2016年06月27日

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 映画『帰ってきたヒトラー』で終戦間際のベルリンから2014年にタイムスリップしてきたヒトラーが「モノマネ芸人」と勘違いされてマスコミの寵児になる んだけど、その前に犬が欲しいということで(ヒトラーは犬が好きだった)テレビ局の人とブリーダーのところへ行く。そこで、ヒトラーになつかない犬がやた らヒトラーに噛みつくので、ヒトラーはポケットからピストルを取り出すやその犬を撃ち殺してしまう。

 この様子が密かに録画されていて、ヒトラーがテレビで大人気になっていたのに、その映像が流出して一気に大衆の支持を失うというシーンが出てくる。ヒト ラーは全てのテレビの仕事を失い、テレビ局側も責任を取らなくてはならない立場に追い込まれ、プロデューサーは失脚する。

 このシークエンスは極めて重要だ。

 ドイツでは動物の命について過剰なほど敏感だからだ。
 例えば野良犬や不用犬が発生しても日本のように殺処分はあり得ない。公的機関で保護され里親探しが行われる。里親にも厳重な事前調査があって、その上で引き取られる。引き取り手のない犬は保護施設で寿命を全うできるようになっている。
 クリスマス時期などはペットの販売は禁止される州もある。
 生き物を贈り物にしないようにするためだ。

 これはナチ時代の「生きるに値しない命」を前提に大量虐殺が行われた歴史の反動でもあるわけだ。
映画『帰ってきたヒトラー』で大衆はヒトラーを本物とは知らずに面白がっているけれども、潜在的にナチの犯罪行為を忘れてはいないのだ。
 つまり、ヒトラーが犬を撃ち殺すという一つの行為にT4作戦(安楽死計画)やホロコーストを集約させているわけである。
 
 犬を一匹撃ち殺すという行為の映像によってドイツ人たちが持っていた「モノマネ芸人」=ヒトラーへの支持は一気に失い、ヒトラーを担いだテレビ局にも責任の追及の手を緩めない。
これは戦後ドイツ人の態度として明確に描かれているわけである。
 
 観たところヒトラーがこの映画で反ユダヤ主義的な行動や言動は殆ど出てこない。だからヒトラーでありながらヒトラー性が感じられない部分があるようにも感じられる。

 しかし、そうではない。

 犬の射殺シーンとそれに対する大衆の反応にヒトラーの人種主義の罪悪が大きく展開されているところを見逃してはならない。


執筆:永田喜嗣


 映画『ブリッジ・オブ・スパイ』を神戸のパルシネマで観た。

 スピルバーグの映画『ブリッジ・オブ・スパイ』は米ソ対立の冷戦期に実際にあったスパイ交換事件を元にして作られた作品だったが、今や古典テーマともなった冷戦スパイアクション映画を期待した人にとっては失望させられる作品であったかもしれない。
 一言でいうと地味な印象が拭えない作品だ。

 アフルレッド・ヒッチコックの失敗作に数えられる『トパーズ』もまた、冷戦時代のキューバ危機を背景にしたサスペンスだったが、地味であるがゆえに批判にさらされた作品だった。
スピルバーグの『ブリッジ・オブ・スパイ』の地味さは実のところは『トパーズ』的な地味さを狙った恣意的なものであった様に思えてならない。

 この映画は明らかにヒッチコックの『トパーズ』を意識している。
『ブリッジ・オブ・スパイ』最初のショットは鏡に映るソ連のスパイ、アベルの顔から始まるのだが、『トパーズ』もまた最初のショットはソ連のスパイの鏡に映った顔である。
 両作共にその後は緊迫感を持った追跡劇になる。『ブリッジ・オブ・スパイ』ではスパイを追うFBI捜査官たち、『トパーズ』ではアメリカへ亡命しようとコ ペンハーゲンの街へ出るKGB副長官を追うKGB捜査官という状況は違う。だが、鏡に映ったスパイの顔~備考追跡という展開は奇妙に酷似している。そし て、この二作は同じ冷戦時代のスパイ事件映画という点で共通している。

 恐らくスピルバーグはこの『ブリッジ・オブ・スパイ』のオープニングはヒッチコックの『トパーズ』のオマージュとしたのではあるまいか。

 『ブリッジ・オブ・スパイ』の地味さは『トパーズ』の地味さと符合している。
そして、鏡に映ったソ連スパイの顔で始まったこの二つの映画は最後の場面で小道具としての新聞が登場するところで終わっている。

 『ブリッジ・オブ・スパイ』は駄作として埋もれたミステリ映画の神様の野心作『トパーズ』の面白さを図らずとも証明したのではないかと思う。
 『トパーズ』の面白さは『ブリッジ・オブ・スパイ』のそれであるという証を我々はそこに発見することが出来るのだ。


執筆:永田喜嗣



2016年03月29日

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★篠田正浩と国際共産主義・・・そしてゾルゲ★

篠田正浩監督の映画『スパイ・ゾルゲ』のシナリオを読むとゾルゲとロシア人の妻カーチャとのこんな会話が出てくる。

ゾルゲ「カーチャ、結婚登録しよう。僕が留守になっても妻ならば毎月の収入が保証されるし、手紙を書くことだって許される。」
カーチャ「私は結婚なんか信じない。ブルジョアのやることよ。」
ゾルゲ「妻ならば手紙も書けるし、今度の仕事が成功したら、必ずこんな穴蔵からも脱出できる・・・・」

ゾルゲとカーチャのこの何げない会話の中に篠田正浩が思い描いたリヒャルト・ゾルゲと国際共産主義の理解が伺い知れると言えば極論と思われるだろうか。
篠田正浩は山本薩夫や今井正の様な政治的映像作家ではなかったことは既に述べた通りだ。
しかし、篠田は思想家についての書を一冊記している。
岩波書店から出版された『20世紀思想家文庫3・エイゼンシュティン』だ。
篠田はこの書の中でエイゼンシュテインを取材したイギリスの演劇雑誌の記者マリー・シートンの記事を引いて次の様に記している。

「一夫一婦制は生物学的法則ではないし、性を神秘化したり純潔を重んずるのはブルジョア世界の原罪意識から抜けられないインゲンとして嘲笑された。シートンは、セルゲイの中にある精神の純潔がこの風潮にひどく傷つけられて、ますます知的情熱に没頭することに向かっていったと考える。」

 篠田が映画『スパイ・ゾルゲ』でカーチャに結婚をブルジョアの行為と言わせたのはこうした過去の記述の記憶から呼び起こされたものであったのかもしれない。
 セルゲイ(エイゼンシュテイン)はその後、形式主義を守らんがためにソビエトの社会主義リアリズムに背を向ける格好となってしまい批判の対象となる。
 エイゼンシュテインがその苦境から脱して映画を作り続ける執念を貫徹させるためにとった方法は形式主義を捨て去って社会主義リアリズムに自ら身を投ずることであったと篠田は記している。

 ここに来て、私は篠田がゾルゲに何を見ていたかをはっきり認識することができたのだ。
 篠田は映画『スパイ・ゾルゲ』に登場するリヒャルト・ゾルゲの中にエイゼンシュテインを見出していたのではあるまいか。
 通常、リヒャルト・ゾルゲというソ連のスパイの認識は狂信的な共産主義者でソビエトに絶対的な忠誠心を持った明晰で冷徹な間諜者である。

