2015年05月16日

浅草神社(三社さま・3回目/東京都台東区)

東京を代表する祭礼のひとつ、三社祭の一日、浅草へ繰り出す。
三社祭は、浅草神社のお祭りである。
IMG_15621
浅草神社と敷地続きの浅草寺の宝蔵門。大きな提灯が半分畳み上げられている。いうまでもなく、神輿の通り道を確保するためだ。
IMG_1561
こちらはといえば、仲見世裏の荒井文扇堂さんで、渋扇を求めたり、
IMG_1563
下駄を買ったり、
IMG_1568
伝法院通りにある「天健」でかき揚げ丼を食べたり。
IMG_15641
もちろん、お神輿を間近で見物。
IMG_15671
活気があって、とてもよい。


IMG_15651
そして、三社さま・浅草神社へ。
浅草神社は、土師真中知命・檜前浜成命・檜前武成命の三神を主祭神とする神社である。
この浜成・武成の兄弟は漁師で、宮戸川(隅田川)で漁をしていたところ網にかかったのが、浅草寺に祀られている観音さま。真中知が僧となり、寺を開いたのが浅草寺の起こりであり、それに大きな役割を果たした3人が、三社権現として祭られたわけである。
だから、明治の神仏分離までは、浅草寺と浅草神社は一体であり、三社祭は、浅草寺のお祭りとして、観音祭とも称されたという。
Scan0302
御朱印は、授与所にて。金字で「三社祭」と捺されている。
IMG_1566
その後も、近辺をうろうろ。
浅草という町は本当に面白い。聖と俗、ハレとケが同居する町、と書いたのは、亡き杉浦日向子先生だったと思うけれど、まさにその通り。
心赴くままに、そば屋へふらりと入り、茶そばで小腹を満たす(食べ過ぎ(^^;))。

***補記(2020.5)***
記事中で出てきた扇屋の「荒井文扇堂」のご主人・荒井修さん、十八世中村勘三郎丈と仲好しで、浅草での平成中村座の上演に尽力した方だが、この翌年、2016年2月に長逝されている。
また、昼を食べた「天健」さんも、ご主人がご高齢ということで、お店を閉められた由。
このときは、まだ結婚していなかった今のツレアイと一緒に出かけたのであったが、最近は、子育てに忙しく、電車で20分もあれば浅草に行ける所に住んでいながら、さっぱり足を運べていない。そのあいだに、町も少しずつ、貌を変えていくのだ、ということを改めて感じている。

2015年05月10日

松尾大社(2回目・京都府京都市西京区)

京都旅の3日目は最終日。嵐山近辺の宿をたち出でて、ほどなく、松尾大社に着く。

松尾大社は、桂川の西岸、四条通の西の突き当り、標高200メートル余の松尾山のふもとにある。
ちなみに、読み方は、「まつのおたいしゃ」。阪急の駅や、桂川に架かる橋の場合は、「まつお」と呼んでいるようである。(神社のHPは⇒こちら
IMG_1527
二の鳥居。一の鳥居は、松尾橋のたもと、阪急嵐山線・松尾大社駅のすぐ前にある。

松尾大社は、松尾山大杉谷に、太古からの住民が山霊を磐座(いわくら)で祀ったことに始まるとされる。
大宝元年(701)に文武天皇の勅命により、秦忌寸都理(はたのいみきとり)が磐座から神霊を勧請し、社殿を設けたとされる。秦氏は、大陸から渡来した一族で、土木の技術などに長じ、朝廷よりこの地を与えらえると、この地の開拓にあたっていた。
当社は、秦氏により氏神とされ、平安遷都後は、賀茂社(賀茂別雷神社・賀茂御祖神社)とともに「東の厳神、西の猛霊」と並び称され、西の王城鎮護の神となった。
IMG_1515IMG_1513
狛犬一対。
IMG_1516
常夜燈の後ろ、毎年4月に行われる神幸祭の際に、神輿が氏子地域を巡行するにあたり、桂川を渡るための「川渡しの御船」と「駕輿丁船」。桂川を船で渡る「船渡御」は、昭和58年に20年ぶりに復活、平成8年、駕輿丁船2隻が復活するなど、往古の姿に復している。
IMG_1518
楼門。式内社にして、二十二社の上七社である格式ある神社らしく、風格のある楼門である。神域の緑、後背に負う社殿、神域の松尾山とよく調和する。
平安京の守護を担う神社らしく、多くの天皇が行幸されているほか、神宝奉納、病気平癒、京都の安泰などを祈願されている。当時の政権のテクノクラートであった、秦氏の朝廷内での信頼の篤さを想うべきであろう。
IMG_1520
本殿。室町時代の応永4年(1397)造営の両流造で、国指定重要文化財。
ご祭神は、大山咋神・中津島姫命の二神。
IMG_1521

IMG_1522

IMG_1523

IMG_1524
社殿の周囲には、たくさんの酒樽が並んでいる。左党が思わず舌なめずりをしたくなるような眺めだが、これは、秦氏が酒造技術にも長じており、当社が、酒造りにも験あらたかであるとされ、酒造家の崇敬を集めていることによる。
IMG_1525
手前の拝殿と。本殿、後背の松尾山の景。
Scan0281 - コピー
御朱印は、授与所にて。当社は、 神仏霊場巡拝の道の87番(京都7番)札所である。


IMG_1529
このあと、嵯峨釈迦堂、清凉寺へ。
IMG_1551
見事な大屋根の本堂。
IMG_1552
ここまで来て、旅も大詰め。最後に、錦市場に寄って買い物をし、帰路に就く。
帰り旅の昼食は、途中のサービスエリアで、錦で買ったもろもろをひらいて。
鯖寿司は、錦市場・畠中商店で購入。こちらは、息子さんが太秦のほうで、料理屋さんを営んでおられるそうで、名だたるお店で購うのに比べて、かなり廉くおいしい鯖寿司を落手できる。


2015年05月09日

華頂山知恩教院大谷寺(知恩院・2回目/京都府京都市東山区)

粟田神社から、神宮道を下がってくると、浄土宗総本山である知恩院があらわれる(お寺のHPは⇒こちら)。なお、以前にお参りした際の記事はこちら
IMG_1509
知恩院へ入るには、国宝で京都三大門のひとつである三門から入るのがよいが、敷地の北よりにある黒門から入るのもよいと思っている。高台にある知恩院に入るには、ややゆるやかではないかと思うのである。

IMG_1510
で、国宝で本堂にあたる御影堂(ご本尊は、こちらにおわす法然上人像と阿弥陀堂に祀られている阿弥陀如来)だが、目下、法然上人八百年大遠忌の記念事業で「平成の大修理」中。大きな堂宇が仮の覆屋にすっぽりと覆われている。この時点では、屋根を外しての半解体修理中。まもなくそれが終わり、屋根が乗った状態での修理が続けられ、その様子は公開されることになるという。2019年竣工予定。
Scan0294 - コピー
御朱印所にて、御朱印をいただく。
浄土宗および知恩院にゆかりの深い徳川家康四百回忌を記念して、彼が旗幟に記した「欣求浄土」の言。葵の御紋の御朱印入り。

Scan0295
こちらは、圓光大師二十五霊場の25番札所の御朱印となるご詠歌、
「草も木も 枯れたる野辺にただひとり 松のみ残る 弥陀の本願」
とある。



粟田神社と末社・鍛冶神社(京都府京都市東山区)

俗に「京の七口」という言葉がある。
洛中へ出入りする街道筋の都への出入り口となる場所のことをいう。
時代によって、みやこの規模や構えも変動しており、それに伴って七口も変動したし、そもそも、七口以上の出入り口があったこともあるが、東海道・東山道(のちに中山道)・北陸道への出入り口にあたったのが、粟田口(三条口とも)である。
現在の三条通と神宮道の交差する三条神宮道の交叉点のあたりを中心に粟田口を冠する地名が残っているし、粟田口の由来である粟田は、より交叉点に近いあたりで、小学校の名前にも冠せられているし、天台宗の門跡寺院・青蓮院は、天明8年の京都の大火の際に、後桜町上皇の仮御所となったことから、「粟田御所」の別名を有する。

そして、ここ、粟田神社。近年、PCゲーム、アニメ、ミュージカルなど、多岐な分野で多くのファンを集めている「刀剣乱舞」の「聖地」と称される神社である(神社のHPは⇒こちら)。
・・・といっても、そちらの分野にはめっぽう不案内な私、へぇ、というようなものではあるが。
IMG_1495
二の鳥居(一の鳥居は、三条通に面したところにある)。「刀剣~」のファンの方なのだろうか、若い女性が参詣に。こういう景に接すると、おどろきますな。

IMG_1495 - コピー
鳥居には、「感神院新宮」の掲額がある。
貞観18年(876)に、兵火疫病のきざしありと、ときの清和天皇に奏上されたところ、勅が発せられ、全国の神々に国家庶民の平安を祈願する勅使が遣わされた。
その際、現在の八坂神社である感神院祇園社に遣わされた勅使・藤原興世が、七日七晩祈願した満願の夜、興世の枕元に一人の老翁ー彼は、自らを「大己貴神」と名乗り、祇園の東北の清き処に、我を祀れ、と告げた。興世は夢を神意と奏上して、勅命により直ちに、感神院祇園社の祭神・素戔嗚尊=牛頭天王とともに大己貴神を祀ったのが、粟田神社の起こりである。
一説には、孝昭天皇の末裔で、当地の豪族だった粟田氏の氏神として創建されたとも伝わる。
明治になるまで、南方にある青蓮院の鎮守社であった。最近になって、粟田祭の神輿渡御の際には、青蓮院の四脚門を神輿がくぐるようになったという。
IMG_1496
神社の標柱。現在の粟田神社の社名になったのは、明治になってからである。
「感神院新宮」と称したのは、前述の経緯で、「感神院祇園社」に対する新宮であることから。「粟田天王宮」という別名もあるが、これは、粟田に牛頭天王を祀るお宮であったから、であろう。
このような経緯からして、八坂神社と粟田神社の関係は深く、例大祭である粟田祭の際に、神輿に先立って巡行する剣鉾は、祇園祭の山鉾の原形といわれる。また、 室町時代には祇園御霊会が行われないときは、粟田祭をもって御霊会としたとも伝えられている。
IMG_1497IMG_1498
狛犬一対。
当社は、洛中への出入り口である粟田口にあるというところから、旅に行く人が無事を祈り、旅から戻った人がご加護に感謝するなど、旅立ち守護の神として崇敬を集めた。江戸の幕末に、14代将軍・徳川家茂に降嫁した仁孝天皇皇女・和宮親子内親王も、関東下向の旅立ちに、当社を詣でて祈願したと伝わる。
IMG_1500
さて、石鳥居をくぐった先を左に折れると、末社である鍛冶神社がある。
IMG_1501
鍛冶神社のご祭神は、天目一箇神・三条小鍛冶宗近命・粟田口藤四郎吉光命の三神である。
往古、粟田口近辺には刀工が在住した。平安から鎌倉にかけて、名刀工である三条小鍛冶宗近、粟田口藤四郎吉光等を生み、その名を馳せた。製鉄の神である天目一箇神とともに、当社に祀られるゆえんである。
余談ながら、池波正太郎氏の「鬼平犯科帳」では、長谷川平蔵は粟田口一門の粟田口国綱を自らの差料としているし、剣友・岸井左馬之助は、ある僧から形見として、藤四郎吉光の脇差を贈られている。

IMG_1499
ふたたび、本社に向かう参道に戻る。当社は、東山三十六峰のひとつ、華頂山・粟田山の北の中腹に建っているため、ゆるやかな石段の参道を登っていくこととなる。
IMG_1502IMG_1503
狛犬一対。右側の狛犬の奥は、銅製の御神馬。
IMG_1504

IMG_1505
さらに狛犬。
IMG_1506
石段を登り切ったところにある檜皮葺の拝殿。
IMG_1508
神楽殿。
IMG_1507
本殿。ご祭神は、建速素盞嗚尊・大己貴命、左座に八大王子命(八嶋士奴美神・五十猛神・大屋彦神・大屋媛神・抓津媛神・須勢理媛神・大歳神・宇迦之御魂神)、右座に奇稲田比賣命・神大市比賣命・佐須良比賣命。
当社は、創建後、永久年間に天台座主・東陽坊忠尋大僧正が再建したと伝わる。室町時代、応仁・文明の乱で焼失したが、足利将軍家の命で再興。その後、1805年、1969年に焼失し、再建されて現在に至っている。
Scan0280 - コピー
御朱印は授与所にて。
こちらは粟田神社の御朱印。
Scan0281
こちらは鍛冶神社の御朱印。

なお、当社は京都十六社御朱印めぐりのひとつである。
IMG_1511
授与所では、鳩みくじを引くことができる。鳩といえば、八幡宮であるが、鳩にした理由はないんだとか。


総見院(大徳寺塔頭/京都府京都市北区)

大徳寺塔頭の総見院。戦国の雄・織田信長の菩提寺である。

信長は、本能寺の変に斃れて、その遺骸は発見されなかった。
信長の墓所は、京都だけでも、織田家にゆかりがあったという清玉上人の阿弥陀寺、事件現場にあって現在地に移転した本能寺などにあり、その他にも、ゆかりの各所にある。
戒名にしても、当寺の名前の由来である「総見院殿贈大相国一品泰巌大居士」のほかに、複数の戒名がある。
そのあまりにも劇的な人生の終幕と、その後の織田政権内部での権力闘争のなせるところであろうか。
IMG_1491
鐘楼。信長に仕えた、のちの越前北ノ庄城主・堀久太郎秀政の寄進で、創建の1583年・天正11年から残っている。
さて、総見院だが、信長の葬儀は、信長歿後百か日の10月10日、大徳寺において行われた。喪主は信長の四男で、羽柴秀吉の養子となっていた羽柴秀勝(於次秀勝)が務めた。秀吉が喪主を務めた説もあるが、いずれにしても、秀吉の主導のもとで行われた葬儀といってよい。
その後、信長一周忌を目指して建立されたのがこの総見院である。大徳寺の古渓宗陳が開いた。
翌年には、改めて、信長菩提寺たる「天正寺」を建立することとなったが、古渓が石田三成と不和になって、秀吉の勘気を蒙って話は立ち消えになった。
IMG_1490
正門。こちらも創建当時のもの。通常、当院は非公開であるが、春秋の時期に特別公開される。
IMG_1489
「信長公廟所」の標柱。
創建当時、寺は隆盛をきわめた。それはそうだろう、天下人たる秀吉が、故主である信長の菩提を弔うために建てた寺であるのだから。秀吉は300石、江戸幕府も200石の寺領を寄進していたと云う。
IMG_1488
そんなお寺に変化の時期がやってきたのは、明治維新である。廃仏毀釈の波に翻弄され、多くの堂宇や貴重な宝物を喪った。明治期には、いったん廃寺となり、雲水さんの修行道場や大徳寺派管長の住まいとしても使われたという。
IMG_1487
本堂。大正期に当院が再興された際、元の禅堂を本堂として改修された。
ご本尊は、織田信長坐像。1583年、運慶・快慶の流れを汲む仏師・康清が、信長葬儀の際、沈香を彫りあげて作られた2体の木像のうちのひとつである。ひとつは、遺骸の見つからなかった信長の形代として荼毘に付された。香木のことゆえ、その芳香は市中に漂ったといわれる。
その後、廃仏毀釈による寺の衰微にともなって、木像は難を避けるため、大徳寺に遷された。
寺に像が戻ったのは、時代隔たって戦後の1961年、織田信長380回忌のおりであった。大徳寺から輿に乗って還ってきたそうである。
IMG_1479
風格のある火鉢。

総見院には、3つの茶室がある。

IMG_1476
茶室「香雲軒」。表千家十三代、即中斎・千無盡宗左好み。
IMG_1477
茶室「龐庵」。表千家十四代、而妙斎・千宗旦の筆になる扁額がかかる。
IMG_1478
茶室「寿安席」。表千家の支援者で近代の実業家、慈善救恤や寺社への寄進で「寄付金王」の名をとった山口玄洞が寄進。
IMG_1480
豊臣秀吉が愛したという樹齢400年余の侘助椿。
IMG_1482
寺域には、菩提寺ということで、織田家一族の墓所もある。
こちらは、信長のお墓。
IMG_1483
こちらが、信長長男で本能寺の変において斃れた信忠の墓。
IMG_1485
信長正室で斉藤道三の娘・濃姫(帰蝶)の墓。
IMG_1484
信長の長女・徳姫(五徳)の墓。徳姫は、信長の同盟者・徳川家康の長男・岡崎三郎信康に嫁いだが、信康と母・築山殿が誅せられ、実家に戻った。信康とは不仲であった(二女を生してはいるが)とも、織田・徳川方にとっては敵である武田方に信康と築山殿が内通しているのを父・信長に知らせたとも、様々な説がある。

墓所には、この他に次男・信雄、四男・羽柴秀勝、七男・信高、十男・信好などの墓がある。

IMG_1486
墓域には、「茶づら」の大徳寺の塔頭らしく、茶筅を供養する茶筅塚もある。
Scan0294
御朱印は、書置きに日付を入れていただいたものを頂戴した。「施無畏」とある。


龍寶山大徳寺(京都府京都市北区)

上賀茂神社から、堀川通を下がって、今宮神社へ行く。
昨日も行っているが、家の者の強い要望である。
IMG_1462
本殿。ご祭神は大己貴命、事代主命、稲田姫命。
IMG_1464
摂社の疫神社。ご祭神は素盞鳴命。
IMG_1460
そしておなじみの参道。一文字屋和助(一和)とかざりや、2軒の「あぶり餅」のお店が向い合せて立ち並ぶ。
IMG_1440
努めてそのようにもされておられるのだろうが、雰囲気は江戸。現に、テレビ時代劇「鬼平犯科帳」では、エンディングシーンがこの参道で撮影されており、エンドテーマのジプシーキングスの「インスピレイション」とあいまって、素晴らしい雰囲気を醸し出しているし、「笹やのお熊」篇では、名優・北林谷栄さん扮する長谷川平蔵の古なじみ・お熊の茶店に、かざりやが使われている。
IMG_1438
これまた、すばらしき一皿。

さて、この今宮神社がある一帯を「紫野」と呼ぶが、現在でいうと、北大路通をはさんで、南北に広がる宏大な地域である。南側は、建勲神社がある船岡山、そして北側はなんといっても「大徳寺」であろう。
IMG_1466
龍寶山大徳寺は、臨済宗大徳寺派大本山。境内は22万5千平方メートル、23もの塔頭寺院を擁する。(写真は境内東側にある総門。)

播磨守護・赤松氏の家臣の子に生まれた禅僧・宗峰妙超(大燈国師)が、この紫野の地に小堂を営んだのが鎌倉時代末期の正和4年(1315)。宗峰に帰依した花園上皇が大徳寺を祈願所とする院宣を下したのが、正中2年(1325)。寺としての容がととのったのは、おおよその時期であろうとされる。

室町時代当初、京都五山の地位にあったが、後醍醐天皇とのかかわりが親密であったことで、室町幕府によって、五山の下、十刹に下げられ、寺側が、その後五山十刹の枠組みからも退いた。
IMG_1467
五山十刹の枠から外れたあとの大徳寺は、在野の「林下」寺院として、公卿や守護大名、商人・文人などの幅広い帰依・保護を受け、繁栄の地歩を築く。
応仁・文明の乱において、堂宇伽藍を焼き、衰微するが、後小松天皇のご落胤ともいわれる一休宗純が復興に尽力。一休が「わび茶」を能くした村田珠光と交誼を結んだことから、大徳寺は多くの茶人とかかわりを持ち、「大徳寺の茶づら」と称されることとなる。

IMG_1468
勅使門(国重文)。慶長期の御所・陽明門を、寛永期に後水尾天皇が下賜。
IMG_1469
山門(三門)。国重文で「金毛閣」と称する。二層、五間三戸で、連歌師・柴屋軒宗長の寄進により、大永6年(1526)から享禄2年(1529)にかけて、まず初層が造立。
天正17年(1589)には、千利休が上層を完成させる。「金毛閣」の名をつけたのも、実は利休だ。しかし、この金毛閣が利休を死に追いやることとなる。
この利休が造営した上層には、釈迦三尊、十六羅漢などとともに、雪駄を履いた利休の像が据えられた。寺とすれば、利休は山門をより立派なものとしてくれた、いわば”スポンサー”なのだから、これくらいは「ご恩報じ」といったところであったのだと思うし、利休も、受けたのだろう。

