九坊のひと息ひと生き

種々ものごとに対するエッセイ

2012年11月

マイウェイfrom 俳句to川柳

先日、読売新聞にシルバー川柳の入選作として下記の句が掲載されていた。
「赤い糸 夫居なぬまに そっと切る」

この句を読んだ後のことだが、川柳の会に入っている家内の女友達から「男性会員が少ないのでご主人に是非入るように頼んでくれ」と家内が頼まれたとの事で、「入りなさいよ!」と家内がわが尻を叩いてきた。 
その背景には、我が夫婦も年を取るに従い夫婦の外出度は次第に逆転していき、今やその実態は下記の通りである。
「年経るに 家内は家外 われ家内」

それ故、家内は自分が気兼ねなく外出するためにも、吾をなるべく多く外に出したいのかも知れない。 尚、我が家の近くの公民館で行われている種々サークル活動も「男の料理教室」と云うように男性限定の会でなければ、殆どの会は女性が圧倒的に多いとのことで、シニアーの家庭の実態は「妻は家外、亭主が家内」との状況になってきているように思えるのだが。

さて、冒頭で川柳のテーマーとなっていた「赤い糸」に話を戻すと、我が家の場合、
「赤い糸 何時の間にやら 鞭に化け」
と我の尻をたたく鞭に変化したようだ。 そして前述の尻叩きについての今回の結果は?・と聞かれれば、その川柳の会の見学に行くことを約束させられたのである。

さて、今回の如く川柳に誘われても、「俳句をやっているから、川柳までは手が回らない」と出来れば格好よく断れればよいのだが、残念ながらそうは行かないのだ。
もう10年も前であろうか、近くの高等学校で俳句の入門講座(日曜日5回開催)を開くとの事なので参加した。 それからもう10年も経ったゆえ、普通ならそれなりに少しは上手になっているのだろうが、そうは行っていないのだ。 実は、この講習会の後に、俳句の同好会に入り続ければよかったのだが、そうしなかったためである。

何故そうなってしまったのかを、当時の拙い俳句を用いて少し説明しよう。その俳句入門講習会で提出したのが下記の句々である。 
「友逝くや 落葉震わす 鐘の音」
「菊の香や 笑みて焼香 曾孫達」
「犬よりも 歩調速める 夜寒かな」
「肉筆の 一言嬉し 年賀状」
「携帯や 車窓の紅葉 見向かれず」

これらの句を今思うと、吾は自然ではなく、人に惹かれて詠んだ句が多いようだ。即ち、吾の多くの句は、俳句の基本と云われる自然の写生ではなく、人間模様や社会風刺、即ち川柳的だったようである。

ところで、俳句を学び始めたのに入門の講習会だけでやめてしまった決定的原因は、前述の最後の句への先生の添削である。
吾の元句    「携帯や 車窓の紅葉 見向かれず」
先生添削後の句 「携帯電話 車窓の紅葉 伝えくる」

吾の句は、観光バスからの素晴らしい車窓の景色をみることなく、携帯電話に夢中になっている人の情景を詠んだつもり(!)だったのだが、吾の表現が拙いこともあって、先生は全く別の意味にとらえ添削されてしまったのだ。

勿論先生が添削した句の方が美しい紅葉の情景が目に浮かび、句としては良いとの事は十分に理解できるのだが、俳句の良し悪し以前に、自分の感じたこととは異なる句になってしまったことに戸惑ってしまったのだ。
自分の感性に近い先生に習わないと、習い続けても楽しくないのではと思い、入門講習会後のその先生主宰の俳句同好会に入ることなく学ぶことをやめてしまった為である。 

これはNHKの俳句王国や新聞の俳句投稿欄で見られるように、句に対する評価が選者で異なり、選者と句の作者の相性がよくないと選ばれないことからも窺い知れよう。 
結局、引き続き学ぶなら相性の良い先生に習いたいと思ったのだが、その後そのような先生を探すよう努めることもせず、俳句の学びは結局それっきりになってしまったのである。

だが、それは矢張り言い訳で、俳句には季語をはじめとして色々な約束事があるが、独学でそれらを勉強する意欲が、即ち俳句への熱意が足りなかったためである。 いや、熱意とともに才能のなさに気付かされたためでもある。

以上俳句と川柳について一寸わかったようなことを書いたが、俳句も川柳も下手の横好きであろうが、嫌いでないので気持ちが向いたときは、俳句か川柳かと気にすることなく、心の向くままにつくり楽しみたいものである。