 しかし、映画『スパイ・ゾルゲ』をよく観察すればゾルゲは国際共産主義者であってもソビエトのために忠誠心によって働いていないことが明らかになってくる。
逮捕後に吉河検事にゾルゲは語る。

「(略)戦争も止められなかった。この失敗が私の病気だ。もう死ぬしかない。」

 ゾルゲは日本人の愛人、華子に第一次大戦の経験を通じて、戦争を無くすために自分は喜んで死ぬのだと語るセリフがある。(シナリオのみ)ゾルゲはソビエト赤軍に有利に働く情報を送ることだけを目的としていたのではない。彼は国際的な不戦の思想を信じ、それを国際共産主義に託していたのである。

 それはエイゼンシュテインが自らの執念と信念を全うするために社会主義リアリズムの中に埋没したのと同じ構図を取っている。
 ゾルゲはカーチャへのプロポーズでソビエトの社会主義リアリズムの中に自ら埋没しているカーチャに埋没する振りをすることによって得られる目的を達成しようと持ちかけているのである。

 ゾルゲにとっての問題とはソビエトという国家命運の問題ではなく世界が殺し合う世界を消滅させるための活動としてスパイとなって働いたのである。彼が信じたものはソビエトの社会主義リアイズムではなく彼が信じた国際共産主義だったのである。
 それは同時に篠田が信じた国際共産主義だったのだ。

 ゾルゲが絞首刑になる場面でゾルゲは日本語で「国際共産主義万歳!」と唱えて吊るされてゆく。そのバックに流れるBGMは「インターナショナル」だ。しかも、ソビエト崩壊時のレーニン像が撤去される実写フィルムがフラッシュバックで挿入される。

 ラストシーンでベルリンの壁の崩壊のニュース映像を見ながらゾルゲの日本人妻、老いたる華子がつぶやく謎めいた言葉。

「ゾルゲは私の恋人なんかじゃない、もっと大きな存在だったのね。」

 このセリフは社会主義リアリズムに埋没していたカーチャが言った「私は結婚なんか信じない。ブルジョアのやることよ。」という言葉から発したカーチャの口からは発せられなかったゾルゲの謎の答えとなる。カーチャの代わりにゾルゲが愛したもう一人の女性、 華子が答えを最後に出したのだ。

 続くエンドロールにはジョン・レノンの「イマジン」。

 歌詞の和訳がテロップとして流れる。
 ゾルゲが信じた国際共産主義・・・インターナショナルの歌声はイマジンの歌声として戦後も生き残っている。それはソビエトが革命で得た社会主義リアリズムを超えた大きな理想「もっと大きな存在だったのね。」であることが示される。
 篠田が抱いたゾルゲと国際共産主義の理想はイマジンの理想へと結び付けられて映画は幕を閉じる。

 何と完璧な映画であろうか。

 今日まで映画『スパイ・ゾルゲ』がろくに評価されてこなかったのは、全く映画を観る者たちの怠慢であると私は思えてならない。その言葉は私自身へも向けられるべきものでもある。

 篠田正浩監督がこの作品を最後の作品にしたことは、この映画の中に篠田正浩の理想と思想の全てを叩きつけるという決意に基づいたものだったのではあるまいか。



執筆:永田喜嗣




2016年03月28日

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★壮大ななる傑作か?壮大なる失敗作か?★

 篠田 正浩監督の2003年の映画『スパイ・ゾルゲ』。
 この作品は公開当時も観たのだが、筆者としては殆ど評価しなった。ただ冗長で退屈な映画だと感じたからだ。

 世間でもそんな評価が拭えず、興行的にも芳しくなかった作品だ。
 
 篠田 正浩はこの作品を最後の作品にすると発表し、その後。監督業を廃業することを宣言した。それほどの入魂の作品だったわけである。

 しかし、当時はそれそど評価されなかった。
 
 確かに二二六事件など挿入して、一見、ゾルゲ事件とは関係のないエピソードが多く挿入されて「冗長」に思われがちだ。

 リヒャルト・ゾルゲ(イアン・グレン)と尾崎秀実(本木雅弘)が主人公なのだが人物描写は希薄な印象で伝記映画という印象も薄い。

 よく観察するとゾルゲも尾崎もこの映画では単なる狂言回しでしかないことが観る者には分かってくる。
 上海の抗日運動から始まって終戦まで、この映画は十五年戦争をゾルゲと尾崎を狂言回しにして観客に見せようというものであることに気づく。

 なるほど、そう考えればストーリーと殆ど関係がない二二六事件の挿入など「無駄」だと思われる部分が延々と描かれることにも納得ができる。

 篠田正浩監督はゾルゲ事件を描きたかった以上に、昭和期における天皇制ファシズムの成長と戦争への発展を俯瞰する作品を目指したに違いない。

 しかし、よく観察すると、この映画には大きな仕掛けがあることに気づく。

 その鍵となるのは篠田正浩監督が二二六事件を共産主義革命とパラレルにはっきりと捉えていることだ。
 
 この鍵で映画『スパイ・ゾルゲ』のドアを開けると思いもよらない面白い映画作品であることが理解できるのである。

★何故、映画『スパイ・ゾルゲ』だったのか★

 篠田正浩の作品に一貫した政治j思想性を見つけるのは難しい。一連の作品の中で初期の作品『乾いた湖』位しか政治思想性が見られない。共に松竹ヌーベルバーグの三羽烏と呼ばれた大島渚や吉田喜重などの作品とは全く違っている。その篠田が、最後の監督作品に戦争と思想を取り扱った『スパイ・ゾルゲ』を撮り、監督業を終わらせる決意をしたことは私にとっては解せない部分だった。

 元より政治には興味がない映画監督だと思っていたが、後期の作品、『瀬戸内少年野球団』や『少年時代』には戦時と8.15を境とした戦後の激変に対する自らの驚き憤おりをフィルムに繋いでいたことは確かだ。

 恐らく篠田の興味はこの激変の驚きにあったに違いない。
 
 天皇制ファシズムが8.15を境に突然、自由主義へと変貌したことに対する驚き。終戦を15歳という多感な年齢で迎えた篠田はこの日本の変貌に複雑な思いを抱いたに違いない。

 それは『少年時代』の最後のシーンによく表れている。
 学童疎開を終えて東京へ帰ってゆく主人公を見送る駅のホームで学友たちが予科練の歌(「荒鷲の歌」)を合唱する。それを見た駅長(大滝秀治)がカンカンになって怒る。占領軍に聞かれたらどうするのかと・・・それを見ていた主人公の少年の叔父(河原崎長一郎)が駅長に喰ってかかる。子供たちは軍歌しか知らんのだと。そして子供たちに予科練の歌を構わずに唄えという。8.15を迎えるまでは駅のホームではみんなが軍歌を歌って兵士を送り出していたのだ。駅長もその光景を毎日にように見ていたのだ。
にもかかわらず8.15以降は軍歌を歌うなという駅長に少年の叔父は怒りを爆発させたのだ。

