2016年07月30日

jpg large








8月3日(水曜日)語義7時より、神戸市にて神戸映画サークル協議会の8月例会、映画『野火』についての学習会の講師を務めさせていただきます。

同例会では上映会場にて講演会も開催されますが、学習会では講演会の内容と違った主題にいたしました。
人類におけるタブーの一つでもあるカニバリズム(食人)と戦争についてのお話させていただきます。
少しショッキングな学習会になるかもしれません。

しかし、映画『野火』を語るとき、カニバリズムは外すことが出来ない主題です。

普段は語られることのない、この問題を参加者の皆さんともともに考えてみたいと思います。

ぜひ、ご参加ください。

永田喜嗣





「ヒトラーの思想が2週間前に降りてきた」

相模原障害者殺傷事件の植松容疑者が、そのように措置入院中に述べていたという報道を受けて、ようやくメディアはナチスのT4作戦、いわゆる「安楽死」作戦との関連を報じ始めた。
今までは何故か頑なにナチスとの関係を報じなかったのに、突然、ヒトラーやナチスドイツと結びつけて少しだけ解説するようになった。それはもちろん、植松容疑者が「ヒトラーの思想が2週間前に降りてきた」と言ったという情報が表に出てきたからである。

「優生思想」とナチス、障害者の虐殺と今回の関連については当初から疑いの余地がないと筆者は考えていた。しかし、報道ではニュース司会者は「思想」とは関係ないと発言したり、コメンテーターのナチスとの関連性をスルーするなど、まったくこの点を意識してこなかった。
植松容疑者を「精神障害者」あるいは大麻による「薬物中毒者」であるとし、それによる極めて特異な犯行とした。
ワイドショーに登場する識者も犯罪心理学者や警察庁の元捜査官などで、司会者、コメンテーター、識者たちも相模原障害者殺傷事件を異常で特異な犯罪、つまり「狂人」によるあり得ない妄想による犯行というところへ落とし続けてきたのだ。
「優生思想」やナチズムとの関連は全く述べられないまま事件は報道され続けたのである。

ところが、報道は「ヒトラーの思想が2週間前に降りてきた」証言からT4作戦(これについては先日書いた拙筆の「相模原障害者殺傷事件を考える~隠された優生思想」をお読みいただきたい)と結びつけるようになったのである。
しかし、ここでも相変わらずヒトラーという「狂人」と植松容疑者という「狂人」を並行に述べて事件を「狂気」へと落としこもうとされている。
NHKに至ってはT4作戦について掘り下げることもなく、ひたすらに障害者と健常者の交流のモデルケースを楽園的に報じることに終始し「啓蒙」に努めている。
NHKは昨年の戦後70周年に合わせてドイツに現地取材してT4作戦について『ハートネットTV』で特集放送を行っていた。情報は十分すぎるほどあるはずである。

そもそも、どのメディアもナチスの優生思想とT4作戦についての議論が全くされていない。
下手人はヒトラーと植松容疑者という「狂人」に負わせて「狂人による異常な事件」で済まされようとしている。
これで良いのだろうかと筆者は考える。

この事件の恐ろしさは先日のブログでも述べたが、「狂人」の犯行とされる障害者の抹殺という事件が過去のナチス・ドイツでは合法に公然と行われていたという事実があるということだ。
植松容疑者の行為は異常であり許されるものではないのは当然のことである。しかしながら、すべて「狂気」あるいは「狂人」の仕業ということで安堵するのはむしろ危険なのではないか。

T4作戦の実行責任者の一人であったカール・ブラント博士は、戦後のニュルンベルク医師裁判(ナチスの医師に対する戦争犯罪を裁く国際法廷)において障害者の「安楽死」という名の虐殺に関して「自分で死を選ぶことが出来ない人を安楽死させることで救済した」と述べた。
このブラントの自身の身の潔白を主張する証言は植松容疑者の供述している内容と恐ろしいほど一致している。
植松容疑者の動機は思想的底流においてはブラント博士のそれと何ら変わらないのである。

報道ではまるでT4作戦はヒトラーの思想によるものだと言わんばかりだが、実のところは「生きるに値しない命」の抹殺を理想とした医師や法学者たちによって先導されてきたものなのである。
T4作戦の基礎を作った『生きるに値しない命を終わらせる行為の自由化』の著者、法学者カール・ビンディングや医学者アルフレート・ホッヘ、T4作戦を実行したカール・ブラント、ヴェルナー・ハイデ、ヴィクトール・ブラックなどなどの博士号や教授の称号を持った医師たちは全員が「狂人」だったのだろうか。

誤解のないように記しておくがT4作戦は「狂気」の人権侵害犯罪であったことを筆者は明言する。
しかし、ドイツの医学界で、あるいは法曹界で最高学位を収めたT4作戦の実行者たちが、今、マスメディアが報じている「狂人」としての植松容疑者と同じ「狂人」だったのか。

この問いに行き着くと植松容疑者を単に特異な「狂人」では片づけられない壁にぶつかってくるのではないか。

既にインターネット上では植松容疑者を「英雄」だと書いたり、その主張を支持し「障害者は社会のお荷物」だと書く人びとが少なからず出現している。

筆者は植松容疑者のナチスと優生思想、そしてT4作戦の思想と歴史に関する知識は非常に浅いものだったと考えている。何故なら深く探求すればするほど、それは非人道的な行為であり、許されない殺人であることがはっきりとわかるからだ。

しかし、深く知らないことから「障害者一人が消えれば、健常者一人が助かる」(これはあるSNSに実際に書き込まれていたフレーズである)という考えを安易にネットで配信してしまう人びとが相模原障害者殺傷事件の負の遺産として確かに出現しているのである。

最も議論されるべきことはT4作戦の歴史的事実とその結果がもたらした「優生思想」の害悪についてである。
相模原障害者殺傷事件が「狂人」による特異な異常犯罪であったと逃げてしまうのは安易に過ぎるのではないか。

