2008年10月
2008年10月29日
<15>368Y Par4 第2打
「テニスボーイの憂鬱」を書いたときにたぶん村上龍がテニスに入れ込んでいたように、この小説を書いたときに村上龍はきっとゴルフに入れ込んでいたに違いない。端的に言ってしまえばそれだけの作品であり、それを何とかもっともらしい物語に仕立て上げ、半ば無理矢理ゴルフにこじつけた、知ったふうな処世訓とか人生訓を垂れ流す駄作。「欲望を肯定して生きることは難しい」というのがテーマらしいが正直よく分からない。
まあ、村上龍という人はもともと何か新しいことを知るとそれにのめり込み、臆面も節操もなく、こんなことは当たり前のことなのだが、といった調子で、以前からすべてを知っていたような顔で書き飛ばすのが特技なので、この作品もそういう系統の作品群のひとつだと思えばそれなりに読めるのだが、主人公の人物造形が中途半端で、成り上がりなのかインテリなのか性格づけができていない。それが物語を致命的にスポイルしている。
日本人が海外に出たときに避け難く表れる国内標準と世界標準のギャップみたいなものについてはうまく書かれていて肯く部分もある。それは日本が世界の一地方に過ぎず、日本の常識は世界中にある珍妙な風習の一つに過ぎないのだというシンプルな相対化ができるかどうかなのだと僕は思うのだが、それについて言及した物語が結局「人生で重要なのは第2打だ」みたいな陳腐なお説教に収束してしまうのは何とも寂しく、情けない話。
(1993年発表 講談社文庫 ★★☆)
まあ、村上龍という人はもともと何か新しいことを知るとそれにのめり込み、臆面も節操もなく、こんなことは当たり前のことなのだが、といった調子で、以前からすべてを知っていたような顔で書き飛ばすのが特技なので、この作品もそういう系統の作品群のひとつだと思えばそれなりに読めるのだが、主人公の人物造形が中途半端で、成り上がりなのかインテリなのか性格づけができていない。それが物語を致命的にスポイルしている。
日本人が海外に出たときに避け難く表れる国内標準と世界標準のギャップみたいなものについてはうまく書かれていて肯く部分もある。それは日本が世界の一地方に過ぎず、日本の常識は世界中にある珍妙な風習の一つに過ぎないのだというシンプルな相対化ができるかどうかなのだと僕は思うのだが、それについて言及した物語が結局「人生で重要なのは第2打だ」みたいな陳腐なお説教に収束してしまうのは何とも寂しく、情けない話。
(1993年発表 講談社文庫 ★★☆)
2008年10月26日
<14>フィジーの小人
大変胸くその悪い小説である。それはこの作品がホルモン異常でマゾヒストの小人がクソを食べる話だからでもあるのだがもちろんそれだけではなくて、ここに描かれた自分の人格を放棄し痛みや恥の中へ没入する行為の快楽と地獄が僕たちの日常的なバランス感覚とか凡庸なモラルとかをイヤな音を立てて無理矢理引っ掻くからだ。人格を剥ぎ取られ、恥を失って狂気に近づく描写がリアルで、何となく理解できてしまいそうだからだ。
それは不快で恐ろしい感覚だ。村上龍は圧倒的な熱量で恥という概念の内側と外側を書き尽くそうとする。視点は激しく入れ替わり、物語は幾重もの入れ子構造になって、だれが何の物語を語っているのかすら容易には分からなくなる。熱量はそうした多重構造のために拡散し、回収されないまま放置され、物語は加速度的に破綻して行くが、それは主人公であるフィジーの小人の精神の崩壊と性格に呼応している。僕たちはそれを経験する。