 この叔父の怒りは篠田正浩自身の怒りであったのではないか。

 藤子不二雄Aの原作『少年時代』にはこの様なシークエンスはない。これは映画のために用意されたものだ。

 篠田にとって戦時と戦後の分断はその時点で未だに解決出来ないことであったに違いない。

 『瀬戸内少年野球団』や『少年時代』でその疑問をフィルムに焼き付けた篠田の関心がその様な事態を引き起こした8.15以前へと向かってゆくのはむしろ自然な成り行きであったに違いない。

 それが映画『スパイ・ゾルゲ』であり、ソビエトとドイツの対立という問題の中から歪曲的に日本というものを追求していったのが映画『スパイ・ゾルゲ』だったのである。

 篠田は思想家ではない。ましてや政治思想家的映像作家ではない。
 しかし、彼は最後の作品『スパイ・ゾルゲ』で国際共産主義という主題に恐ろしく無批判のまま順応していったかのように見えるのである。

 反左翼の人たちがこの映画を「反日映画」に位置づけている事実は面白い現象である。
 全く政治的でない、むしろそこから距離を置いて来た篠田が作った映画『スパイ・ゾルゲ』が反日映画と呼ばれるのは興味深い。
 篠田が何の政治的思想を持たずに制作した映画で或るがゆえに、篠田が疑問に感じた8.15以前の日本が正に今日から見れば反日的であったということにほかならなかったからだ。

(その2へ続く)



執筆:永田喜嗣





読者の皆さまへ

この場で、このようなことを書かなくてはならないことは誠に残念に思います。
しかし、看過することはできない問題であると判断し、経緯を一応記しておきます。

当ブログ『青空帝国』の読者、及び私の友人や仲間から以前より、AmazonにおいてDVD『さようならミス・ワイコフ』の商品ページに掲載されているカスタマーレビューの記事の一つ「アン・ヘイウッドの熱演が素晴らしい特異な作品。」が、私が2015年2月1日に公開した評論『映画『さようならミス・ワイコフ』を読み解く』の「盗用」ではないかというご指摘をいただいておりました。

私はこの件に関して、大した関心を持たなかったこともあって、該当のamazon.co.jpのカスタマーレビューを確認しておりませんでした。

しかしながら、少々、気を揉む事態にも遭遇いたしましたので、今回、重い腰を上げて確認してみることに致しました。

先日、該当カスタマーレビューを拝見しましたところ、文章は違っていますが使用する主要な単語や論旨、起承転結に至るまで全く同じで非常に酷似していることを確認致しました。
心理学者グレゴリー・ベイトソンのダブルバインド理論を持ち出しての解説、言い回しの一致など、拙筆と比べて余りにも酷似しているため、これは看過出来ないと判断し、3月26日にAmazonのカスタマーセンターに詳細を伝え、削除の要請を行いました。

Amazon側からガイドラインに抵触しないので掲載は継続するとの内容の回答が寄せられました。
該当カスタマーレビューでは参照や出典は明記されておらず、著者自身の感想として掲載されております。

直ちにAmazon側に対して、その見解を認めた上でさらに意見を具申させていただきました。

Amazonからは本件に関して再調査を行い結果を報告するとの回答を得ました。
今度は時間がかかるとのことでしたので、詳細な検証が行われるものと期待いたしております。

皆様からご指摘いただいた「盗用」の疑惑も、或いは奇跡のように拙筆とレビュー氏が全く同じ論を展開した不幸な偶然の悪戯であったという可能性もまた否定できません。
人間が思考する範囲のものだけに、その様な偶然も発生することも有りうることだと私も承知しております。

しかしながら、今回の二つの記事の酷似性には個人的には疑念が晴れない部分も多々あります。
最初に該当レビューを読んだときに、私自身がそのレビューを書いて失念していたのではないかという一瞬の錯覚に陥った感覚に基づけば、レビュアー氏が拙筆を読んで無意識下に記憶していて書いたのではないかとも想像いたしました。

拙筆の記事は2015年2月1日にFacebookのノートにて友人間で限定公開し、その同日、この青空帝国に同じ記事を公開掲載した次第です。

以下が拙筆の該当記事です。

映画『さようならミス・ワイコフ』を読み解く

該当のカスタマーレビューは2015年5月23日に公開されています。

昨今、インターネット上では著作物などの「盗用」や「詐称」が社会問題化しております。
執筆に関わる者はどこであろうとも「参照」、「出典」、「引用」などは明記されるべきであるものだと考えております。私自身もブログの執筆やまた、書籍の執筆でもこの点は特に注意を払っており努力しております。

今後は著作物を管理し販売し、その権利を尊重することを常とされているであろうAmazonの調査とその結果による対応を待つのみとなりました。

いずれにいたしましても、私といたしましてはその再調査の決定に従う所存です。

今回の問題に関しまして、ご指摘や情報をお寄せいただきました皆様に心より感謝申し上げます。

結果はまた、後日、本ページにおいてご報告申し上げますので、ご理解の程、よろしくお願い申し上げます。


今後とも、駄文ではございますが拙筆の御愛顧いただけますよう、よろしくお願いいたします。


青空帝国 管理者および著作者: 永田喜嗣










2016年03月17日

【最終回:伊勢原市のエアーガン講習は正当だったか】

伊勢原市は2016年3月1日に「女性による女性のための鳥獣対策勉強会」を開催し、その中で遊戯銃であるエアーガンを使った野生サルへの射撃を推奨し、指導する講習を行った。本来、「エアーガンを人や動物に向けて撃たない」という文言がエアーガンの取り扱い説明書などに明示してあるにもかかわらず、エアーガンを市民に対して「動物を撃つ」講習を公の行政機関、伊勢原市が行ったことは問題ではなかったかということを筆者は関係各団体や個人にインタビューを行って検証してきた。

伊勢原市の農業振興課の担当課長はエアーガンを鳥獣駆除に使用することは農林水産省でも奨励しているとし、警察とも連携しているので講習会は正当なもので問題がないと筆者に説明をしたが、農林水産省も警察(神奈川県警本部と伊勢原市警察)は同課長の筆者への説明内容を誤りであることを述べている。
また、エアーガンの製造メーカーや日本遊戯銃協同組合へのインタビューでも
「エアーガンを人や動物に向けて撃たない」ことは原則であり、動物を撃つことは非とはっきりと筆者に述べた。

伊勢原市という公の行政組織が市民に対してエアーガンで動物を撃っても良いと指導したことははやり問題であったのである。

★消されたニュース報道★

伊勢原市の
農業振興課の担当課長は筆者の問い合わせにエアーガン講習を強調して報道したメディアに問題があると述べた。果たしてメディアの問題だけであろうか。

この講習を繰り返しTVやネットで映像ニュースとして配信した日本テレビ側は、このニュース映像を既に全て削除している。他の伊勢原市に関する映像ニュースは今もなお公開されて残されているにもかかわらず、どうしてこのニュースのみが完全に削除されたのであろうか。
憶測になるが、日本テレビもこの講習会の在り方に問題点を事後に認識したからではないだろうか。
もしそうだとすれば、農林水産省、エアーガン製造メーカー、日本遊戯中共同組合と同様に講習会を報した日本レビというメディアもエアーガンによるサルを射撃するという講習会の不当性を認めたことになる。

映像ニュースが消えたからといって講習会が行われたという事実は「なかった」ことにはならない。
エアーガン講習はエアーガンを不正に使用することを市民に奨励し指導した事実は消えることはない。