尚、冒頭で述べた川柳の会に入会し、そこで面白そうな句を見出したら、また紹介することとしよう。
最後に、俳句川柳との句の道は、句ならぬ、苦にならずに楽しめるように、今後少しは勉強して行かねばと思ったところで、今日はこれまで。

野田総理の器量

いよいよ衆議院選挙そして、第96代首相が選ばれることになるが、橋本五郎氏の政治記者が見たリーダー秘話「総理の器量」と云う本が話題になっている。 著者は中公新書の杉山氏発案に従い、元総理のエピソードを綴りながら、あるべきリーダー像を示すことを心掛けたとのことである。
その目次には、中曽根「王道の政治」、福田赳夫「清貧の政治」、大平「韜晦(とうかい)の政治」、三木「説得の政治」、竹下「無限抱擁の政治」、宮沢「知性の政治」、橋本「正眼の政治」、小渕「献上の政治」、小泉「無借金の政治」との表題が書かれている。
大変面白く興味深いゆえ、この本からも引用しながら総理の器量について、述べていきたい。

野田総理についてはまだやめていないため、最終評価はまだ出ていない。 ところで、トップの座に着いたとき、或いは下りた時にトップに座をどのように感じるものであろうか。 
チャーチルは65歳にして首相の座についたとき日記に「午前3時に就床した時、私は深い安堵を感じた。私は遂に全てについて命令を出せる権威を手に入れた。 まるで運命と腕を組んで歩いているような気がし、私の過去の人生はすべてこのときの為の準備だったと感じた」と書いているとのこと。

尚、福田元総理が総理をやめた後「一番変わったのは何ですか?」に対して「高速道路走るとき、他の車の間をスッと通れないことだ」と答えたとのこと。 確かに、どんなに道が混雑していても、パトカーが先導して一般の車を左右に寄せて、空いた真ん中を総理の車がスイスイ走るのだから、これは権力を感じる分かりやすい身近な例であろう。 尚、吉田元総理が大磯に行くときは、一切信号待ちがないように、総理の車の走行に合わせて信号を調整し通過させたとの事である。

さて、話を戻し、チャーチルの65歳に対し、野田総理は昨年54歳でトップの座についたが、彼は3歳の時、当時日本社会党委員長であった浅沼稲次郎が死亡した浅沼暗殺事件を知り、初めて政治家を意識し、保育園に通っていたときには、ジョン・F・ケネディ暗殺されるとの事件が起きたので、政治家は命懸けの仕事なのだと、なんと幼児期に感じていたとのことで驚きだ。 その彼は大学卒業後、松下政経塾(1期生)に入り、その後、県会議員、国会議員と政治一筋に進んできたゆえに、トップの総理の座についたときは大いに感激したであろう。

野田総理は、野党は勿論、民主党内からもこれまで散々批判され苦しんできたが、ここまでよく耐えぬき、党首討論会では安倍総裁が「たまには総理のチャーミングな笑顔を見たいというふうに思います」といつたがニコリともせず、安倍総裁に条件を飲むなら解散するとの迫力のある攻めを打ちだし、今回衆議院を解散をした。 そのは今後どのような評価をうけるのであろうか。

米国大統領で政敵に罵倒され続けたが最後は打ち勝ったフーバーの言葉に「一日がいかに素晴らしかったかは夕刻にならねばわからない」との言葉があり、フランス大統領のドゴールもこの言葉を好んで引用したとのことだが、本当の評価は最後にならないと、そして時間がたたないと分からないものであろう。 

とは言え現時点では、野田総理にはどのような評価がなされているのであろうか?
読売新聞は社説で「消費税率引き上げを柱とする一体改革関連の成立を衆参ねじれ国会で実現したことは確かに歴史に残る功績である」と評価している。
また、インターネットの上では、民主党政権への評価は相変わらず低いが、野田総理個人や今回の決断に対しての評価は総じて悪いものではないようで、外国、例えば中国の中国版ツイッター”と呼ばれる簡易投稿サイトでは、「常軌を逸していた鳩山、日和見的な菅に比べれば、野田首相は民主党政権、ひいては過去20年の日本の首相の中では最も能力ある首相だったのでは。さらに言えば、戦後の日本の首相としては、戦勝国の強大な圧力に屈せず、国際舞台でも譲歩を見せなかった初の人物ではないか?」と評価もでているようだ。

