2015年01月18日

壬生寺(京都府京都市中京区)

1月17日の寺社めぐりは、本能寺で打ち止めにして、二条城前のANAクラウンホテルに投宿。
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夕食は、四条新町東入ルにある洋食の「亜樹」さんで、エビライスとカキフライ。
エビライスは、要するにエビ入り炒飯のことだが、そこは洋食屋さんのそれ、 洋風の味がするものである。
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近所のバーで酒を過ごしてから、タクシーでホテルへ。どういうことか、ツインにアップグレードされていて、広々として部屋だったが、立派な風呂にも入らず、本当に寝ただけ。


さて、翌朝。
目が覚めたら10時半を過ぎていた。大寝坊である。
もしこれが仕事の泊まりだったらと思うとゾッとはするが、とくに決まった予定があるわけではない。広々としたバスに入れなかったのは口惜しいが、まあよい。とりあえず、11時がチェックアウトなので、大急ぎで身支度して、脱兎のごとくフロントへ。

手続きを済ませ、堀川通を横断。ホテルの向かいにある二条城の駐車場の事務所へ。
ここ二条城には、レンタサイクルのターミナルがある。碁盤の目になっている京都市街。自転車での観光が便利なのでは、と思ったのだ。

無事に借り出し、まずは四条室町にある、今日宿泊予定のビジネスホテルへ、荷物を預けに行く。
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その途中、新福菜館三条店で、朝食のような、昼食のような。
中華そばの肉多め・ねぎ多めの麺硬めに焼き飯。「京風」ではなく、味濃いめな「京都のラーメン」。
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ホテルに荷物を置いて、四条通を西進。堀川、大宮と過ぎて、坊城通との交差点を左折。狭い坊城通を南行してしばらく行くと、やがて右手に定規筋の塀を構えたお寺の門前に出る。
壬生寺。古くは、心浄光院、宝憧三昧寺、地蔵院(白河帝行幸の際に勅賜)といい、律宗の別格本山である。(お寺のHPは→こちら
そしてなにより、壬生寺といえば、「壬生狂言」と「新選組」の寺である。
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表門(正門)。
壬生寺は、正暦2年(991)に、近江・園城寺(三井寺)の僧・快賢僧都が、自らの母の供養のため、五条坊門壬生に地蔵菩薩を本尊として開いたと伝わる(一方で、奈良時代に、律宗を開いた鑑真が開創し、快賢が再興したとの伝もあるようである)。このような由緒から、開創当初は、「小三井寺」ともいわれたようだ。都の鬼門である叡山に対して、裏の鬼門を守護するためのものであるともいう。
先述の白河天皇のほか、鳥羽上皇なども行幸した。鎌倉期に現在の地に遷され、平政平の願いにより、圓覚上人が再興した。ちなみに、融通大念仏、いわゆる「壬生狂言」は、この円覚上人がはじめたものといわれる。
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一夜天神堂。現在の堂宇は、江戸末期の嘉永5年建立で、一夜天神と金毘羅大権現、六所明神(壬生寺の鎮守)がまつられている。
名の由来だが、菅原道真公が、筑紫大宰府に流謫の身となるにあたり、この地に一夜を明かした(親戚を訪ねたともいう)。その後、江戸の初期ごろにまつられるようになったのだという。
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中院(ちゅういん)。洛陽三十三所観音霊場の28番札所で、十一面観音菩薩をまつる。かつては、中之坊と呼ばれ、11あった壬生寺の塔頭のうち、廃仏毀釈の荒波を超えて、唯一残った。
江戸・寛永年間の創建とされ、1829年に現在のお堂が再建。
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阿弥陀堂。平成14年再建の新しい建物。阿弥陀如来三尊像を安置し、授与所もある。
また、地下には、歴史資料室があり、寺宝や新選組関係の資料を展示するほか、京都十二薬師霊場の4番札所の札所本尊である歯薬師如来三尊がまつられている(なぜ「歯薬師」というかだが、お薬師さまの微笑みが、「ははは」と笑っているように見えるから、だそうだ(つまりは、洒落?)。

そして、お堂の奥には、壬生塚という新選組隊士の墓がある。
なぜ、この壬生が新選組ゆかりの地となっているかについてだが、文久3年(1863)3月、この地で新選組が結成されたからに他ならない。寺外にある八木邸、前川邸、南部邸(現存せず)の3箇所が屯所と定められた。寺の境内では兵法の調練が行なわれたという。
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右手が阿弥陀堂、左手が弁天堂。弁天堂は、明治27年再建で、本尊の弁財天は、清水寺延命院から遷されたものであるという。
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水掛地蔵堂。江戸中期の石仏地蔵をまつる。
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鐘楼。嘉永4年の再建、鐘も嘉永元年の再鋳。
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千体仏塔。平成元年に創建1000年を記念して建立。ミャンマーのパコダを模して一千体の石像がおさめられている。これは、明治のころ、市電の開設など、都市開発・区画整理の際に各地から集められたもの。
なお、このほかにも境内には3000体ほどの石仏があり、京都の夏の終わりを告げる行事「地蔵盆」の際には、町内に地蔵のない町に地蔵を貸し出すのだそうな。 
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本堂。江戸時代に造立されたお堂は、昭和37(1962)年7月に放火によって焼失。ご本尊の地蔵菩薩半跏像も焼失した。現在のお堂は、1970年の落慶で、現ご本尊の延命地蔵菩薩立像(国重文・平安期の作)は、本山の唐招提寺から遷されたものである。
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ご朱印は、本堂わきの寺務所兼御朱印所にていただく。今回は、ご本尊の地蔵尊を頂戴したが、先述のとおり、洛陽三十三ヶ所観音霊場、京都十二薬師霊場など、いくつかの札所になっているので、そちらも頂戴できる。

2015年01月17日

卯木山本能寺(本䏻寺/京都府京都市上京区)

本能寺といえば、日本の歴史史上、一、二を争う著名なお寺であろう。

自分の家の菩提寺の名はわからなくとも、本能寺なら知っている・・・ということはまさかにないだろうが、そうであっても不思議ではないほどに、天下一統を目睫にした織田信長が、家臣である明智光秀の謀叛によって斃れた「本能寺の変」は、衝撃的な事件であろう。その原因や、”黒幕”をめぐっては、日本史上最大の謎、解けないミステリ といって過言ではあるまい。
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本能寺は、京都市中京区、寺町通御池下ルにある。法華宗本門流の大本山、「日蓮聖人門下京都十六本山めぐり」の一寺である。(お寺のHPは⇒こちら
寺の北側、御池通に面して、「ホテル本能寺」がある。もともとは檀信徒向けの宿泊施設であるこのホテルは、多くの修学旅行生を受け入れていることでも知られる。かくいう私も、中学校の修学旅行でお世話になった。 
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京都指折りの繁華街・寺町京極の北端にあることや、戦国の雄・織田信長にゆかりのお寺であることもあって、詣でる人も多いが、実は、本能寺の変のときには、この寺町御池に本能寺は存在していない。
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寺町通に面した総門。

本能寺は、室町初期の応永22年(1415)に、現在の京都市下京区、油小路高辻のあたりに創建された。通り名でいえば、南北を仏光寺通と高辻通に、東西を西洞院通と油小路通に囲まれた一隅あたりである。
日蓮聖人の流れを汲み、妙顕寺にあった日隆上人が、法華経の教義上の論争から、寺を出て、小袖屋宗句なる人物の寄進を受けて開いたのが本応寺である。

寺はそのわずか3年後、教義上の論争(=本迹勝劣の論争)で、対立する月明上人(妙本寺五世)により破却され、日隆上人は、洛中を一時離れることになる。
約10年後の永享元年(1429)に宗句の支援で再び戻り、現在の西陣のあたりに再建。 

その4年後、六角大宮の西、四条坊門(現在の蛸薬師通)の北に、檀那・如意王丸が土地を寄進して建立。この際に、寺号が現在の「本能寺」と改められた。

その後、足利将軍家の庇護も受け、洛中法華二十一ヶ寺の一に数えられる。寺域は東西南北それぞれ一町に及び、有力な町人層である町衆が法華宗門徒であったことから、大いに栄えた。

しかし、他の法華寺院と同様に、天文5年(1536)の天文法難(天文法華の乱)で焼き討ちに遭い、いっとき、洛中を離れて堺に難を遁れた。

帰洛し得たのはほぼ10年を経てのことである。四条西洞院かいわい、現在の京都市立堀川高校あたり、通りで言えば、南北は蛸薬師通と三条通に、東西は西洞院通と油小路通にはさまれた一帯であったものと考えられる。
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境内にある信長公廟。

天正10年(1582)6月2日払暁。織田信長は、家臣の惟任日向守・明智光秀の軍勢約三千に、宿舎にしていた本能寺を襲われ、落命した。

しかし、ではなぜ、信長が本能寺で斃れることになったのであろうか。
本能寺の公式サイトでの考察をもとに、その理由を考えてみよう。

その1:信長と住職・日承上人のかかわり。
信長は、住職であった日承上人(伏見宮邦高親王の子)と親しかったといわれる。
これは、宗教的な帰依という側面のほかに、伏見宮家出身である日承上人に朝廷との橋渡し役を望んだ節がある。上人を通して金品を献じたり、連絡役を依頼したり、というようなことがあったのではないかと考えられる。

その2:本能寺が防禦に優れた施設であったこと。
本能寺の四周は、幅約2〜4メートル・深さ約1メートルほど堀がめぐらされており、石垣や土居なども設えられていた。また、寺の東側には、西洞院川が流れていて、堀の役目を果たしていた。数次にわたる他宗からの迫害を踏まえての防禦であったのではないかと推測されるが、信長にとっても、宿所とするにはうってつけだったのではあるまいか。

その3:種子島とのかかわり。
本能寺は、布教の過程で、種子島にも多くの門徒を置いていた。この時期、種子島は、鉄砲・火薬等、最新の武器の生産拠点。本能寺ルートで依頼をすると、その調達が容易であった、ともいわれる。

もともと、信長には、「二条御新造」という京都での居館があった。現在の烏丸御池の北西あたりだが、わずか2年ほどで、正親町天皇の皇太子・誠仁親王にこの居館を譲ってしまっている(二条新御所。余談ながら、変のおり、信長嫡男・信忠は、最終的にこの新御所で討ち死にしている)。
誠仁親王と信長が昵懇であったことを考えると、この居館献上自体は別段不思議なことではないが、他面で、信長は、京洛を政治の中心地とする意思がなかったのではないか、とも考えられる。
必要があるときに上洛し(といっても、安土城からだからすぐだが)、宿を取る必要があれば、守りの堅い本能寺で充分、そう考えたのではないか。
少なくとも、次代の豊臣秀吉が築いた聚楽第や京都新城、徳川家が造営した二条城のような、大規模な居館は、この時点ではもうけていない。

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本堂。室町時代の建物を模して、1928年に再建。

本能寺の変で灰燼に帰した本能寺は、天正19年(1591)に豊臣秀吉の命で現在の地へ移転。これは、秀吉の京都の都市改造の一環であり、現在の寺町通界隈には、多くの寺が移転させられている。

江戸時代に入って、1788年の天明の大火、1840年の蛤御門(禁門)の変による火災で二度にわたり焼失。

これにかぎらず、本能寺は多くの災厄に遭っている。火災で焼失すること五たび、本堂が建造されること七たび、寺地移転も四度に及んでいる。
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もういちど、総門わきの標柱を見ていただこう。
本能寺の「能」の字。つくりの部分は、カタカナのヒを縦に重ねるのが通常である。
しかし、ヒ=火が重なることを忌避し、つくりが「去」の異体字「䏻」を使っている。ヒを去る、という意味もこめられている。
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御首題は、寺務所の受付にて。御首題のほかに、「妙法」の御朱印もいただけるし、オリジナルの御朱印帳も数種ある。
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お参りがすんで、ろくろく昼ごはんを食べていなかったので、麩屋町三条上ルにある「晦庵河道屋」に入り、鴨なんばを食べる。こぶりな丼に入っているので、虫やしないにはころあいである。


聞法山頂妙寺(京都府京都市左京区)

妙傳寺から二条通を西へすすみ、まもなく川端通に出ようというところで、頂妙寺の裏手に出る。
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こちらは仁王門通に面した正面側。
聞法山頂妙寺は、日蓮宗の本山・由緒寺院。洛中法華二十一ヵ寺のひとつで、室町時代には足利将軍家の祈願所ともなった名刹である。妙傳寺同様に、「日蓮聖人門下京都十六本山めぐり」「日蓮宗京都八本山巡り」に属している。
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天保7(1836)年造営の表門。当寺は、文明5(1473)年、日祝が、細川勝益の寄進で開山した。
寺号である頂妙寺は、細川勝益の法号・頂妙院殿から採られ、山号の聞法山は、江戸時代に東山天皇から贈られたものである。
創建後は、新町通長者町、高倉中御門(現在の京都御苑の南側)へ移転する。
このころ、洛中法華二十一ヵ寺のひとつに数えられたが、天文法難で焼き討ちに遭い、洛外に追われた。
1542年、後奈良天皇から洛中復帰の勅許が下し置かれ、高倉中御門に伽藍を復興する。
ところが、天正元年、織田信長の上京焼き討ちによって、鷹司新町(新町通長者町とほぼ同じ)に移転。天正11年に豊臣秀吉の命で高倉中御門に移転するが、江戸初期・寛文13(1673)年に御所の整備により、現在地への移転を命ぜられた(その後の延宝大火後ともいう)。
天明8(1788)年の天明の大火で再び焼失。その後再興された。
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仁王門。運慶・快慶の手になる持国天・多聞天がまつられている。
正面側を通る「仁王門通」は、三条通の蹴上の発電所の脇から、平安神宮の大鳥居の前を通って、川端通に抜ける通りだが、それはこの頂妙寺仁王門が由来である。
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鐘楼。
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祖師堂。江戸・享和元年(1801)の造立。
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本堂。江戸・天保11年(1840)の造営。ご本尊は、十界大曼荼羅。
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当寺は、俵屋宗達ゆかりのお寺で、重文の「牛図」などの寺宝のほか、宗達のものと伝わる墓もある。
「琳派四百年」で盛り上がる今年は、毎冬恒例の「京の冬の旅」での特別公開の中に入っている。
寺宝を庫裏にて公開していたので、その受付に声をかけ、書置きの御首題をいただいた。


法鏡山妙傳寺(西身延/京都府京都市左京区)

交叉点でいえば、白川今出川から東山二条へ。観光地でいえば、銀閣寺から平安神宮へ・・・これはざっくりしすぎか。
とにかく、市バスを使って移動。
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日蓮宗本山・由緒寺院の妙傳寺(妙伝寺/お寺のWEBサイトは→こちら)。

前にも書いたが、日蓮宗では、現在、祖山(身延山久遠寺)、霊跡寺院(千葉・中山法華経寺、東京・池上本門寺など14ヵ寺)、由緒寺院(東京・堀ノ内妙法寺など42ヵ寺)と一般寺院に分かれているが、昭和16年に本末が解体されるまで、総本山(久遠寺)、大本山7ヵ寺、本山49ヵ寺が存していた。制度としてはなくなったが、現在もこの称を許されているため、妙伝寺は、本山であり、かつ由緒寺院ということになる。
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妙伝寺は、別名を西身延(にしのみのぶ)という。
室町時代の文明9年(1477)に、日蓮宗の総本山たる身延山久遠寺が遠いため、身延中興の三師・日朝上人の命で、円教院日意上人が、日蓮大聖人の御真骨を分骨奉安し、同時に身延七面山に勧請されている七面天女と同木同体の霊体を安置したことが、その始まりである。
近畿以西の檀信徒のよりどころとして、西身延と称されるに至ったのである。
このような由緒から、入り口には、「日蓮上人御分骨之道場」の石柱が建つ。
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山門。文明の創建時は、一条尻切屋町付近に創建されたが、天文5年(1536)に起きたいわゆる「天文法難」によって灰燼に帰し、5年後に、四条西洞院に再建。のち、豊臣秀吉の命で、京極二条に移転した。このころには、摂家の一条家や清華家の四条家など、名だたる公卿の菩提寺ともなっており、第十四世・日勇上人は、その学徳の高さから、後水尾天皇の后である東福門院和子から、金紋袈裟を賜っている。また、日蓮宗の京での触頭でもあった。

現在の地に遷ってきたのは、江戸宝永年間のことで、大火により灰燼と帰したためである。
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「片岡碑」。明治から昭和初期にかけての歌舞伎役者・十一世片岡仁左衛門を記念しての碑である。当寺は、東京の池上本門寺などとともに、松嶋屋・片岡仁左衛門家の菩提寺である(初世の墓所である)。
仁左衛門家は、日蓮宗がお宗旨で、そういえば、池波正太郎が、大阪の定宿のホテルで、たまたま同宿した十三世(当代の父)の部屋から、朗々とお経を唱える声が聞こえてきた、と随筆に書き残しているが、そのお経はおそらく法華経であったのであろう。
そういったご縁もあってか、近年、祇園の南座で毎冬行われる顔見世の際に、四条通に面した入り口にあがる「まねき」は、当寺の客殿で書かれているのだそうな。
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日蓮大聖人の御分骨をまつる御真骨堂。一条家や四条家の位牌などもまつられている。
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本堂。江戸中期・宝暦14年の建立。ご本尊のほか、錐揉みの祖師像、七面大明神、ご開山の日意上人像などが奉安されている。
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御首題は、庫裏にて頂戴する。WEBサイトによれば、西身延と書いた御朱印も頂戴できる由。

なお、当寺は、「日蓮宗京都八本山巡り」の一寺となっている。
これは、妙顕寺、本圀寺、頂妙寺、妙覚寺、本満寺、本法寺、立本寺、妙傳寺という日蓮宗の大本山・本山を巡ろうというもの。本法寺さんのサイトでは、「京都八本山会」として、「集印行脚のすすめ~美しい京都をめぐる法華信仰の旅~」と謳っている。

一方で、この日蓮宗八ヵ寺に、宥清寺、本能寺、寂光寺、要法寺、本禅寺、妙蓮寺、本隆寺、妙満寺の法華宗系諸宗派の本山八ヵ寺を加えた「日蓮聖人門下京都十六本山めぐり」というのもある(宥清寺については、御首題の扱いがないもよう)。

もとを発すと、天文の法難前から存した洛中法華二十一ヵ寺に端を発するようで、21ヵ寺すべてが焼き討ちにあった法難後、15ヵ寺のみが再興したが、現在の十六本山は、近代にできた宥清寺をのぞき、すべてが洛中法華二十一ヵ寺の中に属するか、源流を発している。


清泰山浄土院(大文字寺/京都府京都市左京区)

ようやく雪も小やみになった大原のバス停から、京都バスに乗り、国道367号を南下。京都市内から滋賀を経て、福井・若狭へと抜けるこの道は、「若狭街道」といい、別名を「鯖街道」とも称する。
京都バスで、高野橋東詰バス停まで出て、市バスに乗り換え。百万遍のバス停でもう一度乗り換えて、銀閣寺道バス停まで。
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銀閣寺道バス停は、南北に走る白川通と東西に横切る今出川通の交差点・白川今出川にある。
バスを降り、今出川通を東へ進む。橋本関雪記念館・白沙村荘などを右手に見つつ進むと、正面に聳える山がの、鬱蒼と樹木の茂る山容の一部分がきれいに刈り払われていることがわかる。

なにあろう、京の晩夏の風物詩、五山の送り火で有名なる大文字山。刈り払われている部分は、大文字の火床となる部分である。大文字山は、東山三十六峰のひとつ、如意ヶ嶽(標高472メートル)の支峰である。
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今出川通のどん詰まりは、銀閣寺境内への入り口。石畳の参道のとっかかりである。さすがは世界遺産、どちらかといえばオフシーズンであろうこの時期にもかかわらず、人の行き来は絶えない。

その銀閣寺の入り口のすぐ端に建つのが、清泰山浄土院。浄土宗のお寺で、「大文字寺」の通称でも知られる。
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京都を代表する大寺院の傍ら。立地としては申し分ないが、観光寺院ではないし、境内が広いわけでもないので、実に静かである。

そんなお寺だが、いくつか書きのべておくべき点がある。

ひとつは、この東山の地にかつてあった、「浄土寺」という寺の名を引き継ぐ寺であるという点。
現在も、白川今出川から南の一帯で、浄土寺という名を冠した住所の一帯がある。
これは、今の銀閣寺一帯付近にかけて、「浄土寺」というお寺があったことに由来がある。
平安期の寛仁3年(1019)、第25世天台座主の明救(醍醐天皇の孫)が、天台宗のお寺として創建したことが記録にみられるという。ただし、それ以前にお寺は存在していたようだ。
時代下って室町時代となり、京の寺の例にもれず、応仁の乱にて焼亡。続いて、足利8代将軍の義政が、当地に東山殿を造営することとなり、浄土寺は相国寺の西手に遷されることとなった(この浄土寺はのちに廃絶)。
その後に、残された草堂を浄土宗の僧・泰誉浄久が浄土宗のお寺として再興し、江戸・享保年間に、随誉の手によって堂宇が整えられた。

そういったことで、地名に残る浄土寺が、院には変われど残されたわけである。

もうひとつ、当寺の通称「大文字寺」について。
いうまでもなく、五山の送り火のうちの「大文字」を管理するわけである。送り火前日の8月15日には、護摩木に祈願事を書いて奉納する人が後を絶たない。
この護摩木は、送り火当日に山上に運ばれる。弘法大師をまつる山上の廟堂では、浄土院のご住職とお檀家さん方を中心にした送り火の保存会の皆さんによる法要が営まれる。夜20時をめがける点火中も、延々読経は続けられる。
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境内にまつられている丹後局・高階栄子の像。
高階栄子は、平安から鎌倉にかけての女性で、後白河法皇のそばに仕えた平業房の妻となったが、政変により、夫が平清盛によって処刑される。その後、夫の旧主・後白河に仕え、寵を得る。ほぼ20年にわたって、政務にも介入し、権勢をふるった。その様から、「日本の楊貴妃」とも称された。
世の転変で、朝廷を去ることになってからは、夫の旧領にあった浄土寺に住み、「浄土寺二位」と称された。
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本堂。ご本尊は阿弥陀如来坐像。平安時代の作と伝えられ、旧浄土寺にあった仏様とも、足利義政の持仏ともいう。
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御朱印は、大文字寺らしく、大文字山と大文字が象られている。
ちなみに、京の通称寺霊場の21番札所となっており、本堂脇壇に安置されている文殊菩薩は京都文殊霊場・知恵の寺めぐりの3番札所でもある。


魚山大原寺実光院(京都府京都市左京区)

勝林院を出て、雪の中を三千院の方向へ戻る。

その道の左手、きれいに手入れされた一劃は、第82代・後鳥羽天皇、第84代・順徳天皇父子が葬られている大原陵である。承久の乱において敗れ、隠岐・佐渡へ流謫の御身となった両帝は、配地で崩御の後、それぞれにおいて荼毘に付され、ご遺骨は京へ還り、この地に葬られた。これは、後鳥羽帝の子で順徳帝の弟である尊快入道親王が梶井門跡であったがため、という。
両帝のご遺骨は、尊快入道親王が造立し、江戸中期に再建された大原法華堂に安置されていたが、明治になって、当地が両帝の陵所に治定され、大原陵として整備されると、ここに納められたと伝わる。
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さてその大原陵と参道を挟んで反対側にあるのが、実光院。勝林院の子院にあたる、天台宗のお寺である。(お寺のHPは→こちら

大原寺の子院には、宝泉院、実光院、普賢院、理覚院があるが、もともと、実光院は、現在の大原陵のあるあたりにあり、大正8年に、大原陵の整備されるに及び、無住となっていた普賢院・理覚院両院のあった現在地に移転した。
さらに歴史をたどれば、平安期の長和2年に、慈覚大師円仁を開祖として、9世の法弟である大原入道少将・寂源が建立、室町初期の応永年間、宗信法印により再興されたと寺伝にある。
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門の両脇、参道にそって、穴太積みの石垣が繞らされている。

門をくぐって、拝観料を払い、客殿へ通る。
客殿には、ご本尊の地蔵菩薩坐像が安置されている他、編鐘、サヌカイト製の石琴など、声明にかかわる楽器類が展示されている。
そして、実光院といえば、庭園・契心園であろう。客殿に南面する池泉鑑賞式の庭園である。江戸後期に築庭され、池泉には、律川から水がひかれている。また、秋から春にかけて花を咲かせる「不断桜」も見もの。
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御朱印は、拝観受付時にお願いしておけば、帰りに頂戴できる。

