2013年09月10日

 

1960年代は東宝が戦争スペクタクル映画の名作を最も多く連作して世に送った時代だった。

その、トップバッターとなったのが本作、『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦・太平洋の嵐』(以下『太平洋の嵐』と記す。)だった。

橋本忍脚本、松林宗恵監督、円谷英二特技監督による戦争映画。恐らく我が国の戦争スペクタクル作品としてはこの作品『太平洋の嵐』の上をゆくものを挙げるのは難しい。

 

そのそもこうした戦争スペクタクルは戦時中、国策戦争スペクタクル映画で大きな牽引力となっていた円谷英二特技監督によるミニチュアを使った特殊撮影技術班を戦後活用するという発想から『ゴジラ』(1954年)の怪獣映画路線と並ぶラインとしてスタートしたものだった。

 

『ゴ ジラ』の前年、1953年に同じ東宝で製作された『太平洋の鷲』(橋本忍脚本、本多猪四郎監督)は主人公が山本五十六(大河内傳次郎)である点において 違っているが骨子は『太平洋の嵐』と同じだった。ハワイ奇襲攻撃の成功から太平洋戦争、翌年のミッドウェイ海戦での大敗。当時、海軍が国民に隠し通した ミッドウェイ敗北の真相を知らせることが『太平洋の鷲』に課せられた一つの使命だった。

 

『太平洋の嵐』が他の反戦戦争映画 と著しく違っていた点は『雲流るる果て』や『きけ、わだつみの声』の様に軍の上層部を最初から悪として描かなかった事だ。戦後、次々と造られた告発型の戦 争映画はその存在意義は大きかったが、かなり軍隊の上官と部下の間を完全に正邪で二極化しすぎた点で映画としてのリアリティやメッセージが必ずしも正確に 伝わるものではなかった。この点においては『太平洋の鷲』もさして大差を持つ作品ではなかった。

 

『雲流るる果て』の最後は 鶴田浩二や木村功の特攻隊が敵艦に突入したあと、戦果確認の方が司令部に届き、「思ったほど当たらんなあ」という同僚に岡田英次の将校が「なに、特攻隊は まだ幾らでもある。」というのが最後の台詞だった。こうした台詞は特攻隊を送り込む海軍という暴力組織を象徴しているのだろうが、映画を観る方にとっては 岡田英次の将校の不気味さと非現実さは想像を越えてしまう。

こうした台詞がなくとも充分、特攻隊員の悲惨さは描かれていて通じるはずである。

『きけ、わだつみの声』での最後で部下を見捨てて敵前逃亡悪辣な将校たちもやはり、映画的キャラクターであって決して反戦のリアリティを持たせる要素とはなり得なかった。

 

『太 平洋の嵐』でも橋本忍は空母飛龍が撃沈されたあと、洋上を浮かぶ救命ボートに群がる水兵たちに将校が抜刀してその手を斬るというシーンが準備されていた。 松林宗恵監督はそれを撮らなかった。監督は戦時中、海軍にいた経験が有ってそうしたエピソードを聞いたことも見たこともなかったからだと回想している。

このシーンのカットを含め当時松林監督は「反戦が甘い」と新聞で叩かれたことを述懐している。

 

もちろん、戦争映画にはそうした虚構は絶えず必要とされる。

それはどこの国の映画でもそうだ。そうした虚構は尊いメッセージでもある。

しかしながら、戦記映画とは好戦的に描こうとも反戦的に描こうとも「戦争」は悲惨で悪以外の何ものでもないのだから冷静に描いたほうがむしろ受け止められやすい事もある。

 

戦時中作られた戦意高揚映画『雷撃隊出動』(1944年)などは最後の体当たり攻撃は悲惨この上なく、戦意高揚映画として観ることさえ難しい不気味な作品だった。戦争を描くことは戦争を本能的に嫌う人間にとっては好戦、反戦を問わず結局は反戦に結びつく。

