2008年12月

2008年12月23日

<31>タナトス

「エクスタシー」「メランコリア」に続くシリーズ第3作。本作ではキューバに済むカメラマン・カザマを通してレイコの独白が延々と展開される。その独白からレイコとヤザキ、ケイコとの関係やレイコがキューバにたどり着いた経緯なども在る程度は明らかにされるのだが、もちろんここでの中心的なモメントはそのようなストーリーではなく、既に優雅に壊れきっているレイコの「壊れ」をどこまでも追いかけて行くこと自体である。

もちろん高いテンションに貫かれた異様な世界の描写と、既存の「分かり合い」に依存することを許さないキューバという舞台設定のおかげで、レイコが抱えこんだ複雑で重たいトラウマを強引にドライブして行く本作の目論見はかなりの程度成功しているが、このテーマも正直そろそろ食傷気味で、こんな変わった人もいるんだなあ、とか、こんな無茶な世界もあるんだなあとか、作品本来の痛みが読者にまで切迫しないようにも思える。

それはキューバという、大方の日本人は一生訪れることのない土地が舞台になっているせいで、そこにおける空気感の現実性が欠けることにも一因があると思う。村上龍がキューバの単なるファンになってしまって、キューバという国の特殊さと普通さを丁寧に書き分けるプロセスが欠落してしまっているのではないか。レイコの「壊れ」が川に落ちた父親のエピソードに収斂してしまうのも安易。ある気狂いの半生、では少し食い足りない。

(2001年発表 集英社文庫 ★★★)



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2008年12月18日

<30>希望の国のエクソダス

ディテールにおいては首をひねるような記述もないではないし、何より例によって受け売り感満載の経済解説や為替市場の描写が興を削ぐ部分は実際あるが、そしてまたここで描かれる中学生たちのブレイク・スルーのあり方があまりに楽観的で理想主義的だという決定的な非現実感はあるが、それにも関わらずこれは我々の国が何に突き当たっているのか、それを突破するためにどんな方法があり得るのかという難問に挑んだ意欲作である。

我々の社会は、バブルが弾けて長い景気後退というか未曾有の経済危機にあったとき、できる者もできない者も同じように仲良く豊かになるという大家族的な共同性を放棄し、その維持にかかるコストを削減することで何とか全体が共倒れになることを回避した。景気は回復したように見えたが、それはこれまで養ってきた家族を、これ以上面倒は見られないから自分で何とかしてくれと突き放すことによって残りの者を守っただけだった。

派遣労働者とか格差の問題の本質はそう理解すべきなのだが、この作品はその構造を的確に言い当てている。そして、そこにおいて観念できる救済のひとつの形を提示しているのだ。もちろんこれはお話なのだが、そこに書き込まれたひとつひとつのエピソード、アイデアには示唆的なものもある。それは村上龍が本質に近いところを見ている証左なのだろうが、このリニューアルされた世界的な金融危機は村上龍の想像力を超えたかもな。

(2000年発表 文春文庫 ★★★★)


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2008年12月12日

<29>共生虫

引きこもりをテーマにした作品。他の作品のところでも書いたが、アップ・トゥ・デイトな題材を描くほどその有効期間が短くなるのは必然か。引きこもりの青年がネット上のコミュニケーションを通じて何かに目覚めるという設定はどこか決定的に古い気がするし、主人公が掲示板で示された「共生虫」というモチーフに触発されながら、最終的には外に出て肉体性を獲得するというストーリーは類型的で因襲的ですらあるのでないか。

引きこもりがネットで示唆されるものは「外へ出よ」というサインではない。彼らがそこで受け取るのは「より深くネットに沈潜せよ」というメッセージだ。村上龍がここで描きたかったのが引きこもりの覚醒なのか自壊なのかはよく分からないが、いずれにしてもそのモメントを森林公園での優れて肉体的な体験に求めるのは一種の退廃だ。村上龍であればその答えをネットの迷宮の奥の奥にこそ見出すべきではなかったのだろうか。

もちろんそこには時代的な制約もある。ホームページ、掲示板、アクセスカウンタの世界は、いつの間にかブログ、SNS、携帯メールへと移行した。今では、ネットに沈潜した結果、完全に社会からデタッチすることは珍しくも難しくもない。2ちゃんねるが引き受けるジャンク・コミュニケーションのオーバーフローの中にこそ因襲的な社会の共同性に変わる新しい人間関係のモデルがあるとか、それくらいのことは書いて欲しかった。

(2000年発表 講談社文庫 ★★★☆)


