CTBNL (Column To Be Named Later)

フリーランス・ライター、李啓充による気まぐれコラム

カブス マット・シーザーの「功徳」

シカゴ・カブスがリーグ選手権逆転優勝で71年振りのワールドシリーズ進出を決めた。

2・第3戦の連続完封で12敗となった時点では、ファンの間に「今年もダメか」と、諦めムードが漂ったものだった。不振を極めた打線の中でも深刻だったのが主砲のアンソニー・リゾー(リーグ選手権第3戦まで26打数2安打)と、レギュラーシーズン95打点と勝負強さを発揮したアディソン・ラッセル(同じく24打数1安打)だった。

スランプに陥っていた二人のバットに火がついたきっかけが、チームメート、マット・シーザーからの「借り物」にあったことは日本でも報道されたので読者もよくご存知だろう。リゾーはバットを、ラッセルは下着(英語の報道では「underware」としか書いてないので、どの部分の下着であったかは不明)を借りた途端に、第4-6戦、それぞれ14打数7安打2本塁打、13打数6安打2本塁打と打棒が復活したのである。

では、なぜシーザーからの借り物にそれだけのご利益があったのかというと、それは、私の見るところ、彼が施してきた「功徳」のたまものであったに違いないので、今回はその辺りを説明しよう。

 

シーザーがビラノバ大学に入学したのは2007年。すぐに、フットボールと野球の両チームでスター選手として活躍し始めた。骨髄移植ドナーの登録をしたのは2008年。特に深い考えもなくフットボール部の監督が熱心に行っていたチャリティ活動に協力したのである。ドナーになる確率は8万分の1、自分の骨髄が必要とされることがあるなど夢にも思っていなかった。

「適合」となって自分の骨髄を必要としている患者がいると知らされたのは、翌2009年のことだった。「どういった患者であるのかは教えることができないし、(患者の病態次第なので)いつ必要となるのかも全くわからない。それでもドナーとなってくれるか?」と聞かれ、二つ返事で「もちろん」と答えたのだった。移植前に血球を増やすための薬剤を使用するので脾臓が腫大し、コンタクトスポーツの選手の場合脾臓破裂の危険があること、処置の後少なくとも三週間は激しい運動はできないことの説明も受けたが、すべてを承知した上で同意したのだった。

「これから移植を行う」と連絡があったのは20105月、MLBドラフトのひと月前だった。プロのスカウト達がとりわけ注目する時期に3週間欠場した場合、契約金が下がったり、ドラフトされなかったりするリスクを冒すことになるのは百も承知だった。しかし、世界のどこかで自分の骨髄を待つ、死にかけている患者がいるというのに見捨てることなどできるはずはなかった。

骨髄を提供した3週後、チームに復帰したシーザーは第1打席で本塁打を放ってスカウト達に実力をアピールした。1週後のドラフトで、第5巡に指名したのはカブスだった。

 

レシピエントが3歳のウクライナの少女、アナスタージアだとわかったのは翌年のことだった。アナスタージアが白血病と診断されたのは生後3ヶ月。助かる術は骨髄移植以外になかったのにウクライナでは骨髄移植は行われていず、医師達は両親に対し「諦めて次の子を作りなさい」と勧めたほどだった。しかし、諦めることができなかった両親はイスラエルに渡って移植の可能性を探った。そして、幸運にも移植ドナー登録者の中に「適合者」がいることを知らされたのだった。

 

シーザーは、スカイプを通じて、初めて、アナスタージア一家と対面した。元気なアナスタージアの愛くるしい姿を見るだけで喜びがこみ上げたが、と同時に、不治の病と闘ってきた一家の苦労に比べたら、自分のマイナーリーグでの苦労など苦労のうちに入らないと思わざるを得なかった。その後、折に触れて一家と近況を伝えあったが、やがて一切の音信が途絶えるようになった。東ウクライナにロシアが侵攻した直後からだった。