さて、こちらの実光院は、私にとっては、曾遊の地である。今を去ることウン十年前。中学3年のときの修学旅行で、京都を旅した際、拝観に立ち寄っているのだ。今となっては、ほとんどどこに行ったか忘れているが、おりしも梅雨どきで、雨に煙る二年坂と実光院の契心園の景だけは、今も思い出に残っている。

あれから幾星霜。抹茶とお菓子をいただきながら、いま再び、庭を眺める。寺庭さんに、庭に下りるのを勧められたが、雪未だ降り熄まざれば室内からの見物にとどめたが、胸に去来する想いは、一入のものあり。
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雪にぬれながら、呂川に沿う大原女の小径を下ってくる。手ぬぐいを買い求めたり、茶店で甘酒を飲んで温もったり。


魚山大原寺勝林院(京都府京都市左京区)

三千院を出て、門前の道を奥へ。門前の店をすぎ、緩やかな石段を下って律川を末明橋で渡り、先へ進むと、勝林院の門前に出る。
いや、門がないので、ここから先は極楽浄土である来迎橋という小さな石橋を渡る。受付で拝観料を払って寺域へ。

勝林院は、正式名称を魚山大原寺勝林院といい、比叡山延暦寺の別院にあたる天台宗の寺院である。
そして、慈覚大師円仁が唐より持ち帰った声明(しょうみょう)を修めるための「大原魚山流声明根本道場」としてひらかれたお寺である。魚山は、唐において、声明の聖地と位置づけられた山東省東阿県の西にある山の名である。
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本堂側から入口方向。雪の降りが強くなっているのはお分かりであろうか。(積もっているのは年初の雪)
勝林院は、寺伝によれば、承和2年(835)に、慈覚大師円仁が開創。その後、円仁の法統を継ぐ寂源が、叡山の声明道場を移して中興したと伝わる。長和2年(1013)のことで、実質的な創建は、このときとみてよいだろう。

魚山の声明道場は、勝林院の東南方、三千院の奥に位置する来迎院が「上院流」、勝林院が「下院流」とされた。勝林院の院内の坊としては、宝泉院、実光院、普賢院、理覚院、龍禅院などが存したが、龍禅院はのちに梶井門跡の政所に編入され、普賢院、理覚院は近代に至る過程で他院と併さり、現存するのは宝泉院・実光院の2院である。かつて、四坊を一括した名称であった勝林院は、本堂のみを指し示す寺名へと変遷している。
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鐘楼。梵鐘は平安時代前記作と伝わる国指定の重要文化財。
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本堂。寺伝では、江戸・享保21年に焼失し、安永7年に後桜町天皇の常御所を移築したという。
ご本尊は、阿弥陀如来。平安中期の長保から寛弘年間ごろ、仏師・康尚による作像とされ、別名として「証拠の阿弥陀」の名を持つ。脇侍に不動明王立像と毘沙門天立像、さらに、近世以前に北野天満宮の本地仏であった十一面観世音菩薩像も安置されている。
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総欅造の本堂。欄間には立派な彫刻がある。
この勝林院は、「大原問答」で有名である。文治2年(1186)、のちに天台座主となる顕真が、圓光大師法然上人を招き、浄土宗の宗義を問答した。このことから、当寺には「問答寺」の通称がある。
また、念仏により極楽往生できるか、という問答をしたとき、阿弥陀如来が大光明を放たれて、その証拠を示したことから、阿弥陀さまを一名「証拠の阿弥陀」と称する。
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御朱印は、拝観受付時にお願いしておけばよい。法然上人二十五霊跡の21番札所となっている。


魚山三千院(三千院門跡/京都府京都市左京区)

岩倉実相院を出て、京都バスで宝ヶ池まで。反対方向に乗り換えて、高野川に沿って、大原への道を北に進む。約20分で、大原バスターミナルに到着。近辺は、駐車場が目立つものの、ごくごく静かな山間いの里だ。

バスを降りると、小雪がちらついてきた。
なんとまあ、という感じだが、なにぶんこの年末年始、京都は大雪に見舞われている。予報を見るかぎり、さすがにその再来はないだろうが、なにしろワタクシ、京都に嵐を呼ぶ男、ですから。。。
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さっそく、大雪の名残りが、民家の庭先に。
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右に呂川の流れ、左にさまざまな土産物店や茶店などが並ぶ参道を歩み進むと、三千院の門前に出る。永六輔作詞・いずみたく作曲、デュークエイセスがうたう「女ひとり」の冒頭、「♪京都 大原 三千院~」の三千院である。なお、若いひとり旅の女性は少なくなかったが、恋に疲れているのかどうかは知らない。 

さて、三千院は、呂川(ろがわ)と律川(りつがわ)という2本の川に挟まれるようにして建っている。仏教声楽である声明(しょうみょう)の「呂」(呂旋法)と「律」(律旋法)からとられている。蛇足を言えば、この呂と律から、「呂律が廻らない」という言葉ができている。
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石段を登り、参道をすすめば。
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まるでお城のごとく、立派な造りの御殿門(薬医門)。2003年の修復。
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三千院は、天台宗三門跡のひとつに数えられ、元永元年(1118)に、堀河天皇の皇子・最雲法親王が入寺以来、多くの皇室・摂家の子弟を住持に迎えてきた門跡寺院である。(お寺のHPは⇒こちら
ただし、現在の三千院という寺名になったのは、比較的新しく、明治4年(1871)のことである。それまでは、表札にある「梶井門跡」のほか、「梶井御所」「梨本門跡」「円徳院」「円融房」などさまざまな名で呼ばれていた。

今回はここで、お寺の来歴をまとめておくことにしよう。固有名称が多いのと、お寺と大原の地の歴史を経糸緯糸で見なければならないので、少々ややこしいのである。

そもそも三千院は、8世紀に伝教大師最澄が、比叡山東塔南谷に、住房「円融房」を建てたことに始まる。この円融房のそばには、大きな梨の木が生えており、「梨本坊」と称し、そこから後世「梨本門跡」と称することとなった(旧皇族で、梨本宮家という家があったが、初代・守脩親王が最後の宮門跡であったことに因んでいる)。
山上の比叡山の諸寺院は、平地に「里坊」を構えた。円融房も、近江・東坂本は梶井の地に、里坊をおく。清和天皇の詔によるものとされ、最澄自刻の薬師如来を祀り、円融院、一念三千院の称もあったという。
「梶井門跡」の名は、この地名にゆかっているわけだが、梶井の称は、そもそも加持に使う井戸=加治井があったから、という説もあるそうだ。これが、貞観年間(西暦860年ごろ)のこと。

その後、応徳3年(1086)、白河法皇が、梶井の地に前中宮賢子菩提追善のため、御願寺として円徳院を建立。円融房を本坊とすると、元永元年(1118)、円徳院に堀河天皇の第2皇子の最雲法親王が入寺、梶井宮と称されるようになる。梶井門跡の成立である。

時代は少し下って、保元元年(1156)、梶井門跡は、都の北にある大原の地に「政所」を置いた。
これに先立つ嘉祥年間、最澄の弟子・円仁(慈覚大師)は、唐より持ち帰った声明の精舎を大原に建てているし、叡山とは山続きのこともあり、大原の地は、天台宗の僧・行者が草庵を結び、修行に明け暮れた地でもあった。これらの人びとや建てられた寺堂を支配・統括することが政所の役目であったろう。

貞永元年(1232)、東坂本の本坊が焼失。以後、梶井門跡は、転変の歳月を送ることとなる。
東坂本を振り出しに、京の東山小坂、西ノ京、東山白川、東山三条高畠、東山中山、東山岡崎と遷り、約100年の後、北山紫野・船岡山のふもと、現在の大徳寺の南あたりに、移転した。元弘元年(元徳3年・1331)のことという。
ようやく安住の地を得たようにも思われたが、応仁元年(1467)、応仁の乱の戦火により本坊焼失。難を避けて、大原の政所を仮御殿とした時期もあった。

戦国の世、織豊時代を経て、江戸時代となり、後陽成天皇の子・慈胤法親王の代、元禄9年(1697)、徳川5代将軍綱吉の寄進により、禁裏の東、河原町御車小路(現在の京都府立医大付近)に、梶井宮御殿が造立。本坊とされ、持仏堂を三千院と称した。

明治維新となり、廃仏毀釈の波は、梶井門跡も直撃する。このときの門跡である昌仁法親王は他の宮門跡と同様に還俗し(この方が梨本宮守脩親王)、750年にわたる宮門跡は終焉を迎えた。
相前後して、禁裏東の本坊は廃され、寺宝がすべて大原の政所へ遷されると、1871年には、寺そのものが大原に遷った。政所を本坊・本殿とし、いにしえの里坊、近くは梶井宮御殿の持仏堂の名にちなみ、以後寺名を「三千院」と称することとなったものである。「一念三千」は、天台宗の教義に副うところ、一念すれば三千世界を具有する、という意であろう。

さて、御殿門をくぐり、受付で拝観料を払い、客殿の中を拝観する。
客殿は、天正年間の建造。もともとは平安期から存して龍禅院とも称し、天正の造立には、豊臣秀吉が力を尽くし、禁裏紫宸殿修築の折の資材も使われているという。
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客殿の庭園「聚碧園」は、茶人・金森宗和の手による。こちらにも、大雪の痕跡が残っている。
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宸殿。梶井門跡の本尊・伝教大師作の薬師瑠璃光如来を秘仏として安置し、歴代天皇と門跡の尊牌をまつる。
大正15年の再建で、毎年5月に行なわれる歴代天皇の御回向「御懴法講」が厳修される。この法要は、江戸期までは宮中で行なわれていたそうで、現在は三千院の最も重要な法要である。
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宸殿前、丁寧に手入れされた苔むす庭。
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お地蔵さま。
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本堂にあたる往生極楽院阿弥陀堂。国指定重要文化財。国宝の木造阿弥陀如来両脇侍坐像が安置されている。
寛和2年(986)ごろ、恵心僧都源信が、父母追善のため、姉(妹とも)の安養尼を阿弥陀三尊に仕うべく建立したとされるが、記録に残るのは、平安後期の久安年間ごろ、高松中納言藤原実衡の妻・真如房尼が、亡夫の菩提を弔うため、として建てた、というものである。国宝の阿弥陀三尊像が、久安4年のものということだから、あるいはその点を含めた記録であったものであろうか。 
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こういった来歴だから、そもそもは梶井門跡の堂宇ではなかった。これも諸説あるが、大原の政所が設けられたときに梶井門跡の一堂に取り入れられたとも、境内に正式に取り入れられたのは、明治に入ってからである、との説もある。いずれにしても、単層入母屋造のこけら葺、桁行四間、梁間三間の常行三昧堂形式のお堂は、明治29年に三千院の本堂となった。
この日は、お堂自体が小体であることもあるが、内部の阿弥陀三尊を拝観しつつ、お坊さまの法話を伺う人はぎっしりであった。私も、ユーモアあふれる法話を伺って、三尊を拝ませていただく。
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こちらは、金色不動堂。新しく平成元年の造営。本尊として、金色不動明王を祀る。智証大師の御作と伝わり、秘仏となっている。
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おりから、雪の降りが強くなってきた。
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こちらは観音堂。
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どんよりと曇る山間の里に雪の華は静かに舞う。
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人が決して居ないわけではないのだが、とても閑か。

当寺の御朱印だが、神仏霊場巡拝の道・第106番(京都26番)札所であるほか、西国薬師四十九霊場の45番札所、近畿三十六不動尊霊場の第16番札所、京の七福神めぐり(弁財天)であり、お堂・仏様も多いので、御朱印も多様で、御朱印所(納経所)もいくつかある。
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御朱印帳は、表に梨菊、裏には梶の葉をあしらった紺色の大変シンプルなもの。紙質のよいお帳面である。
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まずは、ご本尊・薬師如来の御朱印は、御殿門を入って右手、通常だと拝観して最後に通る円融蔵の売店の一角でいただける。
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続いては、往生極楽院の弥陀三尊。こちらも円融蔵売店にて。
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こちらは、金色不動尊。不動堂の御朱印所にて。
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こちらは聖観音。観音堂の御朱印所にて。

順路で言うと、不動堂⇒観音堂⇒円融蔵ということになるのが一般的だろう。
(私も上記の写真の掲載順は変えてあるが、実際には、不動堂⇒観音堂⇒円融蔵の順に廻っている。)
御朱印帳は、不動堂の御朱印所でお頒かちいただいた。
また、お寺のホームページを見ると、円融蔵の御朱印所なら、すべての御朱印がいただける、ともある。

言うまでもないが、そのときどき、状況が変わることもあるので、ご不明の向きは、お寺の方にお尋ねになるとよろしかろうと思う。


岩倉山実相院(実相院門跡/京都府京都市左京区)

不図思い立って、京都へ行くことにした。

とはいっても、まだ先月言ったばかりのことゆえ、少しでも経費を削減しようと、夜行バスを使うことにした。
とはいっても、まもなく40の坂が見え始めてくるおっさんには、激安のツアーバスに身をゆだねるほどの体力はない。
そこで、片道だけ、JRのプレミアムドリーム号の3列がけのスーパーシートにすることにした。意気込みのわりに、実際の果実は小さいが、そこはそれ。飯を食うとか、飲み代の足しくらいの差額は生じる。

16日の夜、23時00分に東京駅八重洲南口のバスターミナルを発したプレミアムドリーム号は、夜をかけて西走、定時よりやや早い朝7時前に、京都駅烏丸口に到着した。
バスは、2階建ての2階席で、出入口のそばだったが、寒さを感じることはなかった。座席も、大柄な自分でもゆっくり休めたし、脚元は荷物が多かったのでやや難渋したが、これは手荷物を整理しきれない自分の落ち度で、バスの所為ではない。
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まずは朝飯。7時半営業開始の高倉塩小路の新福菜館へ。中華そばの小と・・・
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まかない丼。
おなかがくちくなったところで、京都タワー地下の大浴場でひとっ風呂浴びて旅の疲れを落とし、さあ、出かけよう。

まずは、地下鉄烏丸線で終点の国際会館駅まで。そこで、京都バスの始発バスに乗り、終点の岩倉実相院まで。
岩倉は京都市街の北部に位置し、元をただせば、神が天から降臨した巨石である「磐座」(いわくら)から来ているといわれる。岩倉具視の名字は、岩倉家がこの地に所領を有していたことによるし、明治維新前に政争により失脚した際には、この地に隠棲。現在も、その旧宅が残る。
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というわけで、岩倉山実相院。(お寺のHPは→こちら
実相院門跡、岩倉門跡、とも称し、天台宗寺門派の流れを汲む単立寺院である。
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実相院は、鎌倉初期の寛喜元年(1229)、摂政近衛基通の孫で、鷹司(室町)兼基の子である静基権僧正の開基である。当初は、紫野に在り、室町時代に入って今出川小川に移った。現在の地に遷ったのは、応永年間のこと。
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四脚門。113代・東山天皇の中宮・承秋門院幸子女王の女院御所から、享保5年(1720)に移築されたものである。
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定規筋は格式の高い寺院の証し。室町後期、兵火により衰微したのち、室町幕府最後の将軍である足利義昭の孫・義尊が入寺すると、義尊の実母・法誓院三位局(古市胤子)が後陽成天皇の召人となっていた関係で、後水尾天皇の庇護を受け、さらに徳川幕府からの援助を受けて、再興された。
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車寄せ、奥に客殿(本堂)。四脚門と同様、承秋門院の女院御所を移築したものである。
ご本尊は、不動明王である。
後西天皇の皇子・義延入道親王の入寺以降、代々、朝廷からの入寺が続き、寺門派三門跡のひとつに数えられた。
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客殿内部は、なんといっても、黒光りする「滝ノ間」の床に庭の緑や紅葉が映りこむ「床みどり」「床もみじ」であろうが、こちらは撮影禁止。
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お庭の撮影はOK。実相院には2つの庭園があり、ひとつは、山水の庭園。
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もうひとつは、比叡山を借景にした石庭。
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御朱印は、拝観受付にてお願いする。真ん中に、ご本尊・不動明王を示す梵字。
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御朱印と一緒に渡されるしおり。御朱印の説明が、当寺の池に生息するモリアオガエルにちなんで、かえるのしおりに書かれている。


2015年01月12日

世良田東照宮(2回目/群馬県太田市)

所要の途次、世良田東照宮に立ち寄り、参拝。
前回の参拝は→こちら 来歴等もこちらで触れている。
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冬の陽射しを浴びる御黒門。初詣期間ということか、葵のご紋入りの幔幕が下げられていた。
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手前にある建物は拝殿。現在の絢爛を具えるに至った「寛永の大造替」以前の日光東照宮の奥社拝殿を移築したものである。
拝殿の奥には本殿がある。徳川家康公を主祭神に、9神を配祀している。
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御朱印は、授与所兼参観受付にて。
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御朱印帳をいただく。さすがは東照宮、三つ葉葵のご紋、葵の葉が描かれている。
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色は何種類かあるようだが、品切れもあり、今回は緑色を選択。文字は、寛永19年に、後水尾上皇から下賜された勅額から採られたとか。
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帰りに、上州名物・焼きまんじゅうを買って帰る。




2015年01月08日

上野東照宮(2回目/東京都台東区)

初詣を兼ねて、上野へ出て、上野東照宮へ。(神社のHPは→こちら
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 譜代の名門中の名門、酒井雅楽頭忠世寄進の石鳥居(国重文)。この鳥居、天和年間にいったん土中にされているのだそうだ。忠世の孫、酒井忠清は、4代将軍・家綱の治世下に大老を務め、その権勢の強さから、「下馬将軍」の名を奉られた。その忠清は、家綱が嗣子なく薨じた際に、実弟である綱吉の5代将軍就任に反対をしたようで(理由は諸説ある)、綱吉の将軍就任後は、忠清および酒井家に対する風当たりが強くなったとのことである。石鳥居が土中されたのも、あるいはそのようなことにかかわりがあるのであろうか。
ちなみに、石鳥居が再び建てられたのは、8代将軍・吉宗の時代、享保年間のことである。のちに老中首座を務める忠清の後代・忠知(忠恭)の願いにより、再造立された。
安政の大地震や、関東大震災など、累次の災厄にも傾くことなく、今も建っている国指定の重要文化財である。
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水舎門。名が示すとおり、この門は、もともと社殿のそばに建っていた水舎の上屋を昭和39年に移築したものである。もとは、3代将軍家光の下で老中を務め、のちに家光の歿時に殉死する阿部対馬守重次が、慶安4年に奉納したものである。
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五重塔。もともとは、寛永16年に造立した寛永寺の建造物。現在は、上野動物園の敷地内にあり、昭和33年、寛永寺から、東京都に寄贈された。国指定の重要文化財で、現在都内にある江戸期造営の五重塔では、池上本門寺とこの旧寛永寺五重塔の2つのみである。
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狛犬一対。
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修築成った唐門と社殿。いずれも慶安4年の建造で、国指定の重要文化財である。
ご祭神は、徳川家康公、徳川吉宗公、徳川慶喜公の3神。
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江戸の大火や震災・戦災を潜り抜け、江戸初期、創建当初の建築物が残っているのは、やはり珍しかろう。修復も済み、面目も一新して、ますます多くの人が詣でて栄えんことを。
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御朱印は授与所にて。
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御朱印帳をいただく。表面には唐門と社殿。
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裏面には、左甚五郎の作と伝わる唐門の昇り龍・下り龍。
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お参りを済ませ、蔵前の天ぷら・いせやで昼飯。


2014年12月08日

吉田神社(京都府京都市左京区)

百万遍の交叉点から、東大路を南に下がると、左手には、京都大学吉田キャンパスの本部構内が現れている。
そのまま歩みをすすめ、東山東一条の交叉点を左折。
しばらく進むと、吉田神社の鳥居と参道が見えてくるが、とりあえず時分どきなので、まずは腹ごしらえ。鳥居前にある天ぷらのお店「かふう」に入る。カウンター数席と4人掛けのテーブル2席という小体なお店。えび・穴子・きすの3つが入った「みっくす天丼」を味わう。1080円なり。
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吉田神社は、京都大学が後背に負う、吉田山のふもとに建つ神社である。(神社のHPは→こちら
吉田山は、平安京遷都の際に、都の鎮めに擬えられ、東山三十六峰にも数えられている。南北800メートル、東西300メートルで、標高105メートルというから、山というよりは、丘といったほうがよいか。「神楽岡」という別称のある山であり、古代から雷神を祀ったとつたわる。南側のふもとには、夏に訪れた真如堂(真正極楽寺)やくろ谷さん(金戒光明寺)の伽藍がそびえる。
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吉田神社も、その吉田山のふもとに位置している。
貞観元年(859)、藤原鎌足の流れを汲む藤原山蔭が、藤原氏の氏神である、南都・春日大社の神様を勧請したことにはじまる。この地に鎮まったのは、大内裏の鬼門を封じるためであるという。爾後、藤氏の氏神として、平安京の鎮守神として崇敬を受け、山蔭の外玄孫にあたる一条天皇が詔を発して、吉田祭を官祭とせしめ、朝廷より幣を奉る「十九社奉幣」に列せられた。これはのちに、「二十二社」という奉幣の格式となる。
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二の鳥居。平坦だった参道は、ここから石段か、勾配の坂を上って、吉田山の山腹にある社殿を目指すことになる。
吉田神社の神官を務めたのは、卜部氏である。卜部氏は、諸説あるが、藤原氏となった中臣鎌足と同じ流れを汲み、宮廷の神祇官の任にあった。吉田神社の神官を務めた卜部氏は、吉田神社の社務を掌ったことから、鎌倉期に至って、吉田流卜部氏となり、室町時代に入って、吉田家を名乗ることとなる。吉田兼煕は、最終的に正三位にまで叙せられて公卿に列せられ、連綿明治に至り、子孫は子爵に任ぜられている。
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吉田社本宮の掲額のある鳥居。奥には拝殿。
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神楽殿。
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中門。奥には、本殿がある。天文3年(1534)に再建され、慶安元年(1648)に改造されている。
ご祭神は、「春日神」と総称される建御賀豆智命(武甕槌命)、伊波比主命(経津主命)、天之子八根命(天児屋根命)比売神の4神。四棟の春日造で、第一殿から第四殿にまで分かれており、それぞれ祀られている。
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吉田神社には、摂社・末社も多い。こちらは、菓祖神社の入口。
ご祭神は、田道間守命と林浄因命の2神。田道間守命は、果物の源流である橘を日本に持ち帰ったとされ、林浄因命は、日本で初めて饅頭をつくったとされる。京都らしい神社といえるかもしれない。
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こちらは、藤原山蔭卿をまつる、山蔭神社。吉田神社を開いた山蔭卿は、光孝天皇の勅を奉じ、包丁道の確立にあたった。現在に伝わる「四条流包丁道」の始祖でもある。料理の神として、現在でも料理人などからの信仰篤い。
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本宮から坂道を登ってきたところにあるのが、「斎場所大元宮」である。
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大元宮には、本宮に天神地祇八百萬神が、東神明社:天照皇大神(伊勢内宮)、西神明社:豊宇氣比売神(伊勢外宮)と、東西諸神社:式内神3132座が奉安されている。
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室町中期、神職・吉田兼倶は、神道に儒教や仏教、道教などを取り入れた総合的な神道として、「唯一神道」(吉田神道とも)を創設した。
兼倶は、朝廷・幕府の庇護を背景に、自ら「神祇管領長上」と称し、既存の神道権威の上に位置して、全国の神社・神官に対する許認可権を掌握することで支配下においた。
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大元宮は、「日本最上神祇斎場所日輪太神宮」ともいい、吉田神道の拠点・根本殿堂として、文明16年(1484)、吉田兼倶の自邸から当地に遷座された。現在の建物は、1600年ごろ、淀ノ方の発願により、豊臣秀頼を施主として再建されたものである。国指定重要文化財となっている。
天正18年には、禁裏に在った「神祇官八神殿」を当地に遷し、神祇官の儀礼も当地で修された。
明治維新後、八神殿は、宮中に還り、 現在は、皇居の宮中三殿内の神殿に遷座している。

先述のとおり、この大元宮は、吉田神道の拠点となり、吉田家は、「神祇管領長上」として、明治時代になるまで、全国の神社の神階の授与や、神職の授位黜陟をつかさどり、日本の神祇界の「宗家」「家元」的な役割を、大きな権威をもって統裁したのである。その時代の信仰の中心はむしろ大元宮にあったといってよいだろう。現在のように、大元宮が吉田神社の末社になるのは、近代以降のことである。
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 こちらにも名残りの紅葉。
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大元宮のお参りを済ませて、坂を下りて本宮に戻ってくると、タクシーがたくさん止まっている。何事ならんと見れば、結婚式のご様子。
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御朱印は、授与所にて。大元宮の御朱印もある様子。
当社は、神仏霊場巡拝の道の110番(京都30番)札所になっている。
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御朱印帳も頂戴した。明るい灰色地に木の墨色、鳥居の赤色があざやかさをとどめる。
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時間もころあい、さあ、関東へ帰ろう。

