2015年07月03日

<39>オールド・テロリスト

「70代から90代の老人たちが、テロも辞さず、日本を変えようと立ち上がる」という物語。語り手は『希望の国』と同じ関口というジャーナリストだが、関口は週刊誌のフリー記者の職を失い、雑文を売っては糊口をしのいでいる。時代設定は2018年だが、そこに描かれる社会は次第に活力を失いつつあり閉塞感の漂う今の日本をそのまま引き延ばしたようでリアリティがある。『ファシズム』『五分後』『半島』などとも通底する世界観だ。

『希望の国』での中学生たちの革命と対をなす形での老人たちのテロという発想は村上の得意技。子供とか年寄りとか、「生産の現場」から疎外された者だけが、それ故に、強固に構築された利害のシステムに対抗価値を提示できるのだという認識は明晰だ。人口が少しずつ減り、頑張っても報われないことが予め分かっている世界で、何を支えに毎日をやり繰りすればいいのか誰も理解していない。リセット史観が生まれる素地は十分ある。

今回は取材ネタの自慢げな開陳が少なめで、関口の心情を丁寧に拾い上げる一人称の地の文が、物語をグッと近くに引き寄せている。よく考えれば「マジかよ」「そんなアホな」と思う設定にグイグイと読者を引きずりこみ、体力を削ってでも物語と対峙することを強いる筆力は健在どころか力を増し、手練手管も狡猾になっている。テロリズムが希望になり得てしまう社会が始まりつつあることを村上は看破していて、それが何よりも怖い。

(2015年発表 文芸春秋 ★★★★)



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2012年12月15日

<112>55歳からのハローライフ

地方紙に連載した5つの連作中編を収録した作品。どれも現役を退き、自分の生について振り返り、問い直す局面に立ち至った60歳前後の男女の物語である。主人公たちの境遇はさまざまで、村上龍自身の言葉を借りれば「悠々自適層」「中間層」「困窮層」のそれぞれを代表するような人物を選んで書いたということだが、そこにあるのは結局今ここにいる自分の「意味」とか「価値」をどこにどう位置づけるかという問いかけに他ならない。

それは多くの場合「不安」という形で表れる。主人公たちはそれまで当然だと思っていたもの、あるいは何とも思ってもいなかったものの中に、自分の存在の大事な核が含まれていたことに薄々気づき始める。しかし、それを自分の中で意識化し、それと向き合うには恐ろしいエネルギーが要る。それがここにおける「不安」の本質である。そしてそれは僕たちにももちろん切実な認識だ。ただ走る速度が落ちると不安が顕在化して来るだけだ。

圧巻なのはホームレスになり山谷のドヤで瀕死の心臓病に侵されている旧友を母親の許まで送り届けようとする男を描いた『空を飛ぶ夢をもう一度』である。この作品は読み手に圧倒的な、強制的なまでの共感を求める。「怒れ」とけしかける。「それは無力感に押しつぶされて何か大切なものを放棄しないための、最後の手段としての怒り」だ。不安と向かい合う僕たちに残された最大のものは「怒り」なのかもしれない。村上龍は健在だ。

(2012年発表 幻冬舎 ★★★★)



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2011年05月03日

<38>心はあなたのもとに

ベンチャーへの投資ファンドを組成する主人公が風俗嬢に入れ込んで身請けするが、彼女は1型糖尿病という難病を抱えており、最後には死んでしまう、という話。もちろん、村上龍の作品なので、物語の中心的なモチーフである1型糖尿病に関する説明や、金融市場、ファンド・ビジネス、先端医療など聞きかじり感満載の付け焼き刃的蘊蓄はムダに豪華だが、要は、好きになった女の子が難病で死んでしまって悲しい、というだけの物語だ。

