2008年11月
2008年11月30日
<25>ストレンジ・デイズ
クラシック・ロックの名曲をタイトルにした18の章からなる作品で、文芸誌に連載されたものらしい。おそらく最初はそれぞれの曲にちなんだ連作短編みたいなイメージだったのだろうと思うが、物語はいつしか自律的な推進力を手に入れて転がり始める。天才的な演技力を持つ巨大トラックのドライバーという訳の分からない人物造形を核に、彼女の超越的な演技力が周囲を異化して行くさまが丁寧に書き込まれて展開して行くのである。
そのトラック・ドライバー、ジュンコを媒介として主人公反町の絶望と無力感が明らかにされて行く。ジュンコの演技は、僕たちが互いを傷つけないように確認し合っている暗黙のコミュニケーションのルールのようなものに潜む、生来的な曖昧さを容赦なく暴いて行くのだ。僕たちの社会が、厳密な言葉で本質的なことを直接物語ることの難しい場所であることを、村上龍は繰り返し指摘する。そしてその指摘は間違いなく正当なものだ。
そういう危機感はこれまでにも村上龍の小説には何度も現れてきたものであり、そこにおいてドラッグも暴力もセックスもそうしたコミュニケーションの「不自由さ」を突破するツールとしてあった。ここでは性的なモメントは希薄だが、村上龍は演技すること、自己と他者の境目を確認することをバネにして同じように突破を図っのだろう。ロケット風船みたいに推進力はあるが方向が今ひとつ定まらない感がありそれが残念な作品だ。
(1997年発表 講談社文庫 ★★★☆)
そのトラック・ドライバー、ジュンコを媒介として主人公反町の絶望と無力感が明らかにされて行く。ジュンコの演技は、僕たちが互いを傷つけないように確認し合っている暗黙のコミュニケーションのルールのようなものに潜む、生来的な曖昧さを容赦なく暴いて行くのだ。僕たちの社会が、厳密な言葉で本質的なことを直接物語ることの難しい場所であることを、村上龍は繰り返し指摘する。そしてその指摘は間違いなく正当なものだ。
そういう危機感はこれまでにも村上龍の小説には何度も現れてきたものであり、そこにおいてドラッグも暴力もセックスもそうしたコミュニケーションの「不自由さ」を突破するツールとしてあった。ここでは性的なモメントは希薄だが、村上龍は演技すること、自己と他者の境目を確認することをバネにして同じように突破を図っのだろう。ロケット風船みたいに推進力はあるが方向が今ひとつ定まらない感がありそれが残念な作品だ。
(1997年発表 講談社文庫 ★★★☆)
2008年11月25日
<24>はじめての夜 二度目の夜 最後の夜
「コスモポリタン」という雑誌に1年半に渡って連載された作品らしい。それを知ってなるほどと思った。おそらく、フルコースの料理を題材にしてそれにちなんだ小説を書くとかそういう安易な企画に乗って書かれた作品だろう。ハウステンボスのレストラン「エリタージュ」を舞台に、そこで供される料理を織り込んで物語は進行する。いや、物語というほどのことは何もない。好きだった同級生と再会して思い出話をする、それだけだ。
それだけの話を丁寧にブイヨンで薄く伸ばしてフォアグラやらトリュフやらで味つけしただけの作品であり、特に何かが起こる訳でもない。中心となるメッセージはごくシンプルで、しかもそれはこれまでの村上龍の作品で何度となく繰り返されたものだ。この作品と舞台を共有する「69」や「長崎オランダ村」にも書かれたように、どのようにして我々の「生」をストレートに肯定するかということだけがここにある問題意識の核心である。
どうでもいいような料理の話が必然的に挿入されるのが非常にまどろっこしく、うざったく、いくら良質のブイヨンで伸ばしたといっても薄めたことには変わりはないので水増し感の強い作品だが、そういう作品の中にも何となく真理っぽいことを書き込めるのが村上龍の技量なのだろう。そういう意味ではそれなりに雰囲気も出して健闘していると言っていいのだろうがいかんせん決定的に薄く、「お仕事」的なやっつけが気になる作品だ。
(1996年発表 集英社文庫 ★★☆)