「ヒトラーの思想が2週間前に降りてきた」と植松容疑者が述べていたという報道を受けて、T4作戦にたどり着いてもその先の深い議論や報道がなければ、相模原障害者殺傷事件は単なる異常犯罪の一つで片付けられてしまい、その原因も社会的問題も浮き彫りにされずに終わってしまう。

なによりも恐ろしいことは、誰しも人間というものが植松容疑者になり得るということなのである。

カール・ブラント博士やアルフレート・ホッヘ博士のような高い知識を有する学者でさえ障害者の抹殺という思想に走っていったのは歴史的事実である。
そして、多くの医学博士たちが自らの手でガスを使って障害者を「生きるに値しない命」として抹殺していったのである。

この事実は全ての私たちの中に狂気が潜んでかもしれない、あるいは社会が狂気へと向かうかもしれないという問いかけなのである。

議論すべきはその危険性なのであって、そのためにも「ヒトラーの思想が2週間前に降りてきた」という植松容疑者の証言にたどり着いたとき、その「思想」=「優生思想」について、その負の歴史と事実を深く見つめなおさなければならないと筆者は考えるのである。

そうでなければ、この許されざる未曽有の大量殺傷事件の真の原因には永遠にたどり着けないのではないのだろうか。


筆者:永田喜嗣





2016年07月27日

「生きるに値しない命」。恐ろしい思想が背景にあるのではないか。
私は震え上がった。
そう、
考えられない事件が発生した。
相模原市の障害者施設で「津久井やまゆり園」で7月26日未明に元職員の植松聖容疑者が、入所者を刃物で襲い19人が死亡、26人が負傷した。
その後、植松聖容疑者は衆議院議長大島理森氏宛に犯行予告を含めた要望書を提出していたことが明らかになった。

その中には次のような一節がある。
「 私は障害者総勢470名を抹殺することができます。常軌を逸する発言であることは重々理解しております。しかし、保護者の疲れきった表情、施設で働いている職員の生気の欠けた瞳、日本国と世界の為と思い、居ても立っても居られずに本日行動に移した次第であります。」

更に「私の目標は重複障害者の方が家庭内での生活、及び社会的活動が極めて困難な場合、保護者の同意を得て安楽死できる世界です。重複障害者に対する命のあり方は未だに答えが見つかっていない所だと考えました。障害者は不幸を作ることしかできません。」とも綴っている。

この事件は常軌を逸した人物による狂気の犯行であることは間違いがない。それを私は否定はしないが、それだけで終わらせてしまうのはいかがなものかと思う。容疑者は常軌を逸しているが、常軌を逸している世界が過去に存在していたことをを我々はまず理解し、この事件に向かわなくてはならない。ニュースやワイドショーでは植松容疑者を「精神障害者」または「薬物中毒者」としてその範疇に収めて事件を片付けてしまっているようにも見える。
それで、よいものだろうか。
筆者はもっと熟考すべき問題がそこには横たわっていると考えている。

今回の事件の植松容疑者の手紙の内容や供述内容から、「生きるに値しない命」と「安楽死」の思想が背後にあることは疑問の余地がない。

「生きるに値しない命」と「安楽死」の負の歴史は20世紀最大の犯罪であるホロコーストと深く関係している。
1939年頃からナチスドイツはヒトラーの命令の下で、精神障害者、知的障害者、治癒不能な重病者などを「安楽死」させた。ガス室で虐殺したのである。
被害者は20万人に上ると伝えられている。
この安楽死計画はT4作戦:Operation T4と呼ばれた。(計画が策定された事務所がベルリンのティアガルテン4番地に所在したことから、こう呼ばれるようになった。)

今回の植松容疑者も手紙の中で犯行計画を「作戦」(Operation)と呼んでいる。

20世紀初頭、「優生思想」が流布された。つまり、障害者や難病者など社会において養護が必要な人間は人間社会であっても自然の法則にしたがって「自然淘汰」されるべきであるという主張であり、社会ダーウィン思想とも呼ばれた。

やがて1920年にドイツで法学博士、カール・ビンディングと医学博士、アルフレート・ホッヘが書いた論文『生きるに値しない命を終わらせる行為の自由化』が出版され、この論文が後にナチスのT4作戦へと結びついてゆくことになる。

アルフレート・ホッヘは「生きるに値しない命」と規定したのは3つのグループだった。

1.治療不可能な重傷や難病者
2.治療不可能な知的障害者
3.治療不可能な精神障害者

今回の相模原殺傷事件は2のグループに対する犯罪である。

ホッヘは知的障害者の存在をおよそ次のように断定している。
 つまり、知的障害者には生きようとする意思も死のうとする意思もなく、殺されることの意味もまた理解でき  ず、生きていることの目的も感じてはいない。家族にとっても社会にとっても知的障害者は社会の重荷となって いる。生かしておく価値がない命にその生命が全うするまで生かし続けなければならない。

ホッヘの主張はだから知的障害者を「安楽死」させることは社会の障害を取り除くことだというものだった。
ナチスドイツはこの考えに基づいて1939年にT4作戦を医師に命じて実行を開始したのである。
ナチスの主張も「非生産的」な障害者のために莫大な税金を費やせねばならない、その「社会的損失」を除外するために難病者、知的障害者、精神障害者を強制的に「安楽死」(ガスによる大量殺害)しようというものだった。
ナチスは自然淘汰の思想を映画で流布し、また難病者の安楽死を主題にした劇映画『私は告発する』(ヴォルフガング・リーベンアイナー監督)を製作公開し、国民の同意を得ようと試みた。

しかし、このT4作戦に真っ向から反対を唱えたのはキリスト教教会で、特にミュンスターのフォン・ガーレン司教はドイツの法務省に抗議を行い、教会で公にT4作戦に対して説教を通じて批判を行った。
こうした反対行動もあって、1941年に一端、T4作戦は中止されるに至る。
しかし、この作戦のノウハウはその後のアウシュヴィッツなどの絶滅収容所での大量虐殺へと向かうことになるのだ。

今回の相模原の事件の植松容疑者が『生きるに値しない命を終わらせる行為の自由化』に触れていたのか、あるいはT4作戦を詳細に知っていたのか、その辺はまだ分かってはいない。