いや、もちろん村上龍にも恋愛小説を書く権利はあるだろう。だが、村上龍から「誰かを大切に思う気持ちは、何かを変化させ、いつか必ず相手に届く」なんてことを真面目に語られるとは思っていなかった。気持ちなんてものは所詮脳味噌の中で起こっている化学変化に過ぎないとか何とか、今まで散々センチメンタリズムをリアリズムで、力ずくで凌駕してきた村上龍が、今さら何を考えてこんな気恥ずかしい文章を書いたのか不思議だ。

「限りなく…」でも「コインロッカー…」でも「ファシズム」でも、あるいは「エクスタシー」からの3部作にしても、そこには救済(あるいは赦し)を希求する視線があったし、それはロマンチックなものであった。しかし、この作品のベタベタした優柔不断さはただ凡庸なだけで作品として何かを語りかけてはくれない。主人公のモニョモニョした独白も自意識過剰で気持ち悪い。村上龍は恋をしているのかもしれないと思ってしまった。

(2011年発表 文芸春秋 ★★☆)


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2010年11月26日

<37>歌うクジラ

22世紀、最下層の島「新出島」を出て最上層の指導者ヨシマツを探すよう運命づけられた少年タナカアキラの冒険譚。村上龍が夢想する、国民が完全に階層化された理想社会のイメージは刺激的だ。自動的に経済が成長することがもはや約束されず、むしろ少しずつ縮小、衰退して行く社会で、僕たちは何を手がかりにして生きて行けばよいのかという疑問を真剣に突き詰めて行ったときに、得られる答えのひとつがこの物語だと言っていい。

だが、それよりここでは村上龍が繰り出してくる活劇のスペクタクルや、登場するガジェットやアイテム、エピソードのディテールの集積を楽しむべきだ。なぜなら、村上龍がここで執拗に繰り返すメッセージは、どんな環境にあっても、生き延びるということは結局のところ具体的で即物的な営みなのだということに尽きるのだから。痛み、吐き気、傷、流れる血といった生身へのインパクトを受け止めることなしに生きることはできない。

そういう肉体的な題材をすごいスピード感で描ききる筆力は健在。どんな場所でも人はおそらく生きて行くのだろうが、命の値段がどこでも等価だという幻想を捨て去るところから始まる物語は痛快だ。実際にこの本を手に取る平均的日本人のほとんどは、この物語では華麗にスルーされる中間層に属するのだろうし、結局のところ村上龍は、そんな僕たちに、オマエらいったいどうやって生き延びるつもりなんだと指を突きつけているのだ。

(2010年発表 講談社 ★★★★)



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2009年03月20日

<111>空港にて

単行本「どこにでもある場所とどこにもいないわたし」を改題して文庫化したもの。表題作の他、「コンビニにて」「居酒屋にて」「披露宴会場にて」など、シチュエーションを変えて特定の場所で起こる一瞬の出来事や登場人物の心の動きを描写した短編が全部で8編収録されている。どれも息が詰まるようなコミュニケーションの中からどのようにして(村上龍の言葉を借りれば)「個別の希望」を探すかについて書かれた物語である。

僕たちの社会では、伝統的な共同体が崩壊する一方で、家庭や学校、職場といった逃れることの容易でない集団の中のコミュニケーションが加速度的に濃密になり、その劇的な落差がいくつかの悲劇を生んできた。村上龍がここで書いているのは、希望は結局個人的なものでしかあり得ないということだが、それは孤独を受け入れるということと同義で、宗教的契機の希薄な我が国では、それに耐え得る個とか自我は容易には形成されない。

ここで描かれる主人公はみんな孤独である。だが、本当は孤独なのは彼らだけではない。僕たちはみんな本質的には一人であり孤独なのだが、コミュニケーションから外れた瞬間にそれが明らかになるだけのことなのだ。村上龍は恐ろしいまでに密度を上げた描写によって感情までを物質に還元しそのことを分かりやすく示す。海外で人はより直接孤独と向かい合う。それを受け入れる覚悟がなければ希望など持ち得ない。今、希望は特権だ。

