2009年03月

2009年03月20日

<111>空港にて

単行本「どこにでもある場所とどこにもいないわたし」を改題して文庫化したもの。表題作の他、「コンビニにて」「居酒屋にて」「披露宴会場にて」など、シチュエーションを変えて特定の場所で起こる一瞬の出来事や登場人物の心の動きを描写した短編が全部で8編収録されている。どれも息が詰まるようなコミュニケーションの中からどのようにして(村上龍の言葉を借りれば)「個別の希望」を探すかについて書かれた物語である。

僕たちの社会では、伝統的な共同体が崩壊する一方で、家庭や学校、職場といった逃れることの容易でない集団の中のコミュニケーションが加速度的に濃密になり、その劇的な落差がいくつかの悲劇を生んできた。村上龍がここで書いているのは、希望は結局個人的なものでしかあり得ないということだが、それは孤独を受け入れるということと同義で、宗教的契機の希薄な我が国では、それに耐え得る個とか自我は容易には形成されない。

ここで描かれる主人公はみんな孤独である。だが、本当は孤独なのは彼らだけではない。僕たちはみんな本質的には一人であり孤独なのだが、コミュニケーションから外れた瞬間にそれが明らかになるだけのことなのだ。村上龍は恐ろしいまでに密度を上げた描写によって感情までを物質に還元しそのことを分かりやすく示す。海外で人はより直接孤独と向かい合う。それを受け入れる覚悟がなければ希望など持ち得ない。今、希望は特権だ。

(2003年発表 文春文庫 ★★★★)



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2009年03月17日

<110>ワイン一杯だけの真実

ワインをテーマにした連作短編8編を収録。ここで言及されているワインをどれひとつ飲んだことのない僕にとってはどんな言葉でそのワインを描写されても豚に真珠というか猫に小判であり、逆に村上龍のいかにも成り上がり的で無邪気な知ったかぶりが微笑ましい作品集。「料理小説集」でも書いたが、努力と才能で特権を手にした者としての率直な喜びが伝わってくる。シャトー・マルゴーが出てくるので川島なお美を思い出してしまう。

おそらく、本当に村上龍がこうしたワインの素晴らしさを理解しているのなら、それをテーマに小説を書いたりしようとはしないのではないだろうか。なぜなら優れたワインというのはそれ自体何ものからも独立し、完結しているものだと思うからだ。僕は別にソムリエでも何でもないが、ワインをテーマに小説を書こうという試み自体が俗悪だということくらいは分かる。シャトー・マルゴーを飲む代わりに小説を読むことには意味がない。

ここで描かれるのは現代の日本に生きる女性達の「壊れ」であるが、それをワインに引っかけて語ろうとするところが悪趣味。書かれていることも他の作品で書かれたことの使い回しに過ぎない。着想としては悪くないものもあるが、そこに具体的なワインの名前が出てきた途端に物語全体が安っぽく感じられてしまう。読者の大半が飲んだこともないようなワインのイメージに依拠しなければ成立しない物語はそれ自体大したことがない。

(1998年発表 幻冬舎文庫 ★★☆)



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2009年03月15日

<109>白鳥

短編集といっても雑誌連載をまとめた連作短編が多い村上龍にあって、さまざまな雑誌などにバラバラ掲載された短編を集めた数少ない本当の意味でのアンソロジー。9編を収録している。村上龍がキューバに入れ込んで映画「KYOKO」を撮った90年代半ば頃の作品が中心と見られ、キューバを題材にした連作3編も収められている。比較的しっかりストーリーを構築した作品から、抽象的で不思議な手触りの作品までバラエティも豊かだ。

「或る恋の物語」「彼女は行ってしまった」「わたしのすべてを」の3作はキューバ音楽をモチーフにし、互いに関連する三つの物語をそれぞれ異なった語り手の目から見る連作で他の作品とはやや異質であるが、それ以外の作品は概ねセックスと病について書かれたものだと言っていい。残念ながら初期短編集である「悲しき熱帯」やテーマの明確な「トパーズ」ほど緊迫したエネルギーの奔流は感じられず、全体として熱量は少ない。

