2013年10月30日

「琴・棋・書・画を嗜むをもって文化人と為す」

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前回の生涯大学:こころの探求」のクラスがあった日、クラスが終了したあとであるご夫人に会って水墨画を一枚頂いて帰ったことは、その頃の記事にそのさわりだけ書いたと思っている。
その水墨画はその人が画かれたもので、その時の会話では「わたしはその絵を軸装するつもり」と言っていたのだが、持ち帰って眺めていると「軸にするには横幅がちょっと大きすぎること」に思い至った。掛け軸の幅にすると1メートルを超えるだろうと思うのだが、そうなると軸だと掛ける場所に適当な場所が我が家には無いと云うことなのだ。やはり額装にして部屋の壁に掛けるのが適しているのだろうと思う。

その絵は水墨画なのだから大部分は墨絵なのだが、一部分に色彩も入っている。渓流に浮かんだ舟の上で囲碁に勤しんでいる2人の人物を書いた絵なのだが、この絵でわたくしが一番気に入っているのは囲碁の2人の部分で、それはわたくしの趣味のひとつとしている部分に通じている。

わたくしの囲碁歴というのは話せば長いのだが、手ほどきを受けたのは小4年の頃で、父親から教わった記憶がある。その当時、その囲碁に興味を持ったわたしが余りに傾倒するのを見て父親は碁盤を家からなくしてしまって、そのままになるのだが、あとは学校を出て会社へ入ってそこの独身寮で始めることになる。
当時寮生が100名ちかく居られた独身寮というのは色々な特技をお持ちの人がいて、いつしか私も碁石を持つようになった。ハイキング、スキー、登山、ダンス、レコード音楽、テニス、野球、麻雀とか文化面の茶とか謡曲、詩吟などのあらゆるレクレーションが可能だったように思う。

冬はスキーとか夏は登山とかのほかは麻雀なんかも覚えて時々は牌を持つようになったが、やがて賭け事には向いてない性格に気付いて次第に疎遠になるのだが、冬のスキーと夏山の登山は大分と本気でやったと思う。わたしにはそのほか、学生時代を飾ったバドミントン競技という本職の趣味があったのだが、それはまた別の機会に書くことにして、ここは囲碁に特化して書くことにします。

独身寮で囲碁を習ったと言っても、全然話にならない時代が長くて、40才を過ぎる頃になってもまだ5,6級くらいの棋力だった筈で、あまり上達もしてなかったと思う。会社のひる休みに当時2段くらいの実力をお持ちだった古谷部長に声を掛けられてお相手をさせてもらったり、また職場同僚たちを相手に打つようになって次第に上達しだすのだが、初段近くになってから「初段格に到達」するまでは、また仲々の時間が掛かったように思う。

25年間勤めた設計課から転課などがあって、昼休みの囲碁の相手も替って、当時初段くらいの人と打っていた時に、そのわたしの対局をそばで見ていた、当時会社では一番強いと言われていたT5段が私に「もう初段と言ってもいいよ」言ってくれて、わたくしもやっと初段格に到達出来たのであります。その時にはもう50才くらいだったと思う。それ以後に日本棋院の免状も頂いたのだが、会社時代はそれ以後はずっと初段で打ち通した。日曜日には市内にあった大きな碁会所へ通って腕を磨いていたのもこの頃で、あの碁会所は現在はなくなってしまって久しい。

会社を定年退職してからは近くの市立公民館文化講座の初級囲碁教室へ入れてもらって、当時そこで講師をされていた梶原四段に付いて4年間ほど教えを受けたのだが、その講師先生もご家庭の都合で関東へ去られて、その時に梶原先生は「あとは君が講師としてやってくれ」と言われて、それ以後はわたくしが初級囲碁教室を切りもりさせて頂いている。現在は三段格まで上達していると思っているのだが、これに固執している訳ではない。

囲碁という遊びの歴史は古く、中国では紀元前の頃から行われていた筈で、日本でも奈良時代には既に行われていた。記録にある話では、遣唐使として2度の入唐した「吉備の真吉備」は当時、長安にある時に囲碁の勝負を挑まれて対局した、という話が伝わっているくらいだ。この時に囲碁を知らなかった真吉備は一夜にして囲碁に精通してその対局に臨んで勝負に勝ったといわれている。
「琴・棋・書・画を嗜むをもって文化人と為す」というのは知る人ぞ知るフレーズであり、この中の「棋」というのは囲碁のことであり、「画」というのは絵画の画であり、本来中国では「水墨画」のことだろうと思う。「琴」と云うのは中国では「一絃琴」のようなもので、一般的には「音楽」を差し示す言葉だろうと思う。

今回の写真はわたくしのゴルフ仲間のひとつである「月曜会」という仲間の人々なのだが、長くこの会の会長をしていられた宮原先生は昨年2月に亡くなってしまったのだが、前列中央にいてVサインをしていられるのがその人で、今回わたくしが頂いた水墨画を書いたご夫人はその宮原会長の奥様であります。







  

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2013年10月28日

町内のある出来ごとに思う

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庭の秋明菊の花びらが散って白く地面を染めている。ゆらゆらと風に揺れるこの花はコスモスの花に似ていて、写真に撮るにはむずかしく思う。今日の写真にある紅い花は季節知らずの薔薇なのだが、この花は年中いつも咲いているような感じがしている。

先日、家の前のグリーンベルトに自治会が植えて管理している花壇のマリーゴールドの終末時期に大量の毛虫が湧いていて、わたしが外出から帰ったら燐家の人がその対策に困っていられた。花壇から市道を渡って家の垣根や塀を登って敷地の方へ大量の毛虫が入って来ていた。それを取り除いたり道の上で踏みつぶしたりしていたが、毛虫の方は大量でラチがあかない。
私は意を決して自治会長宅へ行って「対策」をお願いした。あいにく会長は外出していて不在で会長の奥様が出て来られて話を聞いてくれたが、奥様は「毛虫」と聞いただけでアタマが白くなっていたようで、話にならない。

わたし「あの花壇は自治会のどの部署が管理しているのか?」と訊いたが「?」で、またわたし「環境衛生ですか?」と訊くと「いえ」と言ってアタマを左右に振られた。けっきょく、問答の末「花よし会」という趣味の会が管理しているとの事であったので、わたし「すぐに対策をとって今日中に片付けて欲しい」と云って帰った。
しばらくして花よし会会長宅へ連絡が行ったらしくて、しばらくすると会長をしているО氏が殺虫剤が入っているらしい器に付いている片手で操作する噴霧器を持って現れて薬剤を播いていたが、なにしろ花壇は250メートルの長さがあり、植わっている花は3500株もあって小さい噴霧器でシッュシッュと播くくらいでは「二階から目薬」のようなもので効果は全然ないのが分かったらしい。