 

逆に反戦を最初から「これでもか」と盛り込んだ映画には逆に観客は拒否反応を起こしてしまう。

空前の大ヒットとなった『二百三高地』は名作ではあるけれど二度三度と大衆が鑑賞したくなる映画ではない。続く『大日本帝国』も『日本海海戦・海ゆかば』も『二百三高地』を超えるヒットには至らなかった。

悲惨で重苦しい印象しか残らない。

 

戦 争という巨大な暴力に中にも勇壮な部分と悲壮な部分は必ず混在する。松林宗恵監督の戦争映画『太平洋の嵐』はこうした勇壮と悲壮をバランスよく持たせた戦 争映画だった。前半の真珠湾攻撃、インド洋海戦までは勇猛果敢、主人公の北見中尉(夏木陽介)を初めとする若い海軍将校たちは意気揚々、祖国へその五尺の 命を捧げると言い放つ。ところが、後半のミッドウェイ海戦から事態は悲壮へと悲壮へと傾いてゆく。前半は完全に好戦的映画で爽快感を感じさせるが後半は 打って変わって反戦映画となる。赤城、加賀、蒼龍の三隻の航空母艦が米軍の急降下爆撃機に被弾して大火災を起こすところから、ドラマは突然反転し山口多聞 少将(三船敏郎)を司令官とする第二航空艦隊の空母、飛龍一隻が気を吐くも、その飛龍も被弾。沈没に至って前半の意気揚々とした雰囲気とは全く違って見え るのである。前半に全く反戦的ムードが無い分、後半の反戦が活きてくる。いや、際立ってくるのだ。

戦争を最初からネガティヴに描くことは簡単である。

しかし、戦争という巨大な暴力を批判するとき、その暴力を一つのカタルシスとして肯定的に描いて観客を酔わせ後半で暴力の恐怖と顛末を与えるという手法はなかなか難しいものであり、またそうした手法を使うことも勇気を必要とするものだ。

後年、松林監督がインタヴュー語った、『太平洋の嵐』を公開当時に「反戦が甘い」と批判した新聞は残念ながらこの映画の卓越した手法を全く理解できていなかったのだろう。

 

1960年代の松林宗恵監督の戦争映画における際立った特徴である。この手法は姉妹編にあたる第343海軍航空隊(戦闘機、紫電改を主力とした松山、鹿屋で昭和20年に防空戦で活躍した航空隊)を舞台にした『太平洋の翼』(1963年)でもそっくりそのまま使われている。

 

この様な効果的な方法は残念ながら継承されてゆくことはなかった。

や はり、好戦的に暴力のカタルシスを観客に与えるという部分は批判の対象となるものであろう。この構成をしっかり把握しておかなければ映画は好戦、反戦とも 付かない曖昧で弱い印象を残し、評価する際に見誤られる可能性もあるからだ。1981年、久々に戦争スペクタクルでメガフォンを取った松林宗恵監督の『連 合艦隊』は『太平洋の嵐』や『太平洋の翼』の手法が用いられている事に大いに期待したものだが、前年に公開されて空前のヒットとなった東映の『二百三高 地』の影響か、全編反戦色が強くかつての松林節はここにはなかったのが惜しまれた。1980年代以降、戦争スペクタクルは日本では殆ど制作されなくなっ た。制作されても1960年代に力を発揮した一連の東宝戦争スペクタクルの亜流もしくはそれに及びもつかない出来であり、ましてや松林宗恵の卓越した手法 など見出すこともできない。1980年代以降、日本の戦争映画文化は完全に衰退化した。

近年の作品を観る前に今一度、1960年代の東宝戦争スペクタクルを観ることは肝要である。

 

中でも『ハワイ・ミッドウェイ大海空戦・太平洋の嵐』はエポックを作り上げた極めて重要な作品なのである。



執筆:永田喜嗣







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