(2003年発表 文春文庫 ★★★★)



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2009年03月17日

<110>ワイン一杯だけの真実

ワインをテーマにした連作短編8編を収録。ここで言及されているワインをどれひとつ飲んだことのない僕にとってはどんな言葉でそのワインを描写されても豚に真珠というか猫に小判であり、逆に村上龍のいかにも成り上がり的で無邪気な知ったかぶりが微笑ましい作品集。「料理小説集」でも書いたが、努力と才能で特権を手にした者としての率直な喜びが伝わってくる。シャトー・マルゴーが出てくるので川島なお美を思い出してしまう。

おそらく、本当に村上龍がこうしたワインの素晴らしさを理解しているのなら、それをテーマに小説を書いたりしようとはしないのではないだろうか。なぜなら優れたワインというのはそれ自体何ものからも独立し、完結しているものだと思うからだ。僕は別にソムリエでも何でもないが、ワインをテーマに小説を書こうという試み自体が俗悪だということくらいは分かる。シャトー・マルゴーを飲む代わりに小説を読むことには意味がない。

ここで描かれるのは現代の日本に生きる女性達の「壊れ」であるが、それをワインに引っかけて語ろうとするところが悪趣味。書かれていることも他の作品で書かれたことの使い回しに過ぎない。着想としては悪くないものもあるが、そこに具体的なワインの名前が出てきた途端に物語全体が安っぽく感じられてしまう。読者の大半が飲んだこともないようなワインのイメージに依拠しなければ成立しない物語はそれ自体大したことがない。

(1998年発表 幻冬舎文庫 ★★☆)



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2009年03月15日

<109>白鳥

短編集といっても雑誌連載をまとめた連作短編が多い村上龍にあって、さまざまな雑誌などにバラバラ掲載された短編を集めた数少ない本当の意味でのアンソロジー。9編を収録している。村上龍がキューバに入れ込んで映画「KYOKO」を撮った90年代半ば頃の作品が中心と見られ、キューバを題材にした連作3編も収められている。比較的しっかりストーリーを構築した作品から、抽象的で不思議な手触りの作品までバラエティも豊かだ。

「或る恋の物語」「彼女は行ってしまった」「わたしのすべてを」の3作はキューバ音楽をモチーフにし、互いに関連する三つの物語をそれぞれ異なった語り手の目から見る連作で他の作品とはやや異質であるが、それ以外の作品は概ねセックスと病について書かれたものだと言っていい。残念ながら初期短編集である「悲しき熱帯」やテーマの明確な「トパーズ」ほど緊迫したエネルギーの奔流は感じられず、全体として熱量は少ない。

それはおそらく、村上龍自身がこれらの短編をドライブして行く動因を絞りきれていないからだ。プロットなのか、スタイルなのか、情報量なのか、スピードなのか。どのモメントにおいて読者を凌駕して行こうとするのか、それが明確でないためにどの物語も中途半端に放り出されたような印象が残る。あとがきで村上龍は「短編は『洗練』を必要とする。私は『洗練』がイヤなのだと思う」と述べているが、それはこういう意味なのだろう。

(1997年発表 幻冬舎文庫 ★★★)



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2009年03月11日

<108>村上龍映画小説集

さまざまな映画をモチーフに、1970年に九州から上京したばかりの少年のエピソードが11編つづられる連作短編集。村上龍の自伝的要素が強く、時期的には佐世保での高校生時代を題材にした「69」と福生での生活を描いた「限りなく透明に近いブルー」の間の位置することになる。時代背景もあるのだろうが、おそろしく無目的でどこにも行き着かない、ただ時間とエネルギーを徹底的に浪費し尽くすような若さのあり方が示されている。

