書評
2023年04月12日
<113>ユーチューバー
矢健介という老齢の作家を主人公にした四編の連絡短編集。2021年から2022年にかけて文芸誌に連載された三編に、新たに書き下ろされた表題作を加えたもの。字が大きくて余白が多く老齢の読者にも優しいつくり。矢健介は「世界一もてない男」を自称する登場人物が制作するYouTubeの動画に出演して女性遍歴を語るのだが、矢のモデルは村上龍自身であり、要は村上が自分の女性遍歴を語るという構造になっていてまず気持ち悪い。
それに加えてさらに気持ち悪いのは、「世界一もてない男」が矢を持ち上げるところである。「いい笑顔だなとわたしは思った。こういう笑顔を自然に作る人ってなかなかいない」とか、「私たちは感動していた。自由ってことをこういう言い方で聞いたことがなかった」とか、作中人物の口を借りて自分のことを持ちあげているわけで、どうやったらそんなに気持ちの悪いことが可能なのか。そこにはもう抑制みたいなものはみじんもない。
おっさんがダジャレを言うのは頭のなかに浮かんでしまったつまらない冗談を言わずに我慢するだけの抑制が効かなくなってしまうからだと聞いたことがあるが、そういう意味では文学的抑制というリミッターをはずして自己言及のメタ構造のなかに自らハマりに行く村上はパンクであり、ここにきて「さすがにこれは気持ち悪い」という一線をも力ずくで突破する姿勢はすがすがしい。帯が恥ずかしいのでカバーはかけてもらった方がいい。
(2023年発表 幻冬舎 ★★★)
それに加えてさらに気持ち悪いのは、「世界一もてない男」が矢を持ち上げるところである。「いい笑顔だなとわたしは思った。こういう笑顔を自然に作る人ってなかなかいない」とか、「私たちは感動していた。自由ってことをこういう言い方で聞いたことがなかった」とか、作中人物の口を借りて自分のことを持ちあげているわけで、どうやったらそんなに気持ちの悪いことが可能なのか。そこにはもう抑制みたいなものはみじんもない。
おっさんがダジャレを言うのは頭のなかに浮かんでしまったつまらない冗談を言わずに我慢するだけの抑制が効かなくなってしまうからだと聞いたことがあるが、そういう意味では文学的抑制というリミッターをはずして自己言及のメタ構造のなかに自らハマりに行く村上はパンクであり、ここにきて「さすがにこれは気持ち悪い」という一線をも力ずくで突破する姿勢はすがすがしい。帯が恥ずかしいのでカバーはかけてもらった方がいい。
(2023年発表 幻冬舎 ★★★)
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2020年11月28日
<40>MISSING 失われているもの
「こんな小説を書いたのは初めてで、もう二度と書けないだろう」というのが帯のアオリなのだがこちらもこんな小説を読んだのは初めてだ。これまでも「限りなく透明に近いブルー」や「69」など村上龍の実体験を基にした作品はあったが、本作はそうした作品群とは別の意味で自分の心の中に分け入り、私的な思考の自動回路の仕組までもを開示した作品なのではないかと思う。ある種の私小説といってもいい。ここまで書いたことが驚き。
かつて知り合った女優に導かれるように現実と想像、覚醒と睡眠の間にあるような辺土に迷いこみ、そこで母親の声を聴く。そこで語られるのは村上龍の生い立ちでありそれに連なるファミリー・ヒストリーだ。これは実は自分が死ぬ間際に見ていた所謂「走馬燈」だったみたいなオチを予想したほどリアルな感触で、村上龍は長い間記憶の底に埋もれていたような、しかし自我の形成に大きな影響のあった出来事を執拗に掘り返してくるのだ。
認知症になった人が、それまでは一度も話したことのなかったようなエピソードを繰り返し語るようになるのはよくあることで、それは単に過去を懐かしがるというよりは過去から補助線を引くことで現在地を何とか見定めようとする必死の営為なのだが、この作品にはそういう村上龍の生に直結するスゴみみたいなものを感じる。これまでの作品とは違った意味で読む側に強いコミットを要求してくる。通奏低音は間違いなく「死」である。
(2020年発表 新潮社 ★★★☆)
かつて知り合った女優に導かれるように現実と想像、覚醒と睡眠の間にあるような辺土に迷いこみ、そこで母親の声を聴く。そこで語られるのは村上龍の生い立ちでありそれに連なるファミリー・ヒストリーだ。これは実は自分が死ぬ間際に見ていた所謂「走馬燈」だったみたいなオチを予想したほどリアルな感触で、村上龍は長い間記憶の底に埋もれていたような、しかし自我の形成に大きな影響のあった出来事を執拗に掘り返してくるのだ。
認知症になった人が、それまでは一度も話したことのなかったようなエピソードを繰り返し語るようになるのはよくあることで、それは単に過去を懐かしがるというよりは過去から補助線を引くことで現在地を何とか見定めようとする必死の営為なのだが、この作品にはそういう村上龍の生に直結するスゴみみたいなものを感じる。これまでの作品とは違った意味で読む側に強いコミットを要求してくる。通奏低音は間違いなく「死」である。
(2020年発表 新潮社 ★★★☆)
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2015年07月03日
<39>オールド・テロリスト
「70代から90代の老人たちが、テロも辞さず、日本を変えようと立ち上がる」という物語。語り手は『希望の国』と同じ関口というジャーナリストだが、関口は週刊誌のフリー記者の職を失い、雑文を売っては糊口をしのいでいる。時代設定は2018年だが、そこに描かれる社会は次第に活力を失いつつあり閉塞感の漂う今の日本をそのまま引き延ばしたようでリアリティがある。『ファシズム』『五分後』『半島』などとも通底する世界観だ。
『希望の国』での中学生たちの革命と対をなす形での老人たちのテロという発想は村上の得意技。子供とか年寄りとか、「生産の現場」から疎外された者だけが、それ故に、強固に構築された利害のシステムに対抗価値を提示できるのだという認識は明晰だ。人口が少しずつ減り、頑張っても報われないことが予め分かっている世界で、何を支えに毎日をやり繰りすればいいのか誰も理解していない。リセット史観が生まれる素地は十分ある。
今回は取材ネタの自慢げな開陳が少なめで、関口の心情を丁寧に拾い上げる一人称の地の文が、物語をグッと近くに引き寄せている。よく考えれば「マジかよ」「そんなアホな」と思う設定にグイグイと読者を引きずりこみ、体力を削ってでも物語と対峙することを強いる筆力は健在どころか力を増し、手練手管も狡猾になっている。テロリズムが希望になり得てしまう社会が始まりつつあることを村上は看破していて、それが何よりも怖い。
(2015年発表 文芸春秋 ★★★★)
『希望の国』での中学生たちの革命と対をなす形での老人たちのテロという発想は村上の得意技。子供とか年寄りとか、「生産の現場」から疎外された者だけが、それ故に、強固に構築された利害のシステムに対抗価値を提示できるのだという認識は明晰だ。人口が少しずつ減り、頑張っても報われないことが予め分かっている世界で、何を支えに毎日をやり繰りすればいいのか誰も理解していない。リセット史観が生まれる素地は十分ある。
今回は取材ネタの自慢げな開陳が少なめで、関口の心情を丁寧に拾い上げる一人称の地の文が、物語をグッと近くに引き寄せている。よく考えれば「マジかよ」「そんなアホな」と思う設定にグイグイと読者を引きずりこみ、体力を削ってでも物語と対峙することを強いる筆力は健在どころか力を増し、手練手管も狡猾になっている。テロリズムが希望になり得てしまう社会が始まりつつあることを村上は看破していて、それが何よりも怖い。
(2015年発表 文芸春秋 ★★★★)
2012年12月15日
<112>55歳からのハローライフ
地方紙に連載した5つの連作中編を収録した作品。どれも現役を退き、自分の生について振り返り、問い直す局面に立ち至った60歳前後の男女の物語である。主人公たちの境遇はさまざまで、村上龍自身の言葉を借りれば「悠々自適層」「中間層」「困窮層」のそれぞれを代表するような人物を選んで書いたということだが、そこにあるのは結局今ここにいる自分の「意味」とか「価値」をどこにどう位置づけるかという問いかけに他ならない。
それは多くの場合「不安」という形で表れる。主人公たちはそれまで当然だと思っていたもの、あるいは何とも思ってもいなかったものの中に、自分の存在の大事な核が含まれていたことに薄々気づき始める。しかし、それを自分の中で意識化し、それと向き合うには恐ろしいエネルギーが要る。それがここにおける「不安」の本質である。そしてそれは僕たちにももちろん切実な認識だ。ただ走る速度が落ちると不安が顕在化して来るだけだ。
圧巻なのはホームレスになり山谷のドヤで瀕死の心臓病に侵されている旧友を母親の許まで送り届けようとする男を描いた『空を飛ぶ夢をもう一度』である。この作品は読み手に圧倒的な、強制的なまでの共感を求める。「怒れ」とけしかける。「それは無力感に押しつぶされて何か大切なものを放棄しないための、最後の手段としての怒り」だ。不安と向かい合う僕たちに残された最大のものは「怒り」なのかもしれない。村上龍は健在だ。
(2012年発表 幻冬舎 ★★★★)
