1789年05月01日

横死七十一人之墓−クナシリ・メナシの戦い

782d3b24.jpgクナシリ・メナシの戦い

1912(明治45)年5月、納沙布岬に近い珸瑤瑁(ごようまい)の浜で、砂に埋まっている石が発見されました。掘ってみると「横死七十一人之墓」と彫られていました。

○横死七十一人之墓

現在、この「横死七十一人の墓」は納沙布岬の傍らに建てられています。この碑の横面には、「文化九年歳在壬申四月建之」と刻まれ、文化九年は西暦の1812年ですので、この年の4月に造られたことがわかります。裏には漢文で難しい文章が書かれていますが、現代語訳にすると

「寛政元年五月に、この地の非常に悪いアイヌが集まって、突然に侍(さむらい)や漁民を殺した。殺された人数は合計七十一人で、その名前を書いた記録は役所にある。あわせて供養し、石を建てる」

という意味になります。これだけ読むと「凶悪」なアイヌが、この地の侍や漁民を虐殺(殺害)したということだけしかわかりません。真実の歴史はどうであったのでしょうか。

○最初の蜂起

1789年(寛政元)5月はじめ、クナシリ島のアイヌが一斉に蜂起し、松前藩の足軽竹田勘平をはじめ、飛騨屋の現地支配人・通辞(アイヌ語と日本語の通訳)・番人らを次々に殺害しました。さらにチュウルイ(標津町忠類)沖にいた飛騨屋の大通丸を襲い、標津付近のアイヌも加わり、海岸沿いにいた支配人、番人らをも殺害しました。

クナシリ島で蜂起にしたのは、マメキリ、ホニシアイヌら5人が中心となって、合わせて41人が番人らを襲撃しました。彼らはクナシリ島の若きアイヌリーダーたちで、フクカマップで4人、トウフツで2人、トマリで5人、チフカルベツで8人、ヘトカで3人の合計22人を殺害しました。さらにメナシ地方(標津・羅臼付近)では、49人を殺しました。結局クナシリ・メナシ地方合わせて130人が蜂起し、71人の和人を殺しました。 このあたりにいた和人で生き残ったものは4人おりましたが、ほとんど全てが殺されました。

○蜂起の原因

この蜂起の後、松前藩はすぐに鎮圧隊260人をノッカマップに派遣し、なぜ蜂起が起きたのか取り調べることになりました。取り調べの結果、飛騨屋の支配人、番人らの非道(暴力・脅迫・性的暴力・だまし・ツグナイ要求)の実態が明らかになりました。これらは、飛騨屋がアイヌを強制的に働かせるために行われました。また、アイヌの人々は非常に安い賃金(品物)で、自分たちが冬に食べる食糧を確保する暇もないほど働かされ、餓死するものが出る状態でした。次第にアイヌたちは「このままでは生きていけない」と意識するようになり、飛騨屋の番人らが「アイヌを根絶やしにして、和人を連れて来る」という脅しが、現実味を帯びてきました。さらに、情勢に対する性的暴力が続出し、それに対する抗議をしても認めるどころか、さらにひどい暴力を受けるという始末でした。

○直接の原因

このようにクナシリ・メナシ地方のアイヌたちは、過酷で強制的に働かされ続け、いつ何が起こっても不思議でない状況となっていました。

1789(寛政元)年になって、クナシリ島の惣長人(そうおとな=総首長)サンキチが病気になり、メナシ領ウェンベツの支配人勘兵衛がクナシリ島にきて持ってきた酒をサンキチが呑んだところ、そのまま死んでしまいました。また、同じくクナシリの長人(おとな=首長)マメキリの妻が和人からもらった飯を食べたところ、まもなく死んでしまいました。このような不審な死に方をしたサンキチやマメキリの妻は、普段から毒殺するといって脅かし続けた和人によって、本当に毒殺されたに違いないということになったのです。本当に毒殺であったかどうかは、今となっては真相は分かりませんが、たとえ偶然であったとしても、蜂起に至るのは時間の問題であったのです。

○ノッカマップイチャルパ

1974年から毎年9月末に、根室半島のノッカマップというところで「イチャルパ」(アイヌ語で供養祭という意味)という催しが行われています。寛政元(1789年)のクナシリ・メナシの戦いの犠牲者(アイヌ37人、和人71人)の供養のために、アイヌの人たちが中心になって祭事が催されています。
【根室市博物館開設準備室内根室歴史研究会】 【根室市】

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