それだけの話を丁寧にブイヨンで薄く伸ばしてフォアグラやらトリュフやらで味つけしただけの作品であり、特に何かが起こる訳でもない。中心となるメッセージはごくシンプルで、しかもそれはこれまでの村上龍の作品で何度となく繰り返されたものだ。この作品と舞台を共有する「69」や「長崎オランダ村」にも書かれたように、どのようにして我々の「生」をストレートに肯定するかということだけがここにある問題意識の核心である。
どうでもいいような料理の話が必然的に挿入されるのが非常にまどろっこしく、うざったく、いくら良質のブイヨンで伸ばしたといっても薄めたことには変わりはないので水増し感の強い作品だが、そういう作品の中にも何となく真理っぽいことを書き込めるのが村上龍の技量なのだろう。そういう意味ではそれなりに雰囲気も出して健闘していると言っていいのだろうがいかんせん決定的に薄く、「お仕事」的なやっつけが気になる作品だ。
(1996年発表 集英社文庫 ★★☆)
2008年11月22日
<23>ラブ&ポップ ―トパーズII―
援助交際という言葉はもはや廃れたのか、あるいはあまりに普通の言葉として僕たちの日常に溶けこんでしまったのか。ヒロミという女子高校生が、渋谷の109で見つけたインペリアル・トパーズの指輪を手に入れるために「最後まで付き合う」援助交際をすることを決意し、伝言ダイヤルにメッセージを残してみるところから物語は始まる。欲しいものがはっきりしているとき、それを手に入れるために援助交際をするのは悪いことなのか。
残念ながら本作のように風俗を扱った作品の賞味期限は早く訪れる。今では携帯電話を持たずに渋谷を徘徊する女子高校生なんていないだろう。ポケベルのサービスもなくなって久しい。そうした時代相の中で語られるヒロミの冒険譚も今となってはどことなく牧歌的だし、せっかくの冒険が「こういう時に、どこかで誰かが死ぬほど悲しい思いをしている」といった情緒的で道徳的な認識に回収されて行くのはもったいなく、情けない。
村上龍はそうした情緒的で道徳的な、あるいは因襲的で抑圧的な枠組みから解放されることをほとんどただ一つの美点として描ききった小説家であったはずだ。そうであってみればこの物語は、何の不自由もない中産階級の子女であるヒロミが、社会的落伍者の男たちに身体を売ったカネでインペリアル・トパーズの指輪を手に入れ、それをうっとりと眺めるシーンで終わってこそ説得力があったのではないか。そこに不満が残る作品だ。
(1996年発表 幻冬舎文庫 ★★★)
残念ながら本作のように風俗を扱った作品の賞味期限は早く訪れる。今では携帯電話を持たずに渋谷を徘徊する女子高校生なんていないだろう。ポケベルのサービスもなくなって久しい。そうした時代相の中で語られるヒロミの冒険譚も今となってはどことなく牧歌的だし、せっかくの冒険が「こういう時に、どこかで誰かが死ぬほど悲しい思いをしている」といった情緒的で道徳的な認識に回収されて行くのはもったいなく、情けない。
村上龍はそうした情緒的で道徳的な、あるいは因襲的で抑圧的な枠組みから解放されることをほとんどただ一つの美点として描ききった小説家であったはずだ。そうであってみればこの物語は、何の不自由もない中産階級の子女であるヒロミが、社会的落伍者の男たちに身体を売ったカネでインペリアル・トパーズの指輪を手に入れ、それをうっとりと眺めるシーンで終わってこそ説得力があったのではないか。そこに不満が残る作品だ。
(1996年発表 幻冬舎文庫 ★★★)
<22>メランコリア
ヤザキとケイコ、レイコをめぐる三部作の中間に位置する作品。ここではジャーナリストのミチコが聞き手となりヤザキからホームレスになった経緯をインタビューするという形で、例によって過剰とも思える独白が延々と続いて行く。そして冷静でクレバーなはずのミチコはやがてヤザキの抱える真空に吸い込まれるように引き寄せられて行く。そう、ここで明かされるのはヤザキの抱えるのが結局のところ真空であり空白だということだ。
それは自意識から自由になるということで、もちろん容易なことではない。すべての社会性や共同性をいったんすべてかなぐり捨て、何者でもない自分をそこに見出すことからしか何も始まらないということなのだが、何者でもない自分と向かい合うのは非常にエネルギーの要る作業であり、ドラッグの助けを借りずにその場所に降り立つためには大変な消耗を強いられる。だからたいていの男は自意識とともに社会的に生きて行くしかない。