 4年振りにアナスタージア一家とスカイプで交信することができたのは、プレーオフ直前の9月だった。ロシアの侵攻後、難民としてイスラエルに逃れたアナスタージアは7歳となっていた。英会話だけでなく、元気に空手を学んでいるとのことだった。「娘だけでなく、私たちの命も救ってくれた」と感謝する両親に、シーザーは、「あなた方は私にとって家族同然です。あなた方という、もう一つの家族ができたのですから、これほど嬉しいことはありません」と答えたのだった。
 

 以上がシーザーの施してきた功徳であるが、見ず知らずの患者を救うために、自分のキャリアを犠牲にするリスクを冒してまで、骨髄移植ドナーとなったのである。これほどの功徳を積んだチームメートが貸し出すバットや下着に、特別の霊験が籠もっていたとしても何の不思議もなかったことがおわかりいただけただろうか。

 

(以下の姉妹ブログもよろしく
「らばさ福島 震災復興支援の思いを砕いたのは・・・」

MLBコラム」もよろしく)

ノーベル文学賞受賞ボブ・ディランの「reinvention」

 アメリカで生まれ育った娘が小学生三年生になった頃、「友達はみな人気ミュージシャンのコンサートに行っている。誰のコンサートでもいいから自分も連れて行ってくれ」と頼んできたことがあった。「本当に誰でもいいのだな?」と念を押すと「いい」と言うので、ボブ・ディランのコンサートに連れて行った。生娘の純潔をヒヒ爺に売り飛ばす様な疚しさを覚えないわけではなかったが、娘もあまりお気に召さなかった様で次ぎに誘ったときは断られてしまった。

 娘の「純潔」を奪ったディランが、ノーベル文学賞を受賞した。半世紀近くファンを続けて来た私としては、今回の受賞ほど喜ばしいことはない。

 私が初めてディランの音楽に触れたのは、娘と同じく、小学生の時(1960年代半ば)だった。とはいってもディラン自身のパフォーマンスではなく、ジョーン・バエズやピーター・ポール&マリーで、「Blowin' in the Wind」や「Don't Think Twice, It’s Alright」等の初期の名曲に触れたのである。いわゆるフォークソング・ブームの時代だったが、「クリーンアップ」された他のミュージシャンの演奏で「減感作」を施しながら入門したので、娘のような「拒否反応」を起こさずに済んだのだろうか?

 やがて、ディラン自身のアルバムを買い集める様になったのだが、高校生の頃には「世界で一番偉いソング・ライター」と崇めるまでになっていた。何よりかにより、他の凡百のポピュラー・ソングの陳腐さと違い、ディランの歌詞には「発想の自由さと深遠さ」が際立っていたからである。

 しかし、10代始めの時からレコードでしか知らなかったディランを、生で初めて聞くには20代半ば(1978年)まで待たなければならなかった(私は医学部5年生だった)。ディランが初来日するという電撃的ニュースを知ったのは土曜日の夕刊だったが、私はあこがれのディランの初来日に狂喜すると同時に困り果てることとなった。というのも、日本初公演のチケット売り出しは翌日曜日の朝早くだというのに、当時の銀行ATMは土曜の午後・休日にはオペレートされていなかったので、チケットを買うのに必要な現金を用意する手立てがなかったからである。困り果てた私は、恥を忍んで、行きつけのスナック(京都市左京区吉田本町の「楡」という店だった)のママ(節ちゃん)に借金を申し込んだ。当時既に、酔うたびにディランの歌詞を引用し、その偉大さを喧伝する癖があった私に対し、節ちゃんは二つ返事で金を用立ててくれた(今、学生に気安く金を貸してくれるスナックのママなど世の中に存在するのだろうか?)。翌日、国鉄の始電で大阪梅田は丸ビルでのチケット売り出しに向かった私は、大阪公演3日間すべてのチケットを入手したのだった。

