2009年02月21日
<104>ニューヨーク・シティ・マラソン
世界各国の都市を舞台にした短編を9編収録。舞台となるのは表題作のニューヨークの他、リオ・デ・ジャネイロ、香港、博多、メルボルン、パリ、ローマなど。フロリダやコート・ダジュールなども舞台となっているので必ずしも「都市」とは言い難いのだが、村上龍自身は「あとがき」で「この都市小説のシリーズ」と表現しており、村上龍にとっては人と人が交わる場所はすべて「都市」なのかもしれない。きっとそうなのだろう。
ここでは村上龍は外国人を主人公とし、彼らの口を借りて物語を語らせる。彼らの物語がその都市の実際の風景の中でどのようなリアリティを持ち得るのかは正直分からないが、少なくとも日本にいてこれらの都市に実際に足を踏み入れたことがないか、せいぜい観光旅行で訪れたことがある程度の人間にとっては圧倒的にリアルである。なぜならニューヨークも香港もメルボルンもパリもローマもここではただの記号に過ぎないからだ。
村上龍はそうした記号としての都市を借景として便宜上設定しているに過ぎず、そこで語られているのは結局のところ否応なく都市に束縛された人間の物語なのであり、それはある種のユニバーサルなイメージなのだ。作品はいずれもテンションが高く、おしなべてよくできている。「パリのアメリカ人」は「イン ザ・ミソスープ」の原型。コンコルドから眺める地球に神を見てしまった男の話「コート・ダ・ジュールの雨」が印象的。
(1986年発表 集英社文庫 ★★★☆)
ここでは村上龍は外国人を主人公とし、彼らの口を借りて物語を語らせる。彼らの物語がその都市の実際の風景の中でどのようなリアリティを持ち得るのかは正直分からないが、少なくとも日本にいてこれらの都市に実際に足を踏み入れたことがないか、せいぜい観光旅行で訪れたことがある程度の人間にとっては圧倒的にリアルである。なぜならニューヨークも香港もメルボルンもパリもローマもここではただの記号に過ぎないからだ。
村上龍はそうした記号としての都市を借景として便宜上設定しているに過ぎず、そこで語られているのは結局のところ否応なく都市に束縛された人間の物語なのであり、それはある種のユニバーサルなイメージなのだ。作品はいずれもテンションが高く、おしなべてよくできている。「パリのアメリカ人」は「イン ザ・ミソスープ」の原型。コンコルドから眺める地球に神を見てしまった男の話「コート・ダ・ジュールの雨」が印象的。
(1986年発表 集英社文庫 ★★★☆)