「どうされるのか?」とわたしは黙って見ていたのだが、会長のО氏は無言で何も言わずに去った。花壇沿いのお宅では毛虫の襲来に困っている状況に変わりはないのだが、やがて日暮れになってから会長のО氏がまた来られて、ひとりで花を抜いて撤去しだした。誰もそれを見ていても手伝う人はいない。わたしもそれを見ていたのだが、会長の行動は無視して手伝う事はしない。花壇に沿っているお宅の人々は一見して冷たい人のようだが、これには浅からぬ因縁があって、元々そこに花を植えて花壇にするのは色々と問題があって反対している人々なのだ。それはわたくしも同じであり、花壇に協力する奉仕作業なども拒否しているのは皆さんと同じなのだ。

現在花壇になっているその県道沿いグリーンベルトは元々は街路樹が植わっていて好環境の印象だったのだが、その街路樹を伐採してしまって手間暇のかかる花壇にしてしまって現在に至っている。今回の毛虫騒動勃発で、その花壇を今後どうされるのか?知りたいところだが、わたしはこの件に関してはこれ以上何も言わない。
問題はあの大量の毛虫発生の元になったタマゴは何処にあったのか?という事なのだが、わたしの感ずるところでは「花壇の土」に問題があるのだろうと思える。「このところの異常気象によって発生した」などと言ってはいけない。わたくしは元々「異常気象」などという考えはしてなくて、「暑いも寒いも日照りも大雨も」大むかしから続いている現象であり「異常気象」などと言って「異常」を付けて言う事によって済ます風潮が好きではないのだ。
今年の春に花壇にすき込んだ大量の堆肥土に毛虫の幼虫となるタマゴが大量に混入していたのが、この時期に適温となって毛虫に成長したのが今回の毛虫騒動の原因だろうと、わたしは思っている。

先の土曜日も恒例の土曜日ゴルフ練習ラウンドだった。台風27、28号は幸いにして列島沖を大きく東にそれて、土曜日は夜来の雨もあがって、朝から日差しもある秋日和だった。ホームコースとしているゴルフ場も来場者は多くて、比較的混んで待ち待ちのラウンドだったが、そこはいつものペースで楽しいゴルフが出来た。
スコア的には出足のОBで、一日が危惧されたが、それでも前半を47で折り返して後半のプレーに期待した。
後半も大体はいつものペースで進行出来ていたのだが、上がり3ホールになって7番(416y-par4)で50センチのパットを外して6にしてからリズムを崩して、次のパー5のホールが8となり、最終ホールも6となって、後半は51となってしまった。ショットは好調なのだがパットで5つ,6つくらいのスコアを損しているラウンドが続いている。




  
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2013年10月25日

「我聞」のこころ

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このところ相次ぐ台風の襲来で日本列島は壊されつづけている。先の26号では伊豆大島が直撃されて、大雨の被害によって50人近くの尊い人命が失われた。その捜索がまだ続いている内に今度は27号28号のダブルで、また伊豆大島が本邦唯一の被害地になる事態が予想されている。巨大な台風による雲の渦はきのうから列島全般に雨を降らせているし、今回は二つの台風が近接して進んでいるので互いに影響しあって、その進行速度がおそくなって長時間雨を降らせ続ける予報もある。
日本列島をこれ以上被害列島にしないで欲しいと思うのだが、こればっかりは自然現象でどうしようもないと云う思いが強いが反面では「災害に対して強靭な国土建設をして欲しいものだ。

今朝は4時前に眼が覚めてそのまま起床してパソコンの前に来てこのブログを書いている。外は昨夜からの雨がつづいている。パジャマの上に羽織って前のコンビニへ行ってカップのコーヒーを買って帰って飲みながら書いている。時々はコンビニのコーヒーにするのだが大体は家でコーヒーは煎れる。だけど7-11のコンビニコーヒーも悪くないから面倒くさい時にはコンビニへ走る。150円で紙製ラージカップのコーヒーを入れてくれる。それを持ち帰っているのだが、持つ手が熱くてこぼしそうになったりするが、これは早朝の場合に限る。

きのうは木曜日で午前中は公民館で囲碁教室があった。対局では初戦で1級のAさんと当たり3子局であったが10目ほど負けた。2局目は2級のKさんと当たって4子局ではあったが7目ほど残せた。このAさんもKさんも女性棋士なのだが、共に初段となるのを生涯目標にして来られていて熱心である。対局後に「良かった手と悪手があれば」それを指摘していく。「教えることは教わる事」でもあり、わたくしも3子局、4子局の打ち方を懸命にこの方達から習っているのであります。

3局目は初段のYさんと当たった。2子局で打つのだが、この方は初段だけに打たれる石に力があって、仲々一筋縄ではいかない。打たれる石に相当の意思がこもっていて、それを読まないと勝負にならないのだ。事実2子ではよく負けるし「今度負けたら相手の黒先」に手合いを変えようと思っているのだが、仲々そうはならないのが囲碁で、現在でも2子局になっているのだ。
きのうも激しい攻め合いは続いて、それは初めから終局までずっと続いた。その息付く間もなく戦いがつづくのが囲碁の面白いところで、打っていて「ぞくぞくするような」快感でもある。きのうは結局終盤にわたくしの中押し勝ちとなって終わったのだが、そこでもう昼前になって教室も終わった。

先日の火曜日は、前にも書いていたと思うがゴルフで、神戸市北区にあるロータリーゴルフ倶楽部まで遠征した。「遠征」といえば格好いいが、「遠くへ行った」のは事実だが「敵を征したか?」と言えば、それは成らなかった。返り討ちに会った思いだ。20人ほどのコンペだったのだが皆さんはわたくしよりも上位に居られたのだからやっぱり「返り討ちに会った」と云うのは事実だろう。

参加賞を頂いて帰ったのだが、そのずっしりと重い参加賞は開けてみると「我が故郷の珍味」とも言うべき「ママカリの酢漬け」と「ママカリの甘露煮」だった。わたくしの家内も岡山人だから、この参加賞は家内をも喜ばせた。幹事さんの気配りを褒めながら、早速夕食の一品となって賞味させて頂いたのだが、「ママカリ」というのは備前・岡山の特産品で、他ではちょっと手に入らない。それもこの時季の旬の味である。「ママカリの酢漬け」というのは岡山人には堪らない「懐かしい味」なのである。それをわざわざ故郷の業者から取り寄せて、参加賞として全員に持たせて帰らせた幹事さんの気配りに、幹事さんのお人柄を見た思いでありました。