しかし、入れ知恵をする者があったのか、どうなのか、雪駄履きの利休像が門の上層にあれば、門を潜るものは、利休の足下を潜ることとなる。そのことに、僭上極まりない、と激怒した秀吉は、最終的に利休に切腹を命じた。というのが、世に伝わる利休切腹事件の顛末だ。
私は、秀吉が像云々だけを理由にして利休に腹を切らせたとすると、それはどうも「言いがかり」のたぐいで、豊家滅亡の門口となった、方広寺鐘銘事件と軌を一にするような感じを受ける。
表面上の理由は、たとえそれが「言いがかり」であったとしても、権力者は、いかなる言いがかり、いちゃもんをつけても、「邪魔者」を始末する、のではなかろうか。じっさいのところ、利休切腹の真因は、別にあるか、少なくとも、もう少し複合的であったような気がしてならない。
余談ながら、もうひとつ想うのは、豊臣政権は、天正19年の秀吉実弟の大和大納言秀長の死と、利休の死を契機に、坂道を転げるように、徐々に崩壊への道を辿りだしたのではあるまいか、ということである。
IMG_1471
仏殿。国重要文化財。正面五間、側面四間。1665年(寛文5)の再建で、本尊・釈迦如来像を安置。天井画は、狩野元信筆「天人散花の図」。
IMG_1473
禅寺らしく、松の木に隠れているが、法堂。国重要文化財。1636年(寛永13)、大名で幕府の重職にあった稲葉正勝・正則父子の寄進で造営。天井には、狩野探幽の龍の図がある。
山門・仏殿・法堂が一直線に並ぶのは、典型的な禅宗の建築様式である。
IMG_1472
塔頭寺院のひとつ・三玄院。豊臣大名の石田三成・森忠政・浅野幸長らが開いた。三成の墓所でもある。
先に書いたように、大徳寺には塔頭寺院が23あるが、①常時公開している寺院、②時期をかぎって特別公開をしている寺院、③非公開の寺院、の大まかにいって3種類に分かれる。
②でも、毎年決まった時期に特別公開をする寺院もあれば、数年あるいは数十年に一度の公開という寺院もあるし、③の非公開も、観光拝観には門戸を閉ざすものの、寺院内の茶席を使っての茶の湯の席であれば内部に入れる、という寺院もある。
ちなみに、この三玄院は、通年にわたって非公開。いろいろ調べてみたが、特別公開をした形跡もない。定期的にお茶の席があり、その際には入寺がかなうようではあるが、これは相当に茶の湯の嗜みのある人でなければならないようである。
IMG_1474
こちらは、大徳寺本坊の庫裏=臨済宗大徳寺派の宗務本所の門。この奥には、国宝に指定されている方丈があり、今回は、春の特別公開中。
IMG_1475
ちょいと見にくいが、「砂利の上を歩いてはなりませぬ」。
思わず、「ハハーッ」と答えてしまいそう。
Scan0293 - コピー
御朱印は、庫裏=宗務本所にて。「本朝無双禅苑」とある。これは、後醍醐天皇が、五山別格の「本朝無双之禅苑」の宸翰を与えたことに因むのであろう。


賀茂別雷神社(上賀茂神社・山城国一ノ宮・2回目/京都府京都市北区)

滞京2日目は、上賀茂神社(HPはこちら)からスタート。

正式名称は賀茂別雷神社で、上賀茂神社の通称で親しまれる。
式内社にして、山城国一ノ宮、禁裏から奉幣を受ける「二十二社」の「上七社」のうちの一社で、勅使がご差遣になる「勅祭社」でもあり、京都における世界文化遺産のひとつでもある。

神社の歴史等は、前回参詣の際の記事をご参照願うとして(こちらです)、
ざっくりいえば、賀茂氏の氏神を祀る神社であり、下鴨神社(賀茂御祖神社)とともに、「賀茂社」と総称、賀茂別雷命を祀る上賀茂神社であるのに対して、別雷命の母と祖父(=御祖(みおや))を祀るのが下鴨神社である。飛鳥時代の終わりころに、勅命により創建されたとされ、文献上の初出(「続日本紀」)も、ほぼ同時期である。
IMG_1445
第42回式年遷宮を知らせる看板が傍らに立つ、二の鳥居。車を駐車場に入れると、この鳥居の前に出る。
IMG_1444
二の鳥居の前にある、神馬舎。神馬さまは今日も不在の様子。
IMG_1557
境内には、こんな掲示も。
IMG_1458
拝殿である細殿(ほそどの)。国指定の重要文化財。現在の建物は、江戸時代、寛永期の造営。

細殿の前の円錐形に盛られた砂は、清めの砂である立砂(たてすな)。先端には松葉が挿してあって、正月飾りの門松は、これを起源にしているともいうし、盛り塩の起源ともされる。
立砂は、当社のご神体で、神社の北に位置する神山(こうやま)を象ったものともされる。神山は、賀茂別雷大神が降臨した地。神の依り代である「神籬」でもあるともいう。

IMG_1447
細殿の裏手から、横手にみえる楼門。手前は、御手洗川。

IMG_1448
上賀茂神社は、御手洗川と御物忌川ふた筋の流れが境内であわさる。清冽な水が豊富に流れていく。
IMG_1450
御物忌川にかかる玉橋。
IMG_1452
同じく、御物忌川にかかる片岡橋。
IMG_1455
楼門。細殿同様、寛永期の造営で。国指定の重要文化財。
IMG_1451
楼門の傍らには、干支の未にちなんで、ヒツジのおみくじ結び。
IMG_1449
楼門をくぐった先にある、中門(国重文)。この奥に、ご祭神・賀茂別雷大神を祀る本殿と、本殿を修繕する際に、神様にお遷りいただくために予め建てられている仮の神殿・権殿(いずれも国宝)がある。
IMG_1456
上賀茂神社も、下鴨神社も、清らかな水の流れ、そして森厳鬱蒼たる木々に心が洗われる。
上賀茂神社の水辺は、テレビ時代劇のロケーションに使われたことも多かった。境内に佇めば、あ、この場所か!と思うこともしばしば。
Scan0280
御朱印は授与所にて。当社は神仏霊場巡拝の道102番(京都22番)。

2015年05月08日

慧日山東福禅寺(東福寺・2回目/京都府京都市東山区)

(2015年)5月の大型連休後半、関東から家族旅行に京都に行った。車である。
早朝に関東を経ち、休憩をはさみながら、東名⇒新東名⇒名古屋高速⇒伊勢湾岸⇒東名阪⇒新名神⇒名神と走り、京都には昼過ぎの到着。

向かったのは、私自身は2回目の東福寺(HPは⇒こちら)。今回は、国宝山門の特別公開中。
IMG_1433
国宝である三門は五間三戸。こちら側は内側=裏で、入り口側=表には、室町幕府四代将軍・足利義持筆による額「玅雲閣」(みょううんかく)が掲げてある。「玅」は本来、「妙」の字であるべきところ、女人禁制なるがゆえ、字を撰んでの掲額であるとか。
IMG_1425
法堂(仏殿)。ご本尊は、釈迦如来坐像。かつては、高さ五丈(15メートル)の釈迦如来がおわしたが、1881に左手先部分のみを残して焼失。ほかに、「迦葉・阿難尊者」「四天王立像」などが安置されている。今回は、山門楼上に特別拝観で登れるので、法堂を上から望見することとなる。
IMG_1426
禅堂(手前)と経蔵。禅堂の屋根越し遥かに、京都タワーを望見することができる。
禅堂は、1347年創建と伝わり、現存最古の中世唯一の禅堂で、国重文。
IMG_1428
庫裏。重森三玲作庭の庭園拝観はここから。
IMG_1437
東司。つまりはお手洗い。国重文である。
Scan0293
ご朱印は、庫裏の受付にて。
Scan0291

Scan0289 Scan0290
ご朱印帳は、雲龍図。仏殿の天井にあり、堂本印象画伯の筆になる。
Scan0292
表紙の次ページに刷られている佛語。
見開き右ページにはこうある。
「禅宗の基本は、何と言っても坐禅。「一朝に自ら省す」と。
聖一国師は、「今だ道を得ざるに、一時坐禅すれば一時の
佛なり、一日坐禅すれば一日の佛なり、一生坐禅すれば、
一生の佛なり」と。これ国師の煖皮肉。謹んで軽忽する
勿れ」。

筆は、臨済宗東福寺派管長・遠藤楚石師。

======================

この日はこのあと、今宮神社参詣・門前のあぶり餅を食べて、
ホテルに投宿。夕食後、行きつけのバーへ。
IMG_1441
心安らぐ、美酒の味。 
IMG_1443
偶々、今日が私の誕生日と覚えていてくれてのサプライズ。


2015年03月16日

両足院(建仁寺塔頭/京都府京都市東山区)

平野神社を出て、西大路⇒北大路。大徳寺前でバスを降りる。
IMG_1380
大宮通北大路下ルにあるうどんのお店「ひふみ」大徳寺店。家族経営とみえる小体なお店だが、京都らしいうどんを食べられるお店。今日は、冷たい天ぷらうどん。
(補記・「ひふみ」さんは、残念ながら閉店された、とのことである。京都の北のほうに行ったときには、必ず寄って食べる、好きなお店だったんだけど…。)
BlogPaint
再び大徳寺前バス停から市バス・206系統に乗り、東山安井まで。歩いて少々で、建仁寺に到着。
建仁寺自体は、以前にお参りをさせていただいている、臨済宗建仁寺派の大本山。俵屋宗達の風神雷神図(国宝)や、海北友松の雲龍図(国重文)の細密な複製を展示している(現物は、京都国立博物館に寄託)。法堂の天井を圧する小泉淳作画伯の手になる双龍図も圧巻。
IMG_1382
今日は、建仁寺の塔頭、両足院に伺う(HPは⇒こちら)。

当寺の基となる「知足庵」(知足院)を開いた龍山徳見禅師は、宋の時代の中国に45年間渡り、観応元年(1350)に66歳で帰国した学僧。建仁寺三十五世住持である。延文3年(1358)に示寂、知足院に葬られた。
その後、龍山の弟子、天翔一麟(建仁寺六十七世住持)が、知足院のそばに、「也足軒」(也足院)という塔頭を建て、それが後代に至って、合併したことから、知足院と也足院の両の「足」から、両足院の名となったという。

建仁寺といえば、「学問づら」であるが、両足院は、その中核を担うお寺であり、数多くの建仁寺の住持を輩出した。

現在は、通年での公開はしていないが、堂宇と庭園については、初夏に庭を彩る半夏生のころと、冬に特別拝観の機会があるほか、予約制の座禅体験の機会もある。
また、山門を入ってすぐにある毘沙門堂へのお参りと、授与所でのお守りなどの授与品のお頒かちは、非公開時も可能。
IMG_1383
毘沙門天堂。両足院自体のご本尊は、阿弥陀如来立像だが、このお堂では、毘沙門天像に、吉祥天・善膩師童子を脇侍に配した三尊式。
もともと、この毘沙門天像は、鞍馬寺の毘沙門天像の胎内仏であったものと伝わる。織豊時代に入り、織田信長による叡山焼き討ちの際に、足利将軍家の茶家である比喜多養清の邸へ疎開したのだが、鞍馬の僧房が比喜多家に借財があったため、像は比喜多家に引き取られた。
その後、像は戦国武将・黒田長政の手にわたり、関ヶ原の戦いの際には、長政の兜のうちにおさめられていた。関ヶ原は、周知のとおり、長政らの奮戦で東軍が勝ったことから、戦後、筑前福岡藩主家となった黒田家代々の篤い信仰を得た。

時代下って、明治になり、黒田家から、両足院17世・朴宗東循に寄進される。約10年後、一堂が建てられ、像は無事安住の処を得ることとなったものである(寺内で、場所は移動している)。

この毘沙門さまは、勝利に験があることは言うまでもないことながら、良縁成就の効果があるとして、戦前には祇園の芸妓さんや舞妓さんが参拝に訪れることから、「祇園の縁結び」と呼ばれていた。現在でも、お参りをする姿が見られることもあるとか。
Scan0288
ご朱印は、授与所にて。
Scan0286Scan0287
あわせて、御朱印帳もいただく。
お帳面には、「破墨達磨図」「白衣観音図」が表裏に印刷されている。
この御朱印帳は、昨2014年7月に「襖絵制作第1期プロジェクト」完成の開眼法要に合わせて作られたもの。
「襖絵制作プロジェクト」は、2014年に建仁寺の開山・栄西禅師の八百年御遠忌を迎えるにあたり、「禅院絵画の持つ文化と哲学を未来へ継承していく事業」として、スタートしたものである。

中国・浙江省寧波市で「雪舟の再来」と讃えられ、雪舟と同じ「天童第一座」の称号をも授けられた道釈画家(「道釈画」とは、水墨画の中で道教と釈教(仏教)の教義・画題を描き示すもの)の七類堂天谿氏(補注:2019年に相国寺・有馬頼底師より、「雪舟」の道号を許され「雪舟天谿」と改める)に依頼、第一期プロジェクトとして作成されたのが方丈三間の正面部分16面であるが、制作に際して、天谿画伯と「構想や習作を重ねる中で、生まれた掛軸」が「破墨達磨図」「白衣観音図」の2点であるのだとのこと。

力強い達磨大師、柔和な観音菩薩両像のコントラストが味わい深い。


平野神社(京都府京都市北区)

***はじめに***
平野神社は、平成30年9月の台風21号による風害により、江戸時代・慶安3年(1650)造営の拝殿が全壊し、数十本の桜が倒れるなど、甚大な被害を受けられた。
あらためて、お見舞いの意を表するとともに、早い復興を心よりお祈り申し上げたい。
なお、復興には多額の費用を要することから、同社では、義援金の寄付、提灯・拝殿檜皮の奉納などを呼び掛けておられる。詳細は⇒こちらから。(ブログ主・補記)
**********

大将軍八神社から、北へ向かう。京都の地形上、緩やかな登りを歩くことになる。この登り加減をいちばん感じることになるのは、おそらく自転車だろう。今日は違うが。

IMG_1369
西大路通上立売上ルにある平野神社(HPは⇒こちら)。式内社・名神大社の社格を誇り、国家の重大事に朝廷から奉幣を受ける「二十二社」のうち、上七社に列格、東宮が親祭し、「皇大御神」「皇大神」の尊称が奉られた由緒ある神社である。神仏霊場巡拝の道の94番(京都14番)、「西大路七福社ご利益めぐり」のひとつでもある。
IMG_1371
西大路通側の鳥居。
当社は、平安遷都のみぎり、南都・平城京に在った「田村後宮」に祀った神々をお遷し申し上げた、というのがその興りである。田村後宮については、社伝では、桓武天皇の父、光仁天皇の御所としている。また、光仁帝即位前の私邸の位置づけであったとの説もあるようだ。
IMG_1373
参道。まだ3月であり、空も曇り空なので寒々しいが、当社は、桜の名所として夙に名が高く、60種400本の桜が植えられている。種類多様なれば、1か月半にわたって、さまざまの花を愛でることが可能で、また社域には、屋台なども立ち、賑やかに人が出盛るという。
IMG_1377

IMG_1372
早咲きの桜。
当社が桜の名所となったのは、65代・花山天皇が行幸のおり、天皇が境内に桜をお手植えしたことに端を発するという。
IMG_1374
拝殿。江戸初期の慶安年間に、後水尾天皇の后・東福門院和子が寄進。内部の三十六歌仙は、近衞基煕筆、海北友雪画。「接木の拝殿」と呼ばれ、くぎを用いず、接木で建ててある。
IMG_1375
本殿。国指定重要文化財。寛永2年(1625)に南殿が、同9年(1632)に北殿建立した。
ご祭神である今木神(主祭神、今木皇大神とも)・久度神・古開神。比売神の四座が「平野造」(比翼春日造とも)と呼ばれる、二殿一体、2棟が南北に建ち、四座が東面して祀られている。
IMG_1378
西大路通川と反対側、本殿に正対する側の平野通側にある鳥居。扁額には「平野皇大神」とある。江戸時代に、社殿修造にあたった公卿・西洞院時慶とのえにしから、当代の西洞院文昭氏が揮毫された。
IMG_1379
平野通側(東側)に立つ社名柱。
Scan0279
ご朱印は授与所にて。


大将軍八神社(大将軍さん/京都府京都市上京区)

華光寺を出て、七本松通を上り、一条通を西へ。
一条通の西大路通までの約400メートルを、大将軍商店街といい、いかにも地元の人たちの生活を支えているお店の並ぶ楽しい通りなのだが、この通りの別名を「一条妖怪ストリート」といい、商店街最大の行事「一条百鬼夜行」や、妖怪フリーマーケット「モノノケ市」など、妖怪にからめた商店街振興を図っている地域だ。

ではなぜ妖怪なのか。平安のころ、歳末のすす払いのあとで、京の町中の使い古された道具が処分されたが、古道具たちは、都合よく道具を捨てる人間に仕返しを!と、節分の晩に妖怪に変化した。これを「付喪神(つくもがみ)」というが、変化させてくれた神への感謝をささげる祭礼行列を「百鬼夜行(ひゃっきやぎょう)」という。一条通は、この百鬼夜行のメインストリートなのである。

IMG_1367
大将軍八神社は、方除けに験のある神社である。
平安遷都のおり、桓武帝は、あたらしい都を厄災から護る(=王城鎮護)ため、陰陽道にもとづいて、大内裏の北西、乾の方角(天門)に、大和国春日山麓から方位神・大将軍を勧請せしめ、大将軍を祀る堂を勅願により建立させた。これが、現在の当社のおこりである。
このとき、京の四方にも、大将軍を祀る社が創建されていて、現在でも、方々に大将軍神社が残っている。たとえば、西賀茂大将軍神社、紫野大将軍社(今宮神社境内社)、東三条大将軍神社、岡崎神社境内の大将軍社、藤森神社境内大将軍社などである。

IMG_1366
鳥居と神門。当社には、陰陽道で方位の吉凶を司る八神「八将神」のひとつ、大将軍を祀ることから、当初は「大将軍堂」と呼ばれ、大将軍のほか、方位をつかさどる八将神もまつられた。
IMG_1365
境内。正面に本殿、左手には摂社、右には授与所、参集所。右奥には、収蔵庫である方徳殿。
方徳殿は、1975年建築の鉄筋コンクリート造。国指定の重要文化財である木造大将軍神像80躯などが収められている。星の神様である由緒か、陰陽道の家に伝わった「古天文暦道資料」(京都府指定文化財)や、天球儀なども収蔵されている。

さて、室町時代に入り、当社は約百年ほど、祇園感神院(祇園社・現在の八坂神社)の末に属した。大将軍が、祇園社の祭神・牛頭天王の子であるとされたからという。
その後、応仁・文明の乱で社殿が焼失。再建後は、神社として付近の鎮守として崇敬を受ける。

この過程の中で、江戸期には、祭神に次のような変容が生じる。
①大将軍が、素戔嗚尊(=牛頭天王)と習合、
②八将神は、素戔嗚尊の子「御子神八柱」もしくは牛頭天王の眷属「八王子」と習合、
③この際、大将軍=素戔嗚尊=御子神八柱のうちの天津彦根命でもあるとされた。

これによって、社名が「大将軍八神宮」あるいは「大将軍社」とも呼ばれるようになる。江戸時代には「方除厄除十二社参り」の社のひとつとして、庶人の崇敬を集めた。
IMG_1364
参道左手にある三社(命婦神社、厳島神社、猿田彦神社)。
IMG_1363
おなじく、五社(恵比寿神社、稲荷神社、天満宮、長者神社、金毘羅神社)。
IMG_1361
方位盤。
IMG_1359IMG_1360
狛犬一対。
IMG_1362
拝殿と本殿。現在の建物は、1930年前後に再建された権現八棟造。
現在のご祭神は、大将軍(素戔嗚尊(牛頭天王)、天津彦根命)と、八将神(御子神八柱)の太歳神(天忍穂耳命)・大陰神(市杵嶋姫命)・歳刑神(田心媛命)・歳破神(湍津姫命)・歳殺神(天穂日神)・黄幡神(活津彦根神)・豹尾神(熊野櫲樟日命)であり、聖武天皇と桓武天皇を配祀している。
大将軍信仰とスサノオ・牛頭天王との習合については、さきに記したとおりだが、明治になり、神仏分離の波の中で、大将軍一神を祭神としたものの、最終的には、陰陽道が廃されたため、素戔嗚尊とその御子神八柱をもって祭神となし、社名も「大将軍八神社」とあらためられた。
Scan0283Scan0284
御朱印帳は、星神である祭神にちなんで、青地に星座をあしらった素敵なデザイン。なかなか人気が高いそうで、私がお頒ちいただいたものは、現在の在庫の最後の一冊であった。初穂料は1200円。
Scan0285
ご朱印は、授与所にて。真ん中に捺されている社印には、社名をとりまくように、八方の方位が彫られている。
なお、当社は、「西大路七福社ご利益めぐり」のうちの一社となっている。1・2月に巡拝しご朱印を受ける。当社のほかに、わら天神宮、平野神社、熊野神社衣笠分社、春日神社、若一神社、吉祥院天満宮である。
また、素戔嗚尊を祀る神社で構成している「素戔嗚尊を訪ねて-平成のおかげ参り-五十九社霊場」の二十九番札所ともなっている。


