読書の日々

読書についてのよしなしごと。小説とか、詩集とか、教科書とか。

『クウネル』のページを時折めくったときに、いつも気になっていた漫画なのだが、まとめて読んでみて、天才幼児チィチィの魅力にすっかりやられてしまった。



チィチィは2歳児で、オセロの天才。最初はまだ「チロ(白)」「チュロ(黒)」くらいしかしゃべれないのだが、母親(一度も登場しない)の考えによって、学校に入ることになる。そして、チィチィを愛する兄やその友人、先生や学友たちとかかわり合いながら、チィチィはその天才ぶりをのびのびと発揮していく……。

この漫画には、小さな「なぜ」がたくさんちりばめられている。そのなぞが、いちいちなんだか、とても素敵だ。たとえば。

なぜチィチィは、フードをかぶり、ひもを硬くむすんでいるのか。
なぜチィチィは、バンカラな言葉づかいになっていくのか。
なぜチィチィは、カーテンをまとって一人芝居を演じるのか。

そして、チィチィとかかわり合う人々も、みんな、とても魅力的なのである。ちなみに、僕は、「ええか君な、ええ子は自分で自分のことを“神童”やなんて言うたらあかんのやぞ。行儀悪いんやぞ」といった、味わいのある関西弁をあやつる「先生」がいちばん気に入っている。

しかし、タイトルの『B&D』って、何の略なんだろう。漫画をあちこちめくって探ってみたのだが、結局わからなかった。なぞである。

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おいっ!ちっかりちろよっ!
かくとだに えやはいぶきの さちも草!
第31回 B&D より
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ナナロク社のtwitterにこの作品のことがツイートされていて、「UFOもさびるのね」「いかんせん海が近いからなあ」というネームに強く興味をひかれて購入した。


 
25の短篇漫画と、巻頭巻末に4コマ漫画、2コマ漫画が収められている。そのうちいくつかは連作となっており、また、読み進めるうちに、無関係だと思っていた漫画の登場人物同士がつながっていることがわかったりする。

細い線と淡い色で描かれている世界は、一見「普通の日常」のようなのだが、その「普通の日常」は、なんだか、ちょっとおかしな振る舞いをする。

犬と気安く会話する、女の人。
当たり前のようにUFOが空を飛びかう、町。
カラスの死体を回収して代わりに軍手をおいてくる活動にいそしむ、キョーコさん。
核ミサイルの発射ボタンを磨く仕事をしていた過去を持つ、コケシの工人。

このように文字で書くと、かなりあざとい設定のようにも感じられるかもしれない。けれども、それぞれの「おかしさ」を「普通」のこととして、自然に受け入れながら読むことができるのが、この漫画の魅力的なところだ。

そして、それらの話の合間、合間に、古いアパートで暮らす若い夫婦の日々をユーモラスに描く「ひろしとみどり」という連作が置かれている。この連作では、ほんとうに微笑ましい普通の日々が描かれており、そこから放たれるほのかな光が、すべての作品の「普通感」を強めているようにも思える。

あとがきを読むと、この本がでるまで、準備から10年以上かかったとのこと。たしかに、それだけの熟成を感じる。今後きっと、折りにふれて読み返すことになると思う傑作。


 

「晴れた日に/あなたとふたり/日常を歩いた。」という言葉で、小川三郎は語り始める。日常の使い方が、少し変だ。この少し変な感じが、この詩集の行く先を暗示している。




この詩集には、日常のさまざまな断片(フィラメント)が集められ、詩として再構成されている。そして、そのさまざまな断片にはいずれも、終末感が色濃くたちこめ、途方に暮れて立ち尽くすひとの姿がある。

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私はかつて
その観覧車のいちばん上から
この道を見下ろしていたような気がする。
その記憶は
いまもはっきりと残っていて
昨日のことのように思い出せるのだけれど
それがいつだったか
隣に誰がいたのか
少しも思い出せなかった。

P12「日曜日」より
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今日は晴れの日。
終わりの来ない
終末の日。
命の続く限り
私はここにいて
誰でもない自分を演じている。

P42「晴れの日」より
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『フィラメント』では、「終末の日」は、すでにあったものとして語られる。そして、「終末の日」を迎えたあとも、世界は、まるで何ごともなかったかのように、無意味に、無目的に、「いま・ここ」にあるものを抱え込んで、存在し続けるのだ。


世界はいつか滅亡する。ひとは永遠に立ち去る。それでもやはり、日常は続くのである。





淡々とした筆致で書かれた詩句が、やわらかく心を撫でる。しかし、その心地よさに気持ちを許してはいけない。読み進めるほどに、根源的な「怖さ」がじわじわと身のうちにしのびこんでくるのだ。自分が「生きている」ことを常に確認していないと、どこか遠いところ、深いところへと墜落してしまう。たとえば、そんな「怖さ」だ。

そして、その「怖さ」を味わうために、繰り返しページをめくってしまう。前作『海と夜祭』から4年。在る、ということに研ぎすまされた視線を向ける詩人、斎藤恵子から、また素晴らしい詩集が届けられた。





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ゆるやかに石は古び
山はやわらかく広がる
わたしは生きている
生きているものと
生きたものとがひっそりと
ひかりの中をすれ違う

P8「天空の石」 より

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