フェルナンド・ペソア最後の三日間

 ポルトガルの詩人フェルナンド・ペソアが面白いのは、ただ彼の詩のなかにペルソナとして複数のキャラクターが登場するというだけでなく、いくつものペルソナとしての「異名者」を創造し、彼らの名で詩を書いて詩集に纏めたりしていたことにあるのだと思う。彼らにはプロフィールがあり、住んでいた場所、職業、人生がある。彼ら一人一人にプロフィールがあるという、なんだか多重人格の症状のような方法で創作をしたのが非常に独特だと思う。その「異名者」たちが、それぞれ彼らなりの方法で創作をし、それらの作品の完成度が異常に高く、それらが高いレベルで並存している―まるでその一つ一つの作品がそれぞれ別の文学者によって書かれたかのように―のはまさに奇跡と言ってもいいのではないか。

 そんなフェルナンド・ペソアをイタリアに積極的に紹介したペソア研究者でもあり、現在毎年ノーベル文学賞の候補にほぼ村上春樹と同じレベルで上り続ける作家であるアントニオ・タブッキが、ペソアの「最後の三日間」を描いたのが本作『フェルナンド・ペソア最後の三日間』である(まんまのタイトルだが…)。もちろんそれは単なる「伝記小説」やノンフィクションのようなものではない。タブッキはペソアが創造した創作上のキャラクターである「異名者」たちが、死を目前にした「作者」ペソアに次々に会いに来るという小説を書いた。ここでは「作者」という、本来は創作されたキャラクターの上位に位置するはずの存在をも、テクストの同一平面状に配することで、ペソアもまた「異名者」たちの一人になっている。タブッキは、ペソアという詩人を「異名者」たちの一人にまで、ある意味で「貶める」ことで、ペソアと同じような創作手法を取ったと言えるだろう。

 日本語訳でしか読んでいないので、あてずっぽうに思われるかもしれないが、ペソアの詩とタブッキの小説は同じ雰囲気を持った文学として、僕は認識している。それらは雄弁さの中に静寂を含み、孤独という名の対話を成している良質の文学であると思う。僕は常々思うのだが、良質の文章とは、雄弁さよりもむしろ無を志向するのではないか。意味よりも、意味と意味の隙間を志向するものではないだろうか。言葉への過信ではなく、言葉への謙虚さを持った文学。一つの脆弱な声の、そのまわりにあるカオスを、それとはなく意識させるのが、僕が目指す文学だと思う。そしてその定義にもっとも近いのが、ペソアやタブッキの文学なのだ。

 日本語訳にしてたったの89頁の、この小さくて静かな物語は、ほとんどが対話で構成されている。次々とペソアの元を訪れる異名者たち、彼らがペソアを作者として扱うことはほとんどない。彼らはペソアを、いい文学友だちとして、商売上のパートナーとして、そして弟子として、扱う。そんな異名者たちの会話は深遠で、どことなくユーモラスでもある。ペソアと精神病院で出会ったとされる、「古代ローマ風のチュニック」を来た哲学者アントニオ・モーラとペソアは、そのままペソアの詩に出てきてもおかしくないような詩的言語を操って会話をする。

 
わたしも死を忘れました、とアントニオ・モーラは言った。何故なら、生命が自然の秩序へと戻っていくことを説いた父なるルクレティウスを読んだからです。そして、わたしたちを構成している原始のすべて、現在のわたしたちの体であるこれら極めて小さい微粒子は、永遠の流転へと還っていくだろう、そして水、土、豊かな花、植物、視覚を与える光、わたしたちを濡らす雨、わたしたちに当たる風、冬にそのマントでわたしたちを包み込む純白の雪になるであろうと理解したからです。わたしたちはみな、この地上へと戻ってくることでしょう、偉大なるペソアよ、自然の欲する無数の形をとって、そしてひょっとするとわたしたちはジョーという名前の犬だったり、一片の葉身だったり、リスボンの広場を呆然と眺めている若いイギリス人女性だったりするのでしょう。でも、お願いです、旅立つには早過ぎます、まだもう少しだけフェルナンド・ペソアとしてわたしたちといっしょにいてください。(86)


 想像力は果てしなく広がる。人を「自然の欲する無数の形」と結びつける自由さがここにはある。このアントニオ・モーラの言葉に返答するペソアはまるで彼自身の詩の中の言葉のように言う。「わたしは自分自身であり、また他人、自分がなり得たすべての他人でした」(87)と。この一種異様な高揚感と疲弊の二つが同時に混ざり合い、この小説の構成原理となっている。

 この小説を読んでいると、その余白を充分に取った余裕のある行組みからか、僕は「余白」という言葉を思う。本の「余白」がこれほど似合う本は少ない。この本を編んだ編集者が、吉増剛造やパスカル・キニャール、あるいは堀江敏幸などの本を編んだのと同じ人物であることは、当然のようにも思える。タブッキの小説は、ペソアの創作物と同じようにどれも濃厚な不安と孤独と、そして無数の対話に満ちている。しかしペソアを一行でも読んだことがある読者にとってはこの作品はとても特別なものになるだろう。そこではペソアが常に志向し、そしてある意味では成し遂げながら、ペソアのテクストの中ではついに成し遂げられることのなかった、ペソアと異名者たちとの濃密な対話が繰り広げられる。対話詩と呼んでもいいかもしれない。本書はフェルナンド・ペソアの試みの、ある意味で余白を埋めるような達成だが、同時にまさにフェルナンド・ペソアとまったく同じように、その余白を決して手離さない文学である。せっかく文学を読むなら僕はこういうテクストを読んでいたい。騒がしい現実を決して無視するのではなく、その騒がしさの空隙を縫うような、そしてその騒がしさを、圧倒的に濃密な静けさの重力で飲み込んでしまうような、そんな文学を僕は「余白の文学」と呼びたい。それこそが僕が好むものだ。僕もペソアのように、彼の異名者たちのように、そうした世界の住人でありたいと思う。