2006年08月04日

GS登竜門 音楽喫茶「ナンバ一番」

4d693340.jpg1960年代のこと。
大阪の道頓堀の橋のたもとに、
「ナンバ一番」という6階建てのレジャービルがあり、
その館の5階にあった音楽喫茶のステージでは、
シャンソン、ウエスタン、ロカビリーの時代から、
夜毎ライヴが行なわれていて、大阪の音楽の発信基地でした。

66年ごろから、いち早くロックの輸入盤を手に入れたバンドが
そのカヴァー曲の演奏をはじめます。
本格的にGSブームの到来となり、
大阪では「ナンバ一番」がその一大メッカ、
プロデビューへの登竜門となるのです。

ブームの終焉を迎える69年までにデビューしたGSバンドは、全国で300とも400とも言われていますが、
「ナンバ一番」から出たバンドとしては、
失神バンドとして有名な<オックス>と、沢田研二の<ザ・タイガース>が代表格です。

当時、ライヴの入場料は300円で、
お客さんは2階でチケットを買って、時間になると5階ホールに集まりました。

一方、大阪の専属バンドの楽屋は4階、
東京から呼んだゲストのための楽屋は6階にあって、
ステージの時間になると、バンドは、それぞれの部屋から5階へ移動しました。
正確なキャパ数はわかりませんが、座席が150ほどあり、周囲は立見だったようです。

PAもなく、チューナーもなく、ボーカルアンプもひとつしかなかったような時代。
当時のバンドは、そんなお粗末な機材で、ライヴをよくやっていたものだと感心します。

ステージの高さは、約1m。
ライヴが佳境にはいると、紙テープが投げられ、
ステージから飛び降りるメンバーに、客席から駆け上がるファン。
そして、失神者続出!!
天井が低かったため、オックスの前座をしていた和田アキ子などは、
頭がつかえたという伝説も残っています。
一日何度もステージがあり、汗だくになった衣裳を、
休憩時間に脱いで、楽屋の非常階段の手すりにかけて乾かしたらしいです。


この「ナンバ一番」のオーナーは、中国人の実業家でした。
最初に、このビルはパチンコ店としてオープンし、
50年代半ばに、喫茶美術館となったのち、
60年代初めに音楽喫茶(いまのライヴハウス)へと業種替えします。

オックスやタイガースを東京へ送り出し、GSブームも全盛期を迎えるのですが、
バンドの出演料も高騰。
皮肉なことに、採算面から「ナンバ一番」は、幕を閉じてしまいました。


写真が、当時のビルの外観。
アーチ窓の連なる、戦前の美しいネオ・ルネサンス様式で、ビルの角は丸みを帯びており、総タイル張り。

道頓堀の、現在は新しいTSUTAYAになっている角地に、
このビルは2000年ごろまで廃墟となって存在していました。
私が小学生の頃は、1階にブティック、2階に雑貨屋があり、
おそらくその頃にはすでに、上階は封鎖されていたと思います。
子どもごころにも、繁華街の真ん中にそびえ立つ洋館が、
朽ちるに任せられている様子は異様で、印象に残っています。
母もむかし、ここでタイガースを見たことがあるらしく、
廃墟の前を通るたびにその話を聞かされたことを、思い出しました。

gogoacb1969 at 05:48│ │その他コラム 

この記事へのコメント

1. Posted by meg   2006年08月04日 13:39
あー、こういう写真東京のも見たいな〜
(暗にリクエスト^^)
関西フォークってあったけど
たしかに、GSも関西出多いよね
2. Posted by meg   2006年08月04日 13:41
そういえば、東京でも
ドリンク付きで300円から500円ぐらいだったと思う
お昼代節約して行ったものです
3. Posted by けん   2009年01月20日 14:58
ナンバ一番懐かしいですね。
当時の音楽担当支配人ナシバさん 支配人岡田さん 事務員のチャコおねえちゃん ファーニーズを面倒見られていた川上さん 電気係の竹内さんetc、昭和44年9月にナンバ一番が閉鎖されてからどうされているのか遠い遠い昔の思い出です。ファンキープリンスの水谷さんはDJで活躍されていますが
エレファンツやパロッツや四国からのイエスタデー 有馬竜之介さん等その後どうされているのか。
4. Posted by なおとじゅんのママ   2010年07月03日 20:27
1963年頃、高校生だったケンタロウをご存知ないでしょうか?ナンバ一番でお給料をもらって、ドラムを担当していたそうです。当時の彼の録音が残っていたら、聴きたいです。

でも、彼を覚えている人がいないようでは、仕方ないですね。