2009年02月

2009年02月28日

<106>村上龍料理小説集

食べ物を題材にした掌編32編を収録。料理は特権的だ。特権的で差別的だ。例えばこの作品集でも繰り返し登場するコート・ダジュールのレストランや香港の高級料理店で供されるような料理というのは、生存を維持するための僕たちの食事とは異なった快楽を含んでおり、それは日本で生まれ育ち、海外といえば新婚旅行のハワイくらいしか行ったことのない庶民には理解することも、想像することすらできない特殊な世界の出来事なのだ。

村上龍は作家という特権的な立場でそれを経験しているのだが、世の中には初めからそういう世界に生まれて育つ特権的な人たちがいて、面白いのは村上龍にもそういう真の特権階級に対するコンプレックスがあるところだ。こうした世界を垣間見ることで芽生えた被差別意識が、庶民に特殊で特権的な料理の話をひけらかすことで代償されている。そういう屈折したコンプレックスとか差別意識が素直に出ているのが村上龍のいいところだ。

日本で生活していると特権とか差別とか階級というのは見えにくい。最近流行の「格差」はともかく、極めて平等に見える(実際極めて平等だが)我々の社会にも階級はある。それを明らかにするのが快楽だ。普通の階層に生まれながら社会的に成功してそういう世界の入口にたどり着いた村上龍のはしゃぎぶりが微笑ましい作品で、村上龍の成功の原動力である貪欲さ、厚顔さをストレートに見ることができる。「Subject 30」が素晴らしい。

(1988年発表 集英社文庫 ★★★)



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2009年02月25日

<105>トパーズ

風俗、特にデリバリーのSMクラブで働く女性を主人公に書かれた短編を12編収録。後に「コックサッカーブルース」や「イビサ」、「エクスタシー」三部作に結実して行く陰惨なSMによる異化と浄化のプロセス、確実にどこかイッちゃってる女たちのその「壊れ」の内側に入りこむ手法はここで既に確立しており、そうした長編に比べればひとつひとつの作品が短く完結している分、イメージの喚起力は逆に強いと言えるのかもしれない。

SMと呼応するものを持つ女性はどこかに決定的な歪みを持っており、その多くは父親との円満な関係を持てなかったことに起因するという村上龍のテーゼがここでも立ち現れる。そんな単純な話でいいのか、という気もしないでもないが、ノーマルな女子高生を主人公にしたこの作品集の中では異質な「サムデイ」だけが、父親とのリアルなコミュニケーションについて書かれているのも、やはりそのことを示しているのかもしれない。

どれもこれも、どこにも行き着かないひたすら薄汚く、救いのない話ばかりだが、そこには村上龍の作品特有の密度があり、それがこの作品の果てしない消耗感を支えている。一編読み終わるたびに神経がぐったり疲れるのは濃密な情報のせいだ。過剰で不要な情報が僕たちの神経を苛立たせ、僕たちを無理矢理物語に引きずり込む。そして僕たちの生は結局そうした浪費と消耗に他ならないのだと訴えている。やはり「サムデイ」がいい。

(1988年発表 角川文庫 ★★★★)


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2009年02月21日

<104>ニューヨーク・シティ・マラソン

世界各国の都市を舞台にした短編を9編収録。舞台となるのは表題作のニューヨークの他、リオ・デ・ジャネイロ、香港、博多、メルボルン、パリ、ローマなど。フロリダやコート・ダジュールなども舞台となっているので必ずしも「都市」とは言い難いのだが、村上龍自身は「あとがき」で「この都市小説のシリーズ」と表現しており、村上龍にとっては人と人が交わる場所はすべて「都市」なのかもしれない。きっとそうなのだろう。

ここでは村上龍は外国人を主人公とし、彼らの口を借りて物語を語らせる。彼らの物語がその都市の実際の風景の中でどのようなリアリティを持ち得るのかは正直分からないが、少なくとも日本にいてこれらの都市に実際に足を踏み入れたことがないか、せいぜい観光旅行で訪れたことがある程度の人間にとっては圧倒的にリアルである。なぜならニューヨークも香港もメルボルンもパリもローマもここではただの記号に過ぎないからだ。

村上龍はそうした記号としての都市を借景として便宜上設定しているに過ぎず、そこで語られているのは結局のところ否応なく都市に束縛された人間の物語なのであり、それはある種のユニバーサルなイメージなのだ。作品はいずれもテンションが高く、おしなべてよくできている。「パリのアメリカ人」は「イン ザ・ミソスープ」の原型。コンコルドから眺める地球に神を見てしまった男の話「コート・ダ・ジュールの雨」が印象的。

(1986年発表 集英社文庫 ★★★☆)



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2009年02月18日

<103>走れ!タカハシ

タカハシとは1975年から92年まで広島カープ他で活躍した高橋慶彦のこと。ここではタカハシをモチーフにした作品が11編収められている。作品は1983年から85年にかけて「小説現代」に不定期に掲載されたもので、まさに高橋慶彦の全盛期と重なる。短編集自体は1986年にリリースされた。モチーフにしているとはいえ、中にはほとんど高橋慶彦とは関係ないものから、本人が登場してテニスをするものまであり、関わりは一定していない。

どの作品も最終的に物語が「走れ!タカハシ」に収束するよう作られていることもあってか、全体のトーンは暗くはない。主人公がちょっとしたピンチに陥るが、最終的にタカハシのヒットや盗塁によって救済されるというものがほとんどで、乾いたユーモアが特徴的。このトーンで長編を書かれると辛いが(「超電導ナイトクラブ」みたいな失敗作になる)、短編なので適当なリズム感があって、深く考えないまま最後まで読んでしまえる。