優れて観念的な作品でほとんど前衛小説であるが、それが具体的な細部への書き込みによって成立しているところが特徴的。恥という概念を際立たせるための他人の視線の存在を、南海のリゾートであるフィジーの小人の芸人という主人公の特殊性によって一足飛びに獲得する手法も鮮やか。力の入った作品だが読者にもかなりの消耗を強いる。この作品で救われたり解放されたりする読者はかなり少数派なのではないかと思ってしまう。
(1993年発表 講談社文庫 ★★★)
それは不快で恐ろしい感覚だ。村上龍は圧倒的な熱量で恥という概念の内側と外側を書き尽くそうとする。視点は激しく入れ替わり、物語は幾重もの入れ子構造になって、だれが何の物語を語っているのかすら容易には分からなくなる。熱量はそうした多重構造のために拡散し、回収されないまま放置され、物語は加速度的に破綻して行くが、それは主人公であるフィジーの小人の精神の崩壊と性格に呼応している。僕たちはそれを経験する。
優れて観念的な作品でほとんど前衛小説であるが、それが具体的な細部への書き込みによって成立しているところが特徴的。恥という概念を際立たせるための他人の視線の存在を、南海のリゾートであるフィジーの小人の芸人という主人公の特殊性によって一足飛びに獲得する手法も鮮やか。力の入った作品だが読者にもかなりの消耗を強いる。この作品で救われたり解放されたりする読者はかなり少数派なのではないかと思ってしまう。
(1993年発表 講談社文庫 ★★★)
2008年10月22日
<13>エクスタシー
「イビサ」が限りなく自分と向かい合った女の物語だとするなら、この「エクスタシー」は極限まで自分を消し去ろうとした男の物語だということができるだろう。自分が何者でもなくただモノとして純粋にそこにある存在になりたいという欲求。モノのように扱われることによって自分の中の感情とか感覚とかいった面倒臭いものをひと思いに昇華させ、シンプルな、モノとしての自分を肯定することによって得る安定した視点の物語だ。
ありとあらゆる種類のドラッグを身体中に詰めこみ、それによって起こる純粋に化学的な変化を起爆剤にしてモノとしての自分に同化して行くプロセスは、決してメンタルなものではなくどこまでも物質レベルのこと。僕たちの身体や精神そのものが所詮タンパク質や電気信号からできていることがこの物語の核心をなしている。僕たちは化学反応の塊であり、そこに何か高貴なモノが宿っている訳ではないのだと村上龍は執拗に繰り返す。
そのことを村上龍は本物のドラッグを使う代わりに文章で示そうとする。伝達速度を超える電気信号を神経細胞に与えて誤作動させようとする。この物語の筋立てや道具立てにリアリティがあるかどうかなんてもはやどうでもいい。ただ、驚くべき高密度のまま驚くべき高速で回転して行く重金属のようなこの小説に脳細胞を毎秒削り取られながら、そんな世界もあるんだろうかとぼんやり考えるだけでいいのだ。それが、エクスタシー。
(1993年発表 集英社文庫 ★★★★)
ありとあらゆる種類のドラッグを身体中に詰めこみ、それによって起こる純粋に化学的な変化を起爆剤にしてモノとしての自分に同化して行くプロセスは、決してメンタルなものではなくどこまでも物質レベルのこと。僕たちの身体や精神そのものが所詮タンパク質や電気信号からできていることがこの物語の核心をなしている。僕たちは化学反応の塊であり、そこに何か高貴なモノが宿っている訳ではないのだと村上龍は執拗に繰り返す。
そのことを村上龍は本物のドラッグを使う代わりに文章で示そうとする。伝達速度を超える電気信号を神経細胞に与えて誤作動させようとする。この物語の筋立てや道具立てにリアリティがあるかどうかなんてもはやどうでもいい。ただ、驚くべき高密度のまま驚くべき高速で回転して行く重金属のようなこの小説に脳細胞を毎秒削り取られながら、そんな世界もあるんだろうかとぼんやり考えるだけでいいのだ。それが、エクスタシー。
(1993年発表 集英社文庫 ★★★★)