蓮金山華光寺(出水の毘沙門さま/京都府京都市上京区)

いつものように、四条烏丸付近に宿を取り、1泊。
翌朝は、市バスで千本出水(せんぼんでみず)まで移動する。

千本出水かいわいは、観光のまちではない。「西陣」にほどちかく、織物の職工さんが多数働き、かつてはこれらの人たちの働きを癒す歓楽街「西陣京極」も殷賑をきわめた。娯楽の王様だった映画館も数多く存在していた。
千本通自体は、平安京の朱雀大路、ではあるものの、その余香があるわけでもないし、通りに面して、著名な観光地があるわけではない。

その千本通出水の交差点を西に入ると、静かな寺町である。この寺々も著名な寺が立ち並んでいる、というわけではなく、ごくふつうの町場のお寺である。

目指すは、蓮金山華光寺。「出水の毘沙門さま」との通称のある日蓮宗のお寺である。
なぜ、このお寺を詣でたかは、最後に書くことにする。
IMG_1358
山門。天正10年ないし11年、日蓮宗京都十六本山の一、妙顕寺の12世・日堯上人の隠居所として、羽柴秀吉の援助により創建された。伏見城の一部が移築されたともいい、秀吉は伏見城に安置していた毘沙門天像を寄進しているという。
IMG_1357
門横には、「大毘沙門天」の石柱と、お地蔵様。表情もあいまって、大変愛らしい。
IMG_1356
紅梅。
IMG_1352
毘沙門堂。秀吉寄進の毘沙門天は、鞍馬寺のそれと同木・同作といわれ、開運・厄除けに験がありとして、「出水の毘沙門さま」と通称されている。
IMG_1351
よく手入れがされているお庭。
IMG_1354
狛犬。
IMG_1353
狛犬。
IMG_1355
本堂。ご本尊は、十界曼荼羅。ご覧の通り、毘沙門堂は、独立した堂宇ではなく、本堂の一角に安置されている。また、鬼子母神もおまつりされている。
Scan0282
御首題は、庫裏にてご住職にお書きいただいた。
なお、当寺は、京の通称寺霊場9番札所ともなっている。

さて、私がこちらのお寺にお参りに伺った理由を最後に書いておかなければなるまい。

池波正太郎の名作「鬼平犯科帳」。文春文庫第3巻に「艶婦の毒」という一篇がある。
江戸で盗賊追捕の任にはたらき、寧日ない長谷川平蔵が、公儀の許しを得て、京へ上る。京都西町奉行を務め、在職中に客死した父・長谷川備中守宣雄の墓参をするためである。

馴染みの旅宿に旅の荷を解いた平蔵は、翌日、亡父の墓に向かう。その墓のある寺こそ、
「千本出水、七番町にある華光寺」
なのである。

ところが、この華光寺には、じつは長谷川宣雄のお墓は、ない。

長谷川平蔵の父・宣雄が京都西町奉行在職のまま、京都で歿したのは史実であり、葬儀を華光寺で行ったのも、寺に記録が残っており、間違いない(長谷川家の宗旨と、西町奉行所が、千本押小路という比較的近傍にあったことから、華光寺で葬儀を行ったのだろう)。

寺の記録によれば、宣雄は、安永2年6月17日に64歳で死去し、23日に泰雲院殿朝散大夫前備中守夏山日晴大居士の戒名を授けられて、葬儀が執り行われ、逢坂で荼毘に付された、とある。

だが、荼毘に付された宣雄の遺骨は、華光寺に葬られることなく(いったんは葬られたとの説もある)、江戸へ下り、長谷川家菩提寺に葬られた、というのである。だから、今日現在、華光寺には、宣雄の墓はないのだ。

つまり、池波正太郎が、平蔵を京都まで父の墓参に赴かしめたのは、史料の読み違い・読み落としでなければ、小説の「噓」ということになる。
考えてみれば、戦後、すさまじい勢いで東京から消える江戸の「匂い」が、京都にはまだある、といって、池波は京都をこよなく愛した。折々に足を運び、作品の中にその「匂い」を取り込んでいる。

さればとて、いうなれば、徳川幕府の現役官僚である平蔵を、ただなんとなく上洛させるわけにもいかなかったろう。上洛には理由が要る。そこで、墓がないのは承知で、亡父の墓参に行かせよう、ということになったのではあるまいか、と思うのだが、さて。

作中で池波は、平蔵に、黒の羽織袴、塗笠に威儀を正せて、この寺に足を運ばせている。

 
それがたとえ、真実のこと、でなかったとしても、池波のこの一文が私と華光寺の縁を結んでくれた。私にとっては、それで充分である。

※なお、長谷川宣雄の死去にかかわる記録のもろもろは、「鬼平犯科帳」ファンの大先達で、登場人物の様々を論証しておられた故・西尾忠久氏のブログ「鬼平犯科帳 Who’s Who」のこちらこちらのページに詳しく、裨益されるところ大であった。心からの感謝とともに記す。


2015年03月15日

石清水八幡宮(男山八幡宮/京都府八幡市)

土・日と大阪へ出張。昼前に仕事が済んだので、月曜日を休みにして、京都をうろうろすることに。
鶴橋で焼き肉ランチを済ませて、京橋から、京阪電車に乗り、八幡市(やわたし)で下車。
石清水八幡宮を参詣することにする。

詳しい歴史には追って触れることとして、石清水八幡宮の社格に触れれば、宮中からの奉幣の格式を示す、いわゆる「二十二社」のうち、「上七社」のひとつであり、勅祭社のひとつでもある。
同時に、皇室が先祖に対して祭祀を行う「二所宗廟」に伊勢神宮とともに定められている(本来定められるべき、宇佐神宮が遠方にあるため代わって定められたとも)。
宇佐神宮・筥崎宮(または鶴岡八幡宮)とともに日本三大八幡の一社、また、元日早朝に宮中で天皇自らが天地四方の神祇を拝する儀式である「四方拝」のおりにも、遥拝されるなど、格式高い神社である。
平安京の鬼門を守る比叡山延暦寺とともに、裏鬼門にあって、都の鎮護、国家鎮護の社として、篤い崇敬を受け、「やわたのはちまんさん」と親しまれている。(神社のHPは⇒こちら
IMG_1315
神社は、八幡市の西方、宇治川・木津川・桂川が合し、淀川となるあたりを挟んで天王山と向かい合うあたりの東岸付近にそびえる鳩ヶ峰(山頂の標高143メートル)の山上を中心に位置する。
山上までは、八幡市駅から「男山ケーブル(京阪鋼索線)」で登ることができる。「男山」の名は、この鳩ヶ峰の別称である。
IMG_1316
ケーブルカーは、八幡市駅から男山山上駅まで、路線距離約400メートル、高低差82メートル、最大勾配206パーミルを約3分かけて登る。

ということで、実際には私もケーブルカーに乗り、山上を目指したのだが、神社には、いくつかの参道があって、下山するときは、表参道を下ってきた。
そこで、ご都合主義だが、今回は表参道から登った体にして記事をまとめたいと思う(といっても、参道途中の写真はほとんどないのだけれど)。
IMG_1343
社号の標柱。
石清水八幡宮の歴史は、平安時代前期の貞観元年(859)、奈良・大安寺の僧・行教和尚が、八幡宮総本社にあたる宇佐八幡(宇佐神宮)にこもり日夜熱祷を捧げたところ、「吾れ都近き男山の峯に移座して国家を鎮護せん」との御託宣を蒙り、男山に神霊を勧請したのが起源である。朝廷は翌年、八幡造の社殿を造営した。

IMG_1342
一の鳥居。江戸時代の1636年建立。高さは8.8mの明神鳥居。
掲額は、一条天皇の勅により「三蹟」と称された藤原行成が書いたものを、「寛永の三筆」で、当社に仕えた松花堂昭乗が元和5年(1619)に写したもの。「八」の字は、両画を鳩に擬えた八幡宮ではおなじみのもの。
IMG_1341
梅花、香る。
IMG_1340
八幡五水の一、筒井。
IMG_1339
頓宮殿北門。
石清水八幡宮は、大まかにいうと、山上にある「上院」と、山麓にある「下院」に分かれる。
そして「下院」の中心的建物がこの頓宮殿である。
IMG_1338
頓宮殿。年に一度の石清水祭において山上より御神霊が遷される、通常の神社の御旅所のようなものと考えればよろしかろう。現在の建物は、大正4年造営、平成22年に修造され、これまでの桧皮葺から銅板葺に容を改めた。
IMG_1336
頓宮殿南門。
IMG_1337
摂社の高良神社。境内に多くある摂末社のひとつであるこの神社が有名なのは、かの「徒然草」第52段において、仁和寺のある法師が、石清水参詣に赴いた際、山麓の極楽寺・高良神社などを本宮と勘違いし山上まで上がらずに帰ってしまったという挿話から。この八幡地区の氏神様として篤い崇敬を受けている。
IMG_1335
二の鳥居。ここから山上にある上院に向けて、表参道を登っていく。途中には、先ほども名前の出てきた当社の社僧・松花堂昭乗の草庵跡や、社名の由来となっている神社創建以前よりの霊泉「石清水井」の湧く末社・石清水社などへの入り口もある。お時間と体力のある方は直接、かなわぬ方は遥拝でどうぞ。
IMG_1334
神馬舎。
IMG_1333
三の鳥居。
宇佐神宮から、八幡大神を勧請した社の成り立ちについては、すでに書いたとおりだが、この男山には、それ以前より、石清水寺(先述の現摂社・石清水社、当時は護国寺とも)があり、文献によって、年代に若干の差異はあるものの、「石清水八幡大菩薩」「石清水八幡宮護国寺」と称す、神仏習合の宮寺であった(松花堂昭乗が社僧であるゆえんもここにある)。
御祭神の性格からも、伊勢神宮に次ぐ社格からも、内憂外患にあたっては奉幣がなされ、臨時祭には勅使が送られ、第64代・円融天皇以降、ご歴代250回以上の天皇・上皇の行幸があった。
IMG_1332
一ツ石。本殿へと続く、石敷の参道の三ノ鳥居付近中央に露出している自然石。「勝負石」「お百度石」などと呼ばれ、「一ツ石」を基点に、南総門下にあった「五ッ石」まで走馬・競馬のコースとなっていたことに由来するといわれる。
IMG_1331
御本殿への参道、馬場先。左右には多数の石灯籠が立っている。
IMG_1317
手水舎。ケーブルを降り、西ケーブル参道を進んでくると、この手水舎下に合流することになる。
IMG_1318
奉納の清酒樽。
IMG_1319
南総門。参道からこの南総門にかけては、社殿に対してやや東寄り(=社殿がやや西向き)に向いている。これは、参詣後、社殿と参道が正中していると、社殿に対してまっすぐに背中を向けてしまうことになるためであるという。
IMG_1320
供御所。末社の竈神殿である。
IMG_1321
石清水八幡宮は、王城守護、国家鎮護の神であるとともに、武神・弓矢の神としても知られる。これは、清和天皇の流れを汲む、清和源氏の源義家が、社前において元服し、「八幡太郎」の通称を名乗り、清和源氏の守護神としたところからである。義家子孫の源頼朝が鎌倉幕府を開いて以後、同じく清和源氏の流れを汲む足利氏、徳川氏が幕府を開いたほか、今川氏・武田氏など源氏一門、織田氏、豊臣氏など時の権力者も、武門の神として崇敬殊のほか篤かったものである。
IMG_1322
御本社。ご祭神は、中御前:誉田別命 (15代・応神天皇)、西御前:比咩大神 (宗像三女神=多紀理毘売命、市寸島姫命、多岐津比売命)、東御前:息長帯姫命 (神功皇后)の3柱を総称して、「八幡大神」として、お祭り申し上げる。
正面にひときわめだつ楼門、幣殿と舞殿、深奥にはご本殿。これを廻廊がぐるりと取り巻く。貞観元年(859)の創建以来、造営14度、修理17度におよび、現在のご本殿は、寛永11年(1634)、江戸幕府三代将軍・徳川家光が造営したものである。
なお、今回のお参り後、平成27年に国宝に指定された。
IMG_1323
楼門前で参拝。
明治に至り、神仏分離令が出るに及んで、「八幡大菩薩」を称し、宮寺を抱えた当社は、ご祭神を「八幡大神」とし、仏式は排されて、神社となる。仏像、仏具等は周囲の寺に引き取られ、建物も壊された。往時は、「男山四十八坊」と称された宿坊も、この維新の動乱の中で、神域から姿を消している。
社号は、明治2年に「男山八幡宮」と改称したが、大正7年に至って、現在の「石清水八幡宮」となった。
IMG_1324
御本社の裏手に位置する校倉。京都府指定文化財に指定されている宝蔵である。なお、その後背を取り巻く築地塀は、俗に「信長塀」と称し、瓦と土を幾重にも重ね、耐久性を高めた織田信長が好んだ様式とされる。
IMG_1325
御本社西側。摂社の広田社・生田社・長田社。奥に西総門(国重文)。
IMG_1326
御本社裏手、住吉社(国重文)と一童社。
IMG_1327
北総門(国重文)
IMG_1328
摂社・龍田社と貴船社。
IMG_1329
若宮社。ご祭神は、仁徳天皇。国重文。
IMG_1330
若宮殿社(国重文)と気比社、水若宮社(国重文)。
IMG_1349
八幡宮といえば、鳩。授与所にて、神社オリジナルのてぬぐいをお頒ちいただく。
Scan0275
オリジナルの御朱印帳もお頒ちいただく。
Scan0277
授与所にて、1500円。
Scan0276
石清水祭の神幸行列の様子を刺繍したものである。
Scan0278
八幡大神の御朱印。
Scan0279 - コピー
境内社・石清水社の御朱印。
このほかにも、摂社・武内社や高良神社の御朱印もいただける。
神仏霊場81番札所(京都1番)に定められている。


2015年01月31日

日枝神社(3回目・東京都千代田区)と赤坂氷川神社(3回目・東京都港区)

休日。自宅から上京し、所用の時間まで少々間がある。

さて、どうやって時間を・・・などとは考えない。
「ちよくる」を試してみよう、と思ったのだ。

「ちよくる」は、正式名称を「千代田区コミュニティサイクル」といい、
要すれば、レンタサイクルなのだが、「ポート」と呼ばれる無人の貸し出しスペースが千代田区内各地にあり、スマホなどで登録することによって、使用できるというものである。
場所柄、観光にかぎらず、買い物や、ビジネスにも使える。
都心というのは、意外に坂道も多いのだが、電動アシスト標準というのも魅力的だ。

といっても時間がないので、まずは、日枝神社。国会などにも程近い、東京のど真ん中、いや、歴史に即した言い方をすれば、江戸城のすぐそば、である。江戸時代から、「山王さん」と称されて江戸の士庶の崇敬厚く、徳川家の産土神とされた。その祭礼である「山王祭」は、江戸三大祭にして、「天下祭」として、神輿・山車は、江戸城内に入り、将軍の上覧に供する栄に浴した。
現在も「皇城の鎮」、皇居を守護する神社として、江戸・東京を代表する神社のひとつといってよい。

IMG_1270
小高い丘の上にある神社。階段のほかに、エスカレータもある。
IMG_1271
鳥居は、独特の形状をした「山王鳥居」。
IMG_1268
神門。社名が書かれた扁額は、伊勢神宮祭主を務めた明治天皇皇女・北白川房子さまのご染筆。
IMG_1269
社殿。ご祭神は、大山咋神。相殿に国常立神、伊弉冉神、足仲彦尊を祀る。
太田道灌が江戸城を築く際、川越の日枝神社を勧請したことに始まり、徳川家康も、江戸入りに際して、紅葉山に祀って、江戸城の鎮守とした。
現在地に社殿が移ったのは、明暦の大火後の万治2年(1659)である。なお、現在のこの社地は江戸城から見て裏鬼門に位置する。
日枝神社は、明治維新のおりに「准勅祭社」とされ、現在は「東京十社」のひとつに数えられている。
Scan0296
ご朱印所にて「官幣大社列格百年記念」の御朱印帳があったので、お頒かちいただく。
Scan0297
黒地に、葵の神紋があしらわれて、なんとも渋い。なお、日枝神社が、府社・官幣中社を経て、官幣大社に昇格したのは、大正元年のことである。
Scan0298 - コピー
御朱印にも、葵があしらわれている。

=========================
さて、ちょうど日枝神社の山下に、ちよくるのポートがあったので、ケータイで手続きをケータイで済ませて、走らせる。
普段、電動アシスト自転車に乗り付けないので、ちょっとしっくりしないが、慣れてしまえば快調。これは、寺社回りにも十分活用できそうだ。

IMG_1276
続いて、赤坂氷川神社へ。こちらも3回目でおなじみの神社だ。東京十社であり、「江戸七氷川」の筆頭、武蔵国一ノ宮の大宮氷川神社の流れを汲み、「忠臣蔵」の浅野内匠頭夫人・あぐりの実家である三次浅野家屋敷地跡であり、かの勝海舟が近傍に住み、著書を「氷川清話」としたことなどは、最前の参拝記に記したとおり。
IMG_1275IMG_1274
狛犬一対。
IMG_1273
神門。門柱のかたわらに、「東京十社めぐり」のたて看板が立っている。
そう、私が十社めぐりをしたときに比べて、明らかにご朱印をもらっている人が増えているように思うのだ。若い女性が連れ立ってとか、自分が言えた義理ではないが、面白いことが流行るなぁ、と。もちろん、神仏とのふれあい、かかわりの端緒になることだから、いいことだと思うが。
IMG_1272
社殿。ご祭神は、素盞嗚尊、奇稲田姫命、大己貴命の三柱。 
Scan0299
授与所にいくと、こちらでも新しいご朱印帳が。
Scan0300
色は、3色。悩んで青を頒けていただく。
Scan0301
もちろん、御朱印もいただく。

本当に限られた時間だったが、有効に時間が使えるのも、自転車ならでは。スムーズに、もとの日枝神社下のポートで返却。地下鉄に乗り換えて、目的地へ。
安全運転を心がけてまた出かけることにしよう。


2015年01月19日

円徳院(高台寺塔頭・圓徳院/京都府京都市東山区)

IMG_1233
つづいて、高台寺の塔頭・円徳院。「ねねの道」を挟んで高台寺の反対側にある。
(お寺のHPは⇒こちら

慶長10年(1605)、高台寺の開山に相前後して、高台院は、徳川家康の許しを得て、伏見城より、化粧御殿と庭園を移築。高台寺の項で述べたように、高台院=北政所の公家社会の一員たる従一位・元関白正室としての官邸は、内裏そば・三本木の高台院屋敷(もとの京都新城)であったと考えられるので、こちらは、仏事にかかわる私邸ないし別邸と考えられる。
豊臣秀吉自体は、いまの東山七条の東方、東山三十六峰のひとつ、阿弥陀ヶ峰に埋葬され、後陽成天皇から「豊国大明神」の神号宣下を受けて、「豊国社」に祀られる。高台院も、三本木屋敷あるいは高台寺から、足繁く豊国社に詣でたはずである(大坂の役後、神号を奪われたうえ、豊国社も取り毀されることになるが、それはのちのこと)。

この御殿と踵を接して、高台院の実兄である備中足守藩主・中納言二位法印木下家定と、家定の次男で甥に当たる木下宮内少輔利房が、高台院警護を目的に、居館となる客殿を建立している。
この門が、長屋門であるのは、侍長屋に連結する武家屋敷の様式で、このような経緯の名残りである。
IMG_1234
唐門。