長徳山功徳院百萬遍知恩寺(百万遍/京都府京都市左京区)

上賀茂神社から、バスで移動して、「百万遍」バス停に出る。
「百万遍」は、京都大学がそばに控え、同名の交叉点もある。京都の法則でいえば、東山今出川となるべきところだが、このような例外はいくつもあって、有名なところでは、東山四条は、「祇園」(もしくは「祇園石段下」)だし、東山通と北大路通の交叉点は、「高野」と称する。 

で、百万遍。この名の由来は、すぐそばにあるお寺の名から来ている、というわけで訪ねてみよう。
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百万遍の通称の由来は、鎌倉最末期、京で病が猖獗をきわめたとき、当寺8世の善阿空円が、禁裏で七日間、百万遍の念仏を唱えたことにより、ときの後醍醐天皇から、「百萬遍」の寺号を賜ったことによる。京都市民には、知恩寺という寺名よりも、百万遍さんの通称で親しまれている。
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山門。
そういうわけで、百万遍知恩寺である。浄土宗大本山であり(7つある大本山のひとつ)、知恩院、清浄華院、金戒光明寺とならんで、浄土宗京都四ヶ本山の一に数えられる。(お寺のHPは→こちら
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先ほど書いたように、百万遍の寺名は、後醍醐天皇の勅賜だが、その歴史自体はさらにさかのぼる。
もともと、比叡山の里坊で、平安前期に創建したのは、慈覚大師円仁であるという。当初は、現在の相国寺の北辺、今出川烏丸付近にあり、賀茂社の神宮寺であったところから、賀茂の河原屋とも、円仁が刻んだ釈迦如来像が奉安されていたところから、今出川の釈迦堂ともいわれたという。
その後、浄土宗を開いた圓光大師法然が、賀茂社の神職の懇請によって、草庵を結んだ。
法然が寂すると、弟子である源智が、この堂を功徳院神宮堂とし、法然の御影を安置する御影堂を築いて、法然を開山として、念仏の道場として伽藍も整備し、寺としての容をととのえた。
その後、師の恩を知る、という意味から、知恩寺の寺名が名づけられた。
寺地は、現在の一条通油小路(相国寺創建のため)、寺町通荒神口(豊臣秀吉の命による)と遷り、江戸時代の寛文2年、現在の地に移転し、現在に至っている。
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山門を入って左手にある阿弥陀堂(念仏堂)。阿弥陀如来立像を安置する。
応仁の乱や天文法華の乱、さらに火災などでの焼失があったうえ、数度の移転もあり、現在の阿弥陀堂は、江戸後期の再建である。
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釈迦堂は、山門を入って右側で、釈迦如来座像安置。江戸時代、1664年建立。もともとは、本堂として建立された。扁額の「知恩寺」の文字は、後柏原天皇の御宸筆。
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総欅造の本堂。御影堂、大殿ともいい、1753年の造立。
ご本尊は釈迦如来で、この他にも、法然上人座像や、快慶作の木造阿弥陀如来立像等も安置されているほか、後醍醐天皇から「百萬遍」の名を勅賜された際に賜った「利剱名號」(嵯峨天皇の勅により、弘法大師が紺紙に金泥を溶かして六字名号を利剱の形に書き、禁裏に秘蔵されていたもの)や、円周約110m、重さ320kg、珠の数1080顆の大念珠(後醍醐天皇からは540顆の大念珠を賜った)が二連吊り上げられている。
この大念珠は、日本一の大きさとして知られ、毎年4月の御忌会や毎月の大念珠繰り法要では、10人が1080顆(108個×10連)の大数珠を100回繰ることで百万遍数珠を繰ることとなる。
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本堂から、山門方向を見通す。こちらの山内では、毎月15日に450店以上が出店されて開催される「手づくり市」や、10月末から11月初めにかけては、20万冊が並ぶ古書まつりが開催されるなど、市民にひらかられた場となっている。観光寺ではないが、市民に愛されていることがわかる。

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御朱印は、本堂内の授与所にて。法然上人のお名前が書かれている。当寺は、法然上人(圓光大師)二十五霊場の22番札所である。
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閑静な境内、冬の青い空のもとで一羽の鳥が飛んだ。

賀茂別雷神社(上賀茂神社・山城国一ノ宮/京都府京都市北区)

源光庵前からバスに乗り、玄琢の住宅地を抜ける。普通の乗用車ですら、離合には工夫がいるような広くない道をバスが淡々と進んでいく様子には驚く。
玄琢下の交叉点からはやや広い道を進み、北山通に出た紫野泉堂町のバス停で下車し、住宅街の狭い路地を歩くと、今宮神社の東の門前へ出る。
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今宮神社といえば、あぶり餅。家のものにせがまれ、土産を買いに立ち寄った。もとより、あぶり餅は、店先の床几に腰掛けるなり、座敷に上がって食べたほうが美味いに決まってはいるが、家のものは、あぶり餅に恋焦がれているので仕方ないのだ。
私も靴を脱いで座敷へ上がり、ストーブに当たりつつ、一服。
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今宮神社前のバス停から、46号系統で、終点の上賀茂神社前まで。
というわけで、上賀茂神社こと、賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)へ。(神社のHPは→こちら

上賀茂神社といえば、歴史といい、格式といい、規模(社域69万㎡という)といい、京都を代表する神社のひとつといってよい。式内社にして、山城国一ノ宮、禁裏から奉幣を受ける「二十二社」の「上七社」のうちの一社で、勅使がご差遣になる「勅祭社」でもあり、世界文化遺産にもなっている。
こちらは、一ノ鳥居である。高さ7mの丹塗りの明神鳥居で、1918年に建立。
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上賀茂神社は、賀茂氏(賀茂建角身命を始祖とする氏族)の氏神をまつる神社で、下鴨神社(賀茂御祖神社)とともに、賀茂社と総称される。
その創建は旧く、社伝によれば、神武天皇のころ、賀茂山麓の「御阿礼所」に賀茂別雷命が降臨したことを起源とする。
一方で、玉依姫命(タマヨリビメ)が賀茂別雷命を生み、兄である玉依日古の子孫である賀茂氏一族がこれを祀ったことを起源とする説もある(山城国風土記など)。なお、玉依姫命とその父・賀茂建角身命は、下鴨神社に祀られている(「御祖」は、別雷命の母と祖父を祀っていることによる)。
西暦678年、天武天皇の7年に、勅を奉じて初めて社殿が造営されたと社伝に伝わり、698年(文武天皇2年)に、続日本紀に記事が現れる。これが文献上の初出となる。
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上賀茂神社では、おりしも第42回の式年遷宮のまっただ中。上賀茂神社では、21年に1回、式年遷宮(式年造営)を執り行う。長元9年(1036)、後一条天皇の勅命により、21年ごととなったものである(ただし、長い歴史の中では、必ずしも21年周期で行なわれていたわけではなく、建物の老朽化したときに造替がなされていた時期もあるようである)。
このように、上賀茂神社は、朝廷とのかかわりも深い。
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天皇の行幸時の到着殿である、外幣殿。御所屋、馬場殿ともいい、桧皮葺、入母屋造で、寛永5年(1628)の式年の際に造替され、1880年に改修。国の重要指定文化財である。

行幸時と書いたが、延暦13年に桓武天皇が行幸したことを嚆矢とする。延暦13年は、西暦でいえば、794年。そう、「なくよウグイス平安京」、平安京遷都の年である。
上賀茂神社は、平安建都とともに、王城鎮護の神となり、朝廷から篤い崇敬を受けた。天皇の行幸は後醍醐天皇で中絶したものの、江戸幕末にいたり、孝明天皇が攘夷の祈願のために行幸、明治天皇もまた王政復古の奉告のために行幸している。宝永5年(1708)の大火により、ときの東山天皇は、上賀茂神社を行在所とし、三種の神器も動座した。

そしてもうひとつ、朝廷と当社の深いゆかりを示すのが、「斎宮」の制であろう。
「斎宮」は、内親王や女王など、皇族の未婚女性が、神前に奉仕するもので、「斎宮」を置いた伊勢の大神宮とともに、上下の賀茂社では「斎院」を置いた。後にも先にも、「斎宮」が配されたのは、わずかにこの両社に過ぎず、以下に朝廷から重んじられていたかが分かる。
「斎院」は、嵯峨天皇の皇女・有智子内親王に始まり、後鳥羽天皇皇女の礼子内親王まで35人を数えたが、建暦2年、礼子内親王が病のために退くと、承久の乱などの混乱の中で後任が定められず、廃絶した。

京都三大祭りのひとつである「葵祭」は、両賀茂社の例祭「賀茂祭」が正式名称であり、石清水祭、春日祭とともに三勅祭に数えられる由緒ある祭りであるが、装束行列には「斎王代」が加わり、王朝絵巻さながらの景を洛中に繰りひろげている。 
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神馬舎。今日は不在だが、運がよければ本物の神馬に会うことができる。
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二の鳥居。1951年建立で、高さ6.7メートル。一の鳥居から二の鳥居までは、幅6メートル、長さ160メートルの表参道が広がっている。参道の両脇は、芝生に覆われていて、広々とした心持ちとなり、鬱蒼とした社叢に包まれる下鴨神社とは違った意味で、心が安らかになる。
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楽屋(がくのや)。外幣殿と同様、寛永の式年遷宮で造営された。檜皮葺、切妻造。神仏習合であったころ、僧が用いていたそうである。国指定重要文化財。
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土屋(つちのや)。到着殿ともいい、神官の祓所として使われており、それは現在でも同様である。国指定重要文化財。
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橋殿。舞殿ともいい、文久3年造営。御手洗川(ならの小川ともいう)の上を跨いで建てられている。
葵祭の際には、勅使の拝殿となる。国指定重要文化財。
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細殿(ほそどの)は、拝殿である。国指定の重要文化財。
現在の建物は、江戸時代、寛永の造営により造立。かつては天皇や上皇、斎王のみが昇殿を許されていた。

そして、細殿の前の円錐形に盛られた砂は、ある意味で上賀茂神社の有名な風景ではなかろうか。
これは、立砂(たてすな)といい、清めの砂である。賀茂別雷大神の御神徳に、方除けがあることによる。
写真からは見えないが、先端には松葉が挿してある。拝殿がなかった時代に建てられていた柱の根元を固めるための盛土の名残りともいい、正月飾りの門松は、これを起源にしているともいうし、盛り塩の起源ともされる。
また、この立砂は、ご神体で神社の北に位置する神山(こうやま)を象ったものともされる。神山は、賀茂別雷大神が降臨した地。神の依り代である「神籬」でもあるともいう。
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細殿の後ろ方で流れを合わす御手洗川と御物忌川のいずれかを渡れば楼門である。
これも寛永の造営で建てられたもので、国指定の重要文化財の指定を受けている。
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中門。これも寛永の造営での建造で、国指定重要文化財。通常は、中門での参拝となる。
この奥に、賀茂別雷大神を祀る本殿と、造替の際に神様をお遷し申し上げるための「権殿」が並立して建てられている。文久3年の造営で、国宝。
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御朱印は、楼門を入ってすぐ左手にある授与所にて。
当社は、神仏霊場巡拝の道102番(京都22番)である。 

鷹峰山寶樹林源光庵(京都府京都市北区)

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光悦寺を出て、バス停への道を少しだけ戻り、源光庵の門前に至る。
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源光庵は、曹洞宗の禅寺だが、もともとの成り立ちは、臨済宗大徳寺派の寺院である。
室町初期の貞和2年(1346)、大徳寺開山の宗峰妙超の跡を嗣いだ徹翁義亨の隠居所として開創。
そのような性格もあってか、その後衰微したが、江戸時代に入って元禄7年(1694)、加賀金沢の富商である紙屋庄三郎・中田静家が寄進し、加賀大乗寺の卍山道白禅師の手で、再興した。この際に、宗旨を曹洞宗に改めている。
なお、紙屋庄三郎は、加賀藩御用達の干菓子商のかたわら、町年寄を務める名士の家柄。さらに先祖の中田庄三郎は、織田信長の料理人を務め、鷹峯の地に屋敷を拝領して、金沢で商いを始めてからも、鷹峯と往き来していたというから、先祖故旧の地の寺に寄進をしたということになる。
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 「開運霊芝観世音」の石碑。この観音様は、ご本尊の脇立ち。
卍山道白禅師が、天和元年(1681)、京の南、宇治田原の山中で、茸の一種である霊芝からできた観音像を感得。ときの後西天皇も篤く敬われ、宮中に祀られていた時期もある。
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山門。当寺の別称である「復古禅林」の掲額がある。江戸中期の造立と伝えられ、二層目には釈迦牟尼仏と十六羅漢像が安置されている。
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鐘楼。
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源光庵は、紅葉でも有名。この秋、JR東海の「そうだ、京都行こう」のCMで採り上げられていた。さぞや多くの人が訪れたことであろう。
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本堂。本尊は釈迦牟尼仏、脇立ちに阿難尊者・迦葉尊者・霊芝観世音をまつる。
元禄の再興のおり、紙屋庄三郎の寄進により建立された。内部は400円で拝観可能。
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この本堂、内陣前でのお参りは当然できるわけだが、それ以外に特色が2つある。
ひとつは、この天井。この天井は、伏見城の遺構を遷したものといわれている。伏見城といえば、関ヶ原の戦いの前哨戦の段階で、徳川家の守将・鳥居元忠以下の兵卒が、西軍の軍勢と戦い、1800人の軍勢が城を枕に討ち死にした。
そして、その際、城中で380ばかりの人びとが自刃して果てている。城内は血の海、床には血に塗れた人びとの人型や足跡が残された。
この床板は、江戸城伏見櫓をはじめ、京都・東山七条の養源院や大原・宝泉院などに移築されている。
そしてこの源光庵にも床板が移されている。世に云う「伏見城の血天井」、鳥居元忠一統の御霊を慰めるべく、床板が天井板として使われているのである。
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もうひとつの名物は、「悟りの窓」と「迷いの窓」。本堂から庭園に向かって丸窓と四角い窓が開けられており、それぞれに仏教的な意味が盛り込まれている。
こちらは「迷いの窓」。人間の生涯を4つの角であらわしている。
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こちらの写真は、丸窓の「悟りの窓」。円は大宇宙を示しており、「禅と円通」をあらわしている。
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庭園。葉末を落とした木も多い。
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庭園は本堂の北側。釈迦谷山を借景とした枯山水庭園。
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御朱印は、拝観受付にて。

大虚山光悦寺(京都府京都市北区)

疲れで、早々に四条西洞院辺りのホテルに閉じこもった、翌朝。
ゆっくり休養して、朝の早いうち、市バスの46系統で、千本通を北上。千本北大路を過ぎて、佛教大学のバス停で下車。6系統の玄琢ゆきに乗り換える。
バスを待っていると、山手のほうから、スクーターに乗った勤め人が、学生が、大挙して駆け下りてくる。その様子は壮観。ちなみに、四条烏丸付近で標高40メートル弱、この佛大前付近でほぼ100メートル。これから向かう鷹峯は、150メートルを超える。これでは、行きはともかく、帰りのことを考えると、自転車というわけには行かないだろう。
さて、6系統・玄琢行きは、すっかり住宅街の狭路(といっても、乗用車同士ならすれ違える程度だが)といった趣きの千本通の坂を登っていく。なお、バスの行き先になっている「玄琢」は、鷹峯地域の東方一帯の地域の名前で、江戸初期の医師・野間玄琢の名にちなんでいる。人名にちなんだバス停で言うと、京都駅に近い塩小路通沿いに、JRバスの「三哲」バス停がある。これは、江戸初期の天文学者で囲碁棋士の渋川春海=二代保井算哲にちなんだもの。現在の塩小路通は、かつて三哲通と称され、例の通り名を唱えるわらべ歌にも、「六条三哲通り過ぎ」の一節がある。閑話休題。

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鷹峯源光庵前バス停でバスを降り、西へ少しだけ歩く。
鷹峯小学校の前を通り過ぎたところで、左手に瀟洒な佇まいの石畳の参道が現れる。
本阿弥光悦ゆかりの大虚山光悦寺である。
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本阿弥家は、刀剣鑑定の家柄。光悦は、その分家筋に生まれ、書や陶芸などで名を成した。ことに書においては、近衛信尹、松花堂昭乗とともに、「寛永の三筆」のひとりで、当時の大宮びとや、京の富商・茶屋四郎次郎、角倉素庵、灰屋紹益などとの交流も深く、当代きっての文化人であり、分野を超越した総合芸術家といってよい。京大教授を務めた歴史学者である林屋辰三郎は、もはや古典的名著といってよい「京都」(岩波新書)で、「光悦こそは、京都の歴史が生んだ最もすぐれた文化人であった。」と記している。

その光悦が、一族や工匠たちを率いて、洛北・鷹峯の地に移住したのは、光悦57歳の元和元年(1615)、徳川家康にこの地を拝領してのことである。
当時の鷹峯は、京の外れで、「辻斬追いはぎをもする所あるべし」と言われるような土地。その地に遷ってきた理由には諸説あるが、洛中に飽きて、辺陬の鷹峯を所望したという説の他に、家康が当時関係が円満でなかった朝廷との交誼の深かった光悦を洛北の地に追ったという説や、光悦が、大坂の陣において、大坂方に内通した廉で切腹させられた茶人・古田織部正重然の茶の湯の弟子であったところから、これに連坐したというような説、逆に、旧周山街道の警護に当たらしめたとも、洛北から西国大名の動静を監視させたとの説もある。

いずれにせよ、光悦はこれ以降、鷹峯の地に住み暮らし、芸術の世界に一層没頭することになる。
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光悦たちが開いた鷹峯の芸術郷は、「光悦村」と称されたが、芸術郷の側面の他に、法華宗徒の集落「現世浄土」という面もあった。光悦をはじめ、本阿弥一族・一門は、法華宗を篤く信仰していたからである。
現在の光悦寺は、もともと光悦の閑居であったといわれ、その歿後に彼の菩提を弔う寺となった。当然、現在も日蓮宗のお寺となっている。
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「延段」の続く参道。両脇に植えられた樹木は、赤く染まった葉末をすでに地面に横たえている。
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拝観料を払い、門をくぐって右手にある本堂。御本尊は、十界大曼荼羅。
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茅葺の鐘楼。
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三巴亭。大正10年に建築された茶室である。一隅に、光悦の木像を安置した一室である「光悦堂」がある。
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茶室「大虚庵」。大虚庵はもともと、光悦の居室で、歿したところであるが、現在のものは、大正4年に再建されたものである。
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光悦垣。この写真では判らないが、徐々に垣の高さが変わるさまから、臥牛垣とも称する。
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手入れされた庭園に、冬の陽射しが注ぐ。
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光悦の墓所。光悦寺が寺として開創されたのは、光悦歿後約20年、明暦2年(1656)のこと。堀川寺ノ内・本法寺の日慈上人を開山とする。
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茶室「翹秀軒」。
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鷲ヶ峰。
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鷹ヶ峯。
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大虚庵を別角度から。
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冬の青い空。
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赤い色をとどめる。
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御首題は、拝観受付にて。

紅葉の時期ならば、人出もさぞかし、と思うが、9時前ということもあってか、人もおらず静か。冬の朝の柔らかい日差しを浴びて、洛北の閑雅を楽しんだ。

2014年12月07日

光明山歓喜院引接寺(千本ゑんま堂/京都府京都市上京区)

醍醐寺から、再びコミュニティバスで、地下鉄東西線の醍醐駅へ。烏丸御池で南北線に乗り換え、北大路駅へ出て、市バスで千本北大路まで。
今日の後半は、東西の通りに入り込みながら、千本通を下がってくる予定である。
千本通、といえば、私もふくめて、観光客にはあまり馴染みのある通りではないが、平安京の朱雀大路がその淵源である。
往時、嵯峨化野、東山鳥辺野と並んで、京の人びとの葬送の場所であった蓮台野は、現在の船岡山と天神川(紙屋川)のあいだの地域であった。そこにつながるのが、今の千本通で、亡くなった人たちの菩提を弔うため、千本の卒塔婆を立てたことが、通りの名の由来となっている。
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千本鞍馬口交叉点から下がったところにあるのが、高野山真言宗のお寺、光明山歓喜院引接寺(いんじょうじ)。正式名称よりも、千本ゑんま堂(千本えんま堂)の通称のほうが有名であろう。「引接」は、引導と同じ意味である。(お寺のHPは→こちら
京都には、このような「通称寺」がたくさんあって、それらのお寺のなかでは「通称寺の会」を組織しているお寺もある。この引接寺も、通称寺の会に加入している。
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鐘楼。
内部の梵鐘は、南北朝時代のもので、京都市指定文化財となっている。
当寺は、寺伝によれば、平安時代に。自ら刻んだ閻魔大王像を祀った祠を建てた、小野篁を開基とする。小野篁といえば、禁裏に仕える公卿であり、百人一首にも名を残す歌人でもあるが、伝説では冥界と行き来をなし、閻魔大王の裁判の補佐を務めていたとか。
その篁が、後の盂蘭盆会に発展する「精霊迎えの法」の根本道場として閻魔大王像を祀ったのがそもそもであるという。
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本堂。本尊は、閻魔法王像。現在の像は、応仁の乱の際に焼け、長享2年、仏師定勢によって刻まれたもの。

小野篁の開基後、本格的な仏教寺院としての成り立ちは、寛仁元年(1017)、かの恵心僧都源信の門弟である定覚上人が、開山したことをそのはじめとする。
このときに、「諸人化導引接仏道」の道場とすべく現在の寺名となったが、篁以来の来歴もあることゆえ、通称名のゑんま堂として今も親しまれている。
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御朱印は授与所にて。「千本頭」はせんぼんがしらと読み、かつて千本通が朱雀大路であったころ、朱雀のいちばん北詰めを、朱雀大路頭と称したことから来ているものであろう。
通称寺の会霊場の札所になっているのは書いたとおりだが、尼寺霊場の札所にもなっている(詳細はこちら)。

千本ゑんま堂。観光寺院ではないし、広大な寺域であるわけではないが、その歴史は長く、宣教師のルイス・フロイスが「日本史」にその様子を書き残していたり、後小松天皇や足利義満も足を運んで愛でたという普賢象桜、長く受け継がれてきたゑんま堂狂言など、興味深い点も多い。


さて、朝早くからの歩きでかなり疲れてしまった。
その割に、お昼もまだで、今日はこのあたりで打ち止めにして、四条天神川の新福菜館でおそ昼にし、そのまま四条西洞院の宿に投宿することにする。 せっかくの京都、めいっぱい愉しみたいのは山々だが、やはり無理は禁物。アクセルを緩めるときには、ゆるめないと。

深雪山醍醐寺(京都府京都市伏見区)

随心院から、旧奈良街道(醍醐道)をバスで南で醍醐寺へ。
ちなみにこの乗ったバスは、「醍醐コミュニティバス」といい、醍醐地域の住民が立ち上げた「醍醐コミュニティバス市民の会」が、総合病院や大型商業施設、そして醍醐寺の協力を得て、行政からの補助金なしで走らせている路線バスである。醍醐地域をかなりくまなく走り、住民の生活の、そしてわれわれ外来者の観光の足にもなっている。
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深雪山醍醐寺は、世界文化遺産に登録されている真言宗醍醐派の総本山。醍醐山の山麓に200万坪もの広大な敷地を持つ。これは、京都でも有数の広さである。この写真は、総門である。(お寺のHPは→こちら
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2本の標柱。
このうち、「西国第十一番霊場登山口」の標柱については、説明が必要だろう。
西国三十三ヶ所霊場の11番札所は、醍醐寺准胝堂であるが、この准胝堂は、醍醐山の頂近く、「上醍醐」と呼ばれる寺域にある。標高は450メートル程度であるが、約1時間ほどの登り道であり、西国三十三ヶ所きっての難所と呼ばれる。

醍醐寺は、貞観16年(874)、弘法大師空海の孫弟子・理源大師聖宝が、上醍醐山上に、准胝観音像・如意輪観音像を安置し、小堂を建てたことに始まる。
ちなみに、このころ笠取山と呼ばれていた山が、醍醐山になり、寺名も醍醐寺となったのは、開山の伝説として、地主神である横尾明神の示現で得た霊水を醍醐水と称したからといわれる。醍醐とは、仏教の最高の真理の意である。

