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カテゴリ: 父の事

なんか重なるな。

もうすぐ
1/27日は父の命日だ。
69年、生き抜いた。



生き様だよね。


私も生き様を意識するよ。


今日の月も綺麗でした。
ありがとう宇宙。

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今日で1月が終わりますね。
毎年この季節になると、太陽の光に春を感じられるようになります。
(空気はまだまだ冷たいですが)

1月27日は父の5回目の命日でした。

今年も父のお友達から、母の元に大きな花束が届きました。
私も母と半分に分けて我が家のお父さんコーナーに飾りました。

生前父から、お墓についての要望を聞いていなかったので、
父のお墓はありません。

一応お墓を探してみたのですが、家から遠く、なかなかお墓参りに行けない所だったり、周りの景色が悪かったりと、結局父が喜ぶ様なノーブルで素敵な雰囲気のお墓は見つかりませんでした。

よって父のお骨は家族で分けて、各自、自由にする方式となりました。

母は今年も新木場の海に父のお骨を散骨して来たそうです。(何故か海)
去年は横浜の海に、船の上からこっそり散骨したそうですが、逆風にあおられ、自ら白い粉を浴びたそうです。(笑)

母も私も妹も、行く先々、世界各国、海、川、森などに(素敵だと思う所)、父のお骨を散骨しているので、少しずつ父の骨が無くなって来てます。(少しは残しておかないと)

そういえば、父がホスピスに入院する時、
看護婦さんに「ご宗教はおもちですか?」と聞かれ、
父は「自分教です」と応え、看護婦さんが唖然としていました。(笑)

そんな訳で父が亡くなり5年目を迎えますが、母も私達も自分教で(自分なりの哲学の様な物を探求して)しっかり生きております。

何かを判断する時は必ず父が(客観的な目として)私に問いかけます。
父は私達の中で、ずーっと生き続けます。

ありがとうございます。

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父が亡くなりその後チャーッピー(犬)が亡くなり、元気が無かった母をハイジ(犬)が支えてくれてます。

実はハイジの顔は父にそっくり。

母が見つけてきたワンコなのですが、無意識に父に似てる子を選んだんたと思うのです。

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父が亡くなってから毎年、父のお仕事仲間の方から素敵な花束が届きます。

毎年それを母と分けて自宅のお父さんコーナにお花を飾ります。

私達家族はこの時期になると父の末期を思い出し、ちょっぴり気分が不安定にるのですが、(なさけなや〜。笑)
今日はキレイにお花を飾って、少し気を鎮めて穏やかな気持ちで父の事を考えています。



3回の癌と戦い人生を生き抜いた父。

命を延ばすだけで無く、人生(生活)の質にこだわり、病気と闘い共存し、生き抜く精神を教えてくれました。

正直、目をそむけたくなる様な事ばかりでしたが、父に「ちゃんと目を背けずに真実を見なさい、知りなさい」と言われているようで、ずっと父の傍らで長い闘病生活を共にしました。

精神だけでなく、何回もの手術に耐えた身体、癌に犯され痩せていく身体、意識がもうろうとする身体、でもそこに宿る強い魂、意識が無くなった後も呼吸を続ける身体、徐々に呼吸をしなくなる身体、人間の体がどのように変化し、死を迎えるのか、父自身の身体を使って、見せつけてくれました。


父は自身の身体を使って、魂を使って、最後の最後まで私達に色々な事を教えてくれたのだと思っています。

人間とはなにか。

魂とは何か。

生物とは何か。

未だに探求の毎日ですが、最後の最後まで私達に色々な事を教えてくれた父。

ありがとうございます。尊敬しています。
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先日、 母とこんな話をしました。

母は横浜が好きで良く1人でふらっと出かけて行くのですが、
横浜に住んでいる外人さんとすれ違うと、
必ず「こんにちは」と笑顔で挨拶をされるそうです。

私も海外に行った時は、(ヨーロッパ、はもちろん、タイやジャマイカは特に)
すれちがう現地の人が笑顔で挨拶をしてくれましたし、
目が合ったらにっこりと笑顔を返してくれました。

そこで、私も日本に帰ってから笑顔で挨拶を心がけるのですが、
あまり気持ちのよい挨拶が出来ません。

知り合いの方に会った時は自然に挨拶が出来るのですが、
そこら辺で遊んでいる子供や、多分近所の方だろうな?
ってな時はうつむいてしまいます。

なんでだろうね、日本人同士では無理なのかな?(特に都会)
と母と話していたのですが、

いや、まてよ、
すれ違う他人や、見知らぬ子供に挨拶をしてた人が身近にいた!