それは多くの場合「不安」という形で表れる。主人公たちはそれまで当然だと思っていたもの、あるいは何とも思ってもいなかったものの中に、自分の存在の大事な核が含まれていたことに薄々気づき始める。しかし、それを自分の中で意識化し、それと向き合うには恐ろしいエネルギーが要る。それがここにおける「不安」の本質である。そしてそれは僕たちにももちろん切実な認識だ。ただ走る速度が落ちると不安が顕在化して来るだけだ。
圧巻なのはホームレスになり山谷のドヤで瀕死の心臓病に侵されている旧友を母親の許まで送り届けようとする男を描いた『空を飛ぶ夢をもう一度』である。この作品は読み手に圧倒的な、強制的なまでの共感を求める。「怒れ」とけしかける。「それは無力感に押しつぶされて何か大切なものを放棄しないための、最後の手段としての怒り」だ。不安と向かい合う僕たちに残された最大のものは「怒り」なのかもしれない。村上龍は健在だ。
(2012年発表 幻冬舎 ★★★★)
2011年05月03日
<38>心はあなたのもとに
ベンチャーへの投資ファンドを組成する主人公が風俗嬢に入れ込んで身請けするが、彼女は1型糖尿病という難病を抱えており、最後には死んでしまう、という話。もちろん、村上龍の作品なので、物語の中心的なモチーフである1型糖尿病に関する説明や、金融市場、ファンド・ビジネス、先端医療など聞きかじり感満載の付け焼き刃的蘊蓄はムダに豪華だが、要は、好きになった女の子が難病で死んでしまって悲しい、というだけの物語だ。
いや、もちろん村上龍にも恋愛小説を書く権利はあるだろう。だが、村上龍から「誰かを大切に思う気持ちは、何かを変化させ、いつか必ず相手に届く」なんてことを真面目に語られるとは思っていなかった。気持ちなんてものは所詮脳味噌の中で起こっている化学変化に過ぎないとか何とか、今まで散々センチメンタリズムをリアリズムで、力ずくで凌駕してきた村上龍が、今さら何を考えてこんな気恥ずかしい文章を書いたのか不思議だ。
「限りなく…」でも「コインロッカー…」でも「ファシズム」でも、あるいは「エクスタシー」からの3部作にしても、そこには救済(あるいは赦し)を希求する視線があったし、それはロマンチックなものであった。しかし、この作品のベタベタした優柔不断さはただ凡庸なだけで作品として何かを語りかけてはくれない。主人公のモニョモニョした独白も自意識過剰で気持ち悪い。村上龍は恋をしているのかもしれないと思ってしまった。
(2011年発表 文芸春秋 ★★☆)
いや、もちろん村上龍にも恋愛小説を書く権利はあるだろう。だが、村上龍から「誰かを大切に思う気持ちは、何かを変化させ、いつか必ず相手に届く」なんてことを真面目に語られるとは思っていなかった。気持ちなんてものは所詮脳味噌の中で起こっている化学変化に過ぎないとか何とか、今まで散々センチメンタリズムをリアリズムで、力ずくで凌駕してきた村上龍が、今さら何を考えてこんな気恥ずかしい文章を書いたのか不思議だ。
「限りなく…」でも「コインロッカー…」でも「ファシズム」でも、あるいは「エクスタシー」からの3部作にしても、そこには救済(あるいは赦し)を希求する視線があったし、それはロマンチックなものであった。しかし、この作品のベタベタした優柔不断さはただ凡庸なだけで作品として何かを語りかけてはくれない。主人公のモニョモニョした独白も自意識過剰で気持ち悪い。村上龍は恋をしているのかもしれないと思ってしまった。
(2011年発表 文芸春秋 ★★☆)
2010年11月26日
<37>歌うクジラ
22世紀、最下層の島「新出島」を出て最上層の指導者ヨシマツを探すよう運命づけられた少年タナカアキラの冒険譚。村上龍が夢想する、国民が完全に階層化された理想社会のイメージは刺激的だ。自動的に経済が成長することがもはや約束されず、むしろ少しずつ縮小、衰退して行く社会で、僕たちは何を手がかりにして生きて行けばよいのかという疑問を真剣に突き詰めて行ったときに、得られる答えのひとつがこの物語だと言っていい。
だが、それよりここでは村上龍が繰り出してくる活劇のスペクタクルや、登場するガジェットやアイテム、エピソードのディテールの集積を楽しむべきだ。なぜなら、村上龍がここで執拗に繰り返すメッセージは、どんな環境にあっても、生き延びるということは結局のところ具体的で即物的な営みなのだということに尽きるのだから。痛み、吐き気、傷、流れる血といった生身へのインパクトを受け止めることなしに生きることはできない。
そういう肉体的な題材をすごいスピード感で描ききる筆力は健在。どんな場所でも人はおそらく生きて行くのだろうが、命の値段がどこでも等価だという幻想を捨て去るところから始まる物語は痛快だ。実際にこの本を手に取る平均的日本人のほとんどは、この物語では華麗にスルーされる中間層に属するのだろうし、結局のところ村上龍は、そんな僕たちに、オマエらいったいどうやって生き延びるつもりなんだと指を突きつけているのだ。
(2010年発表 講談社 ★★★★)
だが、それよりここでは村上龍が繰り出してくる活劇のスペクタクルや、登場するガジェットやアイテム、エピソードのディテールの集積を楽しむべきだ。なぜなら、村上龍がここで執拗に繰り返すメッセージは、どんな環境にあっても、生き延びるということは結局のところ具体的で即物的な営みなのだということに尽きるのだから。痛み、吐き気、傷、流れる血といった生身へのインパクトを受け止めることなしに生きることはできない。
そういう肉体的な題材をすごいスピード感で描ききる筆力は健在。どんな場所でも人はおそらく生きて行くのだろうが、命の値段がどこでも等価だという幻想を捨て去るところから始まる物語は痛快だ。実際にこの本を手に取る平均的日本人のほとんどは、この物語では華麗にスルーされる中間層に属するのだろうし、結局のところ村上龍は、そんな僕たちに、オマエらいったいどうやって生き延びるつもりなんだと指を突きつけているのだ。
(2010年発表 講談社 ★★★★)
2009年03月20日
<111>空港にて
単行本「どこにでもある場所とどこにもいないわたし」を改題して文庫化したもの。表題作の他、「コンビニにて」「居酒屋にて」「披露宴会場にて」など、シチュエーションを変えて特定の場所で起こる一瞬の出来事や登場人物の心の動きを描写した短編が全部で8編収録されている。どれも息が詰まるようなコミュニケーションの中からどのようにして(村上龍の言葉を借りれば)「個別の希望」を探すかについて書かれた物語である。
僕たちの社会では、伝統的な共同体が崩壊する一方で、家庭や学校、職場といった逃れることの容易でない集団の中のコミュニケーションが加速度的に濃密になり、その劇的な落差がいくつかの悲劇を生んできた。村上龍がここで書いているのは、希望は結局個人的なものでしかあり得ないということだが、それは孤独を受け入れるということと同義で、宗教的契機の希薄な我が国では、それに耐え得る個とか自我は容易には形成されない。
ここで描かれる主人公はみんな孤独である。だが、本当は孤独なのは彼らだけではない。僕たちはみんな本質的には一人であり孤独なのだが、コミュニケーションから外れた瞬間にそれが明らかになるだけのことなのだ。村上龍は恐ろしいまでに密度を上げた描写によって感情までを物質に還元しそのことを分かりやすく示す。海外で人はより直接孤独と向かい合う。それを受け入れる覚悟がなければ希望など持ち得ない。今、希望は特権だ。
(2003年発表 文春文庫 ★★★★)
僕たちの社会では、伝統的な共同体が崩壊する一方で、家庭や学校、職場といった逃れることの容易でない集団の中のコミュニケーションが加速度的に濃密になり、その劇的な落差がいくつかの悲劇を生んできた。村上龍がここで書いているのは、希望は結局個人的なものでしかあり得ないということだが、それは孤独を受け入れるということと同義で、宗教的契機の希薄な我が国では、それに耐え得る個とか自我は容易には形成されない。
ここで描かれる主人公はみんな孤独である。だが、本当は孤独なのは彼らだけではない。僕たちはみんな本質的には一人であり孤独なのだが、コミュニケーションから外れた瞬間にそれが明らかになるだけのことなのだ。村上龍は恐ろしいまでに密度を上げた描写によって感情までを物質に還元しそのことを分かりやすく示す。海外で人はより直接孤独と向かい合う。それを受け入れる覚悟がなければ希望など持ち得ない。今、希望は特権だ。
(2003年発表 文春文庫 ★★★★)
2009年03月17日
<110>ワイン一杯だけの真実
ワインをテーマにした連作短編8編を収録。ここで言及されているワインをどれひとつ飲んだことのない僕にとってはどんな言葉でそのワインを描写されても豚に真珠というか猫に小判であり、逆に村上龍のいかにも成り上がり的で無邪気な知ったかぶりが微笑ましい作品集。「料理小説集」でも書いたが、努力と才能で特権を手にした者としての率直な喜びが伝わってくる。シャトー・マルゴーが出てくるので川島なお美を思い出してしまう。
おそらく、本当に村上龍がこうしたワインの素晴らしさを理解しているのなら、それをテーマに小説を書いたりしようとはしないのではないだろうか。なぜなら優れたワインというのはそれ自体何ものからも独立し、完結しているものだと思うからだ。僕は別にソムリエでも何でもないが、ワインをテーマに小説を書こうという試み自体が俗悪だということくらいは分かる。シャトー・マルゴーを飲む代わりに小説を読むことには意味がない。