主人公のヤザキは何度となく「オマエは無力だ」という声を聞く。意味のない放蕩、ドラッグ、セックスに果てしなく消耗しながら、村上龍は自分の内臓でただ「自分は無力だ」ということだけを確認して行くのだ。それは村上龍の10代の終わりが無力だということであると同時に、すべての若さは無力だということなのだ。若さとは本質的に意味のない消耗だ。その時期に人は自分が無力で無価値であるということだけを徹底的に学ぶのだ。

圧倒的にリアルで冷酷な現実を前に、自分の無力さ、無価値さをきちんと学ぶことのできた者だけが、若さという特別な時期を対象化することができる。あんな恥ずかしく、情けない時期にはもう戻りたくないというのがおそらくは若さに対する唯一の正しい認識で、この作品はその理由と、それにも関わらず僕たちはその時期から自由になることはできないということを鮮やかに描ききっている。最後の『ワイルド・エンジェル』がいい。

(1995年発表 講談社文庫 ★★★★)


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2009年03月08日

<107>恋はいつも未知なもの

ジャズのスタンダード・ナンバーをモチーフにした掌編39編を収録。何らかの傷を抱えた男だけが迷いこむという幻のジャズ・バーに行ってきた男の話を、ジャズ・ナンバーの歌詞に引っかけて紹介するという形式になっているが、当初はそうした話の聞き手であった主人公が、自らもそのジャズ・バーに迷いこみ、終盤は主人公が、そのどこにあるかも分からないと言われるバーの秘密を探りにニューヨークを訪れる続き物になって行く。

ここに使われているジャズ・スタンダードをほとんど知らない者としては正直どうでもいいような話が繰り返し語られるだけだし、その幻のバーを探す話としても中途半端で、最後にバーの経営者らしき男にたどり着くあたりの描写もまったく迫真性に欠ける。週刊朝日に連載されたのをまとめたものらしいが、多分途中からネタが切れてスタンダードよりバー探しの話にシフトしてしまったんだろう。正直やっつけ仕事の香りが高いと思う。

ここには自分の言葉で原曲の素晴らしさと格闘しようとする表現上のあがきが感じられず、何となくそれっぽいスタンダード・ナンバーを借りてきてはそれにこじつけた適当な話(特に恋愛譚)をでっち上げたとしか思えない。原曲を知らない者が言うのも何だが、日本でジャズが所詮お洒落な恋愛のBGM程度にしか扱われていないのと同じように、この短編集も所詮はジャズを小道具に使ったお洒落な恋愛小説程度にしか読まれないだろう。

(1991年発表 角川文庫 ★★☆)


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2009年02月28日

<106>村上龍料理小説集

食べ物を題材にした掌編32編を収録。料理は特権的だ。特権的で差別的だ。例えばこの作品集でも繰り返し登場するコート・ダジュールのレストランや香港の高級料理店で供されるような料理というのは、生存を維持するための僕たちの食事とは異なった快楽を含んでおり、それは日本で生まれ育ち、海外といえば新婚旅行のハワイくらいしか行ったことのない庶民には理解することも、想像することすらできない特殊な世界の出来事なのだ。

村上龍は作家という特権的な立場でそれを経験しているのだが、世の中には初めからそういう世界に生まれて育つ特権的な人たちがいて、面白いのは村上龍にもそういう真の特権階級に対するコンプレックスがあるところだ。こうした世界を垣間見ることで芽生えた被差別意識が、庶民に特殊で特権的な料理の話をひけらかすことで代償されている。そういう屈折したコンプレックスとか差別意識が素直に出ているのが村上龍のいいところだ。

日本で生活していると特権とか差別とか階級というのは見えにくい。最近流行の「格差」はともかく、極めて平等に見える(実際極めて平等だが)我々の社会にも階級はある。それを明らかにするのが快楽だ。普通の階層に生まれながら社会的に成功してそういう世界の入口にたどり着いた村上龍のはしゃぎぶりが微笑ましい作品で、村上龍の成功の原動力である貪欲さ、厚顔さをストレートに見ることができる。「Subject 30」が素晴らしい。

(1988年発表 集英社文庫 ★★★)



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