高台院の実家・木下家の、関が原の戦いの際の帰趨はなかなか面白い。
家定=中立を保って妹・高台院の警護にあたる。
長男・勝俊(歌人・木下長嘯子として著名な若狭小浜城主)=東軍に与し、徳川家の重臣・鳥居元忠とともに伏見城の守衛の任についていたにもかかわらず、伏見城から退去(攻勢の西軍側に、実弟・小早川秀秋勢がいたためか。兄弟牆に鬩ぐのをみて、鳥居元忠から退城を促されたとも)、戦後、禄を除かれている。
次男・利房=西軍に属したが、高台院の嘆願で、所領の公収のみで赦されている。
三男・延俊=東軍に属し、豊後日出藩主となる。
四男・俊定=西軍に与する。1万石を除かれ、弟・秀秋に寄食。
五男・秀秋(筑前名島城主)=いうまでもない、小早川秀秋。当初西軍に属しつつ、戦の帰趨を決める「寝返り」で、戦後、備前岡山52万石の大封を得る。
六男・秀規=西軍で従軍。戦後浪人し、のち大坂の陣の際には、大坂城に入って戦い、落命。

まあ、バラバラである。ひとつには、関ヶ原の戦いが、東西両軍ともに、「豊臣家御為」を大義名分とした戦いであったこともゆえなしとはしなかろうが、こうまで分かれるのをみると、あるいは、どのようなかたちに転んでも、木下家の名跡が残るよう、使嗾した人物がいるのではないか、とすると、高台院が、あるいは、というのは、少々うがち過ぎか。

IMG_1235
庫裏。

関ヶ原後は、前述のとおり、兄・家定や甥の利房が高台院の警護に当たったし、武将より文人として令名高い甥の長嘯子勝俊も高台院の足下に寄寓していたこともあったようだ。
勝俊と利房といえば、家定の歿後、2万5千石あった備中足守領の遺領相続をめぐり、トラブルになった。当初、高台院の口利きがあり、2万5千石の所領は安堵された。ところが、家康が勝俊と利房双方に分与することを条件に、高台院の裁量に委ねるとしたにもかかわらず、高台院は、2万5千石すべてを勝俊に相続することとしてしまったのである。
これには、徳川政権下で、木下家の財を集中させておいたほうがよい、という高台院の意向もあったと考えられるが、これでは、利房はたまらず、家康に泣きつく。
家康としても、これではおさまるべくもない。いくら昵懇の高台院の裁定でもこれは許されず、備中足守領は、幕府に召し上げられてしまった(のちに、大坂の陣の功績により、利房が足守藩主となるが、それも後のこと)。
IMG_1236
秀吉好みと伝わる手水鉢。
IMG_1237
方丈。もとは、木下家定が建立した客殿で、1994年から解体修理された。
釈迦如来立像をご本尊とする。
方丈内の襖絵は、長谷川等伯作。もとは、大徳寺三玄院にあったもの。現物は、京都国立博物館等に寄託されている。現物は、国指定の重要文化財。

さて、大坂の陣の功績で、備中足守藩主となった木下利房は、寛永元年(1624)に、高台院の化粧御殿を賜り、永興院として、高台寺の塔頭とした。(この年、高台院は生涯を終えている。)
寛永4年、利房は、仙洞御所の守護を辞し、圓徳院半湖休鴎の法号を名乗ると、寛永9年には、高台寺中興の祖・三江紹益を開山として、居殿を高台院の塔頭とし、自らの法号・圓徳院を寺名とした。このとき、永興院は円徳院の所管となる。
その後、高台寺本寺の火災による焼失にともない、永興院にあった高台院の化粧御殿は高台寺本寺に移築され、永興院は庭だけとなってしまったため、円徳院に吸収されて一寺となった。
IMG_1238
方丈から見渡す南庭。
IMG_1239
白砂が鮮やかだが、高台院という女性ゆかりのお寺だけあり、季節の花、また紅葉など、目に鮮やかな庭となるよう工夫されておられる由。
IMG_1240
国名勝に指定されている北庭の庭園。北書院の庭で、池泉回遊式の枯山水庭園。石岩を多数配したつくり。
IMG_1241
茶室。希望者はお薄をお出しいただけるとのことで、にじり口から入室して、お茶室初体験!
(そこまでは・・・という方は、書院の座敷や縁先で、お庭を眺めながらいただくこともできるようです。)
IMG_1242
壮観。
IMG_1243
冬寒に薄日のさす中、静かに庭を眺めるのは、醍醐味。
IMG_1244
豊臣秀吉の守り本尊と伝わる三面大黒天。大黒天、毘沙門天、弁財天の三つの顔を持った仏像である。建物は、京都御苑からの移築とのこと。
コピー ~ Scan0149
御朱印は、書置きにて。

高台寺・円徳院の拝観を文章にするにあたっては、(いつもそうなのだが)さまざまな書籍・文書に目を通している。それでもわからないことも多いし、諸説紛々ということもある。自分なりに、咀嚼をして書いているつもりだが、足して2で割って書いたことが正しいとも限らない。
今回も、たとえば、北政所(高台院)は、大坂城を退いたのち、どこに住み、どこで亡くなったのか。終焉の地は、寺伝に円徳院とあり、そのように見てよさそうだが、三本木屋敷と化粧御殿の関係がいまいちわからなかったりする。どの程度の割合で行き来していたのか、亡くなる直前までそのような生活をしていたのか、とか。
ほかにも、高台寺の塔頭の変遷だとか、直接高台寺には関係ないが、豊臣秀吉の葬祭にかかわるもろもろの関係などなど。勉強しないといけないことはたくさんあるなぁ、と思う。
IMG_1246
昼食を、二年坂にある「おめん」(現在は場所がちょっと動いている)。
つるりとしたのど越しのうどんを、さまざまな薬味・具とともに。
麺一面にゆずが散らしてあって、私は苦手なのでちょっと往生したが、美味しかった。


鷲峰山高台寿聖禅寺(高台寺・京都府京都市東山区)

滞京最終日は、東山近辺を回る。といっても、駅まわりで買い物をして、昼の早い時間帯の新幹線に乗ろう、ということだから、ちょっとぶらりとする程度だが。
IMG_1245
四条烏丸から東へ市バス。祇園さんに挨拶をして、下河原通から石塀小路を抜けて、高台寺へ。
高台寺は、臨済宗建仁寺派の寺院である。(お寺のHPは⇒こちら
IMG_1221
高台寺といえば、「ねねの寺」。その門前のきれいに整備された小路は、彼女の名に合わせて「ねねの道」という。
関白豊臣秀吉の妻・ねね(ねいとの説も)。「大師は弘法に奪われ 太閤は秀吉に奪わる」の格言どおり、もともと、子弟に摂政関白の職を譲った人物への敬称であった太閤を一身のものとした夫同様、特に宣旨を賜った摂関家正室を指す名であった「北政所(きたのまんどころ)」も、もっぱら、ねねのことを指す代名詞となった。
慶長3年(1598)に夫の秀吉が世を去り、慶長5年の関が原の戦い後の慶長8年、秀吉の後継者・秀頼と徳川家康の孫・千姫の婚儀を見届けたことが契機となってか落飾。後陽成天皇から「高台院」の院号を賜った。その名にちなみ、夫の菩提を弔うために開いた寺がこの高台寺である。
もとは、高台院の生母の菩提を弔うために開いていた康徳寺(当初、寺町にあった康徳寺を用う案もあったが、手狭なため、当地にあった岩栖院と敷地を交換した)を前身としたため、開創当時は、曹洞宗の寺院であった。
IMG_1220
ねねの道からは、ゆるやかな石段「台所坂」を上がり、山門をくぐる。
高台寺は、慶長11年(1606)に創建。大坂に秀頼あるものの、すでに天下人となっていた徳川家康は、故主の妻への(というよりも、豊臣恩顧の大名への、というべきだろう)政治的配慮から、その造営に手厚く尽力している。開山は弓箴善彊。堂宇は、康徳寺からの移築と、伏見城からの移築などによって造営された。
IMG_1232
勅使門。1912年再建。
当寺が建立されるにあたっては、康徳寺の堂宇を移築したほか、豊臣政権の政庁であった伏見城より総門、化粧御殿、庭園、持仏堂、茶室などが遷されている。太閤秀吉の菩提を弔い、高台院が孤閨を守るため、馴染みある伏見城の遺構を取り入れるべく腐心されている(ただし、高台院は、秀吉が生前に建てた最後の城・京都新城(太閤屋敷)に、慶長4年以降、大坂城西ノ丸から移居しており、内裏にほど近い(現在の京都御苑・京都仙洞御所付近)関白家たる豊臣家の公邸たる京都新城=高台院屋敷(三本木屋敷)をメインの住居としていたものと考えられる)。
IMG_1222
庫裏。高台寺は、幾度もの地震・火災などに遭っており、現在の庫裏は、1912年の再建。
さて、開山当初は曹洞宗の寺院として発足したことは前に書いたとおりだが、寛永元年(1624)の7月、高台院は、臨済宗建仁寺派大本山の建仁寺295世の三江紹益を中興開山に招く。現在の臨済宗建仁寺派の寺院となったのは、このときのことである。
このあたりのいきさつは、高台院の実兄である二位法印木下家定(既に歿)と建仁寺・三江紹益との関係の深さ、さらに、高台院の甥にあたる家定の末子・周南紹叔が三江紹益の弟子であったことも大きな意味を持つ。推測にはなるが、このわずか2ヵ月後の9月、高台院は世を去る。自らの余命を察した高台院が、自らの死後の後始末として、最終的に甥に後事を託せるように計らった、とみても、さほど違和感はないのではあるまいか。
IMG_1223
茶室「遺芳庵」。これは江戸期のもので、明治に入り、灰屋紹益旧邸から移築したもの(紹益時代のものではないとされる)。伏見から移築した「傘亭」「時雨亭」も現存。
IMG_1226
方丈。創建当初は伏見城遺構であった。現在の建物は、庫裏と同様、1912年再建。
仏殿が焼失しているため、当寺の中心的な建造物となっている。本尊の釈迦如来坐像もこちらに安置。
IMG_1224
方丈前庭の「波心庭」。奥の門は勅使門。
IMG_1225
時期が来れば鮮やかに咲くしだれ桜。
IMG_1227
方丈庭園を角度を変えて。
IMG_1228
開山堂。慶長10年(1605)の建築で、国重文。高台院(養父母のものとも)の持仏堂だった。
この堂の天井には、秀吉の御座舟と高台院の御所車の天井が再利用されているのだという。
その後、中興開山の三江紹益の木像を祀る堂となっており、堂内には三江紹益像、兄の木下家定夫妻像、左に高台寺の普請に尽力した堀直政の木像が安置されている。
IMG_1229

IMG_1230
霊屋。寺域の一段高くなった場所に建つ堂。
慶長10年(1605)の建築で、中央の厨子に大随求菩薩像を、向かって右には豊臣秀吉の坐像、左の厨子には高台院の木像が安置されている。秀吉の遺骸は、現在も阿弥陀ヶ峰山上の豊国廟に葬られているが、高台院は、自身の木像の下約2メートルの位置で永久の眠りに就いている。
なお、厨子の扉には種々の蒔絵が施されていて、寺所蔵の調度品類にも施されている蒔絵などもあわせて、「高台寺蒔絵」と称される。高台寺が一名を「蒔絵の寺」と称されるゆえんである。


さて、高台院晩年の高台寺の周辺には、住持を誰にするかの争いや、塔頭との諍いなど、高台院からすれば、心痛なこともあった。
曹洞宗からの転宗にあたっては、幕府からは、臨済宗南禅寺派への転派を命ぜられていたともいう。言うまでもなく、南禅寺は、江戸幕府初期の立法、宗教行政、外交に絶大な力を揮い、「黒衣の宰相」と呼ばれた以心崇伝の拠点である。崇伝といえば、大坂の陣の前の、例の「国家安康」「君臣豊楽」の方廣寺鐘銘事件の際に、徳川方で関与した、ともいわれる人物である。
豊家は滅亡し大坂城が灰燼に帰した上、夫秀吉を祀る阿弥陀が峰の豊国廟にあった豊国神社は廃絶となり、朽ち果てるままとなり果てた。

戦国の女性である高台院にとって、有為転変は世の倣い、であったろう。とはいえ、亡夫や一族に与えられる仕打ちが愉快ならざるものであったことも当然であったろう。
そのうえに、自らが亡夫の、そしてゆくゆくは自らの菩提も弔われていくことになる寺が、徳川の掣肘のもとにおかれることは、さすがに我慢がなりかねることであったのではなかろうか。豊臣一族の菩提を弔わせるために、南禅寺派への転派を撥ね付け、最終的に甥の周南紹叔を住持とすることのため、人生の終わりに、高台院は戦ったのではないか、と思えてならない。
IMG_1231
霊屋側から、臥龍池を樹間に望む。
Scan0151
御朱印帳は、黒と白の2種。今回は白地のものをお分かちいただく。
白地には、表面に菊と五七の桐の豊臣家の定紋。
Scan0150
裏面には、建仁寺派第8代管長・湊素堂師の筆になる「夢」の一字。
つゆとをち つゆときえにし わがみかな なにはのことも ゆめのまたゆめ
秀吉の辞世にある「夢」、である。(帳面の色みはこちらの方が近い)
Scan0153
御朱印は、「佛心」。

2015年01月18日

六角堂(紫雲山頂法寺/京都府京都市中京区)

時間も夕景に近づいてきたので、一日世話になったレンタサイクルを柳馬場六角下ルで返却。
後は室町蛸薬師のホテルに戻ればよいが、まだ少し時間があるので、六角通をぶらり。
BlogPaint
紫雲山頂法寺、が正式名称だが、通称・六角堂。天台宗系の単立寺院である。
(お寺のHPは⇒こちら
IMG_1214
堂前の通り名が「六角通」であるように、六角堂頂法寺の来歴は古く、人々に親しまれている。
寺伝によれば、淡路島岩屋浦に漂着した如意輪観音像を念持仏としていた聖徳太子(厩戸皇子)は、用明天皇2年(587)、四天王寺建立の用材を求め、この地を訪れた。
太子が池で身を清めるにあたり、念持仏を木に掛けたところ重くなって動かなくなってしまったのである。観音像は光明を発し、今後はこの地にとどまり衆生を済度したいと告げた。そこで太子は、六角形の御堂を建てて安置したのが起こりとされる。

IMG_1213
親鸞堂。親鸞は、鎌倉初期・建仁元年(1201)に叡山から六角堂に参籠し、のちの浄土真宗を開くきっかけを得た。これにちなみ、六角堂に参籠して観音から夢告を授かっている親鸞夢想之像と、草鞋を履いて叡山から六角堂へ向かう親鸞草鞋の御影が堂内に安置されている。
IMG_1207
太子堂。境内北東の池の隅に浮かび、開山堂ともいって、聖徳太子をまつっている。
内部には、太子の二歳像、十六歳像、騎馬像が安置されている。
IMG_1209
堂宇の軒丸瓦も六角の中に堂の字が。
六角堂は、「梁塵秘抄」においては、「観音験(しるし)を見する寺」として、清水寺などとともになを挙げられるなど諸人の信仰も篤く、室町・寛正の大飢饉のときには、ときの8代将軍足利義政が、堂前で貧窮者に対しての粥施行(かゆせぎょう)を行なわせた。
応仁の乱以降は、下京の中心「町堂」として、町衆の生活・自治の中核の役割を果たし、下京町組代表の集会所になったりしている(上京の中心は、寺町二条の革堂)。
IMG_1206
西国三十三観音霊場の18番札所であることを示す標石。平安の中期ごろには、霊場札所となっていたといわれ、現在も、西国のほかに、洛陽三十三観音霊場の第1番札所、聖徳太子御遺跡霊場の第25番札所、京の通称寺霊場16番札所であり、かつては洛陽七観音の一つに数えられた。
IMG_1204
本堂である六角堂。平面六角形の屋根を二重に重ねている。現在のお堂は明治10年(1877年)の建立。ご本尊は、如意輪観音像(秘仏)。左右に毘沙門天立像(重要文化財)、不動明王立像を配する。
IMG_1211
六角ぶり、お分かりいただけますでしょうか。
IMG_1205
手前のお堂は石不動。奥の建物は、「WEST18」といい、西国の18番札所にちなんで、華道の池坊が建てたビル。中には、スタバやスポーツジムなども入っていて、展望エレベーターから六角堂を見下ろすことができる。
さて、さりげなく、「華道の池坊が」、と書いたが、六角堂と池坊は、深いつながりを有している。
寺の来歴を書いたところで、「聖徳太子が池で身を清めて」云々、と書いたが、太子に本尊の守護を命じられたのがかの小野妹子であった。
妹子を始祖とした住坊を、太子水浴の池にちなんで「池坊」と呼んだ。以後、六角堂は、頂法寺の本坊である池坊が執行として護持に当たり、池坊の僧は、朝夕に本尊に花を供えた。立花をはじめたのは、室町時代の12世・池坊専慶。以後、13世・専応、32世・専好など、宮中への出入りも許された歴代が、華道としての池坊の名を大成せしめた、といえる。
それゆえに、当地は、「華道・いけばな発祥の地」「池坊発祥の地」であり、現在も、歴代の池坊家元が住職を勤めているのである。
Scan0135
御朱印は、本堂斜め前にある納経所兼売店で。
西国の札所と洛陽の一番札所ということもあり、書き手は複数体制、御朱印帳も霊場専用のものも含めて充実のラインナップ。御朱印の貰い手も、お帳面に限らず、納経軸やおいづるへの方も多く、より「本格的」。
コピー ~ Scan0136
散華もいただいた。


下御霊神社(京都府京都市中京区)

白峯神宮から、京都御苑の南西の角、烏丸丸太町を目指す。

IMG_1196
御苑の間之町口から入ってすぐ左手に・・・
IMG_1195
閑院宮邸址。閑院宮家は、伏見、桂、有栖川と並ぶいわゆる「四親王家」のひとつで、江戸中期、皇統の衰微を憂えた新井白石の献策により、東山天皇の皇子・直仁親王が創始。2代・典仁親王の男子が光格天皇として即位しており、現在の皇室は、この閑院宮の血筋である。
ここは、その閑院宮家の邸跡で、現在一般公開されている。
IMG_1193
現在の宮邸がいつごろの建築であるかは不明だが、江戸・天明の大火(1788)で燃えていることは確かなので、それ以降の建築であることは確か。
明治の東京奠都で閑院宮家も東京に移ってからは、曲折を経て、宮内省京都支庁となり、戦後、京都御苑が国民公園となってからは、京都御苑管理事務所などに使用されていたが、2007年に改修工事を終え、収納展示室と庭園などが開放されるようになった。
展示室の床は、外の天候しだいで御苑の緑が床に映る「床みどり」にもなるそうだ。市内の中心にある穴場スポットといえ、一度見てみたいと思っていた。なお、入場は無料。


IMG_1202
閑院宮邸見学を終え、丸太町通寺町の交叉点を南に下がって、すぐ左、下御霊神社がある。
(神社のHPは⇒こちら
IMG_1201
寺町通に面する鳥居と表門。
下御霊神社は、貞観5年(863)に、神泉苑で行われた御霊会を嚆矢とする。
御霊会は、政争での失脚や戦乱での敗北など、恨みを残して非業の死をとげた者の御霊(ごりょう)による祟りを防ぐための、鎮魂のための儀礼。当時は、その相手方や家族などに災厄を齎すほか、天変地異、疫病の流行など、社会全体に対する災いを及ぼすものといわれた。
であるから、その霊を鎮め、神として祀れば、かえって社会に平穏を齎すこととなる、それが「御霊信仰」であって、そのための儀式が「御霊会」である。
IMG_1200IMG_1199
狛犬一対。
貞観5年の神泉苑での御霊会では、光仁天皇の皇子である早良親王(のちに追尊されて崇道天皇)、桓武天皇の皇子・伊予親王、伊予親王の母である藤原大夫人(藤原吉子)、空海・嵯峨天皇とともに三筆と謳われた橘逸勢(橘大夫)、文屋宮田麻呂(文大夫)、観察使(藤原広嗣)がその祭神となっている。
これらの人々は、いずれも、無実もしくは冤罪と思われる謀叛の罪に問われ、もしくは座し、刑に処せられ、自ら命を絶ち、あるいは流謫のうちに生涯を終えた人々である。その多くは、宮廷内の政争によるところであると考えられるが、このような人々の憤りが、天変地災となって襲い、世情を不安ならしめた、と当時の人たちは考えたのである。なら、最初から考えればいいのに、というのは後知恵であろうが。 
IMG_1198
拝殿。
神泉苑の御霊会から時を置かずして、現在の寺町今出川の北辺り、下出雲路付近(下出雲寺の境内とも)に鎮座されたと伝わる。下御霊神社とするのは、このころに、出雲路の上の方に現在の御霊神社(上御霊神社)があったからという。
鎌倉期に新町出水の西に遷り、天正18年(1590)に現在の地に鎮座した。
IMG_1197
社殿。ご祭神は、本殿八座といい、崇道天皇・伊予親王・藤原大夫人・藤大夫(藤原広嗣)・橘大夫(橘逸勢)・文大夫(文屋宮田麻呂)に、吉備聖霊と火雷天神の八柱、相殿に天中柱皇神として霊元天皇を祀る。
吉備聖霊は吉備真備を、火雷天神は菅原道真を擬える説もあるが、神社では、吉備聖霊は六座の和魂(にぎみたま)、火雷天神は六座の荒魂(あらみたま)で、吉備真備や菅原道真ではない(御霊に合致しないことや、創建と時期がずれることなどから)としている。
霊元天皇が相殿に祀られているのは、二度にわたって親拝になり、当社を御所の産土神とされ、崩御の後は当社に併祭すべしとの勅命があってのことという。
現在の本殿は寛政3年(1791)に仮皇居の内侍所(賢所)を下賜されたもので、それ以前の宝永の大火のみぎりにも同様のことがあったとのことで、禁裏との深いつながり、崇敬ぶりが窺える。
Scan0156
御朱印は、社務所にて。