ここで描かれるのは現代の日本に生きる女性達の「壊れ」であるが、それをワインに引っかけて語ろうとするところが悪趣味。書かれていることも他の作品で書かれたことの使い回しに過ぎない。着想としては悪くないものもあるが、そこに具体的なワインの名前が出てきた途端に物語全体が安っぽく感じられてしまう。読者の大半が飲んだこともないようなワインのイメージに依拠しなければ成立しない物語はそれ自体大したことがない。
(1998年発表 幻冬舎文庫 ★★☆)
おそらく、本当に村上龍がこうしたワインの素晴らしさを理解しているのなら、それをテーマに小説を書いたりしようとはしないのではないだろうか。なぜなら優れたワインというのはそれ自体何ものからも独立し、完結しているものだと思うからだ。僕は別にソムリエでも何でもないが、ワインをテーマに小説を書こうという試み自体が俗悪だということくらいは分かる。シャトー・マルゴーを飲む代わりに小説を読むことには意味がない。
ここで描かれるのは現代の日本に生きる女性達の「壊れ」であるが、それをワインに引っかけて語ろうとするところが悪趣味。書かれていることも他の作品で書かれたことの使い回しに過ぎない。着想としては悪くないものもあるが、そこに具体的なワインの名前が出てきた途端に物語全体が安っぽく感じられてしまう。読者の大半が飲んだこともないようなワインのイメージに依拠しなければ成立しない物語はそれ自体大したことがない。
(1998年発表 幻冬舎文庫 ★★☆)
2009年03月11日
<108>村上龍映画小説集
さまざまな映画をモチーフに、1970年に九州から上京したばかりの少年のエピソードが11編つづられる連作短編集。村上龍の自伝的要素が強く、時期的には佐世保での高校生時代を題材にした「69」と福生での生活を描いた「限りなく透明に近いブルー」の間の位置することになる。時代背景もあるのだろうが、おそろしく無目的でどこにも行き着かない、ただ時間とエネルギーを徹底的に浪費し尽くすような若さのあり方が示されている。
主人公のヤザキは何度となく「オマエは無力だ」という声を聞く。意味のない放蕩、ドラッグ、セックスに果てしなく消耗しながら、村上龍は自分の内臓でただ「自分は無力だ」ということだけを確認して行くのだ。それは村上龍の10代の終わりが無力だということであると同時に、すべての若さは無力だということなのだ。若さとは本質的に意味のない消耗だ。その時期に人は自分が無力で無価値であるということだけを徹底的に学ぶのだ。
圧倒的にリアルで冷酷な現実を前に、自分の無力さ、無価値さをきちんと学ぶことのできた者だけが、若さという特別な時期を対象化することができる。あんな恥ずかしく、情けない時期にはもう戻りたくないというのがおそらくは若さに対する唯一の正しい認識で、この作品はその理由と、それにも関わらず僕たちはその時期から自由になることはできないということを鮮やかに描ききっている。最後の『ワイルド・エンジェル』がいい。
(1995年発表 講談社文庫 ★★★★)
主人公のヤザキは何度となく「オマエは無力だ」という声を聞く。意味のない放蕩、ドラッグ、セックスに果てしなく消耗しながら、村上龍は自分の内臓でただ「自分は無力だ」ということだけを確認して行くのだ。それは村上龍の10代の終わりが無力だということであると同時に、すべての若さは無力だということなのだ。若さとは本質的に意味のない消耗だ。その時期に人は自分が無力で無価値であるということだけを徹底的に学ぶのだ。
圧倒的にリアルで冷酷な現実を前に、自分の無力さ、無価値さをきちんと学ぶことのできた者だけが、若さという特別な時期を対象化することができる。あんな恥ずかしく、情けない時期にはもう戻りたくないというのがおそらくは若さに対する唯一の正しい認識で、この作品はその理由と、それにも関わらず僕たちはその時期から自由になることはできないということを鮮やかに描ききっている。最後の『ワイルド・エンジェル』がいい。
(1995年発表 講談社文庫 ★★★★)
2009年03月08日
<107>恋はいつも未知なもの
ジャズのスタンダード・ナンバーをモチーフにした掌編39編を収録。何らかの傷を抱えた男だけが迷いこむという幻のジャズ・バーに行ってきた男の話を、ジャズ・ナンバーの歌詞に引っかけて紹介するという形式になっているが、当初はそうした話の聞き手であった主人公が、自らもそのジャズ・バーに迷いこみ、終盤は主人公が、そのどこにあるかも分からないと言われるバーの秘密を探りにニューヨークを訪れる続き物になって行く。
ここに使われているジャズ・スタンダードをほとんど知らない者としては正直どうでもいいような話が繰り返し語られるだけだし、その幻のバーを探す話としても中途半端で、最後にバーの経営者らしき男にたどり着くあたりの描写もまったく迫真性に欠ける。週刊朝日に連載されたのをまとめたものらしいが、多分途中からネタが切れてスタンダードよりバー探しの話にシフトしてしまったんだろう。正直やっつけ仕事の香りが高いと思う。
ここには自分の言葉で原曲の素晴らしさと格闘しようとする表現上のあがきが感じられず、何となくそれっぽいスタンダード・ナンバーを借りてきてはそれにこじつけた適当な話(特に恋愛譚)をでっち上げたとしか思えない。原曲を知らない者が言うのも何だが、日本でジャズが所詮お洒落な恋愛のBGM程度にしか扱われていないのと同じように、この短編集も所詮はジャズを小道具に使ったお洒落な恋愛小説程度にしか読まれないだろう。
(1991年発表 角川文庫 ★★☆)
ここに使われているジャズ・スタンダードをほとんど知らない者としては正直どうでもいいような話が繰り返し語られるだけだし、その幻のバーを探す話としても中途半端で、最後にバーの経営者らしき男にたどり着くあたりの描写もまったく迫真性に欠ける。週刊朝日に連載されたのをまとめたものらしいが、多分途中からネタが切れてスタンダードよりバー探しの話にシフトしてしまったんだろう。正直やっつけ仕事の香りが高いと思う。
ここには自分の言葉で原曲の素晴らしさと格闘しようとする表現上のあがきが感じられず、何となくそれっぽいスタンダード・ナンバーを借りてきてはそれにこじつけた適当な話(特に恋愛譚)をでっち上げたとしか思えない。原曲を知らない者が言うのも何だが、日本でジャズが所詮お洒落な恋愛のBGM程度にしか扱われていないのと同じように、この短編集も所詮はジャズを小道具に使ったお洒落な恋愛小説程度にしか読まれないだろう。
(1991年発表 角川文庫 ★★☆)
2009年02月28日
<106>村上龍料理小説集
食べ物を題材にした掌編32編を収録。料理は特権的だ。特権的で差別的だ。例えばこの作品集でも繰り返し登場するコート・ダジュールのレストランや香港の高級料理店で供されるような料理というのは、生存を維持するための僕たちの食事とは異なった快楽を含んでおり、それは日本で生まれ育ち、海外といえば新婚旅行のハワイくらいしか行ったことのない庶民には理解することも、想像することすらできない特殊な世界の出来事なのだ。
村上龍は作家という特権的な立場でそれを経験しているのだが、世の中には初めからそういう世界に生まれて育つ特権的な人たちがいて、面白いのは村上龍にもそういう真の特権階級に対するコンプレックスがあるところだ。こうした世界を垣間見ることで芽生えた被差別意識が、庶民に特殊で特権的な料理の話をひけらかすことで代償されている。そういう屈折したコンプレックスとか差別意識が素直に出ているのが村上龍のいいところだ。
日本で生活していると特権とか差別とか階級というのは見えにくい。最近流行の「格差」はともかく、極めて平等に見える(実際極めて平等だが)我々の社会にも階級はある。それを明らかにするのが快楽だ。普通の階層に生まれながら社会的に成功してそういう世界の入口にたどり着いた村上龍のはしゃぎぶりが微笑ましい作品で、村上龍の成功の原動力である貪欲さ、厚顔さをストレートに見ることができる。「Subject 30」が素晴らしい。
(1988年発表 集英社文庫 ★★★)
村上龍は作家という特権的な立場でそれを経験しているのだが、世の中には初めからそういう世界に生まれて育つ特権的な人たちがいて、面白いのは村上龍にもそういう真の特権階級に対するコンプレックスがあるところだ。こうした世界を垣間見ることで芽生えた被差別意識が、庶民に特殊で特権的な料理の話をひけらかすことで代償されている。そういう屈折したコンプレックスとか差別意識が素直に出ているのが村上龍のいいところだ。
日本で生活していると特権とか差別とか階級というのは見えにくい。最近流行の「格差」はともかく、極めて平等に見える(実際極めて平等だが)我々の社会にも階級はある。それを明らかにするのが快楽だ。普通の階層に生まれながら社会的に成功してそういう世界の入口にたどり着いた村上龍のはしゃぎぶりが微笑ましい作品で、村上龍の成功の原動力である貪欲さ、厚顔さをストレートに見ることができる。「Subject 30」が素晴らしい。
(1988年発表 集英社文庫 ★★★)
2009年02月25日
<105>トパーズ
風俗、特にデリバリーのSMクラブで働く女性を主人公に書かれた短編を12編収録。後に「コックサッカーブルース」や「イビサ」、「エクスタシー」三部作に結実して行く陰惨なSMによる異化と浄化のプロセス、確実にどこかイッちゃってる女たちのその「壊れ」の内側に入りこむ手法はここで既に確立しており、そうした長編に比べればひとつひとつの作品が短く完結している分、イメージの喚起力は逆に強いと言えるのかもしれない。