その後、延喜7年(907)、醍醐天皇の勅願寺となり、薬師堂、五大堂が建立され、前後して如意輪堂、准胝堂、開山堂などとともに、醍醐天皇の厚い庇護を受け、上醍醐はその山容をととのえることとなった。
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「上醍醐」の隆盛と前後して、醍醐天皇によって、醍醐山の山麓にも大伽藍が展開された。こちらを山上の上醍醐に対して、「下醍醐」と称する。
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そのうちのひとつ、三宝院門跡。弥勒菩薩坐像を本尊とする醍醐寺の塔頭寺院であり、修験道当山派の総本山を兼ねる。
室町時代には、三宝院門跡が、歴代醍醐寺座主を務めるなど重きを成したが、応仁の乱で荒廃。織豊時代に至り、「醍醐の花見」の縁もあり、豊臣秀吉・秀頼父子の助力で再興した。
写真は、国宝となっている唐門。1599年に創建された。伏見城の遺構と伝わる。「複弁十二葉の菊花紋」と「五七の桐」紋が打たれ、勅使のみ通ることを許された。2010年、創建時の姿に修復された。
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仁王門。西大門ともいう。平安中期に、西大門として建てられたのが濫觴である。応仁の乱での焼失後、慶長10年(1605)、豊臣秀頼により再建された。豊臣家は、寺社の寄進に熱心であったが、とくに醍醐寺の再興に尽力したのは、一説には、秀吉が関白になったとき、関白を辞してその位を譲ってくれた二條昭実が、醍醐寺80代座主・義演准后の実兄であったから、つまり、関白就任の「恩返し」という要素もあったのでは、とされる(ついでにいえば、皇后・皇太后・太皇太后の三后に准ずる准三后の宣下が義演に下ったのは、秀吉の関白任官の翌日であった。秀吉と醍醐寺の深いかかわりを感じさせるエピソードである)。
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門内に安置されている金剛力士像は、平安時代後期に、大仏師の勢増・仁増により造られたもので、醍醐寺の南大門にあったものを遷したもの。国重文。
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紅葉の時節は、大勢の人が行き交ったであろう参道も、12月の今はだいぶ人も少ない。
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さはさりながら、名残りの色づきも。
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醍醐寺の総鎮守である清滝権現を祀る清滝宮本殿。国重文。
永長2年(1097)に、上醍醐の清滝宮より勧請。応仁の乱で焼失後、永正14年(1517)に満済准后により再建。011c55a801c47ea01db129df3cbfd5feb62ad577ae
清滝宮拝殿。江戸初期の建立。
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醍醐寺の本堂にあたる金堂。国宝に指定されている。最初の建物は平安時代の延長4年(926)に醍醐天皇の勅願により建立し、釈迦堂と呼ばれた。永仁、文明の2回の焼失を経て、豊臣秀吉が、紀州湯浅の満願寺本堂を移築した。本尊は薬師如来坐像。
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五重塔(国宝)。醍醐天皇の第一皇子・朱雀天皇が、父帝の菩提を弔うため、承平6年(936)に着工し、醍醐帝第二皇子・村上天皇の御代、天暦5年(951)に建立。
高さ38メートルのうち、相輪の部分が13メートルある。
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応仁の乱をはじめ、数々の災厄を受けている醍醐寺だが、この五重塔は、創建のころの様子を今にとどめる。とはいえ、過去には大きな地震にたびたび遭遇しており、天正地震のごときは、塔を傾けたという。しかし、その都度修理を重ね、現在は京都府下でもっとも旧い木造建築物とも、最古の五重塔ともいわれている。
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祖師堂。弘法大師空海と理源大師聖宝を祀る。慶長10年(1605)に、義演准后により建立。
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日月門。上醍醐への入口にあたる。
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なお、一朱とどめる木々。
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鐘楼。
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観音堂。もとは、大講堂といい、実業家・山口玄洞の寄進により醍醐天皇一千年忌を期して、1930年に建立。真言僧侶の育成道場であった。
ところが、西国三十三ヶ所十一番札所・上醍醐の准胝堂が、2008年8月24日夜の雷災で全焼してしまったのである。このため、札所本尊なる准胝観音像を奉安し、准胝堂再建までのあいだ、仮の観音堂となっている。
したがって、今現在、西国札所を巡っておられる方は、上醍醐まで登らなくても、お参りができる、ということになっているわけである。
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御朱印は、観音堂内にて拝受。今回は、真言宗十八本山の納経帳にいただく。
こちらでは、総本山醍醐寺・真言宗十八本山・西国薬師四十九霊場39番札所、神仏霊場巡拝の道126番(薬師如来)、西国三十三所霊場・11番札所(准胝観音)、近畿三十六不動尊霊場23番札所(不動明王)、役行者霊蹟札所(役行者)の御朱印がいただける。


牛皮山隨心院(京都府京都市山科区)

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勧修寺から随心院へ。随心院は、真言宗善通寺派の大本山で、小野小町ゆかりのお寺としても知られる。(お寺のHPは→こちら
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総門。宝暦3年(1753)に五摂家・二條家から移築されたと伝わる。
随心院は、正暦2年(991)に仁海僧正が開基した牛皮山曼荼羅寺にそもそもの流れを持つ。
このお寺の名は、仁海僧正が夢に、亡母が牛に生まれ変わっていることを見、牛を飼ったが、その牛が死んでしまったため、それを悲しみ、牛皮に両界曼荼羅図を描いて、本尊としたことによるという。
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定規筋。曼荼羅寺開山の後、5世住持・増俊阿闍梨が子房として開いたのが、随心院である。
随心院は、順徳・後堀河・四条天皇の勅願所となり、後堀河天皇の御代、寛喜元年(1229)に門跡とする宣旨が下り、以降、五摂家より入寺した。
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薬医門。江戸・寛永年間の造営。摂家の九條家ゆかりの天真院尼なる女性の寄進によるもの、とのことであるが、この女性は、寺域に供養墓のある天真院従二位本光圓成大姉こと、関白九條幸家の北政所・完子(さだこ)であろう。
完子は、羽柴秀勝(豊臣秀吉の甥)と浅井長政の娘・江の子。秀勝歿後、江が徳川秀忠に再嫁したため、完子は江の姉で秀吉側室の淀の方が引き取り、九條家に嫁がせた。
なお、この完子を通じ、現在の皇室には、浅井家及び豊臣家の血が続いている。


さて、おりしも門前の参道では、「随心院小町てづくり市」が開催中。こちらは実行委員会の主催で、お寺は直接かかわっていないが、木工、陶芸、布、紙工芸、アクセサリーなど工芸品、飲み物食べ物に野菜にお花など、多岐にわたるお店が出店。そこまで大きくはないので、見て廻るにもころあいで、アットホームな市である。
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小野小町の歌碑。百人一首の「花の色は うつりにけりな いたずらに わが身世にふる 眺めせしまに」が刻されている。
山科小野の地は、妹子・道風・篁などを輩出した小野氏の根拠地であると伝わる。小野小町もその一人で、出生地に山科小野の地を擬する説があり、後宮への出仕を退いた後もこの地で過ごしたとされる。随心院には晩年の姿を描いているとされる「卒塔婆小町」像や、化粧の井戸などの遺跡が残っている。
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庫裏。
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輿や長持(写真に写っていないが・・・)などが展示。
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奥書院。
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庫裏に面した庭。
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縁先に鐘が吊るされている。
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廊下には駕籠が吊るされてある。
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大玄関の内側から薬医門方面を見る。大玄関は薬医門と同様、寛永年間に天真院尼の寄進により造営。
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本堂。本尊は如意輪観音坐像。他に、阿弥陀如来坐像、金剛薩埵坐像、薬師如来坐像、釈迦三尊像、不動明王像、弘法大師坐像、仁海僧正坐像などが安置されている。
この本堂は、応仁の乱での焼亡により、寺地を唐橋九条、相国寺前などに遷して後、安土桃山時代の仕舞い頃、曼荼羅寺旧跡に再興された。
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本堂前のお庭。
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石塔も建つ。
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御朱印は拝観受付にて。こちらは、真言宗十八本山納経帳にいただいた(11番札所である)。
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家人へのおみやげに、御朱印帳をお頒けいただく。ベージュ色の洒落た色合い。表紙の触った感じもちょっと独特の感触。


亀甲山勧修寺(京都府京都市山科区)

抱えていた大きな仕事が終わったので、束の間の休息で京都行き。
暗いうちに家を出て、新幹線で一路京都。東海道線で山科へ戻って、地下鉄で小野駅まで。
冬の朝の柔らかい日差しを浴びながら、ぶらぶらと歩く。
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最初に訪れたのは、真言宗山階派の大本山・勧修寺。醍醐天皇を開基とし、開山は東大寺の承俊律師。門跡寺院として重きを成した。
ちなみに、寺名は、「かじゅうじ」と称えるのが正しいが、地名では「かんしゅうじ」と読むものもあり、寺の造営にかかわりあった藤原定方の流れを汲む堂上公卿・伯爵の勧修寺家は、寺に因んで「かじゅうじ」と呼ぶが、古くは「かんじゅじ」と読んだことも記録に残っている。
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山門に至る参道と築地塀。
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山門。勧修寺は、もともとは平安の豪族・宮道弥益(みやじいやます)の邸宅であったが、昌泰3年(900)、醍醐天皇が弥益の孫である、生母・藤原胤子の追善のため寺を建立させたのである。造立には、胤子の同母兄・右大臣藤原定方が命ぜられて当たった。勧修寺の寺号は、胤子の父・藤原高藤の諡号にちなむ。
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さざれ石。学術的には、「石灰質角礫岩」といい、小石の隙間を炭酸カルシウムや水酸化鉄が埋めて、ひと塊になる。
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宸殿。明正院の御所・対面所を移築。
応仁の乱での焼亡、豊家による寺領削減、伏見街道の開通による寺地縮小によって衰退したが、江戸時代になって、朝廷と徳川幕府の支援により復興した。
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正面が書院(重文)、写真には写っていないが、本堂は左奥にある。
書院は、後西天皇(明正天皇とも)の御殿を遷したもの、本堂は、霊元天皇の仮内侍所を移築したものである。ご本尊は、千手観世音菩薩。醍醐天皇の等身大とされる。現在の像は、室町時代の作。
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冬の日差しを浴びる氷室の池。広さ6600㎡。
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奥に観音堂。手前には、水戸徳川光圀寄進の勧修寺型燈籠。
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大悲閣(観音堂)は昭和の建造。
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大悲閣の右奥のほうの見当に五大堂と本堂がある。
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お納経・御朱印は、南側にある佛光院にて。
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佛光院は、自らも災厄のため、双腕を喪った大石順教尼が、身体障害者を救うため、相談所を開き、勧修寺塔頭のあったこの地に、佛光院を開創したことによる。本尊は千手観音。
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門横には、三世市川寿海の献燈が。寿海は上方の歌舞伎役者で、戦後を代表する時代劇スターのひとり、市川雷蔵の養父である。
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今回は真言宗十八本山ということなので、日付はなし。


2014年09月06日

居木神社(東京都品川区)

JR大崎駅そばの居木神社(いるぎじんじゃ・神社のHPは→こちら)にお邪魔する。
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居木神社は、その創建の時期は不詳ながら、往古は、JR大崎駅をはさんで反対側、目黒川にかかる山手通りの居木橋のたもとにあったといわれる。「居木」という地名の由来は、そのころのお社のそばに、「ゆるぎの松」という大松があり、後世転訛して「いるぎの松」となり、そこから、地名になった、ということのようである。
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表参道の入口。
神社は、江戸初期に、目黒川の溢水を避けて、当地に移動したといわれる。その際、村内に祀られていた貴船明神、春日明神、子権現、稲荷明神を合祀、五社明神と称した。現在の居木神社の名前になったのは、明治に入ってからである。
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表参道を進んでくると、鳥居と社殿が見えてくる。
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狛犬一対。
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社殿。ご祭神は、日本武尊を主祭神とし、高龗神、大國主命、倉稲魂命、天兒家根命、菅丞相を配祀し、手力雄命、淀姫命、大山咋命を合祀している。社殿は、戦災で焼失後、昭和53年に再建成ったものである。
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「成長のあかし」の石碑。ここには、1センチ刻みで目盛りが刻まれてい、基礎には足型のしるしがついている。お参りの際にここで身長を測りっこしたり、写真を撮ったりする、ということだろう。
昔ならいざ知らず、賃貸のマンションなどに住んでいる人は、家の柱に背比べの傷を付けるわけにもいくまいから、人生の通過儀礼の際に足を運ぶことも多い神社にこのようなものがあるのはなかなかいいことだ。
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御朱印は、授与所にて。御朱印単独だと、初穂料は500円。
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御朱印帳。表面は春の社頭。
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裏面は、秋ということか、ご神木の公孫樹の葉をあしらってある。初穂料は1000円。


西五反田氷川神社(桐ヶ谷氷川神社/東京都品川区)

東急目黒線・目黒駅からひと駅の不動前駅で下車。住宅街を5分ほど歩くと、西五反田氷川神社に到着。
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当地は、往時桐ヶ谷村と呼ばれた場所(現在も、近在には著名人の折れ口の際に名を聞く「桐ヶ谷斎場」もある)。この氷川神社は、桐ヶ谷村の鎮守、現在も西五反田一帯の鎮守である。
現在の住居表示をとって、西五反田氷川神社と呼ぶことも、旧の地名である桐ヶ谷氷川神社と呼ぶこともあるようである。
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鳥居。
当社は、創建の年代は諸書に詳らかではないが、新編武蔵風土記によれば、元禄年中に社地免除との記述があるところから、少なくとも、それより以前には創建されていたと推定される。氷川神社であるので、大宮氷川神社から分祀されたものであろうか。
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神楽殿。
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狛犬一対。
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昭和13年造営の社殿。ご祭神は、主祭神を素盞嗚尊とし、明治41年に村内各社から合祀された誉田別尊・建御名方命・於母陀流神〔面足命〕・阿夜詞志古泥神〔惶根命〕を配祀する。 
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「氷川の滝」の名残り。社殿の右崖下、往時は湧水が滝をかたちづくっていた。水量豊かで、氷川の滝とも、氷川の懸泉とも称され、江戸七瀑布のひとつに数えられていたというが、今は、湧き水がわずかに染み出す程度である。
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鉄砲石。幕末の志士が、品川宿御殿山の料亭・観桜館の庭にあった石を鉄砲を撃つ標的にしたものという。
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御朱印は、社務所にて。氷川の氷の文字「冰」である。


赤城神社(2回目/東京都新宿区)

土曜出勤、だが、昼で用務は終わったので、仕事場を出る。
その仕事の関係で、願掛け、というのは大仰だが、お願いしたいことがあったので、神楽坂上の赤城神社へうかがう。(神社のHPは→こちら
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鳥居。
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赤城神社は、鎌倉時代の正安2年(1300)、上野(現在の群馬県)在の大胡彦太郎重治という人物が、牛込早稲田の地に移住した際に、郷里の赤城神社を勧請して創建したものである。その後、太田道灌による牛込台への移転に次いで、弘治元年に現在地に鎮まった。牛込総鎮守として周囲の崇敬をあつめてきた。
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うっそうと聳えるご神木。こういう大きな木は、写真に収めるのがむずかしいですね。
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社殿と集合住宅。前回の参拝の際にも書いたが、これは、2010年に完成した「赤城神社再生プロジェクト」によってできた分譲マンションである。社殿の老朽化建て替えと、境内にあった幼稚園の閉園に伴い、境内にマンションができた。定期借地権を設定した建物なので、70年後には、取り壊され、杜に戻されるとのこと。息の長い話である。
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江戸時代に流行った型であるという狛犬。
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社殿。ご祭神は、岩筒雄命。相殿には赤城姫命が祀られている。
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蛍雪天神。菅原大神を祭神とする。もともと境内社で戦災で焼けたあと、復興できずにいた北野神社を、ご近所にある旺文社の寄進により再興した。蛍雪の名は、もちろん受験進学情報誌の「蛍雪時代」に因む。
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授与所を覗いたら、オリジナルの御朱印帳が奉製されていた。市松梅と・・・
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雪うさぎ、そしてもうひと柄、「古典」という柄。迷って、市松梅と雪うさぎのものをいただく。
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御朱印帳には既に御朱印が捺されてあり、日付だけ入れてもらうようになっている。

お参りを済ませて、神楽坂駅に戻ろうとしたら、出入りの印刷会社の営業さんとばったり。聞けばあちらも休日出勤との由。お互いご苦労様です。


2014年08月16日

屏風浦五岳山誕生院善通寺(香川県善通寺市)

京都から新幹線で岡山へ。岡山から特急南風に乗り継ぎ、瀬戸大橋を渡って四国へ入る。京都から2時間少しで、JR土讃線の善通寺駅に到着。

駅前でタクシーを拾って5分足らず。善通寺に到着。少々ややこしいが、善通寺は寺名であり、市名であり、駅名でもある。
で、タクシーで赴いたのは、お寺の善通寺。真言宗善通寺派の総本山にして、弘法大師空海の「御誕生所」として、東寺、高野山金剛峯寺とともに、弘法大師三大霊跡のひとつに掲げられている。(お寺のHPは→こちら

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「東院」の南大門。永禄元年(1558)の兵火にかかって焼失。明治中期に再建された。
善通寺は、大同2年(807)に、讃岐の豪族・佐伯直田公善通(さえき・あたいのたぎみ・よしみち)の開基によって、弘法大師空海が開いたお寺である。空海の出家前の名は、佐伯真魚。佐伯田公は、彼の実父である。
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大きく「東院」と「西院」に分かれる善通寺。「東院」を伽藍といい、「西院」は誕生院とも呼ぶ。もともと西院のあった土地は、佐伯氏の屋敷があったところで、鎌倉時代に寺が建立された。明治時代までは、善通寺と誕生院は別のお寺であったそうだ。
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善通寺市のゆるキャラ「むぎゅ~ちゃん」。讃岐のもち麦・ダイシモチの宣伝PRに当たるのが役目だそうだ。今回は、イベント「四国霊場88サイクル駅伝」のゴールでのお出迎えが任であったようだ。
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総欅造、高さ45メートルの五重塔。現在のものは、仁孝天皇の命により、弘化2年に再建を着手、明治35年に完成したもの。
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鐘楼。
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釈迦如来をまつる常行堂(釈迦堂)。もともとは、延宝年間建立、西院にあった御影堂の建物であったが、天保年間移築された。
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善通寺の本堂である金堂。丈六(約3メートル)の薬師如来坐像を本尊としてまつる。戦国時代の永禄年間に兵火にかかってのち、江戸・元禄年間になって再建された。
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中門。西院へとつながる参道に立つ。
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「西院」の正門である仁王門。
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御下賜金を示す石柱。その隣は、旧讃岐高松藩主家の松平頼寿伯爵からの寄進を示す。
善通寺は、古くは天皇・上皇の庇護などを受け、本寺を東寺、大覚寺、随心院と更めつつ、戦国の兵火に衰微したこともあったが、織豊大名の生駒氏を皮切りに、江戸時代の高松藩主松平家、丸亀藩主京極家などの庇護を受け、近世の隆昌をみた。現在のような寺域のかたちが固まったのは、この江戸期といってよい。
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仁王門から御影堂へ向かう回廊。
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御影堂(大師堂)は、佐伯家の屋敷あとに建ち、すなわち弘法大師生誕の地、「御誕生所」であり、善通寺の奥の院である。お大師様の自描と伝わる「瞬目(めひき)大師像」をご本尊としてまつる。
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左から、護摩堂と親鸞堂。
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左から親鸞堂、鐘楼、その奥が納経所。四国八十八箇所の御朱印はこちらでお書きいただける。
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こちらはご本尊・薬師如来の御朱印。四国八十八箇所霊場の75番札所である。平成26年は、霊場が開創して1200年の節目にあたり、その記念の印が捺されている。
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こちらは、お大師様御誕生所の御朱印。
真言宗十八本山や、さぬき三十三観音霊場(札所番号のつかない「総本寺」という位置づけ)の御朱印は、御影堂内の授与所でいただくことができる。

つつがなくお参りを済ませ、タクシーで善通寺駅へ。
途中乗換えをしつつ、無事夕景には高松へ到着。

その後、仕事で2泊の滞在。滞在中には、讃岐うどんを食べまくる。
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兵庫町・うどん市場の肉玉おろしぶっかけ。
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大工町・川福本店のぶっかけ。
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中央通から瓦町方向に入ったうどん棒本店のぶっかけ。
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県庁前・さか枝でかけにちくわ天。

高雄山神護寺(京都府京都市右京区)

高山寺を出て、周山街道を徒歩で下る。折から霧がまとわりつくように降っていた雨脚が、少しずつ強さを増してきた。風情があるのはよいが、さすがに、京都駅での晴れ間を見ての選択は、過てり、であったか、と思う。

途中から周山街道を離れ、清滝川左岸沿いの県道を歩く。気候がよければさぞかし楽しいハイキングになるのであろうが、雨に降り込められてはなぁ。それでも、川と緑が醸す嵐気は、決して快くないわけではない。

歩みを進めてきたところで、道は清滝川を高雄橋でまたぐ。
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その高雄橋のたもとに、「山内女人禁制」の石碑が建っている。江戸・万治年間ごろのものという。
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高雄橋から清滝川の流れを見る。右岸側の石垣からは方々から雨水が川に流れ落ちていた。

本来であれば、橋を渡ったところから石段を登っていくことになる。
ところが、石段の中途で倒木があるとのことで表参道は通行止め。少し廻ったところにある、舗装の「防災道路」から迂回せよ、とのこと。グネグネとうねりながら高度を上げる道路をふうふう言いながら上がっていく。息が上がる。だが、立ち止まると、動けなくなりそうで、ひたすら歩を進めるより他なく、鈍った身体には「荒行」としか言いようがない。
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本来ならば、この石段を上がってくるはずであった。防災道路とどちらが楽であろうか・・・。
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高雄山神護寺は、高野山真言宗の遺迹本山である。もともとは、神護国祚真言寺を正式名称とするが、通常は神護寺の名がもっぱらである。空海、最澄などにもゆかりのある名刹である。(お寺のHPは→こちら
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楼門(山門)は、諸説あるが、現在の山門は元和9年(1623)の建立とされる。
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山門をくぐると、これまでの登りがなんだったのだろうと思うような平坦な広場が現れる。
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書院入口の門。
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和気清麻呂公霊廟。
和気清麻呂公は、当寺の開基とされている。
当寺はもともと、和気氏の私寺であった「神願寺」と「高雄山寺」が、天長元年(824)に合併してできたお寺である。神願寺は、8世紀後期に立てられたお寺で(場所は、河内国など諸説あり)、いわゆる道鏡事件ののちに、清麻呂公が建てたものである。
一方の高雄山寺は、山岳信仰ともかかわって、古くからこの土地にあったとみられるお寺であり、和気氏ともかかわりが深かったものとみられる。
高雄山寺には、和気清麻呂公の姉・広虫の三回忌を営むに当たり、最澄が招かれて法華会を執り行ったほか、空海もこの寺に在り、灌頂を執り行った。その記録は今も現存し、国宝となっている。
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鐘楼。建物自体は、元和年間のものだが、2階楼上に架かっている梵鐘は、貞観17年(875)の作で国宝。鐘の銘文は、詞を文人の橘広相が、銘を菅原是善(道真の父)が、歌人で能書家の藤原敏行が字をそれぞれ手がけたもので「三絶の鐘」と称されている。
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明王堂。
もともと神護寺には、弘法大師御作の不動明王像が安置されていた。それが、天慶3年(940)に東国に発した平将門の乱の鎮圧を図るべく、東国へ”出張”。この不動明王は、こちらに戻ることなく、かの成田山新勝寺のご本尊となった。
現在の明王堂におわす不動明王像は、平安中~後期の作とみられる。お堂の扁額は、上記のような経緯からか、成田山を信仰して止まなかった成田屋・七世市川團十郎の手によるものである。
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大師堂。国重文の仏堂で、弘法大師の住房を復興したもの。現在の建物は、近世初期の再建である。正安4年(1302)作の板彫弘法大師像を安置する。大師像は国重文で秘仏である。
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大師堂の傍らにある石造転法輪。1回まわすにつき、六万遍念仏を唱えた功徳があるという。
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毘沙門堂。元和9年(1623)の建築であり、現在の金堂ができるまではこちらが金堂であった。そのころにはご本尊も安置されていたが、現在は、平安時代の毘沙門天立像(重文)を安置する。
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五大堂。毘沙門堂などと同じ元和9年の造立。もともとは、平安時代の天長年間に、淳和天皇の勅願により建立されたものという。五大明王像(不動明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王)を祀る。当初は平安時代、天長年間(824-834)に第53代・淳和天皇御願により建立されたという。
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金堂に向かう石段。
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秋になれば、すばらしい景となろう。
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金堂。意外に新しく、1934年の造営である。大檀越は実業家で、慈善救恤や寺社への寄進などで「寄付金王」とも呼ばれた山口玄洞。
ご本尊の木造薬師如来立像(国宝)のほか、日光月光菩薩(国重文)、四天王、十二神将などが祀られている。
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御朱印は金堂内の授与所にて。
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御朱印帳をいただいた。神護寺境内の絵図があしらわれている。
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御朱印帳の題戔には、名前を入れてくださる(ここでは消してある)。
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素敵な御朱印帳である。
なお、当寺は神仏霊場巡拝の道第90番(京都10番)札所であり、西国薬師霊場の第44番札所、仏塔古寺十八尊霊場の7番札所でもある。