IMG_1203
寺町通を下がり、右手にある「末廣」で蒸し寿司の上を奮発。
冷え冷えの体に舌が焼けそうなほどに熱い蒸し寿司は、まさに冬の京ならでは。


白峯神宮(2回目/京都府京都市上京区)

等持院を出て、今出川通を東進。北野白梅町、北野天満宮、千本今出川と過ぎ、堀川今出川の交叉点を過ぎて、すぐ左手にあるのが、白峯神宮。
IMG_1190
まだ、昨・2014年7月に訪れたばかり(そのときの記事はこちら)。
IMG_1192
神門。
IMG_1191
ご祭神は、崇徳天皇と淳仁天皇という流謫の身をかこつた両帝であるが、現社地が、公卿の飛鳥井家の屋敷址で、飛鳥井家が蹴鞠の師範を家業としており、地主神・精大明神が、球技、スポーツの神様として篤く崇敬されている。
IMG_1187
舞殿。

IMG_1189
右近の橘に、、、
IMG_1188
左近の桜。
IMG_1186
社殿。
Scan0144
前回品切れであった御朱印帳をお頒かちいただく。
蹴鞠をしている面と、
Scan0143
菊の御紋と崇徳天皇の御製がもう一面に。これをみると、落語愛好者としては、ついつい「崇徳院」という噺を思い出してしまう。
Scan0145
もちろん、御朱印も頂戴した。

萬年山等持院(京都府京都市北区)

立本寺は、七本松通と仁和寺街道の北西の角、といってもわかりにくいので、北野天満宮や上七軒の少し南側、と考えるといくらかわかりやすい。
立本寺詣でを終えて、自転車を今出川通に向ける。天神さんの前を通り、西大路通との交叉点・北野白梅町を突っ切って、嵐電北野線に沿って進み、住宅街の路地を右に折れて少し行くと、萬年山等持院が現れてくる。
IMG_1185
等持院は、ひとことでいえば、足利将軍家の菩提寺。そもそも、等持院という院号じたいが、足利尊氏の法名・等持院殿仁山妙義大居士にかかわる。室町期には、五山の下、十刹の首座に数えられた、臨済宗天龍寺派のお寺である。(お寺のHPは⇒こちらBlogPaint
足利家所縁であると同時に、「日本映画の父」、マキノ省三が1921年に、自らの撮影所を等持院の境内に設けたことから、映画との所縁も深い。ものすご~く見にくいが、上写真の矢印下には、マキノ省三の銅像が建てられている。同時に、等持院には、マキノ省三やその子で松竹京都撮影所長などを務めたマキノ雅弘、日本初の映画スターといわれる二代目尾上松之助、映画監督の衣笠貞之助など、映画界に所縁の深い人たちが眠っている。
IMG_1172
表門と庫裏。
さて、お寺自体の来歴だが、お寺のHPなどによると、暦応4年(1341)、足利尊氏が夢窓疎石を開山に、創建したのが起こりである。
さらに淵源を辿ると、衣笠山にあった、仁和寺の小宇を臨済宗の寺に改めた上で遷したのがその元で、さらにいえば、いまの中京区等持寺町、高倉通御池の付近にあった足利尊氏屋敷の址に足利家の菩提寺として建立された「等持寺」の別院で、高倉御池の寺を南寺あるいは南等持寺と称したのに対し、この寺を北寺あるいは北等持寺と称したとのことである。(南寺の成り立ちについては、尊氏の弟で観応の擾乱で滅亡した足利直義が主導したものとの説もあるようである。)
IMG_1173
北と南とあった等持寺は、延文3年(1358)、尊氏葬儀が北寺で行われ、墓所と定められると、尊氏法名の等持院殿を寺名に戴き、応仁の乱などもあり、南寺も北寺に併合された。足利家の菩提寺、廟所として隆盛を見る一方、室町後期の幕府の弱体化により、寺も衰微した。
IMG_1183
庫裏から方丈に向かう途中で、有名な達磨図で邂逅する。
IMG_1181
臨済宗天龍寺派管長で当寺住職であった関牧翁師の筆になる達磨図。見るものの心を捉えて離さない。
IMG_1180
本堂にあたる方丈は、江戸後期の文政元年(1818)移築されてきた。もとは、元和2年(1616)に、戦国武将で安芸広島城主・福島正則が妙心寺塔頭海福院として建立したもの。ご本尊の釈迦如来坐像が安置されている。
IMG_1174
足利尊氏の墓石。
IMG_1175
夢窓疎石造営と伝わっている庭園。ただし、現在の庭園の様式から按ずるに、江戸期に手が入っているようだ。
IMG_1178
茶室・清漣亭。
IMG_1179
庭園はもともと衣笠山を借景としたものであったが、現在は立命館大学のキャンパスが近接しているので、樹木を目隠しとしている。

さて、写真がないのだが、この等持院で忘れてはならないのは、霊光殿。
本尊として、利運地蔵尊をまつるこのお堂には、足利幕府歴代将軍(一部を除く)の木像が安置されている。
この木像は、江戸幕末のみぎり、尊皇攘夷の動きが烈しくなる中で、足利尊氏・義詮・義満の三代の将軍の木像の首と位牌が等持院から盗み出され、鴨川の河原に晒された「足利三代木像梟首事件」でも有名である。

この動き自体は、足利氏に仮託した反徳川の運動であるが、元を辿れば、言うまでもなく、いわゆる南北朝時代の問題にたどり着く。その後、明治に至っていわゆる「南北朝正閏論」の中で、足利尊氏は「逆賊」「朝敵」とされる。

少年期に、この等持院で僧として修行をしていた作家の水上勉氏は、戦前の自らの修行期と50年ばかり後の等持院の変わり果てぶりに言及し、同じ衣笠界隈にありながらその景をとどめている金閣寺、龍安寺との違いは、等持院の「経営難」のなせるところであり、それは足利家菩提寺であることで人から省みられなかったことが原因だと、書いている。

そういう中で、住宅街に近接していたり、広壮とはいえないものの、しかし、ゆったりとお参りをできる素敵な寺ではないかと思う。もちろん、昔に比べれば、、、というところはあるのだろうが。
コピー ~ Scan0134
さて御朱印は、手書きではなく、押印によるものである。

具足山立本寺(西龍華/京都府京都市上京区)

壬生寺を出て、千本通を北上、千本出水で西に入り、七本松通をややしばらく上がると、左手の角に。
IMG_1160
日蓮宗本山・由緒寺院である具足山立本寺。「北野の鬼子母神さん」とも、「西龍華」(妙顕寺、妙覚寺とともに、「龍華の三具足」に数えられる)とも称される。「日蓮聖人門下京都十六本山めぐり」「日蓮宗京都八本山巡り」に属し、古くは「洛中法華二十一ヶ寺」のひとつに数えられた古刹である。
IMG_1157
祖師堂。
当寺の歴史は、日蓮聖人の高弟・日像が元亨元年(1321)に御溝傍今小路に創建、暦応4年(1341)、四条櫛笥(現在の四条大宮付近)に寺地を移した妙顕寺をルーツとする。
妙顕寺は室町時代の嘉慶元年(1387)に、叡山の衆徒により破却されるが、明徳4年(1393)、足利三代将軍・義満の寄進によって、三条坊門堀川(現在の二条城南東あたり)に再興、寺号を妙本寺と改めた(異説には、この年に、日実が、後小松天皇より、旧地・四条櫛笥に寺地を賜り、寺号を「本を立てる」立本寺と改めたとの説も)。

応永20年(1413)、妙本寺は再度叡山の衆徒によって破却され、5世月明は丹波に難を逃れた。
その3年後、日実が四条櫛笥に寺を再興し、本応寺と号する(後に立本寺と改める)一方で、月明は五条大宮に妙本寺を再興(後に妙顕寺と改める)した。

この辺は、異説があるうえ、寺号が入り組んでわかりにくいのだが、整理すると、
日像の妙顕寺⇒三条坊門堀川の妙本寺⇒日実の本応寺と月明の妙本寺に分立⇒本応寺は立本寺に、妙本寺は妙顕寺に改称、ということになるだろうか。

はっきりしているのは、この寺が、日実と月明という2人の僧が立てたふたつの寺のひとつとして、分立――それは、対立を含むものであった――したことと、度重なる叡山からの攻撃を受けたということであろう。

IMG_1158
刹堂。鬼子母神堂ともいい、十羅刹女、日像開眼の鬼子母神をご本尊としている。寺の通称である「北野の鬼子母神さん」は、ここから来ている。

さて、立本寺は天文5年(1536)の天文法難(天文法華の乱)で、みたび叡山に攻められ、洛中の他の法華宗の寺とともに焼失。一時は堺に難を遁れ、天文11年(1542)の後奈良天皇による法華宗帰洛の綸旨により、天文13年(1544)新町三条に伽藍を再建。文禄3年(1594)、豊臣秀吉の命に遵い、寺町今出川に移転した後、江戸時代の宝永5年(1708)、宝永の大火後に、現在地に移転して現在に至っている。

IMG_1159
妙見堂。
IMG_1156
本堂。江戸中期寛保3年(1743)の造営で、京都市の指定有形文化財。ご本尊は十界曼荼羅。寺号の掲額は、本阿弥光悦の手になるものという。
IMG_1162
この立本寺の墓地には、ある有名人のお墓がある。
戦国きっての猛将として知られ、石田三成の腹心として「三成に過ぎたるものがふたつあり 島の左近と佐和山の城」とまで謳われた島左近清興(勝猛とも)の墓である。私個人では、TBSの「関が原」での三船敏郎、NHK大河「葵 徳川三代」の夏八木勲など、名優の名演が印象に残るところである。
IMG_1163
妙法院殿島左近源友也大神儀と彫されている墓石。
言うまでもないことだろうが、石田三成に三顧の礼をもって迎え入れられた左近は、あるときは君臣として、あるときは師弟として、あるときは兄弟として、石田三成の働きを助けてきたが、天下分け目の関が原の戦いの際にも、三成の立場を考えれば、事実上西軍の軍師として役割を果たした、といってよいだろう。
世に伝わるところでは、戦陣の先頭に立っていた左近は、東軍・黒田長政勢の銃弾を浴び、討ち死にしたと伝わっている。この際の戦いぶりは、さながら鬼神のごときものであったようで、相対した黒田勢の兵士は、後年になっても、悪夢にうなされ、夢中で左近が発した裂帛の掛け声に布団から飛び起きたとの説が残るほどである。
IMG_1164
とすれば、島左近の歿日は、慶長5年9月15日とあるべきところであるはずだが、この墓石の側面には、寛永9年6月26日歿とある。実に32年の差がある。これはどうしたことか。

実は、関が原役後、左近の遺骸は、見つかっていない。さらには戦後の京で左近を目撃したと称する者が相次いだともいう。
この立本寺の伝承では、戦後に逃れて立本寺の僧となり、生涯をこの地で終えたという。塔頭には、位牌や過去帳も残されている(このほかにも、静岡県浜松市に落ち延び、現在も後裔の方が住するという話もある)。
歴史の真実は杳として知れない。本物の島左近がこの地で生を終えたのか、縁につながる何らかの人が左近の名を名乗ってこの地にあったのか、冬の静かな日に照らされ、そんなことに思いをはせるのもまた楽しい。

コピー ~ Scan0155
御首題は本堂の裏手の方丈にていただく。


壬生寺(京都府京都市中京区)

1月17日の寺社めぐりは、本能寺で打ち止めにして、二条城前のANAクラウンホテルに投宿。
IMG_1131IMG_1128
夕食は、四条新町東入ルにある洋食の「亜樹」さんで、エビライスとカキフライ。
エビライスは、要するにエビ入り炒飯のことだが、そこは洋食屋さんのそれ、 洋風の味がするものである。
IMG_1126
近所のバーで酒を過ごしてから、タクシーでホテルへ。どういうことか、ツインにアップグレードされていて、広々として部屋だったが、立派な風呂にも入らず、本当に寝ただけ。


さて、翌朝。
目が覚めたら10時半を過ぎていた。大寝坊である。
もしこれが仕事の泊まりだったらと思うとゾッとはするが、とくに決まった予定があるわけではない。広々としたバスに入れなかったのは口惜しいが、まあよい。とりあえず、11時がチェックアウトなので、大急ぎで身支度して、脱兎のごとくフロントへ。

手続きを済ませ、堀川通を横断。ホテルの向かいにある二条城の駐車場の事務所へ。
ここ二条城には、レンタサイクルのターミナルがある。碁盤の目になっている京都市街。自転車での観光が便利なのでは、と思ったのだ。

無事に借り出し、まずは四条室町にある、今日宿泊予定のビジネスホテルへ、荷物を預けに行く。
IMG_1134
その途中、新福菜館三条店で、朝食のような、昼食のような。
中華そばの肉多め・ねぎ多めの麺硬めに焼き飯。「京風」ではなく、味濃いめな「京都のラーメン」。
IMG_1143
ホテルに荷物を置いて、四条通を西進。堀川、大宮と過ぎて、坊城通との交差点を左折。狭い坊城通を南行してしばらく行くと、やがて右手に定規筋の塀を構えたお寺の門前に出る。
壬生寺。古くは、心浄光院、宝憧三昧寺、地蔵院(白河帝行幸の際に勅賜)といい、律宗の別格本山である。(お寺のHPは→こちら
そしてなにより、壬生寺といえば、「壬生狂言」と「新選組」の寺である。
IMG_1144
表門(正門)。
壬生寺は、正暦2年(991)に、近江・園城寺(三井寺)の僧・快賢僧都が、自らの母の供養のため、五条坊門壬生に地蔵菩薩を本尊として開いたと伝わる(一方で、奈良時代に、律宗を開いた鑑真が開創し、快賢が再興したとの伝もあるようである)。このような由緒から、開創当初は、「小三井寺」ともいわれたようだ。都の鬼門である叡山に対して、裏の鬼門を守護するためのものであるともいう。
先述の白河天皇のほか、鳥羽上皇なども行幸した。鎌倉期に現在の地に遷され、平政平の願いにより、圓覚上人が再興した。ちなみに、融通大念仏、いわゆる「壬生狂言」は、この円覚上人がはじめたものといわれる。
IMG_1142
一夜天神堂。現在の堂宇は、江戸末期の嘉永5年建立で、一夜天神と金毘羅大権現、六所明神(壬生寺の鎮守)がまつられている。
名の由来だが、菅原道真公が、筑紫大宰府に流謫の身となるにあたり、この地に一夜を明かした(親戚を訪ねたともいう)。その後、江戸の初期ごろにまつられるようになったのだという。
IMG_1141
中院(ちゅういん)。洛陽三十三所観音霊場の28番札所で、十一面観音菩薩をまつる。かつては、中之坊と呼ばれ、11あった壬生寺の塔頭のうち、廃仏毀釈の荒波を超えて、唯一残った。
江戸・寛永年間の創建とされ、1829年に現在のお堂が再建。
IMG_1140
阿弥陀堂。平成14年再建の新しい建物。阿弥陀如来三尊像を安置し、授与所もある。
また、地下には、歴史資料室があり、寺宝や新選組関係の資料を展示するほか、京都十二薬師霊場の4番札所の札所本尊である歯薬師如来三尊がまつられている(なぜ「歯薬師」というかだが、お薬師さまの微笑みが、「ははは」と笑っているように見えるから、だそうだ(つまりは、洒落?)。

そして、お堂の奥には、壬生塚という新選組隊士の墓がある。
なぜ、この壬生が新選組ゆかりの地となっているかについてだが、文久3年(1863)3月、この地で新選組が結成されたからに他ならない。寺外にある八木邸、前川邸、南部邸(現存せず)の3箇所が屯所と定められた。寺の境内では兵法の調練が行なわれたという。
IMG_1139
右手が阿弥陀堂、左手が弁天堂。弁天堂は、明治27年再建で、本尊の弁財天は、清水寺延命院から遷されたものであるという。
IMG_1138
水掛地蔵堂。江戸中期の石仏地蔵をまつる。
IMG_1137
鐘楼。嘉永4年の再建、鐘も嘉永元年の再鋳。
IMG_1136
千体仏塔。平成元年に創建1000年を記念して建立。ミャンマーのパコダを模して一千体の石像がおさめられている。これは、明治のころ、市電の開設など、都市開発・区画整理の際に各地から集められたもの。
なお、このほかにも境内には3000体ほどの石仏があり、京都の夏の終わりを告げる行事「地蔵盆」の際には、町内に地蔵のない町に地蔵を貸し出すのだそうな。 
IMG_1135
本堂。江戸時代に造立されたお堂は、昭和37(1962)年7月に放火によって焼失。ご本尊の地蔵菩薩半跏像も焼失した。現在のお堂は、1970年の落慶で、現ご本尊の延命地蔵菩薩立像(国重文・平安期の作)は、本山の唐招提寺から遷されたものである。
Scan0134
ご朱印は、本堂わきの寺務所兼御朱印所にていただく。今回は、ご本尊の地蔵尊を頂戴したが、先述のとおり、洛陽三十三ヶ所観音霊場、京都十二薬師霊場など、いくつかの札所になっているので、そちらも頂戴できる。

2015年01月17日

卯木山本能寺(本䏻寺/京都府京都市上京区)

本能寺といえば、日本の歴史史上、一、二を争う著名なお寺であろう。

自分の家の菩提寺の名はわからなくとも、本能寺なら知っている・・・ということはまさかにないだろうが、そうであっても不思議ではないほどに、天下一統を目睫にした織田信長が、家臣である明智光秀の謀叛によって斃れた「本能寺の変」は、衝撃的な事件であろう。その原因や、”黒幕”をめぐっては、日本史上最大の謎、解けないミステリ といって過言ではあるまい。
IMG_1118
本能寺は、京都市中京区、寺町通御池下ルにある。法華宗本門流の大本山、「日蓮聖人門下京都十六本山めぐり」の一寺である。(お寺のHPは⇒こちら
寺の北側、御池通に面して、「ホテル本能寺」がある。もともとは檀信徒向けの宿泊施設であるこのホテルは、多くの修学旅行生を受け入れていることでも知られる。かくいう私も、中学校の修学旅行でお世話になった。 
IMG_1121
京都指折りの繁華街・寺町京極の北端にあることや、戦国の雄・織田信長にゆかりのお寺であることもあって、詣でる人も多いが、実は、本能寺の変のときには、この寺町御池に本能寺は存在していない。
IMG_1122
寺町通に面した総門。

本能寺は、室町初期の応永22年(1415)に、現在の京都市下京区、油小路高辻のあたりに創建された。通り名でいえば、南北を仏光寺通と高辻通に、東西を西洞院通と油小路通に囲まれた一隅あたりである。
日蓮聖人の流れを汲み、妙顕寺にあった日隆上人が、法華経の教義上の論争から、寺を出て、小袖屋宗句なる人物の寄進を受けて開いたのが本応寺である。

寺はそのわずか3年後、教義上の論争(=本迹勝劣の論争)で、対立する月明上人(妙本寺五世)により破却され、日隆上人は、洛中を一時離れることになる。
約10年後の永享元年(1429)に宗句の支援で再び戻り、現在の西陣のあたりに再建。 

