2008年09月

2008年09月21日

<06>69 sixty nine

村上龍によれば「楽しい小説」。1969年に佐世保でバリストや自主コンサートを催した高校生の物語であり村上龍の自伝的色彩が濃い。村上自身が「こんなに楽しい小説を書くことはこの先もうないだろうと思いながら書いた」というとおり、バカバカしくも楽しい青春小説として、読み手も神経に負荷をかけることもなく一気に読み通すことができる。楽しんで生きることが決定的に重要であるという村上龍のメッセージはこの作品で明確だ。

だが、それはこれが軽い物語であるということを必ずしも意味しない。ここにはひとつの普遍的な真実がある。それは、男子高校生の考えることは何であれ目立ちたい、女子に認められたいという欲求から発しているのであり、さらにその元をたどればそれは単純な思春期性欲にたどり着くのだということだ。ロックでもフォークでも政治活動でも硬派でも軟派でも同じだ。圧倒的な偏見に基づいて断定すればそれらはすべて性欲なのだ。

さらに言うなら、それは高校生だけに限ったことではない。この世界に産み落とされた重要な芸術や社会思想や政治運動の中には、そういう不純な動機から始まったものがたくさんあるはずだ。強いモチベーションは常に単純な欲求から生まれ、強いモチベーションに基づくものこそが説得力を持つ。それはひとつの真理である。世界は単純で不純な動機からできているからこそ多様で、楽しく、美しい。それを軽快に語りきった作品である。

(1987年発表 集英社文庫 ★★★☆)


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2008年09月19日

<05>テニスボーイの憂鬱

この本を最後に読んだのはたぶん10年以上前、いや、たぶん20年近く前のことだと思うんだけど、それ以来ずっと僕の中に残っていたフレーズがあった。「今夜本当にやりたかったことをしたのはこの小便だけかも知れない」。自分が混乱した状態でふと人を離れて一人小便をしていると僕はいつもこのフレーズを思い出す。自分の気持ちと身体的な実感が幸福に一致する瞬間、僕たちが手にできるリアルはせいぜい小便の快感なのだ。

この小説もこのフレーズのためだけにある。このフレーズは上巻の最後に出てくるのだが、それ以外の物語はすべてこのフレーズのリアルさを実感させるための後つけに過ぎない。小便の快感を僕たちに喚起するために、それ以外のすべてがいかにからっぽかを必死になって語っているに過ぎないのだ。テニスも、シャンパンも、美しい愛人とのセックスも、そんなものは全部からっぽだ、お前のリアルは小便だけだ、そう村上龍は言う。

小便の実感だけを除いて徹底的に空虚な恋愛小説、それがこの作品だ。この作品は何も越えて行かない。この作品は何も凌駕しない。だからテニスボーイは憂鬱なのだ。ダラダラと続いて行くからっぽで憂鬱な日々。どこにも、何にも越えて行かない小説にどこまで我慢強くつきあえるかという精神修養のような作品で、どこにも行き着かない物語に読んでいる自分自身が憂鬱になること請け合い。テニスという道具立てには意味はない。

(1985年 集英社文庫 ★★★)









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2008年09月12日

<04>だいじょうぶマイ・フレンド

同名の映画の脚本と並行して書き進められた作品。これまでの作品とは大きく路線が変更され、村上龍自身が「あとがき」で述べるところによれば「ほとんどプロットのみで成立する科学冒険怪奇小説」。飛べなくなったスーパーマンを助けて悪の組織「ドアーズ」と戦う3人の少年少女の物語である。ユーモアとファンタジーを前面に、終始荒唐無稽なストーリーが展開されるが、もちろん村上龍らしい悪趣味も十分散りばめられている。

だが、この作品は端的に言って散漫である。もちろん、これがデビュー作や前作のようなシリアスさを欠いた作品だからそういうのではない。もしこれが村上龍自身が言うように「科学冒険怪奇小説」なのだとするなら、科学も、冒険も、怪奇も、ここでは中途半端に終わっているからだ。「コインロッカー・ベイビーズ」を書ききった村上龍の筆力は健在だとしても、この作品で村上龍は書くべき題材を選び間違えたとしか言いようがない。