お参りを終えて、防災道路を下ってくる。高雄橋の手前にある高雄観光ホテルの喫茶室に入る。と、いきなり激しい雷鳴とともに、車軸を流すがごとく雨が激しさを増した。そのうち停電。ホテルのお子さんが怖がること。
氷を食べてひと心地、バスの時間を見計らい、周山街道の高雄バス停まで歩く。
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周山街道に面した寺名標。
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山の天気は変わり易いとは言い条、今日の京都は市内の天気もすごかった。市内(写真は五条大宮付近)もバケツをひっくり返したような雨。道路は水浸しである(中京区のアメダスでは、16 日 12 時 46 分までの 1 時
間に 87.5 ミリの降雨が記録されたとか。。。)。
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ようやく京都駅に着き、ポルタのイノダコーヒでお昼ご飯。ビーフピラフ、美味。


栂尾山高山寺(京都府京都市右京区)

先夜の天気予報で、明日の天気の悪いことを知る。雨が降りそうなのだ。

予定では、明日は夕方に高松に着いていればよい。午後は、足を伸ばして、弘法大師ゆかりの善通寺にお参りをすることにしているので、逆算すると、昼過ぎに京都を出れば間に合う。

さて、どこへ行くか。
ガイドブックをめくりつつ、思案投げ首。しかし、なんとしても天気が気になり、決めきれぬまま、眠りに落ちた。

明けて、朝。
何はあれ、とりあえず地下鉄で京都駅へ出る。どこにいくにはせよ、荷物を預けて身軽になりたかったからだ。

空模様を見ると、なんとまあ、薄日が射している。
そうなると、きのうの検討の段階で立ち消えた、高雄行きを思い立つ。
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京都市域の北のほう、高雄地区へは、JRバスが便利だ。案内所でフリー乗車券を買う(このチケット、前売りはないわ、駅の案内所でしか買えないわ、とかく使い勝手が悪い)。

京都駅を出発したバスは、七条から大宮通、さらに千本通と北上、北野、立命館大学と進んで、きぬかけの道を龍安寺、仁和寺と過ぎて、周山街道にかかる。少しずつ山間に向かい、ヘアピンカーブを越えると、いよいよ三尾。高雄(高尾)、槙ノ尾と進んで、栂ノ尾でバスを降りる。
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栂尾山高山寺。天台宗から華厳宗、真言宗御室派を経て、現在は真言宗系の単立寺院である。
(お寺のHPは→こちら なお、お寺のHPを見ると、高山寺の高の寺は、はしご高=髙が正しく、読みも「こうさんじ」が正しいようである。)

この碑は、儒学者で文人の富岡鉄斎の筆になるもの。
山深いこの地には、いにしえより山岳信仰の小寺などあったようである。
伝わるところによれば、奈良時代の宝亀5年(774)に光仁天皇の勅願により開創されたと伝わり、「神願寺都賀尾坊(じんがんじとがのおぼう)」と称した。平安時代には、近隣の神護寺の別院とされ、「神護寺十無尽院(じゅうむじんいん)」と称されていたという。
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 鎌倉時代の建永元年(1206)、後鳥羽上皇の帰依を得た僧・明恵が栂尾十無院を贈られ、華厳宗の根本道場として再興した。寺名の高山寺は、この時に改められたもので、与えられた勅額「日出先照高山之寺」(日出でて先ず照らす高山の寺)による。明恵は実質的な開山、中興開山となっている。
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1994年、古都京都の文化財として、世界文化遺産に指定。
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かつて、この石灯籠のあった位置に、仁王門があった。1881年の火災で焼失。
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樹間に17枚の石板が敷かれている表参道。
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バス停の脇から、境内に抜ける裏参道。
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とても趣き深い参道である。
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石水院への門。
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高山寺は、山中の寺であるが、天文年間の兵火をはじめ、江戸時代の火災などで、中興当時の建物はほぼ残っていない。
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その中で、この石水院は、境内で場所を遷しながら、鎌倉時代からの歴史を今に伝えている。
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石水院は、鎌倉時代の初期の建物で、国宝。後鳥羽上皇の御学問所を下賜されたものとも伝わる。もともとは明恵上人の住房であったともいい、長い間経蔵として使われてきたが、明治22年に現在地に移築され、住宅様式に直された。
「名をかえ、役割をかえ、場所をかえて残る、明恵(みょうえ)上人時代の唯一の遺構である。」(お寺のHPより)

この写真は、西正面の「廂の間」。もともと、春日・住吉明神の拝殿であったところ。欄間には富岡鉄斎筆「石水院」の掲額。板敷きには、善財童子像が置かれている。明恵上人が敬愛した善財童子。現在の像は、西村虚空作の一木造り。   
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石水院から見える山々。小雨に煙り、幽邃な風情を醸す。
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深い緑に囲まれる。
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お庭。

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開山堂。明恵上人が晩年を過ごした「禅堂院」の跡地に立つ。明恵上人坐像(重文)が安置されている。室町時代の兵火、江戸時代の火災などを受けて、江戸時代中期に再建されたものである。
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かつての本堂の位置に立つ金堂。承久元年に完成の本堂は、室町時代に焼失。現在の金堂は江戸・寛永年間に御室仁和寺からお堂を移築したものであるという。釈迦如来像を本尊とする。
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高山寺といえば、鳥獣戯画であろう。全4巻、「日本最古の漫画」とされる。現在は国宝で、原本は、東京・京都の国立博物館に寄託されている。
その鳥獣戯画をあしらった御朱印帳。色もさまざまある。
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今回は水色のものをいただいた。
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御朱印はご本尊の釈迦如来。
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押さえ紙に鳥獣戯画のうさぎがあしらわれていた。


2014年08月15日

錦天満宮(京都府京都市中京区)

銀閣寺を出て四条河原町まで出る。オーパの裏手にある手拭いを売っているお店で、前から目に付けておいた手拭いを買う。
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裏道をウロウロとしていたら、寺町通へ出る。
少し上ると錦天満宮の有名な鳥居が見えてくる。
錦小路通寺町を東に入ったところにあるこの鳥居は、両端のビルに「刺さって」いる。
これは、区画整理の際に、柱の根元の幅で道路幅を決めてしまい、上部の幅を考慮していなかったため、ビルの中に鳥居がめり込むかたちになってしまったのだそうな。

というわけで錦天満宮。(神社のHPは→こちら
長保5年(1003)、菅原道真公の父・菅原是善公の旧邸を移築して創建された歓喜寺の鎮守として天満天神を祀ったのがその起こりである。
時代下って、天正15年(1587)、豊臣秀吉によって、歓喜寺とともに、現在地に移転。鎮守は土地の名前から「錦天満宮」と呼ばれるようになった。明治になり、神仏分離で歓喜寺は東山五条に移り、錦天満宮は現在地に残ったのである。
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こちらは、新京極に面した入口。
寺町通と新京極の関係だが、寺町通は、古くから都の東端の大路で、天正年間に豊臣秀吉の都市改造により、寺が集められたことから寺町通と名づけられた。
寺町通の東側に位置する新京極は、明治になって作られた新しい通りである。もともとは各社寺が、寺町通りまで広い参道を有し、広大な寺域を持っていたものが、時代の変転で整理されたのである。新京極の名は、寺町通のこのあたりを寺町京極と称していたことによる。
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撫で牛。観光客が蝟集する新京極と錦小路通の交わるところにある神社だけあり、参詣する人が絶えない。
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社殿。ご祭神は菅原道真公(天満天神)。
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御朱印は書置きのものを頂戴する。

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お参りを終えて、四条河原町から四条通を西へ。天神川四条まで出て、新福菜館の天神川店で夕食。中華そばの麺硬め、ねぎ多め。
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四条烏丸に戻り、行きつけになったショットバーへ。スイカのソルティドッグ。


東山慈照寺(銀閣寺/京都府京都市左京区)

東福寺駅に戻り、京阪電車に乗って、三条駅まで。三条大橋のたもと、三条通川端ということになるが、地名としては「三条京阪」が一般的である(厳密にいうと、三条通と川端通の交叉点は「三条大橋」交叉点で、「三条京阪」交叉点は、その1個東方の交叉点の名称になっている)。
「土下座像」として有名な高山彦九郎の御所遥拝像を見つつバスに乗り、銀閣寺道まで。
そこから人でごったがえす、銀閣寺への道を進む。夏休みであることに加え、明日は五山の送り火。銀閣寺は、いわゆる「大文字山」を後背に背負う。
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銀閣寺は、正式名称を「東山慈照寺」といい、臨済宗相国寺派大本山である相国寺の境外塔頭寺院である。金閣寺や清水寺と並んで、京都の観光地の代表格であることは言うまでもない。ユネスコの世界遺産にも指定されている。
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総門。
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銀閣寺垣がたてられた参道。

銀閣寺は、もともと浄土寺という天台宗のお寺が応仁の乱で焼けた跡地に、室町幕府8代将軍の足利義政が山荘を築いたことが起こりである。8年にも及ぶ造営期間には、応仁の乱で疲弊した京都の人々は多大な負担をこうむったとされるが、義政はこの山墅を気に入ったようで、造営中から、常御所に移り住んだ。
義政の死後、その菩提を弔うべく、延徳2年(1490)に東山殿を寺とし、相国寺の末寺として創始されたのが寺としての嚆矢となる。寺名は、義政の法号「慈照院殿喜山道慶」から来ている。
このようなところから、開基は足利義政で、開山(勧請開山)は、夢窓疎石である。
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木の奥には、庫裏・方丈への玄関がある。
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夏の夕、浴衣着の人もちらほらと。
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唐門の花頭窓。
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銀沙灘(ぎんしゃだん)。銀閣寺のハイライトのひとつである。
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こちらは銀沙灘、向月台、そして銀閣。
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東求堂前の庭園。禅寺の様式が取り入れられており、義政の世界観を体現している。
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庭園は、錦鏡池を中心とする回遊式庭園。
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洗月泉。
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東求堂。文明18年(1486)の建立で、銀閣とともに、東山殿時代から残る数少ない遺構のひとつ。もともとは足利義政の持仏堂である阿弥陀堂で、江戸時代に現在の本堂である方丈(ご本尊は宝冠釈迦如来坐像)ができるまでは、東求堂が仏殿であった。国宝。
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庭園の東方は小高い丘になっており、寺域を一望にする事ができる。
右手に、東求堂、方丈(本堂)、庫裏、書院、銀沙灘を挟んで、左手に銀閣。
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こちらから見えるのは、衣笠山の方角だろうか。
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こちらは吉田山の方角であろう。
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銀閣。長享3年(1489)上棟の木造2階建てで、正式には観音殿。国宝。
銀閣の名は、江戸時代に入って、同じ相国寺の境外塔頭である鹿苑寺金閣に擬えて言われるようになったとされ、実際に銀箔が貼られたことはない(貼る計画はあった、という説はある)。
銀閣の初層を「心空殿」、上層を「潮音閣」と称する。「心空殿」には地蔵菩薩坐像と千体地蔵菩薩立像が、「潮音閣」には観音菩薩坐像が安置されている。
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御朱印は、拝観入口のわきにある御朱印所にて。
なお当寺は、神仏霊場巡拝の道第109番(京都29番)札所である。
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御朱印帳もお頒かちいただいた。1000円。
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銀閣寺の御朱印には、当て紙として書いてある内容の説明があるが、英文入りというのはさすがは世界遺産らしい。


慧日山東福禅寺(東福寺/京都府京都市東山区)

泉涌寺・雲龍院を出て、ガイドブックの指し示すままに歩く。住宅地や清水焼の工房などが立ち並ぶ閑静な住宅地の路地、ときには家の庇を掠め、勝手口の扉が開いたら触れるような細い道を歩いて(単に迷っただけかも(^^ゞ)、東福寺に至る。

慧日山東福禅寺は、通常は「東福寺」と称する臨済宗東福寺派の大本山。京都五山の第四位に列し、妙心寺の項で書いた「○○づら」でいえば、「伽藍づら」と称される大寺である。往時は70をこえる塔頭を有し、現在でも25の塔頭寺院を抱える。九条道家を開基、聖一国師・圓爾を開山として、嘉禎2年(1236)に創建。寺名は、奈良の東大寺と興福寺から1字ずつ採ったものである。(お寺のHPは→こちら
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伽藍の東福寺は、寺域を流れる渓流にかかる通称「東福寺三名橋」でも有名。上流から偃月橋・通天橋・臥雲橋。JRの「そうだ 京都、行こう。」やら、「鬼平犯科帳」のエンディングで採り上げられるなど、ある意味で東福寺のシンボルのひとつであろう。
この橋はもっとも下流に位置する臥雲橋。
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この風景、一度は見覚えがあるはず。臥雲橋から見える通天橋。
康暦2年/天授6年(1380)に春屋妙葩が架橋。南宋径山の橋を模したものであるが、昭和34年(1959)の伊勢湾台風で倒壊、2年後に再建されたのが現在のものである。
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3つの橋がかかる渓谷を「三の橋川」というが、偃月橋から臥雲橋までのあいだを特に「洗玉澗」と呼ぶ。
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日下門。寺の通用門に当たる。
ちなみに、東福寺の寺域には、もともと法性寺というお寺があった。これは、延長2年(924)、藤原忠平(時平の弟。兄が失脚させた菅原道真とは親交があり、道真の怨霊のなせる業ともいわれる時平の早世後に藤原北家の嫡流を継いだ)が、藤原氏の氏寺として創建したものである。これとて、かなり大きなお寺であったようだが、そこに、子孫である九条道家が、五丈(約15m、メートル)の釈迦像を安置する大伽藍を建てることを志して、東福寺を建立した。
その後、法性寺は衰微し、寺域は東福寺に含まれていくことになる。法性寺自体は、近代に入って再建され、JR・京阪の東福寺駅から東福寺に向かう途中、伏見街道に静かな佇まいを残しているという。
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三門。東福寺はたびたび火災に遭っているが、明治14年にも火災があり、多くの伽藍を焼いた。その中で、残った堂宇のひとつが、この三門である。応永32年(1425)に室町幕府4代将軍の足利義持が再建造立。上層には、釈迦如来と十六羅漢が安置されている。国宝。
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本堂。ご本尊は釈迦三尊像。
先に述べた明治14年の火事で焼けた仏殿と法堂を兼ねる建物として、17年の歳月をかけて、昭和9年完成。高さが25.5メートルで間口41.4メートル。昭和期の木造の建物では最大級の大きさである。
ちなみに、ご本尊も火事で焼けており、現在のご本尊は、同じ京都五山・万寿寺から遷したものである。
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禅堂。貞和3年(1347)に再建された、僧が座禅等の修行をする場。中世より残る最大最古の禅堂と伝わる。国指定重要文化財。
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東司(とうす)。早い話がお手洗いである。これまた、日本で最大最古の禅宗式の東司の遺構。中では100人の僧が用を足すことができたことから、百雪隠ともいわれた。禅寺では、用便もまた、修行のひとつであったのである。国指定重要文化財。
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経蔵。
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本堂の裏手方にある庫裏の入口で拝観料を払い、方丈を拝観する。
方丈の南庭と方丈の正門である勅使門(唐門)を内側から。
方丈は、明治23年再建。勅使門は明治42年に昭憲皇太后から下賜された。
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方丈北庭。苔と石畳の美、市松模様は西から東へとぼかされている。イサム・ノグチは、この庭をオランダの抽象画家・モンドリアンに先駆けた構成美と評した。
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方丈から通天橋を見る。
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秋になると、紅葉に染まる。当然人出もすごいそうな。
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御朱印は庫裏の入口、拝観受付の窓口にて。御朱印料は500円である。


瑠璃山雲龍院(泉涌寺別院/京都府京都市東山区)

泉涌寺の大門のそば、お参りを済ませてからなら、大門の手前、拝観受付の脇を左に入る道がある。
案内にしたがって歩を進めていくと現れるのが、雲龍院。泉涌寺の別院であり、真言宗泉涌寺派の別格本山でもある。(お寺のHPは→こちら
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山門である。
雲龍院は、南北朝時代の応安5年(1372)、泉涌寺の僧・竹巌聖皐を開山に、北朝4代の後光厳天皇の勅願によって開創されたお寺である。その後、長く朝廷の帰依を受け、高い格式を誇った。
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勅使門。
後光厳天皇の勅願による開創以降、後小松天皇、称光天皇の帰依を受け、応仁の乱での焼失後は、後柏原天皇の勅により、御黒戸御殿が下賜・移築されるなどした。その後、いわゆる慶長の伏見地震により、堂宇は大きな打撃を受けたが、江戸時代に入り、後水尾天皇の援助を受けて修復。幕末には、孝明・明治天皇父子の援助も受けている。
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鐘楼。
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霊明殿と庭、燈籠。
霊明殿は、先述の孝明・明治両天皇などの扶援を得て建てられたお堂で、内陣には、後光厳・後円融・後小松・称光天皇、後水尾天皇から孝明天皇までの歴代天皇などの御尊牌などが奉安されている。
庭の燈籠は、泉山にある孝明天皇陵に15代将軍・徳川慶喜が寄進したものと伝わる。幕末期の動乱の中で、反幕派の志士によって、打ち棄てられたものを当寺の住持が、夜半に取りに行かせたのだという。
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本堂である龍華殿。現在のお堂は江戸・寛永年間の再建。寄棟、こけら葺き。国指定重要文化財。
ご本尊は、薬師如来坐像である。
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書院からお庭を眺める。
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書院で抹茶とお菓子をいただく。
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お寺オリジナルの御朱印帳は、お寺の名前でもある雲龍の衝立を用いたもの。
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寺庭さんが業者さんと打ち合わせして構想を練ったものの由。
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色はこのうぐいす色とさくら色の2種類ある。
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本堂のお名を入れた御朱印。
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紫地に金泥の御朱印。写経道場である本堂・龍華殿に、後水尾天皇の皇女である光子内親王筆の紺地金泥で書かれた法華経の写経が納められていることにちなむという。

当寺はこの他にも、「走る大黒天尊像」や、大石内蔵助義雄の書などが残されているほか、ご本尊の薬師如来が西国薬師四十九霊場の第40番札所に、文殊菩薩が京都十三仏霊場めぐりの第3番札所になっており、泉涌寺の山内の塔頭などで構成する泉山(せんざん)七福神では、大黒天が5番札所となっている。
また、京都をこよなく愛した推理作家・山村美紗さんの墓所もこちらのお寺にある。

泉山泉涌寺(御寺(みてら)/京都府京都市東山区)

四国出張への途次、京都に立ち寄った。

仕事の途次であるから、あまり強行な日程にはせず、昼前にゆるゆると京都駅着。
そこから、市バスの208系統に乗り、泉涌寺道バス停で下車。緩やかな登りの泉涌寺道を歩いていく。
泉涌寺道を歩いて向かうのは、そのものどおり、泉涌寺。真言宗泉涌寺派の総本山で、東山三十六峰の南端・月輪山の麓に広大な寺域を有する大寺。
それよりなにより泉涌寺は、「御寺(みてら)」と称され、皇室の菩提寺としての役割を持つ「香華院」としてあまりに有名である。(お寺のHPは→こちら
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総門。ごく普通の住宅街を歩いてくる泉涌寺道にあって、この総門前後から、塔頭や別院の山門などが現れ、にわかにお寺らしくなってくる。 江戸時代の造営という。
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参道をすすんでくると、道が三手に分かれている。右に行くと泉涌寺、左に行くと塔頭の今熊野観音寺、まっすぐに進むと、皇室の陵墓への道である。直進の道の入口には、「拝跪聖陵」の碑がある。「拝跪」とは、ひざまずいて拝む、という意味。
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山内にはいくつかの陵所があり、後堀河天皇・四条天皇父子および後水尾天皇から孝明天皇まで16人の天皇と、正親町天皇の儲君・誠仁親王(譲位前に薨去し、子の後陽成天皇から陽光太上天皇が追尊される)と、皇后・皇太后、女御や親王などの陵墓がある。
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泉涌寺の来歴には諸説あって、空海が開創したというものもあるが、斉衡年間に、左大臣・藤原緒嗣が開創もしくは再興した、というのが共通の内容である。当初は法輪寺と称し、その後仙遊寺と改めたとする。
その後、建保6年(1218)、豊前国の守護・宇都宮信房が、荒廃していた仙遊寺を肥後出身の学僧・俊芿に寄進。俊芿は多くの人々の助けを得て寺院を再興した。俊芿は、宋で13年間天台・律を学んだ僧である。
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大門。国重文で、慶長年間に造営された内裏の南門を移築した。
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浴室。床下で湯を沸かし、蒸気をまわす蒸し風呂形式。京都府指定文化財。
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大門から下り参道をすすんでいくと、正面には、本堂に当たる仏殿がある。
ご本尊は釈迦如来、阿弥陀如来、弥勒如来。
この仏殿にかぎらず、泉涌寺の伽藍は、応仁の乱の戦火をはじめ、いくたびかの火事で焼失し、後代に建て直しや移築などをうけたものである。この仏殿も、寛文8年(1668)に四代将軍の徳川家綱によって再建されたものである。外見は、宋風で内部は禅宗様。国重文。
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参道からみると、仏殿の後方にある舎利殿。釈迦の仏牙舎利(歯)を奉安している。慶長年間に、内裏の建物を移築した。京都府指定文化財である。
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本坊と特別拝観の対象となっている御座所への入口の門。
御座所は、明治15年の焼失後、明治天皇が、京都御所内にある皇后宮の御里御殿を遷させたものである。もともとは文化年間造営のものである。

さて、泉涌寺は律を中心として、天台・真言・禅・浄土の四宗兼学(律も含めて五宗兼学とも)の道場として発展したが、皇室との関係は、貞応3年(1224)に後堀河天皇により皇室の祈願寺と定められたことを嚆矢とする。
後堀河天皇が泉涌寺内に陵を設けて葬られたのち、次代、四条天皇の大葬は当寺が引き受け、陵も泉涌寺内に築かれた。
その後、室町期に、天皇などの葬儀と荼毘を引き受け、灰塚なども設けられた後、江戸期に入ると、後水尾天皇から孝明天皇まで、大半の天皇の陵所が、寺域内の月輪陵などに設けられた。
 
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御座所に通ずる勅使門。江戸幕末・弘化2年の造営。
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本坊への入口の門をぐぐると、きれいに整えられた庭園。右手奥には、御座所の玄関と、霊明殿の大屋根が見える。
御座所は、女官の間、門跡の間、皇族の間、侍従の間、勅使の間、玉座の間などがある。このうち、玉座の間が、天皇皇后が利用される部屋で、今上の陛下も、数度の来寺の折にはこちらの座につかれてご休息された。廊下から玉座も実見させていただいたが、不思議な気分であった。
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本坊・御座所と並んで建つ、霊明殿の唐門。
霊明殿は、天智天皇と光仁天皇以後の歴代天皇・皇后の尊牌を安置している。もともと、禁裏にあった「お黒戸」と呼ばれた仏間に安置され、明治の神仏分離の際に、泉涌寺に遷された皇族の念持仏をまつった「海会堂」とならび、いわば、「御寺」としての泉涌寺の核心の部分といってよい場所である。

泉涌寺は、近代の宮中との関係の変遷において、さまざまな状況の変化に対応してきた。
神仏分離においては、陵墓は上地され、その寺域は往時の5分の1にまで縮小された。
同時に、檀家を持たない泉涌寺は、皇室の私的な菩提寺という位置づけをもって尊牌を護って、歴代天皇・皇后の回向にあたり、宮中からはご下賜金を賜った。さらに、泉涌寺の伽藍の造営・修繕は、宮内省の国費をもって賄われた。