その4年後、六角大宮の西、四条坊門(現在の蛸薬師通)の北に、檀那・如意王丸が土地を寄進して建立。この際に、寺号が現在の「本能寺」と改められた。

その後、足利将軍家の庇護も受け、洛中法華二十一ヶ寺の一に数えられる。寺域は東西南北それぞれ一町に及び、有力な町人層である町衆が法華宗門徒であったことから、大いに栄えた。

しかし、他の法華寺院と同様に、天文5年(1536)の天文法難(天文法華の乱)で焼き討ちに遭い、いっとき、洛中を離れて堺に難を遁れた。

帰洛し得たのはほぼ10年を経てのことである。四条西洞院かいわい、現在の京都市立堀川高校あたり、通りで言えば、南北は蛸薬師通と三条通に、東西は西洞院通と油小路通にはさまれた一帯であったものと考えられる。
IMG_1120
境内にある信長公廟。

天正10年(1582)6月2日払暁。織田信長は、家臣の惟任日向守・明智光秀の軍勢約三千に、宿舎にしていた本能寺を襲われ、落命した。

しかし、ではなぜ、信長が本能寺で斃れることになったのであろうか。
本能寺の公式サイトでの考察をもとに、その理由を考えてみよう。

その1:信長と住職・日承上人のかかわり。
信長は、住職であった日承上人(伏見宮邦高親王の子)と親しかったといわれる。
これは、宗教的な帰依という側面のほかに、伏見宮家出身である日承上人に朝廷との橋渡し役を望んだ節がある。上人を通して金品を献じたり、連絡役を依頼したり、というようなことがあったのではないかと考えられる。

その2:本能寺が防禦に優れた施設であったこと。
本能寺の四周は、幅約2〜4メートル・深さ約1メートルほど堀がめぐらされており、石垣や土居なども設えられていた。また、寺の東側には、西洞院川が流れていて、堀の役目を果たしていた。数次にわたる他宗からの迫害を踏まえての防禦であったのではないかと推測されるが、信長にとっても、宿所とするにはうってつけだったのではあるまいか。

その3:種子島とのかかわり。
本能寺は、布教の過程で、種子島にも多くの門徒を置いていた。この時期、種子島は、鉄砲・火薬等、最新の武器の生産拠点。本能寺ルートで依頼をすると、その調達が容易であった、ともいわれる。

もともと、信長には、「二条御新造」という京都での居館があった。現在の烏丸御池の北西あたりだが、わずか2年ほどで、正親町天皇の皇太子・誠仁親王にこの居館を譲ってしまっている(二条新御所。余談ながら、変のおり、信長嫡男・信忠は、最終的にこの新御所で討ち死にしている)。
誠仁親王と信長が昵懇であったことを考えると、この居館献上自体は別段不思議なことではないが、他面で、信長は、京洛を政治の中心地とする意思がなかったのではないか、とも考えられる。
必要があるときに上洛し(といっても、安土城からだからすぐだが)、宿を取る必要があれば、守りの堅い本能寺で充分、そう考えたのではないか。
少なくとも、次代の豊臣秀吉が築いた聚楽第や京都新城、徳川家が造営した二条城のような、大規模な居館は、この時点ではもうけていない。

IMG_1119
本堂。室町時代の建物を模して、1928年に再建。

本能寺の変で灰燼に帰した本能寺は、天正19年(1591)に豊臣秀吉の命で現在の地へ移転。これは、秀吉の京都の都市改造の一環であり、現在の寺町通界隈には、多くの寺が移転させられている。

江戸時代に入って、1788年の天明の大火、1840年の蛤御門(禁門)の変による火災で二度にわたり焼失。

これにかぎらず、本能寺は多くの災厄に遭っている。火災で焼失すること五たび、本堂が建造されること七たび、寺地移転も四度に及んでいる。
IMG_1121
もういちど、総門わきの標柱を見ていただこう。
本能寺の「能」の字。つくりの部分は、カタカナのヒを縦に重ねるのが通常である。
しかし、ヒ=火が重なることを忌避し、つくりが「去」の異体字「䏻」を使っている。ヒを去る、という意味もこめられている。
Scan0155
御首題は、寺務所の受付にて。御首題のほかに、「妙法」の御朱印もいただけるし、オリジナルの御朱印帳も数種ある。
IMG_1124
お参りがすんで、ろくろく昼ごはんを食べていなかったので、麩屋町三条上ルにある「晦庵河道屋」に入り、鴨なんばを食べる。こぶりな丼に入っているので、虫やしないにはころあいである。


聞法山頂妙寺(京都府京都市左京区)

妙傳寺から二条通を西へすすみ、まもなく川端通に出ようというところで、頂妙寺の裏手に出る。
IMG_1116
こちらは仁王門通に面した正面側。
聞法山頂妙寺は、日蓮宗の本山・由緒寺院。洛中法華二十一ヵ寺のひとつで、室町時代には足利将軍家の祈願所ともなった名刹である。妙傳寺同様に、「日蓮聖人門下京都十六本山めぐり」「日蓮宗京都八本山巡り」に属している。
IMG_1117
天保7(1836)年造営の表門。当寺は、文明5(1473)年、日祝が、細川勝益の寄進で開山した。
寺号である頂妙寺は、細川勝益の法号・頂妙院殿から採られ、山号の聞法山は、江戸時代に東山天皇から贈られたものである。
創建後は、新町通長者町、高倉中御門(現在の京都御苑の南側)へ移転する。
このころ、洛中法華二十一ヵ寺のひとつに数えられたが、天文法難で焼き討ちに遭い、洛外に追われた。
1542年、後奈良天皇から洛中復帰の勅許が下し置かれ、高倉中御門に伽藍を復興する。
ところが、天正元年、織田信長の上京焼き討ちによって、鷹司新町(新町通長者町とほぼ同じ)に移転。天正11年に豊臣秀吉の命で高倉中御門に移転するが、江戸初期・寛文13(1673)年に御所の整備により、現在地への移転を命ぜられた(その後の延宝大火後ともいう)。
天明8(1788)年の天明の大火で再び焼失。その後再興された。
IMG_1115
仁王門。運慶・快慶の手になる持国天・多聞天がまつられている。
正面側を通る「仁王門通」は、三条通の蹴上の発電所の脇から、平安神宮の大鳥居の前を通って、川端通に抜ける通りだが、それはこの頂妙寺仁王門が由来である。
IMG_1112
鐘楼。
IMG_1114
祖師堂。江戸・享和元年(1801)の造立。
IMG_1113
本堂。江戸・天保11年(1840)の造営。ご本尊は、十界大曼荼羅。
Scan0149
当寺は、俵屋宗達ゆかりのお寺で、重文の「牛図」などの寺宝のほか、宗達のものと伝わる墓もある。
「琳派四百年」で盛り上がる今年は、毎冬恒例の「京の冬の旅」での特別公開の中に入っている。
寺宝を庫裏にて公開していたので、その受付に声をかけ、書置きの御首題をいただいた。


法鏡山妙傳寺(西身延/京都府京都市左京区)

交叉点でいえば、白川今出川から東山二条へ。観光地でいえば、銀閣寺から平安神宮へ・・・これはざっくりしすぎか。
とにかく、市バスを使って移動。
IMG_1110
日蓮宗本山・由緒寺院の妙傳寺(妙伝寺/お寺のWEBサイトは→こちら)。

前にも書いたが、日蓮宗では、現在、祖山(身延山久遠寺)、霊跡寺院(千葉・中山法華経寺、東京・池上本門寺など14ヵ寺)、由緒寺院(東京・堀ノ内妙法寺など42ヵ寺)と一般寺院に分かれているが、昭和16年に本末が解体されるまで、総本山(久遠寺)、大本山7ヵ寺、本山49ヵ寺が存していた。制度としてはなくなったが、現在もこの称を許されているため、妙伝寺は、本山であり、かつ由緒寺院ということになる。
IMG_1109
妙伝寺は、別名を西身延(にしのみのぶ)という。
室町時代の文明9年(1477)に、日蓮宗の総本山たる身延山久遠寺が遠いため、身延中興の三師・日朝上人の命で、円教院日意上人が、日蓮大聖人の御真骨を分骨奉安し、同時に身延七面山に勧請されている七面天女と同木同体の霊体を安置したことが、その始まりである。
近畿以西の檀信徒のよりどころとして、西身延と称されるに至ったのである。
このような由緒から、入り口には、「日蓮上人御分骨之道場」の石柱が建つ。
IMG_1111
山門。文明の創建時は、一条尻切屋町付近に創建されたが、天文5年(1536)に起きたいわゆる「天文法難」によって灰燼に帰し、5年後に、四条西洞院に再建。のち、豊臣秀吉の命で、京極二条に移転した。このころには、摂家の一条家や清華家の四条家など、名だたる公卿の菩提寺ともなっており、第十四世・日勇上人は、その学徳の高さから、後水尾天皇の后である東福門院和子から、金紋袈裟を賜っている。また、日蓮宗の京での触頭でもあった。

現在の地に遷ってきたのは、江戸宝永年間のことで、大火により灰燼と帰したためである。
IMG_1106
「片岡碑」。明治から昭和初期にかけての歌舞伎役者・十一世片岡仁左衛門を記念しての碑である。当寺は、東京の池上本門寺などとともに、松嶋屋・片岡仁左衛門家の菩提寺である(初世の墓所である)。
仁左衛門家は、日蓮宗がお宗旨で、そういえば、池波正太郎が、大阪の定宿のホテルで、たまたま同宿した十三世(当代の父)の部屋から、朗々とお経を唱える声が聞こえてきた、と随筆に書き残しているが、そのお経はおそらく法華経であったのであろう。
そういったご縁もあってか、近年、祇園の南座で毎冬行われる顔見世の際に、四条通に面した入り口にあがる「まねき」は、当寺の客殿で書かれているのだそうな。
IMG_1108
日蓮大聖人の御分骨をまつる御真骨堂。一条家や四条家の位牌などもまつられている。
IMG_1107
本堂。江戸中期・宝暦14年の建立。ご本尊のほか、錐揉みの祖師像、七面大明神、ご開山の日意上人像などが奉安されている。
Scan0154
御首題は、庫裏にて頂戴する。WEBサイトによれば、西身延と書いた御朱印も頂戴できる由。

なお、当寺は、「日蓮宗京都八本山巡り」の一寺となっている。
これは、妙顕寺、本圀寺、頂妙寺、妙覚寺、本満寺、本法寺、立本寺、妙傳寺という日蓮宗の大本山・本山を巡ろうというもの。本法寺さんのサイトでは、「京都八本山会」として、「集印行脚のすすめ~美しい京都をめぐる法華信仰の旅~」と謳っている。

一方で、この日蓮宗八ヵ寺に、宥清寺、本能寺、寂光寺、要法寺、本禅寺、妙蓮寺、本隆寺、妙満寺の法華宗系諸宗派の本山八ヵ寺を加えた「日蓮聖人門下京都十六本山めぐり」というのもある(宥清寺については、御首題の扱いがないもよう)。

もとを発すと、天文の法難前から存した洛中法華二十一ヵ寺に端を発するようで、21ヵ寺すべてが焼き討ちにあった法難後、15ヵ寺のみが再興したが、現在の十六本山は、近代にできた宥清寺をのぞき、すべてが洛中法華二十一ヵ寺の中に属するか、源流を発している。


清泰山浄土院(大文字寺/京都府京都市左京区)

ようやく雪も小やみになった大原のバス停から、京都バスに乗り、国道367号を南下。京都市内から滋賀を経て、福井・若狭へと抜けるこの道は、「若狭街道」といい、別名を「鯖街道」とも称する。
京都バスで、高野橋東詰バス停まで出て、市バスに乗り換え。百万遍のバス停でもう一度乗り換えて、銀閣寺道バス停まで。
IMG_1101
銀閣寺道バス停は、南北に走る白川通と東西に横切る今出川通の交差点・白川今出川にある。
バスを降り、今出川通を東へ進む。橋本関雪記念館・白沙村荘などを右手に見つつ進むと、正面に聳える山がの、鬱蒼と樹木の茂る山容の一部分がきれいに刈り払われていることがわかる。

なにあろう、京の晩夏の風物詩、五山の送り火で有名なる大文字山。刈り払われている部分は、大文字の火床となる部分である。大文字山は、東山三十六峰のひとつ、如意ヶ嶽(標高472メートル)の支峰である。
IMG_1104
今出川通のどん詰まりは、銀閣寺境内への入り口。石畳の参道のとっかかりである。さすがは世界遺産、どちらかといえばオフシーズンであろうこの時期にもかかわらず、人の行き来は絶えない。

その銀閣寺の入り口のすぐ端に建つのが、清泰山浄土院。浄土宗のお寺で、「大文字寺」の通称でも知られる。
IMG_1105
京都を代表する大寺院の傍ら。立地としては申し分ないが、観光寺院ではないし、境内が広いわけでもないので、実に静かである。

そんなお寺だが、いくつか書きのべておくべき点がある。

ひとつは、この東山の地にかつてあった、「浄土寺」という寺の名を引き継ぐ寺であるという点。
現在も、白川今出川から南の一帯で、浄土寺という名を冠した住所の一帯がある。
これは、今の銀閣寺一帯付近にかけて、「浄土寺」というお寺があったことに由来がある。
平安期の寛仁3年(1019)、第25世天台座主の明救(醍醐天皇の孫)が、天台宗のお寺として創建したことが記録にみられるという。ただし、それ以前にお寺は存在していたようだ。
時代下って室町時代となり、京の寺の例にもれず、応仁の乱にて焼亡。続いて、足利8代将軍の義政が、当地に東山殿を造営することとなり、浄土寺は相国寺の西手に遷されることとなった(この浄土寺はのちに廃絶)。
その後に、残された草堂を浄土宗の僧・泰誉浄久が浄土宗のお寺として再興し、江戸・享保年間に、随誉の手によって堂宇が整えられた。

そういったことで、地名に残る浄土寺が、院には変われど残されたわけである。

もうひとつ、当寺の通称「大文字寺」について。
いうまでもなく、五山の送り火のうちの「大文字」を管理するわけである。送り火前日の8月15日には、護摩木に祈願事を書いて奉納する人が後を絶たない。
この護摩木は、送り火当日に山上に運ばれる。弘法大師をまつる山上の廟堂では、浄土院のご住職とお檀家さん方を中心にした送り火の保存会の皆さんによる法要が営まれる。夜20時をめがける点火中も、延々読経は続けられる。
IMG_1103
境内にまつられている丹後局・高階栄子の像。
高階栄子は、平安から鎌倉にかけての女性で、後白河法皇のそばに仕えた平業房の妻となったが、政変により、夫が平清盛によって処刑される。その後、夫の旧主・後白河に仕え、寵を得る。ほぼ20年にわたって、政務にも介入し、権勢をふるった。その様から、「日本の楊貴妃」とも称された。
世の転変で、朝廷を去ることになってからは、夫の旧領にあった浄土寺に住み、「浄土寺二位」と称された。
IMG_1102
本堂。ご本尊は阿弥陀如来坐像。平安時代の作と伝えられ、旧浄土寺にあった仏様とも、足利義政の持仏ともいう。
コピー ~ Scan0142
御朱印は、大文字寺らしく、大文字山と大文字が象られている。
ちなみに、京の通称寺霊場の21番札所となっており、本堂脇壇に安置されている文殊菩薩は京都文殊霊場・知恵の寺めぐりの3番札所でもある。


魚山大原寺実光院(京都府京都市左京区)

勝林院を出て、雪の中を三千院の方向へ戻る。

その道の左手、きれいに手入れされた一劃は、第82代・後鳥羽天皇、第84代・順徳天皇父子が葬られている大原陵である。承久の乱において敗れ、隠岐・佐渡へ流謫の御身となった両帝は、配地で崩御の後、それぞれにおいて荼毘に付され、ご遺骨は京へ還り、この地に葬られた。これは、後鳥羽帝の子で順徳帝の弟である尊快入道親王が梶井門跡であったがため、という。
両帝のご遺骨は、尊快入道親王が造立し、江戸中期に再建された大原法華堂に安置されていたが、明治になって、当地が両帝の陵所に治定され、大原陵として整備されると、ここに納められたと伝わる。
IMG_1096
さてその大原陵と参道を挟んで反対側にあるのが、実光院。勝林院の子院にあたる、天台宗のお寺である。(お寺のHPは→こちら

大原寺の子院には、宝泉院、実光院、普賢院、理覚院があるが、もともと、実光院は、現在の大原陵のあるあたりにあり、大正8年に、大原陵の整備されるに及び、無住となっていた普賢院・理覚院両院のあった現在地に移転した。
さらに歴史をたどれば、平安期の長和2年に、慈覚大師円仁を開祖として、9世の法弟である大原入道少将・寂源が建立、室町初期の応永年間、宗信法印により再興されたと寺伝にある。
IMG_1095
門の両脇、参道にそって、穴太積みの石垣が繞らされている。

門をくぐって、拝観料を払い、客殿へ通る。
客殿には、ご本尊の地蔵菩薩坐像が安置されている他、編鐘、サヌカイト製の石琴など、声明にかかわる楽器類が展示されている。
そして、実光院といえば、庭園・契心園であろう。客殿に南面する池泉鑑賞式の庭園である。江戸後期に築庭され、池泉には、律川から水がひかれている。また、秋から春にかけて花を咲かせる「不断桜」も見もの。
Scan0142
御朱印は、拝観受付時にお願いしておけば、帰りに頂戴できる。

さて、こちらの実光院は、私にとっては、曾遊の地である。今を去ることウン十年前。中学3年のときの修学旅行で、京都を旅した際、拝観に立ち寄っているのだ。今となっては、ほとんどどこに行ったか忘れているが、おりしも梅雨どきで、雨に煙る二年坂と実光院の契心園の景だけは、今も思い出に残っている。

あれから幾星霜。抹茶とお菓子をいただきながら、いま再び、庭を眺める。寺庭さんに、庭に下りるのを勧められたが、雪未だ降り熄まざれば室内からの見物にとどめたが、胸に去来する想いは、一入のものあり。
IMG_1130
雪にぬれながら、呂川に沿う大原女の小径を下ってくる。手ぬぐいを買い求めたり、茶店で甘酒を飲んで温もったり。


魚山大原寺勝林院(京都府京都市左京区)

三千院を出て、門前の道を奥へ。門前の店をすぎ、緩やかな石段を下って律川を末明橋で渡り、先へ進むと、勝林院の門前に出る。
いや、門がないので、ここから先は極楽浄土である来迎橋という小さな石橋を渡る。受付で拝観料を払って寺域へ。

勝林院は、正式名称を魚山大原寺勝林院といい、比叡山延暦寺の別院にあたる天台宗の寺院である。
そして、慈覚大師円仁が唐より持ち帰った声明(しょうみょう)を修めるための「大原魚山流声明根本道場」としてひらかれたお寺である。魚山は、唐において、声明の聖地と位置づけられた山東省東阿県の西にある山の名である。
IMG_1129
本堂側から入口方向。雪の降りが強くなっているのはお分かりであろうか。(積もっているのは年初の雪)
勝林院は、寺伝によれば、承和2年(835)に、慈覚大師円仁が開創。その後、円仁の法統を継ぐ寂源が、叡山の声明道場を移して中興したと伝わる。長和2年(1013)のことで、実質的な創建は、このときとみてよいだろう。

魚山の声明道場は、勝林院の東南方、三千院の奥に位置する来迎院が「上院流」、勝林院が「下院流」とされた。勝林院の院内の坊としては、宝泉院、実光院、普賢院、理覚院、龍禅院などが存したが、龍禅院はのちに梶井門跡の政所に編入され、普賢院、理覚院は近代に至る過程で他院と併さり、現存するのは宝泉院・実光院の2院である。かつて、四坊を一括した名称であった勝林院は、本堂のみを指し示す寺名へと変遷している。
IMG_1091
鐘楼。梵鐘は平安時代前記作と伝わる国指定の重要文化財。
IMG_1092
本堂。寺伝では、江戸・享保21年に焼失し、安永7年に後桜町天皇の常御所を移築したという。
ご本尊は、阿弥陀如来。平安中期の長保から寛弘年間ごろ、仏師・康尚による作像とされ、別名として「証拠の阿弥陀」の名を持つ。脇侍に不動明王立像と毘沙門天立像、さらに、近世以前に北野天満宮の本地仏であった十一面観世音菩薩像も安置されている。
IMG_1093
総欅造の本堂。欄間には立派な彫刻がある。
この勝林院は、「大原問答」で有名である。文治2年(1186)、のちに天台座主となる顕真が、圓光大師法然上人を招き、浄土宗の宗義を問答した。このことから、当寺には「問答寺」の通称がある。
また、念仏により極楽往生できるか、という問答をしたとき、阿弥陀如来が大光明を放たれて、その証拠を示したことから、阿弥陀さまを一名「証拠の阿弥陀」と称する。
コピー ~ Scan0141
御朱印は、拝観受付時にお願いしておけばよい。法然上人二十五霊跡の21番札所となっている。