2008年10月18日
<12>長崎オランダ村
長崎オランダ村で40日に亘って行われたワールドフェスティバルに集まった世界中の大道芸人やミュージシャン、ダンサーらの繰り広げるドタバタを、「69」に登場した「ナカムラ」が主人公であり村上龍自身である「ケンさん」に語るというシンプルな構成でサイズも短め。「69」がそうであったように所詮は内輪ネタなのだが、それをきちんと外部化して小説として成立させている村上龍の筆力は確かなものだし、素直に面白い。
それは世界から集まってきたクセのある芸能人らが、日本でも最も西の果てに近い地方都市の人工的なリゾートに押しこめられたことによって、日本という狭い島国の空気のようなものがいとも簡単に異化されて行くことの痛快さが素材としてそもそも面白いということもあるのだが、夜の長崎をさまよい際限なく飲み食いしながら話し続けるナカムラとそれに突っこみを入れるケンさんのやりとりが洗練されているからでもあるだろう。
名作でも代表作でも問題作でも重要作でも何でもないけれど、特に「イビサ」の後には脳みそや心臓に何のプレッシャーもなく純粋に楽しんで読めるという意味で悪くない作品。ひとつだけ気になるのは村上龍がハウステンボスは単なるリゾート・コンプレックスではないなどと真面目にあとがきで書いてしまっていることだ。実際そうなのかもしれないが、僕にはそれが主宰者の説明の無批判な受け売りに思えてならない。それが残念。
(1992年発表 講談社文庫 ★★★)
それは世界から集まってきたクセのある芸能人らが、日本でも最も西の果てに近い地方都市の人工的なリゾートに押しこめられたことによって、日本という狭い島国の空気のようなものがいとも簡単に異化されて行くことの痛快さが素材としてそもそも面白いということもあるのだが、夜の長崎をさまよい際限なく飲み食いしながら話し続けるナカムラとそれに突っこみを入れるケンさんのやりとりが洗練されているからでもあるだろう。
名作でも代表作でも問題作でも重要作でも何でもないけれど、特に「イビサ」の後には脳みそや心臓に何のプレッシャーもなく純粋に楽しんで読めるという意味で悪くない作品。ひとつだけ気になるのは村上龍がハウステンボスは単なるリゾート・コンプレックスではないなどと真面目にあとがきで書いてしまっていることだ。実際そうなのかもしれないが、僕にはそれが主宰者の説明の無批判な受け売りに思えてならない。それが残念。
(1992年発表 講談社文庫 ★★★)
2008年10月16日
<11>イビサ
これは、破滅的なストーリーである、と村上龍はあとがきに書いている。確かに主人公のマチコは東京からパリ、コートダジュール、タンジール、マラケシュ、マドリッドからバルセロナへと旅を続ける中で加速度的に精神を崩壊させ、最後は四肢を切断されて地中海に浮かぶイビサへたどり着く。だが、その一方でマチコはそうした精神や肉体の変容と引き換えに覚醒し、自分の輪郭を獲得して神の如き存在へと自らを昇華させるのだ。
幽霊との交感や言語波によるコミュニケーションなど、半ばオカルトや神秘主義に近いマテリアルを扱いながら、この小説はキワモノに堕することのない緊張感を最後まで持続して行く。それはマチコが自分の精神を解放し、外部を受け入れて行く一方で異形のリアリティを認知して行くプロセスが圧倒的な密度で描きこまれているからである。その文脈ではモナコのカジノで幽霊と出会ったとしてももはや滑稽なことは何一つない。
マチコは自分と向かいあったのだと村上龍は言う。今、「自分探し」と称して外国に出て行く者はたくさんいる。だが、自分は所詮自分の中にしかない。この小説はまるでロードムービーのように視線をさまよわせながら、しかしその旅は実際には自分の中に際限なく分け入って行く旅なのだ。ケミカルでフィジカルな意識への圧力を通じて自分を細分化すること。ドラッグとセックスが本作に欠かせないのもそうやって理解され得るだろう。