先日の生涯大学に登校した時に図書館で一冊の新書を借りてきて読んでいる。岩波新書「孔子の時代」と題している本なのだが、「論語」という孔子と弟子たちの会話語録を残している「孔子」が生きた時代の風景と背景を書いたものである。
「孔子」の生きた時代というのは中国の春秋・戦国時代、西暦にすれば紀元前550年頃のことである。中国歴代王朝でいうと、殷から周に代わってそのあと秦王朝になるまでの頃である。「魯」という小さい国があって、そこに孔子は生まれている。この頃の中国では「魯」という国とは云え、それは城壁に囲まれた都市国家に過ぎず、「国」と言っても「広い国土と国民」を有する大国ではなく、そのような都市国家が点在していた頃だ。それを統一して中央集権国家にしたのが「秦の始皇帝」であって、それまでの都市国家が林立していたのが「孔子の時代」と言える。ここまではこの本を読んでのわたくしの受け売りであり、けっして私の知識と云うようなものではない。

ここで「突然に何故孔子なのか?」と言えば、生涯大学の学部「こころの探求」では6月、7、9月のテーマが「論語」だった。その講師は岡山大学教授:木下鉄矢先生で、短い期間だったが「論語」に付いて学んだのだが、何分6回だけの講義だったので短かすぎて充分ではなかった思いがある。「論語」だけで一年間くらいは必要だったかもと思えるし、それが3ヶ月で終わったものでその補足の意味もあって「孔子の時代」を読む気になったものだ。
その「論語」につづく10月からのテーマは「維摩経」という大乗仏教に属する経典の未読で、これは澤田謙照師の講義を受けている。仏教の知識と云うのは全て「我聞」という言葉が入るらしいのだが、これは「自分は〇〇から聞いた」と云うのが前提で、〇〇というのは釈迦であったり先達の師から聞いたと云うのが正しいと云うことらしい。
「これは自分が発案したとか発明した」と云うと争いの元になるが、「我聞・・・・・・」と言うとそれがなくなる。という事らしい。
話は元に戻るが、「孔子」に関する話題などはわたくしが自分で調べ確かめた事実など何ひとつ無いのだから、すべて「受け売り」もいい所ですので、もしこれを参考にされるのなら「我聞・・・・・」と前提を入れてお話くださるようにお願いしておきます。



  
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2013年10月23日

「こころの祭り姫路」は11月11日です

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きのうは神戸市北区にあるゴルフ場まで行ってゴルフの遠征をしてきた。「遠征」と云うと「遠くの敵を征す」というような意味なのだろうが、きのうコンペは母校の同窓会・関西一円の集まりである「おいまつ会・関西部会」が主催した大会で、けっして「敵」というような相手ではない。
わたくしは初対面であったが、昭和25年頃に卒業された80才を超える先輩方から、若くても64〜65才くらいまでの言わばベテランゴルファーの方々で楽しい雰囲気でゴルフが出来た。

初めて廻るコースは36ホールを有する本格コースでかなり難コースであり、特にグリーンは速く、またラフの芝は腰の強い芝で、ラフにボールが行くと抵抗が強くて長いクラブではとても球が飛ばなかった。
グリーンは起伏に富んでいて難しく、たとえパーオンしても3パット、4パットの連続でパーセーブは難しかった。皆さんも二桁スコアで廻られたのは5人だけで、あとの方は皆さん三桁スコアを余儀なくされていた。かく言うわたくしもその内の一人であったのだが。
ラウンドを終えて風呂で汗を流したあと懇親会があり、初顔のわたしは最初に自己紹介のスピーチをさせて頂いた。成績が成績だったのであまり自慢は出来なかったが、それでもユーモアを混ぜて3分間くらいはしゃべらせて頂いた。在学中は隣クラスに居られて顔見知りだった人もいたり、またお名前くらいは覚えていた人もいて楽しいひとときであった。

今回の写真は、先の伊豆旅行の際に立ち寄って観光した「下田の了仙寺」の山門脇に立っていた案内看板である。幕末にアメリカからこの下田沖に黒船四隻で現れたペリー提督一行との修好条約調印などの会場になった寺院なのだが、あとは写真の看板を読んで頂く通りであります。了仙寺は現在は日蓮宗の寺なのだが、下田の町を代表する観光施設の一つで、わたし達は下田開国博物館に所属している観光ガイドさんに連れられてこの寺へやって来てその説明を頂いた。ペーリー提督来航時には一行の宿所としても使われたそうで、乗組員たちの行進などで町は大騒動だったそうである。
下田の町にはほかに当時アメリカへ密航を企てて黒船へ乗り込んだ「吉田松陰」を記念する場所に石碑が建てられていて、吉田松陰を観光資源のひとつに取り上げているようであったが、観光ガイドさんの説明では吉田松陰に関しては、「密航に失敗した後に松下村塾を開いた」等と、説明に誤りが多かった。

この土曜日から仙台では今年のプロ野球日本シリーズが始まる。今年はパリーグを制した「楽天」とセの王者「巨人」の戦いであり、これは「星野仙一VS原辰徳」の意地を掛けた争いとしても見ものである。また、実績ある杉内、内海をはじめとする巨人投手陣に対する楽天打線の対決も見ものであり、更にシーズン無敗の田中将大
を村田、阿部、坂本などの巨人強力打線が打てるか?というのもシリーズの勝敗をにぎるカギになるのだろう。
その上に、楽天・星野仙一には現役時代からの「打倒巨人」という大目標があるのだから、その戦いぶりは興味をそそる。
一方の原辰徳にしてみれば、かって2003年のタイガース優勝時にタイガース監督であった星野仙一から「肩を叩かれて慰められた屈辱」が原辰徳にはあるはずであり、今回はそれを晴らす絶好期でもあるはずで今年の日本シリーズは面白くなりそうである。

姫路市の公益財団法人「姫路市文化国際交流財団」が主催する行事である「こころの祭り姫路」という祭りが今年も行われる。先日、地域の市立公民館で囲碁教室を終えて帰るときにフロントで頂いた案内パンフレットによると、今年も例年通り11月11日に開催される。
この「こころの祭り」と云うのは、市内にお住いの有志の方々がそのご自宅を開放されて会場としてひらく「祭り」で、今年は第22回目になる。「祭り」として何を行うか?なのだが、それはその有志の方によって色々である。例えば「写真展」であったり「手工芸品の展示」であったり「能衣装の展示」とか「ミニコンサート」であったりで、ご自分の得意とするレパートリーを当日開示される。
今年は32人もの有志の方が応募されており、市内各地にお住いの方々がそのご自宅を会場として開かれるので、参加を希望する市民は誰でも参加して楽しむことができる。もちろんすべて無料である。