SMと呼応するものを持つ女性はどこかに決定的な歪みを持っており、その多くは父親との円満な関係を持てなかったことに起因するという村上龍のテーゼがここでも立ち現れる。そんな単純な話でいいのか、という気もしないでもないが、ノーマルな女子高生を主人公にしたこの作品集の中では異質な「サムデイ」だけが、父親とのリアルなコミュニケーションについて書かれているのも、やはりそのことを示しているのかもしれない。
どれもこれも、どこにも行き着かないひたすら薄汚く、救いのない話ばかりだが、そこには村上龍の作品特有の密度があり、それがこの作品の果てしない消耗感を支えている。一編読み終わるたびに神経がぐったり疲れるのは濃密な情報のせいだ。過剰で不要な情報が僕たちの神経を苛立たせ、僕たちを無理矢理物語に引きずり込む。そして僕たちの生は結局そうした浪費と消耗に他ならないのだと訴えている。やはり「サムデイ」がいい。
(1988年発表 角川文庫 ★★★★)
SMと呼応するものを持つ女性はどこかに決定的な歪みを持っており、その多くは父親との円満な関係を持てなかったことに起因するという村上龍のテーゼがここでも立ち現れる。そんな単純な話でいいのか、という気もしないでもないが、ノーマルな女子高生を主人公にしたこの作品集の中では異質な「サムデイ」だけが、父親とのリアルなコミュニケーションについて書かれているのも、やはりそのことを示しているのかもしれない。
どれもこれも、どこにも行き着かないひたすら薄汚く、救いのない話ばかりだが、そこには村上龍の作品特有の密度があり、それがこの作品の果てしない消耗感を支えている。一編読み終わるたびに神経がぐったり疲れるのは濃密な情報のせいだ。過剰で不要な情報が僕たちの神経を苛立たせ、僕たちを無理矢理物語に引きずり込む。そして僕たちの生は結局そうした浪費と消耗に他ならないのだと訴えている。やはり「サムデイ」がいい。
(1988年発表 角川文庫 ★★★★)
2009年02月21日
<104>ニューヨーク・シティ・マラソン
世界各国の都市を舞台にした短編を9編収録。舞台となるのは表題作のニューヨークの他、リオ・デ・ジャネイロ、香港、博多、メルボルン、パリ、ローマなど。フロリダやコート・ダジュールなども舞台となっているので必ずしも「都市」とは言い難いのだが、村上龍自身は「あとがき」で「この都市小説のシリーズ」と表現しており、村上龍にとっては人と人が交わる場所はすべて「都市」なのかもしれない。きっとそうなのだろう。
ここでは村上龍は外国人を主人公とし、彼らの口を借りて物語を語らせる。彼らの物語がその都市の実際の風景の中でどのようなリアリティを持ち得るのかは正直分からないが、少なくとも日本にいてこれらの都市に実際に足を踏み入れたことがないか、せいぜい観光旅行で訪れたことがある程度の人間にとっては圧倒的にリアルである。なぜならニューヨークも香港もメルボルンもパリもローマもここではただの記号に過ぎないからだ。
村上龍はそうした記号としての都市を借景として便宜上設定しているに過ぎず、そこで語られているのは結局のところ否応なく都市に束縛された人間の物語なのであり、それはある種のユニバーサルなイメージなのだ。作品はいずれもテンションが高く、おしなべてよくできている。「パリのアメリカ人」は「イン ザ・ミソスープ」の原型。コンコルドから眺める地球に神を見てしまった男の話「コート・ダ・ジュールの雨」が印象的。
(1986年発表 集英社文庫 ★★★☆)
ここでは村上龍は外国人を主人公とし、彼らの口を借りて物語を語らせる。彼らの物語がその都市の実際の風景の中でどのようなリアリティを持ち得るのかは正直分からないが、少なくとも日本にいてこれらの都市に実際に足を踏み入れたことがないか、せいぜい観光旅行で訪れたことがある程度の人間にとっては圧倒的にリアルである。なぜならニューヨークも香港もメルボルンもパリもローマもここではただの記号に過ぎないからだ。
村上龍はそうした記号としての都市を借景として便宜上設定しているに過ぎず、そこで語られているのは結局のところ否応なく都市に束縛された人間の物語なのであり、それはある種のユニバーサルなイメージなのだ。作品はいずれもテンションが高く、おしなべてよくできている。「パリのアメリカ人」は「イン ザ・ミソスープ」の原型。コンコルドから眺める地球に神を見てしまった男の話「コート・ダ・ジュールの雨」が印象的。
(1986年発表 集英社文庫 ★★★☆)
2009年02月18日
<103>走れ!タカハシ
タカハシとは1975年から92年まで広島カープ他で活躍した高橋慶彦のこと。ここではタカハシをモチーフにした作品が11編収められている。作品は1983年から85年にかけて「小説現代」に不定期に掲載されたもので、まさに高橋慶彦の全盛期と重なる。短編集自体は1986年にリリースされた。モチーフにしているとはいえ、中にはほとんど高橋慶彦とは関係ないものから、本人が登場してテニスをするものまであり、関わりは一定していない。
どの作品も最終的に物語が「走れ!タカハシ」に収束するよう作られていることもあってか、全体のトーンは暗くはない。主人公がちょっとしたピンチに陥るが、最終的にタカハシのヒットや盗塁によって救済されるというものがほとんどで、乾いたユーモアが特徴的。このトーンで長編を書かれると辛いが(「超電導ナイトクラブ」みたいな失敗作になる)、短編なので適当なリズム感があって、深く考えないまま最後まで読んでしまえる。
その意味では極めて寓話的な作品ばかりであり、こう言っては何だが村上龍のストーリー・テラーとしての資質の確かさを再確認させる。長編では圧倒的な力とかスピードとかで物理的に読者を凌駕しようとする村上龍が、ここではストーリーの力を借りて読者と対峙しようとしている。非常にオーソドックスな「小説」であり、普通に楽しめる短編集。工事現場で交通整理をしながら「盗塁」を試みるおじいちゃんの話(Part11)が秀逸。
(1986年発表 講談社文庫 ★★★☆)
どの作品も最終的に物語が「走れ!タカハシ」に収束するよう作られていることもあってか、全体のトーンは暗くはない。主人公がちょっとしたピンチに陥るが、最終的にタカハシのヒットや盗塁によって救済されるというものがほとんどで、乾いたユーモアが特徴的。このトーンで長編を書かれると辛いが(「超電導ナイトクラブ」みたいな失敗作になる)、短編なので適当なリズム感があって、深く考えないまま最後まで読んでしまえる。
その意味では極めて寓話的な作品ばかりであり、こう言っては何だが村上龍のストーリー・テラーとしての資質の確かさを再確認させる。長編では圧倒的な力とかスピードとかで物理的に読者を凌駕しようとする村上龍が、ここではストーリーの力を借りて読者と対峙しようとしている。非常にオーソドックスな「小説」であり、普通に楽しめる短編集。工事現場で交通整理をしながら「盗塁」を試みるおじいちゃんの話(Part11)が秀逸。
(1986年発表 講談社文庫 ★★★☆)
2009年02月17日
<102>ポップアートのある部屋
アンディ・ウォーホル、ロイ・リキテンシュタインなどのポップ・アート作品をモチーフにした短編12編を収録。モチーフとなった作品を初め、ナイアガラ・レーベルのレコード・ジャケットなどを手がけたWORKSHOP MU!!や写真家・内藤忠行らの作品をカラーで豊富に収録したアートブック的な作りになっており、ポストカードも付いている。僕が持っているのは文庫本だが、単行本の方が当然迫力もあるしフェッティシュだろうと思う。
小説はどれも短編というより掌編と読んだ方がいいような短いもの。ポップアート作品を主題にしている以外にはこれといって特徴も共通点もなく、村上龍独特の過剰さもあまり感じられない。いくつかの作品を除けば全体に散漫な印象は免れず、内臓や傷口をいきなりわしづかみにするような強引さ、生々しさよりは、それらしいポップな気分や雰囲気だけをどこかからコピーしてペーストしたような手軽でカジュアルな作品集である。
もちろん、この作品がアメリカン・ポップを主題にしている以上、それは当然のことである。村上龍自身が「まえがき」で書いているとおり、ポップアートは「表面に貼り付く」ものだからだ。マクルーハンやウォーホルの有名な警句を持ち出すまでもなく、表層への徹底した拘泥こそがポップアートの本質だとすれば、読み終わった瞬間に何も残さず消え去ることがこの作品の宿命なのだろう。「引っ越しする未亡人」が印象的。
(1986年発表 講談社文庫 ★★★)
小説はどれも短編というより掌編と読んだ方がいいような短いもの。ポップアート作品を主題にしている以外にはこれといって特徴も共通点もなく、村上龍独特の過剰さもあまり感じられない。いくつかの作品を除けば全体に散漫な印象は免れず、内臓や傷口をいきなりわしづかみにするような強引さ、生々しさよりは、それらしいポップな気分や雰囲気だけをどこかからコピーしてペーストしたような手軽でカジュアルな作品集である。
もちろん、この作品がアメリカン・ポップを主題にしている以上、それは当然のことである。村上龍自身が「まえがき」で書いているとおり、ポップアートは「表面に貼り付く」ものだからだ。マクルーハンやウォーホルの有名な警句を持ち出すまでもなく、表層への徹底した拘泥こそがポップアートの本質だとすれば、読み終わった瞬間に何も残さず消え去ることがこの作品の宿命なのだろう。「引っ越しする未亡人」が印象的。