魚山三千院(三千院門跡/京都府京都市左京区)

岩倉実相院を出て、京都バスで宝ヶ池まで。反対方向に乗り換えて、高野川に沿って、大原への道を北に進む。約20分で、大原バスターミナルに到着。近辺は、駐車場が目立つものの、ごくごく静かな山間いの里だ。

バスを降りると、小雪がちらついてきた。
なんとまあ、という感じだが、なにぶんこの年末年始、京都は大雪に見舞われている。予報を見るかぎり、さすがにその再来はないだろうが、なにしろワタクシ、京都に嵐を呼ぶ男、ですから。。。
IMG_1133
さっそく、大雪の名残りが、民家の庭先に。
IMG_1075
右に呂川の流れ、左にさまざまな土産物店や茶店などが並ぶ参道を歩み進むと、三千院の門前に出る。永六輔作詞・いずみたく作曲、デュークエイセスがうたう「女ひとり」の冒頭、「♪京都 大原 三千院~」の三千院である。なお、若いひとり旅の女性は少なくなかったが、恋に疲れているのかどうかは知らない。 

さて、三千院は、呂川(ろがわ)と律川(りつがわ)という2本の川に挟まれるようにして建っている。仏教声楽である声明(しょうみょう)の「呂」(呂旋法)と「律」(律旋法)からとられている。蛇足を言えば、この呂と律から、「呂律が廻らない」という言葉ができている。
IMG_1076
石段を登り、参道をすすめば。
IMG_1077
まるでお城のごとく、立派な造りの御殿門(薬医門)。2003年の修復。
IMG_1090
三千院は、天台宗三門跡のひとつに数えられ、元永元年(1118)に、堀河天皇の皇子・最雲法親王が入寺以来、多くの皇室・摂家の子弟を住持に迎えてきた門跡寺院である。(お寺のHPは⇒こちら
ただし、現在の三千院という寺名になったのは、比較的新しく、明治4年(1871)のことである。それまでは、表札にある「梶井門跡」のほか、「梶井御所」「梨本門跡」「円徳院」「円融房」などさまざまな名で呼ばれていた。

今回はここで、お寺の来歴をまとめておくことにしよう。固有名称が多いのと、お寺と大原の地の歴史を経糸緯糸で見なければならないので、少々ややこしいのである。

そもそも三千院は、8世紀に伝教大師最澄が、比叡山東塔南谷に、住房「円融房」を建てたことに始まる。この円融房のそばには、大きな梨の木が生えており、「梨本坊」と称し、そこから後世「梨本門跡」と称することとなった(旧皇族で、梨本宮家という家があったが、初代・守脩親王が最後の宮門跡であったことに因んでいる)。
山上の比叡山の諸寺院は、平地に「里坊」を構えた。円融房も、近江・東坂本は梶井の地に、里坊をおく。清和天皇の詔によるものとされ、最澄自刻の薬師如来を祀り、円融院、一念三千院の称もあったという。
「梶井門跡」の名は、この地名にゆかっているわけだが、梶井の称は、そもそも加持に使う井戸=加治井があったから、という説もあるそうだ。これが、貞観年間(西暦860年ごろ)のこと。

その後、応徳3年(1086)、白河法皇が、梶井の地に前中宮賢子菩提追善のため、御願寺として円徳院を建立。円融房を本坊とすると、元永元年(1118)、円徳院に堀河天皇の第2皇子の最雲法親王が入寺、梶井宮と称されるようになる。梶井門跡の成立である。

時代は少し下って、保元元年(1156)、梶井門跡は、都の北にある大原の地に「政所」を置いた。
これに先立つ嘉祥年間、最澄の弟子・円仁(慈覚大師)は、唐より持ち帰った声明の精舎を大原に建てているし、叡山とは山続きのこともあり、大原の地は、天台宗の僧・行者が草庵を結び、修行に明け暮れた地でもあった。これらの人びとや建てられた寺堂を支配・統括することが政所の役目であったろう。

貞永元年(1232)、東坂本の本坊が焼失。以後、梶井門跡は、転変の歳月を送ることとなる。
東坂本を振り出しに、京の東山小坂、西ノ京、東山白川、東山三条高畠、東山中山、東山岡崎と遷り、約100年の後、北山紫野・船岡山のふもと、現在の大徳寺の南あたりに、移転した。元弘元年(元徳3年・1331)のことという。
ようやく安住の地を得たようにも思われたが、応仁元年(1467)、応仁の乱の戦火により本坊焼失。難を避けて、大原の政所を仮御殿とした時期もあった。

戦国の世、織豊時代を経て、江戸時代となり、後陽成天皇の子・慈胤法親王の代、元禄9年(1697)、徳川5代将軍綱吉の寄進により、禁裏の東、河原町御車小路(現在の京都府立医大付近)に、梶井宮御殿が造立。本坊とされ、持仏堂を三千院と称した。

明治維新となり、廃仏毀釈の波は、梶井門跡も直撃する。このときの門跡である昌仁法親王は他の宮門跡と同様に還俗し(この方が梨本宮守脩親王)、750年にわたる宮門跡は終焉を迎えた。
相前後して、禁裏東の本坊は廃され、寺宝がすべて大原の政所へ遷されると、1871年には、寺そのものが大原に遷った。政所を本坊・本殿とし、いにしえの里坊、近くは梶井宮御殿の持仏堂の名にちなみ、以後寺名を「三千院」と称することとなったものである。「一念三千」は、天台宗の教義に副うところ、一念すれば三千世界を具有する、という意であろう。

さて、御殿門をくぐり、受付で拝観料を払い、客殿の中を拝観する。
客殿は、天正年間の建造。もともとは平安期から存して龍禅院とも称し、天正の造立には、豊臣秀吉が力を尽くし、禁裏紫宸殿修築の折の資材も使われているという。
IMG_1078
客殿の庭園「聚碧園」は、茶人・金森宗和の手による。こちらにも、大雪の痕跡が残っている。
IMG_1080
宸殿。梶井門跡の本尊・伝教大師作の薬師瑠璃光如来を秘仏として安置し、歴代天皇と門跡の尊牌をまつる。
大正15年の再建で、毎年5月に行なわれる歴代天皇の御回向「御懴法講」が厳修される。この法要は、江戸期までは宮中で行なわれていたそうで、現在は三千院の最も重要な法要である。
IMG_1079
宸殿前、丁寧に手入れされた苔むす庭。
IMG_1081
お地蔵さま。
IMG_1082
本堂にあたる往生極楽院阿弥陀堂。国指定重要文化財。国宝の木造阿弥陀如来両脇侍坐像が安置されている。
寛和2年(986)ごろ、恵心僧都源信が、父母追善のため、姉(妹とも)の安養尼を阿弥陀三尊に仕うべく建立したとされるが、記録に残るのは、平安後期の久安年間ごろ、高松中納言藤原実衡の妻・真如房尼が、亡夫の菩提を弔うため、として建てた、というものである。国宝の阿弥陀三尊像が、久安4年のものということだから、あるいはその点を含めた記録であったものであろうか。 
IMG_1083
こういった来歴だから、そもそもは梶井門跡の堂宇ではなかった。これも諸説あるが、大原の政所が設けられたときに梶井門跡の一堂に取り入れられたとも、境内に正式に取り入れられたのは、明治に入ってからである、との説もある。いずれにしても、単層入母屋造のこけら葺、桁行四間、梁間三間の常行三昧堂形式のお堂は、明治29年に三千院の本堂となった。
この日は、お堂自体が小体であることもあるが、内部の阿弥陀三尊を拝観しつつ、お坊さまの法話を伺う人はぎっしりであった。私も、ユーモアあふれる法話を伺って、三尊を拝ませていただく。
IMG_1085
こちらは、金色不動堂。新しく平成元年の造営。本尊として、金色不動明王を祀る。智証大師の御作と伝わり、秘仏となっている。
IMG_1132
おりから、雪の降りが強くなってきた。
IMG_1086
こちらは観音堂。
IMG_1087
どんよりと曇る山間の里に雪の華は静かに舞う。
IMG_1088
人が決して居ないわけではないのだが、とても閑か。

当寺の御朱印だが、神仏霊場巡拝の道・第106番(京都26番)札所であるほか、西国薬師四十九霊場の45番札所、近畿三十六不動尊霊場の第16番札所、京の七福神めぐり(弁財天)であり、お堂・仏様も多いので、御朱印も多様で、御朱印所(納経所)もいくつかある。
Scan0137 Scan0138
御朱印帳は、表に梨菊、裏には梶の葉をあしらった紺色の大変シンプルなもの。紙質のよいお帳面である。
コピー ~ Scan0140
まずは、ご本尊・薬師如来の御朱印は、御殿門を入って右手、通常だと拝観して最後に通る円融蔵の売店の一角でいただける。
Scan0141
続いては、往生極楽院の弥陀三尊。こちらも円融蔵売店にて。
Scan0139
こちらは、金色不動尊。不動堂の御朱印所にて。
Scan0140
こちらは聖観音。観音堂の御朱印所にて。

順路で言うと、不動堂⇒観音堂⇒円融蔵ということになるのが一般的だろう。
(私も上記の写真の掲載順は変えてあるが、実際には、不動堂⇒観音堂⇒円融蔵の順に廻っている。)
御朱印帳は、不動堂の御朱印所でお頒かちいただいた。
また、お寺のホームページを見ると、円融蔵の御朱印所なら、すべての御朱印がいただける、ともある。

言うまでもないが、そのときどき、状況が変わることもあるので、ご不明の向きは、お寺の方にお尋ねになるとよろしかろうと思う。


岩倉山実相院(実相院門跡/京都府京都市左京区)

不図思い立って、京都へ行くことにした。

とはいっても、まだ先月言ったばかりのことゆえ、少しでも経費を削減しようと、夜行バスを使うことにした。
とはいっても、まもなく40の坂が見え始めてくるおっさんには、激安のツアーバスに身をゆだねるほどの体力はない。
そこで、片道だけ、JRのプレミアムドリーム号の3列がけのスーパーシートにすることにした。意気込みのわりに、実際の果実は小さいが、そこはそれ。飯を食うとか、飲み代の足しくらいの差額は生じる。

16日の夜、23時00分に東京駅八重洲南口のバスターミナルを発したプレミアムドリーム号は、夜をかけて西走、定時よりやや早い朝7時前に、京都駅烏丸口に到着した。
バスは、2階建ての2階席で、出入口のそばだったが、寒さを感じることはなかった。座席も、大柄な自分でもゆっくり休めたし、脚元は荷物が多かったのでやや難渋したが、これは手荷物を整理しきれない自分の落ち度で、バスの所為ではない。
IMG_1065
まずは朝飯。7時半営業開始の高倉塩小路の新福菜館へ。中華そばの小と・・・
IMG_1064
まかない丼。
おなかがくちくなったところで、京都タワー地下の大浴場でひとっ風呂浴びて旅の疲れを落とし、さあ、出かけよう。

まずは、地下鉄烏丸線で終点の国際会館駅まで。そこで、京都バスの始発バスに乗り、終点の岩倉実相院まで。
岩倉は京都市街の北部に位置し、元をただせば、神が天から降臨した巨石である「磐座」(いわくら)から来ているといわれる。岩倉具視の名字は、岩倉家がこの地に所領を有していたことによるし、明治維新前に政争により失脚した際には、この地に隠棲。現在も、その旧宅が残る。
IMG_1074
というわけで、岩倉山実相院。(お寺のHPは→こちら
実相院門跡、岩倉門跡、とも称し、天台宗寺門派の流れを汲む単立寺院である。
IMG_1073
実相院は、鎌倉初期の寛喜元年(1229)、摂政近衛基通の孫で、鷹司(室町)兼基の子である静基権僧正の開基である。当初は、紫野に在り、室町時代に入って今出川小川に移った。現在の地に遷ったのは、応永年間のこと。
IMG_1066
四脚門。113代・東山天皇の中宮・承秋門院幸子女王の女院御所から、享保5年(1720)に移築されたものである。
IMG_1067
定規筋は格式の高い寺院の証し。室町後期、兵火により衰微したのち、室町幕府最後の将軍である足利義昭の孫・義尊が入寺すると、義尊の実母・法誓院三位局(古市胤子)が後陽成天皇の召人となっていた関係で、後水尾天皇の庇護を受け、さらに徳川幕府からの援助を受けて、再興された。
IMG_1068
車寄せ、奥に客殿(本堂)。四脚門と同様、承秋門院の女院御所を移築したものである。
ご本尊は、不動明王である。
後西天皇の皇子・義延入道親王の入寺以降、代々、朝廷からの入寺が続き、寺門派三門跡のひとつに数えられた。
IMG_1069
客殿内部は、なんといっても、黒光りする「滝ノ間」の床に庭の緑や紅葉が映りこむ「床みどり」「床もみじ」であろうが、こちらは撮影禁止。
IMG_1070
お庭の撮影はOK。実相院には2つの庭園があり、ひとつは、山水の庭園。
IMG_1071
もうひとつは、比叡山を借景にした石庭。
コピー ~ Scan0133
御朱印は、拝観受付にてお願いする。真ん中に、ご本尊・不動明王を示す梵字。
Scan0136
御朱印と一緒に渡されるしおり。御朱印の説明が、当寺の池に生息するモリアオガエルにちなんで、かえるのしおりに書かれている。


2015年01月12日

世良田東照宮(2回目/群馬県太田市)

所要の途次、世良田東照宮に立ち寄り、参拝。
前回の参拝は→こちら 来歴等もこちらで触れている。
IMG_1060
冬の陽射しを浴びる御黒門。初詣期間ということか、葵のご紋入りの幔幕が下げられていた。
IMG_1061
手前にある建物は拝殿。現在の絢爛を具えるに至った「寛永の大造替」以前の日光東照宮の奥社拝殿を移築したものである。
拝殿の奥には本殿がある。徳川家康公を主祭神に、9神を配祀している。
Scan0129
御朱印は、授与所兼参観受付にて。
Scan0127
御朱印帳をいただく。さすがは東照宮、三つ葉葵のご紋、葵の葉が描かれている。
Scan0128
色は何種類かあるようだが、品切れもあり、今回は緑色を選択。文字は、寛永19年に、後水尾上皇から下賜された勅額から採られたとか。
IMG_1062
帰りに、上州名物・焼きまんじゅうを買って帰る。




2015年01月08日

上野東照宮(2回目/東京都台東区)

初詣を兼ねて、上野へ出て、上野東照宮へ。(神社のHPは→こちら
IMG_1057
 譜代の名門中の名門、酒井雅楽頭忠世寄進の石鳥居(国重文)。この鳥居、天和年間にいったん土中にされているのだそうだ。忠世の孫、酒井忠清は、4代将軍・家綱の治世下に大老を務め、その権勢の強さから、「下馬将軍」の名を奉られた。その忠清は、家綱が嗣子なく薨じた際に、実弟である綱吉の5代将軍就任に反対をしたようで(理由は諸説ある)、綱吉の将軍就任後は、忠清および酒井家に対する風当たりが強くなったとのことである。石鳥居が土中されたのも、あるいはそのようなことにかかわりがあるのであろうか。
ちなみに、石鳥居が再び建てられたのは、8代将軍・吉宗の時代、享保年間のことである。のちに老中首座を務める忠清の後代・忠知(忠恭)の願いにより、再造立された。
安政の大地震や、関東大震災など、累次の災厄にも傾くことなく、今も建っている国指定の重要文化財である。
IMG_1055
水舎門。名が示すとおり、この門は、もともと社殿のそばに建っていた水舎の上屋を昭和39年に移築したものである。もとは、3代将軍家光の下で老中を務め、のちに家光の歿時に殉死する阿部対馬守重次が、慶安4年に奉納したものである。
IMG_1054
五重塔。もともとは、寛永16年に造立した寛永寺の建造物。現在は、上野動物園の敷地内にあり、昭和33年、寛永寺から、東京都に寄贈された。国指定の重要文化財で、現在都内にある江戸期造営の五重塔では、池上本門寺とこの旧寛永寺五重塔の2つのみである。
IMG_1053IMG_1052
狛犬一対。
IMG_1050
修築成った唐門と社殿。いずれも慶安4年の建造で、国指定の重要文化財である。
ご祭神は、徳川家康公、徳川吉宗公、徳川慶喜公の3神。
IMG_1051
江戸の大火や震災・戦災を潜り抜け、江戸初期、創建当初の建築物が残っているのは、やはり珍しかろう。修復も済み、面目も一新して、ますます多くの人が詣でて栄えんことを。
Scan0132
御朱印は授与所にて。
Scan0130
御朱印帳をいただく。表面には唐門と社殿。
Scan0131
裏面には、左甚五郎の作と伝わる唐門の昇り龍・下り龍。
IMG_1058
お参りを済ませ、蔵前の天ぷら・いせやで昼飯。


2014年12月08日

吉田神社(京都府京都市左京区)

百万遍の交叉点から、東大路を南に下がると、左手には、京都大学吉田キャンパスの本部構内が現れている。
そのまま歩みをすすめ、東山東一条の交叉点を左折。
しばらく進むと、吉田神社の鳥居と参道が見えてくるが、とりあえず時分どきなので、まずは腹ごしらえ。鳥居前にある天ぷらのお店「かふう」に入る。カウンター数席と4人掛けのテーブル2席という小体なお店。えび・穴子・きすの3つが入った「みっくす天丼」を味わう。1080円なり。
IMG_0986
吉田神社は、京都大学が後背に負う、吉田山のふもとに建つ神社である。(神社のHPは→こちら
吉田山は、平安京遷都の際に、都の鎮めに擬えられ、東山三十六峰にも数えられている。南北800メートル、東西300メートルで、標高105メートルというから、山というよりは、丘といったほうがよいか。「神楽岡」という別称のある山であり、古代から雷神を祀ったとつたわる。南側のふもとには、夏に訪れた真如堂(真正極楽寺)やくろ谷さん(金戒光明寺)の伽藍がそびえる。
IMG_0987
吉田神社も、その吉田山のふもとに位置している。
貞観元年(859)、藤原鎌足の流れを汲む藤原山蔭が、藤原氏の氏神である、南都・春日大社の神様を勧請したことにはじまる。この地に鎮まったのは、大内裏の鬼門を封じるためであるという。爾後、藤氏の氏神として、平安京の鎮守神として崇敬を受け、山蔭の外玄孫にあたる一条天皇が詔を発して、吉田祭を官祭とせしめ、朝廷より幣を奉る「十九社奉幣」に列せられた。これはのちに、「二十二社」という奉幣の格式となる。
IMG_0988
二の鳥居。平坦だった参道は、ここから石段か、勾配の坂を上って、吉田山の山腹にある社殿を目指すことになる。
吉田神社の神官を務めたのは、卜部氏である。卜部氏は、諸説あるが、藤原氏となった中臣鎌足と同じ流れを汲み、宮廷の神祇官の任にあった。吉田神社の神官を務めた卜部氏は、吉田神社の社務を掌ったことから、鎌倉期に至って、吉田流卜部氏となり、室町時代に入って、吉田家を名乗ることとなる。吉田兼煕は、最終的に正三位にまで叙せられて公卿に列せられ、連綿明治に至り、子孫は子爵に任ぜられている。
IMG_0999
吉田社本宮の掲額のある鳥居。奥には拝殿。
IMG_0990
神楽殿。
IMG_0989
中門。奥には、本殿がある。天文3年(1534)に再建され、慶安元年(1648)に改造されている。
ご祭神は、「春日神」と総称される建御賀豆智命(武甕槌命)、伊波比主命(経津主命)、天之子八根命(天児屋根命)比売神の4神。四棟の春日造で、第一殿から第四殿にまで分かれており、それぞれ祀られている。
IMG_0992
吉田神社には、摂社・末社も多い。こちらは、菓祖神社の入口。
ご祭神は、田道間守命と林浄因命の2神。田道間守命は、果物の源流である橘を日本に持ち帰ったとされ、林浄因命は、日本で初めて饅頭をつくったとされる。京都らしい神社といえるかもしれない。
IMG_0993
こちらは、藤原山蔭卿をまつる、山蔭神社。吉田神社を開いた山蔭卿は、光孝天皇の勅を奉じ、包丁道の確立にあたった。現在に伝わる「四条流包丁道」の始祖でもある。料理の神として、現在でも料理人などからの信仰篤い。
IMG_0994
本宮から坂道を登ってきたところにあるのが、「斎場所大元宮」である。
IMG_0995
大元宮には、本宮に天神地祇八百萬神が、東神明社:天照皇大神(伊勢内宮)、西神明社:豊宇氣比売神(伊勢外宮)と、東西諸神社:式内神3132座が奉安されている。
IMG_0997
室町中期、神職・吉田兼倶は、神道に儒教や仏教、道教などを取り入れた総合的な神道として、「唯一神道」(吉田神道とも)を創設した。
兼倶は、朝廷・幕府の庇護を背景に、自ら「神祇管領長上」と称し、既存の神道権威の上に位置して、全国の神社・神官に対する許認可権を掌握することで支配下においた。
IMG_0998
大元宮は、「日本最上神祇斎場所日輪太神宮」ともいい、吉田神道の拠点・根本殿堂として、文明16年(1484)、吉田兼倶の自邸から当地に遷座された。現在の建物は、1600年ごろ、淀ノ方の発願により、豊臣秀頼を施主として再建されたものである。国指定重要文化財となっている。
天正18年には、禁裏に在った「神祇官八神殿」を当地に遷し、神祇官の儀礼も当地で修された。
明治維新後、八神殿は、宮中に還り、 現在は、皇居の宮中三殿内の神殿に遷座している。