このブログに時々登場するМさんはこの祭りの第1回から開催されている最古参のお一人なのだが、今年もその美しいお声を「ミニコンサート」で聴かせてくださる。このМさんはプロのオペラ歌手として活躍されている人であり、約1時間のコンサートはほんとに価値ある企画といえる。昨年はМさんのほかにフルート奏者をゲスト奏者として招かれていたが、今年もゲスト奏者も入ってのミニコンサートが計画されているようで楽しみであります。
詳しくは市立公民館などで配布されているガイドマップを参照して当日お好みの「こころの祭り」をお愉しみください。




  
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2013年10月20日

謹しんでお詫びして訂正させて頂きます

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今回の写真は先の伊豆旅行で行った修善寺の町にある「修禅寺」という古い寺の境内で撮った風景である。この修善寺という町は温泉地でもあるが、この寺があるからこの町名が付いているように、この寺は町の重きをなしているように思われる。
先に書いた記事「伊豆旅行第2日目」で私はちょっとした、とんでもない思い違いをしており、読者の皆様に訂正とお詫びをしなければならない。
それは「伊豆の踊子」という川端康成の小説の物語は、此処「修善寺からスタートして始まる」と書いてしまった事で、これは根本的に間違っていました。正しくは、この小説の始まりは「伊豆・湯ヶ島温泉」から始まり、天城峠を超えて下田港から汽船に乗ってかえって行く、川端康成が一高の学生時代に伊豆旅行をした経験を元に書かれたもので、そのときに湯ヶ島温泉で出会った旅芸人一行との絡みをストーリーに書かれたのでした。

わたしが書いた記事の誤りを気付かせてくれた発端は、先日の木曜日にあった生涯大学「こころの探求」の教室でクラスメートのМさんが持参されていた新聞切り抜きで「映画の旅人:時は流れど息づく面影:伊豆の踊子」を頂いて帰って、よく読んでみると、その小説のスタートは修善寺ではなく湯ヶ島温泉という事がわかった。まことにお恥ずかしい限りで申し訳けなく、謹しんでお詫びして訂正させて頂きます。
この「伊豆の踊子」という小説は過去6度映画化されているそうで、そのヒロインの踊子・薫を演じたのは「田中絹代」「美空ひばり」「鰐淵晴子」「吉永小百合」「内藤洋子」「山口百恵」の6人だそうである。わたくしがこの映画を観たのは「吉永小百合版」だと思うが、それでもそれは1963年に撮られているからもう50年も昔のことになる。

その日Мさんから新聞切り抜きを頂いての帰り道、生涯大学キャンパス内で、もうひとりのМさんと会った。そのМさんとは?、わたくしのゴルフ友達として数年間ご一緒にゴルフをしていて昨年2月に亡くなってしまった人の奥様で、現在は隣の好古園大学で水墨画を習っている人なのである。ご主人の葬儀に行ってお会いして以来、長く音信がなかったのだが、先日イーグレ姫路の個展会場で水墨画展を見ていて偶然にその作品を発見して驚いたことでした。額に入ったその作品を「ご主人の形見として私に譲っていただけないか?」とお願いしていたのが実現して、その日その作品は私に手渡されたのでした。その日公民館の予定で帰宅を急ぐわたしはその日Мさんとお茶一杯飲む間もなく、絵を受け取ってすぐ帰ったのだが、頂いた絵は軸装でもして記念にしたいと思っている。

今月は5日の土曜日のゴルフは休んで、12日の土曜日まで跳んだのだが、それ以来、中3日で16日、それから中2日で昨日19日、さらに中2日で22日、また中3日で26日㈯とゴルフの予定がつづく。身体的にはそれほどハードに感じることもなく、スコアはともかくプレーは楽しく体調も悪くない。疲れもそれほど感じなくて快調である。
しかしそのゴルフをするマネー面では年金しか糧を得る手段のない自分には、今どきのゴルフでいくら安く遊べると言ってもサイフは逼迫して来る。

出来る対策としてはゴルフをする事以外には出来るだけカネを使わないことだ。例えばゴルフ場での食事時にはビールや酒などアルコール類や一杯400円もするコーヒー等は飲まないとか、賭けなども一切しない。70才を過ぎると免税になるゴルフ場利用税の申告は忘れないようにやる等、節約に努めることになる。ゴルフ場では正しく、正規の利用料金以外の支払いは生じないよう心掛けている。

また、消耗品とも言える「ゴルフボール」も1個が700円くらいはする一流ブランド品などはわたしは使わない。大体は雑貨品店で銘柄の揃っているロストボールを買って使っている。私が使っている銘柄は「ナイキ」のマークが入った舶来のロストボールなのだが、これだと1ダースが1000円くらいで売っている。「ナイキ」のボールだって新品を買うと1ダース3500円くらいはするのだから高級品なのだが、「舶来のロストボール」と云うのは一見して新品のように見えるし、銘柄が揃っているので新品とあまり変わらなく見える。多少の見栄もあるのであります。
だから私はゴルフ場でプレー中に拾ったロストボールなどは使わない事にしている。

この時期、ハリマの各地では「秋祭り一色」であります。有名な「灘のけんか祭り」と云うのは先週の日曜日だった13日に雨の中でも行われたようだが、このところ毎日のように「神輿の写真」が新聞に載らない日はない。毎年のように各地の神輿が何十年ぶりかの新調されているようで新聞で豪華な神輿の新調が記事になる。
わたくしの友人Tさんが住まわれる高岡神社のある西今宿でも今年は神輿を新調されたそうである。神輿一基5000万円くらいは掛かるらしいのだが、それを地域住民の寄付金を集めて賄ったそうである。友人のTさんは地域でその役に当たっていて、昨年から今年にかけて地域内に寄付を求めて廻られたそうで、そのお話によると「イヤーお金と云うのは出そうな所からは意外に出なくて、出そうもない処から出て来るもの」だそうである。

Tさんの苦労話をそのまま書くと、その地域内には一部上場の立派な企業もあって、前もって大いに期待してお願いに行ったのだが、そこからはゼロ解答しか出ず、また立派な病院もあったのだが、そこからも予定額にはほど遠いものしか出ずに困ったそうである。また、ある個人経営の事業家をお願いに訪れたら、あらかじめの期待額を訊かれて忌憚なく言ったら、その倍額ほどがポンと頂けたとか。全住民所帯を対象にお願いに廻ったのだが、どこでも「役員のあなた方は幾ら出すのか?」を訊かれて、Tさん達役員さんは「1本」と言わざるを得なかったそうである。しかしTさんのその言葉は何か誇らしげでさえあった。


  
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2013年10月17日

伊豆大島の台風被害お見舞い申し上げます

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先日から国会が始まっている。安倍総理の所信表明があって、きのうから海江田民主党代表による代表質問があって、論戦もスタートする事となる。昨年末にあった総選挙の結果、大きく議席を減らして政権の座から転落した民主党に代わって自公連立内閣となって、久し振りに開かれた国会である。きのうの海江田代表による質問も,何処か砂を噛むような話ばかりで、聴いていて「民主党も点数を下げたものだ」という感じがする。それに答える安倍総理の「自信満々」の答弁を聴いていると「自民党もよくもここまで」と、その復権ぶりが頼もしい感じである。

