2009年01月

2009年01月21日

<35>2days 4girls

困難な作品。金融業で十分な稼ぎを得ながら、精神的に破綻した女性を引き取りオーバーホールする「プラントハンター」を自称する男の、4人の女性を預かり、オーバーホールするエピソードが語られる。一方で男自身はどこにあるのか分からない庭園を歩き続ける。まるで心象風景のように抽象的でだれもいない荒涼とした世界を男は歩き続け、彼が関わった女たちのことを思い出す。男は自分がなぜそこにいるのか分からないまま歩く。

ここでは他人に「関与する」ということが重要なモチーフとして語られている。自分が関与することでだれかが変わる、関与することへの渇望。やがて男は広大な庭園を抜け無人の街にたどり着く。そこには男の自我を大きく規定した幼児体験の舞台となった映画館がある。男のいる場所が現実の世界なのか夢の中なのか、あるいは死後の世界なのか、それは最後まで語られず、ただそこが男にとって重要な場所であることだけが示される。

一種の観念小説のようでもあり、女たちとの関わりについての男の語りの部分はこれまでの村上龍の「SMもの」の延長のようにも読めるが、そこには現実感は希薄だ。表層を撫でるだけの煮えきらない物語が垂れ流されると言ってもいい。何かをわしづかみにするような強引さに欠け、「雰囲気」に終始して最も重要な部分をやり過ごしたという失望感が残る。書かれていることは結局これまでの作品の焼き直しに過ぎなかったのではないか。

(2003年発表 集英社文庫 ★★☆)



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2009年01月15日

<34>悪魔のパス 天使のゴール

オレって中田英寿のダチなんだぜ、どうだ、すごいだろ、というだけの作品。一応ストーリーとしては服用すると心肺機能が爆発的に亢進するが、心臓に過大な負荷がかかるためほぼ間違いなく心臓麻痺で死に至るという究極のドーピングを題材に、ヨーロッパ・サッカーを舞台にした陰謀劇を描くということになっており、「69」でおなじみの作家ヤザキが日本とイタリア、キューバを行ったり来たりしつつ右往左往する物語である。

物語の最後の4分の1を占めるセリエAの試合の描写はさすがに念が入っていて、一度でもスタジアムでサッカーの試合を見たことがある人であれば映像が喚起されるのではないかと思われる力のこもり具合だが、ストーリー自体が取って付けたようなお話で、過去にテニスやらゴルフやらに入れ込み取って付けたような作品を世に問うてきた村上龍の前歴を思えば、これも、今はサッカーなんだな、と微笑ましく見守ってあげるべきだろう。

この作品のつまらないところは、村上龍が中田という一人のサッカー青年の生き方にいささかも批評的な視点を持ち得ていない点だ。仲のいい友達を主人公にサッカー・スペクタクルを書きたいのなら構わないが、村上龍はここで無批判に中田に寄り添っており、まるで自分が中田であるかのように中田を代弁する。対象と厳しく向かい合うという基本的な文学的態度の欠如。書き手として対象との距離の取り方を誤った致命的な作品。

(2002年発表 幻冬舎文庫 ★★)



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2009年01月08日

<33>最後の家族

自身の脚本でテレビドラマ化もされた作品。大学に合格したもののすぐに自室に引きこもるようになった長男を中心とした、家族の葛藤と再生の物語である。結末があまりに清々しくハッピー・エンディングであるところに、この作品の寓話としての限界もあるが、家族のそれぞれが自立し、自分の生に自分で責任を持つことこそが、結局家族という共同体の意味を明らかにするのだという村上龍のこの作品での認識は明確であり正しい。

だが、当然だが自立するのは簡単なことではない。自分に関わる決断をすべて自分で下し、それによって起こる結果はどんなものであれ自分の責任として受け入れるためには、それを受け止めることのできる強い意志と覚悟が必要だが、それは子供の頃からのきちんとした訓練がなければ身につけることが難しい。ここでは家族それぞれが深刻な葛藤を経てその認識に至るのだが、こうした覚醒に到達することは実際には難しいのではないか。

僕たちの中には不可避的にそれぞれ固有の「弱さ」があり、完全に自立してだれの助けも必要としない人間はおそらくいない。だれもが何らかの依存を抱え、だれかに認められること、だれかに頼られることで自己確認しようとする。自立は寂しく、冷たく、苦しいものだ。だが、「個」の寂しさを支えることができなければもはや寄りかかれる共同体はどこにもない。そのことをハッピー・エンディングで明らかにした恐るべき作品。

(2001年発表 幻冬舎文庫 ★★★★)



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2009年01月02日

<32>THE MASK CLUB

死者の目を通して語られる、異常な女たちのSMレズビアン・パーティの顛末。死者がよく分からない虫のような存在になって、自分が殺された部屋の中に漂うというアイデアは面白いが、状況の説明が妙に回りくどくて、自分には実体があるのかないのかとか羽虫の背中につかまって移動するとか免疫細胞に食われるとかそんなことはどうでもよくて、そうこうするうちに話は女たちの語りに移り変わり、結局「いつもの話」になって行く。

いつもの話とは、父親と円満な関係を構築できなかった女性がコミュニケーションに歪みを抱えたまま成人し、SMに救済を求めるというこれまでにも何度となく繰り返されたテーマ。かつてフリースクールで一緒に過ごした彼女らが偶然再会を果たし、最も繊細でそれ故最も危機的な状況にあるレイコのためにマスクで顔を隠したパーティを開き、一種のセックス・セラピーを行うという筋書きは悪くないが、それなら初めからその話でいい。

最後には殺された男の虫としての視点はどうでもよくなってしまうし、かといって彼女たちの抱えこんだ物語として読むには、前半を死者の視点の説明に費やした分、決定的に深みが足りず、どちらにしても中途半端なバランスの悪さを払拭できない。面白いアイデアで書き始めたが途中で面倒臭くなって、持ちネタで流したら結構モノになりそうにも見えたけど、結局適当なところで切り上げた、といった感じじゃないかと思われる作品。

(2001年発表 幻冬舎文庫 ★★★☆)



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