ヤザキが魅力的なのだとしたら、そのような自意識から自由になった後の地獄を、ドラッグに頼りながらではあれ生き抜いたからなのであり、そこに必然的に生まれる憂鬱(メランコリア)を引き受けているからなのだと思う。そして物語のラストではミチコもまたヤザキの憂鬱の慰み物に過ぎないことが示唆される。小説的バランスからは完全に逸脱しているが、三部作の中では最も直接的であり、村上龍の世界観がはっきり出た作品だ。
(1996年発表 集英社文庫 ★★★★)
それは自意識から自由になるということで、もちろん容易なことではない。すべての社会性や共同性をいったんすべてかなぐり捨て、何者でもない自分をそこに見出すことからしか何も始まらないということなのだが、何者でもない自分と向かい合うのは非常にエネルギーの要る作業であり、ドラッグの助けを借りずにその場所に降り立つためには大変な消耗を強いられる。だからたいていの男は自意識とともに社会的に生きて行くしかない。
ヤザキが魅力的なのだとしたら、そのような自意識から自由になった後の地獄を、ドラッグに頼りながらではあれ生き抜いたからなのであり、そこに必然的に生まれる憂鬱(メランコリア)を引き受けているからなのだと思う。そして物語のラストではミチコもまたヤザキの憂鬱の慰み物に過ぎないことが示唆される。小説的バランスからは完全に逸脱しているが、三部作の中では最も直接的であり、村上龍の世界観がはっきり出た作品だ。
(1996年発表 集英社文庫 ★★★★)
2008年11月21日
<21>ヒュウガ・ウィルス 五分後の世界II
物語の設定は「五分後の世界」をそのまま継承しているが、ストーリーは、突然現れた致死性ウィルスの発生源と見られる村を処分するために地下政府から派遣されるゲリラ部隊の活躍を、敵国民であるCNNの記者キャサリン・コウリーの目から描いたものになっている。ウィルスの作用するメカニズムは徐々に解き明かされ、「圧倒的な危機感をエネルギーにする作業を日常的にしてきたか」が生死のポイントとなることが説明される。
この作品は生化学的な記号で華やかに彩られているが、最終的な救済が結局のところ「危機感」という「意志」の問題に帰着するところは非常に特徴的だし、優れてロマンティックである。ここに至って初めてこの物語が「五分後の世界」を借景としなければならなかった理由も明らかになる。そして、そのような強い危機感、生存への強い意志を持たない者が淘汰されて行く世界の訪れを予感させて「五分後の世界」は完結するのである。
惜しまれるのはこうした生化学的な知見がいかにも付け焼き刃的というか受け売り的に見えてしまうことだ。門外漢が一夜漬け的にお勉強した知識をこれでもかと見せびらかしている感が強い。作中、レイが地下に住む浮浪者の鳴き声を編集した音楽を兵士に聴かせる部分があるが、そういう描写の豊かさに比べれば生化学的な説明は生硬であり見劣りする。物語全体の密度、スピードが辛うじてそれを上回ることで作品として救われた。
(1996年発表 幻冬舎文庫 ★★★★)
この作品は生化学的な記号で華やかに彩られているが、最終的な救済が結局のところ「危機感」という「意志」の問題に帰着するところは非常に特徴的だし、優れてロマンティックである。ここに至って初めてこの物語が「五分後の世界」を借景としなければならなかった理由も明らかになる。そして、そのような強い危機感、生存への強い意志を持たない者が淘汰されて行く世界の訪れを予感させて「五分後の世界」は完結するのである。
惜しまれるのはこうした生化学的な知見がいかにも付け焼き刃的というか受け売り的に見えてしまうことだ。門外漢が一夜漬け的にお勉強した知識をこれでもかと見せびらかしている感が強い。作中、レイが地下に住む浮浪者の鳴き声を編集した音楽を兵士に聴かせる部分があるが、そういう描写の豊かさに比べれば生化学的な説明は生硬であり見劣りする。物語全体の密度、スピードが辛うじてそれを上回ることで作品として救われた。