自民党も野党転落の時期を経て、一層逞しさを増した感じであり、国民世論調査による内閣支持率も依然として60%台を記録していて、何処と言って陰りはないようだ。このところ一部の新聞なども「野党の弱体化が問題だ」とばかり社説などに書いている。
かと言って、アベノミクスによる「日本復活の兆し」も、かっての戦後高度成長の時代に還れるわけでもなく、政府は「1000兆円の巨額に積みあがっている借金を背負って」の苦しい行脚が続くことを忘れてはならない。消費税率を来年4月から8%、さらに平成15年に10%に上げる事にしているのだが、10パーセントにするのも構わないと思うのだが、その増えた税収を何に使うのか?を「はっきりとさせて欲しい」ばかりでなく、増えた税収をただ「福祉以外には使わない」だけでなく、「1000兆円の借金は何年後にはこれだけに減らせる」と、借金の返済計画でも示して欲しいものだと思う。それでなくては国民は、「日本も何時かってのギリシャのようなデフォルトに墜ちるか?」とビクビクしながらの気分から抜け出せ得ないのだ。

今回の写真は、先の伊豆旅行で行った下田の街にある「土佐屋」という看板の出ていた店である。店の表構えだけ見ていると、古い店と言うのは分かるが「何を商っている店なのか?」は分からない。その名の「土佐」というからには幕末の頃の土佐藩と何か関係があって付けられた名前なのかと思う。下田と言う街は幕末の頃の「黒船来航の街」であり、「日米修好条約が締結された街」でもあり、この土佐やという店を見ていると当時の日本国内の不穏な政情を思って「土佐勤王党のうごき」などを連想してしまうのだった。
もっとも、この土佐やの商いを街のガイドさんに質問したら、それは「唯の呑みやさんですよ」と言われてしまって、実に呆気ない幕切れだった。

「土佐屋」という屋号でもうひとつ思い出すところがある。今から50年ほども昔、わたくしがまだ20才頃の話なのだが、伯耆の大山寺にあった(今でも営業されているかも知れないが)旅館で「土佐屋という小さい旅館」があった。ある年の5月の連休に私はこの旅館に滞在してゴールデンウィークを一人で過したことがあった。その旅館に滞在して、朝早くにトレパンを着て横手道を5キロほど走る事と、天気が良ければ大山に登るのと、近くを散策して歩くほかは何もしないで、唯寝るだけだった。旅館は当時のことだから木造の古い建物で、歳とったおばあさんが経営していたようだった。滞在2日目くらいから客の扱いではなくなったようで、食事も普通の、家の食事がそのまま出ていたようだった。私はゴールデンウィークの後に予定されていたバドミントンの試合に備えて走り込みのトレーニングをする為に走っていたのだから、それでも一向に構わなかった。

食事に出される「めし」だけは毎回「お櫃がカラになるまで」食べた。そして寝るだけだった。酒はまだその頃は飲まなかった。滞在最後の日に横手道をぐるっと南に廻って烏が山鞍部の辺りから取り付いて大山主峰を縦走して夏道を下った記憶がある。5月初めだったから、まだ道々には雪が積もっていた記憶がある。大山頂上付近では大学山岳部の人たちがグリセードなどの訓練をやっていた。今から思えばわたしの行動は単独行の上に何の装備も持たない、危ないものだった思いである。
その後のバドミントンの試合では、その走り込みトレーニングをしたお蔭で好成績だった記憶があるのだが、何せ半世紀も昔の古い話であります。

きのうは台風26号が列島沖を東に通過して、当地方では昼から天候は回復した。この台風は関西には何も被害らしいものは無かったが、直撃を受けた伊豆大島では死者10人、不明者50人という大被害を出している。伊豆大島では一日に800ミリを超える大雨が降ったそうで、山崩れ、土砂崩れによる住宅崩壊の被害者だと云う。
誠に痛ましい事で、このところの大雨、台風被害は日本列島くまなくに及んでいて、止むところがない。

伊豆大島の惨状を思うと誠に不謹慎ではありますが、わたくしは予定していたゴルフを予定通りこなして楽しい一日だった。きのうは台風襲来が予測されて予定を中止しようかと思ったが、台風の進路と時間帯を計ると、当地方は午後から天候回復が期待出来た。朝のスタート時間を1時間余うしろにスライドさせて10時前に修正してスタートしたのだが、その頃にはもう雨も上がって風も収まっていた。午後からは青空も見えて仲々のコンディションだった。
同伴メンバーもいつものОB会の人ではなく、きのうは毎年1〜2回ご一緒にゴルフをする方をホームコースに招いて廻ったので、旧交を温める意味で楽しいゴルフだった。スコア的には可も無く不可もなくと云うところで、19番ホールをホットコーヒーで一時間ほどやって帰ったら日暮れ前だった。  
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2013年10月13日

日本国民が「嫌韓」を意識するとき

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昨夜のテレビで知ったのだが、現在日本の「安倍首相と仲良くして欲しい相手」として望ましい人を聞くアンケートに答えた人の割合では、その「48%は米大統領・オバマ」だったそうである。最低は「韓国大統領の朴クネの10%」「中国の習近平はその次」「そしてロシアのプーチンが30パーセント」だったそうである。この度インドネシアで開かれたアセアンの首脳会談では韓国・朴クネの隣の席に安倍さんが居たにも拘わらず、両者は会話を交わすこともなく終わったらしい。今や「世界の安倍」となった日本・安倍首相だが、その男性的魅力は韓国のおばはんには通じないのか、その不感症には困ったものである。

もっとも、この所の韓国のこの態度に日本国民感情の大部分は「嫌韓」の割合を増している。朴クネが国際社会の場で盛んに言いふらしている「歴史認識と慰安婦」に関しても、日本にしてみればその問題は朴クネの親の朴正熙が韓国大統領だった時代に時の政府間で解決済みになっていて、「今頃韓国は何を言っているのか?」と言うのが日本政府の立場であろう。問題はその時(日本からの補償金と援助を受け取った)韓国政府要人がその資金をネコババしていて、韓国国内に対して正当に使われなかったから、今日までこの問題を引きずっているのだろうと思う。
朴クネが今日やっている行動は、韓国という国の恥部を自ら晒すようなもので、まことに恥ずかしい行動だろうと思うのだが、韓国民はこのような「恥の文化」には鈍いらしい。