(1986年発表 講談社文庫 ★★★)
2009年02月10日
<36>半島を出よ
退廃とは何か。多数のために力のない少数者が犠牲になることだ、と村上龍は言う。そうかもしれない。だが、僕ならこう言う、退廃とは思考停止の別の名前だと。本来向かい合うべき物事の厄介な本質から目をそらし、最も重要な問題を棚に上げたまま目先の些事にかまけることが退廃だ。この物語で村上龍は日本と北朝鮮という二つの大きな退廃について語る。何も決められない日本と、異物を排除することしか知らない北朝鮮の物語だ。
この物語は決して日本の官僚や政治家の無責任さを嗤っている訳ではない。嗤われているとすれば、それは僕たちが主体的には何も選び取ろうとせず、最後の最後に追い詰められて他に選択肢がなくなるのを待つ以外に意思決定の手段を持たないことである。そしてそのような意思非決定のシステムは僕たちの周りのあらゆるところにある。問われているのは僕たち自身の非決定であり、告発されているのは僕たち自身の退廃なのである。
自己決定の欠如という問題は「最後の家族」でも指摘されていた。今作ではそれが北朝鮮反乱軍の自動化された意思決定のプロセスと対比される形で明らかに示される。そしてそのいずれもが巨大な退廃である。最後に社会不適応の少年たちが高層ビルの爆破を成功させる美しすぎるシーンは多分に寓話的であるが、僕たちを曖昧に、穏やかに包んでいる退廃の本質を描ききった点では村上龍のキャリアの中でも最も重要な作品のひとつ。
(2005年発表 幻冬舎文庫 ★★★★☆)
この物語は決して日本の官僚や政治家の無責任さを嗤っている訳ではない。嗤われているとすれば、それは僕たちが主体的には何も選び取ろうとせず、最後の最後に追い詰められて他に選択肢がなくなるのを待つ以外に意思決定の手段を持たないことである。そしてそのような意思非決定のシステムは僕たちの周りのあらゆるところにある。問われているのは僕たち自身の非決定であり、告発されているのは僕たち自身の退廃なのである。
自己決定の欠如という問題は「最後の家族」でも指摘されていた。今作ではそれが北朝鮮反乱軍の自動化された意思決定のプロセスと対比される形で明らかに示される。そしてそのいずれもが巨大な退廃である。最後に社会不適応の少年たちが高層ビルの爆破を成功させる美しすぎるシーンは多分に寓話的であるが、僕たちを曖昧に、穏やかに包んでいる退廃の本質を描ききった点では村上龍のキャリアの中でも最も重要な作品のひとつ。
(2005年発表 幻冬舎文庫 ★★★★☆)
2009年01月21日
<35>2days 4girls
困難な作品。金融業で十分な稼ぎを得ながら、精神的に破綻した女性を引き取りオーバーホールする「プラントハンター」を自称する男の、4人の女性を預かり、オーバーホールするエピソードが語られる。一方で男自身はどこにあるのか分からない庭園を歩き続ける。まるで心象風景のように抽象的でだれもいない荒涼とした世界を男は歩き続け、彼が関わった女たちのことを思い出す。男は自分がなぜそこにいるのか分からないまま歩く。
ここでは他人に「関与する」ということが重要なモチーフとして語られている。自分が関与することでだれかが変わる、関与することへの渇望。やがて男は広大な庭園を抜け無人の街にたどり着く。そこには男の自我を大きく規定した幼児体験の舞台となった映画館がある。男のいる場所が現実の世界なのか夢の中なのか、あるいは死後の世界なのか、それは最後まで語られず、ただそこが男にとって重要な場所であることだけが示される。
一種の観念小説のようでもあり、女たちとの関わりについての男の語りの部分はこれまでの村上龍の「SMもの」の延長のようにも読めるが、そこには現実感は希薄だ。表層を撫でるだけの煮えきらない物語が垂れ流されると言ってもいい。何かをわしづかみにするような強引さに欠け、「雰囲気」に終始して最も重要な部分をやり過ごしたという失望感が残る。書かれていることは結局これまでの作品の焼き直しに過ぎなかったのではないか。
(2003年発表 集英社文庫 ★★☆)
ここでは他人に「関与する」ということが重要なモチーフとして語られている。自分が関与することでだれかが変わる、関与することへの渇望。やがて男は広大な庭園を抜け無人の街にたどり着く。そこには男の自我を大きく規定した幼児体験の舞台となった映画館がある。男のいる場所が現実の世界なのか夢の中なのか、あるいは死後の世界なのか、それは最後まで語られず、ただそこが男にとって重要な場所であることだけが示される。
一種の観念小説のようでもあり、女たちとの関わりについての男の語りの部分はこれまでの村上龍の「SMもの」の延長のようにも読めるが、そこには現実感は希薄だ。表層を撫でるだけの煮えきらない物語が垂れ流されると言ってもいい。何かをわしづかみにするような強引さに欠け、「雰囲気」に終始して最も重要な部分をやり過ごしたという失望感が残る。書かれていることは結局これまでの作品の焼き直しに過ぎなかったのではないか。
(2003年発表 集英社文庫 ★★☆)
2009年01月15日
<34>悪魔のパス 天使のゴール
オレって中田英寿のダチなんだぜ、どうだ、すごいだろ、というだけの作品。一応ストーリーとしては服用すると心肺機能が爆発的に亢進するが、心臓に過大な負荷がかかるためほぼ間違いなく心臓麻痺で死に至るという究極のドーピングを題材に、ヨーロッパ・サッカーを舞台にした陰謀劇を描くということになっており、「69」でおなじみの作家ヤザキが日本とイタリア、キューバを行ったり来たりしつつ右往左往する物語である。
物語の最後の4分の1を占めるセリエAの試合の描写はさすがに念が入っていて、一度でもスタジアムでサッカーの試合を見たことがある人であれば映像が喚起されるのではないかと思われる力のこもり具合だが、ストーリー自体が取って付けたようなお話で、過去にテニスやらゴルフやらに入れ込み取って付けたような作品を世に問うてきた村上龍の前歴を思えば、これも、今はサッカーなんだな、と微笑ましく見守ってあげるべきだろう。
この作品のつまらないところは、村上龍が中田という一人のサッカー青年の生き方にいささかも批評的な視点を持ち得ていない点だ。仲のいい友達を主人公にサッカー・スペクタクルを書きたいのなら構わないが、村上龍はここで無批判に中田に寄り添っており、まるで自分が中田であるかのように中田を代弁する。対象と厳しく向かい合うという基本的な文学的態度の欠如。書き手として対象との距離の取り方を誤った致命的な作品。
(2002年発表 幻冬舎文庫 ★★)
物語の最後の4分の1を占めるセリエAの試合の描写はさすがに念が入っていて、一度でもスタジアムでサッカーの試合を見たことがある人であれば映像が喚起されるのではないかと思われる力のこもり具合だが、ストーリー自体が取って付けたようなお話で、過去にテニスやらゴルフやらに入れ込み取って付けたような作品を世に問うてきた村上龍の前歴を思えば、これも、今はサッカーなんだな、と微笑ましく見守ってあげるべきだろう。
この作品のつまらないところは、村上龍が中田という一人のサッカー青年の生き方にいささかも批評的な視点を持ち得ていない点だ。仲のいい友達を主人公にサッカー・スペクタクルを書きたいのなら構わないが、村上龍はここで無批判に中田に寄り添っており、まるで自分が中田であるかのように中田を代弁する。対象と厳しく向かい合うという基本的な文学的態度の欠如。書き手として対象との距離の取り方を誤った致命的な作品。
(2002年発表 幻冬舎文庫 ★★)
2009年01月08日
<33>最後の家族
自身の脚本でテレビドラマ化もされた作品。大学に合格したもののすぐに自室に引きこもるようになった長男を中心とした、家族の葛藤と再生の物語である。結末があまりに清々しくハッピー・エンディングであるところに、この作品の寓話としての限界もあるが、家族のそれぞれが自立し、自分の生に自分で責任を持つことこそが、結局家族という共同体の意味を明らかにするのだという村上龍のこの作品での認識は明確であり正しい。
だが、当然だが自立するのは簡単なことではない。自分に関わる決断をすべて自分で下し、それによって起こる結果はどんなものであれ自分の責任として受け入れるためには、それを受け止めることのできる強い意志と覚悟が必要だが、それは子供の頃からのきちんとした訓練がなければ身につけることが難しい。ここでは家族それぞれが深刻な葛藤を経てその認識に至るのだが、こうした覚醒に到達することは実際には難しいのではないか。
僕たちの中には不可避的にそれぞれ固有の「弱さ」があり、完全に自立してだれの助けも必要としない人間はおそらくいない。だれもが何らかの依存を抱え、だれかに認められること、だれかに頼られることで自己確認しようとする。自立は寂しく、冷たく、苦しいものだ。だが、「個」の寂しさを支えることができなければもはや寄りかかれる共同体はどこにもない。そのことをハッピー・エンディングで明らかにした恐るべき作品。
(2001年発表 幻冬舎文庫 ★★★★)