しかし、アルフレート・ホッヘの知的障害者に対する考えやナチのT4作戦の論理と植松容疑者の主張は気味が悪いほど一致している部分がある。
植松容疑者は知的障害者を絶滅することが日本の国益になるとし、ナショナリズムとも結び付けようとしているように見える。
これはナチズムによる「安楽死」という非人道行為による犯罪の仕組みと一致している。

恐ろしいことは78年も前にナチスドイツで行われた「優生思想」に基づいた「安楽死」というアイデアが2016年の日本に突然現れたという事実である。(突然現れたのではなく潜伏してたのである)
植松容疑者は狂気によって行動しただけなのだろうか?
そこが、最も恐ろしいポイントだ。
彼がT4作戦を一人で実行しようとしたのだとすれば、それはもちろん常軌を逸した恐るべき犯罪であるにしても、彼の中で論理化されて信念として具体化していたのだとすれば、狂気や薬物に原因を求めても仕方がない。

日本でもハンセン氏病患者の人びとに対して「らい予防法」を根拠に「優生思想」に基づいて断種を行ったり強制収容を行っていたと事実がある。これらは「生きるに値しない命」に端を発する問題とも無関係ではない。
また、未だに問題が根本的には解決されていない臓器移植を巡る「脳死は人間の死か」という問題にも関係してくる。

今回の恐ろしい事件は弱いものを排外しようとする究極の功利主義が現代日本を知らず知らずの間に蝕んできている表れなのかも知れない。

社会における自然淘汰など考えられないことだと筆者は信じてやまない。
人間は文明と英知を得た以上、相互扶助を行わねばならない。それは当然の行為である。

もちろん、今回の事件は人間性に対する大きな背徳行為である。
到底許されるべきものではない。

私たちは今回の事件を機にドイツで行われた「生きるに値しない命」と決めつけて行われた信じがたい人権侵害を、日本で行われた「らい予防法」に基づく人権侵害を「優生思想」という誤った思想による事件をもう一度振り返って見なくてはならない。

そして、植松容疑者が示した「安楽死」の「アイデア」が何を生み出すのかを過去の歴史から学ばなければならない。

そして、マイノリティを除外してゆこうとする憎悪と排外の思想の危機を考えなおさなくてはならない。

かりそめにも社会的弱者を「生きるに値しない命」と決めつけて排外することで公益を守ろうなどという犯罪的思想を肯定することなどあっては絶対にならないのである。

最後に『生きるに値しない命を終わらせる行為の自由化』を書いた医学博士、アルフレート・ホッヘについて触れておこう。

ホッヘは1920年に同著を発表以来、自説を主張し続けたが、ナチス政権下で自分の縁者がT4作戦の対象となり殺害され、以来、自説を語ることはなかったという。

殺される、排外されるのが自分にとっての近親者だったら?

あなたはそれを社会の「お荷物」だと言えるだろうか?

生きるに値しない命など、断じて存在しないのだ。


筆者:永田喜嗣








2016年07月13日


padinghton


















 また、素晴らしい映画に出会った。2015年のイギリス映画『パディントン』だ。ここまで心揺さぶられた映画は最近なかった。
 素晴らしい出会いだ。

 『くまのパディントン』はイギリスの古典的な名作童話で、その実写映画化作品がこの『パディントン』だ。
ペルーの密林でイギリス人の探検家から文明と英語を教わったクマさん一家が震災で被災、命拾いしたクマのルーシー叔母さんは甥のパディントンをロンドンへ向かわせる。

 パディントンは密航してロンドンへたどり着くが、そこでは優しく迎えてくれる人はいない。途方に暮れて駅で佇んでいたパディントンに声をかけたのはブラウン一家の夫人、メアリーだった。
かつてパディントンの叔父や叔母と親交があったロンドンから来たイギリス人探検家が見つかるまでブラウン一家で過ごすことになったパディントン。家長のブ ラウンさんは何かと騒ぎの元になるパディントンを厄介者だと困っているが、心優しい小さな紳士のパディントンに夫人のみならず子供たちもいつしか心を開い てゆく。
自然史博物館で剥製部長を務めるミリセント(なんと、ニコール・キッドマン)はパディントンを剥製にしようと付け狙う。
 ミリセントが仕掛けた罠でブラウン家はボヤ騒ぎになり、パディントンは責任を感じて置手紙を残してブラウン家を一人去る。

 雨の中、行く当てもなくロンドンの街を歩くパディントン。
 バッキンガム宮殿の衛兵所の前に立つと、衛兵が目くばせをする。
 衛兵小屋に入って雨宿りをするパディントンに衛兵はイギリスの小旗が付いたサンドイッチと紅茶を差し出す。空腹を癒すパディントン。しかし、銃を持った交代の衛兵が来るとパディントンは衛兵小屋から追い出されてしまう。
 ここは重要な場面である。
 イギリスは難民を温かい食事とお茶でもてなす。しかし、来る将来、イギリスは銃で持って難民を追い返すのだろうかという警告である。
 バッキンガム宮殿の衛兵小屋はイギリスを表象している。
 難民や移民を寛容に扱ってきたのはEU諸国の中でもイギリスだ。そのイギリスが排外主義に走ろうとしている現状にこの映画は警告を発している訳だ。

paddington_dvd_eng




























 やがてパディントンは探検家の家を見つけて訪ねる、しかし、探検家は世を去っており、その娘が皮肉なことに剥製狂のミリセントだったのだ。

 パディントンはミリセントによって誘拐され、自然史博物館で剥製にされそうになる。
 パディントンの危機を知ったブラウン一家は救出に向かう。
 パディントンを奪い返したブラウン一家にミリセントは銃を向けて「その熊を渡せ」と迫る。
 ブラウン夫人は「パディントンは家族だから渡さない」と答える。
 ミリセントは笑って言う。「家族?種族も違うのに家族だって?」
 種族が違う・・・その言葉にパディントンは悲しそうに「その通りだよ」とつぶやく。
 ブラウンさんが銃を構えたミリセントに向かって歩き出して言う「その通りだよ。種族が違う。最初、妻がパディントンを見つけて声をかけた時、私は彼に関わることが面倒だと思った。しかし、いつか子供たちもパディントンを受け入れていった。今は私もそうだ!」
以下、原文のままブラウンさんのセリフを載せよう。
it doesn't matter that he comes from the other side of the world or that he's different species or that he has a worrying marmalade habit.We love Paddington.
And that makes him family.
(彼が地球の裏側から来たことも、彼が違った種族だということも、彼が厄介なママレードの習慣をもっていること、そんなことなんてどうでもいいことなんだ。私たちはパディントンを愛している。だから、彼との家族の絆が生まれるんだ。)