一方の日本では昨年末の解散・総選挙の結果、自公政権が復活、第二次安倍政権発足以来その政策の宜しきを得て、国際社会に於いても「日本復活の兆し」は目覚ましく、「アベノミクス」も国際的に認知されて来ている。以来の円高是正によって経済的復活の兆しは目覚ましく、企業もやる気を出して、経団連の米倉会長も來春闘では「ベ・ア」を約束する意向を発表するまでになっている。
9月にあったIОC総会では、多年繰り広げていた「2020東京五輪招致活動」が成果を挙げて、マドリード、イスタンブールに競り勝って招致活動に勝利する等、第二次安倍内閣にとっては順風満帆の様相でこれから2020年までの7年間を見通す事となった。

また一方、去る9月末に安倍首相は来年(2014・4月)から消費税率を8%に上げる事を決定している。歴代内閣に於いて消費税率を上げる「増税政策は政権の鬼門」と言われており、これは過去・橋本政権での「3%→5%」や竹下内閣での「消費税創設」で、それまで万全と見えた政権が増税策の為に脆くも崩壊してしまった事例には事欠かない。
しかし、9月末の安倍政権増税策発表後に行われた世論調査では、消費税率上げに賛成する国民の割合が約半数に達しており、今回の税率改定と言うのは「国民の同意の上になされている」政策であり、「安倍政権は増税に成功する、最初で最後の政権」として名を残すことになるのかも知れない。

何はともあれ、来年4月から日本の消費税は8%になるのだが、その翌年2015年には更に10%まで上がる事が予定されている。この10%という税率は妥当な数値か?という事になるのだが、これに関しては色々な考え方があると思う。税率の議論をするときに必ず引き合いに出されるのがヨーロッパ各国税率との比較で、20%前後のこれら各国に対して云々される場合が多い。消費税率の数値は、例えそれが10%になったとしても未だ半分程度に過ぎないのだが、果たしてそれで公正な比較と言えるのか?とわたくしは思うのだが。
日本では近年「社会的公課費」として徴収されている「介護保険等」の増加が夥しい。それにこれは天井知らずで上がっているようにも思えるのだ。この介護保険と称するものを消費税に換算すると何%に相当するのか、わたしには分からないが、相当の高率であろう事は容易に推測できる。
2015年の10%に改定するまでにはそこら辺の国民負担全体と所得に対する割合を出して、その上で世界各国との比較を示して欲しいものだと思うのであります。

今回の記事は固い話題に終始してしまった。終わりにその補足として昨日の土曜日ゴルフの話題を呈しておく。
きのうは前日までの雨もあがって清々しいゴルフ日和であった。今年の夏は比較的雨もよく降ったので、例年のように夏の日照りで芝が焼けて枯れるような現象もなく、、コースは青々とした芝で、特に雨上がりの昨日は気持ちの良いコースコンディションだった。
「ゴルフに行った」と言えば人さまはすぐに「スコアは?」と訊かれるが、日頃やっているわたし達はスコアにはそれほど拘ってないのである。もちろんプレーにはベストを尽くして好スコアに挑戦するのだが、結果にはその時どきの幸・。不運は付きものであり、それは悉くスコアに影響する。
と言うことで、きのうはショートホールの出来がすべてだった。後半ショートの2ホールがどちらのホールも「7」になってしまって、後半のトータルは52というスコアだった。いつも口にする、タラ・レバを言うと、あれがなければ90前後の好スコアも可能だったのだが、きのうはトータル99と云う、辛うじて二桁に収められたゴルフだった。
今月はあと4回のラウンド予定をしていて、特にその内の一回は22日㈫吉川近辺のゴルフ場を予定している。

 (今回の写真は先の伊豆旅行での、浄蓮の滝景色)

  
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2013年10月10日

帰省するときの手土産として何を選ぶか?

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先日久しぶりに市の郷にある「はりま焼き本舗」へ行った。以前は2〜3ヶ月に一度は必ず行っていたのだが、ここ数年は家内が神戸の長男宅へ行っていたので自然と足が遠のいていたのだが、こちらへ復帰してからやっとこの店に行くこととなった。故郷へ帰省するときに手土産として適している「はりまの銘菓を3つあげよ」と言われたら何を挙げるだろうか?
「玉椿」「御座候」と、あとひとつは「はりま焼き本舗のお焼きもち」というのが定番だろうと私は思っている。ここで「玉椿」というのは和風のなま菓子とも言うべきお饅頭の一種であり、かなり格式張っている。それに較べれば
「御座候」と言うのは名前は格式張っているが、その実は、岡山では昔から「夫婦饅頭」と言っている「たいこ焼き」の事で、今でも1個・80円くらいで買えるし、これは今では販売は全国展開していて、主要都市の一流デパートのコーナー等で目の前で焼いて即売されている。熱々の甘い餡と香ばしく焼けたメリケン粉の皮のコントラストが絶妙である。
さてあとひとつの「はりま焼き本舗」の各種であるが、一番一般的なのは「お焼きもち」であろう。これは昔わたしらが子どもの頃に家で旧正月に作っていた「かき餠」のようなもので、これを商品として大々的に作って売っている。
この「かき餠」と言うのは、お餅に黒豆を搗き込んで、それを5ミリくらいに薄切して乾かせている保存食である。食べる時にはこれを火鉢の火などでこんがりと焼いて香ばしいのを熱い間に「ハフハフ」しながら食べる、冬の寒い時季のおやつとして食べていたものだ。
「はりまや本舗」の商品としてはこの「お焼きもち」のほかに「朝日あげ」とか「はりま焼き」という硬せんべいなどがあって、値段からしても手頃な手土産品である。

また、これを商っている店の佇まいが雰囲気を出していて、実に楽しい。住宅街の一角を入った所の前の道路わきに10台くらい駐められる駐車場があって、そこへくるまを止めると前に藁屋根の門がある。2,3段の石段を上がって門を入ると荒い石道のアプローチを30メートルほど歩く。アプローチの左側は孟宗竹藪になっていて、その奥には古い造りの和風喫茶風のかなり広い建物があり、真ん中辺の入口には障子紙を貼った引き戸となっていて、人の気配は余りない。アプローチの右側は広い石庭風の和風庭園になっていて、和風の塀に囲まれている。

アプローチを30メートルほど歩くと店舗の入り口がある。これも古い和風建築風で、入口は障子紙を貼った引き戸だが、これは今風に自動ドアになっていて、ドアにさわると横にゴロゴロと開く。入口の右横には高さ2メートルくらいある大きな備前焼の甕を置いてあって雰囲気を出している。
入口を入ると奥は土間になっていて、土間に木製の台を置いて、その上に商品を並べて売っている。店の店員は全員作務衣風の着物を着てお客の相手をしていると云う、徹底して客の注文をひとつひとつ聞いて接客する古風な商売をしている。

