボン姿の加部の、靴を脱いだ細長い素足と、キーボードの前に座ったミッキー吉野の大きいお腹。加部とミチアキの180cmを超える2人の長身と、小柄なテッシーの頭に乗ったショッキング・ピンクのウィッグが、ステージに映える。グリコは、ドラムセットの向こうで、よく確認できず。

ぞくぞくかぞく 初めての音に、私は少々戸惑う。
歌がない ---。
しかし、聴いているうちに、そのすごいグルーヴ感にたまらなくなって、後方でじっとじていられずに、スピーカー前へ移動。あとは、もう目を閉じて、音の洪水に、ただ身を任せていた。
JAMというのだろうか、インストというのだろうか。爆音 重低音の嵐。大人の音楽だ。イントロ様のフレーズが延々と続き、拍子もどんどん変わっていく。

ZZK2加部は、ときどきイスに座って弾いていて、下を向いていることが多い。

途中、一旦、休憩。

テッシーが、やって来たので質問してみる。

「歌はないんですか?」
「これから歌うと思うよ」
「加部さんは、イスに座って演奏するんですか?」
「重い楽器持って、大変だからね」

そして、二部開始。

何曲目かで、ミチアキが緑色のラメのベースと、加部のギターを交換。
まさか、加部のベース・プレイが聴けるとは思っていなかった。私の大好きな1曲である、ゴールデン・カップスの HEY JOE を髣髴させる、リードベースだった。と、同時に、ミチアキのギターもなかなかいい。後で知ったが、ミチアキはギタリストとしても活躍してた人らしい。ミッキー吉野は、日本人離れしたオーラを纏い、ズバ抜けたセンスで、ゲストなのに、ぞくぞくかぞくを引っ張っていた。

ZZK3初めて聴いたばかりの私には、詳しいことはわからないままにも、すごいバンドに出会った、という確かな直感は、そのときからあった。
強烈な出会い、というのは、いつだって不意打ちでくるもの。


その後、私は帰るべき予定を変更して、打ち上げにも参加した。
午前3時すぎごろだったか、人影もまばらになり、店に次第にまったりとした雰囲気が漂い始めたとき、スピーカーから聴こえてきたのは、私の大好きな曲である「朝日のあたる家」だった。
しかし、これまでに聴いたことのないアレンジ。
重低音でシブい。シブすぎる。頭が、ビリビリ痺れてきた。
そして、たまらず、聞いた。
 
「これ誰が演奏してるのん?」
「ぞくぞくかぞく だよ」

やっぱ、すごいや、このバンド!

gogoacb1969 at 04:33|PermalinkComments(1)TrackBack(0)この記事をクリップ!ライヴレポ 

2005年09月12日

ニコ

1d9227a5.jpg『ニコ・イコン』
監督: アウレリオ・グリマルディ


ベルベット・アンダーグラウンド&ニコのニコ。
彼女は、ドイツ人のモデルで、アラン・ドロンの子どもを産み、ジム・モリソンやルー・リードなどと浮名を流した、ボヘミアンで筋金入りのジャンキーであった。
この作品は、そんな生き様について美化されることもなく、ありのままを捉えられた、ドキュメンタリー・フィルムである。

アラン・ドロンとのあいだに生まれた自分の息子に、ろくにご飯も食べさせずに連れまわして放浪していたため、みかねたドロンの母親が、その子を引き取って育てたのだが、ニコは、息子を取られたことで落ち込み、さらにドラッグにのめりこむ・・・。
そして、今度は、青年になった息子に、ニコはドラッグを教え、ジャンキーにしてしまうのだ。ドラッグにより、息子は一度、死にかけてしまうほどであった。ニコはようやく、自分もドラッグと手を切ろうとするのだが・・・。

そんな人間であっても、息子にとって母親は、最愛の人らしい。育ててもらった養母への憎しみをぶちまけ、ニコに対する愛を懸命に語っていたのが、印象的であった。

gogoacb1969 at 02:37|PermalinkComments(4)TrackBack(0)この記事をクリップ!本・映画 

2005年08月31日

フランスのロッカー!ジャン・ルイ・オベール

5db9a88f.jpg「フランスのロックバンドを教えて!」
とパリのレコード店でたずねたら、店員に勧められたのが、この、JEAN-LOUIS AUBERT(ジャン・ルイ・オベール)。

そのCDは、一見、CDサイズの豪華ハードカバー写真集に見える。表紙はマットなモノクロ写真で、名前の文字が金箔型押し。中面は、ところどころ薄紙を挟みこんであり、凝った製本。2枚組のCDなのだが、表紙の次と裏表紙のひとつ手前のページが、CDを挟み込むポケットになってあり、そこにCDが入っている。私がいままで手にしたCDのなかで、ここまで豪華で、洗練されたデザインのものは見たことがない。さすが、美術本の製本では歴史あるフランスだ。

歌詞が理解できないのが残念だが、確かにロックだ。英語とは違った響きがおもしろい。入手したのは、96年の春のことだが、いまだに、ときどき思い出しては、引っ張り出してきて聴く、お気に入りの1枚である。

ネットで<ジャン・ルイ・オベール>について調べてみたところ、70年代後半〜80年代にかけてTelephoneというバンドのギターボーカルで活躍していた人だということがわかった。

Telephoneのサイトでは、ムービーも試聴可能。


JEAN-LOUIS AUBERT
http://members.at.infoseek.co.jp/jjgoldman/aubert3.htm


Telephone
http://www.telephonelegroupe.com/

Videography→Telesをクリックするとライヴ映像が3本あり、1分間だけ試聴可能です。
clipは、MTV仕立てのビデオクリップが見られます。


gogoacb1969 at 00:18|PermalinkComments(0)TrackBack(0)この記事をクリップ!その他コラム