 ミリセントは剥製に狂った偏執狂だが、彼女は排外主義のレイシストの象徴だ。
ミリセントは終始、パディントンをBearと呼ぶ。しかし、ブラウン一家はパディントンをPaddingtonと名前で呼ぶ。
 ミリセントにとってはパディントンはその他大勢のクマの一匹でしかない。言ってみれば〇〇人とかいう括りでしかパディントンを見ていない。
 しかし、ブラウン一家はパディントンを唯一無二の個人として見ているのである。
 また、探検家を探すためパディントンを助けるグルーバーさんというドイツ人の骨董商のおじいさんも登場する。
 グルーバーさんは語る。君と同じくらいの歳に私は両親によってロンドンへ一人で送られてきたんだ。自分の国は問題のある国だったからとも語っている。パディントンの原作のモティーフは第二次世界大戦の時に戦災孤児たちが駅に佇んでいたという実話によるもである。
 グルーバーさんの両親はナチの迫害から守るためにドイツからロンドンへ一人息子を逃がしたのだ。劇中では何も語られないが、グルーバーさんはドイツ系ユダヤ人だろう。
 そのグルーバーさんの過去の孤独だった難民の境遇とパディントンの境遇が重なり合っている。
 この二重の構造は興味深い。
 この映画は現代のイギリスの移民に対する共生か排外かという問題だけでなく、過去のホロコーストの記憶まで包括させているのである。(ここから導き出され るのは、ミリセントが明らかにネオナチと歴史修正主義者を表象している存在だということだ。この辺はもっと詳しく語りたいんだが長くなるので・・・)

 『パディントン』という映画を送り出したイギリスの共生への理想には敬服する。子供たちやファミリーへの娯楽映画だとしても、社会の問題、政治の問題を静かに忍び込ませて、その理想の啓蒙の手を全く緩めていない。
ドイツの『帰ってきたヒトラー』然り、イギリスの『パディントン』然り、娯楽映画でも社会と政治への主題は忘れない。

 こんな作品を日本映画でも観てみたいものだと心から思った。

『パディントン』を世に送り出し、世界中でヒットさせて人びとに感動を与えたイギリスが皮肉にもEU離脱という方向を選んでしまった。

 しかし、パディントンとブラウン一家の絆はイギリス人の誇りとして今も残されていると僕は信じたい。

 平和と共生を考える人のためのイチオシの映画。

(7月18日まで神戸市の老舗映画館「パルシネマしんこうえん」で上映中です。近辺の方はぜひ、ご鑑賞をお勧めします) 


執筆:永田喜嗣




2016年06月27日

_SL500_AA300_














 映画『帰ってきたヒトラー』で終戦間際のベルリンから2014年にタイムスリップしてきたヒトラーが「モノマネ芸人」と勘違いされてマスコミの寵児になる んだけど、その前に犬が欲しいということで(ヒトラーは犬が好きだった)テレビ局の人とブリーダーのところへ行く。そこで、ヒトラーになつかない犬がやた らヒトラーに噛みつくので、ヒトラーはポケットからピストルを取り出すやその犬を撃ち殺してしまう。

 この様子が密かに録画されていて、ヒトラーがテレビで大人気になっていたのに、その映像が流出して一気に大衆の支持を失うというシーンが出てくる。ヒト ラーは全てのテレビの仕事を失い、テレビ局側も責任を取らなくてはならない立場に追い込まれ、プロデューサーは失脚する。

 このシークエンスは極めて重要だ。

 ドイツでは動物の命について過剰なほど敏感だからだ。
 例えば野良犬や不用犬が発生しても日本のように殺処分はあり得ない。公的機関で保護され里親探しが行われる。里親にも厳重な事前調査があって、その上で引き取られる。引き取り手のない犬は保護施設で寿命を全うできるようになっている。
 クリスマス時期などはペットの販売は禁止される州もある。
 生き物を贈り物にしないようにするためだ。

 これはナチ時代の「生きるに値しない命」を前提に大量虐殺が行われた歴史の反動でもあるわけだ。
映画『帰ってきたヒトラー』で大衆はヒトラーを本物とは知らずに面白がっているけれども、潜在的にナチの犯罪行為を忘れてはいないのだ。
 つまり、ヒトラーが犬を撃ち殺すという一つの行為にT4作戦(安楽死計画)やホロコーストを集約させているわけである。
 
 犬を一匹撃ち殺すという行為の映像によってドイツ人たちが持っていた「モノマネ芸人」=ヒトラーへの支持は一気に失い、ヒトラーを担いだテレビ局にも責任の追及の手を緩めない。
これは戦後ドイツ人の態度として明確に描かれているわけである。
 
 観たところヒトラーがこの映画で反ユダヤ主義的な行動や言動は殆ど出てこない。だからヒトラーでありながらヒトラー性が感じられない部分があるようにも感じられる。

 しかし、そうではない。

 犬の射殺シーンとそれに対する大衆の反応にヒトラーの人種主義の罪悪が大きく展開されているところを見逃してはならない。


執筆:永田喜嗣


 映画『ブリッジ・オブ・スパイ』を神戸のパルシネマで観た。

 スピルバーグの映画『ブリッジ・オブ・スパイ』は米ソ対立の冷戦期に実際にあったスパイ交換事件を元にして作られた作品だったが、今や古典テーマともなった冷戦スパイアクション映画を期待した人にとっては失望させられる作品であったかもしれない。
 一言でいうと地味な印象が拭えない作品だ。