 初来日コンサートの会場は、松下電器体育館だった。ディランの登場を胸をときめかせながら待つ間、私は、ステージ横に掲げられた巨大な額に目を奪われたことを今でもよく覚えている。創業者松下幸之助の手になる「創業の心意気 創意と工夫」と認められた書だったが、初めて臨んだディランのコンサートも「創意と工夫」に満ちた物だった。まるで、「自分が書いた曲をどう解釈しようが俺の自由だ」と言わんばかりに、レコードで聞き親しんだ曲に自由奔放なアレンジを加えて、原型をとどめないまでに「reinvent」していたからである。「ディランは自由奔放な発想で曲を書くだけでなく、自分が書いた曲を同じく自由奔放にデフォルメする」ことに私は大きな感銘を受けた。すぐ近くにいたアメリカ人の観客達が演奏されている曲がわからず、「What is this ?」と訝り合うほどだったが、ディランのコンサートには「曲当てゲーム」の楽しみがあることを、このとき、初めて体験したのだった。

 2度目の日本公演はトム・ペティ&ハートブレーカーズとの共演(1985年)だったが、今でもよく覚えているのはアンコールで披露した彼のギター・ソロである。「上を向いて歩こう」を演奏したのだが、日航の御巣鷹事故で坂本九が亡くなったばかりとあって、私はディランの奏でるギターを聴きながら涙がこぼれてくるのを抑えることができなかった。

 その後、1990年から24年間ボストンに暮らしたこともあり、ディランのコンサートには数え切れないほど赴いた。しかし、いつ赴いてもアレンジの過激さはいっしょで、決まって「曲当てゲーム」にいそしまなければならない羽目になるのだった。ディランは、フォークに始まって、ロック、カントリー、ゴスペル、・・・と音楽のジャンルを自由奔放に変えて自分自身のreinventionを繰り返すとともに、自分が書いた作品そのものに対しても常に新たな解釈を求め、reinventionすることを止めずにきたのである。

 ディランのやり方と正反対なのがポール・マッカートニーで、彼は「観客はレコードで聞き知った曲を聴きにやってくる。アーチストとして新たな工夫を加えたいという欲求があるのは当然だが、プロとしては観客の期待に応える義務があり、新たな工夫はそれとわからない程度にとどめる」という意味のことを言っている。実際、今年の7月もボストンはフェンウェイ・パークでマッカートニーのコンサートに行って来たが、ビートルズのヒット曲に観客がシング・アロング(唱和)できる演奏を心がけていることに変わりはなく、「reinvention」とは真逆の「お定まり」に徹していた。

 ディラン自身が自作の解釈をしょっちゅう変えるくらいだから、ディランをカバーするミュージシャン達もその解釈の独創性を競っている趣があり、私は昔からディランのカバー・アルバムも大いに楽しんで集めてきた。例えば、人権擁護団体のアムネスティが出したアルバム「Chimes of Freedom」(2012年、4枚組CD・全73曲)や、異なった俳優がディラン役を演じた映画「I’m Not There」のサウンドトラック(2007年、2枚組CD・全34曲)は私のお気に入りである。

 曲として一番好きなディランのカバーは、ジャズ・ピアニスト、キース・ジャレットの手になるMy Back Pagesだが、彼の演奏を聴くまで、この曲のメロディーの美しさを私は完全にunderestimateしていた(ディランのだみ声はそのメロディーから美しさを何割か差し引く効果があるようである)。

 ところで、あまたあるディランのカバー・アルバムの中でも、「デフォルメの過激さ」で群を抜いているのが、世界各国のミュージシャンの演奏を集めたアルバム「From Another World」である。ディランの名曲が、それぞれの国の言語とエスニックなアレンジで歌われているのであるが、中でも圧巻だったのがアボリジアーニのミュージシャンが演奏するFather of Nightだった(アボリジーニ・バージョンを聞くにはサイト上部の▶ボタンを押すこと。ディランのオリジナル・バージョンはこちら)。ディラン本人が聞いても絶対に自分の曲とはわからないのではないだろうか?


