2018年12月

2018年12月31日

平成30年(2018)を振り返って

平成30年(2018)を振り返って

年の初めは北朝鮮と米国との緊張が高まり、
我が国も巻き込まれて北朝鮮からミサイルが
撃ち込まれるのではないかと心配したが
韓国の冬のオリンピックを境に北朝鮮と米国との
戦争は回避され、日本国民は安堵することが
出来た。戦争が起こらなかったことは何ものにも
勝ることであった。

大阪と北海道で大きな地震があり、また巨大台風が
次々と四国、岡山大阪を襲い大きな被害を受けた。
自然災害の多い年であった。加えて温暖化の影響で
とてつもない高気温に曝された。

政治家と役人の質の低下でさまざまな不祥事が
現れ、目を覆いたくなるほどの低落ぶりであった。

今年一年で世の中を明るくしてくれたのは冬季オリンピック
での羽生選手や小平選手などの日本選手達の活躍と
メジャーリーグで二刀流で大活躍した大谷選手であった。

個人的には余命半年の可能性もあった肺癌が
ジオトリフという抗がん剤が効いて年を越せたことである。

平成最後の年は混乱の一年であったと記憶に残ると思う。

gomi123211 at 17:01|PermalinkComments(0)

2018年12月29日

俳句

俳句

今年一年、病にため,時間のかかる外出は月一回の
東海大学医学部付属東京病院に出かけるだけで、
ほとんど自宅内で静養する毎日であった。

孫達が遊びに来る以外家内と二人だけの時間を過ごすことが
日課であった。
二人でいると些細な事柄で口喧嘩が多くなり、家庭生活が
暗くなることがよくあった。
そんな日常を良くするために家内とともに4月から、俳句を作ることにした。
作った俳句をお互いに否定的な批評はしないことを約束した。

俳句作りを始めてから、家内と前向きな会話が進むようになり毎日が
明るくなった。
駄作であるがそれぞれ毎月50句位作り、今も途切れることがない。

俳句がこんなに病む人を持つ家庭を明るくするとは思わなかった。

平成世 膨らみ縮み 菊は咲く



gomi123211 at 15:54|PermalinkComments(1)

2018年12月25日

追悼

追悼

今年も私にとって掛け替えの方々、支援をして下さった
方々が天国に召された。
これらの方々に心から追悼致します。

最初に勤務した会社の方々:
 
SWさん 大学の先輩で慣れない営業部門に
配属された時、親身になって”いろは”から営業について
教えて下さった。
一昨年、関戸橋の近くのカフェで偶然会い、母校の
話をしたのが最後になってしまった。

YUさん 元気なナイスガイで困難な時,課内を明るくしてくれた。
彼が関西の芦屋に引っ越す前、富士平原CCでゴルフを
したのが会った最後であった。

MSさん、一年ほど一緒に働いたが鋭い感性の方で先を
読んだ提案をしてくれた。

KFさん 新卒の同期であったが一緒に仕事をする機会は
一度もなかったが、退職後、会社の50年史を編纂するために
参加した時、彼も参加しており、彼の優しい人柄と高い
知性に接することが出来た。

KSさん、 同期であったが既にビジネス経験者であった。
新入社員に対する研修時において、こんな凄い人と一緒に
仕事をしていかねばならないかとびびった思い出がある。
アスファルトビジネスに関係した人達の仲間の会、
アス友会で再三旅行や飲み会でご一緒した。
彼の自宅のある川越を彼の案内で廻ったのが最後であった。

TTさん 厳しいが優しい上司であった。
永い間、英語が苦手な私の英語の手紙やリポートを添削
して下さった。ゴルフのマナーも厳しく指導いただいた。
多くの代理店店主から絶大の信頼を得ていた方であった。

二番目に勤務した会社の方々:

KKさん 外部から入社してきた私を快く受け入れてくれた
役員の人であった。会社の歴史、資産、財務など丁寧に
教えて下さった。
また、誰にも教えたくないような隠れた割烹、”要”、”柚”、”島谷”
など紹介してくれた。関西の味を教えて下さった方々の
一人であった。

MAさん ラガーマンであった。この会社のSS部門の責任者で
あったが独立して同社のサブ代理店になり天理でSSを経営して
いた、サブ代理店会の会長として会を良くまとめて下さった。

幼馴染、学生時代の仲間:

IYさん 中学校の同級生で一番身体が大きく、健康そのものの方
であった。電線会社を定年退職した後、故郷茅野に戻りボランティアで
地域活性化に貢献していた。素晴らしい同級生であった。

EYさん、自宅のすぐ近くに住んでいた幼馴染で大きな夢を
語る人で自分の敷地内で温泉を掘ることにチャレンジしたが
成功には至らなかった。
愛嬌のある笑い顔は忘れられない。

MOさん 次兄の小学校の同級生で兄とMOさんは権太で
教室の中より廊下に立たされている方が長かったと言う
伝説が残っている人物で、筋肉りゅうりゅうで凄い力持ちで
あった。成人になってからも大きな石を持ち上げることに
誇りをもっていた。
平成28年の御柱祭で地域の代表として手に大きな伐採用斧を
持ち先頭に立っている姿を見たのが最後であった。

TIさん 高校の同期で知的な紳士あった。私が14年前大阪から東京に
戻った以来、同期の有志で創った飲みながらの情報交換会で
ほとんど毎月会っていた。今年の9月私と同じ病を告知され
僅か2ヶ月で天国に召されてしまった。
日展に2回も入選したほど油絵が得意であった。9月にメールで
日展に出す作品がもう少しで仕上がると知らせていたのが
最後であった。