現在では日本テレビのニュース映像は全く見ることができなくなってしまったが、ニュースを観た人びとがその記録を文章や画像にして残している。
主婦がエアーガンを構えて射撃しているという非日常的な光景をやや滑稽に伝えているものが目に付く。
筆者の個人的な感想では日本テレビのニュース映像はこうした興味本位的な印象が拭えないものだと感じた。
しかし、報道が興味本位的であったからといってエアーガン講習会が正当なものかどうかという判断とは全く関係のないことなのだ。

★野生サルは犯罪者か★

本レポートの第3回で紹介した2003年の秋田県八森町で行われた「サル追い上げボランティア」の中で結成されたサバイバルゲーム(エアーガンと軍装を使った模擬戦争ゲーム)のゲーマーたちによる「猿ジャー隊」に参加した人物がネット上にサルの行動に関して次の様な文章を残している。

「その形態は、情景を人にたとえるならば,畑泥棒であり,人家に押し入り,台所や冷蔵庫を食い散らかし,相手が弱い年寄りや、子供と見るや威嚇し、攻撃を加えるなど,強盗や略奪行為などの犯罪を起こしている。」

猿害ボランティア視察記より

この文章を書いた人物はサルの行為を犯罪だと書いている。

確かに人間の居住区に住み着いた野生サルによる農作物荒らしや民家への侵入、場合によっては住民を傷つける可能性もあり、現地の当事者にとっては耐え難いものであろうことは様々なレポートに目を通すことによってある程度想像することができる。

サルによる被害を受けている人びとの中には激しい憎悪さえ抱いてネットで叫んでいる人も多くいる。
丹精込めて作った農作物が出荷できなくなる。農家で作られる製品が我々末端まで届かなくなるのも事実だ。
だからこそ、サルを駆除しなくてはならない。

シリース第三回でご紹介した秋田県の八峰町でもサル対策のために猟友会と連携し、場合によっては射殺することもあるという。捕獲したサルは安楽死措置にすることもあるという。
里に住み着いたサルは農家にとっては憎むべき存在である。

ここで少しサル側に視点を移してみよう。
上記の猿ジャー隊の参加者が記しているようにサルの行為は犯罪だろうか。
サルは社会秩序を乱す犯罪だと自らの行為を認識しているだろうか。

ここに解決のし得ない重要な問題があるように筆者は感じる。

★現場の苦闘と自然との共生の難しさ★

サルは自分たちの生命を維持するために食料を求めてやってくる。そこに食物があればサルはそれを食べるだろう。
人間は農作物を自分たちが作ったものであるから自分たちに所有権があることを認識している。それを奪うことは犯罪である。略奪者が人間であれば。
しかし、サルは犯罪を意識していないし、悪意を持って食料を取りに来るのではない。
そもそも、その土地が自分たちのものであると決めたのは人間であり人間以外の自然はそんな事情を全く認識していないのである。

それでも我々は人間が決めた人間の規範の中で自分たちの世界、それは自然が認めない世界を守ろうとする。
人類が生きてゆく以上、これは致し方がない問題であるだろう。

しかし、山には山の都合があり、川には川の都合がある。

我々は自然に対して本当に共生しようとして向き合っているのか?そこには大きな疑問が残る。
犯罪者としてのサルを何としても排除しなければならない。
そこに歪が生じてくる。

筆者は考えるのである。
どうしても人間が人間の都合を自然に対して貫かなければ生存が全うできないとするならば、人間の都合を支えている社会の規範(それは人間同士が共生していくための規範でもある)を守りながら行わなければならないということが最低限、我々に許されたことなのではないかということだ。

サルが邪魔だとしても八峰町のように最低限の規範を守って駆除を行っている自治体も存在している。

その中でサルが邪魔だからといって人間の世界の社会規範(エアーガンを人や動物に向かって撃ってはならない)というルールを安易に取り崩しても良いのだろうか。
しかも、その社会規範を守るべき行政機関が自ら掟を破ることを推奨して良いものだろうか。

人間は弱者に対して常に力で抑圧するという歴史を繰り返してきた。
現在もなお人類が扱いかねている侵略戦争や領土問題。それを解決する手段として人間は武器を手にする。

主婦にエアーガンを持たせて「サルを射撃してください」と指導する伊勢原市の方針は明らかに弱者への武器による抑圧を推奨するにも等しい行為であると筆者には思えてならない。

そして、この講習会の様子が映像として流れて社会に及ぼした影響は小さなものだとは到底考えられない。

そしてなによりもサルによって被害に苦しむ主婦たちがエアーガンを構えて立っている姿の写真やそのイラストに我々は快いものを感じるであろうか。

筆者はエアーガン射撃の的になるサルもエアーガンを持たされて写真に撮られ、ネットで晒されているおばあさんたちも、共に弱者であり被害者であると思えてならない。

筆者は今回のレポートで伊勢原市が行ったエアーガン講習が正当なものであったとは到底考えられないという結論に至っている。

我々はこの伊勢原市の市民への野生サル・エアガン射撃講習問題を忘却することなく、再度、あらゆる視点から考えてゆかねばならないのではないだろうか。


筆者:永田喜嗣










ショーンKさんの学歴詐称問題が世間で大炎上している。

既に第二の佐村河内守とかクヒオ大佐の再来だなんて書いている人がいる。しかし、ショーンKさんを偽作曲家や結婚詐欺師とパラレルにおいていいものだろうかと僕は考える。

確かに彼が学歴や経歴を偽っていたことは社会に対する裏切り行為だ。「騙された!」と思って許されないというのが世間の認識だろう。

しかし、僕は「報道ステーション」で毎回、彼のコメントを聴いていて「なかなか、いいこと言うなあ」といつも感心してたものだ。

世間だって彼のコメントに納得してた部分はあるだろう。
すごいと思っていた人もいるだろう。

それは嘘でも騙しでもないんだ。

佐村河内守は自分で作曲もしていないのに作曲家だと作品を提示した。
クヒオ大佐は自分がアメリカ人でエリザベス女王の甥だといって女性を騙して大金を巻き上げた。

これらは全くの虚偽だ。

しかし、ショーンKさんのコメントは彼が学んで得た知識や経験、努力によってもたらされたものではなかったのか。
コメントは嘘じゃない。
誰も騙されていないのだ。

問題はもっと別のところにあると僕は考える。

そもそも公の場で言論を展開するためには学歴とか権威とか持っていない人はそういう場にも出してももらえないということだ。

ショーンKさんが「高卒の論客」として世に出てこられる可能性なんて奇跡に近いことだ。
坂田三吉の奇跡なんてそうあるものじゃない。

彼はモノを言うために、世間に出るために虚構を使ってしまった。それは虚構を使わなければならないほど、メディアも世間も権威というレッテルに弱いからだ。彼自身、そのシステムに呑まれて負けてしまったんだ。

例えば日本の出版界の良心とも言うべき岩波書店でさえ次のような例がある。

すごい論を展開できる研究者がいたのに彼が大学院生だったから書かせないという判断をしたという話を聞いたことがある。
岩波書店のこの権威主義はなんなんだろう。大学院生には権威も経験もないので書かせないということなのか。一方でAKBには岩波ジュニア新書を書かせているじゃないか。
へえ?AKBが修士号や博士号を持っているのか。僕は全く知らなかった。

全くいい加減なものだと思う。

高い学歴や学位を持っている人で、どうしようもない本を自分に貼られたその権威レッテルだけで売ってる人だってたくさんいる。
学歴と学位、また有名だったらそれで良いのだろうか。

僕は本当に疑問に思う。

そんな中で、ショーンKさんの事件は起きた。

世間は彼をとことんバッシングするするだろう。
「騙しやがって!嘘つき!」と・・・。
今日から酷いことになるだろう。

しかし、これは彼だけの責任なのか。

どこそこの学校を出て、どんな学位を持っていて、あるいはTVに出ていて有名で・・・そんなレッテルでしか物を言わせない、そんな僕たちの社会が今回のような歪んだ事件を生み出したんだと僕には思えてならない。

そんな学歴や権威を信じて、中身を見ようとしない。

木を見て森を見ない?