(1992年発表 講談社文庫 ★★★★)
幽霊との交感や言語波によるコミュニケーションなど、半ばオカルトや神秘主義に近いマテリアルを扱いながら、この小説はキワモノに堕することのない緊張感を最後まで持続して行く。それはマチコが自分の精神を解放し、外部を受け入れて行く一方で異形のリアリティを認知して行くプロセスが圧倒的な密度で描きこまれているからである。その文脈ではモナコのカジノで幽霊と出会ったとしてももはや滑稽なことは何一つない。
マチコは自分と向かいあったのだと村上龍は言う。今、「自分探し」と称して外国に出て行く者はたくさんいる。だが、自分は所詮自分の中にしかない。この小説はまるでロードムービーのように視線をさまよわせながら、しかしその旅は実際には自分の中に際限なく分け入って行く旅なのだ。ケミカルでフィジカルな意識への圧力を通じて自分を細分化すること。ドラッグとセックスが本作に欠かせないのもそうやって理解され得るだろう。
(1992年発表 講談社文庫 ★★★★)
2008年10月13日
<10>超電導ナイトクラブ
おいおい。これはひどい。ずっと僕の書棚にあったが読んだ記憶がなく、今回読んでバカ野郎オレの貴重な週末を返せと言いたくなった。きっと村上龍は何かヘンなクスリでラリッてこの小説を書いたに違いない。そうでなければ説明できないしそうでなくてこんなひどい小説を書いたのであればそれはそれである意味「コインロッカー」よりも「ファシズム」よりもすごいのかもしれないが、それほどムチャクチャでデタラメな小説なのだ。
一応ストーリーとしては銀座のバーに集まる先端技術の関係者たちが夜な夜な繰り広げるバカ話から国家的なプロジェクトが生まれ、というSFチックなもので、たぶん村上龍はそれなりに先端技術を勉強しそれが常人の想像を超える地点まで到達しつつあるといったような感慨を得てこの物語を書き始めたのだろうが、途中から物語は脱線に次ぐ脱線を経て加速度的に崩壊し、最後には筒井康隆を彷彿させるスラップスティックに陥って行く。
だが、これが一概にドラッグ・ノベルだと言い切れないのは、そのスラップスティックのさなかにあって村上龍がほとんど悪趣味に近い乾ききったユーモアを頑なに守り通しているからであり、これは村上龍が完全に覚醒していることを示しているのであって、だとすれば村上龍は筒井に匹敵するナンセンス作家であったということなのかもしれない。文学に何か高潔で真摯なモノを求める人はたぶん怒ると思うので読まない方がいい。
(1991年発表 講談社文庫 ★★☆)
一応ストーリーとしては銀座のバーに集まる先端技術の関係者たちが夜な夜な繰り広げるバカ話から国家的なプロジェクトが生まれ、というSFチックなもので、たぶん村上龍はそれなりに先端技術を勉強しそれが常人の想像を超える地点まで到達しつつあるといったような感慨を得てこの物語を書き始めたのだろうが、途中から物語は脱線に次ぐ脱線を経て加速度的に崩壊し、最後には筒井康隆を彷彿させるスラップスティックに陥って行く。
だが、これが一概にドラッグ・ノベルだと言い切れないのは、そのスラップスティックのさなかにあって村上龍がほとんど悪趣味に近い乾ききったユーモアを頑なに守り通しているからであり、これは村上龍が完全に覚醒していることを示しているのであって、だとすれば村上龍は筒井に匹敵するナンセンス作家であったということなのかもしれない。文学に何か高潔で真摯なモノを求める人はたぶん怒ると思うので読まない方がいい。
(1991年発表 講談社文庫 ★★☆)
2008年10月11日