その意味では極めて寓話的な作品ばかりであり、こう言っては何だが村上龍のストーリー・テラーとしての資質の確かさを再確認させる。長編では圧倒的な力とかスピードとかで物理的に読者を凌駕しようとする村上龍が、ここではストーリーの力を借りて読者と対峙しようとしている。非常にオーソドックスな「小説」であり、普通に楽しめる短編集。工事現場で交通整理をしながら「盗塁」を試みるおじいちゃんの話(Part11)が秀逸。

(1986年発表 講談社文庫 ★★★☆)


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2009年02月17日

<102>ポップアートのある部屋

アンディ・ウォーホル、ロイ・リキテンシュタインなどのポップ・アート作品をモチーフにした短編12編を収録。モチーフとなった作品を初め、ナイアガラ・レーベルのレコード・ジャケットなどを手がけたWORKSHOP MU!!や写真家・内藤忠行らの作品をカラーで豊富に収録したアートブック的な作りになっており、ポストカードも付いている。僕が持っているのは文庫本だが、単行本の方が当然迫力もあるしフェッティシュだろうと思う。

小説はどれも短編というより掌編と読んだ方がいいような短いもの。ポップアート作品を主題にしている以外にはこれといって特徴も共通点もなく、村上龍独特の過剰さもあまり感じられない。いくつかの作品を除けば全体に散漫な印象は免れず、内臓や傷口をいきなりわしづかみにするような強引さ、生々しさよりは、それらしいポップな気分や雰囲気だけをどこかからコピーしてペーストしたような手軽でカジュアルな作品集である。

もちろん、この作品がアメリカン・ポップを主題にしている以上、それは当然のことである。村上龍自身が「まえがき」で書いているとおり、ポップアートは「表面に貼り付く」ものだからだ。マクルーハンやウォーホルの有名な警句を持ち出すまでもなく、表層への徹底した拘泥こそがポップアートの本質だとすれば、読み終わった瞬間に何も残さず消え去ることがこの作品の宿命なのだろう。「引っ越しする未亡人」が印象的。

(1986年発表 講談社文庫 ★★★)


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2009年02月15日

<101>悲しき熱帯

1978年から1981年にかけて雑誌「野生時代」に掲載された5編の短編を集めたもの。この短編集自体は1984年にまず文庫で刊行され、その後にタイトルを「SUMMER IN THE CITY」と変えて単行本でリリースされた。ハワイ、グアム、フィリピンなどの熱帯の島を舞台に、村上龍によれば少年と父権の物語が語られる。ストーリーは暗く、貧しく、陰惨で救いがないが、そこには深刻さはなく、ただ悪夢のように熱をたたえているのである。

暗い話をひたすら高い密度と速度で書き込むことによって文体が一種の肉体性を獲得して行くプロセスは初期の村上龍に特徴的なもので、ここに収録された作品は熱帯という舞台の持つ呪術的な力を借りながら、僕たちの思考の速度を凌駕して行く。放り出されたまま何も解決せず、どこにも行き着かないエピソードが、リアルでやり場のない少年の苛立ちと諦めを語りきる。そしてそれが僕たちの苛立ちと諦めを際立たせ、同時に異化する。

飛べなくなったスーパーマンをロケットに乗せて生まれ故郷の星に帰す「ハワイアン・ラプソディー」と異星から来たという妄想に取り憑かれたロック・ミュージシャンを描く「鐘が鳴る島」は「だいじょうぶマイ・フレンド」に取り込まれた。この短編集を読めば「フィジーの小人」は読まなくてもいいかもしれない。生命というものの濃密さと脆さを同時に描き出した短編集で収録作にハズレはない。読むだけで汗が出てくるようだ。

(1984年発表 角川文庫 ★★★★)



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2009年02月10日

<36>半島を出よ

退廃とは何か。多数のために力のない少数者が犠牲になることだ、と村上龍は言う。そうかもしれない。だが、僕ならこう言う、退廃とは思考停止の別の名前だと。本来向かい合うべき物事の厄介な本質から目をそらし、最も重要な問題を棚に上げたまま目先の些事にかまけることが退廃だ。この物語で村上龍は日本と北朝鮮という二つの大きな退廃について語る。何も決められない日本と、異物を排除することしか知らない北朝鮮の物語だ。

この物語は決して日本の官僚や政治家の無責任さを嗤っている訳ではない。嗤われているとすれば、それは僕たちが主体的には何も選び取ろうとせず、最後の最後に追い詰められて他に選択肢がなくなるのを待つ以外に意思決定の手段を持たないことである。そしてそのような意思非決定のシステムは僕たちの周りのあらゆるところにある。問われているのは僕たち自身の非決定であり、告発されているのは僕たち自身の退廃なのである。

自己決定の欠如という問題は「最後の家族」でも指摘されていた。今作ではそれが北朝鮮反乱軍の自動化された意思決定のプロセスと対比される形で明らかに示される。そしてそのいずれもが巨大な退廃である。最後に社会不適応の少年たちが高層ビルの爆破を成功させる美しすぎるシーンは多分に寓話的であるが、僕たちを曖昧に、穏やかに包んでいる退廃の本質を描ききった点では村上龍のキャリアの中でも最も重要な作品のひとつ。

(2005年発表 幻冬舎文庫 ★★★★☆)







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