 アフルレッド・ヒッチコックの失敗作に数えられる『トパーズ』もまた、冷戦時代のキューバ危機を背景にしたサスペンスだったが、地味であるがゆえに批判にさらされた作品だった。
スピルバーグの『ブリッジ・オブ・スパイ』の地味さは実のところは『トパーズ』的な地味さを狙った恣意的なものであった様に思えてならない。

 この映画は明らかにヒッチコックの『トパーズ』を意識している。
『ブリッジ・オブ・スパイ』最初のショットは鏡に映るソ連のスパイ、アベルの顔から始まるのだが、『トパーズ』もまた最初のショットはソ連のスパイの鏡に映った顔である。
 両作共にその後は緊迫感を持った追跡劇になる。『ブリッジ・オブ・スパイ』ではスパイを追うFBI捜査官たち、『トパーズ』ではアメリカへ亡命しようとコ ペンハーゲンの街へ出るKGB副長官を追うKGB捜査官という状況は違う。だが、鏡に映ったスパイの顔~備考追跡という展開は奇妙に酷似している。そし て、この二作は同じ冷戦時代のスパイ事件映画という点で共通している。

 恐らくスピルバーグはこの『ブリッジ・オブ・スパイ』のオープニングはヒッチコックの『トパーズ』のオマージュとしたのではあるまいか。

 『ブリッジ・オブ・スパイ』の地味さは『トパーズ』の地味さと符合している。
そして、鏡に映ったソ連スパイの顔で始まったこの二つの映画は最後の場面で小道具としての新聞が登場するところで終わっている。

 『ブリッジ・オブ・スパイ』は駄作として埋もれたミステリ映画の神様の野心作『トパーズ』の面白さを図らずとも証明したのではないかと思う。
 『トパーズ』の面白さは『ブリッジ・オブ・スパイ』のそれであるという証を我々はそこに発見することが出来るのだ。


執筆:永田喜嗣



2016年03月29日

sorge



























★篠田正浩と国際共産主義・・・そしてゾルゲ★

篠田正浩監督の映画『スパイ・ゾルゲ』のシナリオを読むとゾルゲとロシア人の妻カーチャとのこんな会話が出てくる。

ゾルゲ「カーチャ、結婚登録しよう。僕が留守になっても妻ならば毎月の収入が保証されるし、手紙を書くことだって許される。」
カーチャ「私は結婚なんか信じない。ブルジョアのやることよ。」
ゾルゲ「妻ならば手紙も書けるし、今度の仕事が成功したら、必ずこんな穴蔵からも脱出できる・・・・」

ゾルゲとカーチャのこの何げない会話の中に篠田正浩が思い描いたリヒャルト・ゾルゲと国際共産主義の理解が伺い知れると言えば極論と思われるだろうか。
篠田正浩は山本薩夫や今井正の様な政治的映像作家ではなかったことは既に述べた通りだ。
しかし、篠田は思想家についての書を一冊記している。
岩波書店から出版された『20世紀思想家文庫3・エイゼンシュティン』だ。
篠田はこの書の中でエイゼンシュテインを取材したイギリスの演劇雑誌の記者マリー・シートンの記事を引いて次の様に記している。

「一夫一婦制は生物学的法則ではないし、性を神秘化したり純潔を重んずるのはブルジョア世界の原罪意識から抜けられないインゲンとして嘲笑された。シートンは、セルゲイの中にある精神の純潔がこの風潮にひどく傷つけられて、ますます知的情熱に没頭することに向かっていったと考える。」

 篠田が映画『スパイ・ゾルゲ』でカーチャに結婚をブルジョアの行為と言わせたのはこうした過去の記述の記憶から呼び起こされたものであったのかもしれない。
 セルゲイ(エイゼンシュテイン)はその後、形式主義を守らんがためにソビエトの社会主義リアリズムに背を向ける格好となってしまい批判の対象となる。
 エイゼンシュテインがその苦境から脱して映画を作り続ける執念を貫徹させるためにとった方法は形式主義を捨て去って社会主義リアリズムに自ら身を投ずることであったと篠田は記している。

 ここに来て、私は篠田がゾルゲに何を見ていたかをはっきり認識することができたのだ。
 篠田は映画『スパイ・ゾルゲ』に登場するリヒャルト・ゾルゲの中にエイゼンシュテインを見出していたのではあるまいか。
 通常、リヒャルト・ゾルゲというソ連のスパイの認識は狂信的な共産主義者でソビエトに絶対的な忠誠心を持った明晰で冷徹な間諜者である。

 しかし、映画『スパイ・ゾルゲ』をよく観察すればゾルゲは国際共産主義者であってもソビエトのために忠誠心によって働いていないことが明らかになってくる。
逮捕後に吉河検事にゾルゲは語る。

「(略)戦争も止められなかった。この失敗が私の病気だ。もう死ぬしかない。」

 ゾルゲは日本人の愛人、華子に第一次大戦の経験を通じて、戦争を無くすために自分は喜んで死ぬのだと語るセリフがある。(シナリオのみ)ゾルゲはソビエト赤軍に有利に働く情報を送ることだけを目的としていたのではない。彼は国際的な不戦の思想を信じ、それを国際共産主義に託していたのである。

 それはエイゼンシュテインが自らの執念と信念を全うするために社会主義リアリズムの中に埋没したのと同じ構図を取っている。
 ゾルゲはカーチャへのプロポーズでソビエトの社会主義リアリズムの中に自ら埋没しているカーチャに埋没する振りをすることによって得られる目的を達成しようと持ちかけているのである。

 ゾルゲにとっての問題とはソビエトという国家命運の問題ではなく世界が殺し合う世界を消滅させるための活動としてスパイとなって働いたのである。彼が信じたものはソビエトの社会主義リアイズムではなく彼が信じた国際共産主義だったのである。
 それは同時に篠田が信じた国際共産主義だったのだ。