身内の人:
KHさん 母親方の従兄弟で、私と非常に似ていると言われて
いた人で方々の中学校で校長務めた。
常に私を励ましてくれた。

平成最後の年末に際して、これらの方々のご冥福を心から
お祈り致します。













gomi123211 at 16:14|PermalinkComments(0)

2018年12月18日



鯖の缶詰めや塩鯖が美味しい上に、コストパフォーマンスが
良いとのことで大人気であると報道されている。
近くのスーパーに行ったところ、鯖缶は品切れとのことで
今後入荷しても、数は少ないとのことであった。
報道は正しかった。

私の育った信州諏訪の戦後は生きのよい生鯖は
入荷せず、入手できるものは獲れた後何日もたったもので
母が毒消しの山椒の葉を入れた味噌煮にしたものを
食したが体中に蕁麻疹が出来、難儀した、それ以来
鯖は嫌いになり信州にいる間は鯖は絶対食べなかった。

学生時代諏訪に住む医師の従兄弟は子供の将来住む準備として
田園調布に住まいを購入した。
従兄弟の子供達が大きくなり東京に住むまで私と兄が
そこを借りることにした。
その頃の昭和30年代中旬は田園調布にも引き売りの
魚屋がおり新鮮な魚介類が入手出来た。
秋の中間試験と期末試験の時には母が上京して
引き売りの魚屋からまるまる太った鯖を買い、
しめ鯖を作ってくれた。実に美味く鯖嫌いが鯖好きになった。
 
しめ鯖の味を覚えた私は海釣りの好きな兄と鯖釣りによく行った。
その時は塩、酢プラスチック容器を持参し鯖が釣れたら、船上で
すぐ、さばき、塩で絞め、下船時に塩で絞めた鯖を酢につけて
自宅に帰ると丁度いい具合にしめ鯖になっていた。
それは例えようのない旨さだった。

昭和40年和歌山の有田の東亜燃料の和歌山工場に1ヶ月
研修にいった。工場の近くに研修宿泊所があり、夜になると
宿泊所の近くに屋台が来て、和歌山の種々の料理を売っていた。
その中に船の形をしたバッテラ寿司があった。
その寿司は大きな鯖の押し寿司であった。
脂ののったバッテラ鯖寿司の味は初めてで、世の中にこんな
味があるのかと驚いた。

2年前、恵比寿にある鯖料理専門の「とろさば専門料理店、”SABA"」
に行った。大阪福島出身の若い料理人が鯖料理だけを扱う居酒屋の
”SABA"を大阪福島でオープンさせたところ大成功で現在各地に
店舗を広げているようである。
店主は全国をまわり、最高の鯖だけを提供するのが使命と
考えたいるようで、どの料理も最近味わった料理の中で
最高級の一つである。

鯖は美味しい魚である、人生を豊かにしてくれる。 


























 

gomi123211 at 14:50|PermalinkComments(1)

2018年12月12日

園児達の可愛い声

園児達の可愛い声

自宅から150m以内に2ケ所の保育園が
ある。

今日も雨があがった後園児たちの可愛い声が
聞こえてきた。
心を安らがせてくれ、元気にしてくれる、
天子達の贈り物だと嬉しくなる。

これらの保育園にはよちよち歩きの園児から小学校入学を
まじかの園児までおり、それぞれの年齢に応じた
話し声があり、耳を傾ける楽しさがある。

これらの園児達の未来での活躍の可能性は無限にある
と思いながら園児達の毎朝の散歩時間を待つこの頃である。

gomi123211 at 14:43|PermalinkComments(0)

2018年12月07日

喪中はがき

喪中はがき

今年は例年より多くの喪中はがきが届いて
いる。昨日時点で35枚にもなっている。

4,5年前までは多くはご両親の喪中であったが
今年は配偶者、ご兄弟のものが大半であるが、
会社の同僚であった方々や学生時代の
友人達のものも含まれるようになった。

自分が高齢に置かれていることを自覚した。

gomi123211 at 16:05|PermalinkComments(0)

2018年12月01日

組織のトップー3

組織のトップー3

カルロス ゴーンが日産の業績をV字回復させた
事についてマスコミはじめ評論家達が過剰評価
しカリスマ名経営者として奉っていたように思えてならない。

2万人の社員を退職させ主力工場はじめ多くの施設を閉鎖、売却すれば
業績はV字回復する。これは誰でも出来る手法である。
日産の当時の役員が誰もせずゴーンに頼んだのは実に情けない
ことであった。
ここで問題なのは、退職させた(首を切った)社員達の生活を守る
手立てをしなかったことだ。最近知ったことであるがリストラさせられた
社員が安定した次の仕事に就くことが出来ず生活保護者に
なっているとのことだ。ゴーンの名声を国民の税金で支えたことに
なる。

私もある会社でリストラをした経験があり、リストラを行えば
V字回復することを実際に経験している。
リストラした社員の生活を守れるようにする手立てに
努力と時間を要した。

会社や他の組織のトップで最も大切なことの一つに後継者を
育成し、長期体制で淀みが起きないように後継者に襷を
渡すことである。
ゴーンは後継者を作らず、むしろ排除しているように
思える。











 

gomi123211 at 11:15|PermalinkComments(0)
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