そう、私の父(つとむ)だ!!(笑)

10年前から3年前くらいの間、私は父と2人で旅行に行く事が何度かあったのですが、
現地の人に会うたびに元気に、自然に挨拶しまくってましたよ〜!!

そうすると、不思議なんですよね、皆、挨拶を返してくれてましたね。

父自身が癌の末期で(亡くなる1ヶ月前位)、モルヒネ飲みながら、杖で歩いてホスピスに通院してる途中でも、
道ですれ違う子供(3歳くらいかな)に挨拶して、その子がお返事をちゃんとしてくれて、父が「良い子だねー」
なんて言って、その子とお話して、ちょっとした交流をしてました。

私は、父がいつ倒れるんじゃないか!苦しみだすんじゃないか!転ぶんじゃないか!死んじゃうんじゃないか!ってヒヤヒヤしてたんですけど。(笑)
正直、それどころじゃ無いって感じだったんですがね。

なんかその時、ちょっと感動しましたよ。
つとむ ってすごいな!!って。(笑)
半端なヤツじゃねーな!!って。(すいません父親にむかって)


という訳で、
「さすが、つとむ!!」っと私が笑いとばしてたら、(しみじみしない様に)
母もニッコリしてました。

私も父みたいに自然に挨拶が出来る様になりたい。



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今日は、父の3回目の命日。

母は散骨の旅に、

父の仕事仲間とお友達は偲ぶ会を(夫も参加)、

私は、お花とどら焼きをお供え。

皆、それぞれの日々を生きてます!!

私もこれから挑戦する気持ちを忘れずにがんばるぞー!!



そろそろ父が亡くなって3年になります。
毎年12月、1月頃になると父の闘病生活の末期を思い出す。

父の存在は毎日私の気持ちの中に生きていて、一日の終わりや、重要な事を決断する時などは、必ず「朗子それで良いのですか?もう少し良く考えてみてはどうですか?きちんと考えをまとめなさい」ってな感じで登場する。

そんな感じで、父が亡くなってからも私の生活には毎日毎日父が登場するのだが、

父の今までの人生、生活の匂いのする物からは目をそむけてしまう。
なぜだろう。
やはり、まだ現実を受け入れる強さが無いからなのか。

父の残した大量の日記、スケッチ、大量の本、父が使っていたカバンなどには手をつけられない。

先日、夫が父から借りた本を見つけた。
せっかくだから読んでみようかと思ったら、生前の生活が垣間みられる色々な物が本に挟まっていた。
レシートや、仕事のメモ、料理店のショップカード。

そしていつもの様に、本には黄色のマーカーが引いてある。

あー、まいった。
うれしいくて愛おしい感情も湧くけど、

やっぱり、まだつらいなー。

もう少し時間が必要です。


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日付が変わって今日1月27日は父の命日。

2年前の今の状況がありありと目に浮かび辛く悲しくなってしまうが、
そんなんじゃ、いけない。
父の末期の状態は確かに苦しかったが、
父の人生はすばらしく、人生を力一杯生き抜いたのだから、むやみに悲しむようなものではない。

むしろ、今の私の仕事ぶりを見て、あーだ、こーだ言ってほめてくれているはずだから、
明日もいつもどうり私は仕事をがんばらなくては!!

父の事は毎日思ってるし、明日は特別な日の様で、特別な日ではない。
特別な事は出来ないので、明日も一生懸命生きるだけ。

今回は伊勢丹でたくさんの知り合いに会えたし、大変だったけど結果を出せて本当に良かった。
みなさんありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。

みんながハッピーでありますように。
ピース!!

