2008年12月02日

<26>イン ザ・ミソスープ

こんな小説が読売新聞に連載されていたというのだから我が国もまだ捨てたものではないのではないか。10年以上前の作品だが、ここで村上龍が苛立っていたもの、フランクの手を借りて殺そうとしたものは依然としてそこにあるし、それはむしろより広く、静かに潜行しつつある。それはエグい殺人シーンを媒介にして日本でも最もメジャーな新聞のひとつで告発されたにもかかわらず、結局のところ今でも変わらずに生き続けているのだ。

フランクはそれを退化だという。外部から海によって地政学的に隔てられ、極めて特殊な言語で成り立つ閉じた社会の中で、ある種の符丁のようなものだけが奇形的な進化を遂げ、だれもがそれをコミュニケーションだと思っている。痙攣的な笑いを共有することでギリギリの共同性を確認し合っている社会にあって、僕たちの危機感とかそれを生き延びようとする力はどんどん弱まって行く。なぜなら痙攣的に笑っている方が楽なのだから。

リスクを負う力、判断する力、意思を伝える力。そういう当たり前の能力が弱った人間は「殺してくれという信号を無意識に発している」。そう言い切る村上龍はやはり優れた小説家だし、だからこそ彼は「何か汚物処理のようなことを一人でまかされているような気分になった」のだ。文学作品そのものとしての完成度はともかく、ここで村上龍が告発した危機感は正当なもの。問題の本質は共同体の崩壊ではないと思うがそれは別として。

(1997年発表 幻冬舎文庫 ★★★★)


going_underground at 23:55│Comments(0)TrackBack(0)書評 

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