売り場の右奥の広い場所には縁台が3つほどあって、そこでは希望する人にレギュラーコーヒー(ドリップで落としている)が振舞われていて、コーヒーを飲む人は縁台に掛けて一枚ガラスになっている窓越しに先ほど通って入った石庭を見ながら時間を過ごしてコーヒーを楽しむようになっている。
この店には更に凝ったサービスがあって、今回わたし達は色々あって、合計2万円もの商品をここで買ったのだがレジが済んでから店員が云われるには「ぜんざいをお召しあがりになられますか?」と訊かれた。わたし「はい」と云うとサービス券を渡されて「そこの竹藪の奥へお入りください」と言われた。、店を出てその竹藪の奥にある建物へ行って引き戸を開けて中に入ると、そこは沢山のテーブルがセットされてあって、若い女性の作務衣姿の店員がお茶とぜんざいのサービスをしていた。

建物の表側は雪見障子になっていて、外には竹藪があって、竹藪の向こう側の石道のアプローチを歩いて入って来る客の列は続いているほど大勢の客がこの「はりま焼き本舗」に来ているのが分かる。ちなみに「いくら買うとぜんざいのサービスが受けられるのか?」と訊いたら「日によってちがいますけど、今日でしたら6000円以上くらいからです」との事だった。わたし達がぜんざいを食べ終わるまでに、この竹藪の奥へ入って来た客は3組もあったので、この店の繁盛振りが知れるというものだろう。

きのう家内は友達と会うために神戸へ行っていたのだが、わたしはちょっとした要件を済ますために備前市にある法務局へ行ってきた。備前・片上までくるまで約1時間ほどなのだが、この時期これで3回目であった。この要件と言うのは、この春家内の実家では相続があって、少しばかりで、プロの司法書士に頼むほどでもないので相続登記の申請をしてくれないか、と頼まれていたのだ。いくら少しばかりと言っても全然畑ちがいの私にとっては登記申請など初めての事で、そのイロハから法務局へ相談に行っているのだ。きのうは3回目の相談を受けに行ったのだが、いくら簡単に出来るといわれても個別にあれこれの物件を持ち出して行くと、あちらの事務官も呆れて「そんなものがあるのだったらご自分でするのはちょっと無理と思われますから」と言って「専門の土地家屋調査士を探して処理してもらいなさい」と言われてしまった。結局3回の法務局往復は無駄になってしまったが、プロの人に頼むことになって、全体としてはやや前進する形となった。  
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2013年10月06日

久し振りの、ゴルフをしない土曜日

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わたし達の健康保険は、会社を定年退職した61才以降もずっと会社の健康保険組合でお世話になっている。これは私が後期高齢者に至る75才までつづくのだが、それまでは毎年一度の健康診断とか人間ドックを受けられるし、健保が運営している保養施設の利用も可能になっている。70才を過ぎてから医療費の自己負担分は1割になっているし、後は保険料が国民健保と比べて、どちらが安く済むか?という問題だろう。保険料の比較をした事はないが、人様に聞くところによると、わずかだが国民健保の方が安く済むらしい。が、問題はその僅かの差を云々するよりも、ほか、例えば加盟健保組合員の主婦に対しても毎年健診を実施してくれるところが有難い。

きのうは家内の今年度健診日であった。会場は全国津々浦々の主要都市の施設で行われて、受診者は自分の近くで都合のよい会場を選んで受診できる。昨年まで家内は神戸で生活していたので、神戸西神中央近くの会場で受けていたのだが、今年からはこちらに復帰したので今年は、わたしが勤務していた事業所の健保会館での受診を希望して昨日がその日であった。
朝8時半からの受付に間に合うようにくるまで出発して、わたしは長年通勤した道を久しぶりに走った。通い慣れた道であり、ハンドルを持つ手も無意識に動いていたようだ。時間通りに会場に着くと、もうかなりの主婦の方々が来られていて、健診車のバスも着いていた。メニュー通りの健診には約1時間ほど掛かるのだが、その間をアッシーのわたしは何処で何をして待つか?という事だった。

私はその1時間を会社の正門へ廻って警備室へ立ち寄ってみた。守衛として勤務していたのは、わたしの在勤当時はまだ若い駆け出しの頃のNさんだった。門の窓口でそのNさんと昔話やら会社の現在の人事もようなどを暫くの間話していたのだが、突然そのNさんは「むかし私と一緒に京浜へ出張した事がある」と云われ、「その時に、現在会社役員に出世していられるYさんが若い頃京浜に駐在していて、夜、わたしと一緒に養老乃瀧で呑んだ事があった」と、古い話を持ち出された。私「そんなことあったかなぁ?」と言って、そんな事がそのNさんと呑んだことなど、すっかり忘れていた。Nさんは当時初めての京浜出張だったので、その呑んだことを鮮明に覚えていたらしいが、わたしは京浜出張も度々だったので、そこで呑んだ事など一々覚えてない。

警備室で一応入門章をもらって昔懐かしい設計棟へまわってみた。土曜日で休日だったが、設計の主だった人は皆さん出勤されていて、わたしが在籍末期ころに入社して来られた当時の若手だった人が出てこられて挨拶を交わした。皆さん現在は立派に育ってそれぞれの地位の責任者として頑張っていて立派なものである。
当時やっと結婚されたばかりだったFさんは課長であり、それよりも若干早く入社されたAさんは設計棟を出て部門の長になられているし、当時わたしと一緒に仕事していたYさんも昨日出勤していて、彼はもう役職定年を過ぎていて、シニアとして設計棟に残って勤務しているとの事であった。
昨日はそのYさんがその後わたしに付き合ってくれて、会議室で1時間ばかし話し相手になってくれた。

わたくしが設計に勤務したのはもう今から30年よりも前の話なのだが、話はついきのうの如くのように聞こえる。あの当時に比べれば会社は余り進歩しているとは言えない。当時は仕事の効率は今よりも良くなかったかも知れないが、当時会社はまだまだ若く、発展の可能性を秘めていたように思う。世の中は「円高不況」だとか「造船不況」だとかで不景気風は吹いていたし、会社も余剰人員整理の後で大変だったが、生き残った我々は会社再建に向かって意気に燃えていた頃だったと思う。
Yさんの話によると、現在の会社は昔と同じく発電機が主たる製品ではあるが、東北大震災・原発事故以降は水力発電が見直されていて、国内では大水力発電の開発ポイントは無いが、中小の水力発電はまだまだ可能性が多く、水力発電機の設計は多忙を極めているとの事であった。現にその設計技術をもって退職しているシニアの人に呼び掛けて協力してもらう形で2〜3の人はそれに応じて週3日程度の勤務をお願いしているとの事であった。
わたくしにも「どうですか?協力頂けないか」と水を向けられたが、わたしは「その気は無い」と固く固辞して帰った。