現在は、政教分離の観点から、国費での伽藍の造営・修繕が難しくなり、皇族を総裁に戴き、経済界などに広く基盤を持つ「御寺泉涌寺を護る会」が設立されて、お寺のサポートに当たっているのだそうである。
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泉涌水屋形。寺名の由来となった湧き水は今も涸れることなく湧き続けている。水屋形はその湧き水を覆う覆堂。仏堂と同じ寛文期の建物である。
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御朱印は、本坊の受付にて。
札所としては、神仏霊場巡拝の道の第121番(京都第41番)札所、真言宗十八本山の8番札所、境内にある「楊貴妃観音」を札所本尊とする洛陽三十三箇所観音霊場の20番札所、京都十三仏霊場の6番札所となっている。
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御朱印帳をいただいた。あざやかな青地に、菊のご紋章と寺紋があしらわれている。
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中には、諸悪莫作 衆善奉行という経文の一節が。


2014年07月27日

多喜山水精寺大聖院(広島県廿日市市)

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大願寺を出て、いい加減な時間になったが、これを食べるために、昼食はまともにしなかったのだ。
宮島名物のあなごめし。いくつか名代の店があるが、今回は、大聖院に向かう途中にあるふじたや。
地穴子がたっぷり、熱々のご飯の上に乗せられており、夢中でかっこむ。店じまい間際の来店で食べられたので、ラッキーだった。
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ふじたやの前の坂道を、登りの方向に向かって歩いていくと、大聖寺の入口と、弥山への登山口が分岐するところに、「みせん ミち」の道しるべの石灯籠がある。
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白糸川。この写真ではあまり水がないが、弥山の山腹を駆け下る急峻な川で、平成17年の14号台風で、土石流が駆け下った。
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大聖院は、真言宗御室派の大本山。寺伝に遵えば、大同元年(806)に宮島に渡った空海が、弥山で修行したうえで開いたお寺であるという。宮島最古のお寺であり、神仏分離まで、厳島神社の別当寺として祭事をつかさどった。
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仁王門。当寺は、明治20年の大火でほとんどが焼けており、こちらは昭和14年の再建である。
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阿吽の金剛力士像。
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石段をせっせと登る。手すりの上についているのは、摩尼車。600巻もの大般若経が筒状にして納められており、これを右周りに回転させるだけで、その数だけお経を読んだことになるのだそうだ。
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途中には、鐘楼。
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そして、御成門。
大正3年(1914)再建。総檜造、唐破風檜皮葺きの勅使門である。
大聖院は、真言宗御室派の一寺であるが、仁和寺第20世門跡の任助法親王は、九州への法流相伝のため、巡錫中に、厳島に立ち寄られ、しばらく当地に留まり、急な病を得て当地で寂された。
このようなかかわりから、任助法親王は「厳島御室」と称され、当寺もまた、そのように称されている。
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勅願堂。鳥羽天皇の勅願道場であり、本堂である。本尊は波切不動明王。明治43年に再建。
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摩尼殿。弥山三鬼大権現のご祈祷所である。大日如来の化身・時眉鬼神、虚空菩薩の化身・追帳鬼神、不動明王の化身・魔羅鬼神の三鬼神を全国で唯一お祀りしている。
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大師堂。文化14年(1817)に建てられた大聖院最古の建物である。大聖院を開いたとされる弘法大師空海が祀られている。
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御朱印は、ご本尊の波切不動明王のご朱印をいただいた。
当寺は、中国三十三観音霊場14番札所、山陽花の寺霊場1番札所、広島新四国八十八ヶ所霊場87番札所となっている。
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石段を降りていたら、はるかに海と対岸が見えた。
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静かな厳島の町並み。
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傾きつつある太陽に照らされた海。
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広島駅に戻り、宿舎の近くのお好み焼き屋「大ちゃん」で夕飯。おそ昼だったが、やはり名物は食べないと。


亀居山放光院大願寺(広島県廿日市市)

厳島神社は、拝観に際して昇殿初穂料をお納めすることになるが、拝観順路の出口を出て、御手洗川を石造りの橋で渡るとすぐ右手にあるのが、大願寺。高野山真言宗のお寺であるが、厳島神社との縁は深い。

往時は、厳島詣での参拝客は、大鳥居をくぐると、大願寺前の砂浜から上陸し、大願寺裏にあったお風呂で身を清め、当時は僧坊であった現在の本堂で休憩し、着替えてから神社参拝に向かったとのことである。

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 山門。大願寺の創建は、寺伝には、平安時代初期、弘法大師空海によるものと伝わるが、はっきりしているのは、鎌倉初期の建仁年間に、了海によって開山もしくは再興された、ということである。

室町時代末期には、厳島神社の修理造営権を握り、その技術を活かしてということであろうか、鍛冶・番匠(大工)・檜皮葺などの職人団を率い、筑前筥崎宮・豊前宇佐八幡宮の修理造営にも当たったのだという(寺の掲示による)。

一名に、厳島伽藍と称され、現在の五重塔・千畳閣のある「塔の岡」から、多宝塔のあるあたりまでが境内地で、多くの伽藍を有して、殷賑を極めたという。
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護摩堂。厳島大仏と申し上げる不動明王を安置している。護摩堂は、明治時代に火災で焼失ののち、平成18年に140年ぶりに再建。丈六の総白檀の不動明王半迦座像が開眼された。
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本堂。ご本尊は、薬師如来と弁才天。薬師如来は弘法大師の作と伝えられる国指定重要文化財。弁才天は、神仏習合時代に、厳島神社のご祭神・市杵島姫命と習合しており、明治の神仏分離にあたって、当時に遷された厳島弁財天。神奈川の江ノ島、滋賀の竹生島と並んで、「日本三大弁財天」に挙げられている。
また、神仏分離令により千畳閣から遷された、釈迦如来坐像と、脇侍の阿難尊者像・迦葉尊者像(いずれも国重文)、五重塔から遷された釈迦如来座像・文殊菩薩・普賢菩薩の三尊像などが安置されている。
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御朱印は、広島新四国八十八箇所霊場第1番札所になっている釈迦如来と、弁財天のものをいただく。このほかに、ご本尊の薬師如来の御朱印を、中国四十九薬師霊場の22番札所のものとしていただける様子(ただし、書置きのようではある)。


嚴島神社(安芸国一ノ宮/広島県廿日市市)

関東人のわたしにとって、安芸の宮島へのイメージとしては、①広島市内からすぐ近くにあって、②島自体はそれほど大きくない、というものだった。今回はおのが無知を曝け出さねばならぬ。


広島市での会議に出席するため、前日前乗りで広島にやってきた。
新幹線で駅に到着するとすぐに、駅の案内板の指示のままに、JR山陽本線に乗り換えて、約30分で宮島口に到着。近いといえば近いが、遠いといえば遠い。宮島自体を広島市と思い込んでいた自分の無知のなせる業という部分も多いが、30分というと、上野から大宮までの時間距離にほぼ等しく、そう考えると、やはり近くはない。 

駅から海岸に向けて歩くこと5分足らず。宮島に向かうには、JRの連絡船・宮島航路と、広島電鉄グループの宮島松大汽船の2つのルートがある。所要時間も、運賃も同じ。好みで選べばよい。
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10分の航路だから、出航時から島影が見えている。日本三景である安芸の宮島。
あらためて島のプロフィルを紹介しておけば、広島市街から南西約20kmの位置にあり、本土側に並行するような楕円形をしており、島の周囲は約30km、面積は約30平方キロ。島の最高峰は、弥山(みせん)で、標高535メートルである。国土地理院が公定する島の名称は、「厳島」(いつくしま)だが、「宮島」の通称が広く人口に膾炙していることはいうまでもないだろう。
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厳島は「神に斎く(いつく = 仕える)島」が語源とされ、厳島神社が創建される以前から、弥山が山岳信仰の対象となるなど、古代から島そのものが神として信仰の対象となっていたと考えられている。
また、島全体が神域であることから、たとえば、墓地や墓がない(これは現在に至るまで変わらず)ことや、人が亡くなったときは、ただちに対岸に渡して葬ること、島の女性の出産はすべて対岸で行なわれ、産後100日は島に戻れなかったことなど、死や血などの穢れに対する忌みの風習が形作られてきたといわれる。
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海上の大鳥居が目睫に近づけば、船はまもなく宮島桟橋に接岸。
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島に上陸すれば、神使であるシカがお出迎え。
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宮島表参道商店街に展示されている大シャモジ。シャモジは、宮島の土産物としてあまりに著名だが、これは、とりたてて産物がなかったため、島内の光明院の僧・誓真が、弁財天の持つ琵琶から着想を得て、生産をすすめたものだという(神仏習合では、厳島神社の祭神・市杵島姫命は、弁財天と習合している)。
この大シャモジは、長さ 7.7m、最大幅 2.7mで、重さは 2.5t。樹齢270年のケヤキを用い、昭和58年に約3年の歳月をかけて製作された。ところがあまりに大きいために展示する場所がなく、14年もお蔵入りになっていたという逸品。
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商店街になっている表参道を抜けると、鳥居が現れる。
安芸国一ノ宮である厳島神社は、式内社であり、往古は「伊都岐島神社」と称し(読みは同じ)、全国に500ある厳島神社の総本社である。世界文化遺産にも指定されている。
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立派な狛犬一対。
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狛犬もう一対。
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行ったときには、ちょうど干潮で、社殿の前からは潮がひいていた。

厳島神社の特徴は、なんといっても社殿が海上に建っている、ということであろう。
本土と厳島のあいだの海峡を「大野瀬戸」というが、その大野瀬戸に面した入り江の「有浦」(ありのうら)の奥に寝殿造を応用した様式の社殿が建っている。

当然、満潮時と干潮時ではまったく印象が変わり、そこは旅の感興、風趣を添えるものだが、それだけに、台風や高潮の影響を受けるのは致し方ないことで、累次、修築が加えられてきた。しかし、本殿・幣殿・拝殿などの主要な建造物については、被害は軽微なものにとどまっており、本殿の内陣に至っては、社殿が現在のような形で整備された平安末期以降の850年間、一度も浸水したことがないものとみられている。
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反対側、境内地の沖合い200メートルに立つ大鳥居。おりしも大潮のこの日は、大鳥居のたもとまで歩いていくことができた。
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現在の鳥居は明治8年(1875)の造立で、平清盛造営から数えて8代目といわれる。棟の高さ16.6メートル、柱間10.9メートルの、大型の木造両部鳥居で、国指定の重要文化財である。
鳥居の島木・笠木は箱状で、中には石が詰め込まれており、その重みによって大鳥居は自立するようになっている。奈良・春日大社、福井・気比神宮とともに、日本三大鳥居のひとつに挙げられる。
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もともと、推古天皇の元年(593)、当地の豪族であった佐伯鞍職が、神託に依り社殿を造営したことが、当社の嚆矢とされるが、現在のような形になったのは、平安末期に、平清盛をはじめとする平氏一族の崇敬を受けるようになってからであろう。仁安3年(1168)ごろに、現在のような規模で社殿が築かれ、建永、貞応2回の火災で焼失したが、仁治年間に再建されている。
戦国時代には、毛利元就や豊臣秀吉の崇敬を受けている。
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社殿の北側の崖上にある千畳閣(樹間の建物)。豊臣秀吉が、大経堂として造営を始めたが、朝鮮出兵と秀吉の歿により、造営は未完に終わった。明治の神仏分離後は、秀吉と加藤清正を祭神とする豊国神社の本殿となっている。
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神鹿。
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五重塔。応永14年(1407)創建、高さは27メートル。国指定の重要文化財。
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本社の東回廊から、大鳥居と海を望む。手前右側は、摂社・客神社(まろうどじんじゃ)の祓殿、左側奥は右楽房。
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奥の建物が、本社の祓殿。
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手前は平舞台、左手に右楽房、奥に客神社。丘の上には、千畳閣と五重塔。
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板敷きの平舞台と一段高くなっている高舞台。平舞台は約170坪、高舞台は、黒漆塗りの基壇に朱塗りの高欄をめぐらしたもの。舞楽を演じる舞台である。いずれも国宝。
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本殿。手前側に見えるのが祓殿。奥に向かって、拝殿、幣殿、本殿がある。いずれも国宝。
ご祭神は、市杵島姫命・田心姫命・湍津姫命の三神で、「宗像三女神」と申し上げる。
厳島神社は、建造物関係だけで、国宝・6棟、重文・14棟が指定されている。
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御朱印は授与所にて。神紋があしらわれている。


2014年07月24日

教王護国寺【東寺】(2回目/京都府京都市南区)

まさかに、「また来よう、と思う」と書いて、2週間少しで再び来ることになるとは・・・。
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7月23日夜。急遽の京都出張。仕事は24日の昼からなので、23日の仕事を片付けて新幹線に飛び乗る。
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地下鉄で四条まで出て、四条烏丸で投宿し、先だって馴染みになったショットバーに行く途中で、祭囃子と、眩い提灯の光、人だかりに行き会う。祇園祭の後祭宵山である。
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奥には煌々と輝く山鉾が。

さて、明けて翌朝。仕事までには少々時間があるので、四条烏丸から市バスの207系統で東寺東門前まで。
東寺は、金光明四天王教王護国寺秘密伝法院と弥勒八幡山総持普賢院というふたつの正式名称を持つ、東寺真言宗の総本山。平安時代に平安京を護るための官立寺院として、今はない「西寺」とともに創建され、嵯峨天皇から弘法大師空海が下賜されるに至って、真言密教の根本道場ともなった。
現在は、「弘法さん」「お大師様のお寺」として、多くの人の心のよりどころとなっている。世界遺産でもある。
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東寺東門。慶賀門ともいい、勅使などが通った。鎌倉時代再建の国指定重要文化財。
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池には蓮の葉が。
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花も咲いている。
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これぞ京都のランドマーク。
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国宝の五重塔。前回来たときは、時間の都合もあり近くまでこられなかったので、すぐ真下まで行ってみる。
徳川家光寄進で1644年再建。高さ55メートル、現存する木造建築物では日本で一番高い。
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本堂である金堂。本尊は薬師如来。平安時代の延暦15年(796)創建で、現在の建物は、江戸時代、1603年に豊臣秀頼が再建した。境内最大の建物で国宝である。
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講堂。国指定の重要文化財。平安時代の建立後、室町時代に焼失し、再建後に文禄5年(1596)の慶長伏見地震により倒壊。現在は、礎石のみ創建当時のものとか。内部には21体の仏像が安置されていて、15体が国宝、5体が重要文化財に指定されている。
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金堂と講堂。
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境内は降り注ぐような蝉しぐれ。ゆるゆる歩を進めていてもたちまちに汗が噴き出してくる。
茶店に駆け込み、かき氷で涼をとる。
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御朱印は、食堂(じきどう)内の納経所にて。真言宗十八本山(9番)、西国愛染十七霊場(8番)、洛陽三十三ヶ所観音霊場(23番)、京都十三仏霊場(12番)、都七福神(毘沙門天)、神仏霊場巡拝の道(84番)、京都十二薬師霊場(2番)など、あまたの霊場札所になっており、さまざまな種類の御朱印をいただける。
今回は、真言宗十八本山の御朱印帳にお大師様の御朱印をいただいた。
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四条烏丸に戻り、仕事先に行こうとすると、四条通を山鉾が。
今日は、後祭山鉾巡行である。大勢の人群れの中を、四条通を東に向かって、京阪の祇園四条駅まで歩く。
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コンコンチキチン コンチキチン。
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後祭の山鉾巡行は、長い中断を経て実に49年ぶりの復活である。元来、人出の多いお祭りというものはあまり好きではない性質だが、いいものを観せていただいた。
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仕事が終わり、離京前に志津屋のカツサンドとアイスコーヒーで一服。


2014年07月07日

今宮神社(2回目/京都府京都市北区)

今宮神社は、北大路通をはさんで、建勲神社のほぼ真北にある。(神社のHPは→こちら
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 北大路通の今宮門前交叉点から、今宮門前通に入ったところに建つ標柱。あとで書きのべるが、いつもは車で来てしまい、神社の駐車場に止めて東側から境内に入るので、正面参道から来たのは初めて。
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車道に建つ丹塗りの鳥居。
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路端には狛犬一対。
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社号の標柱と常夜燈、奥にはちらりと楼門が。
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楼門。1926年造営。
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楼門前に狛犬一対。
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境内に狛犬もう一対。
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阿呆賢(あほかし)さん。神占石とも呼ばれ、石を手の平で三度たたいて持ち上げ、次に願いごとを心の中で唱えながら三度手の平で撫でてから、再び石を持ち上げる。そのときに、最初よりも軽く感じたら、願い事がかなう、というものだそうな。
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拝殿。
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本社の社殿。ご祭神は、大己貴命・事代主命・奇稲田姫命の三神。
当社の来歴については、1回目の記事や建勲神社のところでも触れたが、平安建都より以前に、疫神を祀る社があったとされる。
正暦5年(994)、疫病の流行のために行なわれた「紫野御霊会」に続き、長保3年(1001)の疫病の流行で、疫神を船岡山から山の北側に神殿を設えて遷した。祇園社が既に疫神を祀っていたところから、それに対しての新しい宮という意味で、「今宮」と称されるようになったという。
近世はじめごろには、紫野・上賀茂・西賀茂などの総鎮守として崇敬され、足利将軍家や、徳川5代将軍綱吉の生母・お玉の方(桂昌院)からも篤く敬われていた。
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重々しさを保った立派な社殿は、1896年に火災で焼失。1902年に再建された。
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摂社・疫神社。ご祭神は素戔嗚尊。
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御朱印は授与所にて。右側の花傘は、京都三大奇祭に挙げられる「やすらい祭」の際に使われるもの。見開きで500円の初穂料となる。
なお、当社は神仏霊場巡拝の道の96番(京都16番)の札所であり、京都十六社朱印めぐりの1つである。
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東門に向かう参道の神橋。元禄の遺構という。
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東門。
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東門から参道を見る。
この参道には、名物「あぶり餅」を購う店が2軒並んでいる。
かたや、「いち和」こと、「一文字屋和助」。長宝2年(1000)創業で、「元祖・正本家」を標榜。おそらく、日本で最古の飲食店ということになろう。
一方の「かざりや」は、江戸時代の創業で、約400年。「本家・根元」を名乗る。
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かざりやの軒端から、参道といち和の店先を眺める。
実は、家のものを最前の旅行の際に連れてきたら、いたく気に入り、2泊3日で3回通うという快挙?を達成。
いつもは、いち和に来ることが多いのだが、今回はかざりやに入る。
かざりやは、池波正太郎がエッセイに書いているお店である。池波正太郎といえば、テレビ時代劇「鬼平犯科帳」のエンディングでは、ジプシーキングスの「インスピレイション」に乗せて、江戸の四季が描かれているが、この今宮神社の参道が使われているほか、長谷川平蔵の古馴染み・笹やのお熊を北林谷栄さんが演じる佳編「笹やのお熊」では、かざりやがお熊の茶店として使われている。
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あぶり餅。親指大にまとめた餅を黄粉でまぶし竹串にさして、炭火であぶる。それに白味噌のたれをかけて供される。13本で500円。見たときには量の多さを感じるが、ぺろりと食べられる。ふたり以上で行くなら、いち和とかざりやの食べくらべをしてみるのも一興かと。
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北大路通へ出て、市バスで北大路バスターミナルへ。地下鉄駅の北大路駅併設のショッピングビルの中にある「河道屋銀華」の出店で、鴨せいろそば。河道屋銀華は、「総本家河道屋」の分家で、木屋町に店を構える。

昼を済ませば、あとは帰宅するばかり。北大路にいるのだから、地下鉄に乗れば京都駅までは一本だが、なんとなく京都の街を素通りして去るのが惜しく、市バスに乗って、市内の風景を眺めながら移動する。時間はかかるが、やはり景色が見えるほうがいい。そして景色を眺めながら、また来よう、と思う。

建勲神社(京都府京都市北区)

仁和寺から市バスに乗り、建勲神社前バス停まで。建勲神社前交叉点から船岡東通を南に下がり、建勲神社へ向かう。(神社のHPは→こちら
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北大路通から船岡東通に入ったところにある社名標。
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建勲神社は、正式には「たけいさおじんじゃ」と称するが、通称は「けんくんじんじゃ」、京都びとは、「けんくんさん」と呼ぶのが多いようだ。バス停も「けんくんじんじゃまえ」である。
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「船岡山」の東麓に建つ鳥居と社名標。
船岡山は、平安京の朱雀大路、その先にある大内裏の北にある山である。標高111メートルであるから、丘といったほうがよいかもしれない。
朱雀大路の、と書いたが、当然、船岡山のほうが最前よりあったわけで、朱雀大路と大内裏は船岡山と一直線になるように設計されたとされる。つまり、平安京の都市設計上、重要なランドマークとなったわけだ。いわゆる「四神相応」の考え方からいえば、北に位置する船岡山は、「玄武」にあたるともいわれる(鞍馬山を、あるいはもっと北の丹波高地を玄武に擬える説もあり)。
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狛犬一対。

船岡山は、平安中期から後期において葬送の地であった。
さらには、いわゆる「御霊信仰」とも密接な関係をもつ。
「御霊信仰」とは、往古において、怨霊や疫病神を神として祀り、御霊(ごりょう)に変化することで、天変地災や疫病を鎮めようとしたものである。
もともと、平安遷都以前より、疫神であるスサノオノミコトを祀った社があったが、正暦5年(994)、疫神を二基の神輿に齋いこめて船岡山に安置、人形(ひとがた)を乗せて神輿は難波江に流された。これを「紫野御霊会」という。その後、長保3年(1001)、疫病の流行で、疫神を船岡山から山の北側に神殿を設えて遷した。現在の今宮神社である。先述のスサノオを祀った社は、疫神社と称し、今宮神社の摂社となった。
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鳥居をくぐり、少し石段を登ったところにあるのが、建勲神社の旧社殿跡。「大平和敬神」の石碑が建つ。
建勲神社のおこりは、1869年、織田信長の次男・信雄の子孫である出羽天童藩主・織田信敏が、明治新政府に、織田信長公を祭神とする社の創建を請願したことに始まる。
天下統一、朝儀復興などの事業を進めた信長公の偉勲を嘉した明治天皇の勅命により、健織田社(たけしおりたのやしろ)の神号を賜り、東京の織田屋敷と、所領の出羽天童城内に建勲社が造営される。
翌年に、建勲神社と名を改めると、1880年に、東京の織田屋敷から信長公の神霊が遷座され、京都船岡山の山腹に社殿が建立された。すなわち、この旧社殿跡である。
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別格官幣社であったことを示す標柱。
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信長公を祀る神社らしく、「敦盛」の一節を刻んだ石碑が建つ。
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狛犬もう一対。

さて、疑問になるのが、なぜ東京と天童に建てられた建勲社が、京都の船岡山に建てられたかである。
京都はいうまでもなく、本能寺の変に遭った信長公終焉の地であり、豊臣秀吉の主導で葬儀が行なわれたのは、船岡山の北側にある大徳寺、一周忌にあわせて建立された菩提寺が、塔頭の総見院である(総見院は、信長公の法名)。

そして、その後に、信長公を祀る新たな菩提寺の建立が企図され、船岡山に寺を建立することになる。ときの正親町天皇から年号の「天正」を冠した寺名「天正寺」を賜り、大徳寺の住持・古渓宗陳禅師に任されるかたちで、造営事業が始まる。
ところが、その過程で古渓禅師は、石田三成と衝突し、秀吉の勘気をこうむって、筑前博多に流されて天正寺の造営は沙汰止みとなった。
そういうわけで、船岡山は、信長公の霊地となり、寺社の違いはあるものの、明治に入って結実したのである。 
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拝殿。主祭神は織田信長公、本能寺の変で斃れた嫡男・織田信忠卿を配祀する。
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神門と奥に本殿。1910年、山麓の旧社地から、山上の現在地に遷された。
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御朱印は社務所にて。下の印は、「天下布武」である。


大内山仁和寺(3回目/京都府京都市右京区)