 ゾルゲが絞首刑になる場面でゾルゲは日本語で「国際共産主義万歳!」と唱えて吊るされてゆく。そのバックに流れるBGMは「インターナショナル」だ。しかも、ソビエト崩壊時のレーニン像が撤去される実写フィルムがフラッシュバックで挿入される。

 ラストシーンでベルリンの壁の崩壊のニュース映像を見ながらゾルゲの日本人妻、老いたる華子がつぶやく謎めいた言葉。

「ゾルゲは私の恋人なんかじゃない、もっと大きな存在だったのね。」

 このセリフは社会主義リアリズムに埋没していたカーチャが言った「私は結婚なんか信じない。ブルジョアのやることよ。」という言葉から発したカーチャの口からは発せられなかったゾルゲの謎の答えとなる。カーチャの代わりにゾルゲが愛したもう一人の女性、 華子が答えを最後に出したのだ。

 続くエンドロールにはジョン・レノンの「イマジン」。

 歌詞の和訳がテロップとして流れる。
 ゾルゲが信じた国際共産主義・・・インターナショナルの歌声はイマジンの歌声として戦後も生き残っている。それはソビエトが革命で得た社会主義リアリズムを超えた大きな理想「もっと大きな存在だったのね。」であることが示される。
 篠田が抱いたゾルゲと国際共産主義の理想はイマジンの理想へと結び付けられて映画は幕を閉じる。

 何と完璧な映画であろうか。

 今日まで映画『スパイ・ゾルゲ』がろくに評価されてこなかったのは、全く映画を観る者たちの怠慢であると私は思えてならない。その言葉は私自身へも向けられるべきものでもある。

 篠田正浩監督がこの作品を最後の作品にしたことは、この映画の中に篠田正浩の理想と思想の全てを叩きつけるという決意に基づいたものだったのではあるまいか。



執筆:永田喜嗣




2016年03月28日

sorgejp



























★壮大ななる傑作か?壮大なる失敗作か?★

 篠田 正浩監督の2003年の映画『スパイ・ゾルゲ』。
 この作品は公開当時も観たのだが、筆者としては殆ど評価しなった。ただ冗長で退屈な映画だと感じたからだ。

 世間でもそんな評価が拭えず、興行的にも芳しくなかった作品だ。
 
 篠田 正浩はこの作品を最後の作品にすると発表し、その後。監督業を廃業することを宣言した。それほどの入魂の作品だったわけである。

 しかし、当時はそれそど評価されなかった。
 
 確かに二二六事件など挿入して、一見、ゾルゲ事件とは関係のないエピソードが多く挿入されて「冗長」に思われがちだ。

 リヒャルト・ゾルゲ(イアン・グレン)と尾崎秀実(本木雅弘)が主人公なのだが人物描写は希薄な印象で伝記映画という印象も薄い。

 よく観察するとゾルゲも尾崎もこの映画では単なる狂言回しでしかないことが観る者には分かってくる。
 上海の抗日運動から始まって終戦まで、この映画は十五年戦争をゾルゲと尾崎を狂言回しにして観客に見せようというものであることに気づく。

 なるほど、そう考えればストーリーと殆ど関係がない二二六事件の挿入など「無駄」だと思われる部分が延々と描かれることにも納得ができる。

 篠田正浩監督はゾルゲ事件を描きたかった以上に、昭和期における天皇制ファシズムの成長と戦争への発展を俯瞰する作品を目指したに違いない。

 しかし、よく観察すると、この映画には大きな仕掛けがあることに気づく。

 その鍵となるのは篠田正浩監督が二二六事件を共産主義革命とパラレルにはっきりと捉えていることだ。
 
 この鍵で映画『スパイ・ゾルゲ』のドアを開けると思いもよらない面白い映画作品であることが理解できるのである。

★何故、映画『スパイ・ゾルゲ』だったのか★

 篠田正浩の作品に一貫した政治j思想性を見つけるのは難しい。一連の作品の中で初期の作品『乾いた湖』位しか政治思想性が見られない。共に松竹ヌーベルバーグの三羽烏と呼ばれた大島渚や吉田喜重などの作品とは全く違っている。その篠田が、最後の監督作品に戦争と思想を取り扱った『スパイ・ゾルゲ』を撮り、監督業を終わらせる決意をしたことは私にとっては解せない部分だった。

 元より政治には興味がない映画監督だと思っていたが、後期の作品、『瀬戸内少年野球団』や『少年時代』には戦時と8.15を境とした戦後の激変に対する自らの驚き憤おりをフィルムに繋いでいたことは確かだ。

 恐らく篠田の興味はこの激変の驚きにあったに違いない。
 
 天皇制ファシズムが8.15を境に突然、自由主義へと変貌したことに対する驚き。終戦を15歳という多感な年齢で迎えた篠田はこの日本の変貌に複雑な思いを抱いたに違いない。

 それは『少年時代』の最後のシーンによく表れている。
 学童疎開を終えて東京へ帰ってゆく主人公を見送る駅のホームで学友たちが予科練の歌(「荒鷲の歌」)を合唱する。それを見た駅長(大滝秀治)がカンカンになって怒る。占領軍に聞かれたらどうするのかと・・・それを見ていた主人公の少年の叔父(河原崎長一郎)が駅長に喰ってかかる。子供たちは軍歌しか知らんのだと。そして子供たちに予科練の歌を構わずに唄えという。8.15を迎えるまでは駅のホームではみんなが軍歌を歌って兵士を送り出していたのだ。駅長もその光景を毎日にように見ていたのだ。
にもかかわらず8.15以降は軍歌を歌うなという駅長に少年の叔父は怒りを爆発させたのだ。

 この叔父の怒りは篠田正浩自身の怒りであったのではないか。

 藤子不二雄Aの原作『少年時代』にはこの様なシークエンスはない。これは映画のために用意されたものだ。

 篠田にとって戦時と戦後の分断はその時点で未だに解決出来ないことであったに違いない。

 『瀬戸内少年野球団』や『少年時代』でその疑問をフィルムに焼き付けた篠田の関心がその様な事態を引き起こした8.15以前へと向かってゆくのはむしろ自然な成り行きであったに違いない。