だが、当然だが自立するのは簡単なことではない。自分に関わる決断をすべて自分で下し、それによって起こる結果はどんなものであれ自分の責任として受け入れるためには、それを受け止めることのできる強い意志と覚悟が必要だが、それは子供の頃からのきちんとした訓練がなければ身につけることが難しい。ここでは家族それぞれが深刻な葛藤を経てその認識に至るのだが、こうした覚醒に到達することは実際には難しいのではないか。
僕たちの中には不可避的にそれぞれ固有の「弱さ」があり、完全に自立してだれの助けも必要としない人間はおそらくいない。だれもが何らかの依存を抱え、だれかに認められること、だれかに頼られることで自己確認しようとする。自立は寂しく、冷たく、苦しいものだ。だが、「個」の寂しさを支えることができなければもはや寄りかかれる共同体はどこにもない。そのことをハッピー・エンディングで明らかにした恐るべき作品。
(2001年発表 幻冬舎文庫 ★★★★)
2009年01月02日
<32>THE MASK CLUB
死者の目を通して語られる、異常な女たちのSMレズビアン・パーティの顛末。死者がよく分からない虫のような存在になって、自分が殺された部屋の中に漂うというアイデアは面白いが、状況の説明が妙に回りくどくて、自分には実体があるのかないのかとか羽虫の背中につかまって移動するとか免疫細胞に食われるとかそんなことはどうでもよくて、そうこうするうちに話は女たちの語りに移り変わり、結局「いつもの話」になって行く。
いつもの話とは、父親と円満な関係を構築できなかった女性がコミュニケーションに歪みを抱えたまま成人し、SMに救済を求めるというこれまでにも何度となく繰り返されたテーマ。かつてフリースクールで一緒に過ごした彼女らが偶然再会を果たし、最も繊細でそれ故最も危機的な状況にあるレイコのためにマスクで顔を隠したパーティを開き、一種のセックス・セラピーを行うという筋書きは悪くないが、それなら初めからその話でいい。
最後には殺された男の虫としての視点はどうでもよくなってしまうし、かといって彼女たちの抱えこんだ物語として読むには、前半を死者の視点の説明に費やした分、決定的に深みが足りず、どちらにしても中途半端なバランスの悪さを払拭できない。面白いアイデアで書き始めたが途中で面倒臭くなって、持ちネタで流したら結構モノになりそうにも見えたけど、結局適当なところで切り上げた、といった感じじゃないかと思われる作品。
(2001年発表 幻冬舎文庫 ★★★☆)
いつもの話とは、父親と円満な関係を構築できなかった女性がコミュニケーションに歪みを抱えたまま成人し、SMに救済を求めるというこれまでにも何度となく繰り返されたテーマ。かつてフリースクールで一緒に過ごした彼女らが偶然再会を果たし、最も繊細でそれ故最も危機的な状況にあるレイコのためにマスクで顔を隠したパーティを開き、一種のセックス・セラピーを行うという筋書きは悪くないが、それなら初めからその話でいい。
最後には殺された男の虫としての視点はどうでもよくなってしまうし、かといって彼女たちの抱えこんだ物語として読むには、前半を死者の視点の説明に費やした分、決定的に深みが足りず、どちらにしても中途半端なバランスの悪さを払拭できない。面白いアイデアで書き始めたが途中で面倒臭くなって、持ちネタで流したら結構モノになりそうにも見えたけど、結局適当なところで切り上げた、といった感じじゃないかと思われる作品。
(2001年発表 幻冬舎文庫 ★★★☆)
2008年12月23日
<31>タナトス
「エクスタシー」「メランコリア」に続くシリーズ第3作。本作ではキューバに済むカメラマン・カザマを通してレイコの独白が延々と展開される。その独白からレイコとヤザキ、ケイコとの関係やレイコがキューバにたどり着いた経緯なども在る程度は明らかにされるのだが、もちろんここでの中心的なモメントはそのようなストーリーではなく、既に優雅に壊れきっているレイコの「壊れ」をどこまでも追いかけて行くこと自体である。
もちろん高いテンションに貫かれた異様な世界の描写と、既存の「分かり合い」に依存することを許さないキューバという舞台設定のおかげで、レイコが抱えこんだ複雑で重たいトラウマを強引にドライブして行く本作の目論見はかなりの程度成功しているが、このテーマも正直そろそろ食傷気味で、こんな変わった人もいるんだなあ、とか、こんな無茶な世界もあるんだなあとか、作品本来の痛みが読者にまで切迫しないようにも思える。
それはキューバという、大方の日本人は一生訪れることのない土地が舞台になっているせいで、そこにおける空気感の現実性が欠けることにも一因があると思う。村上龍がキューバの単なるファンになってしまって、キューバという国の特殊さと普通さを丁寧に書き分けるプロセスが欠落してしまっているのではないか。レイコの「壊れ」が川に落ちた父親のエピソードに収斂してしまうのも安易。ある気狂いの半生、では少し食い足りない。
(2001年発表 集英社文庫 ★★★)
もちろん高いテンションに貫かれた異様な世界の描写と、既存の「分かり合い」に依存することを許さないキューバという舞台設定のおかげで、レイコが抱えこんだ複雑で重たいトラウマを強引にドライブして行く本作の目論見はかなりの程度成功しているが、このテーマも正直そろそろ食傷気味で、こんな変わった人もいるんだなあ、とか、こんな無茶な世界もあるんだなあとか、作品本来の痛みが読者にまで切迫しないようにも思える。
それはキューバという、大方の日本人は一生訪れることのない土地が舞台になっているせいで、そこにおける空気感の現実性が欠けることにも一因があると思う。村上龍がキューバの単なるファンになってしまって、キューバという国の特殊さと普通さを丁寧に書き分けるプロセスが欠落してしまっているのではないか。レイコの「壊れ」が川に落ちた父親のエピソードに収斂してしまうのも安易。ある気狂いの半生、では少し食い足りない。
(2001年発表 集英社文庫 ★★★)
2008年12月18日
<30>希望の国のエクソダス
ディテールにおいては首をひねるような記述もないではないし、何より例によって受け売り感満載の経済解説や為替市場の描写が興を削ぐ部分は実際あるが、そしてまたここで描かれる中学生たちのブレイク・スルーのあり方があまりに楽観的で理想主義的だという決定的な非現実感はあるが、それにも関わらずこれは我々の国が何に突き当たっているのか、それを突破するためにどんな方法があり得るのかという難問に挑んだ意欲作である。
我々の社会は、バブルが弾けて長い景気後退というか未曾有の経済危機にあったとき、できる者もできない者も同じように仲良く豊かになるという大家族的な共同性を放棄し、その維持にかかるコストを削減することで何とか全体が共倒れになることを回避した。景気は回復したように見えたが、それはこれまで養ってきた家族を、これ以上面倒は見られないから自分で何とかしてくれと突き放すことによって残りの者を守っただけだった。
派遣労働者とか格差の問題の本質はそう理解すべきなのだが、この作品はその構造を的確に言い当てている。そして、そこにおいて観念できる救済のひとつの形を提示しているのだ。もちろんこれはお話なのだが、そこに書き込まれたひとつひとつのエピソード、アイデアには示唆的なものもある。それは村上龍が本質に近いところを見ている証左なのだろうが、このリニューアルされた世界的な金融危機は村上龍の想像力を超えたかもな。
(2000年発表 文春文庫 ★★★★)
我々の社会は、バブルが弾けて長い景気後退というか未曾有の経済危機にあったとき、できる者もできない者も同じように仲良く豊かになるという大家族的な共同性を放棄し、その維持にかかるコストを削減することで何とか全体が共倒れになることを回避した。景気は回復したように見えたが、それはこれまで養ってきた家族を、これ以上面倒は見られないから自分で何とかしてくれと突き放すことによって残りの者を守っただけだった。
派遣労働者とか格差の問題の本質はそう理解すべきなのだが、この作品はその構造を的確に言い当てている。そして、そこにおいて観念できる救済のひとつの形を提示しているのだ。もちろんこれはお話なのだが、そこに書き込まれたひとつひとつのエピソード、アイデアには示唆的なものもある。それは村上龍が本質に近いところを見ている証左なのだろうが、このリニューアルされた世界的な金融危機は村上龍の想像力を超えたかもな。
(2000年発表 文春文庫 ★★★★)
2008年12月12日
<29>共生虫
引きこもりをテーマにした作品。他の作品のところでも書いたが、アップ・トゥ・デイトな題材を描くほどその有効期間が短くなるのは必然か。引きこもりの青年がネット上のコミュニケーションを通じて何かに目覚めるという設定はどこか決定的に古い気がするし、主人公が掲示板で示された「共生虫」というモチーフに触発されながら、最終的には外に出て肉体性を獲得するというストーリーは類型的で因襲的ですらあるのでないか。
引きこもりがネットで示唆されるものは「外へ出よ」というサインではない。彼らがそこで受け取るのは「より深くネットに沈潜せよ」というメッセージだ。村上龍がここで描きたかったのが引きこもりの覚醒なのか自壊なのかはよく分からないが、いずれにしてもそのモメントを森林公園での優れて肉体的な体験に求めるのは一種の退廃だ。村上龍であればその答えをネットの迷宮の奥の奥にこそ見出すべきではなかったのだろうか。