(1996年発表 幻冬舎文庫 ★★★★)
2008年11月15日
<20>KYOKO
村上龍が監督した映画「KYOKO」のノベライズ。子供の頃、米軍の兵士であるホセからダンスを教えてもらったキョウコが、13年後にホセを探しにニューヨークへ渡るという物語である。キョウコはホセを探し当てるが、ホセは末期のエイズで死の床にあった。キョウコはホセをマイアミの母親の元に送り届けようとクルマで出発する。キョウコとホセを結びつけたダンスの力を借りながら、ロード・ムービーのように物語は走り始める。
村上龍自身が「あとがき」で言う通り、この物語は「一種の妖精譚であり、悪意が存在しない寓話だ」。むしろ悪意だけで成り立つ物語の中に希望とか再生とか救済のイメージを探し求めてきた村上龍の作品群にあって、その意味でこの作品は相当異質であり、読み終えた後の手応えも他の作品とはかなり違ったものである。村上龍がキョウコやキューバのダンスを通して描きたかった景色とはいったいどのようなものだったのだろうか。
ホームを離れ困難な環境に身を置いたとき、自分を助けるのは余分な自意識を剥ぎ取った真っ直ぐな意志だけなのだというのがおそらくこの物語の核なのではないかと僕は思う。物語はキョウコと行き会うアメリカ人たちの視点でリレーのように語り継がれるが、そのことがキョウコの「意志」を外側から際立たせて行く。ただ、キューバ音楽にもダンスにも何の興味もない者にとっては、そこに依拠した物語の作りがピンとこなかった。
(1995年発表 集英社文庫 ★★★)
村上龍自身が「あとがき」で言う通り、この物語は「一種の妖精譚であり、悪意が存在しない寓話だ」。むしろ悪意だけで成り立つ物語の中に希望とか再生とか救済のイメージを探し求めてきた村上龍の作品群にあって、その意味でこの作品は相当異質であり、読み終えた後の手応えも他の作品とはかなり違ったものである。村上龍がキョウコやキューバのダンスを通して描きたかった景色とはいったいどのようなものだったのだろうか。
ホームを離れ困難な環境に身を置いたとき、自分を助けるのは余分な自意識を剥ぎ取った真っ直ぐな意志だけなのだというのがおそらくこの物語の核なのではないかと僕は思う。物語はキョウコと行き会うアメリカ人たちの視点でリレーのように語り継がれるが、そのことがキョウコの「意志」を外側から際立たせて行く。ただ、キューバ音楽にもダンスにも何の興味もない者にとっては、そこに依拠した物語の作りがピンとこなかった。
(1995年発表 集英社文庫 ★★★)
2008年11月10日
<19>ピアッシング
殺人衝動を持つ男と自殺願望を持つ女の物語。枚数は少なく高いテンションのまま一気に読ませる。もちろんシリアスな小説なのだが、互いに心の深いところに癒し難い傷を抱えた二人の思惑が微妙にというか絶妙にすれ違って物語がどんどん取り返しのつかないところに進んでいってしまう運び方はむしろコミカルですらあり、よくできたナンセンス・コントを見ているような気になる。このテンポのよさがこの作品のひとつのキモである。
恐怖は想像から生まれる、それが起こってしまえば恐怖はなくなるというテーゼは村上龍のこれまでの作品にも頻繁に現れるものだし、自傷、幼児虐待、薬物やSMなどいかにものアイテムがこれでもかと詰めこまれていて焦点が曖昧になってしまった感は否めないが、この救いのない物語の中で最も読まれなければならないのは川島昌之や佐名田千秋の抱える自分の中のもう一人の自分の声であり、その絶望的な切実さではないかと思う。
ただ、そうした切実さが僕たちの抱えるものと地続きの場所にあって、意外なほど理解可能なものであることをこの物語は残念ながら示しきっていないと思う。村上龍はこの作品を自らサイコスリラーだと形容しているが、本当に怖いのは血が流されることではなく、そのような異常さが自分の当たり前で平穏な生活のすぐ隣にあることに気づく瞬間であり、これは自分のことかもしれないという認識だ。それを描ききれなかった憾みは残る。
(1994年発表 幻冬舎文庫 ★★★☆)