尚、彼の座右の銘は松下政経塾の「五誓」の一つである「素志貫徹」。との事だが、確かに物事を辛抱強くやり抜く意志の強さを持っているようだ。
これは、駅前で通勤する人々に政策を訴える「朝立ち」を何と24年間も即ち、1986年から2010年に財務相に就任する前日まで続け、「駅前留学はNOVA、駅前演説はNODA」と自称し話題となったが、確かにその強い意志力が今回も示されとも云える。 彼はまさに継続は力なりで頑張り、総理まで登りつめ、前述した「消費税率引き上げを柱とする一体改革関連の成立を衆参ねじれ国会で実現」したことは評価に値しよう。

小沢や鳩山は野田の方針に対しに対し「NOだ!」と反対したが、それをやり遂げたところから判断すると、困難にもめげずやり抜くとの「脳」の強さがあるようだ。 すなわち本人は「NOだ!」と云われても、勝負は脳の力即ち「脳だ!」と思い、そのもてる能力&脳力を発揮したのであろう。 

尚、冒頭で紹介した「総理の器量」の著者橋本氏は、ここ数年の決められない惨憺たる政治になっている理由の一つはリーダーたちの政治に対する基本的な心構えに問題があると指摘している。 リーダーに必要なことは、政治にできることは限られていると云う「政治の限界」をわきまえながら全力を尽くす「謙虚さ」、自らの1挙手一投足が歴史の中で裁かれているという「責任感と使命感」、「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力を込めてじわっじわっと穴をくり抜いていく作業である」(マックス・ウエバーの職業としての政治より)と云う辛抱強さであり、そういうもっとも基本的なものが欠けているのではないかとしている。 前要件中、野田総理には少なくとも最後の辛抱強さはあるように思える。

小泉元総理大臣以降の安倍、福田、麻生、鳩山、そして野田と5人の首相の中では現時点でも一番実績を上げた首相であるように思われるが、如何でしょうか? 姓名の姓の方の「NOだ!」でしょうか、それとも名の方の「ヨシ!」あきでしょうか?  
最後に、NODAの反対はADONでa donとなるが、今後一人の首領(ドン)として彼の器量の評価がどうなっていくのか、注目して行かねばと思ったところで、吾の鈍(ドン)なる随筆は、今日はこれまで。

石原前都知事と論語

街頭で配布していたパンフレットを貰い「歳より若く見られた!」と知り合いの後期高齢者の元気なおばさんが喜んでいた。 なぜ喜べたのか? その理由は、配布していたのが保険のパンフレットで、その保険は加入が64歳までと明記されていたからである。10歳も若く見られたのだ!

若く見える・と云えば、今回都知事を辞任した石原前知事は、男の平均寿命を超えての80歳ながら、姿勢の良さや髪の毛の豊富さ、そして早口で話すなどから、そのように見えるのではなかろうか。

それにしても同氏の発言は威勢がよく、とても80歳とは思えない。威勢が良いのは結構なことだが、人の言うことを聞かず、云いたい放題のように発言をしているようにも見えるために、同氏を嫌う人も多いようである。 
80歳という豊かな人生経験があり、且つ都知事を務めた人としては一寸信じられないような発言をして、物議を醸しだしているのはご承知の通りである。

物議と云えば、同氏はそもそも1956年 (昭和31年)、一橋大学に在学中に「太陽の季節」を発表し芥川賞を受賞。 だが、海上のヨットやモーターボートの上でくりひろげられる若い男女の赤裸々なセックス、恋人交換などその余りにも露骨な描写に、審査の際に反対者が出て大論争となったすえの受賞で、彼は世の中を騒がせつつ有名になった人なのである。

芥川賞審査の際に反対した佐藤春夫は、「この作者の鋭敏げな時代感覚も、ジャーナリストや興行者の域を出ず、文学者のものではない。美的節度の欠如」とまで評したとの事である。
このように物議を醸しだしつつ文壇にデビューした石原氏であるが、80歳になった今もってなお、世に中を騒がせている。雀百まで踊り忘れずとの言葉があるが、勿論彼は雀ではなく雀を食べてしまう猛禽ではあるものの、本当に百までその性格は変わらないのかもしれない。

石原氏の性格は今なお変わっていないようで、都知事退任を発表した時の記者会見での驚くべき発言がある。 日本のトップの野田総理を野田、前原国家戦略担当大臣を前原と呼び捨てにし、経団連米倉会長を「タヌキみたいなおっさん」と表現するなど極めて失礼な呼び方をしていたのをTVで見て驚いた。

