アメリカで生まれ育った娘が小学生三年生になった頃、「友達はみな人気ミュージシャンのコンサートに行っている。誰のコンサートでもいいから自分も連れて行ってくれ」と頼んできたことがあった。「本当に誰でもいいのだな?」と念を押すと「いい」と言うので、ボブ・ディランのコンサートに連れて行った。生娘の純潔をヒヒ爺に売り飛ばす様な疚しさを覚えないわけではなかったが、娘もあまりお気に召さなかった様で次ぎに誘ったときは断られてしまった。

 娘の「純潔」を奪ったディランが、ノーベル文学賞を受賞した。半世紀近くファンを続けて来た私としては、今回の受賞ほど喜ばしいことはない。

 私が初めてディランの音楽に触れたのは、娘と同じく、小学生の時(1960年代半ば)だった。とはいってもディラン自身のパフォーマンスではなく、ジョーン・バエズやピーター・ポール&マリーで、「Blowin' in the Wind」や「Don't Think Twice, It’s Alright」等の初期の名曲に触れたのである。いわゆるフォークソング・ブームの時代だったが、「クリーンアップ」された他のミュージシャンの演奏で「減感作」を施しながら入門したので、娘のような「拒否反応」を起こさずに済んだのだろうか?

 やがて、ディラン自身のアルバムを買い集める様になったのだが、高校生の頃には「世界で一番偉いソング・ライター」と崇めるまでになっていた。何よりかにより、他の凡百のポピュラー・ソングの陳腐さと違い、ディランの歌詞には「発想の自由さと深遠さ」が際立っていたからである。

 しかし、10代始めの時からレコードでしか知らなかったディランを、生で初めて聞くには20代半ば(1978年)まで待たなければならなかった(私は医学部5年生だった)。ディランが初来日するという電撃的ニュースを知ったのは土曜日の夕刊だったが、私はあこがれのディランの初来日に狂喜すると同時に困り果てることとなった。というのも、日本初公演のチケット売り出しは翌日曜日の朝早くだというのに、当時の銀行ATMは土曜の午後・休日にはオペレートされていなかったので、チケットを買うのに必要な現金を用意する手立てがなかったからである。困り果てた私は、恥を忍んで、行きつけのスナック(京都市左京区吉田本町の「楡」という店だった)のママ(節ちゃん)に借金を申し込んだ。当時既に、酔うたびにディランの歌詞を引用し、その偉大さを喧伝する癖があった私に対し、節ちゃんは二つ返事で金を用立ててくれた(今、学生に気安く金を貸してくれるスナックのママなど世の中に存在するのだろうか?)。翌日、国鉄の始電で大阪梅田は丸ビルでのチケット売り出しに向かった私は、大阪公演3日間すべてのチケットを入手したのだった。

 初来日コンサートの会場は、松下電器体育館だった。ディランの登場を胸をときめかせながら待つ間、私は、ステージ横に掲げられた巨大な額に目を奪われたことを今でもよく覚えている。創業者松下幸之助の手になる「創業の心意気 創意と工夫」と認められた書だったが、初めて臨んだディランのコンサートも「創意と工夫」に満ちた物だった。まるで、「自分が書いた曲をどう解釈しようが俺の自由だ」と言わんばかりに、レコードで聞き親しんだ曲に自由奔放なアレンジを加えて、原型をとどめないまでに「reinvent」していたからである。「ディランは自由奔放な発想で曲を書くだけでなく、自分が書いた曲を同じく自由奔放にデフォルメする」ことに私は大きな感銘を受けた。すぐ近くにいたアメリカ人の観客達が演奏されている曲がわからず、「What is this ?」と訝り合うほどだったが、ディランのコンサートには「曲当てゲーム」の楽しみがあることを、このとき、初めて体験したのだった。

 2度目の日本公演はトム・ペティ&ハートブレーカーズとの共演(1985年)だったが、今でもよく覚えているのはアンコールで披露した彼のギター・ソロである。「上を向いて歩こう」を演奏したのだが、日航の御巣鷹事故で坂本九が亡くなったばかりとあって、私はディランの奏でるギターを聴きながら涙がこぼれてくるのを抑えることができなかった。

 その後、1990年から24年間ボストンに暮らしたこともあり、ディランのコンサートには数え切れないほど赴いた。しかし、いつ赴いてもアレンジの過激さはいっしょで、決まって「曲当てゲーム」にいそしまなければならない羽目になるのだった。ディランは、フォークに始まって、ロック、カントリー、ゴスペル、・・・と音楽のジャンルを自由奔放に変えて自分自身のreinventionを繰り返すとともに、自分が書いた作品そのものに対しても常に新たな解釈を求め、reinventionすることを止めずにきたのである。

 ディランのやり方と正反対なのがポール・マッカートニーで、彼は「観客はレコードで聞き知った曲を聴きにやってくる。アーチストとして新たな工夫を加えたいという欲求があるのは当然だが、プロとしては観客の期待に応える義務があり、新たな工夫はそれとわからない程度にとどめる」という意味のことを言っている。実際、今年の7月もボストンはフェンウェイ・パークでマッカートニーのコンサートに行って来たが、ビートルズのヒット曲に観客がシング・アロング(唱和)できる演奏を心がけていることに変わりはなく、「reinvention」とは真逆の「お定まり」に徹していた。

 ディラン自身が自作の解釈をしょっちゅう変えるくらいだから、ディランをカバーするミュージシャン達もその解釈の独創性を競っている趣があり、私は昔からディランのカバー・アルバムも大いに楽しんで集めてきた。例えば、人権擁護団体のアムネスティが出したアルバム「Chimes of Freedom」(2012年、4枚組CD・全73曲)や、異なった俳優がディラン役を演じた映画「I’m Not There」のサウンドトラック(2007年、2枚組CD・全34曲)は私のお気に入りである。

 曲として一番好きなディランのカバーは、ジャズ・ピアニスト、キース・ジャレットの手になるMy Back Pagesだが、彼の演奏を聴くまで、この曲のメロディーの美しさを私は完全にunderestimateしていた(ディランのだみ声はそのメロディーから美しさを何割か差し引く効果があるようである)。

 ところで、あまたあるディランのカバー・アルバムの中でも、「デフォルメの過激さ」で群を抜いているのが、世界各国のミュージシャンの演奏を集めたアルバム「From Another World」である。ディランの名曲が、それぞれの国の言語とエスニックなアレンジで歌われているのであるが、中でも圧巻だったのがアボリジアーニのミュージシャンが演奏するFather of Nightだった(アボリジーニ・バージョンを聞くにはサイト上部の▶ボタンを押すこと。ディランのオリジナル・バージョンはこちら)。ディラン本人が聞いても絶対に自分の曲とはわからないのではないだろうか?


(読者の皆様へ 日本に臨床医として復帰した経緯は別の場所に書いたが、医師としての務めが忙しく、本ブログは長らく休止していた。しかし、突然の吉報に、慌てて今回の原稿をアップした次第である。姉妹ブログの「MLBコラム」も再開したのでこちらの方もよろしく)