このところ相次ぐ台風の襲来で日本列島は壊されつづけている。先の26号では伊豆大島が直撃されて、大雨の被害によって50人近くの尊い人命が失われた。その捜索がまだ続いている内に今度は27号28号のダブルで、また伊豆大島が本邦唯一の被害地になる事態が予想されている。巨大な台風による雲の渦はきのうから列島全般に雨を降らせているし、今回は二つの台風が近接して進んでいるので互いに影響しあって、その進行速度がおそくなって長時間雨を降らせ続ける予報もある。
日本列島をこれ以上被害列島にしないで欲しいと思うのだが、こればっかりは自然現象でどうしようもないと云う思いが強いが反面では「災害に対して強靭な国土建設をして欲しいものだ。
今朝は4時前に眼が覚めてそのまま起床してパソコンの前に来てこのブログを書いている。外は昨夜からの雨がつづいている。パジャマの上に羽織って前のコンビニへ行ってカップのコーヒーを買って帰って飲みながら書いている。時々はコンビニのコーヒーにするのだが大体は家でコーヒーは煎れる。だけど7-11のコンビニコーヒーも悪くないから面倒くさい時にはコンビニへ走る。150円で紙製ラージカップのコーヒーを入れてくれる。それを持ち帰っているのだが、持つ手が熱くてこぼしそうになったりするが、これは早朝の場合に限る。
きのうは木曜日で午前中は公民館で囲碁教室があった。対局では初戦で1級のAさんと当たり3子局であったが10目ほど負けた。2局目は2級のKさんと当たって4子局ではあったが7目ほど残せた。このAさんもKさんも女性棋士なのだが、共に初段となるのを生涯目標にして来られていて熱心である。対局後に「良かった手と悪手があれば」それを指摘していく。「教えることは教わる事」でもあり、わたくしも3子局、4子局の打ち方を懸命にこの方達から習っているのであります。
3局目は初段のYさんと当たった。2子局で打つのだが、この方は初段だけに打たれる石に力があって、仲々一筋縄ではいかない。打たれる石に相当の意思がこもっていて、それを読まないと勝負にならないのだ。事実2子ではよく負けるし「今度負けたら相手の黒先」に手合いを変えようと思っているのだが、仲々そうはならないのが囲碁で、現在でも2子局になっているのだ。
きのうも激しい攻め合いは続いて、それは初めから終局までずっと続いた。その息付く間もなく戦いがつづくのが囲碁の面白いところで、打っていて「ぞくぞくするような」快感でもある。きのうは結局終盤にわたくしの中押し勝ちとなって終わったのだが、そこでもう昼前になって教室も終わった。
先日の火曜日は、前にも書いていたと思うがゴルフで、神戸市北区にあるロータリーゴルフ倶楽部まで遠征した。「遠征」といえば格好いいが、「遠くへ行った」のは事実だが「敵を征したか?」と言えば、それは成らなかった。返り討ちに会った思いだ。20人ほどのコンペだったのだが皆さんはわたくしよりも上位に居られたのだからやっぱり「返り討ちに会った」と云うのは事実だろう。
参加賞を頂いて帰ったのだが、そのずっしりと重い参加賞は開けてみると「我が故郷の珍味」とも言うべき「ママカリの酢漬け」と「ママカリの甘露煮」だった。わたくしの家内も岡山人だから、この参加賞は家内をも喜ばせた。幹事さんの気配りを褒めながら、早速夕食の一品となって賞味させて頂いたのだが、「ママカリ」というのは備前・岡山の特産品で、他ではちょっと手に入らない。それもこの時季の旬の味である。「ママカリの酢漬け」というのは岡山人には堪らない「懐かしい味」なのである。それをわざわざ故郷の業者から取り寄せて、参加賞として全員に持たせて帰らせた幹事さんの気配りに、幹事さんのお人柄を見た思いでありました。
先日の生涯大学に登校した時に図書館で一冊の新書を借りてきて読んでいる。岩波新書「孔子の時代」と題している本なのだが、「論語」という孔子と弟子たちの会話語録を残している「孔子」が生きた時代の風景と背景を書いたものである。
「孔子」の生きた時代というのは中国の春秋・戦国時代、西暦にすれば紀元前550年頃のことである。中国歴代王朝でいうと、殷から周に代わってそのあと秦王朝になるまでの頃である。「魯」という小さい国があって、そこに孔子は生まれている。この頃の中国では「魯」という国とは云え、それは城壁に囲まれた都市国家に過ぎず、「国」と言っても「広い国土と国民」を有する大国ではなく、そのような都市国家が点在していた頃だ。それを統一して中央集権国家にしたのが「秦の始皇帝」であって、それまでの都市国家が林立していたのが「孔子の時代」と言える。ここまではこの本を読んでのわたくしの受け売りであり、けっして私の知識と云うようなものではない。
ここで「突然に何故孔子なのか?」と言えば、生涯大学の学部「こころの探求」では6月、7、9月のテーマが「論語」だった。その講師は岡山大学教授:木下鉄矢先生で、短い期間だったが「論語」に付いて学んだのだが、何分6回だけの講義だったので短かすぎて充分ではなかった思いがある。「論語」だけで一年間くらいは必要だったかもと思えるし、それが3ヶ月で終わったものでその補足の意味もあって「孔子の時代」を読む気になったものだ。
その「論語」につづく10月からのテーマは「維摩経」という大乗仏教に属する経典の未読で、これは澤田謙照師の講義を受けている。仏教の知識と云うのは全て「我聞」という言葉が入るらしいのだが、これは「自分は〇〇から聞いた」と云うのが前提で、〇〇というのは釈迦であったり先達の師から聞いたと云うのが正しいと云うことらしい。
「これは自分が発案したとか発明した」と云うと争いの元になるが、「我聞・・・・・・」と言うとそれがなくなる。という事らしい。
話は元に戻るが、「孔子」に関する話題などはわたくしが自分で調べ確かめた事実など何ひとつ無いのだから、すべて「受け売り」もいい所ですので、もしこれを参考にされるのなら「我聞・・・・・」と前提を入れてお話くださるようにお願いしておきます。