1959年……0歳
東京都下の立川市で生まれる。育ったのは現在も住んでいる東村山市。

  1963年……3歳
力道山死す。あまり覚えてはいないが、おばあちゃんの膝に座ってプロレスを観戦していて力道山がチョップをはなつたびに、ワタシは畳の上にひっくり返っていたそうな。

  1964年……5歳
このあたりで小児結核を患う。昔の医療機械はとてもゴツくて、処刑されると勘違いして泣きわめく。

  1969年……9歳
ザリガニを採って遊んでいた近所の川が排水で汚染され、悪臭を放つようになる。
新宿の方では「ベヘーレン」という怪物が暴れているという噂を聞き、この世の終りは近いのではないかと思う。この時、なんとも言えない甘美な感情に襲われる。

  1972年……12歳
中学一年から代々木ゼミナールの日曜午前クラスに通う。午後に新宿で映画を観るための方便だったが、もったいないのでちゃんとやっているうちに受験勉強だけは強くなる。
この頃、家に8ミリカメラがあることに気づき、おもちゃのひとつとしていじくり始める。
また、クラブはバレーボール部に入る。一年先輩に髪を延ばしている人がいて、変だなあと思っていたら、ほどなくして芸能界にデビューしてしまった。なんとフィンガーファイブの真ん中の人だったのである。

  1974年……14歳
この頃から本格的に缶コーヒーを収集し始める。ちょうど戦後闇市的状況と言うか、缶コーヒーは無名メーカー各社入り乱れて百花繚乱の時期だった。
またこの頃「頭脳警察」目当てで出かけた日比谷野音で偶然「裸のラリーズ」を聴いていたりもする。

  1978年……18歳
北海道大学文類に入学。
興味の向くまま新左翼、演劇、文芸同誌などに顔を突っ込む。映画を観まくり演劇やライブもマメに足を運んだ。

  1979年……19歳
文芸同人誌のメンバーを中心に、映画をつくり始める。この頃、同人誌に載せた小説は「あまりに映像的」と評されたので、そんなら俺は映画をやろうと思う。

  1982年……22歳      
メキシコへ旅する。メキシコでは孤独仮面エルソリタリオを現地で観ることができて感動にふるえる。
映像製作・上映集団を形成すべく動き出す。そうして集まった徒党に「映像通り魔」と命名する。
自主製作映画の上映に加担するなかで、石井聰亙、長崎俊一、山本政志、山川直人、矢崎仁司らと出会い、またかわなかのぶひろさん、若松孝二監督らにもアジられて、やたら気合いが入っていたりした。山田勇男さんとも知り合う。

  1983年……23歳
6月。東京に戻って蔵前国技館でIWGP決勝戦を観戦。ホーガンのアックスボンバーで猪木失神。
ぴあフェスで自分の『海辺の記憶』とプロデュース・撮影をした森永憲彦の『PATINKO』が入選。
“映像通り魔”全道巡回上映を敢行。
『巻貝の扇』で銀河画報社と協力。

  1984年……24歳
2月、新日本プロレス札幌大会を観戦。藤原喜明の長州テロ事件勃発。興奮してついに激動の時代がやって来た、映画なんかチンタラつくっている場合じゃないと思うのだが、それでは何をしたらいいのか思いつかず、やはり映画をつくる。
3月、映像通り魔のメンバーが次々と退学するのを尻目に、ちゃっかり卒業する。
4月、東京へ戻る。大宮スケートセンターで第一次UWFの旗揚げ戦を観戦。
ぴあの映写技師を経てイメージフォーラムの助手となるが、父が病に倒れ、看病に専念する。が、あえなく病死。
これ以上映画にかかわっていては不幸になるばかりだと思い、映画の女神さまから逃れるべく、風俗、とりわけピンサロにのめり込む

  1985年……25歳
しかし長崎さんの『シナリオ 山口百恵の背信』に参加したのがきっかけで、再び映画をつくり始めてしまう。ところがスタッフのひとりが革マル派にテロられて重傷。

  1986年……26歳
この年より警察無線がじょじょにデジタル化進行。仕方なく、消防無線や自動車電話を傍受する。
また炭焼きさんに弟子入りして来たるべきパルチザン闘争に備えるため、木炭の作り方を習得する。

  1987年……27歳
『極星』完成。ユーロスペースで公開。
インド、ネパール、タイをブラブラ。タイではムエタイ(タイ式キックボクシング)を観戦。

  1988年……28歳
救急車が運転できるというので、病院の老人送迎サービスの運転手をするが、運転がヘタで病院に救急車をぶつけてしまいクビになる。
学童クラブという子どもの保育をするところで働く。ギターの練習を始める。

  1989年……29歳
けん玉に熱中する。一級の腕前になり、子どもたちに指導する。また、無線の免許を取得。コールサインも取得(現在はすでに失効)。

  1990年……30歳
一輪車に熱中。なんとか校庭一周できるようになれてとてもうれしい。アンダーグラウンド情報誌『ムエン通信』を発刊。

  1991年……31歳
パルコより依頼されて劇映画『プ』にとりかかるも、撮影途中で監督を解任されてしまう。
年末になって、来たるべきパルチザン闘争に備えるため、日本酒の自主製作にとりくむ。できた酒に『猫の舞』と命名。

  1992年……32歳
ファミコンのロールプレイングゲームに熱中。
秋には『猫夜』をようやく完成させ、公開。
また、乃木坂ラ・カメラでの上映会を開始する。

  1993年……33歳
3月、横浜アリーナで開催された女子プロレスオールスター戦を観戦。最後まで観たために終電に乗れずに苦労する。
『プ』の再開プランが立上がり、秋には撮影を再開。
また、初の単独著作『缶コーヒー風景論』が洋泉社より刊行される。

  1994年……34歳
『プ』完成し、イマジカにて初号試写。
7月、山田勇男監督の新作のシナリオハンティングのため、サハリン(樺太)へ行く。
秋から年末にかけて、住宅地図を参照して東京23区のあらゆる路地を探索。
単独著作第2弾『勇者のゆくへ★ファミコン無頼帖』が洋泉社より刊行される。

  1996年……36歳
「虚港」の制作に専念する。6月に完成して9月に公開。幸い好評で、そのあといろんなところで上映されることになる。

  1999年……39歳
湊谷夢吉のCDを完成。夏と冬のコミケに参加。前年に入籍した妻が妊娠したので、10月より同居することになる。

  2000年……40歳
3月に息子の丈(じょう)が誕生。保育のプロだったとはいえ、それは6歳から9歳まで限定のこと。新生児の扱いを学ぶ。

  2004年……44歳
単独著作3冊目になる『楽しく映画をつくる本』がワイズ出版より刊行される。

  2005年……45歳
ブログを始める。映像制作ノートブログと食べ歩きブログの2つをほぼ同時スタート。紆余曲折あったが、現在は前者は「山崎幹夫の各種センサー」として、後者はおもに武蔵野うどんに特化させた「ぐーたりの舌」として継続している。

  2009年……49歳
酔って自転車で帰宅する途中、たぶん意識を失って転倒、鎖骨を骨折する。今度こそ反省して深酒を控えるようになったが、母に「それじゃつまらないでしょ」と言われる。


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一番目と三番目の白黒画像を使うときは「撮影=首藤幹夫」とキャプション入れていただければ幸いです。