恐怖は想像から生まれる、それが起こってしまえば恐怖はなくなるというテーゼは村上龍のこれまでの作品にも頻繁に現れるものだし、自傷、幼児虐待、薬物やSMなどいかにものアイテムがこれでもかと詰めこまれていて焦点が曖昧になってしまった感は否めないが、この救いのない物語の中で最も読まれなければならないのは川島昌之や佐名田千秋の抱える自分の中のもう一人の自分の声であり、その絶望的な切実さではないかと思う。
ただ、そうした切実さが僕たちの抱えるものと地続きの場所にあって、意外なほど理解可能なものであることをこの物語は残念ながら示しきっていないと思う。村上龍はこの作品を自らサイコスリラーだと形容しているが、本当に怖いのは血が流されることではなく、そのような異常さが自分の当たり前で平穏な生活のすぐ隣にあることに気づく瞬間であり、これは自分のことかもしれないという認識だ。それを描ききれなかった憾みは残る。
(1994年発表 幻冬舎文庫 ★★★☆)
2008年11月07日
<18>五分後の世界
僕たちの「現実」から5分だけズレたパラレル・ワールドの物語。その世界では日本はポツダム宣言を受諾せず、本土を占領されながら地下にトンネル王国を作り上げてゲリラ戦を続けている。主人公の小田桐は何の脈絡もなくその世界に迷いこみ、ゲリラ軍と国連軍との戦闘に巻きこまれる。「高い城の男」もびっくりのSF巨編だが、もちろん村上龍にあってはそんな設定はただの舞台装置に過ぎない。問題なのはそこに描かれるものだ。
そこで描かれるのは酸鼻で醜悪な戦闘だ。人の命は限りなく軽く、死はいつでもすぐそこにある。だが、村上龍がここで描こうとしているのは間違いなくユートピアだ。誇り高いが柔軟で合理的な民族、シンプルな原理に支配された社会。本土が蹂躙され文字通り地下に潜行しているとはいえ、ここにあるのは、日本が、あるいは日本人が、もしかしたらこのように存在し得たかもしれないという祈りや憧れにも似た一つの理想郷の姿なのだ。
しかし、村上龍はそのような社会が戦争という装置なしには成り立ち得ないこともまた十分に認識している。生きるか死ぬかという最も単純で明快な問いかけが背後にあってこそ、ここに描かれる理想郷はその緊張を維持できるのだ。この作品はもちろん反語的に僕たちの「現実」の曖昧さを苛立ちとともに告発しているのだが、徹底してリアルな戦闘シーンの書き込みによってこの作品は単なる右翼イデオローグに堕することを免れている。
(1994年発表 幻冬舎文庫 ★★★★☆)
そこで描かれるのは酸鼻で醜悪な戦闘だ。人の命は限りなく軽く、死はいつでもすぐそこにある。だが、村上龍がここで描こうとしているのは間違いなくユートピアだ。誇り高いが柔軟で合理的な民族、シンプルな原理に支配された社会。本土が蹂躙され文字通り地下に潜行しているとはいえ、ここにあるのは、日本が、あるいは日本人が、もしかしたらこのように存在し得たかもしれないという祈りや憧れにも似た一つの理想郷の姿なのだ。
しかし、村上龍はそのような社会が戦争という装置なしには成り立ち得ないこともまた十分に認識している。生きるか死ぬかという最も単純で明快な問いかけが背後にあってこそ、ここに描かれる理想郷はその緊張を維持できるのだ。この作品はもちろん反語的に僕たちの「現実」の曖昧さを苛立ちとともに告発しているのだが、徹底してリアルな戦闘シーンの書き込みによってこの作品は単なる右翼イデオローグに堕することを免れている。
(1994年発表 幻冬舎文庫 ★★★★☆)
2008年11月04日
<17>昭和歌謡大全集
何だかよく分からない作品。村上龍が書きたかったのはおそらくある種のディスコミュニケーションが特別な種類のコミュニケーションに転化して行く瞬間の奇跡みたいなことで、その転化の瞬間における暴力の必要性というか、そのような聖なる転生のためには血が流されなくてはならないということなのではないかと思うのだが、ここで描かれているディスコミュニケーションは今となっては説得力の乏しいものになってしまっている。
物語は社会に適応できない不幸な青年たちと、社会に足場を失いつつあるおばさんたちとの血で血を洗う抗争譜であり、お話としてはバカバカしいくらい単純で明快なのだが、このような社会からの「はぐれ方」の認識が、秋葉原通り魔事件を経験した2008年の現在においてどれだけ有効であり続けているのかは疑問だ。トカレフや燃料気化爆弾を介してですら、そこにコミュニケーションが成立するという奇跡を僕たちは期待できるのか。