<09>コックサッカーブルース
いったいこの作品が何について書かれているのか分からない。確かにSMについて書かれてはいる。作中にもプレイの描写が出てくるし、ストーリーは異様な力を持つSM嬢を巡って展開する。主人公はSM嬢を巡る壮大なスキャンダルに巻きこまれ、彼女を探し出さなければ殺される運命に陥ってしまう。胡散臭い探偵や有名な作曲家と組んで彼女を探すうちに風呂敷はどんどん広がり、最後には神秘主義が登場して霊界が何だとかいう話になる。
焦点が曖昧なのだ。霊界の掲示板のようなところに切断された人の手と足をくっつけたメッセージがあって、ってそりゃ何だ。物語の前半で描かれるSM嬢ヒロミの印象と最後に出てくる救済者としてのヒロミの人物造形も随分ギャップがあるし、だいたい主人公で物語の語り手でもある堀坂もインテリなのか凡庸なのか、ノーマルなのか変態なのか分からず人物像がはっきりしない。だから物語全体も泣き笑いのようではっきりしない。
堀坂のコミカルな語り口で、荒唐無稽かつ重たい話を一気にドライブして行く村上龍の筆力は確かなものだし、語られる話のディテールには深く肯く部分も多くあるものの、途中から話が浮世離れしてきてだんだんアホらしくなってくる。すごいモノ、超越するモノを描くために「国家予算の5パーセント」なんてタームが必要なのか。神秘主義に行くなら行くでもっと陰惨な終わり方でよかった。広げた大風呂敷を回収しきれなかった印象。
(1991年発表 集英社文庫 ★★★☆)
焦点が曖昧なのだ。霊界の掲示板のようなところに切断された人の手と足をくっつけたメッセージがあって、ってそりゃ何だ。物語の前半で描かれるSM嬢ヒロミの印象と最後に出てくる救済者としてのヒロミの人物造形も随分ギャップがあるし、だいたい主人公で物語の語り手でもある堀坂もインテリなのか凡庸なのか、ノーマルなのか変態なのか分からず人物像がはっきりしない。だから物語全体も泣き笑いのようではっきりしない。
堀坂のコミカルな語り口で、荒唐無稽かつ重たい話を一気にドライブして行く村上龍の筆力は確かなものだし、語られる話のディテールには深く肯く部分も多くあるものの、途中から話が浮世離れしてきてだんだんアホらしくなってくる。すごいモノ、超越するモノを描くために「国家予算の5パーセント」なんてタームが必要なのか。神秘主義に行くなら行くでもっと陰惨な終わり方でよかった。広げた大風呂敷を回収しきれなかった印象。
(1991年発表 集英社文庫 ★★★☆)
2008年10月06日
<08>ラッフルズホテル
村上龍が監督した同名の映画のノベライズ。自らシナリオを書き、監督した映画を後から小説に仕立て上げた訳だが、映画の本質は常に映像にあってプロットにある訳ではないので、この小説もプロットとしてはほとんど何も語りかけては来ない。頭のおかしい女優が、かつて恋人だった写真家を探しにシンガポールまでやって来てラッフルズホテルに泊まる話、といってしまえばそれで終わる作品だ。この作品の本質は別のところにある。
別のところにあるはずなのだが、それがどこか、それは何か、それは非常に曖昧で難しい。ひとつはかつてベトナムで従軍した写真家が日本に帰還してビジネスマンとして成功した後で抱える「空洞」であり、もう一つは言うまでもなく常に演技を続け神経を緊張させている女優の「耳の裏側の世界」だ。それらはたぶん同じもので、手っ取り早く言ってしまえばそれはおそらく自分と世界との距離とか関係の発見とその確認に他ならない。
そのことは映画で見れば分かるのかもしれない。実際にシンガポールのコロニアル様式の古いホテルや鬱蒼とした熱帯のジャングルを映像としてみれば何かが見えてくるのかもしれない。だが、この作品だけからその「場」が持つ磁力を読み取れというのは無理な話。頭のおかしい女を書かせたら村上龍の右に出る者はいなくて、その面白さを無責任に楽しんでいるうちに、何かに気づく間もなく読み終わってしまう、話の早い小説だ。