今日は父の日ですね。
生きていたら、色々楽しい事をしたかったけど、
自宅のお父さんコーナーにお花を飾りました。

さて(1)の続きです。

母は毎日子育てを、父は仕事をバリバリと行い、
私が3歳の時、父はアメリカへ出張に行った。(1年以内だったと思う)
父がアメリカから帰って来て、しばらくした時父は精巣癌になり、東京慈恵医に入院した。(父35歳)

父はアメリカでの食生活が原因かもしれない、と一時期言っていた気がする。

これが1回目の癌との戦いだった。

私は4歳、妹は3歳、私たちは幼稚園を休んで。良く福井県の母の実家にあずけられていた。
私はまだ、小さかったので状況はほとんど分かっておらず、おじいちゃんとおばあちゃんと比較的楽しく生活をしていた。
また福井県だったので、美味しい魚を食べ、冬は雪にダイブし、夏は海で泳ぎまくっていた。

当時は現在ほど医学が発達していなかったので、
父の病状は軽い物ではなく、死を覚悟しなくてはいけない状況で、手術はもちろん、放射線、抗がん剤治療の副作用はかなり、辛かったらしい。

その頃、母は、毎日泣いてばかりで、半べそかきながら、なんとか父を支えていたらしいが、(親戚談)
ある瞬間から覚悟が決まって、泣いてられない、と肝が据わり、辛い時期を乗り切ったと母は言っていた気がする。
母は毎日父と同じ病室の簡易ベットに寝泊まりし、毎日毎日献身的に父の看病をしていて、看護婦さんに妻の鏡ですねー。と言われていたみたい。

私と妹の写真を病室のベットの側に貼って、『こんなかわいい子が2人もいるんだからツトムさんがんばろ!』といって父自身も、母も、親戚もがんばっていたらしい。

今思うとその頃母はまだ30歳そこそこで本当に大変で、不安だったと思う。


父は普段運動をしていて基礎体力があったらしく、結果、奇跡的に、癌を克服した。
本当に良かった。

父も母も、この時の話を私達にはほとんど話してくれなかったけど、
余計な心配をかけたくなかったのか、もう乗り越えた事を話したくなかったのか分かりません。

続く

去年亡くなった父の事をこれから少しづつ書いてみようと思います。
ブログに書く事で自分の心の整理がつけばと思います。
気づかなかった事や、新しい発見があるかもしれません。



父は昭和12年 広島県生まれ 3人兄弟の長男(弟1人、妹1人)

戦争中、疎開さきでは草も食べたし、、空にB29が飛んでいるなか、海で泳いで遊んでいたらしい。
アメリカ兵からチョコレートももらったらしい。

私が高校生の時などは、戦争の話や、色々な国の歴史について話をしてくれたが、
『そんなの興味なーい!』などど言い、父の話を良く聞いていなかった。

今となってはひじょーに後悔している。(あの頃は私も若かった)





大学時代は、化学を学びながらラグビーに熱中していたスポーツマンだったみたい。

そういえば、学生時代のラグビーシャツを『かっこいいだろ、これは良いものなんだぞ』
と言って亡くなる2,3年前まで愛用していた。

テレビのラグビー中継を見る度に、『あきこ!あきこ!ちょっとみてごらん、お父さんはこのポジションをやっていたんだけど、このポジションは、足が速くて、かつ一番頭を使うから、体力と知力が必要とされるんだぞ。』と嬉しそうに話していたなー。

私は案の定、『はい、はい、あっそうー』ってかんじであんまり真剣に聞いていなかったな。


そういえばスポーツはどれも好きで得意だったみたい。

父の身長は162センチくらいで、チビなほうだが、
『山椒は小粒でもピリリとからいんだ。』と良く言っていた。



そうそう、近くの女子大にテニスを教えに行っていた、と聞いた事もある。
『あーあ!私が一番嫌なタイプの大学生じゃん!!』っとおもいきや

茶道なども習っていたらし。

私が以前、『何で茶道を習おうと思ったの』と聞いた時、
日本の歴史と、美を学びたかったからと言っていたような気がする。

まー要するに、色々なエネルギーと好奇心に満ちあふれていたんだと思う。


その後詳しくは知らないが、大学院を卒業して、化学メーカーに就職、
30歳の時母と結婚。

父と母の結婚式の写真を見た事があるが、その時既に父の頭はハゲていた。


そして、結婚1年後に私が生まれ、その1年半後に妹が生まれた。

続く。


つとむ

去年父が亡くなっとき、空はとてつもなく青く、高く、真冬なのに春を感じさせられる日だった。
父は、自然に帰ったんだ。とその時思った。
一年経った今日も、空は青く澄みきっていて、星もきれいで、月も大きくきれいだった。
宇宙の彼方から父が悠然と、余裕で私たちを見ている気がした。