もちろんそこには時代的な制約もある。ホームページ、掲示板、アクセスカウンタの世界は、いつの間にかブログ、SNS、携帯メールへと移行した。今では、ネットに沈潜した結果、完全に社会からデタッチすることは珍しくも難しくもない。2ちゃんねるが引き受けるジャンク・コミュニケーションのオーバーフローの中にこそ因襲的な社会の共同性に変わる新しい人間関係のモデルがあるとか、それくらいのことは書いて欲しかった。
(2000年発表 講談社文庫 ★★★☆)
引きこもりがネットで示唆されるものは「外へ出よ」というサインではない。彼らがそこで受け取るのは「より深くネットに沈潜せよ」というメッセージだ。村上龍がここで描きたかったのが引きこもりの覚醒なのか自壊なのかはよく分からないが、いずれにしてもそのモメントを森林公園での優れて肉体的な体験に求めるのは一種の退廃だ。村上龍であればその答えをネットの迷宮の奥の奥にこそ見出すべきではなかったのだろうか。
もちろんそこには時代的な制約もある。ホームページ、掲示板、アクセスカウンタの世界は、いつの間にかブログ、SNS、携帯メールへと移行した。今では、ネットに沈潜した結果、完全に社会からデタッチすることは珍しくも難しくもない。2ちゃんねるが引き受けるジャンク・コミュニケーションのオーバーフローの中にこそ因襲的な社会の共同性に変わる新しい人間関係のモデルがあるとか、それくらいのことは書いて欲しかった。
(2000年発表 講談社文庫 ★★★☆)
2008年12月07日
<28>ライン
ひとことで言ってしまえば頭のおかしい人たちの見本市みたいなものである。ここに出てくる人たちはだれもどこか病んでいる、とかいうレベルではなく、明らかにおかしい。もちろん病みと正気との間に明確な境界がある訳でなく、それはグラデーション的に地続きなのだが、一方でプレッシャーやストレスを受けた人間がだれでも病む訳ではなく、正気から病みに移行する瞬間にあるはずの「踏み越え」のことを村上龍は描き続ける。
気になるのは物語の運びが直線的で話法が平板であること。多くの病んだ人たちのエピソードがリレー形式で語られて行くのだが、そこから多様な声が聞こえてこない。先を急ぐ余りひとりひとりの描写が説明的で、事例としての面白さはあっても小説的な付加価値は小さい。悲惨な生い立ちも病みが発現する瞬間の「踏み越え」も常軌を逸した行動も、どれもが通り一遍でコンパクトに収まっており、全体としての印象は散漫と言う他ない。
村上龍自身はこれを「近代の物語・個人史をテーマではなく背景とした」と説明しているが、ではその背景の手前で語られるべき物語とは何か。それこそは正気が病みに転ずる瞬間の「踏み越え」の個人的な体験に他ならず、それが起こる人間と起こらない人間の、起こる前と起こった後の、グラデーション的な連続性に生じた微細な亀裂を突き止めて描ききることではないのか。方法論として面白くはあるが決定的に食い足りない作品だ。
(1998年発表 幻冬舎文庫 ★★★)
気になるのは物語の運びが直線的で話法が平板であること。多くの病んだ人たちのエピソードがリレー形式で語られて行くのだが、そこから多様な声が聞こえてこない。先を急ぐ余りひとりひとりの描写が説明的で、事例としての面白さはあっても小説的な付加価値は小さい。悲惨な生い立ちも病みが発現する瞬間の「踏み越え」も常軌を逸した行動も、どれもが通り一遍でコンパクトに収まっており、全体としての印象は散漫と言う他ない。
村上龍自身はこれを「近代の物語・個人史をテーマではなく背景とした」と説明しているが、ではその背景の手前で語られるべき物語とは何か。それこそは正気が病みに転ずる瞬間の「踏み越え」の個人的な体験に他ならず、それが起こる人間と起こらない人間の、起こる前と起こった後の、グラデーション的な連続性に生じた微細な亀裂を突き止めて描ききることではないのか。方法論として面白くはあるが決定的に食い足りない作品だ。
(1998年発表 幻冬舎文庫 ★★★)
2008年12月05日
<27>オーディション
頭のおかしい女を書かせたらやはり村上龍はすごい。幼児期の虐待体験がもとで、男を決して信用できず、裏切られたと感じると豹変してその男の足首を切断する女。明らかに異常である。異常なんだけど何となくそのメカニズムが理解できてしまうから怖い。片足首を切断されて血が吹き出るシーンのフィジカルな嫌悪感もすごいが、本当に怖いのはそういう女がいてもおかしくないと普通に感じてしまう描写の巧みさ、リアルさの方だ。
さらにこの作品の凄みを増しているのは、その異常な女である山崎麻美が、そのようにして異常な行動に走る一瞬手前まで、この上なくコケティッシュで魅力的な女性として描かれていることだ。周囲から「あの女はどこかおかしい」と言われながらそれを受け入れず、恋愛初期特有のキラキラしたトキメキ感に溺れ冷静な判断力を失って行く主人公の思考のパターンがまた迫真的で怖い。主人公と麻美のセックス描写も臭うほどリアルだ。
主人公には死んだ妻との間の遺児があり、その存在が麻美のスイッチを入れた。では、仮に主人公にそういう存在がなく、麻美を取り敢えず引き受けることができたらどうだっただろう。おそらく麻美の独占欲はさらに高じて、結局信じられないような些細なことをきっかけに同じ結末を迎えただろう。なぜなら麻美が本当に欲しているのは男はやはり自分を裏切るという確認だからだ。これが娯楽作に仕上がっていることがすごいと思う。
(1997年発表 幻冬舎文庫 ★★★☆)
さらにこの作品の凄みを増しているのは、その異常な女である山崎麻美が、そのようにして異常な行動に走る一瞬手前まで、この上なくコケティッシュで魅力的な女性として描かれていることだ。周囲から「あの女はどこかおかしい」と言われながらそれを受け入れず、恋愛初期特有のキラキラしたトキメキ感に溺れ冷静な判断力を失って行く主人公の思考のパターンがまた迫真的で怖い。主人公と麻美のセックス描写も臭うほどリアルだ。
主人公には死んだ妻との間の遺児があり、その存在が麻美のスイッチを入れた。では、仮に主人公にそういう存在がなく、麻美を取り敢えず引き受けることができたらどうだっただろう。おそらく麻美の独占欲はさらに高じて、結局信じられないような些細なことをきっかけに同じ結末を迎えただろう。なぜなら麻美が本当に欲しているのは男はやはり自分を裏切るという確認だからだ。これが娯楽作に仕上がっていることがすごいと思う。
(1997年発表 幻冬舎文庫 ★★★☆)
2008年12月02日
<26>イン ザ・ミソスープ
こんな小説が読売新聞に連載されていたというのだから我が国もまだ捨てたものではないのではないか。10年以上前の作品だが、ここで村上龍が苛立っていたもの、フランクの手を借りて殺そうとしたものは依然としてそこにあるし、それはむしろより広く、静かに潜行しつつある。それはエグい殺人シーンを媒介にして日本でも最もメジャーな新聞のひとつで告発されたにもかかわらず、結局のところ今でも変わらずに生き続けているのだ。
フランクはそれを退化だという。外部から海によって地政学的に隔てられ、極めて特殊な言語で成り立つ閉じた社会の中で、ある種の符丁のようなものだけが奇形的な進化を遂げ、だれもがそれをコミュニケーションだと思っている。痙攣的な笑いを共有することでギリギリの共同性を確認し合っている社会にあって、僕たちの危機感とかそれを生き延びようとする力はどんどん弱まって行く。なぜなら痙攣的に笑っている方が楽なのだから。
リスクを負う力、判断する力、意思を伝える力。そういう当たり前の能力が弱った人間は「殺してくれという信号を無意識に発している」。そう言い切る村上龍はやはり優れた小説家だし、だからこそ彼は「何か汚物処理のようなことを一人でまかされているような気分になった」のだ。文学作品そのものとしての完成度はともかく、ここで村上龍が告発した危機感は正当なもの。問題の本質は共同体の崩壊ではないと思うがそれは別として。
(1997年発表 幻冬舎文庫 ★★★★)
フランクはそれを退化だという。外部から海によって地政学的に隔てられ、極めて特殊な言語で成り立つ閉じた社会の中で、ある種の符丁のようなものだけが奇形的な進化を遂げ、だれもがそれをコミュニケーションだと思っている。痙攣的な笑いを共有することでギリギリの共同性を確認し合っている社会にあって、僕たちの危機感とかそれを生き延びようとする力はどんどん弱まって行く。なぜなら痙攣的に笑っている方が楽なのだから。
リスクを負う力、判断する力、意思を伝える力。そういう当たり前の能力が弱った人間は「殺してくれという信号を無意識に発している」。そう言い切る村上龍はやはり優れた小説家だし、だからこそ彼は「何か汚物処理のようなことを一人でまかされているような気分になった」のだ。文学作品そのものとしての完成度はともかく、ここで村上龍が告発した危機感は正当なもの。問題の本質は共同体の崩壊ではないと思うがそれは別として。
(1997年発表 幻冬舎文庫 ★★★★)
2008年11月30日
<25>ストレンジ・デイズ
クラシック・ロックの名曲をタイトルにした18の章からなる作品で、文芸誌に連載されたものらしい。おそらく最初はそれぞれの曲にちなんだ連作短編みたいなイメージだったのだろうと思うが、物語はいつしか自律的な推進力を手に入れて転がり始める。天才的な演技力を持つ巨大トラックのドライバーという訳の分からない人物造形を核に、彼女の超越的な演技力が周囲を異化して行くさまが丁寧に書き込まれて展開して行くのである。