 それが映画『スパイ・ゾルゲ』であり、ソビエトとドイツの対立という問題の中から歪曲的に日本というものを追求していったのが映画『スパイ・ゾルゲ』だったのである。

 篠田は思想家ではない。ましてや政治思想家的映像作家ではない。
 しかし、彼は最後の作品『スパイ・ゾルゲ』で国際共産主義という主題に恐ろしく無批判のまま順応していったかのように見えるのである。

 反左翼の人たちがこの映画を「反日映画」に位置づけている事実は面白い現象である。
 全く政治的でない、むしろそこから距離を置いて来た篠田が作った映画『スパイ・ゾルゲ』が反日映画と呼ばれるのは興味深い。
 篠田が何の政治的思想を持たずに制作した映画で或るがゆえに、篠田が疑問に感じた8.15以前の日本が正に今日から見れば反日的であったということにほかならなかったからだ。

(その2へ続く)



執筆:永田喜嗣





読者の皆さまへ

この場で、このようなことを書かなくてはならないことは誠に残念に思います。
しかし、看過することはできない問題であると判断し、経緯を一応記しておきます。

当ブログ『青空帝国』の読者、及び私の友人や仲間から以前より、AmazonにおいてDVD『さようならミス・ワイコフ』の商品ページに掲載されているカスタマーレビューの記事の一つ「アン・ヘイウッドの熱演が素晴らしい特異な作品。」が、私が2015年2月1日に公開した評論『映画『さようならミス・ワイコフ』を読み解く』の「盗用」ではないかというご指摘をいただいておりました。

私はこの件に関して、大した関心を持たなかったこともあって、該当のamazon.co.jpのカスタマーレビューを確認しておりませんでした。

しかしながら、少々、気を揉む事態にも遭遇いたしましたので、今回、重い腰を上げて確認してみることに致しました。

先日、該当カスタマーレビューを拝見しましたところ、文章は違っていますが使用する主要な単語や論旨、起承転結に至るまで全く同じで非常に酷似していることを確認致しました。
心理学者グレゴリー・ベイトソンのダブルバインド理論を持ち出しての解説、言い回しの一致など、拙筆と比べて余りにも酷似しているため、これは看過出来ないと判断し、3月26日にAmazonのカスタマーセンターに詳細を伝え、削除の要請を行いました。

Amazon側からガイドラインに抵触しないので掲載は継続するとの内容の回答が寄せられました。
該当カスタマーレビューでは参照や出典は明記されておらず、著者自身の感想として掲載されております。

直ちにAmazon側に対して、その見解を認めた上でさらに意見を具申させていただきました。

Amazonからは本件に関して再調査を行い結果を報告するとの回答を得ました。
今度は時間がかかるとのことでしたので、詳細な検証が行われるものと期待いたしております。

皆様からご指摘いただいた「盗用」の疑惑も、或いは奇跡のように拙筆とレビュー氏が全く同じ論を展開した不幸な偶然の悪戯であったという可能性もまた否定できません。
人間が思考する範囲のものだけに、その様な偶然も発生することも有りうることだと私も承知しております。

しかしながら、今回の二つの記事の酷似性には個人的には疑念が晴れない部分も多々あります。
最初に該当レビューを読んだときに、私自身がそのレビューを書いて失念していたのではないかという一瞬の錯覚に陥った感覚に基づけば、レビュアー氏が拙筆を読んで無意識下に記憶していて書いたのではないかとも想像いたしました。

拙筆の記事は2015年2月1日にFacebookのノートにて友人間で限定公開し、その同日、この青空帝国に同じ記事を公開掲載した次第です。

以下が拙筆の該当記事です。

映画『さようならミス・ワイコフ』を読み解く

該当のカスタマーレビューは2015年5月23日に公開されています。

昨今、インターネット上では著作物などの「盗用」や「詐称」が社会問題化しております。
執筆に関わる者はどこであろうとも「参照」、「出典」、「引用」などは明記されるべきであるものだと考えております。私自身もブログの執筆やまた、書籍の執筆でもこの点は特に注意を払っており努力しております。

今後は著作物を管理し販売し、その権利を尊重することを常とされているであろうAmazonの調査とその結果による対応を待つのみとなりました。

いずれにいたしましても、私といたしましてはその再調査の決定に従う所存です。

今回の問題に関しまして、ご指摘や情報をお寄せいただきました皆様に心より感謝申し上げます。

結果はまた、後日、本ページにおいてご報告申し上げますので、ご理解の程、よろしくお願い申し上げます。


今後とも、駄文ではございますが拙筆の御愛顧いただけますよう、よろしくお願いいたします。


青空帝国 管理者および著作者: 永田喜嗣










2016年03月17日

【最終回:伊勢原市のエアーガン講習は正当だったか】

伊勢原市は2016年3月1日に「女性による女性のための鳥獣対策勉強会」を開催し、その中で遊戯銃であるエアーガンを使った野生サルへの射撃を推奨し、指導する講習を行った。本来、「エアーガンを人や動物に向けて撃たない」という文言がエアーガンの取り扱い説明書などに明示してあるにもかかわらず、エアーガンを市民に対して「動物を撃つ」講習を公の行政機関、伊勢原市が行ったことは問題ではなかったかということを筆者は関係各団体や個人にインタビューを行って検証してきた。

伊勢原市の農業振興課の担当課長はエアーガンを鳥獣駆除に使用することは農林水産省でも奨励しているとし、警察とも連携しているので講習会は正当なもので問題がないと筆者に説明をしたが、農林水産省も警察(神奈川県警本部と伊勢原市警察)は同課長の筆者への説明内容を誤りであることを述べている。
また、エアーガンの製造メーカーや日本遊戯銃協同組合へのインタビューでも
「エアーガンを人や動物に向けて撃たない」ことは原則であり、動物を撃つことは非とはっきりと筆者に述べた。