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2008年12月07日

<28>ライン

ひとことで言ってしまえば頭のおかしい人たちの見本市みたいなものである。ここに出てくる人たちはだれもどこか病んでいる、とかいうレベルではなく、明らかにおかしい。もちろん病みと正気との間に明確な境界がある訳でなく、それはグラデーション的に地続きなのだが、一方でプレッシャーやストレスを受けた人間がだれでも病む訳ではなく、正気から病みに移行する瞬間にあるはずの「踏み越え」のことを村上龍は描き続ける。

気になるのは物語の運びが直線的で話法が平板であること。多くの病んだ人たちのエピソードがリレー形式で語られて行くのだが、そこから多様な声が聞こえてこない。先を急ぐ余りひとりひとりの描写が説明的で、事例としての面白さはあっても小説的な付加価値は小さい。悲惨な生い立ちも病みが発現する瞬間の「踏み越え」も常軌を逸した行動も、どれもが通り一遍でコンパクトに収まっており、全体としての印象は散漫と言う他ない。

村上龍自身はこれを「近代の物語・個人史をテーマではなく背景とした」と説明しているが、ではその背景の手前で語られるべき物語とは何か。それこそは正気が病みに転ずる瞬間の「踏み越え」の個人的な体験に他ならず、それが起こる人間と起こらない人間の、起こる前と起こった後の、グラデーション的な連続性に生じた微細な亀裂を突き止めて描ききることではないのか。方法論として面白くはあるが決定的に食い足りない作品だ。

(1998年発表 幻冬舎文庫 ★★★)


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2008年12月05日

<27>オーディション

頭のおかしい女を書かせたらやはり村上龍はすごい。幼児期の虐待体験がもとで、男を決して信用できず、裏切られたと感じると豹変してその男の足首を切断する女。明らかに異常である。異常なんだけど何となくそのメカニズムが理解できてしまうから怖い。片足首を切断されて血が吹き出るシーンのフィジカルな嫌悪感もすごいが、本当に怖いのはそういう女がいてもおかしくないと普通に感じてしまう描写の巧みさ、リアルさの方だ。

さらにこの作品の凄みを増しているのは、その異常な女である山崎麻美が、そのようにして異常な行動に走る一瞬手前まで、この上なくコケティッシュで魅力的な女性として描かれていることだ。周囲から「あの女はどこかおかしい」と言われながらそれを受け入れず、恋愛初期特有のキラキラしたトキメキ感に溺れ冷静な判断力を失って行く主人公の思考のパターンがまた迫真的で怖い。主人公と麻美のセックス描写も臭うほどリアルだ。

主人公には死んだ妻との間の遺児があり、その存在が麻美のスイッチを入れた。では、仮に主人公にそういう存在がなく、麻美を取り敢えず引き受けることができたらどうだっただろう。おそらく麻美の独占欲はさらに高じて、結局信じられないような些細なことをきっかけに同じ結末を迎えただろう。なぜなら麻美が本当に欲しているのは男はやはり自分を裏切るという確認だからだ。これが娯楽作に仕上がっていることがすごいと思う。

(1997年発表 幻冬舎文庫 ★★★☆)


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2008年12月02日

<26>イン ザ・ミソスープ

こんな小説が読売新聞に連載されていたというのだから我が国もまだ捨てたものではないのではないか。10年以上前の作品だが、ここで村上龍が苛立っていたもの、フランクの手を借りて殺そうとしたものは依然としてそこにあるし、それはむしろより広く、静かに潜行しつつある。それはエグい殺人シーンを媒介にして日本でも最もメジャーな新聞のひとつで告発されたにもかかわらず、結局のところ今でも変わらずに生き続けているのだ。

フランクはそれを退化だという。外部から海によって地政学的に隔てられ、極めて特殊な言語で成り立つ閉じた社会の中で、ある種の符丁のようなものだけが奇形的な進化を遂げ、だれもがそれをコミュニケーションだと思っている。痙攣的な笑いを共有することでギリギリの共同性を確認し合っている社会にあって、僕たちの危機感とかそれを生き延びようとする力はどんどん弱まって行く。なぜなら痙攣的に笑っている方が楽なのだから。

リスクを負う力、判断する力、意思を伝える力。そういう当たり前の能力が弱った人間は「殺してくれという信号を無意識に発している」。そう言い切る村上龍はやはり優れた小説家だし、だからこそ彼は「何か汚物処理のようなことを一人でまかされているような気分になった」のだ。文学作品そのものとしての完成度はともかく、ここで村上龍が告発した危機感は正当なもの。問題の本質は共同体の崩壊ではないと思うがそれは別として。

(1997年発表 幻冬舎文庫 ★★★★)


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