March 03, 2006

近代短歌の歌人、斉藤茂吉の愛弟子・佐藤佐太郎は幼年時代に北茨城市で過ごした。

平潟小校歌碑

大正から昭和にかけて活躍した近代短歌の歌人で、斉藤茂吉の愛弟子としても知られる佐藤佐太郎は師茂吉の影響を強く受けながらも純粋で鋭利な自己の世界を確立し、晩年は、現代歌人協会理事や宮中歌会始選者、「毎日新聞」歌壇選者などを努めた日本短歌界の第一人者である。‥‥その佐太郎の幼年時代を北茨城市平潟町で過ごしている。
そんな関係からか、佐太郎は北茨城市立石岡小学校、同平潟小学校、同富士ヶ丘小学校と同常北中学校・日立市立多賀中学校そして、県立高萩高校の校歌を作詞している。
しかし、歳月が流れた今、地元の人さえ、そのことを知っている人は極めて少ない。

◎佐藤佐太郎の生涯
佐藤佐太郎(1909〜1987)は、明治42年11月13日宮城県柴田郡大河原町福田で農業を営む父源左衛門、母うらの三男として生まれた。
幼児期に父母と共に茨城県多賀郡平潟町(現北茨城市)に移り、少年時代を平潟町で過ごしている。
学校卒業後の大正13年、16歳の佐太郎は次兄を頼って上京、翌年岩波書店に店員として勤めた。
その頃雑誌「改造」に掲載されていた斉藤茂吉の「竜馬子房雑歌」を読み短歌に感心をいだくようになった。
大正15年には「アララキ゛」の会員となり第一歌集「歩道」を刊行している。昭和2年(19歳)にアララギ発行所を訪ね茂吉の門下生になった。
やがて同門の山口茂吉、柴生田稔らとも交遊を深め、多く歌を詠んでいる。昭和12年4月に「短歌研究」に発表し昭和15年7月には「新風十人」(八雲書林)にアララギ系からただ一人選ばれ、150首もの作品を持って参加し“アララギの新鋭”として注目された。
同じく昭和15年9月には処女歌集「歩道」を上梓、私生活でも昭和13年に結婚した伊森志満との間に長女啓子も誕生し、充実した時期を送った。しかし、戦争末期の昭和20年〜25年にかけては空襲で家財を焼かれたり、岩波書店を退職し、自分で図書出版をやろうと起した「永言社」が失敗し、多事多難の数年を過ごしている。
昭和25年〜30年にかけては、師である斉藤茂吉の全集や長塚節全歌集の刊行に取り組み、自らも27年歌集「帰潮」を出し、第三回読売文学賞を受賞し、翌28年には角川文庫より「佐藤佐太郎歌集」を刊行、同年2月には斉藤茂吉が逝去している。
この年より毎日新聞歌壇の選者を引き受け、短歌文芸の指導普及にも尽力している。
昭和41年、佐太郎57歳の時には、最初の宮中歌会始の選者に選ばれて、以来昭和52年68歳まで大任を果たされた。また当時の美智子妃殿下の御歌の相談を賜るなど、晩年は皇室と深く係りを持ち、名実共に日本を代表する歌人として、第一回現代短歌大賞や日本芸術院賞などを受賞している。また、昭和58年には日本芸術院会員にも推挙された。
このように繊細で抒情豊かな描写力で、日本の短歌界に新しい息吹と活力を送り込んだ叙情歌人・佐藤佐太郎は昭和62年8月8日東京の自宅で77歳の生涯を閉じている。
※タウン誌「ジョイフル」(1994.6月号)参照

後記
佐太郎は、歌人・斉藤茂吉に師事、晩年は現代歌人協会理事、宮中歌会始選者、毎日新聞社歌壇選者など努めた日本短歌界の第一人者であっにも拘らず、当市出身の童謡詩人、野口雨情のように何故著名でないのか検証すると‥‥。
まず、佐太郎は、活気溢れる人間形成の大事な幼年時代を平潟で過ごしたが、貧困生活のため上級の学校には進学しないで、16歳の時上京してしまう。
偶に平潟に帰っても、故郷(ふるさと)は、佐太郎を迎える“暖かい座布団”はなく、親兄弟も平潟尋常高等小の友達も迎える余裕が無かったようである。
佐太郎も“貧乏”が負い目になり、心がふさがれて故郷に帰ることが少なくなったことと思われ、平潟生活の少年時代を想う歌は、皆無のようである。
又、行政(北茨城市)も、佐太郎の活躍を知っていなかったのか、称える「顕彰碑」「歌碑」などを作ることもしなかった。
もし、最初から“暖かい座布団”で佐太郎を迎える環境であれば、故郷を想う歌が沢山出来ていて、北茨城市は、野口雨情の故郷と共に佐藤佐太郎の第二の故郷としても付加価値が加わっているであろうと思うと返す返すも残念である。

ブログ管理人・れいなじ

gomitaro1145 at 17:48│Comments(0)TrackBack(0)clip!北茨城市の歴史 

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