伊勢原市という公の行政組織が市民に対してエアーガンで動物を撃っても良いと指導したことははやり問題であったのである。

★消されたニュース報道★

伊勢原市の
農業振興課の担当課長は筆者の問い合わせにエアーガン講習を強調して報道したメディアに問題があると述べた。果たしてメディアの問題だけであろうか。

この講習を繰り返しTVやネットで映像ニュースとして配信した日本テレビ側は、このニュース映像を既に全て削除している。他の伊勢原市に関する映像ニュースは今もなお公開されて残されているにもかかわらず、どうしてこのニュースのみが完全に削除されたのであろうか。
憶測になるが、日本テレビもこの講習会の在り方に問題点を事後に認識したからではないだろうか。
もしそうだとすれば、農林水産省、エアーガン製造メーカー、日本遊戯中共同組合と同様に講習会を報した日本レビというメディアもエアーガンによるサルを射撃するという講習会の不当性を認めたことになる。

映像ニュースが消えたからといって講習会が行われたという事実は「なかった」ことにはならない。
エアーガン講習はエアーガンを不正に使用することを市民に奨励し指導した事実は消えることはない。

現在では日本テレビのニュース映像は全く見ることができなくなってしまったが、ニュースを観た人びとがその記録を文章や画像にして残している。
主婦がエアーガンを構えて射撃しているという非日常的な光景をやや滑稽に伝えているものが目に付く。
筆者の個人的な感想では日本テレビのニュース映像はこうした興味本位的な印象が拭えないものだと感じた。
しかし、報道が興味本位的であったからといってエアーガン講習会が正当なものかどうかという判断とは全く関係のないことなのだ。

★野生サルは犯罪者か★

本レポートの第3回で紹介した2003年の秋田県八森町で行われた「サル追い上げボランティア」の中で結成されたサバイバルゲーム(エアーガンと軍装を使った模擬戦争ゲーム)のゲーマーたちによる「猿ジャー隊」に参加した人物がネット上にサルの行動に関して次の様な文章を残している。

「その形態は、情景を人にたとえるならば,畑泥棒であり,人家に押し入り,台所や冷蔵庫を食い散らかし,相手が弱い年寄りや、子供と見るや威嚇し、攻撃を加えるなど,強盗や略奪行為などの犯罪を起こしている。」

猿害ボランティア視察記より

この文章を書いた人物はサルの行為を犯罪だと書いている。

確かに人間の居住区に住み着いた野生サルによる農作物荒らしや民家への侵入、場合によっては住民を傷つける可能性もあり、現地の当事者にとっては耐え難いものであろうことは様々なレポートに目を通すことによってある程度想像することができる。

サルによる被害を受けている人びとの中には激しい憎悪さえ抱いてネットで叫んでいる人も多くいる。
丹精込めて作った農作物が出荷できなくなる。農家で作られる製品が我々末端まで届かなくなるのも事実だ。
だからこそ、サルを駆除しなくてはならない。

シリース第三回でご紹介した秋田県の八峰町でもサル対策のために猟友会と連携し、場合によっては射殺することもあるという。捕獲したサルは安楽死措置にすることもあるという。
里に住み着いたサルは農家にとっては憎むべき存在である。

ここで少しサル側に視点を移してみよう。
上記の猿ジャー隊の参加者が記しているようにサルの行為は犯罪だろうか。
サルは社会秩序を乱す犯罪だと自らの行為を認識しているだろうか。

ここに解決のし得ない重要な問題があるように筆者は感じる。

★現場の苦闘と自然との共生の難しさ★

サルは自分たちの生命を維持するために食料を求めてやってくる。そこに食物があればサルはそれを食べるだろう。
人間は農作物を自分たちが作ったものであるから自分たちに所有権があることを認識している。それを奪うことは犯罪である。略奪者が人間であれば。
しかし、サルは犯罪を意識していないし、悪意を持って食料を取りに来るのではない。
そもそも、その土地が自分たちのものであると決めたのは人間であり人間以外の自然はそんな事情を全く認識していないのである。

それでも我々は人間が決めた人間の規範の中で自分たちの世界、それは自然が認めない世界を守ろうとする。
人類が生きてゆく以上、これは致し方がない問題であるだろう。

しかし、山には山の都合があり、川には川の都合がある。

我々は自然に対して本当に共生しようとして向き合っているのか?そこには大きな疑問が残る。
犯罪者としてのサルを何としても排除しなければならない。
そこに歪が生じてくる。

筆者は考えるのである。
どうしても人間が人間の都合を自然に対して貫かなければ生存が全うできないとするならば、人間の都合を支えている社会の規範(それは人間同士が共生していくための規範でもある)を守りながら行わなければならないということが最低限、我々に許されたことなのではないかということだ。

サルが邪魔だとしても八峰町のように最低限の規範を守って駆除を行っている自治体も存在している。

その中でサルが邪魔だからといって人間の世界の社会規範(エアーガンを人や動物に向かって撃ってはならない)というルールを安易に取り崩しても良いのだろうか。
しかも、その社会規範を守るべき行政機関が自ら掟を破ることを推奨して良いものだろうか。

人間は弱者に対して常に力で抑圧するという歴史を繰り返してきた。
現在もなお人類が扱いかねている侵略戦争や領土問題。それを解決する手段として人間は武器を手にする。

主婦にエアーガンを持たせて「サルを射撃してください」と指導する伊勢原市の方針は明らかに弱者への武器による抑圧を推奨するにも等しい行為であると筆者には思えてならない。

そして、この講習会の様子が映像として流れて社会に及ぼした影響は小さなものだとは到底考えられない。

そしてなによりもサルによって被害に苦しむ主婦たちがエアーガンを構えて立っている姿の写真やそのイラストに我々は快いものを感じるであろうか。

筆者はエアーガン射撃の的になるサルもエアーガンを持たされて写真に撮られ、ネットで晒されているおばあさんたちも、共に弱者であり被害者であると思えてならない。

筆者は今回のレポートで伊勢原市が行ったエアーガン講習が正当なものであったとは到底考えられないという結論に至っている。

我々はこの伊勢原市の市民への野生サル・エアガン射撃講習問題を忘却することなく、再度、あらゆる視点から考えてゆかねばならないのではないだろうか。


筆者:永田喜嗣