いや、何も見ていないのだ。



筆者:永田喜嗣






2016年03月15日

【第4回:エアーガンを巡る問題についての幾つか】

伊勢原市が市民に向けて行ったエアーガンによる野生サルへの射撃講習の是非についてここまで考察してきた。
繰り返し述べてきたとおりエアーガンという遊戯銃には「エアーガンを人や動物に向けて撃たない」という製造元や販売会社の協同組合が示している原則がある。それを動物に対して射撃するという講習を行政が市民に行うということが社会に影響を与えないのかどうかという問題である。

伊勢原市が安易に行ったこうした講習会は、公の行政機関がエアーガンで動物を撃つことを是としてしまったことにつながる。
射撃の標的が野生のサルだから良いという問題ではない。
原則を破ればすべてが破られる可能性が出てくる。
誰かが街で野良猫や野良犬をエアーガンで射撃するような事件が起きる可能性も出てくるかもしれない。あるいはこうした報道がきっかけで、エアーガンで動物を含めた弱者を撃つようなものが出てくるかもしれない。

しかい、既に伊勢原市がエアーガンで動物を撃ちましょうという講習を行って、それが日本テレビを通じて全国に王道されてしまった以上、原則はある程度形骸化してしまったと考えるのは理にかなっている。

報道を観た人びとの殆どはエアーガンで動物を撃っても良いのだと認識したことだろう。
しかし、エアーガンと
いう遊戯銃には「エアーガンを人や動物に向けて撃たない」という原則が厳然と付されていることを忘れてはならないのである。

それでは、今回、このように問題視しなければならないのは何故なのだろうか。
そこにはどんな問題が存在しているのだろうか。今までの調査の結果を踏まえて筆者が感じた諸問題をここに記しておきたい。

★エアーガン愛好家の意識の問題★

今回、筆者はこのブログで記事を書き始めてから幾人かのエアーガン愛好家から反論と抗議を受けた。その内容は要約すると以下のとおりだった。

①農家がサルによって農作物の被害を受けており、それが深刻である以上、それに対して効果的な対策ツールとしてのエアーガンの使用は正当なものである。また、市販エアーガンの威力は法的にも傷害能力がないものでありサルへの射撃に使用しても問題がない。

②2003年の秋田県の八森町でのサバイバルゲーマーのサル駆除ボランティアは今でも高い評価を受けており、エアーガンによる正しい社会貢献であることを筆者は認識していない。他の行政機関も既にサルへのエアーガン使用を認めており、これは「判例」と同じであり伊勢原市の講習はそれに準じたものであり正当である。

これらの反論に対し、筆者は次の様に答えることができる。
①については次の様に答えることができる。
サルによる農作物被害が深刻であるという問題と、エアーガンを動物射撃用の道具として使用して良いという問題は別物である。
「エアーガンを人や動物に向けて撃たない」という原則を製造元や協同組合が原則として規定し、それに基づき農林水産省はその原則に基づいて、そうした規定を持つ玩具でサルを駆除することは許されないこととしている。また、傷害能力がないというのは対人射撃に関してのことであり、身体の大きさが明らかに違う人間より小さな動物にこれを使用した場合、傷害能力は大きくなることは容易に考えられる。

②については次の様に答えることができる。
他の複数の行政機関がエアーガンによるサル駆除を行った実績や報告があるからといって、
「エアーガンを人や動物に向けて撃たない」という原則が書き換えられる訳ではない。「判例」は司法が法的手続きに基づいて打ち出した判断であり、尊重されるべき基準であるが、行政機関が何の根拠もなく行った行為が司法における「判例」と同じであるという論理はあまりに飛躍しており通用しないだろう。

筆者は一部のエアーガン愛好家やサバイバルゲーマーの人びととの議論で感じたことが幾つかある。
一つは、彼らが伊勢原市の講習や野生サル駆除対策にエアーガンを使用することをあくまでも肯定する背景には、エアーガンという存在が世間的には反社会的なものとして認識されている部分があるからだということだ。

一部のエアーガン愛好家やサバイバルゲーマーの人びとはエアーガンによる多発する対人射撃事件yなど起きる状況下にあって、どこかで肩身の狭い思いをしている部分が存在するのである。

しかし、エアーガンによるサルの駆除は、農作物の被害を防止する社会的な貢献と捉えることでエアーガンの社会に対する有用な部分をアピールできるという意識がどこかにあるのではないか。そのために本来存在する
「エアーガンを人や動物に向けて撃たない」という原則を切り捨てることによって、それを正当化しようと試みるのである。

現に前回で紹介した秋田県八森町における「猿ジャー隊」の元参加者は今回の伊勢原市のエアーガンによる野生サル射撃講習の報道を受けて、当時の活動の正当性をSNSなどで今なお主張し続けている。

しかしながら、筆者は今回の伊勢原市の問題はエアーガン愛好家やサバイバルゲーマーにとっては肯定や支持することは誤りで、逆に自らの趣味の存続に関して危惧せねばならない問題ではなかったかと考えるのである。
公にエアーガンで動物を撃っても良いということが市民講習で行われ、それが過剰に報道で流布されることによって、エアーガンが動物を含む弱者に向けられるような事態が引き起こされれば、たちまちエアーガンは反社会的な存在として社会から危険視され、法改正などによって所持や使用に制限が将来的に加えられる可能性も否定できないのである。

筆者はこのような考えから、真っ先に伊勢原市の行為を批判するのはエアーガンの愛好家やサバイバルゲーマーであると考えたが、実際は全くの逆であった。

既に述べたように業界は
「エアーガンを人や動物に向けて撃たない」という原則を掲げながらも鳥獣対策に使用されるエアーガンを規制できず、黙認せざるを得ないという二重規範に陥ってしまっている。その中で、批判し是正を行えるのは実のところは企業資本や経済活動に全く拘束されていない自由の存在であるエアーガン愛好家、またはユーザーであるはずだ。

その
エアーガン愛好家がエアーガンによる鳥獣対策使用を肯定してみたり、あるいは報道を面白おかしくネットで紹介している有様は筆者には理解しがたい。

エアーガンの愛好家が自分たちの趣味を愛し、尊重しているならば今回の伊勢原市の問題は簡単に見過ごせるはずがなかったと思うのは筆者だけであろうか。

あるエアーガン愛好家の人が筆者に語った言葉が印象的であった。

「この趣味をやってる人間の大半は私も含めて悪い奴らです。製造メーカーもそれは重々承知の上で建前で商売してるんですよ。メーカーがだんまりを決めるのなら、コレを商売にしている雑誌媒体はどうですか?
まずは業界と関連媒体が動くのが筋でしょう。
一連の(筆者の)ツィートにも、誰もコメントして来ないでしょ?(エアーガン)の知識をひけらかせたい時にだけ頼みもしないのに書いて来る人は多いけど、自分が動かなきゃならない面倒な問題になるとたちまち誰もやって来ないというのが現実なんですよ。」