尚、経団連の前会長の御手洗氏のことも話そうとしたが御手洗との名前が出てこなかったようで前会長と云い、また現会長の米倉との名前も思い出せなかったので、前述の如き「狸みたいな」との表現が出たのではなかろうか。
「老いたり!石原!」と感じさせられたが、いずれにせよ失礼な言い方である。また相変わらず言いたい放題で、聞く耳を持たないようである。

聞く耳と云えば、賢く偉い人としての孔子の言葉が、かの有名な論語の為政篇の中にある。 孔子が年齢とともにどのように成長してきたかを示す言葉である。
「十有五にして学に志し・・「志学(シガク)
三十にして立つ・・「而立(ジリツ)」
四十にして惑はず・・「不惑(フワク)」
五十にして天命を知る・・「知命(チメイ)」
六十にして耳順い・・「耳順(ジジュン)」
七十にして心の欲する所に従ひて矩を踰えず・・「従心(ジュウシン)」

尚、ご存じのように耳順は「六十歳では、人の言うことを素直に聴けるようになった」 と言う意味であり、従心とは、七十歳になると思うままにふるまっても、道(道徳規範)からはずれないようになったとの事である。
では石原元都知事の如く80歳になったら、孔子はどうなったのかについては、73歳(あるいは72歳か)で亡くなられたため残念ながら無く、70歳の従心で終わっているのである。

尚、論語とは儒教の開祖孔子(前551‐前479)の思想が書かれたもので、儒教思想の真髄を伝えるものとして後世に大きな影響を与えてきた。 尚、儒教とはひと口にいって「修己治人」(おのれを修めて人を治めるであり)の学であり、道徳的修養を積む点で倫理の学とも云える。だがその修己は、自分の為であると同時に治人(人民を治める)ための政治の学でもある。 

さて、人の言うことを聞かず云いたい放題で、今回新党を作るためだとして都知事をやめた石原氏は、論語読みの論語知らずになっているようなので、論語を再読してもらい、今後は都民いや国民の声を少しは聞くように「耳従う」を学んでもらいたいものである!・・と思ったのだが。
決められない政治で閉塞感の満ちた現在、ブルドーザーで進むがごとく、旧弊を打ち破り突進して、閉塞状態を打破してもらいたいと、同氏に期待する人も多いようである。

即ち、読売新聞の世論調査の結果(12.11.5)では、衆議院ブロック別の比例投票先は、「自民」25%、「維新」12%、「民主」10%、「石原新党」9%、みんな3%となっており、石原新党は民主党と同程度で、現在議員数では第3党の小沢が党首の「生活が第一の党」などを問題にしない支持率であり、期待されているのである。

派手な動きで一部の人に期待される。 だが前述した如く、芥川賞審査の際に佐藤春夫は「この作者の鋭敏げな時代感覚も、ジャーナリストや興行者の域を出ず、文学者のものではない。美的節度の欠如」とまで評し反対したが、現在の石原氏はその「鋭敏げな時代感覚」は失われているように見える反面、相変「興行者の感覚」は相変わらずあるようである。 だが、もはや石原氏にとって「太陽の季節は」過ぎ去り「黄昏の時or落日の時」になってきており、今回の都知事辞任でそれを早めたのかもしれない。

さて、昨日、米国ではオバマ大統領(51歳)が再選されたが、その勝利の演説は前向きで力強いものであり心地よいものであった。 石原氏は芥川賞を受賞した文学者だとは云え、最早とてもこのように多くの人を惹きつけるわかりやすく熱のこもった演説はできないだろうと、時の流れの残酷さを感じた。 
だが、都知事辞任時の記者会見の際、報道関係者に向かい最後に投げかけた言葉「若者よ しっかりせよ!」には、その通り!と感じた・とのことを石原氏の新出発へのはなむけの言葉として、今日はこれまで。

上高地&滅びゆく大正池

上高地を約10年ぶりに前月訪れた。ご存知のように上高地は国立公園で、その美しい景観を維持すべくマイカーを規制するなど自然保護に力が入れられてきた。 その現在の上高地が我が目にどのように映ったかを、詩風に下記に簡単にまとめた。

桂川流れは清く 昔と変わらず
されど川の流れの幅 狭まりぬ
河童橋からの眺め 今だに見事
なれど山肌に 少し荒れあり

大正池の水量 大きく減りて
池ならずして 今は川なり
昔は船浮かべ 渡ったと云うも
その光景 今は想うも難し

明神池の水 今も豊富に湧き出で
その清さ透明性 昔と変わらず
大正池土砂で埋まり 変わり行く今
明神池変わらぬこと 穂高神社に祈る

・追加(食いしん坊向け)
河童橋の橋脇に 新店できる
鯛焼きならぬ 河童焼きなり
河童の顔型 餡とクリームチーズ入り
熱々最高 冷えても旨い新名物
(松本市の知人のお勧め品) 