そのトラック・ドライバー、ジュンコを媒介として主人公反町の絶望と無力感が明らかにされて行く。ジュンコの演技は、僕たちが互いを傷つけないように確認し合っている暗黙のコミュニケーションのルールのようなものに潜む、生来的な曖昧さを容赦なく暴いて行くのだ。僕たちの社会が、厳密な言葉で本質的なことを直接物語ることの難しい場所であることを、村上龍は繰り返し指摘する。そしてその指摘は間違いなく正当なものだ。
そういう危機感はこれまでにも村上龍の小説には何度も現れてきたものであり、そこにおいてドラッグも暴力もセックスもそうしたコミュニケーションの「不自由さ」を突破するツールとしてあった。ここでは性的なモメントは希薄だが、村上龍は演技すること、自己と他者の境目を確認することをバネにして同じように突破を図っのだろう。ロケット風船みたいに推進力はあるが方向が今ひとつ定まらない感がありそれが残念な作品だ。
(1997年発表 講談社文庫 ★★★☆)
そのトラック・ドライバー、ジュンコを媒介として主人公反町の絶望と無力感が明らかにされて行く。ジュンコの演技は、僕たちが互いを傷つけないように確認し合っている暗黙のコミュニケーションのルールのようなものに潜む、生来的な曖昧さを容赦なく暴いて行くのだ。僕たちの社会が、厳密な言葉で本質的なことを直接物語ることの難しい場所であることを、村上龍は繰り返し指摘する。そしてその指摘は間違いなく正当なものだ。
そういう危機感はこれまでにも村上龍の小説には何度も現れてきたものであり、そこにおいてドラッグも暴力もセックスもそうしたコミュニケーションの「不自由さ」を突破するツールとしてあった。ここでは性的なモメントは希薄だが、村上龍は演技すること、自己と他者の境目を確認することをバネにして同じように突破を図っのだろう。ロケット風船みたいに推進力はあるが方向が今ひとつ定まらない感がありそれが残念な作品だ。
(1997年発表 講談社文庫 ★★★☆)
2008年11月25日
<24>はじめての夜 二度目の夜 最後の夜
「コスモポリタン」という雑誌に1年半に渡って連載された作品らしい。それを知ってなるほどと思った。おそらく、フルコースの料理を題材にしてそれにちなんだ小説を書くとかそういう安易な企画に乗って書かれた作品だろう。ハウステンボスのレストラン「エリタージュ」を舞台に、そこで供される料理を織り込んで物語は進行する。いや、物語というほどのことは何もない。好きだった同級生と再会して思い出話をする、それだけだ。
それだけの話を丁寧にブイヨンで薄く伸ばしてフォアグラやらトリュフやらで味つけしただけの作品であり、特に何かが起こる訳でもない。中心となるメッセージはごくシンプルで、しかもそれはこれまでの村上龍の作品で何度となく繰り返されたものだ。この作品と舞台を共有する「69」や「長崎オランダ村」にも書かれたように、どのようにして我々の「生」をストレートに肯定するかということだけがここにある問題意識の核心である。
どうでもいいような料理の話が必然的に挿入されるのが非常にまどろっこしく、うざったく、いくら良質のブイヨンで伸ばしたといっても薄めたことには変わりはないので水増し感の強い作品だが、そういう作品の中にも何となく真理っぽいことを書き込めるのが村上龍の技量なのだろう。そういう意味ではそれなりに雰囲気も出して健闘していると言っていいのだろうがいかんせん決定的に薄く、「お仕事」的なやっつけが気になる作品だ。
(1996年発表 集英社文庫 ★★☆)
それだけの話を丁寧にブイヨンで薄く伸ばしてフォアグラやらトリュフやらで味つけしただけの作品であり、特に何かが起こる訳でもない。中心となるメッセージはごくシンプルで、しかもそれはこれまでの村上龍の作品で何度となく繰り返されたものだ。この作品と舞台を共有する「69」や「長崎オランダ村」にも書かれたように、どのようにして我々の「生」をストレートに肯定するかということだけがここにある問題意識の核心である。
どうでもいいような料理の話が必然的に挿入されるのが非常にまどろっこしく、うざったく、いくら良質のブイヨンで伸ばしたといっても薄めたことには変わりはないので水増し感の強い作品だが、そういう作品の中にも何となく真理っぽいことを書き込めるのが村上龍の技量なのだろう。そういう意味ではそれなりに雰囲気も出して健闘していると言っていいのだろうがいかんせん決定的に薄く、「お仕事」的なやっつけが気になる作品だ。
(1996年発表 集英社文庫 ★★☆)
2008年11月22日
<23>ラブ&ポップ ―トパーズII―
援助交際という言葉はもはや廃れたのか、あるいはあまりに普通の言葉として僕たちの日常に溶けこんでしまったのか。ヒロミという女子高校生が、渋谷の109で見つけたインペリアル・トパーズの指輪を手に入れるために「最後まで付き合う」援助交際をすることを決意し、伝言ダイヤルにメッセージを残してみるところから物語は始まる。欲しいものがはっきりしているとき、それを手に入れるために援助交際をするのは悪いことなのか。
残念ながら本作のように風俗を扱った作品の賞味期限は早く訪れる。今では携帯電話を持たずに渋谷を徘徊する女子高校生なんていないだろう。ポケベルのサービスもなくなって久しい。そうした時代相の中で語られるヒロミの冒険譚も今となってはどことなく牧歌的だし、せっかくの冒険が「こういう時に、どこかで誰かが死ぬほど悲しい思いをしている」といった情緒的で道徳的な認識に回収されて行くのはもったいなく、情けない。
村上龍はそうした情緒的で道徳的な、あるいは因襲的で抑圧的な枠組みから解放されることをほとんどただ一つの美点として描ききった小説家であったはずだ。そうであってみればこの物語は、何の不自由もない中産階級の子女であるヒロミが、社会的落伍者の男たちに身体を売ったカネでインペリアル・トパーズの指輪を手に入れ、それをうっとりと眺めるシーンで終わってこそ説得力があったのではないか。そこに不満が残る作品だ。
(1996年発表 幻冬舎文庫 ★★★)
残念ながら本作のように風俗を扱った作品の賞味期限は早く訪れる。今では携帯電話を持たずに渋谷を徘徊する女子高校生なんていないだろう。ポケベルのサービスもなくなって久しい。そうした時代相の中で語られるヒロミの冒険譚も今となってはどことなく牧歌的だし、せっかくの冒険が「こういう時に、どこかで誰かが死ぬほど悲しい思いをしている」といった情緒的で道徳的な認識に回収されて行くのはもったいなく、情けない。
村上龍はそうした情緒的で道徳的な、あるいは因襲的で抑圧的な枠組みから解放されることをほとんどただ一つの美点として描ききった小説家であったはずだ。そうであってみればこの物語は、何の不自由もない中産階級の子女であるヒロミが、社会的落伍者の男たちに身体を売ったカネでインペリアル・トパーズの指輪を手に入れ、それをうっとりと眺めるシーンで終わってこそ説得力があったのではないか。そこに不満が残る作品だ。
(1996年発表 幻冬舎文庫 ★★★)
<22>メランコリア
ヤザキとケイコ、レイコをめぐる三部作の中間に位置する作品。ここではジャーナリストのミチコが聞き手となりヤザキからホームレスになった経緯をインタビューするという形で、例によって過剰とも思える独白が延々と続いて行く。そして冷静でクレバーなはずのミチコはやがてヤザキの抱える真空に吸い込まれるように引き寄せられて行く。そう、ここで明かされるのはヤザキの抱えるのが結局のところ真空であり空白だということだ。
それは自意識から自由になるということで、もちろん容易なことではない。すべての社会性や共同性をいったんすべてかなぐり捨て、何者でもない自分をそこに見出すことからしか何も始まらないということなのだが、何者でもない自分と向かい合うのは非常にエネルギーの要る作業であり、ドラッグの助けを借りずにその場所に降り立つためには大変な消耗を強いられる。だからたいていの男は自意識とともに社会的に生きて行くしかない。
ヤザキが魅力的なのだとしたら、そのような自意識から自由になった後の地獄を、ドラッグに頼りながらではあれ生き抜いたからなのであり、そこに必然的に生まれる憂鬱(メランコリア)を引き受けているからなのだと思う。そして物語のラストではミチコもまたヤザキの憂鬱の慰み物に過ぎないことが示唆される。小説的バランスからは完全に逸脱しているが、三部作の中では最も直接的であり、村上龍の世界観がはっきり出た作品だ。
(1996年発表 集英社文庫 ★★★★)
それは自意識から自由になるということで、もちろん容易なことではない。すべての社会性や共同性をいったんすべてかなぐり捨て、何者でもない自分をそこに見出すことからしか何も始まらないということなのだが、何者でもない自分と向かい合うのは非常にエネルギーの要る作業であり、ドラッグの助けを借りずにその場所に降り立つためには大変な消耗を強いられる。だからたいていの男は自意識とともに社会的に生きて行くしかない。
ヤザキが魅力的なのだとしたら、そのような自意識から自由になった後の地獄を、ドラッグに頼りながらではあれ生き抜いたからなのであり、そこに必然的に生まれる憂鬱(メランコリア)を引き受けているからなのだと思う。そして物語のラストではミチコもまたヤザキの憂鬱の慰み物に過ぎないことが示唆される。小説的バランスからは完全に逸脱しているが、三部作の中では最も直接的であり、村上龍の世界観がはっきり出た作品だ。
(1996年発表 集英社文庫 ★★★★)