(読者の皆様へ 日本に臨床医として復帰した経緯は別の場所に書いたが、医師としての務めが忙しく、本ブログは長らく休止していた。しかし、突然の吉報に、慌てて今回の原稿をアップした次第である。姉妹ブログの「MLBコラム」も再開したのでこちらの方もよろしく) 

 

シャーロック・ホームズとSTAP細胞

 英米におけるシャーロック・ホームズ人気はいまだに根強く、たとえば英国ではホームズとワトソンを現代のロンドンに移植したTVシリーズが3シーズン目を迎えたし、米国でも現代のニューヨークに二人を連れてきたTVシリーズ(しかもワトソン役は女性)が2シーズン目を迎えている。

 米国版シリーズ、36日放映の回で使われたトリックが、たまたま、いま、日本で話題になっている万能細胞「STAP」にちなむ物だったので以下に紹介する。

 ・・・何年も前から行方が知れずにいる女性について、誘拐犯から、身代金の要求書と共に身柄を預かっている「証拠」として切り取った両耳が夫に送りつけられてくる。ところが、やがて見つかった女性は五体満足で、両耳もしっかり揃っている。 DNA鑑定の結果、両耳は女性の物であることが示され、謎は深まるばかり・・・(ちなみに、被害者から切り取った耳を家族に送りつけるというプロットはコナン・ドイル自身がホームズ第14短編「ボール箱」で使用している)

 番組を見ながら私が咄嗟に思いついた謎解きは「誘拐は被害者の『自作自演』で、存在が知られていなかった一卵性双生児の片割れから耳を切り取って夫に送りつけた」だったが、そうだとしたら行方不明者が二人、それも「うり二つ」の行方不明者が二人いなければならないので、いかにも無理が伴う「謎解き」であった。

 はたして、ホームズが番組でした種明かしを聞いて私はいつにもまして自らの不明を恥じたのだが、なぜことさら今回我が身の不明を恥じたのかというと、トリックの元となった「耳」の実験データを10年以上前から熟知していたからに他ならない。基礎となる科学についてよく知っていたにもかかわらず、ホームズに指摘されるまで、その知識を犯罪のトリックに結びつけることができなかったのだから、いつもホームズから馬鹿にされているワトソンと変わらない屈辱感を味わうこととなったのである。

 ホームズによる種明かしの根幹となったのは、ハーバード大学チャールズ・バカンティ教授が1997年にした「earmouse(耳マウス)」の実験である(Plastic and reconstructive surgery 100:297-302, 1997)。人間の耳をマウスの背中に育てるというグロテスクな実験だったのであるが、どうやってそんな手品をしたのかというと、まず、(1)生体内で分解され得る化合物を用いてヒトの耳の鋳型を作成、次ぎに(2)鋳型を軟骨細胞と培養、試験管内で「耳」の形をした軟骨塊を形成、最後に(3)ヒトの耳の形をした軟骨塊を、免疫能を欠く(=拒絶反応の起きない)ヌードマウスに移植、することでヒトの耳をマウスの背中に育てることに成功したのである。単純化しすぎることを恐れずにいえば、外部器官としての耳(耳介)は、軟骨塊を皮膚が覆っているに過ぎず、バカンティの耳マウスも「(耳は単純な器官なので)その気になればこんなことができますよ」ということを示したに過ぎない。知られていた技術・原理を応用して視覚的効果の大きい結果を示しただけの仕事だったので、科学的意義という観点から言うと、「極めて価値が低い」業績だったのである(発表された雑誌の名だけ見ても、「インパクト」の低さは明瞭だろう)。