他のエアーガン愛好家でも同じような意見を持った人物がいた。
多くの愛好家が自分たちの問題だと意識していない。結果はこのホビー自体がいずれ滅ぶ時が来るだろうとと語ってくれた。

「エアーガンを人や動物に向けて撃たない」という原則を無視して市民に野生サルを射撃する講習会を開いた神奈川県伊勢原市の問題。この問題を取るに足らないものだと思う人は多いのかもしれない。しかし、この問題は一つの大切な社会規範を公の機関が侵したという重大な問題であることには変わりがない。

この問題にエアーガン製造業者も、協同組合も、メディアも、エアーガンユーザーもあまりにも無関心で向き合おうとはしていない。筆者にはそれが既に驚くべきことなのである。

★遊戯銃法の必要性★

このような問題が起きるのは何故か。
エアーガン製造業者が規定している社会規範としての
「エアーガンを人や動物に向けて撃たない」という原則が明確に法として規定されていないことにその原因の一端がある。

現在はエアーガンは銃刀法(
銃砲刀剣類所持等取締法)とそれに付随する内閣府令によって取締を受けている。
エアーガンに関する法規制は発射されるプラスチック製の弾丸の威力に関してと、その材質や構造について厳しく規制されている。
しかし、これは遊戯銃の範疇を超えた(改造エアーガンなどパワーアップしたもの)準空気銃の所持に関する法規制であり、遊戯銃そのものを法によって規制しているわけではない。
エアーガンが合法であるかどうかという基準は準空気銃であるかないか、あるいは材質が金属であり擊発装置を有しているかどうか、あるいは拳銃型のエアーガンで金属製であるかどうかなどという点がポイントとなる。これらは銃刀法の模造けん銃や模造銃器の所持や売買の禁止を規制する法によって運用されている。
準空気銃、模造けん銃(金属製の拳銃型エアーガン)を所持した場合は厳しい罰則が法によって与えられるようになっているのが現状だ。

「エアーガンを人や動物に向けて撃たない」という社会規範は製造業者などが規定しているものであり、法によって規制されているものではない。銃刀法と定められた内閣府令に抵触しないエアーガンなら誰でも無許可で売買し所持することができる。「エアーガンを人や動物に向けて撃たない」という文言は法のような拘束力を持たないのである。

エアーガンを本格的に規制した平成18年の改正銃刀法の中では下記のように定められている。

「圧縮ガスを使用するものを含む」を「圧縮した気体を使用して弾丸を発射する機能を有する銃のうち、内閣府令で定めるところにより測定した弾丸の運動エネルギーの値が、人の生命に危険を及ぼし得るものとして内閣府令で定める値以上となるものをいう。以下同じ」

人の生命に危険を及ぼし得るものとして内閣府令で定める値以上となるもの」が違法なエアーガン(準空気銃)となり、その以下となるものが通常に市販されているエアーガンのことになる。

傷害能力がライフル、猟銃、空気銃よりも低い、殆どない遊戯銃のエアーガンだが、幼児や動物の虐待によって傷害を与える事件が頻発し逮捕者まで出ている現状を考えると遊戯銃製造者らが規定している
「エアーガンを人や動物に向けて撃たない」という規範が法令化されていないということは筆者にとっては大きな疑問を感ずるところだ。

現時点では銃刀法によって規制を受けている遊戯銃エアーガンだが、将来には遊戯銃の適切な所持や使用を規定した「遊戯銃法」なるものが不可欠なのではないかと筆者は今回のレポートで強く感じた次第だ。

法が存在すればグレーゾーンや二重規範のような矛盾が起きることはない。そして、今回のような意見が分かれる議論を巻き起こることもなくなるのである。

次回はいよいよ本問題の最終回となる。
伊勢原市問題とサルの農作物被害の問題。自然と人間の共生の問題を考えて、この問題の最終章としたい。


筆者:永田喜嗣





2016年03月12日

【第3回:エアーガンでサルを撃つ事は必要か?】

神奈川県伊勢原市の農業振興課が女性限定の「鳥獣対策勉強会」を2016年3月1日に開催し、その中で市民に対し遊戯銃であるエアーガンを使用してサルに対して射撃する講習を開催したことに関しての問題を引き続き考えてみよう。

繰り返しになるが、「エアーガンを人や動物に向けて撃たない」という文言がエアーガンの取り扱い説明書などに明示してあるにもかかわらず、エアーガンを市民に対して「動物を撃つ」講習を公の行政機関、伊勢原市が行ったことは問題ではなかったかという問題である。

今までの検証ではっきりしてきたことは
「エアーガンを人や動物に向けて撃たない」という規範は遊戯銃としての玩具、エアーガンを製造販売している業者やその協同組合が規定しているものである。そのため、この規範は銃刀法の様な法的な拘束力がない。しかし、このルールがあるためにエアーガンで人を撃つ、あるいは動物を撃って傷害を負わせるなどの事件を未然に防ぐために機能していることも確かである。

前回で示したように
公の行政機関である伊勢原市が市民に対して行った野生サルを撃つことを奨励し、指導する講習を行ったことは社会規範としてのエアーガンの存在を危ういものにしかねない。
伊勢原市の
農業振興課が筆者に対して講習会の正当性を主張した、その論拠の一つが伊勢原市だけでなく他の市町村でもエアーガンによるサルの駆除を行っているということであった。
加えて農林水産省も奨励しているという説明があったが、これは既に筆者の農林水産省への問い合わせで事実ではないことが判明している。

伊勢原市は他の市町村や行政もエアーガンの使用を奨励していることを同士の講習会の正当性としたが、エアーガンという玩具に
「エアーガンを人や動物に向けて撃たない」という文言がエアーガンの取り扱い説明書などに明示してある以上、これを動物に向かって撃つことは規範に背くことになる。そうしたことを他の行政機関もやっているのだから自らの市でも行って良いのだとするのは、あまりにも短絡的ではないか。

それでは、過去のエアーガンによるサル駆除活動の一例と現状をここで検証してみたいと思う。
2003年、秋田県の八森町がサルによる獣害問題を解決するために組織したボランティア「サル追い上げ隊」の要員を全国から募集した。その際にサバイバルゲーム(エアーガンと迷彩服などの軍装を使用して模擬戦闘を行なう戦争ゲーム)を趣味とした人びと、いわゆるサバイバルゲーマーが集められ「サルジャー隊」なるものが組織された。

サルジャー隊はサバイバルゲームの経験と知識を活かしてサルを探索してエアーガンで射撃を行い追い払う活動を行ったとされている。
そのサルジャー隊を組織した人物がインターネット掲示板に以下のような記述を書き残している。
引用にあたって、一部、個人名の部分を伏字にしてあることをお断りしておく。