それはおそらく、村上龍自身がこれらの短編をドライブして行く動因を絞りきれていないからだ。プロットなのか、スタイルなのか、情報量なのか、スピードなのか。どのモメントにおいて読者を凌駕して行こうとするのか、それが明確でないためにどの物語も中途半端に放り出されたような印象が残る。あとがきで村上龍は「短編は『洗練』を必要とする。私は『洗練』がイヤなのだと思う」と述べているが、それはこういう意味なのだろう。

(1997年発表 幻冬舎文庫 ★★★)



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2009年03月11日

<108>村上龍映画小説集

さまざまな映画をモチーフに、1970年に九州から上京したばかりの少年のエピソードが11編つづられる連作短編集。村上龍の自伝的要素が強く、時期的には佐世保での高校生時代を題材にした「69」と福生での生活を描いた「限りなく透明に近いブルー」の間の位置することになる。時代背景もあるのだろうが、おそろしく無目的でどこにも行き着かない、ただ時間とエネルギーを徹底的に浪費し尽くすような若さのあり方が示されている。

主人公のヤザキは何度となく「オマエは無力だ」という声を聞く。意味のない放蕩、ドラッグ、セックスに果てしなく消耗しながら、村上龍は自分の内臓でただ「自分は無力だ」ということだけを確認して行くのだ。それは村上龍の10代の終わりが無力だということであると同時に、すべての若さは無力だということなのだ。若さとは本質的に意味のない消耗だ。その時期に人は自分が無力で無価値であるということだけを徹底的に学ぶのだ。

圧倒的にリアルで冷酷な現実を前に、自分の無力さ、無価値さをきちんと学ぶことのできた者だけが、若さという特別な時期を対象化することができる。あんな恥ずかしく、情けない時期にはもう戻りたくないというのがおそらくは若さに対する唯一の正しい認識で、この作品はその理由と、それにも関わらず僕たちはその時期から自由になることはできないということを鮮やかに描ききっている。最後の『ワイルド・エンジェル』がいい。

(1995年発表 講談社文庫 ★★★★)


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2009年03月08日

<107>恋はいつも未知なもの

ジャズのスタンダード・ナンバーをモチーフにした掌編39編を収録。何らかの傷を抱えた男だけが迷いこむという幻のジャズ・バーに行ってきた男の話を、ジャズ・ナンバーの歌詞に引っかけて紹介するという形式になっているが、当初はそうした話の聞き手であった主人公が、自らもそのジャズ・バーに迷いこみ、終盤は主人公が、そのどこにあるかも分からないと言われるバーの秘密を探りにニューヨークを訪れる続き物になって行く。

ここに使われているジャズ・スタンダードをほとんど知らない者としては正直どうでもいいような話が繰り返し語られるだけだし、その幻のバーを探す話としても中途半端で、最後にバーの経営者らしき男にたどり着くあたりの描写もまったく迫真性に欠ける。週刊朝日に連載されたのをまとめたものらしいが、多分途中からネタが切れてスタンダードよりバー探しの話にシフトしてしまったんだろう。正直やっつけ仕事の香りが高いと思う。

ここには自分の言葉で原曲の素晴らしさと格闘しようとする表現上のあがきが感じられず、何となくそれっぽいスタンダード・ナンバーを借りてきてはそれにこじつけた適当な話(特に恋愛譚)をでっち上げたとしか思えない。原曲を知らない者が言うのも何だが、日本でジャズが所詮お洒落な恋愛のBGM程度にしか扱われていないのと同じように、この短編集も所詮はジャズを小道具に使ったお洒落な恋愛小説程度にしか読まれないだろう。

(1991年発表 角川文庫 ★★☆)


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