どんな作家にも得手不得手があり、得意不得意がある。これまでの3作では確信に満ち、だれが何と言おうと村上龍以外には書き得ないモノを半ばたたきつけるように書いていたのに比べれば、ここでの村上龍は明らかにグニャグニャした曖昧な対象を扱いかねていて、肝心のプロットも苦しく、素人目にもそれが村上龍には向いていないことが分かる。僕たちはいったいこの作品のどこを読めばいいのか。失敗作だが駄作でないことが救い。

(1983年発表 集英社文庫 ★★☆)


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2008年09月10日

<03>コインロッカー・ベイビーズ

悲しい小説である。いうまでもなく村上龍の最高傑作であり、日本文学におけるひとつの金字塔であることに間違いはない。生後すぐコインロッカーに遺棄され、仮死状態に陥りながらも生き延びた二人の孤児。兄弟として里親に引き取られた彼らがたどる二つの生。そして、破壊と崩壊の向こうに見える再生へのかすかな光。だが、この小説は悲しい。それはこの小説が、僕たちの生の輪郭をあまりにも簡単に露わにしてしまったからだ。

僕たちの生はみすぼらしく、惨めで、弱く、脆い。そして僕たちはハシのように狂うこともできなければ、キクのようにダチュラをまき散らかすこともできず、ただそのみすぼらしい生を生き続けるしかない。この物語はキクとハシの特権的な生を描ききることで僕たちの生の惨めな輪郭をあまりにもあっけなく露わにしてしまうのだ。考えてみればいい、僕たちはこの物語の中では確実に、ダチュラによって粛清されてしまう東京市民だ。

僕たちにできるのは、この物語を最後まで読み通し、この物語と渡り合うことだけだ。暖かな産婦人科で生まれた僕たちは、村上龍が突きつけてくる現実の、目のくらむような取るに足りなさ、凡庸さを全力で跳び越えるしかないのだ。この作品は村上龍からの挑戦であり、僕たちは否応なくこの物語と対決しなければならない。この作品とぶつかり合い、乗り越えて初めて、僕たちは悲しみの向こうの新しい歌を聴くことができるのだから。

(1980年 講談社文庫 ★★★★★)











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2008年09月03日

<02>海の向こうで戦争が始まる

今にして思えばこれは村上龍のキャリアの中でもかなり異色の観念小説であり実験小説である。もちろん、純粋な身体感覚を文章に詰めこまれたエネルギーの総量で凌駕するという方法論はデビュー作と変わらないし変わりようもないが、ここでは一切の具体性は剥ぎ取られ、どこの国でもない海岸で、どこにもあり得ない架空の町を幻視するカップルのビジョンだけが物語を強引にドライブして行く。この時期にしか書かれ得ない作品だ。

だが、一方でこの作品は異常に具体的でリアルだ。村上龍は執拗に醜悪で酸鼻な世界の細部に入りこんで行く。もはや物語の全体性は放棄され、目を背けたくなるような、体力のない時なら思わず本を置いてしまいたくなるようなシーンが、これでもかというくらい細かく書きこまれて行く。そのスピードが僕たちの思考のスピードを超えるとき、僕たちは村上龍が突きつける文学の暴力性や肉体性と、仮借なく対峙させられるのである。

この作品で描かれる戦争は実のところ戦争ですらない。そこではだれかが何かのためにだれかと戦うのではなく、それはただ苛立ちが沸点を超えたときにわき上がる歓喜のような暴力衝動が見境なくまき散らかされているだけに過ぎない。味方も敵もなく、ただ殺しまくるだけの「戦争」。コカインを打ちながらそれを海の向こうからただ眺めるだけの「僕」。圧倒的な非現実感が村上龍の資質を逆に純粋に抽出してしまった初期の傑作。

(1977年発表 講談社文庫 ★★★★)


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