(1989年発表 集英社文庫 ★★☆)
別のところにあるはずなのだが、それがどこか、それは何か、それは非常に曖昧で難しい。ひとつはかつてベトナムで従軍した写真家が日本に帰還してビジネスマンとして成功した後で抱える「空洞」であり、もう一つは言うまでもなく常に演技を続け神経を緊張させている女優の「耳の裏側の世界」だ。それらはたぶん同じもので、手っ取り早く言ってしまえばそれはおそらく自分と世界との距離とか関係の発見とその確認に他ならない。
そのことは映画で見れば分かるのかもしれない。実際にシンガポールのコロニアル様式の古いホテルや鬱蒼とした熱帯のジャングルを映像としてみれば何かが見えてくるのかもしれない。だが、この作品だけからその「場」が持つ磁力を読み取れというのは無理な話。頭のおかしい女を書かせたら村上龍の右に出る者はいなくて、その面白さを無責任に楽しんでいるうちに、何かに気づく間もなく読み終わってしまう、話の早い小説だ。
(1989年発表 集英社文庫 ★★☆)
2008年10月05日
<07>愛と幻想のファシズム
これはもちろん経済小説ではないし政治小説でもない。ここにあるのは僕たちの日常を充たす曖昧さ、生暖かさへの強烈な拒絶反応であり、それがこの小説のすべてだ。自然の中では飢え、淘汰されるべき弱者が、民主主義の中では大切に生かされている。彼らを生かすためにシステムは無用に複雑化し、洗練されて、僕たちは生の実感からどんどん遠ざかってしまう。僕たちはシンプルで美しい生の論理を取り戻さなければならないのだ。
その主張は明快である。しかしそれは多分にロマンティックなものだ。システムを嫌い、日常を憎悪して狩猟社を始めたはずのトウジはやがてそれ自体がひとつの反復、日常に堕して行くのを見る。革命を起こすことは簡単だが継続することは難しいという古典的なパラドクスがここでも繰り返される。しかしここで村上龍が書きたいのはたぶんそのことではない。重要なのは、革命はロマンティックで、感傷的なものだということだ。
そこにあっては政治も経済も中心的な契機ではあり得ない。生の実感、快楽や痛みを自分の実感として取り戻したい、すべてを直接自分の感覚として実感したいという欲求は、政治的なものでも経済的なものでもないからだ。それは優れてロマンティックで感傷的な感覚であり、文学的にこそ語られ得るものだ。「愛と幻想」というタイトルはその文脈で理解されるべきであり、ゼロの死によって物語が終息するのも必然なのだ。必読の名作。
(1987年発表 講談社文庫 ★★★★☆)
その主張は明快である。しかしそれは多分にロマンティックなものだ。システムを嫌い、日常を憎悪して狩猟社を始めたはずのトウジはやがてそれ自体がひとつの反復、日常に堕して行くのを見る。革命を起こすことは簡単だが継続することは難しいという古典的なパラドクスがここでも繰り返される。しかしここで村上龍が書きたいのはたぶんそのことではない。重要なのは、革命はロマンティックで、感傷的なものだということだ。
そこにあっては政治も経済も中心的な契機ではあり得ない。生の実感、快楽や痛みを自分の実感として取り戻したい、すべてを直接自分の感覚として実感したいという欲求は、政治的なものでも経済的なものでもないからだ。それは優れてロマンティックで感傷的な感覚であり、文学的にこそ語られ得るものだ。「愛と幻想」というタイトルはその文脈で理解されるべきであり、ゼロの死によって物語が終息するのも必然なのだ。必読の名作。
(1987年発表 講談社文庫 ★★★★☆)