そこにリアリティが決定的に欠けているため、僕たちにとってこの作品はもはや歴史的意義しか持ち得ないように思える。現代のディスコミュニケーションは絶望的に個別的であり、それがいかなる種類であれコミュニケーションに転化し得るということは考えられず、その行き着く先はダガーナイフによる殺戮のように陰惨で、この物語のどこかにあるような、最後の最後に笑えるようなカタルシスとは無縁の、息苦しい密封容器なのだ。
(1994年発表 集英社文庫 ★★★)
物語は社会に適応できない不幸な青年たちと、社会に足場を失いつつあるおばさんたちとの血で血を洗う抗争譜であり、お話としてはバカバカしいくらい単純で明快なのだが、このような社会からの「はぐれ方」の認識が、秋葉原通り魔事件を経験した2008年の現在においてどれだけ有効であり続けているのかは疑問だ。トカレフや燃料気化爆弾を介してですら、そこにコミュニケーションが成立するという奇跡を僕たちは期待できるのか。
そこにリアリティが決定的に欠けているため、僕たちにとってこの作品はもはや歴史的意義しか持ち得ないように思える。現代のディスコミュニケーションは絶望的に個別的であり、それがいかなる種類であれコミュニケーションに転化し得るということは考えられず、その行き着く先はダガーナイフによる殺戮のように陰惨で、この物語のどこかにあるような、最後の最後に笑えるようなカタルシスとは無縁の、息苦しい密封容器なのだ。
(1994年発表 集英社文庫 ★★★)
2008年11月01日
<16>音楽の海岸
中上健次に捧げられた作品。何しろ主人公の名前がヤマガミケンジだからな。ストーリーは単純だがディテールがきちんとリアルに書き込まれているので説得力、喚起力はあるし、登場人物の役割がはっきりしているから読む方としてはすごく楽である。一応屈折した性衝動やマゾヒズムを扱ってもいるが、それらが実存の本質に関わるような問題としては立ち現れず、もっぱら現象面での描写なのでストレスなく読み進めることができる。
いや、それなりにもっともらしいことは語られるし、ワルでありながらインテリの主人公が物語をドライブする。だがそれは村上龍の作品ではいつものことであり、僕たちはあまり代わり映えのしないいつもの歌を聴かされているような気分になる。面白いのは「言葉」についての省察がかなりの分量を割いて語られていることだ。ケンジは言う。「力を持つのは言葉そのもので、その言葉を発する人間の気持ちなど、何の役にも立たない」。
最後にケンジの妹の口から語られる「この国は生きていく希望を必要としていない」という認識はおそらく正しくて、村上龍としては本当はそれだけを中上に捧げたかったのではないか。希望がなくても生きて行くことのできる国に生まれたことを、僕たちは喜ぶべきなのか唾棄するべきなのか。だが、それを言うために書かれたにしてはそこにたどり着くまでの物語がいかにもこれまでの作品の焼き直しであるのがもったいないと思う。
(1993年発表 講談社文庫 ★★★)
いや、それなりにもっともらしいことは語られるし、ワルでありながらインテリの主人公が物語をドライブする。だがそれは村上龍の作品ではいつものことであり、僕たちはあまり代わり映えのしないいつもの歌を聴かされているような気分になる。面白いのは「言葉」についての省察がかなりの分量を割いて語られていることだ。ケンジは言う。「力を持つのは言葉そのもので、その言葉を発する人間の気持ちなど、何の役にも立たない」。
最後にケンジの妹の口から語られる「この国は生きていく希望を必要としていない」という認識はおそらく正しくて、村上龍としては本当はそれだけを中上に捧げたかったのではないか。希望がなくても生きて行くことのできる国に生まれたことを、僕たちは喜ぶべきなのか唾棄するべきなのか。だが、それを言うために書かれたにしてはそこにたどり着くまでの物語がいかにもこれまでの作品の焼き直しであるのがもったいないと思う。
(1993年発表 講談社文庫 ★★★)