嵐電でひと駅、御室仁和寺駅で降り、仁和寺へ。
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真言宗御室派総本山の仁和寺は、宇多天皇を開基とし、法皇になってから住したことから「御室御所」と称して、門跡寺院の筆頭として隆盛を見た。現在は世界遺産に選定されている。
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きぬかけの道に面した二王門。知恩院の三門、南禅寺の山門と並んで、「京都の三大門」に数えられる国指定重要文化財。
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門内に安置されている金剛力士像。
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二王門をくぐった先には広大な参道。奥には中門が見える。
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御殿の勅使門。1887年に焼失したため、1913年再建。設計は、京都府技師の亀岡末吉。
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中門。国指定重要文化財。江戸寛永期の造立。
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広々とした参道が、仁和寺の特色。人も多くなく、ゆっくり歩いているうちに、気持ちが清々してくる。
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五重塔。国指定の重要文化財で、寛永21年(1644)建立。総高36.18m。
五重塔の写真を撮っていたら、近づいてきた外国のご婦人が、あなたと塔を一緒に撮ってやる、と言ってくれた(らしい)ので、お言葉に甘える。ここには載せませんが。

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経蔵。国指定の重要文化財で、江戸初期の寛永から正保にかけての建立。内部には釈迦如来・文殊菩薩・普賢菩薩などが安置され、八面体の輪蔵に768の経箱がおさめられ、『一切経』が収められている。
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鐘楼。国指定重要文化財。
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金堂。ご本尊である阿弥陀三尊を安置する。慶長年間造営の内裏・紫宸殿を、寛永年間に移築の上、改築。現存する最古の紫宸殿建築である。国宝に指定されている。
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御朱印は、ご本尊のものをいただく。今回は、金堂前の納経所にて。時間によっては、御殿の拝観受付のみの対応となることもあるようだ。


正法山妙心禅寺(妙心寺/京都府京都市右京区)

四条烏丸近くのホテルに投宿、煮込みのうまいおばんざいも食べられる店で夕飯をしたため、ふらっと入ったショットバーのマスターと意気投合したりと、京都の夜を愉しんで、翌朝。

いったん、四条駅から地下鉄で京都駅へ出て、コインロッカーに荷物を預けて身軽になる。
JR嵯峨野線で約10分、4駅目の花園駅で下車。歩いて5分足らずで、妙心寺の南総門の前に到着。

正法山妙心寺(お寺のHPは→こちら)は、臨済宗妙心寺派の大本山である。おおまかにいって、14派・6000余箇寺あるといわれる臨済宗寺院のうちの3400余りが妙心寺派に属する。塔頭寺院46寺を含めてその敷地面積は10万坪を超す。その規模と来歴から、一名を「西の御所」とも称する。開基は花園天皇であり、開山は関山慧玄である。
禅寺といえば、鎌倉末期から定められた五山十刹の制が著名だが、妙心寺は、妙心寺はいわば「在野」の寺院である(このような寺院を、「林下」と称する)。
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南総門。寺域広大な寺らしく、総門が南北に1個ずつあり、こちらは南側の総門である。慶長15年の造立の国指定重要文化財。
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妙心寺のある花園の地には、第95代・花園天皇の離宮・萩原殿(花園御所)があった。禅に傾倒した花園天皇は、上皇となっていた建武2年に出家、法皇となると、花園御所を寺とすることを願われた。法皇の禅の師は、大徳寺を開いた大燈国師・宗峰妙超であったが、国師の遷化後は、師の高弟であった関山慧玄(のちに無相大師と追諡)を師に仰ぎ、宗峰師の名づけにより「正法山妙心寺」と寺名が定まった。釈迦の言葉「正法眼蔵涅槃妙心」から採られたものである。
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勅使門。慶長15年造営の国指定重要文化財。現在は、住持の入山・晋山の際に使われる。
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禅宗の寺らしい、石畳と松木の多い清げな参道。

天皇の願いにより開かれ、足利幕府三代将軍・足利義満の祈願所ともなった妙心寺だったが、義満の怒りを買うことで大きな危機に瀕する。足利幕府に叛旗を翻した応永の乱の首魁・大内義弘が6世住持の拙堂宗朴と関係深かったため、寺領没収、宗朴の身は青蓮院にお預けとなったのである。
没収された寺領は、南禅寺の廷用宗器に与えられ、寺は龍雲寺と改められる。寺領没収から33年の後、永享4年に至って、犬山瑞泉寺から迎えられた日峰宗舜の手によって再興された。7世住持となった日峰宗舜は中興とされる。
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三門。慶長4年(1599)創建の国指定重要文化財。唯一朱塗りの建造物である。
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Photo by ©Tomo.Yun
浴室(明智風呂)。天正15年造立で、現在の建物は明暦2年(1656)建築の国指定重要文化財。別称のいわれは、明智光秀が本能寺の変後、当寺で自刃しようとしたところを僧が押し止めたことや、光秀の叔父にあたる密宗和尚が、追善の意をもって造立したことなどによる。浴室として使用されたのはもちろん、光秀追善の場としても使用されたという。
この写真、またゆんさんの「フリー写真素材集」より借用。
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浴鐘楼。浴室の合図のための鐘楼。もとは明智光秀にゆかりの深い、徳川家光乳母のお福・春日局の寄進によるものであったが、昭和37年9月1日放火により惜しくも全焼。現在の浴鐘楼は、その後塔頭寺院の麟祥院から移築されたものである。
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経蔵。寛文13年(1673)造立。国指定重要文化財。大坂の豪商・淀屋辰五郎の寄進によるもので、八角形回転式の輪蔵には、一切蔵経6527巻の経巻が納められている。
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仏殿。江戸後期の文政10年(1827)の建立。本尊の釈迦如来像をまつる。国指定の重要文化財である。

京都のお寺を示す言葉として、「○○面(づら)」という言葉がある。千利休などとのゆかり深い大徳寺なら「茶面」、東福寺は「伽藍面」、建仁寺の「学問面」に、南禅寺の「武家面」・・・。
そしてこの妙心寺は、「算盤面」。お寺にソロバンとは、一見すると身も蓋もないようなたとえだが、これには大きな理由がある。
日峰宗舜によって、再中興された妙心寺は、その後に起きた応仁の乱によって多くの堂宇を喪うこととなった。
もともと室町幕府のシステムの中の五山十刹に入らぬ林下寺院。公の庇護のない中で、厳密な寺院経営と稠密な会計処理をもって出を節し、財政の建て直しがとりくまれた。この時代から幕末に至るまで綴られた会計簿は「正法山妙心禅寺米銭納下帳」と称される。このような、厳しい禅の修業をささえるための強固な財政基盤を築きあげた寺風をして、「算盤面」という名に結びついたのであろう。
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鐘楼。
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Photo by ©Tomo.Yun
法堂。明暦2年建造の国指定の重要文化財。こちらには仏像は安置されていず、座禅など行なう”ホール”としての役割を果たす建物であった。
この法堂でなんといっても有名なのは、鏡天井にある狩野探幽筆の雲龍図。8年がかりで描かれた作品であるという。
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法堂を裏手(大方丈側)から。

応仁の乱後、後土御門天皇の勅命により、細川勝元・政元の支援で再興したのが九世住持の雪江宗深。
その後、美濃加納城主・斎藤利国の妻・利貞尼が、広大な寺領を寄進、戦国から安土桃山時代にかけては、滝川一益、池田信輝(恒興)、堀尾吉晴、池田輝政、石田三成、脇坂安治など武将・大名が塔頭寺院を寄進し、興隆をみることとなる。
一方で、豊家滅亡の基となった方廣寺鐘銘事件の際は、105世・海山元珠が、ただひとり豊臣家を弁護した。このことで、幕府の怒りを買うことになり、「妙心寺法度」を制定されて厳しい統制下におかれることとなる。それに対してさらに抗議をなしたことで、紫衣事件に発展した。
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大方丈。承応3年(1657)造営、国指定重要文化財。
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大方丈の建物とお庭。
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法堂と大庫裏・大方丈をつなぐ回廊。
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御朱印帳をいただく。法堂の鏡天井に描かれている狩野探幽筆・雲龍図があしらわれている。
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裏面には寺紋があしらわれている。
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御朱印は、拝観受付にて。
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北総門に抜ける参道。
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北総門から歩いてすぐ、嵐電の妙心寺駅。

2014年07月06日

小倉山二尊教院華台寺(二尊院/京都府京都市右京区)

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嵯峨釈迦堂を出て、折からの雨の中、嵯峨野の住宅街の細い道を歩く。
嵯峨野の奥座敷、鳥居本に抜ける道であるこの道は、狭いとはいえ、府道50号線。普通の住宅に混じって、土産物店、民宿なども多い。

少し行くと、左手に、小倉山二尊院の入口が現れる。
二尊院は、天台宗のお寺で、大覚寺、天龍寺と並んで嵯峨三名跡のひとつに数えられる。小倉山の東の麓に、広大な寺域を有する。明治維新まで、禁裏の仏事をつかさどる「御黒戸四箇院」のひとつでもあったという。
平安初期に、嵯峨天皇の勅願により、慈覚大師円仁が開創したと伝わる。廃れていた鎌倉時代初期に、法然上人が九条兼実の協力により中興したとも、法然の弟子・湛空が再興したとも伝わっている。
明治までは、天台・真言・律・浄土のいわゆる「四宗兼学」の道場であり、このような縁もあってか、法然寂後のいわゆる「嘉禄の法難」のおりには、知恩院にあった法然廟所から、遺骸が一時的に二尊院に遷されている。
天台宗の寺院となったのは、明治以降のことである。
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「小倉餡発祥の碑」を案内する石碑。正式な石碑は、二尊院山内にあって、これではないのでご注意。
西暦820年ごろ、この地に住む菓子職人・和三郎が、弘法大師空海が、唐から持ち帰った種から小豆を栽培し、禁裏から下賜された砂糖を用いて餡をつくって献上したことが小倉餡の起こりとされている。
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                                               Photo by ©Tomo.Yun
総門。もとは伏見城の薬医門だったという。現在は京都市指定の文化財となっている。
実はこの辺から、雨脚が強くなり始め、写真を撮ることを失念してしまった。
そこでこの写真は、フリーの写真素材集である「ゆんフリー写真素材集」からお借りした。ということで、コピーライトを明示させていただく。ゆんさん、ありがとうございます。
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こちらは西行法師庵の跡の碑。
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JR東海のコマーシャルなどでもおなじみ、紅葉の馬場。春は桜も咲く。
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200本の楓の競演。紅葉の馬場の玉砂利をさくさくと踏みしめてすすむ。緑に雨が滴って、眩いばかり。
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唐門。勅使門ともいい、応仁の乱で焼けたものを、三條西實隆が再建。1988年になって、傷みが激しくなったために再建された。後柏原天皇御宸筆の勅額がかかる。
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京都市の有形文化財となっている本堂。禁裏の紫宸殿を模しているとされる。こちらも、三條西實隆による再建であり、後奈良天皇の勅額が掲げられている。
ご本尊は、釈迦如来と阿弥陀如来の二尊で、「発遣の釈迦」と「来迎の阿弥陀」と称される。二尊院の名称の由来である。このほかに、法然上人の肖像が安置されている。
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本堂と竜神遊行の庭。
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本堂脇のお庭。
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本堂の裏手のお庭。沛然と雨が降っている。思えば、京都を訪ねると天候不順の目に遭うのは、このときが嚆矢となりしとぞ。
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御朱印は、本堂脇、拝観券売り場にて。「本尊二尊」とある。圓光大師(法然上人)二十五霊跡の17番札所である。

なお当寺は、禁裏との縁の深さゆえか、当寺において戒を授けられた土御門・御嵯峨・亀山の三天皇の分骨を安置する三帝陵をはじめ、公家の墓所も多く、摂家では二條家や鷹司家が、清華家では三条家が、大臣家では三條西家の墓所がある。今上の姉上で神宮祭主も勤めた鷹司和子さん(平成元年歿)も、当寺の鷹司家墓所に眠っておられる。
さらには、総門を寄進するなど篤い信仰を寄せた京の豪商である角倉了以・素庵親子や、儒学者の伊藤仁斎・東涯父子の墓所もこちらにある。
不世出の剣戟王「バンツマ」、時代劇の六大スタアにして、高廣・正和・亮の「田村三兄弟」の父、阪東妻三郎(本名・田村傳吉)の墓所もこちらにある。そしてまた、長男であった俳優・田村高廣もここに眠っている。
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庭を眺めながら、しばらく雨が止むのを待っていたが、しょうことなく、バス通りまで出て、甘春堂さんで、お薄と上生菓子・干菓子のセットをいただく。
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バスに乗り、四条堀川まで出て、堀川三条の新福菜館三条店で夕食。中華そば大盛りの肉多め、葱多め、麺硬め。


五台山清凉寺(嵯峨釈迦堂/京都府京都市右京区)

雨もよいの中、上七軒からバスに乗り、嵯峨野へ向かう。
バスを降りると、本格的な雨。傘を差して、嵯峨釈迦堂へ。
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 山門(仁王門)。京都府指定の文化財。江戸・天明年間ごろの造営と伝わる。総欅造りの美事な姿。

一般に嵯峨釈迦堂の名で有名な五台山清凉寺は、寛和3年(987)開山、「融通念仏の道場」として信仰を集める浄土宗のお寺である。

当地には、もともと嵯峨天皇の皇子・左大臣源融が別墅「栖霞観」を営んでいた。彼が薨じてのち、生前の宿願、阿弥陀三尊像がつくられ、安置するための阿弥陀堂が造立。これを棲霞寺と称した。
その後、天慶年間に等身大の釈迦如来像が新堂を建てて安置された。当寺を釈迦堂と称するのは、このゆえんからでもあるとされる。
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多宝塔。江戸中期の造立で、京都府指定の文化財。

奈良東大寺出身の奝然という僧がいた。宋に渡って、釈迦に生き写しの釈迦像を模刻させた奝然は、自らが巡った五台山を京都の西北・愛宕山に擬え、愛宕山のふもとに、釈迦像を安置するお寺を建てようとした。
これは、南都系旧仏教の京での中心とすることで、比叡山延暦寺に対抗してのことと思われるが、延暦寺の反対に遭い、宿願を達しえぬまま、奝然は寂する。その後、弟子の盛算が、棲霞寺の境内に立てたのが、五台山清凉寺である。寺名は、五台山の別称が清凉山と称したからであろう。
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江戸時代創建の鐘楼。梵鐘は、南北朝時代鋳造の京都府指定文化財。
寄進者に足利義政・日野富子夫妻、足利義尚などの名がある。
「清凉晩鐘」「五台晨鐘」と称して、嵯峨八景、嵯峨十景に数えられた。
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本堂である釈迦堂。「三国伝来の釈迦像」と称される奝然ゆかりの国宝・木造釈迦如来立像をご本尊とする。
現在の本堂は、元禄14年(1701)再建。徳川綱吉の母・桂昌院などの発願による。
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本堂裏の庭園と望見される本堂。
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本堂裏、池泉回遊式庭園のほとりに立つのは、弁天堂。江戸後期の築造で、摩尼殿とも称する。
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ちょいとぶれぶれだが、本堂と庫裏を結ぶ回廊。
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御朱印は本堂内にて。
当寺は、京都十三仏霊場の2番札所となっている。

また、今回は天候が悪くてあまり写真もとれなかったが、寺域には、棲霞寺の阿弥陀堂趾に建つ阿弥陀堂や、その阿弥陀堂に祀られていた国宝の阿弥陀三尊像などを安置する霊宝館、そして、1980年に大坂城三ノ丸から発掘され、介錯のあとがあったことや、年齢等から類推して豊臣秀頼の首級とみられる頭蓋骨をまつる首塚など、見所は多い。また、境内にある茶店「大文字屋」では、あぶり餅を味わうことができる。


瑞応山大報恩寺(千本釈迦堂/京都府京都市上京区)

熊野神社前から市バスで千本今出川まで移動。バスを降りて、千本通を北へ。
千本五辻の北東にある「五辻の昆布」で汐吹昆布の刻み・ささめ雪を買い求めてから、五辻通を西へ。

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真言宗智山派のお寺、瑞応山大報恩寺。一般には、千本釈迦堂の称で知られる。鎌倉初期の承久3年(1221)に天台の僧・義空上人が開いた。義空上人は、求法とも如輪上人とも称され、奥州藤原氏3代・藤原秀衡の孫に当たる。(お寺のHPは→こちら)
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五辻通から石畳の参道が続く。
江戸初期に京都所司代・板倉周防守勝重の命で天台宗から真言宗に改宗した。
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山門。
千本釈迦堂といえば、12月7・8日両日に行なわれる成道会法要の大根焚きで有名。ここでお頒かちいただく大根の炊いたものは、中風をはじめ諸病除けに験があるとされ、冬の京都の風物詩となっている。
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しだれ桜。
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本堂。通称となっている釈迦堂ともいい、国宝。ご本尊の釈迦如来像を安置する(国指定重要文化財)。
入母屋造・桧皮葺で、安貞元年(1227)上棟の棟札が残る。応仁の乱、江戸期の大火にも難を逃れ、いわゆる「京都市内」では最古の建造物である(行政区画上の京都市の中で最も旧い建造物は、醍醐寺の五重塔(天暦5年(951)創建))。
この本堂造営に当たっては、「おかめ伝説」がある。
大工棟梁の長井飛騨守高次、本堂の主要な柱のうちの一本を誤って短く切り落としてしまう。
替えの柱はない、困り果てた高次に、妻のお亀が、斗組(ますぐみ)をしてはどうかと助言し、本堂は無事落慶する。
ところが、お亀が自害しまう。女の知恵で棟梁が大任を果たしたと思われては夫の恥、面目が丸つぶれになってしまう、と案じてのことであったという。高次は、冥福を祈るためにおかめ塚を立て、上棟式には御幣におかめにちなんだ福面を飾った。現在でもこの風習は残っているのだという。
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応仁の乱で残った釈迦堂、柱には、刀槍の傷痕が残っている。

近代の戦災にはあまり遭っていない京都だが、江戸期の大火もさることながら、室町時代の応仁の乱において、寺社仏閣が多数灰燼に帰している。
千本五辻といえば、応仁の乱において、西軍総大将・山名宗全が陣を置いた「西陣」のすぐそば。当寺もいくさに巻き込まれてしまってもおかしくないのだが、寺域の建物は焼けたものの、本堂は残った。一説には、焼亡を惜しんだ東西両軍の計らいによるものだったとされるが、焼けた寺社も多いので、「計らい」の理由は不明だ。
蛇足ついでに書くと、近代の戦争において、京都の街は5~6度にわたる空襲攻撃を受けている。ことに、この千本釈迦堂から直線距離で1.5キロほどの西陣地域は、1945年6月26日に、爆弾7発の投下を受け、400メートルの範囲で、死者約50名を出している。市街地が悉く灰燼に帰し、万単位の人が犠牲となった東京や大阪に比すべくもないとはいえ、京都が戦災に遭っていない、というわけではないので、念のため。
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御朱印は、本堂の横手にある授与所にて。
当寺は、新西国三十三箇所霊場の16番札所、京都十三仏霊場の8番札所、ぼけ封じ・近畿十楽観音霊場の2番札所にとなっている。今回いただいたものは、新西国の御朱印。


白峯神宮(京都府京都市上京区)

御所の北東、堀川今出川東入ル。次に訪れたのは、白峯神宮である。(神社のHPは→こちら
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白峯神宮は、わりと新しい神社である。創建は、江戸時代も最幕末の慶応4年のことであり、創建時には、「白峯宮」と称された。神宮号の宣下を受けたのは、昭和15年のことである。
もとは、公卿の飛鳥井家のお屋敷があった場所である。
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今出川通をはさんで、鳥居と神門。

白峯神宮のご祭神は、崇徳天皇と淳仁天皇。崇徳帝は第75代、淳仁帝は第47代の天皇である。
歴史に精しい方であれば、すぐにこの両帝の「共通点」に気づかれるであろう。そしてまた、その「共通点」は、白峯神宮に両帝が祀られている大きな理由の基となっている。
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神門。

さて、両帝の「共通点」は何かといえば、天皇や上皇の身において、いずれも、配流を受けた、ということである。
崇徳上皇は、保元の乱において、讃岐に流罪となり、淳仁天皇は、孝謙上皇との対立による恵美押勝の乱により、廃帝の上、淡路に流された。
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舞殿。
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天皇を祀る神社らしく、左近の桜、右近の橘が植えられている。

創建がわりと新しいと書いた白峯神宮。崇徳上皇が讃岐で崩御し、葬られたのが白峯陵(香川県坂出市)である。この陵の前には、上皇を「白峯大権現」として祀る御影堂が置かれた。
時下って、江戸幕末。ときの孝明天皇は、異郷に眠る神霊を京に遷すことを仰せ出されたが、程なく崩御。子である明治天皇の手により、讃岐から御影堂の神像を移して神体として、白峯宮が創建された。

その後、明治3年に、明治天皇により御諡号が贈られるまで、「淡路廃帝」と称されていた淳仁天皇の神霊を淡路から迎えて合祀した。
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蹴鞠の碑。もともと当地に屋敷を構えていた飛鳥井家の家業は蹴鞠の師範。邸内に鞠の守護神の精大明神をまつった。現在も、地主社には、精大明神が祀られており、球技・スポーツ芸能の神として信仰を集めている。
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鞠庭。毎年4月14日の春季大祭と、7月7日の精大明神祭において、蹴鞠保存会の人びとによって、蹴鞠が奉納される。
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社殿。蹴鞠にゆかりがあり、精大明神が球技・スポーツの神様ということで、プロから学生、子どもまで、多くのスポーツ選手に崇敬されており、サッカーやバレーボールの日本代表チームや、Jリーグに所属する選手などからボールが奉納され、社殿前に見ることができる。神社としてはちょっと変わった光景で、ご祭神の崇徳・淳仁両天皇も目を丸くされておられるのではなかろうか、とも思うが、希望に燃えてスポーツを志す若い人たちが、一心に手を合わせる姿はすがすがしい。
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御朱印は、授与所にて。こちらでは御朱印帳もお頒かちいただけるが、今回は品切れ、とのことであった。残念。


熊野神社(京都府京都市左京区)

聖護院を出て、東山丸太町の交叉点までやってくる。
ちょうど時分どきで、迷ったが、住所表示的にいえば、東山丸太町西入ルにあるカレー屋に入り、昼食。京都まで来てカレー、という気がしないでもないけれど、ほとんど出任せに飛び込んだ。

夏の暑い日盛り、というほどの天気のよさではないが、流汗淋漓。

店を出て、丸太町通をはさんで北西角にある熊野神社へ。白川熊野社とも、熊野権現社とも称され、京都式にいうと、「権現さん」とも称された。
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熊野神社といえば、紀州熊野三山の神々を祀った神社。こちらの熊野神社は、新熊野神社、若王子神社とともに、「京都三熊野」のひとつである。熊野三山検校を務めた聖護院門跡により、天台宗修験道の守護神として崇敬を受け、別当職が置かれて護持された。
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創建は、平安時代の弘仁2年(811)、修験道の開祖・役小角の流れを汲む、日圓上人が熊野権現を勧請したとも、康和5年(1103)、園城寺の僧・増譽が、白河上皇の意を受けて、熊野新宮の御霊を勧請したことによるともいう。応仁の乱で焼けたが、江戸・寛文年間に、聖護院宮道寛法親王によって再興された。
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社殿。ご祭神は、伊弉冉尊・伊弉諾尊・天照大神・速玉男尊・事解男尊の5神。
こちらの社殿は、江戸末期の天保6年の大修造のおり、賀茂御祖神社(下鴨神社)から移築されたものである。
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御朱印は授与所にて。社名の上には、熊野の神使・八咫烏が捺されている。
当社は、「京都十六社朱印めぐり」に属している。
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さて、熊野さんといえば、なんといっても、熊野牛王宝印であろう。
これは、熊野牛王宝印の六字を、神使の烏を図様化した「烏点」で記したもの。烏の数は、熊野三社によって異なり、こちらの熊野神社は、熊野速玉大社(新宮)の流れを汲むことから、48羽である。

護符として用いるのはもちろんだが、有名なのは、起請文に用いる方法であろう。この宝印の裏側に起請文を記す。違背するに及んでは、烏が死に、書いた本人も血を吐いて死に、地獄に落ちる、とされた。

こちらの牛王宝印は、願意を記して捧げることで、願いが神に届くとされる祈願紙として用いられるものであるそうだ。

聖護院門跡(京都府京都市左京区)

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金戒光明寺を出て、丸太町通の一本上の通りを西方向へ。すぐ右手に、聖護院門跡が現れる。聖護院大根の、聖護院八ツ橋の、そして修験道の聖護院である。聖護院は、もともとは天台寺門宗に属し、現在は本山修験宗総本山である。(お寺のHPは→こちら
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近江・園城寺の僧、増誉が、開基である。増誉は、修験僧として、白河上皇の熊野詣の先達を務めた功績から、熊野三山検校となり、役行者が創建したと伝えられる常光寺を下賜された。これが聖護院のおこりである。

