2007年08月14日

「私は師団から一杯食ったようだ」と、連隊長が述懐した

終戦の日、千葉県長生郡内では二つの英軍戦闘機墜落事件が勃発し、両事件の搭乗員はともに死亡している。寄稿者の森井氏自身は、二つの墜落事件を混同し寄稿しているので、問題を下記のように整理したい。

「A」英軍のシ−フアイア−艦上攻撃機は、午前6時15分頃、何らかの原因で長生郡西村字左坪地区(現・長南町字左坪)の山林と水田に墜落、搭乗員のフレッド・ホックレ−中尉補は郡内東村字上小野田地区(現・長南町字上小野田)に落下傘で降下し、村民に投降後147師団の教育隊に捕獲され、その夜9時ころ山中にてピストルと日本刀で処刑されている。

「B」米軍のアヴェンジャ―哨戒機(本来は雷撃機)は、一宮町字三ツ長サ地区の山頂に布陣する147師団隷下第426聯隊・第8中隊の機関砲(射手はS伍長)によって砲撃され、搭乗員のボ−ナス少尉は午前10時頃、郡内土睦村字森地区(現・睦沢町森地区)の水田に落下傘降下し、村民に投降後第426聯隊に引き渡されたとGHQの捜査資料には記載されているが、私の調査では誰かの手によって、なぶり殺しにされていると見るのが妥当のようである。

                   

「森井之清少尉の寄稿文◆

【本文】
この英軍機から墜落直前《と言っても約40kmを飛行して東京湾に墜落》に、搭乗員の一名が落下傘で降下した。場所は護北兵団が布陣していた中央部の長生郡土睦村で、歩兵第426聯隊の防衛陣地内であった。

《《《森井少尉はここで完全にかん違いをしている。前号までの対象者はフレッド・ホックレ−であった筈だが、ここでは急転して、午前10時頃墜落したアヴェンジャ―哨戒機から落下傘で降下したボナス少尉機に摩り替わっているのである。この搭乗員はイギリス貴族出身の見習士官(後日判明)ということであったが、捕虜として村の聯隊本部へ収容された。
イギリスの貴族であることが判明したのは、従来散々既述したように終戦の日には、東村国民学校(長南町)に駐屯した、教育隊の高山伍長がGHQで証言した宣誓供述書に記載されている》》》


この情況を直ちに鶴舞の師団司令部に連絡したところ、同司令部からこれを引き取るため、自動車を差し向ける旨の回答があった。しかし自動車の手配がされぬうちに正午となり、終戦の玉音放送が流された。


《《《自動車の手配は最初、師団から差し向けるということであったが、故障につき、425連隊(輜重隊)から差し向けるとの連絡があったが、これも故障故、夷隅郡大多喜町の第428連隊から差し向けると連絡後、双方の連絡が途絶え、午後三時過ぎの、聯隊の催促電話に「聯隊で処分せよ」と、半ば投げやり的に、決定づけられたのであるが、ここまでの経緯からすると、既に終戦後の戦争責任が念頭にあり、責任転嫁も念頭にあったし、師団参謀部では【既に終戦であるし、捕虜からの情報蒐集の必要が無い】という捕虜の立場無用論が最初からあったことが推量できるのである。北海道の関係者が取材に応じて述べたことだが、非常にインパクトに満ちたものであったし、事実この捕虜無用論そのままに、師団から聯隊に対し命令が下されたのは午後三時過ぎであったのだ》》》


思いもかけぬ敗戦に、部隊は混乱の極に陥った。そのときは捕虜の扱いどころか、敗戦でこれから先のわが国は、わが部隊は、そしてわが身はどうなるのか・・と動揺するばかり。だがこんな中でも当時の軍隊の規律は保たれ、命令系統は厳として存在していた。


《《《>命令系統は厳として存在していた。このフレ−ズによって田村大佐は戦争犯罪人として裁かれ平野昇少佐とともに22/9/16香港で処刑されたが、147師団の最高責任は石川浩三郎中将であり、参謀長は小林茂本大佐であったことを、私はこの場を借りて何度でもアピ―ルするものである》》》

一時的な混乱が収まると、聯隊では改めて捕虜の始末に取り掛かることになる。師団司令部に再三電話したが、師団長と参謀長は、終戦処理の打ち合わせで、佐倉東方の酒々井町に設置されている第五十二軍司令部に出かけて留守。このため、師団司令部に残っていた若い参謀・平野昇少佐が応対に出て「適当に処置せよ」という意味の命令を伝えた。終戦の日の15時頃である。


《《《「捕虜の始末に取り掛かる」とか「適当に処置せよ」なる言葉は、如何にも捕虜殺害を意識させる嫌な言葉である。軍隊擁護の“処置とは殺すこと”と周知徹底されていた。
鶴舞→酒々井間は約30キロであり、自動車では片道40分が精々である。そして各連隊長には師団司令部への集合命令が下っていて、田村聯隊長も午後5時半頃には師団司令部に向けて、428連隊長と同道する為に大多喜経由で出発しているところから、師団長の命令受領の機会がいくらでもあったわけであり、平野参謀の指示が唐突に過ぎるのではないだろうか。捕虜を迎える自動車が故障だとの命令が二転三転した件などで、詰まるところは連隊本部に捕虜を遠ざけた件等々を考えねばならない。
故に平野参謀の越権行為が如実にそして突出しているのである。さらには師団長が出かける際に、処分の決定を平野参謀に命令済であったことを窺わせるものでもある。
田村大佐は終戦後私の家に時々来られて「私は師団に一杯食ったようだ」、と私と私の父の前で云っておられた大佐の心情が、実はここにあったのであり、父の日記にも「悪意と作為の塊」と明記されていた》》》

 ・・・続く・・・


gokinkousan777 at 09:53│Comments(0)clip!北の大地からの発信 

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