特にこの季節になると、
去年の事をありありと思い出します。

入院中の父を、せめてお正月の1日だけでも、
自宅で家族一緒に過ごさせてあげたいと、
家族全員が必死になっていたことを‥。

結果、近所の神社で御参りをし、
自宅で、ほんのちょっとだけど、おせちを食べる事が出来ました。

それから、あっと言う間に1年が経ってしまいました。
色々な事に気づき、色々な事を考えさせられる1年でした。


月日が経つのは本当に早いもので、
なんとも感慨深い今日この頃です。

今日はお家の大掃除をしました。
お部屋をきれいにして、気持ちも新たに、又来年も元気に色々やりたいと思いました。

父が亡くなり、頭では父の死を受け入れているはずなのに、
どうしようもなく寂しくて涙することもあるけれど、
両親からもらった大切な命、命ある限り、この地球で、この宇宙で、全うするのだー!!!

お父さん見ててくれー!!

皆さんおげんきでしょうか?

私は、1月末に心の中で大変革がありました。
それ以降、
自分でも一体なんなのか分かりませんが、
もっと物事をよく考えなくてはならない!
もっと多くの事を知りたい!
現実だけを見てるだけでなく、真実を見ているのか?
もっと、自分を創りあげていきたい。
わたしは、人のために何かができるのか?
などと、頭の中でぐるぐるして、
今まであまり使っていなかった細胞が活性化しています。

春の気配を感じる今日この頃、
私の心の中でも何かが芽吹いているのでしょうか?ね。


力お花

    
ビーズとは全く関係ありませんが宣伝です。

私、(旧姓 田村)の 父 田村力 と 私の旦那君が、数年間 関わった仕事を、まとめた本の紹介です。

みなさんも、ちょっと前から、テレビや、広告で、特定保健用食品(トクホ)とゆう言葉をよく耳にすると思います。

油や、お菓子、飲料などなど、色々な食品に(トクホ マーク)がついていますよね。

しかし、いったい(トクホ)とは何か知らない方が多い思います。

そこで、この本を読んでいただければ、(トクホ)について、理解が深まると思いますので、

興味のある方は是非読んでみて下さい。

トクホ本
著者 田村 力
体裁 新書判 246ページ
定価 1,260円(税込・送料別)
発行 2006年11月
日本食料新聞社












内容

● 特定保健用食品(トクホ)の現状
  トクホ」とは/「トクホ」の表示例(醗酵乳=ヨーグルトの場合) /食品には、三つの機能がある/「トクホ」の機能構成/食品の機能性表示/法律で定義された「トクホ」とは/「許可証票」および「承認 証票」/保健機能食品と「トクホ」および「栄養機能食品」の関係いま、なぜ「トクホ」なのか、その背景(「トクホ」の必要性と存在意義)/「トクホ」の市場は伸びている/「トクホ」の目的と意義

●「トクホ」の歴史(軌跡・足跡)
   「トクホ」誕生前の軌跡・足跡/「トクホ」誕生後の軌跡・足跡性)

●「トクホ」の申請と評価システムおよび評価内容
    申請の手続きと流れ/「トクホ」の評価ポイント

●「トクホ」商品一覧
   「トクホ」市場について/関与成分と特定の保健用途分野/生活習慣病の危険因子とその予防に役立つ食品および関与成分に関する解説シート/特定保健用食品許可(承認)品目一覧

● 今後の展望
   現状の認識/「トクホ」に求められる役割は何か

以前、父の書斎を片付けている時に見つけました。
父は、とにかく新聞の記事を切り抜く人で、さまざまなジャンルの切り抜きが部屋中にあふれているのです。
この記事はおもしろかったので、捨てずにもって帰ってきました。
これが、昭和55年の視点で見る不良化の兆しだそうです。
このような服装をしたがったら、要注意!とあります。
あまりにも分かり安過ぎるます。
このような不良ちゃんは、自分からこうゆう格好をしているわけで、
いわば、アピールですよね。
何か、自分では処理しきれない感情などを表に出している訳で、
私、ちょっと無茶してまーす。
なめんなー!って感じに。
分かり安いのも、あたりまえですよね。
逆に、見えない物の方が怖いですし、何らかの形て、表に出せない方が深刻です。
心の闇、屈折を見抜けないとだめなんだろうなーと思います。
でも、不良って言葉、現在では聞かなくなりましたね。
この記事を書いた人に現代版で記事を書いてもらったら読みたいです。
しかし、父は何故、この記事を切り抜いたんだろう?
ははーん?今度聞いてみよーっと。



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不良化の兆し

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