その後、後白河天皇の子、静恵法親王以降、代々、皇族・摂家の子弟が入る門跡寺院として高い格式を誇った。熊野の修験組織の頂点に立ち、最盛期には、全国の末寺2万を数えたという。

応仁の乱などでの焼災後、岩倉、烏丸今出川など数次にわたる移転の末、延宝4年(1676)に当所に戻った。江戸後期には、天明・安政の二度の大火では仮皇居となった。当時は、付近にあった森の中に寺があり、森御殿と称された。紅葉の美しさは夙に知られ、「錦林」とも称された。市バスの錦林車庫や、小学校名はここから来ている。また、近松半二が「近頃河原達引」という浄瑠璃にまとめたお俊・伝兵衛の心中もこの聖護院の森であったものである。
明治になり、神仏分離令に続き、修験道廃止令が発布されたため、天台寺門宗に所属することになったが、戦後になって独立し、修験宗を経て、現在の本山修験宗を開いた。  
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長屋門と玄関。本堂(ご本尊は不動明王)、宸殿、内裏から移築した重要文化財の書院などの拝観は、事前の申込みが必要だが、寺務所2階にある仏間でのお参りは予約不要。阿弥陀如来・不動明王・役行者・毘沙門天などがまつられている。
5000坪の敷地内には、聖護院御殿荘という宿坊もある。
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御朱印は、寺務所にて。梵字と、修験道のお寺らしく、山伏の必需品、法螺貝の印が捺されている。
なお近畿三十六不動尊霊場の第18番札所、神仏霊場112番(京都32番)札所である。

紫雲山金戒光明寺(くろ谷/京都府京都市左京区)

真如堂から南へ。細い路地をすすんでいくと、金戒光明寺が現れる。浄土宗大本山にして、かつては浄土宗四ヵ本山のひとつに数えられていた(他の3つは、知恩院、清浄華院、百万遍知恩寺)。「くろ谷(だに)さん」の通称で親しまれるお寺である。(お寺のHPは→こちら
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開基は法然上人。承安5年(1175)、比叡山の黒谷を下った上人は、この地に草庵を結んだ。伝承によれば、丘の上に大きな石があり、上人が腰掛けると、その石から紫雲が立ち上り、全山を覆い、西の空には、光明が照らした。この話にちなんで、紫雲山光明寺、のちに後光厳天皇から「金戒」の2字を賜り、現在の寺名となる。
上人が、浄土宗の布教を最初に行なった土地であるため、圓光大師(法然上人)二十五霊場の24番札所となっている。
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当寺を称して、くろ谷というのは、先述の通り、比叡山の黒谷に対して、新黒谷と称されるようになったところからである。のちに、新がとれて、黒谷、くろ谷の通称で称されるようになった。鉄道唱歌でも「祇園 清水 知恩院 吉田 黒谷 真如堂」と謳われている。
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高麗門。写真では判りにくいが、表面に鉄の板が貼られている。
これは、徳川家康が、内裏の西に建てた二条城とともに、金戒光明寺と知恩院を、京洛における東の備えとしたからとされる。内裏まで約2キロ、東海道を扼する粟田口(三条口)まで約1.5キロ。小高い丘の上からは、山崎の天王山、淀、更には大坂城まで見えたという。石垣を諸所にめぐらし、南北は小門、東には入り口はなく、自然の要塞といえる環境で、それとは見せぬ城構えの造りとしたのである。
幕末に、京都守護職となった会津藩主・松平容保が、当初を会津藩家中の本陣と定めたのも故なしとしない。
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樹間に見える山門。応仁の乱で焼失後、長らく再建されなかったが、江戸幕末の万延元年に再建。後小松天皇の勅額「浄土真宗最初門」が掲げられている。ここでいう「浄土真宗」は、現代でいう宗派教団としてのそれではなく、「法然上人が、浄土の教えの真実義をひろめた念仏発祥の地」の意である。間口は約15メートル、高さ約23メートルで、楼上には、釈迦三尊像、十六羅漢像などが安置されている。
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鐘楼。
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阿弥陀堂。江戸初期、慶長10年(1605)に豊臣秀頼によって建立された、現在の当寺内でもっとも旧い建物である。堂内に、恵心僧都作の阿弥陀如来をまつる。この阿弥陀如来は、僧都の絶作とされ、腹中に彫刻の用具が納められていることから、「おとめの如来」、「ノミおさめ如来」と称されているのだそうだ。
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御影堂。大殿とも称し、法然上人75歳のときの御影坐像を安置している他、かつてあった吉田寺の旧本尊・千手観音立像をまつる。
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御朱印は、御影堂内の授与所にて。こちらは、阿弥陀様の御朱印。
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こちらは、勅額にもある「浄土真宗最初門」の御朱印。圓光大師二十五霊場の24番札所の御朱印である。

なお、法然上人(圓光大師)二十五霊場の24番札所の他、洛陽三十三観音霊場の6番札所、京の通称寺霊場の24番札所である。

真如堂同様、こちらも、人は少なく静か。凡愚なるわが身には、ゆっくりと参拝し、仏前に心を静めるにはうってつけの環境である。

鈴聲山真正極楽寺(真如堂/京都府京都市左京区)

南禅寺から二条通に出て、岡崎法勝寺町バス停から5号系統で、真如堂前バス停で下車。
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真如堂前の名がついているが、こちらの東参道は、お寺の脇手から入ることになる。
真如堂は小高い丘の上にあるため、参道は登っていく形になる。
汗をかきかき進む中、「あと100mファイト!」の看板に心なごむ。
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住宅地を抜け、石段を登る。例の看板には、「あと20m 頑張って!」。
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こちらは、西側にある総門側の標柱。
鈴聲山真正極楽寺は、天台宗の寺院。永観2年(984)、延暦寺の僧・戒算が、延暦寺常行堂に安置されていた阿弥陀如来像(慈覚大師円仁・作)を、一条天皇の母、東三条院の離宮に遷したことがおこりである。 
ほどなく、一条天皇の勅願により、離宮は寺となり、本堂が建立される。真如堂は、この本堂の別称である。
(お寺のHPは→こちら

その後、応仁の乱での焼失と衰微、一条西洞院(上京区元真如堂町)→旧地→再び一条西洞院→寺町今出川(上京区真如堂突抜町・真如堂前町)と京都市中を転々として、元禄6年(1693)、東山天皇の勅願により、旧地の西南にあたる現在地に移された。
明治の廃仏毀釈の際、吉田神社の神宮寺である新長谷寺が境内に移築された。
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総門。赤門とも称される。元禄8年の造営。
京都大学の裏手、吉田神社のある山を吉田山というが、この一帯は古くから神楽岡と呼ばれた。
神楽岡は、神代に、八百万の神が神楽を舞った聖地だったという。
写真を見ると判るように、この総門には、敷居がない。これは、参集する神さまの邪魔にならないように配慮されたためとも、神々の乗る馬の蹄を痛めないためだともいう。
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広々とした参道。秋は紅葉がすばらしい。
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経堂とそのまわりに咲く紫陽花。
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聞くところでは、お寺で「紫陽花1000本計画」がすすめられていて、現在700本ほどの紫陽花が植えられていて、あと100本も植えると、植えられる場所がなくなってしまうのだとか。
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緑濃いお庭と、本堂からつづく回廊。
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境内に建つ「京都・映画誕生の碑」。
シネマトグラフカメラを象り、1908年にマキノ省三が、真如堂で「本能寺合戦」という映画を撮ったのが、本格的な劇映画の嚆矢であることを記念して、撮影100年の2008年に建立。
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建立に携わった人の芳名録には、昭和の銀幕を彩った名優の名がずらり。佐久間良子、田村亮、松方弘樹、三田佳子、千葉真一、里見浩太朗、津川雅彦、中村玉緒、岩下志麻、田村正和、長門裕之、吉永小百合などなど。
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法華塔とも呼ばれる三重塔。宝暦年間建立、文化14年(1817)再建。本瓦葺で高さ30メートル。京都府の指定文化財。
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本堂。真如堂と通称され、転じてお寺自体の通称にもなったのは前述のとおり。
十五間四面、欅造り。単層の入母屋造で、本瓦葺である。江戸中期、享保2年に落成。
ご本尊は、阿弥陀如来立像。三国無双の阿弥陀如来と賞賛された、平安後期、慈覚大師円仁の作と伝わる。国指定の重要文化財。一名、「うなづき阿弥陀」。
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御朱印は、本堂内左側の授与所にて。
当寺は、神仏霊場・第111番札所(京都31番)、洛陽六阿弥陀めぐり霊場1番札所、洛陽三十三観音霊場の第5番札所(新長谷寺)、洛陽四十八願所地蔵めぐり(京都四十八願寺)の第23番札所、京の通称寺霊場22番札所になっている。

真如堂は、堂宇も大きく、参道も立派で、しかし人が少なく静か。人の多いところを見てまわるのも、もちろんよいのだが、人に煩わされることなくお参りできるところを探すのもよい。

瑞龍山太平興国南禅禅寺(南禅寺/京都府京都市左京区)

青蓮院を出て、神宮道バス停から5系統で南禅寺・永観堂道バス停まで。歩いて行けるような距離だが、限られた時間が勝負の旅行では、時間と体力の節約も大事。既に市バスのフリー券も買ってあることなれば、迷うことなくバスに乗る。
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南禅寺は、正式には瑞龍山太平興国南禅禅寺といい、臨済宗南禅寺派の大本山。鎌倉末期から室町時代にかけて定められた、京都五山・鎌倉五山の上位別格「五山之上」である。亀山法皇を開基、無関普門を開山とする、初の勅願禅寺である。(お寺のHPは→こちら
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中門。細川家の筆頭家老・松井康之が、伏見城内松井屋敷の門を寄進した。のちに禁中から日ノ御門を勅使門に拝領するまでは、この門が勅使門として使われていた。のちには、「脇門」として使用。

もともとこの地には、奈良時代に、近江・園城寺(三井寺)の別院・最勝光院があったが、のちに衰微。鎌倉時代に至って、亀山天皇により、禅林寺殿という離宮を開いた。この地の北にある永観堂禅林寺にちなむ。
この離宮の中に、持仏堂が置かれ、南禅院と称された。現在の南禅寺の塔頭・南禅院は、この後身である。
南禅という言葉自体は、中国の「南宗禅」に因んでいるから、とされる。
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勅使門を内側から。慶長年間に内裏に造営された日ノ御門を寛永18年に移築。総欅造の国重要文化財。
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三門。「天下龍門」とも称せられ、京都三大門のひとつに挙げられる国指定重要文化財。寛永5年(1628)に伊勢安濃津藩主・藤堂高虎が大坂の陣での死歿者供養のため、寄進したものである。
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南禅寺三門といえば、石川五右衛門。歌舞伎「楼門五三桐」で、「絶景かな、絶景かな。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ。この五右衛門の目からは、値万両、万々両」の名せりふを吐いたのが、この三門である、といいたいところだが、史実では、五右衛門とこの三門は出逢っていない。五右衛門が処刑されたとされるのが文禄3年(1594)、現三門は、それから約30年後の寛永5年(1628)造営だからである。
現在、高さ約22メートルの三門には、拝観料を払って2階部分に上がることができる。五右衛門の心持ちを味わうのもオツなもの、といえようか。
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いわゆる五間三戸の形式。その大きさには驚かされる。知恩院、東本願寺とともに京都三大門のひとつに、また、諸説あるが日本三大門のひとつにも挙げられる。
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三門から勅使門方向を眺める。
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法堂。仏殿ともいう。南禅寺の中心的な建物。ご本尊の釈迦如来と文殊菩薩、普賢菩薩を安置している。
1606年、豊臣秀頼の寄進による法堂は、1895年の火災で焼失。明治42年(1909)に再建。
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直接お寺の構造物ではないが、いまや南禅寺の見物のひとつ、水路閣。鉄道唱歌にも「琵琶湖を引きて通したる 疏水の工事は南禅寺 岩切り抜きて船をやる 知識の進歩も見られたり」とある。
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明治初頭、奠都後の京都の産業振興を図るべく開鑿された琵琶湖疏水。本流の蹴上から、京都市東郊を反時計回り状に流れる疏水分線の一部分が、水路閣である。
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明治初期、寺院である南禅寺の境内に疏水を通すにあたり、景観に配慮してこのような煉瓦造りしたという。工事の際には反対もあったというが、現在では、南禅寺のひとつの見物、テレビの2時間ドラマなどでもたびたび登場する有名スポットとなった。
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本坊入口。方丈庭園の拝観はこちらから。
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定規筋の塀の向こう側が国宝の方丈。
方丈のうち大方丈は、天正年間の内裏清涼殿を遷したとも、女院御所を移築したものともいわれる。
小方丈は、伏見城の遺構と伝えられる。庭は、小堀遠州の手による枯山水の庭園。
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小方丈にある虎の間の障壁画、狩野探幽筆と伝えられる「群虎図」40面は重要文化財に指定されている。
このうち、有名な「水呑みの虎」の部分を用いた御朱印帳。
このようなお帳面では、建仁寺の風神雷神図や雲龍図、大覚寺の牡丹図と並ぶものではなかろうか。
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障壁図の左面に当たる部分。
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右面に当たる部分。
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お帳面を包む厚紙がまた渋い。
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背面は英語標記だ。
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御朱印。真ん中にある金剛王宝殿とは法堂のこと。御朱印帳・御朱印のお頒ちは、本坊の方丈拝観受付にて。
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1ページ目には、開山の佛心大明国師(無関普門)の御遺偈が。
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お参りを済ませ、参道の茶店で見つけた般若心経の経本。折りたたむと、サイズがカードサイズになる。

青蓮院門跡(京都府京都市東山区)

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円山公園を出て、神宮道を歩き出して本当にすぐ、京料理「いもぼう」の平野家本店がある。ちなみに、すぐそばには、平野家「本家」がある。ちなみに、いもぼうは、海老芋と干物の棒鱈を煮たもの。
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平野家本店を過ぎ、小ぶりの門をくぐれば、そこは浄土宗総本山・知恩院、八坂神社の項で書いたとおり、京都びとからは、「ちおいんさん」「ちよいんさん」と親しまれる名刹である。右を仰ぎ見れば、他を圧する迫力を見せる三門。国宝にして、元和7年の造営。高さは24メートル、横幅50メートル。使われている屋根瓦は約7万枚に及ぶという。上方に「華頂山」の扁額がかかっているが、これは畳2畳分の大きさがある。
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知恩院は、以前法然上人八百年御遠忌の際に寄せていただいているので、今回は門前での遥拝にとどめ、神宮道を北へ。
やがて右手に、立派な門構えのお寺が見えてくる。青蓮院門跡である(HPは→こちら)。
石段上にある門は、御幸門である。四脚門ともいい、明正天皇の御世、帝の祖母であり、後陽成天皇の女御・中和門院(近衛前子)の旧殿の門を遷したものである。
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門跡寺院の格式を示す、五本線の定規筋。
青蓮院は、三千院・妙法院と並んで、天台宗の三門跡にして、曼珠院と毘沙門堂を加えた京都五箇室門跡に列せられる格式のあるお寺である。法親王や摂家の子弟が門跡を務めたほか、室町幕府6代将軍となった足利義教が僧籍にあった時期、当院の門跡を務めていたことがある。

そのような縁もあってか、戦後、住職に当たる門主に就任した東伏見慈洽(じごう)師は、元の名を久邇宮邦英王といい、香淳皇后の弟宮、すなわち昭和天皇の義弟であり、今上陛下の叔父にあたる。
後嗣ぎのなかった東伏見宮家の祭祀を継承するため(皇族は養子をとることができない)、臣籍降下して東伏見伯爵家を創設。僧籍を得る前には、京都帝大で講師を務めるなど、学究肌の人物として知られた。
同時に、京都仏教会会長として、いわゆる古都税問題では反対闘争の先頭に立ったほか、主要寺院の住職の世襲は認められないとする天台宗の教団の反対を、教団離脱を匂わせつつ押し切って、門主の地位を次男・慈晃師に譲るなど、政治力に長けた人物でもあったようだ。
今年1月1日、103歳をもって遷化。記録として明らかな皇族であった者の中では最長寿である。
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さて青蓮院そのものだが、三千院・妙法院と並んで、もとは比叡山上に立つ房のひとつ「青蓮房」であった。里に下りてきたのは平安末期、行玄大僧正の手によるものとされ、このころ、鳥羽上皇の后・美福門院得子の祈願所となったほか、上皇の子である覚快法親王が入寺し、以降、門跡寺院としての格式を有することとなる。最初は三条白川に、鎌倉期に、水害を避けて当地へ移った。
江戸時代には、天明8年、天明の京都大火で内裏が焼尽したおり、後桜町上皇が移徙されて仮御所とされ、「粟田御所」と称された。
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親鸞聖人得度聖地の碑。両親を亡くした親鸞聖人は、齢9歳にして青蓮院にて出家得度した。この時に詠んだのが、「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」というものである。この際の剃髪した髪を奉ったといわれるのが、境内にある植髪堂である。
後年、一時は本願寺を末寺とし、蓮如も得度を受けており、さらにいえば、慈洽師の姉、久邇宮智子女王は、東本願寺の大谷光暢門首の裏方として嫁がれている。お寺のHPには、「現在でも青蓮院は、浄土真宗との関係は深いのです。」と記されている。
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薬医門。
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奥に見えるのは宸殿の大玄関北側。宸殿は、有縁の天皇のお位牌をまつるお堂で、寺内でいちばん大きな建物である。明正天皇の母で、後水尾天皇の后・東福門院和子の御殿を移築したものであったが、明治26年の火災で焼失。現在の建物は、その後再建されたものである。庭には、右近の橘、左近の桜が植えられているが、これは、天皇のお位牌がましますところであるがゆえである。
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拝観料を払い、客殿(書院)である華頂殿に通って、ゆっくりと庭を眺める。朝一番の訪ないであるがゆえか、参拝の人は少なく、心しずかに、相阿弥作の緑濃い庭を堪能する。八坂神社から、汗をかきつつ歩んできたが、いつしか汗も引っ込む。
外国人の方が、胡坐をかいて無心に庭を眺めておられた。近隣には、清水寺や平安神宮などもあるのに、なかなか渋いチョイスと感心。
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手水鉢。青蓮院といえば、豊臣秀吉寄進の自然石を割り穿った一文字手水鉢も著名。
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小御所の回廊から、庭を眺める。小御所は、もともと門主の居間であり、前述の天明大火の際、後桜町上皇の仮御所となったところである(建物は明治の火災で焼け、移築したもの)。池は龍心池、架かる橋は、跨龍橋。

小御所の奥には、本堂である熾盛光(しじょうこう)堂がある。熾盛光堂には、ご本尊である熾盛光如来の曼荼羅図が秘仏として安置されている。熾盛光如来は、国家鎮護、皇室の安泰などを祈る修法である熾盛光法の本尊である。
西面している熾盛光堂に対し、東面しては不動堂がある。堂内には、国宝の青不動尊、「不動明王ニ童子像」の複製画が祀られている。平安時代後期の仏画であり、本物は奈良国立博物館に寄託されているが、来たる10月、東山の将軍塚にある飛地境内に、「青龍殿」というお堂が完成する予定で、その暁には、そちらにお祀りされることになる由。
青不動は、近江・園城寺(三井寺)の黄不動、高野山明王院の赤不動とともに「三不動」とも称されている。
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御朱印帳を頂戴した。表面に菊花の寺紋。
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御朱印は、ご本尊の熾盛光如来と青不動の2種を頂戴する。なお、当寺は、近畿三十六不動尊霊場の19番札所、神仏霊場第115番(京都第35番)となっている。

お参りをしたときの環境如何、とは言い条、これはやはり出逢いのもの。青蓮院、いいお寺であった。


八坂神社(2回目/京都府京都市東山区)

昨日は、清水寺を出てからバスに乗り、四条烏丸へ。室町通錦小路上ルにあるJR西日本系のビジネスホテル「ヴィアイン京都四条室町」に投宿。
そのあと、京都在住の高校時代の友人と待ち合わせ。三条通から白川の端を少し入ったところにある「桝富」さんへ連れて行ってもらい、 松原通高倉の「本家だるま家」でもう一盞した。

翌朝は、四条烏丸から祇園へ出て、まずは八坂神社へ。(神社のHPは→こちら
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申すまでもなく、「祇園さん」。そういえば、ネイティブの京都びとの倣いなのかはわからないけれど、京都の町を歩いていたり、市バスに乗っていたりすると、寺社をさん付けで呼ぶことを聞くことがある。
たとえば、弘法さん(東寺)、お東さん(東本願寺)、お西さん(西本願寺)、ちおいんさん(知恩院)、けんねんじさん(建仁寺)、大丸さん(これは百貨店)。。。そういえば、おかいさん(お粥)とか、おあげさんとか、食べ物にもつけたりされるようだが、やっぱり、日常生活の隣に寺社がある、というのはこういうことなのかな、と思う。
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東山のランドマーク、八坂神社の西楼門。京都の地名の原則からいえば、「東大路四条」あるいは「東山四条」と呼ぶべきところ、「祇園石段下」と呼ぶのもまた、長い歴史と、神社への敬意の上に立つのであろう(交叉点名は、「祇園」)。朝9時前ともなると、まだ人も少ない。
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おりしも7月。1ヶ月間に及ぶ京都を代表するお祭り・祇園祭は既に始まっている。ハイライトは、17日の前祭・山鉾巡行。今年2014年から、48年ぶりに、24日の後祭でも巡行が行われることになっている。ちなみに、山鉾巡行自体は、山鉾町主体の行事なので、八坂神社としての中心行事となるのは、神幸祭・還幸祭と呼ばれる神輿渡御である。
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狛犬一対。
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もう一対。
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疫神社。蘇民将来をまつっている。
八坂神社、そして祇園祭は、この蘇民将来をめぐる伝承と分かちがたく結びついている。
武塔神という神が、旅の途中で宿を乞うた。裕福な弟・巨旦将来は断ったが、兄の蘇民将来は、貧しいながらももてなした。
後に再訪した武塔神は、弟・巨旦将来の妻となっていた蘇民将来の娘の腰に茅の輪を付けさせ、それを目印として蘇民将来の娘を除く巨旦将来の一族を滅ぼしてしまった。武塔神はみずからスサノオノミコトと正体を名乗り、以後、茅の輪を付けていれば疫病を避けることができると教えた―スサノオが牛頭天王であったり(理由は後述)、巨旦一族は滅ぼされず、単に蘇民将来の子孫を疫病から護ると約束をしたとなっていたり(八坂神社の社伝)、詳細に差異はあるが、蘇民将来の子孫が疫病から護られる、という点では共通している。

京の町を歩いていると、「蘇民将来之子孫也」と書かれた粽が家々の門口に貼られていたりするのは、この伝承のしからしむるところであるし、祇園祭の来歴も、貞観11年(869)に、疫病の流行をとり鎮めんとして、牛頭天王を祀り執り行われた祇園御霊会(ごりょうえ)が起源とされている。
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祇園蛭子社。祇園のえべっさんとも称する。江戸・正保年間の建造で、国指定の重要文化財。
何を隠しましょう、大阪・今宮戎神社は、八坂神社の氏子が今宮に移り住んだ際に、このえべっさんを祀ったものである。このため、現在でも、両社は交流を続けている由。
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こちらにも狛犬一対。
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大國主社。鳥居のたもとには、大国さまと白うさぎの像が。
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舞殿。いつもながら、置屋さんや料亭の名が記された提灯は壮観。この提灯の灯り、LED電球が使われているのだとか。
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本殿。国指定の重要文化財である。
ご祭神は、中御座に素戔嗚尊、東御座に櫛稲田姫命、御同座に神大市比売命・佐美良比売命、
西御座に八柱御子神、八島篠見神、五十猛神、大屋比売神、抓津比売神、大年神、宇迦之御魂神、
大屋毘古神、須勢理毘売命、
傍御座に稲田宮主須賀之八耳神 が祀られている。

なお、明治の神仏分離まで、主祭神は、牛頭天王であった(HPなどの社伝ではそのことへの言及はないが)。牛頭天王は習合神で、スサノオと同神とされていた。今日の当地が祇園と称されるのは、明治に八坂神社に改称されるまでの名が、祇園社であったからだが、これは牛頭天王が祇園精舎の守り神であったことから来ている。
 
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さて、7月の八坂神社では、特別の御朱印をいただける。こちらは掛け紙。祇園祭の鉾の絵が描かれている。
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こちらが御朱印。書置きではあるが、祇園祭の原型である「祇園御霊会」と「蘇民将来子孫也」の筆文字がある。

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こちらにも狛犬一対。
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こちらは円山公園側の鳥居。