 以上が今回の犯行のトリックの基となったバカンティ教授の実験(別名「バカンティ・マウス」)であるが、「犯人は同じ方法を自分の耳と自分の軟骨細胞と自分の背中を使って実施した」と、ホームズは看破したのである(元々本人の細胞なのだからDNAが一致するのも当然である)。もちろん、女性は行方をくらました後形成外科医と結婚していたという伏線があり、「必要な知識と技術を提供しうる共犯者がいた」というお膳立てが調えられていたのであるが、私は、昔、ハーバード系の施設で研究していた時代、軟骨細胞の分化調節を専門としていたこともあって、バカンティ・マウスのことはよく知っていた。さらに、バカンティ教授の講演を聞いたこともあったし、元プロの軟骨研究者として、「素人」のホームズよりも詳しい知識を有していたにもかかわらずトリックを見破ることができなかったとあって、我が身の不明を大いに恥じることとなったのである。

 以上が、今回のTV番組のトリックの詳細であるが、この話がなぜ、いま日本で話題になっているSTAP細胞と関係するのかというと、「バカンティ・マウス」のバカンティは、「リケジョの星」ともてはやされた小保方晴子研究者の、ハーバード留学時代の「恩師」に他ならないからである。

 もっとも、日本では「恩師のハーバード教授」ということで偉い学者のように思われているかも知れないが、当地では「耳マウスを作る様な『怪しげな』(際物的)科学者」というイメージでとらえられている。幹細胞や再生医学の領域では「アウトサイダー(傍流)」に位置し、同業者から尊敬される様な業績は何も上げてこなかったし、ずっと「権威」とは正反対の位置に立ってきた人なである。はっきり言って「世間に知られる業績は『耳マウス』だけ」という存在だったのである。

 今回、STAP細胞作成の論文がネイチャー誌に発表されたという報に接した際、私が最初に抱いた感想は「最終著者のバカンティは『おっちょこちょい』扱いされている研究者だけれど、大丈夫なのかしら」という物であった。結果として、私の危惧が当たることになってしまったのであるが、普通、まともに運営されている研究施設であれば日常茶飯に生データの検証が行なわれるので、データの切り貼りとか差し替えとかは起き得ない体制が調えられている。今回の研究は、太平洋を間にはさんだ二箇所で実施された経緯があっただけに、「この部分はハーバードで検証済み」或いは「理研で検証済み」という形で、チェックから漏れてしまったのだろうか?

 現在、「共著者の中でバカンティただ一人が論文の撤回に同意していない」ということであるが、元々一流紙に論文を連発するような位置に立ったことがないだけに、「ネイチャー論文」という「大きな魚」を逃がす気にはなれないのだろうか?

 論文発表時、当地ボストン・グローブ紙に「耳マウスでしか知られてこなかった傍流の学者が大成果を物にした」とする趣旨の記事が掲載されたが、いまのままで行くと、彼にとって、「今後も、業績らしい業績は、耳マウスだけ」ということになりそうな雲行きである。

Let Freedom Ring

 828日は、公民権運動のクライマックスとなった「ワシントン行進(The March)」の50周年記念日だった。50年前のこの日、人種差別解消を訴えて、全米から数十万人が参加して大行進・大集会が行われたのだが、このイベントの締めくくりに、マーチン・ルーサー・キング牧師が有名な「I have a dream」の演説をしたことは読者もよくごぞんじだろう。50周年記念の式典は「Let Freedom Ring」イベントと命名されたが、キング牧師の演説には、「I have a dream」以外にも、もう一つ有名なキー・フレーズが使われた。今回の記念式典のイベント名は、そのフレーズが「Let freedom ring」だったことに由来しているのである。

  Let freedom ring」は「自由(の鐘)を響かせよ」の意であるが、このフレーズを聴いて多くの米国人が連想するのがフィラデルフィアの「自由の鐘 (Liberty Bell)」である。独立宣言が発布された際にこの鐘が鳴らされたとする言い伝えがあるのだが、現在、この鐘は大きなヒビが入っているので、当時どんな音を響かせて独立戦争の闘士達を奮い立たせたのかは知ることができなくなってしまった。