「○○○○さんが今日、初交戦しました。岩館地区に猿の群れが居るとの反応があったので、猿1、猿2、
○○○○さんの3名でLRP任務を遂行しました。林に入って約3分、右斜面に猿の群れを発見。同時に○○○○さんと猿2が発砲を開始し群れ十数頭を撃破しました。○○○○さんは群れの猿数頭にヒット、確実に敵戦力を後退させていました。
 やはり昨日の白滝をベースにした、サザエ、カキ、アワビ、焼きハマグリパーティが良かったのでしょうか。良い仕事ぶりでした。
明日は、我々人間耕作地域にへばりついている十数頭の群れを排除する予定です。猿ジャー隊の調査により排除が決定すれば、またまたLRP部隊
○○○○さん所属)の出動です。
○○○○さんはやるときはやる男なのです。FUCK OFF MONKEYS!!!!!」

引用先:猿害 ボランティア 作戦

ここではサルに対して「敵戦力」と呼称し、
「群れ十数頭を撃破」など、さながら戦争のような表現が終始使われている。敵戦力としているがここで「猿ジャー隊」が相手にしているのは野生のサルなのである。彼らは戦力など何も有していない。しかも「群れの猿数頭にヒット」と表現していることから、エアーガンから発射させるプラスチック弾(BB弾)をサルに命中させている。

サルの群れはエアーガンで武装している訳でもエアーガンで反撃してくるわけでもない。
この書き込みはサルを相手に「戦争ごっこ」を楽しんでいるかのようにも見える。このような表現は動物虐待だとされても言い逃れることは出来ないだろうと筆者は考える。

八森町という行政組織が果たしてこのような過激なエアーガンによるサル駆除を公式事業として行ったのであろうか。この記述を見つけたとき、筆者は不快感と共に大きな疑問を持った。
しかも集められた「猿ジャー隊」のボランティアはサバイバルゲーマーであり、趣味として常にエアーガンを取り扱っているベテランたちである。
「エアーガンを人や動物に向けて撃たない」という規範をエアーガンに興味を持たない一般の人びとよりも確実に認識しているはずのゲーマーたちが自ら害獣駆除ボランティアの名のもとにエアーガンで動物を撃っていたとは驚くべきことである。

秋田県の八森町は平成18年3月27日より隣接している峰浜村との町村合併により八峰町となり現在は存在しない。筆者はこの「猿ジャー隊」のボランティア形態、つまりサバイバルゲーマーを登用してサルを追い払うために射撃をさせている方法を現在もなお行っているのかどうかを調べるために八峰町の農林振課の方に話を聞いた。

秋田県八峰町農林振課の話★

○猿ジャー隊について○
筆者の電話での聞き取りによると、結論から述べると「猿ジャー隊」なるボランティアは存在しないということであった。担当者の話によると2002年~2003年頃、八森町がサルを山に追い上げるために「サル追い上げ隊」ボランティアを全国から募集したことは事実であるという。しかしサバイバルゲーマーを登用した「猿ジャー隊」は同町のある獣医師が組織したもので(上記の掲示板書き込みもこの獣医師によるものらしい)、八森町はその形態や活動内容まで把握していなかった可能性が高いということであった。
八峰町ではエアーガンを使用するサバイバルゲーマーによるサル駆除ボランティアなどは行っていないということであった。

○エアーガンを使用を町民に奨励しているかどうかについて○
筆者は
八峰町農林振課ではエアーガン使用を推奨しているかどうか尋ねてみたが、八峰町ではサルの追い上げや駆除には猟友会と連携して、駆除の際にも法的手続きを経て合法的に行っているとのことであった。
筆者は神奈川県伊勢原市の事例を説明した上で、サル対策でのエアーガン使用について尋ねてみた。
これについては農林水産省の見解と全く同じで、製造元が「動物を撃ってはならない」としている製品を町民に推奨したり使用を指導することは有り得ないとした。
また、玩具であっても銃で武装させることを町民に推奨したり指導することは八峰町では考えられないとの説明を受けた。
八峰町では町民に対し、害獣駆除用花火など、その対策専用に製造販売されているもののみを推奨したり指導したりしているとのことであった。

このように安易に玩具であるエアーガンをサル駆除を目的に使用することを非としている行政組織も存在するのである。この見解は農林水産省の指導方針とその理念にも合致している。

八峰町では伊勢原市同様にサルによる農作物被害に頭を痛めている。町では猟友会と連携して、捕獲、場合によっては射殺することもあるという。また捕獲したサルは安楽死によって処置を行うが、これらの一連の処理は常に合法的な手続きの上に行っているという。
また、処置を行うのは里に住み着いたサルのみを対象としており、奥山に生息するサルの生態系を侵すことなくこれを保護しているという。

ここにはサルと人間の共生が難しいという現実が存在している。その現実に対して対策を講じる上でやはり法や規範は常に守らなくてはならないことを八峰町の
農林振課は筆者に強く語った。

次回は最終章として、サルに対するエアーガン使用の問題点をまとめ、今回の伊勢原町のエアーガンによるサルへの射撃講習の問題を総合的に分析してみたいと思う。


筆者:永田喜嗣





2016年03月11日

【第2回:二重規範に揺れるエアーガン業界】

前回では神奈川県伊勢原市の農業振興課が
女性限定の「鳥獣対策勉強会」を2016年3月1日に開催し、その中で市民に対し遊戯銃であるエアーガンを使用してサルに対して射撃する講習を開催したことに関しての疑問点を考えた。

「エアーガンを人や動物に向けて撃たない」という文言がエアーガンの取り扱い説明書などに明示してあるにもかかわらず、エアーガンを市民に対して「動物を撃つ」講習を公の行政機関、伊勢原市が行ったことは問題ではなかったかという問題である。
公の機関がエアーガンを使って動物を撃っても良いとするならば、エアーガンを使った動物を標的にした事件に繋がるなど社会的影響はなかったのか。大いに疑問が残るところである。

伊勢原市は農林水産省や他の行政機関がエアーガンによるサルに対する駆除使用を認めているあるいは推奨しているので問題はないと筆者に述べたが、農林水産省では「認めていない」との回答を得た。また、神奈川県警や市警察署とも連携して問題はないとのことであったが、県警や市警察は伊勢原市の今回の講習を把握していないことも明らかになった。

こうした情報から、伊勢原市が主張するように
「エアーガンを人や動物に向けて撃たない」ということが製品として取り扱い説明書に明記されているエアーガンを動物に向けて射撃する演習を市民に施した行為が問題ではないかという疑問は更に強まったと言わざるを得ない。

伊勢原市が行政として市民に行った講習は公の機関が「エアーガンの不正使用」を推奨し指導したとされても致し方がないことである。
これは見過ごすことはできない重要な問題であると筆者は考えている。

今回はこうしたエアーガンを使用した「害獣駆除」について製造メーカーやメーカーで組織された協同組合ではどのように捉えているのかということを検証してみたいと思う。

その前にエアーガンとは何かということをここで押さえておきたい。

以下は警視庁のウェブサイトで紹介されているエアーガンについての説明を引用したものである。

**********************************************************************

エアーソフトガンとは何ですか?