さて、上高地は素晴らしいところである。 そしてその名所の一つが大正池である。だがその名所が消え行こうとしている。
実は今回、この地を訪れた吾の主目的は、この失なわれ行く大正池を見たい、そして寂しいながらもその滅びゆく姿を見届けておきたいとの思いからである。

この大正池は、大正4年(1915年)の焼岳の爆発によって桂川の流れが堰き止められて出来た池であり。 出来たときは立枯れの樹々が湖面に林立し、独特の素晴らしい景観を作り出したのだ。だが、桂川の上流や焼岳から流れ込む土砂のために年々埋まり、浅く狭くなってきた。 

この為、東京電力では下流の霞沢発電所への貯水池としての役割も果たすために、年間約1万から3万立方メートルもの土砂を浚渫(しゅんせつ)し、保護に努めてきたのだが、池は狭くなり続け、今やその広さは当初の十分の1にも満たないようだ。 仮に東京電力が浚渫を取りやめた場合には、単純計算では7-8年もすれば池は土砂で埋まってしまうものと推測されている。

地球温暖化で世界の氷河が溶け退化していることがよく話題になるが、大正池は氷河より格段に早く滅び行こうとしているのだ。
氷河の退化縮小化はテレビでもよく紹介されていたので吾も分かっていたが、4年前にノルウェーのブリクスダール氷河を訪れた時に、現地に(!)氷河の退化がどれほど進んだかを示す大きな立て看板がたてられており、その消滅度がすぐわかるようになっていた。 と同時に、勿論その看板は環境の保護をも訴えるものでもあった。

これに対し大正池の場合には、地球の温暖化、あるいは酸性雨化等の環境の変化がどれほど影響しているのかは不明だが、前述したように急速に埋まり、このままでは前述した如く手が打たれないと7,8年で無くなろうとしているのだ。だが、その池の縮減の程を示す表示物は見られなかった。

大正池が、もはや昔の面影がなくなり、消滅しつつあるとのことが大きく伝えられないので、昔訪れた人は、美しい大正池のイメージを持ち続ける反面、これから行く人は昔の画像をイメージして訪れて、がっかりするのでは。 名物の立ち枯れの木々の本数が減り寂しさをすぐ感じるものの、池の縮小については、今は渇水期だからなのかと誤解して帰る人もいるのではなかろうか。 尚、大正池の変化と防止策が積極的に公表されていないのは、地元としては観光の目玉故に、滅び行くことを余り知られたくない為なのかもしれない。

解決策は東電がこれまで行っていた大正池の浚渫(しゅんせつ)をこれまで以上に実施することである。だが、大震災後の東電には今やそれを行う財力はあるまい。 浚渫を止めれば前述した如く7,8年で大正池は消滅してしまうのである。寂しい限りである。

尚、東電は 尾瀬の自然保護も行っており、約20km(全長65km)にわたる木道の敷設やアヤメ平の湿原回復作業などに取り組んできているが、財力を失った東電は今後どうするのであろうか。 国や地方自治体が東電に代わり続けられればよいのだが。予算不足で荒れてしまわないか心配である。 思わぬところに福島原発事故の影響がこれから出てくるのかもしれない。

一寸話はそれるが、山中博士により人間の臓器の再生技術が可能となり人間の寿命はどんどん延ばせるようになり人口が増え、一方、自然環境が悪くなって食料の生産量が減れば、トータルとしてこの先の世の中はどうなるのかと考えこんでしまう。

世の中の変化については、昭和では「明治は遠くになりにけり」との言葉が流行ったが、変化の速い現在、今やその昭和が、「昭和は遠くになりにけり」とさえ云われるようになった。 
ところで、今回のテーマ「大正池」は前述したごとく「大正」の4年に焼岳の噴火によりできたもので、大正池と名付けられたが、その大正は明治と昭和の間に挟まれた15年弱の期間であり、今の若者にはピンとこない時代であろう。 尚、大正元年生まれの人は今年(2012)には丁度百歳になられるのである。

若い人には、日本には大正時代と呼ぶ年数で15年間との日本史で一番短い時代があったのだ、との事を思い出してもらうためにも、大正池が景観を保ち存続していくことを、山好きの我が家の山の神とともに、穂高山の神々に祈りつつ上高地を後にしたことをお伝えして、今日はこれまで。
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