きのうは上に書いたような訳で、家内のアッシーをして会社方面へ行ったので土曜日だったがゴルフは「しなかった」と言うよりも出来なかった。きのうは前から予定から外していて、10月度の土曜日練習ラウンドとしては、あとの土曜日3日を予定している。もっとも、きのうは予定していたとしても一日中雨がふったので中止にしていたかも知れない。10月度はその代わり16日と22日を予定に入れている。特に22日の予定は私の母校の同窓会おいまつ会・関西部会が主催しているコンペで、神戸市北区にあるゴルフ場まで遠征する予定である。このおいまつ会・関西部会のコンペに参加するのは初めてであるが、故郷を遠く離れて人生を過ごした秀俊達とのゴルフもまた楽しみであります。
おいまつ会・関西部会と言うのは、工業高校を卒業してから京阪神地区へ就職して日本の高度成長を支えた人々の集まりで、当時卒業生の多くは卒業と同時に全国工業地帯の優良会社へ出て行って、会社を支え活躍されたのであります。

 (写真は先の伊豆旅行で、夕焼けの残照に映える土肥港をホテルの部屋から写す)




  
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2013年10月04日

「維摩経」を読んでみよう!!!

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きのうは生涯大学の授業があり久しぶりにМさんにお会いした。長かった夏休みの前からだったので、教室の廊下を歩いて来られた姿を見たときにはちょっと嬉しかった。話を聞くと、この夏、お孫さんや娘さんのいるベルリンへ行っていたそうで、つい2,3日前に帰ったばかりだと云われた。おみやげと言って缶入りのゴディバのチョコと台所のテーブルマットを渡された。チョコの缶は丁度手のひらに入るほどの大きさで、缶の表面には各国語の小さい文字で何か書いてある。文字が小さいので老眼の進んだ私の眼では読めないが、3番目くらいに日本語もある。
もうひとつのおみやげとして頂いた台所用のテーブルマットは可愛いシカなどの小動物が印刷されていて、それを選ばれたМさんのセンスの良さが伺い知れる、家内もそれを見てとても喜んでいた。

今回ベルリンからウィーン行の国際列車でドレスデンとかチェコのプラハなどへの小旅行をされたそうで、娘さんのご家族との楽しい思い出をもって帰国されたようだった。わたしは何年か前に逆コースをハンガリーのブダペストからベルリンまでをバスで廻ったことがあったので、Мさんの話を思い出深く聴くことが出来た。
プラハのカレル橋から見るプラハ城の辺りの景色は今でも鮮明に思い出すことが出来るし、カレル橋の下を流れるモルダウの流れは、プラハのもっと上流のボヘミア地方で聴いた「スメタナの交響詩モルダウ」の場面を思い出して絶景である。

生涯大学の「心の探求コース」ではきのうからテーマが替って、これからの10回の講義は「維摩経の味読」というのがつづく。講義は「維摩経」とは何か?という所から入るのだが、先生は今回から「京都文化学園園長:澤田謙照」先生に代わっている。澤田先生は我々シニア世代の方で、聞き漏らしたが何処かの寺院の住職でもあられるらしい。さて「維摩経とは?」なのだが、大体は大乗仏教の経典で般若経とか法華経、華厳経、勝滿経などが代表的大乗の経典で、維摩経はそのひとつであるらしい。日本では般若心経という短い経がよく知られている般若経とか、天台宗や日蓮宗の基本経典である法華経なども同一分野に属すると聞いて、何やら親近感も湧いてきた。

澤田謙照先生の講義は聴いていて非常に面白くて、また、お話がうまい。仲々学生たちの心を掴むのが上手く
て、聴いていて楽しいし、また為になる。話はよく横道にそれるのだが、話の途中で教室に笑い声が絶えない。
この前までのテーマであった元岡山大学教授:木下鉄矢先生の「論語」も面白い講義だったが、「維摩経」という仏教の全般を含む講義も面白いものだ。流石に大学の先生はよく勉強をしていられて話が深い。「話の面白さ」と云うのはその「先生の学問の深さ」に比例して増して行き、聴いて面白くない話と云うのはその逆だろうと思える。今年度の生涯大学「心の探求」もこれから10回の講義はけっして聴き逃さないぞ、と思いを新たにしてキャンパスを後にして帰った。

今回の写真は先の伊豆旅行で行った天城峠辺りの「浄蓮の滝」の所にあった「伊豆の踊子像」の前で、ソフトクリームを食べている筆者である。「伊豆の踊子」を書いた川端康成は生前、ノーペル文学賞をもらったのだが、その後文学賞を受賞した作家には大江健三郎がいる。わたくし、川端康成の本は若い頃に大分読んでいるのだが、大江健三郎の本は読んだ記憶がない。大江健三郎が受賞した頃にはわたくしは司馬遼太郎をもっぱら愛読していた頃で、大江文学と云うのは何も知らない。現在もまだ知らない。一度だけ書店で手にとって立ち読みし掛けたが、とてもページが進まなかった記憶がある。

今年も秋を迎えて、ぼつぼつノーベル賞の話題が聞こえて来るようになった。文学賞で言えば「村上春樹」はいつもノミネートされて前評判は高いのだが、何故か受賞には至らない。
日本の直近の受賞者は医学生理学賞に耀いた山中伸弥という事になるのだが、今年は日本人受賞者は出るのか?興味津々である。日本の得意分野である物理学、化学などにもノミネートされているらしい有力者情報も聞こえて来るのだが、今年こそは村上春樹受賞が実現するのかも知れない。そこで、この村上春樹作品をわたくし読んでいるか?と訊かれれば、今までそれは読んだ事がない。最近図書館へはよく行くのだが、何故か文学作品、特に小説を手にする事はない。何故か小説というフィクションの世界に興味が失せているのだ。

2,3日前に作家の山崎豊子氏が亡くなられたというニュースが流れた。この人の作品が原作であった「横堀川」というドラマがNHKでゴールデンタイムという時間帯に放送されたのは、今からもう50年ちかくも昔のことだった。
その原作となっていた「花のれん」とか「ぼんち」などは書店で文庫本を買って読んだし、そのほかでは「大地」とか「華麗なる一族」「白い巨塔」も後にテレビドラマされたのだが、これらも新刊の内に買って読んだ記憶がある。
わたくし司馬遼太郎の前には山崎豊子をよく読んでいて、その前は吉川英治だったと思う。まあ大作家と云われた人の作品が多いのだが、小説をつまらなく感じるようになって読まなくなったのは椎名誠などの本が囃されるようになってからだ。椎名誠などのファンの方には申し訳ないが、わたしは相当読んだが好きになれないで終わった。






  
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