たとえば、
とある有名なカップ焼きそばを
食べたくなったときは要注意です。
まあ、
これは僕たち夫婦に限ったことですが、
あれを欲するときは気づかぬうちに
体調を崩していることが多いのです。

 

(↑とある有名なカップ焼きそばの図)


これは
ほんとうに不思議としか言えません。
体調を崩すとわかっているのに
なぜ
そんなものを欲するのか?
しかも、
もともと体調が悪いはずなのに。


もちろん、
これに答えは用意されていないのですが、
僕たち夫婦はこう考えてみました。


①身体に刺激をあたえ毒を排出しようとしている
②体調が悪く、判断能力に瑕疵ができた
③死への欲求が我々を突き動かしている


①は猫がその辺の草を食べ、
毛玉を吐き出すのに似てますね。
②はいかにもありそうに思えるけど、
あまり面白くない見解です。
③はジャンクフードが死に直結してる
みたいな意見ですが、
まあ、面白いとはいえるかな。
また、
②によって③がもたらされることも
あるかもしれませんね。


いえ、
答えのないことなので
この話にも結論はないのですが、
普段食べつけないものを欲するときには
もしかしたら
死への欲求が高まっているのかもしれません。

 

そういうことって
あるように思えるんです。


家の近所をてくてくと歩いていたら、
なにやら不思議な物体が目に入ってきました。


屋根の上に
なにか乗ってますよね。

アップにすると――


きっと換気設備の一部なのでしょうね。
だいぶ年代物のようです。
もしかしたら銅製でしょうか。
トタン張りの全体像からすると
ちょっと異様に思えます。
アンバランスですね。


建物もかなり傷んでます。
たぶん工場なのでしょうが
現在も稼働中なのかわかりません。


しかし、
屋根に乗ったのとは別に大きなエアコンの
室外機もあるし、
それは比較的新しそうです。


ん?
なにか貼り紙がありますね。
室外機の横に
ガムテープでべたっと貼ってあります。


こちらもアップにすると――


は?
マスクをここに捨てないでください?


いやいや、
なんだ、これは。
マスク?
それって、あの口のまわりを覆うアレのこと?
最近、花粉がまってるからよく見かけるアレ?
それとも
一部のプロレスラーが被ってるアレ?


まあ、いずれにしても
そんなものを捨てられたら
そりゃ迷惑でしょうね。
しかも、
こんなもんを貼るくらいだから
けっこう頻繁か、もしくは大量に
捨てられているのでしょう。


もう一度じっくりと見て
考えてみましょう。

いや、
想像できないな。
口を覆うものにしても
レスラーのものにしても
そんなのが頻繁にであれ大量にであれ
同一の場所に捨てられるなんて。


うーん、
家の比較的近くに
こんな事態が持ちあがっていたとは。
東京ってやっぱり怖ろしいとこなんだな。


ちょっと前に
童謡『故郷』を引用してからというもの
(3/13 ふたつの『ふるさと』)
僕はいろんな童謡が
気になるようになりました。

 

もしかしたら
失われていた子供時代の記憶が
よみがえったのかもしれませんね。
つい先日も、
気がついたら『椰子の実』を
口ずさんでいました。

 

『名も知らぬ 遠き島より
流れ寄る 椰子の実一つ

 

故郷の岸を 離れて
汝はそも 波に幾月』

 

これは島崎藤村の詩だったはずです。
柳田國男から浜に打ち寄せた椰子の話を聞き、
それで書いたーーというふうに憶えてます。

 

これまた
うろ憶えですが、
柳田國男の方は同じモチーフを

『海上の道』という本にまとめたはずです
(間違っていたらごめんなさい)。


文学者である藤村は詩に書き、
学者(科学者ではない)の柳田は
考察を重ねたというのが面白いですね。
同じひとつの事実でも受け取る者が違うと
こんなにも異なった結果が生まれるわけです。

 

僕は高校生のときに一時
柳田國男にはまりかけたことがあって
幾つか彼の著述を読んだのですが、
『海上の道』は途中で断念したように憶えてます。
同じ頃、
藤村の詩を読んでもいたので
ちょっと感慨深いものがありますね。
このふたりは友人だったわけですから。

 

ところで、
《浜に打ち寄せた椰子の話》が
友人であるふたりに異なった作品を
もたらしたーーというのも面白いですが、
これって現代であれば
また違う展開になったはずです。

 

柳田が現代風のバリバリの科学者だったら、
きっと打ち寄せた椰子のDNAを調べ
それがどこ産のものであるかとか
同じDNA型を持つ椰子の分布を調べることでしょう。
そうなると、
もう数字と記号の世界になってしまいますね。

 

現代風の藤村は
それでも詩を書くかもしれません
(数字や記号からも詩は生まれるはずですものね)。
ただ、
あの童謡と同じような詩にはならないでしょう。
すくなくとも、
『名も知らぬ 遠き島より』とは書かないでしょうね。

 

想像するしかないことは
そのぶん
力強く言葉を引き出すのかもしれません。
事実をきっちり知ることも重要なのでしょうが、
不確定な要素が残っていた方が
より面白いと僕は思います。

 

柳田國男の著作がそうであるように、ですね。



ほんと

なんとなく気になったといNatur-a豆奶うだけのことですが、
《お坊さん》の勤務時間って
どうなってるんでしょうね。

 

いえ、
僕だってなんのきっかけもなく
そんなことが
気になったわけではないですよ。
近所に護国寺という大きなお寺があって
よく
若い《お坊さん》に出会すので
そう思ったしだいです。


たぶん、
そういった若い《お坊さん》は
修行中の身なわけですよね。
で、
そうなると、
修行中の者にも労働時間の上限ってあるのかなぁーーと
思ってしまったのです。

 

もし仮に
それがあった場合、
彼らはかなり朝早くからおをしているでしょうから
昼過ぎには定められた労働時間を越す可能性がありますね。

 

まあ、
2日働き、3日休むみたいにしてるのかもしれませんが
そうなると
なんか修行っぽくなくなる気がします。

 

じゃあ、
日々残業を強いられてるのか? と思いますけど、
その場合は
『三六協定』を労使間で結んでいるってことになるし、
それもなんだか修行っぽくないと思えます。

 

 

これは《お坊さん》に限らず、
ラーメン屋であろうとプロレスラーであろうと
修行中の方たちにはつきまとう問題に思えます。

「あ? 残業が多い?
修行してるんだから
ガタガタ言うんじゃねぇ!」
などと怒鳴られつつ
過重な労働を強いらのはかわいそうだし、
かといって
定時であがれるというのは
やっぱり修行っぽくないなと思ってしまいます。


もし万が一にもそうでなかった場合は――
いや、
そんなこと考えたってしょうがないですよね。