エアーソフトガンとは、低空気圧又は低圧ガスによってプラスチック製のBB弾と呼ばれる球形の玩具弾を発射する、銃器(けん銃、小銃、機関銃等)を模した玩具銃の一種で、銃器やモデルガンとは、次のような相違点があります。

銃器との相違点
○ 銃器は、その材質が鋼鉄等で、火薬の爆発力により実弾を発射させる本物の武器等
○ エアーソフトガンは、プラスチック等を材質とし、低空気圧又は低圧ガスによりプラスチック弾を発射させる玩具の銃

モデルガンとの相違点

モデルガンとエアーソフトガンとでは、外観を銃器に似せた玩具銃である点では同じですが、
   
○ モデルガンは、弾丸を発射させることができない
○ エアーソフトガンは、プラスチック弾等を発射させることができる

点に違いがあります。


モデルガンやエアーソフトガンの法規制については?

一般的には、玩具銃業界の自主規制に従って製造市販されているものであれば、改造等を加えない限り銃刀法の規制の対象とはなりません。

しかし、中には数年前に規制の対象となったM29(樹脂製エアーソフトガン)やM40A1(小銃型エアーソフトガン)のように、何ら手を加えなくても銃器としての規制を受ける物もあります。

また、エアーテイザー(スタンガンの一種)のように、空気銃としての規制の対象になり、所持が禁止されている物もあります。

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上記の警視庁の説明によればエアーガン(エアーソフトガン)は現時点で、玩具業界が製造販売しているものなら無許可で所持し、使用することが出来ることとなっている。
しかし、改造を加える(発射弾の威力を強める)などの場合は銃刀法の規制対象となる。

伊勢原市のエアーガン講習で使用されていたエアーガンは電動ガンと呼ばれるバッテリーによって電気モーターを回転させ、ポンプで空気を圧縮してその力でBB弾と呼ばれる
プラスチック弾を機関銃のように連発して撃ち出す製品であった。(報道画像に写っている)

これらは合法な遊戯銃であると思われるが、何れも遊戯銃(玩具)として製造販売されているもので、鳥獣対策用器具として開発または製造販売されたものではないことは明らかである。取扱説明書には勿論のこと
「エアーガンを人や動物に向けて撃たない」と明記されていたことは間違いがない。

伊勢原市のサルに対するエアーガン射撃講習に関して、エアーガンを製造販売している企業や業界の組合はどのように捉えているのだろうか。

筆者は伊勢原市の講習に使用された電動ガンを製造販売している玩具メーカー「東京マルイ」とエアーガン製造業者が組織している「日本遊戯銃協同組合」に電話で問い合わせを行った。以下、その内容を要約して掲載する。

★日本遊戯銃協同組合の話★

まず、筆者が話した日本遊戯銃協同組合の担当者は日本テレビによる伊勢原市のサルに対するエアーガンの射撃講習の報道を知らなかったそうである。
報道の内容を説明した後、
日本遊戯銃協同組合の見解を聞いたのだが、組合には動物をエアーガンで撃つことの是非についての問い合わせが他にも寄せられることが多々あるとのことであった。
組合では取扱説明書に明記していある
「エアーガンを人や動物に向けて撃たない」が基本ルールであるため、動物を撃つ行為は認めてはいない。しかしながら、サル等を追い払うためにエアーガンを使用している映像(日光の観光地など)が報道されており、そうした使用が行われていることについては把握している。さらには農協でも鳥獣対策用にエアーガンを販売していたりしており、組合ではそうした行為を禁止したりする立場にはないとのことであった。
鳥獣対策に安易にエアーガンが使用されるのはエアーガンが安価であり、使いやすく、それなりの効果が得られるからではないかと思うとのことだった。

★東京マルイの話★

伊勢原市のエアーーガンでのサルへの射撃講習で使用されたエアーガンの製造元の東京マルイ社に見解を求めたが、回答いただいた担当者はこの伊勢原市のエアーガン講習の映像を既に知っておられた。
東京マルイとしては説明書にあるように
「エアーガンを人や動物に向けて撃たない」というルールは守ってもらいたいというスタンスであり、動物を撃たないで欲しいという立場であるという。動物を撃つ行為は「是か非か」という筆者の質問に東京マルイは「非」であるとして、「動物は撃たないで欲しい」という見解を繰り返し述べた。しかしながら、鳥獣対策にエアーガンを使用するために購入するユーザーに対して販売を禁止するとか売らないということは出来ないので現状ではどうすることもできないという回答であった。
同社では行政や団体に鳥獣駆除用としてエアーガンを直接納品したり販売することはないとも説明した。

筆者が不思議に感じたことは東京マルイも日本遊戯銃協同組合もウェブサイトでは取扱説明書にある
「エアーガンを人や動物に向けて撃たない」という注意事項が掲載されていなかったことだ。

筆者は東京マルイにこの文言をウェブサイトに掲載してもらいたいと意見具申をしてみたが、回答は得られなかった。

確かに
「エアーガンを人や動物に向けて撃たない」という文言を喧伝すればエアーガンを使った模擬戦争ゲーム、いわゆるサバイバルゲームも否定することになりかねない。また、動物を撃たないということを明記すれば鳥獣対策でエアガンが販売されていることも否定することになる。

筆者の個人的な印象はエアーガンの業界は
「エアーガンを人や動物に向けて撃たない」としながらも「サバイバルゲーム」や「鳥獣対策」を黙認している形になっており、二重規範(いわゆるダブルスタンダード)という自己矛盾に陥っているのではないかというものであった。

メーカーが取り扱い説明書に
「エアーガンを人や動物に向けて撃たない」と記載したところで、この文言は法律のような決定的な拘束力を持たないのである。

しかし、エアーガンによる犯罪、例えば子供に向けて射撃したという虐待事件などが最近でも頻発している現状がある。
「エアーガンを人や動物に向けて撃たない」という規範は社会的ルールとしてエアーガンという製品を取り扱う使用者は是非とも厳格に守らなければならないものであると筆者は考える。
そうした製品を野生サル射撃用に使用するということはやはりエアーガンという製品の不正使用だと考えざるを得ない。野生動物による農作物の被害の深刻さは理解できても、そのためにエアーガンを動物を撃つ目的に使用しても良いということにはならないはずである。

筆者がこの問題について述べるにあたってサルによる農作物の被害に遭っている農業従事者の事情や感情を無視していると指摘されることもあったが、筆者は農作物の被害と遊戯銃、エアーガンの使用は切り離して考えなくてはならない問題であると考えている。
野生動物の農作物に対する危機への一般的感情は一旦ここからは排除しなければ問題の本質は見えてこないのではないか。

伊勢原市は
「エアーガンを人や動物に向けて撃たない」ことを規範にして製造販売されているエアーガンを市民に対して「動物を撃ってよい」と公開の上で市の事業として奨励し指導したのである。
もしも、これを盾に該当の犬や猫をエアーガンで射撃して虐待した人物が出現したとして、その人物が「伊勢原市が市民に対してエアーガンで動物を撃って良いと言ってたではないか」と主張した場合、伊勢原市の責任は如何なものとなるのであろうか。
今回のエアーガン講習の社会的影響と責任には重いものがあると筆者には思えてならない。

野生サルの対策にエアーガンは必須のアイテムなのか?
伊勢原市の今回の講習に対して他の行政機関はどのように捉えているのか?

次回は伊勢原市同様に野生サル対策を行っている秋田県八峰町役場への筆者が聞き取り調査した内容から検証を進めてみたいと思う。


筆者:永田喜嗣