 ただ、米国では「ヒビ入りの鐘」は「自由の鐘」と同義といってよく、ヒビ入りの鐘の意匠はフィラデルフィア市のトレードマーク化している。たとえば、フィリーズのチーム・ロゴにも使われ、本拠地シティズン・バンク・パークの外野正面には、ネオンライト製の巨大な「自由の鐘」が設けられている(もちろんヒビ入り)。フィリーズの選手が本塁打を打った後とか試合に勝った後とかの祝福に、この鐘が鳴らされるしきたりとなっているのである。 

 さらに、「自由の鐘」との連想で言うと、ボブ・ディランに「Chimes of Freedom」という曲がある。2年前にアムネスティ・インターナショナルが組織結成50周年を祝って、ディランのカバーばかりを集めた4枚組慈善CDアルバムを発売したことがあったが、そのときのアルバムタイトルが「Chimes of Freedom」だった。ディラン御大も(カバーではなくオリジナルの)「Chimes of Freedom」でアルバムに参加したのだが、「獄につながれ、虐待される政治犯・良心犯の釈放」をめざして運動しているアムネスティとすれば、「自由の鐘」は極めてふさわしいタイトルだったのである。

 というわけで、「let freedom ring」のフレーズは、「差別故に自由を束縛されている人々を解放する」とか、「獄につながれた人を釈放して娑婆に出す」とかの状況で使われることが多いのだが、この有名かつ「崇高」なフレーズが、あるコメディ映画の「ギャグ」に使われたことがあるので説明しよう。

 このフレーズが観客を笑わすために使われた映画とは野球コメディの傑作「頑張れベアーズ」(1976年)だった。ウォルター・マッソー扮する酔いどれ監督が、リトルリーグの駄目チーム、ベアーズを強くする話だが、監督の任務には、子ども達に野球を指導することに加えて、ユニフォームを作る資金を捻出するためのスポンサー探しも含まれていた。

 銀行とか商店とかの「まともな」スポンサーを見つけることができなかったマッソーは、散々苦労した挙げ句にあるスポンサーを見つけ出すことに成功した。子ども達のユニフォームの背中に、そのスポンサーの名とともに営業上のキャッチフレーズ「let freedom ring」が刷り込まれることとなったのだが、いかに事業運営上の根本理念が「let freedom ring」であったとはいっても、マッソーが見つけ出したスポンサーがアムネスティ・インターナショナルでなかったのは言うまでもない。

 では、「let freedom ring」をキャッチフレーズとして「獄につながれた人を娑婆に出す」ビジネスを営んでいたスポンサーは何であったかというと、それは「Chico’s Bail Bonds(チコの保釈金ローン)」だった。収監された容疑者に対して保釈金を用立てるビジネスであったのだが、子ども達のユニフォームに刷り込まれた「チコの保釈金ローン」社のロゴは、もちろん「ヒビ入りの鐘」であった(頑張れベアーズのスポンサー名付きユニフォームはこちら)。

口角炎再発!

 2週間ほど前から「肉体改造計画」に取り組んでいる。

 きっかけは7月に3週ほど日本に帰ったことだった。久し振りに、駅まで歩いたり、駅で階段の上り下りをしたりしなければならない生活を強いられて、「足が弱っている」ことを痛感したのである。

 もともと、駄文を書くことを生業としているので運動不足となりがちだったのだが、ここ3年間で2回足首を捻挫した。各回とも、まともに歩けるようになるまで二ヶ月ほどかかったこともあり、歩くことが徐々に苦痛となっていた。苦痛になるとますます歩くのが億劫になり、悪循環に入ってしまったのである。しかも、米国郊外の暮らしは車での移動がメインとなるため、歩く機会はもともと少なかった。

 ところが、日本では、歩かなければどこにも移動できない。否も応もなく歩かされることになったのだが、数分ほど歩き続けると、下腿・上腿・股関節・腰部に痛みが襲い(痛む場所はその時々で変わった)、速度を遅くしたり、休んだりしなければならなかったのである。

  私は10年ほど前に勤め人であることをやめた時から、「世の中に寝るほど楽はなかりけり。世間の馬鹿は起きて働く」をモットーとして生きてきたのだが、さすがに、自分の肉体の衰えに危機感を抱かざるを得なかったのである。

 そこで、「肉体改造計画」に着手することにしたのだが、まず、したことは、いわゆる「万歩計」を購入することだった。実際に使ってみると、昔の物と比べて機能がはるかに向上し、歩数だけでなく、活動時間や消費カロリーも計測する。しかも、一日の目標を達成すると、「万歳」で祝福するディスプレイが表示される。単純なしかけとはいえ、「今日も万歳が見たい」と張り切るので、少なくとも私にとってモーチベーション増進の効果は抜群だった。

 米国に戻ってからずっと、万歩計をつけて暮らしているのだが、いきなり無理な運動をしてあちこち痛めたのでは元も子もない。そこで、何年か前に衝動買いしたトレッドミルを活用することとし、「歩く」ことをメインとするだけでなく、「歩く条件が厳密にコントロールできる」環境での肉体改造計画にとりかかったのだった。

 速度・距離・歩く際の勾配等、徐々に負荷を上げてきたが、開始後2週半のいま、一日の総歩行距離「4マイル(6.4 km)」をノルマとして頑張っている。しかも、幸いなことに私のトレッドミルは扇風機付きなので、汗が吹き出し始めても、風を浴びながら快適に歩き続けることができる。各回、0.5マイルとか1マイルとか目標を決めてトレッドミルに乗るのだが、ノルマを達成した後、顔に浴びる風は特に心地よく感じられるのである。

 と、肉体改造計画は順調にスタートしたものの、一週間目くらいから口角炎が再発したので、私はびっくり仰天した。口角炎との戦いで苦労した経緯は以前に述べたが、これまで、発症は真冬に限られていた。「口角部に吹きつける寒風が皮膚にダメージを与え、カンジダが感染しやすい足場を作るから発症するのだ」というのが私の仮説であっただけに、真夏に口角炎を発症したことに、私はショックを受けた。

 幸い、どうすれば治るかはわかっていたので、自分で作ったプロトコールによる治療を始めたものの、これまで発症することのなかった真夏の発症だっただけに、私は言いようのない不安感にとらわれることとなった。「口角炎を発症しやすくする基礎疾患があり、その基礎疾患が重くなっている」可能性を考えざるを得なかったからである。癌、免疫不全、耐糖能異常、・・・etc. あまり嬉しくない基礎疾患の名があれこれと思い浮かんだ上、どれであるかはわからないその基礎疾患が重くなっている可能性を考えなければならなかったのだから、嬉しいはずはなかった。

 もっとも、口角炎が発症したからといって肉体改造計画を中断する理由になるとは思えなかったので、肉体改造計画はそのまま続行した。

 口角炎の再発が肉体改造計画と関連していたことがわかったのは、再発から数日後のことだった。4マイルのノルマを達成後、トレッドミル付属の扇風機が吹きつける心地よい風を顔に受けながら、私は、再発の原因が目の前で回っていることに気がついて愕然とした。扇風機が送り出す風が口角の皮膚を乾燥させることで、季節外れの口角炎を誘発していたのである。

   ・・・・

 その後、トレッドミルに乗る際に扇風機を使わないようにしているのは言うまでもないが、ここで口角炎治療のおさらいをする。私が以前に書いた口角炎のコラムには、いまだに毎週100人以上のアクセスがあり、同病に悩む方は少なくないようだからである。

1)      少なくとも毎食後及び就寝前に以下の処置を繰り返す。

2)      石鹸で洗顔。特に口唇・口角部は念入りに洗う。

3)      顔を拭いた後、ティシュー・ペーパーで口唇・口角の水分を除去。

4)      口角部にカンジダに抗菌力のある抗真菌剤を少量塗布。

5)      ワセリンを口角・口唇に塗布。口角部だけでなく、口唇全体に(口を一周して)ワセリンを塗るのが早く直すこつなので、ワセリンをけちらないように。

 口角炎に悩む方々が、一日も早くその苦しみから解放されることを願ってやまない。

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