先述のとおり、この大元宮は、吉田神道の拠点となり、吉田家は、「神祇管領長上」として、明治時代になるまで、全国の神社の神階の授与や、神職の授位黜陟をつかさどり、日本の神祇界の「宗家」「家元」的な役割を、大きな権威をもって統裁したのである。その時代の信仰の中心はむしろ大元宮にあったといってよいだろう。現在のように、大元宮が吉田神社の末社になるのは、近代以降のことである。
IMG_0996
 こちらにも名残りの紅葉。
IMG_0991
大元宮のお参りを済ませて、坂を下りて本宮に戻ってくると、タクシーがたくさん止まっている。何事ならんと見れば、結婚式のご様子。
Scan0088
御朱印は、授与所にて。大元宮の御朱印もある様子。
当社は、神仏霊場巡拝の道の110番(京都30番)札所になっている。
Scan0087
御朱印帳も頂戴した。明るい灰色地に木の墨色、鳥居の赤色があざやかさをとどめる。
IMG_1001
時間もころあい、さあ、関東へ帰ろう。

長徳山功徳院百萬遍知恩寺(百万遍/京都府京都市左京区)

上賀茂神社から、バスで移動して、「百万遍」バス停に出る。
「百万遍」は、京都大学がそばに控え、同名の交叉点もある。京都の法則でいえば、東山今出川となるべきところだが、このような例外はいくつもあって、有名なところでは、東山四条は、「祇園」(もしくは「祇園石段下」)だし、東山通と北大路通の交叉点は、「高野」と称する。 

で、百万遍。この名の由来は、すぐそばにあるお寺の名から来ている、というわけで訪ねてみよう。
IMG_0978
百万遍の通称の由来は、鎌倉最末期、京で病が猖獗をきわめたとき、当寺8世の善阿空円が、禁裏で七日間、百万遍の念仏を唱えたことにより、ときの後醍醐天皇から、「百萬遍」の寺号を賜ったことによる。京都市民には、知恩寺という寺名よりも、百万遍さんの通称で親しまれている。
IMG_0979
山門。
そういうわけで、百万遍知恩寺である。浄土宗大本山であり(7つある大本山のひとつ)、知恩院、清浄華院、金戒光明寺とならんで、浄土宗京都四ヶ本山の一に数えられる。(お寺のHPは→こちら
IMG_0980
先ほど書いたように、百万遍の寺名は、後醍醐天皇の勅賜だが、その歴史自体はさらにさかのぼる。
もともと、比叡山の里坊で、平安前期に創建したのは、慈覚大師円仁であるという。当初は、現在の相国寺の北辺、今出川烏丸付近にあり、賀茂社の神宮寺であったところから、賀茂の河原屋とも、円仁が刻んだ釈迦如来像が奉安されていたところから、今出川の釈迦堂ともいわれたという。
その後、浄土宗を開いた圓光大師法然が、賀茂社の神職の懇請によって、草庵を結んだ。
法然が寂すると、弟子である源智が、この堂を功徳院神宮堂とし、法然の御影を安置する御影堂を築いて、法然を開山として、念仏の道場として伽藍も整備し、寺としての容をととのえた。
その後、師の恩を知る、という意味から、知恩寺の寺名が名づけられた。
寺地は、現在の一条通油小路(相国寺創建のため)、寺町通荒神口(豊臣秀吉の命による)と遷り、江戸時代の寛文2年、現在の地に移転し、現在に至っている。
IMG_0981
山門を入って左手にある阿弥陀堂(念仏堂)。阿弥陀如来立像を安置する。
応仁の乱や天文法華の乱、さらに火災などでの焼失があったうえ、数度の移転もあり、現在の阿弥陀堂は、江戸後期の再建である。
IMG_0983
釈迦堂は、山門を入って右側で、釈迦如来座像安置。江戸時代、1664年建立。もともとは、本堂として建立された。扁額の「知恩寺」の文字は、後柏原天皇の御宸筆。
IMG_0984
総欅造の本堂。御影堂、大殿ともいい、1753年の造立。
ご本尊は釈迦如来で、この他にも、法然上人座像や、快慶作の木造阿弥陀如来立像等も安置されているほか、後醍醐天皇から「百萬遍」の名を勅賜された際に賜った「利剱名號」(嵯峨天皇の勅により、弘法大師が紺紙に金泥を溶かして六字名号を利剱の形に書き、禁裏に秘蔵されていたもの)や、円周約110m、重さ320kg、珠の数1080顆の大念珠(後醍醐天皇からは540顆の大念珠を賜った)が二連吊り上げられている。
この大念珠は、日本一の大きさとして知られ、毎年4月の御忌会や毎月の大念珠繰り法要では、10人が1080顆(108個×10連)の大数珠を100回繰ることで百万遍数珠を繰ることとなる。
IMG_0985
本堂から、山門方向を見通す。こちらの山内では、毎月15日に450店以上が出店されて開催される「手づくり市」や、10月末から11月初めにかけては、20万冊が並ぶ古書まつりが開催されるなど、市民にひらかられた場となっている。観光寺ではないが、市民に愛されていることがわかる。

Scan0102
御朱印は、本堂内の授与所にて。法然上人のお名前が書かれている。当寺は、法然上人(圓光大師)二十五霊場の22番札所である。
IMG_0982
閑静な境内、冬の青い空のもとで一羽の鳥が飛んだ。

賀茂別雷神社(上賀茂神社・山城国一ノ宮/京都府京都市北区)

源光庵前からバスに乗り、玄琢の住宅地を抜ける。普通の乗用車ですら、離合には工夫がいるような広くない道をバスが淡々と進んでいく様子には驚く。
玄琢下の交叉点からはやや広い道を進み、北山通に出た紫野泉堂町のバス停で下車し、住宅街の狭い路地を歩くと、今宮神社の東の門前へ出る。
IMG_0965
今宮神社といえば、あぶり餅。家のものにせがまれ、土産を買いに立ち寄った。もとより、あぶり餅は、店先の床几に腰掛けるなり、座敷に上がって食べたほうが美味いに決まってはいるが、家のものは、あぶり餅に恋焦がれているので仕方ないのだ。
私も靴を脱いで座敷へ上がり、ストーブに当たりつつ、一服。
IMG_0966
今宮神社前のバス停から、46号系統で、終点の上賀茂神社前まで。
というわけで、上賀茂神社こと、賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)へ。(神社のHPは→こちら

上賀茂神社といえば、歴史といい、格式といい、規模(社域69万㎡という)といい、京都を代表する神社のひとつといってよい。式内社にして、山城国一ノ宮、禁裏から奉幣を受ける「二十二社」の「上七社」のうちの一社で、勅使がご差遣になる「勅祭社」でもあり、世界文化遺産にもなっている。
こちらは、一ノ鳥居である。高さ7mの丹塗りの明神鳥居で、1918年に建立。
IMG_0967
上賀茂神社は、賀茂氏(賀茂建角身命を始祖とする氏族)の氏神をまつる神社で、下鴨神社(賀茂御祖神社)とともに、賀茂社と総称される。
その創建は旧く、社伝によれば、神武天皇のころ、賀茂山麓の「御阿礼所」に賀茂別雷命が降臨したことを起源とする。
一方で、玉依姫命(タマヨリビメ)が賀茂別雷命を生み、兄である玉依日古の子孫である賀茂氏一族がこれを祀ったことを起源とする説もある(山城国風土記など)。なお、玉依姫命とその父・賀茂建角身命は、下鴨神社に祀られている(「御祖」は、別雷命の母と祖父を祀っていることによる)。
西暦678年、天武天皇の7年に、勅を奉じて初めて社殿が造営されたと社伝に伝わり、698年(文武天皇2年)に、続日本紀に記事が現れる。これが文献上の初出となる。
IMG_0968
上賀茂神社では、おりしも第42回の式年遷宮のまっただ中。上賀茂神社では、21年に1回、式年遷宮(式年造営)を執り行う。長元9年(1036)、後一条天皇の勅命により、21年ごととなったものである(ただし、長い歴史の中では、必ずしも21年周期で行なわれていたわけではなく、建物の老朽化したときに造替がなされていた時期もあるようである)。
このように、上賀茂神社は、朝廷とのかかわりも深い。
IMG_0969
天皇の行幸時の到着殿である、外幣殿。御所屋、馬場殿ともいい、桧皮葺、入母屋造で、寛永5年(1628)の式年の際に造替され、1880年に改修。国の重要指定文化財である。

行幸時と書いたが、延暦13年に桓武天皇が行幸したことを嚆矢とする。延暦13年は、西暦でいえば、794年。そう、「なくよウグイス平安京」、平安京遷都の年である。
上賀茂神社は、平安建都とともに、王城鎮護の神となり、朝廷から篤い崇敬を受けた。天皇の行幸は後醍醐天皇で中絶したものの、江戸幕末にいたり、孝明天皇が攘夷の祈願のために行幸、明治天皇もまた王政復古の奉告のために行幸している。宝永5年(1708)の大火により、ときの東山天皇は、上賀茂神社を行在所とし、三種の神器も動座した。

そしてもうひとつ、朝廷と当社の深いゆかりを示すのが、「斎宮」の制であろう。
「斎宮」は、内親王や女王など、皇族の未婚女性が、神前に奉仕するもので、「斎宮」を置いた伊勢の大神宮とともに、上下の賀茂社では「斎院」を置いた。後にも先にも、「斎宮」が配されたのは、わずかにこの両社に過ぎず、以下に朝廷から重んじられていたかが分かる。
「斎院」は、嵯峨天皇の皇女・有智子内親王に始まり、後鳥羽天皇皇女の礼子内親王まで35人を数えたが、建暦2年、礼子内親王が病のために退くと、承久の乱などの混乱の中で後任が定められず、廃絶した。

京都三大祭りのひとつである「葵祭」は、両賀茂社の例祭「賀茂祭」が正式名称であり、石清水祭、春日祭とともに三勅祭に数えられる由緒ある祭りであるが、装束行列には「斎王代」が加わり、王朝絵巻さながらの景を洛中に繰りひろげている。 
IMG_0970
神馬舎。今日は不在だが、運がよければ本物の神馬に会うことができる。
IMG_0971
二の鳥居。1951年建立で、高さ6.7メートル。一の鳥居から二の鳥居までは、幅6メートル、長さ160メートルの表参道が広がっている。参道の両脇は、芝生に覆われていて、広々とした心持ちとなり、鬱蒼とした社叢に包まれる下鴨神社とは違った意味で、心が安らかになる。
IMG_0972
楽屋(がくのや)。外幣殿と同様、寛永の式年遷宮で造営された。檜皮葺、切妻造。神仏習合であったころ、僧が用いていたそうである。国指定重要文化財。
IMG_0973
土屋(つちのや)。到着殿ともいい、神官の祓所として使われており、それは現在でも同様である。国指定重要文化財。
IMG_0974
橋殿。舞殿ともいい、文久3年造営。御手洗川(ならの小川ともいう)の上を跨いで建てられている。
葵祭の際には、勅使の拝殿となる。国指定重要文化財。
IMG_0975
細殿(ほそどの)は、拝殿である。国指定の重要文化財。
現在の建物は、江戸時代、寛永の造営により造立。かつては天皇や上皇、斎王のみが昇殿を許されていた。

そして、細殿の前の円錐形に盛られた砂は、ある意味で上賀茂神社の有名な風景ではなかろうか。
これは、立砂(たてすな)といい、清めの砂である。賀茂別雷大神の御神徳に、方除けがあることによる。
写真からは見えないが、先端には松葉が挿してある。拝殿がなかった時代に建てられていた柱の根元を固めるための盛土の名残りともいい、正月飾りの門松は、これを起源にしているともいうし、盛り塩の起源ともされる。
また、この立砂は、ご神体で神社の北に位置する神山(こうやま)を象ったものともされる。神山は、賀茂別雷大神が降臨した地。神の依り代である「神籬」でもあるともいう。
IMG_0977
細殿の後ろ方で流れを合わす御手洗川と御物忌川のいずれかを渡れば楼門である。
これも寛永の造営で建てられたもので、国指定の重要文化財の指定を受けている。
IMG_0976
中門。これも寛永の造営での建造で、国指定重要文化財。通常は、中門での参拝となる。
この奥に、賀茂別雷大神を祀る本殿と、造替の際に神様をお遷し申し上げるための「権殿」が並立して建てられている。文久3年の造営で、国宝。
Scan0105
御朱印は、楼門を入ってすぐ左手にある授与所にて。
当社は、神仏霊場巡拝の道102番(京都22番)である。 

鷹峰山寶樹林源光庵(京都府京都市北区)

01202eea4cb251c44f933ce3a729ddf8d2fece2f1c
光悦寺を出て、バス停への道を少しだけ戻り、源光庵の門前に至る。
0117a5d50775caf2f58dc1b0d134333edaab4093f4
源光庵は、曹洞宗の禅寺だが、もともとの成り立ちは、臨済宗大徳寺派の寺院である。
室町初期の貞和2年(1346)、大徳寺開山の宗峰妙超の跡を嗣いだ徹翁義亨の隠居所として開創。
そのような性格もあってか、その後衰微したが、江戸時代に入って元禄7年(1694)、加賀金沢の富商である紙屋庄三郎・中田静家が寄進し、加賀大乗寺の卍山道白禅師の手で、再興した。この際に、宗旨を曹洞宗に改めている。
なお、紙屋庄三郎は、加賀藩御用達の干菓子商のかたわら、町年寄を務める名士の家柄。さらに先祖の中田庄三郎は、織田信長の料理人を務め、鷹峯の地に屋敷を拝領して、金沢で商いを始めてからも、鷹峯と往き来していたというから、先祖故旧の地の寺に寄進をしたということになる。
01b1614cfff35c2ea5bf64043397e4fcc135d257a5
 「開運霊芝観世音」の石碑。この観音様は、ご本尊の脇立ち。
卍山道白禅師が、天和元年(1681)、京の南、宇治田原の山中で、茸の一種である霊芝からできた観音像を感得。ときの後西天皇も篤く敬われ、宮中に祀られていた時期もある。
01c1b2109c3293f72c16e87b170dca85f6414a89c0
山門。当寺の別称である「復古禅林」の掲額がある。江戸中期の造立と伝えられ、二層目には釈迦牟尼仏と十六羅漢像が安置されている。
01db151a23bc8ffba16d599848625ad7aa9ff316b6
鐘楼。
012e742138a2b49c6826045985374dceb44fa2a172
源光庵は、紅葉でも有名。この秋、JR東海の「そうだ、京都行こう」のCMで採り上げられていた。さぞや多くの人が訪れたことであろう。
0143578150f42d61aa9a2c8f61c5a9ad86d48b451c
本堂。本尊は釈迦牟尼仏、脇立ちに阿難尊者・迦葉尊者・霊芝観世音をまつる。
元禄の再興のおり、紙屋庄三郎の寄進により建立された。内部は400円で拝観可能。
010330a6e6a80eff7bf480abc099d7bebbe6ccd17d

01de3a70763b1f80667bf2d6fd741ffc032623f341
この本堂、内陣前でのお参りは当然できるわけだが、それ以外に特色が2つある。
ひとつは、この天井。この天井は、伏見城の遺構を遷したものといわれている。伏見城といえば、関ヶ原の戦いの前哨戦の段階で、徳川家の守将・鳥居元忠以下の兵卒が、西軍の軍勢と戦い、1800人の軍勢が城を枕に討ち死にした。
そして、その際、城中で380ばかりの人びとが自刃して果てている。城内は血の海、床には血に塗れた人びとの人型や足跡が残された。
この床板は、江戸城伏見櫓をはじめ、京都・東山七条の養源院や大原・宝泉院などに移築されている。
そしてこの源光庵にも床板が移されている。世に云う「伏見城の血天井」、鳥居元忠一統の御霊を慰めるべく、床板が天井板として使われているのである。
01a8580502c370632d22e1a1126b8f9835bc816a5c
もうひとつの名物は、「悟りの窓」と「迷いの窓」。本堂から庭園に向かって丸窓と四角い窓が開けられており、それぞれに仏教的な意味が盛り込まれている。
こちらは「迷いの窓」。人間の生涯を4つの角であらわしている。
0167f2a5b8a1d857e40774c8914e2a583913e9d465
こちらの写真は、丸窓の「悟りの窓」。円は大宇宙を示しており、「禅と円通」をあらわしている。
01119548e0d090c2ccdcae3be4b7ac6e2c2fa382a2
庭園。葉末を落とした木も多い。
0162a9a9eccfaebd17e903f546b795b627c430359a
庭園は本堂の北側。釈迦谷山を借景とした枯山水庭園。
Scan0100
御朱印は、拝観受付にて。

大虚山光悦寺(京都府京都市北区)

疲れで、早々に四条西洞院辺りのホテルに閉じこもった、翌朝。
ゆっくり休養して、朝の早いうち、市バスの46系統で、千本通を北上。千本北大路を過ぎて、佛教大学のバス停で下車。6系統の玄琢ゆきに乗り換える。
バスを待っていると、山手のほうから、スクーターに乗った勤め人が、学生が、大挙して駆け下りてくる。その様子は壮観。ちなみに、四条烏丸付近で標高40メートル弱、この佛大前付近でほぼ100メートル。これから向かう鷹峯は、150メートルを超える。これでは、行きはともかく、帰りのことを考えると、自転車というわけには行かないだろう。
さて、6系統・玄琢行きは、すっかり住宅街の狭路(といっても、乗用車同士ならすれ違える程度だが)といった趣きの千本通の坂を登っていく。なお、バスの行き先になっている「玄琢」は、鷹峯地域の東方一帯の地域の名前で、江戸初期の医師・野間玄琢の名にちなんでいる。人名にちなんだバス停で言うと、京都駅に近い塩小路通沿いに、JRバスの「三哲」バス停がある。これは、江戸初期の天文学者で囲碁棋士の渋川春海=二代保井算哲にちなんだもの。現在の塩小路通は、かつて三哲通と称され、例の通り名を唱えるわらべ歌にも、「六条三哲通り過ぎ」の一節がある。閑話休題。

01ce534e49409d1e0e81fe7fb5ea094d4fc76256fc
鷹峯源光庵前バス停でバスを降り、西へ少しだけ歩く。
鷹峯小学校の前を通り過ぎたところで、左手に瀟洒な佇まいの石畳の参道が現れる。
本阿弥光悦ゆかりの大虚山光悦寺である。
017d0568fc258405c8efbc093bb0900cb8f1318655
本阿弥家は、刀剣鑑定の家柄。光悦は、その分家筋に生まれ、書や陶芸などで名を成した。ことに書においては、近衛信尹、松花堂昭乗とともに、「寛永の三筆」のひとりで、当時の大宮びとや、京の富商・茶屋四郎次郎、角倉素庵、灰屋紹益などとの交流も深く、当代きっての文化人であり、分野を超越した総合芸術家といってよい。京大教授を務めた歴史学者である林屋辰三郎は、もはや古典的名著といってよい「京都」(岩波新書)で、「光悦こそは、京都の歴史が生んだ最もすぐれた文化人であった。」と記している。

その光悦が、一族や工匠たちを率いて、洛北・鷹峯の地に移住したのは、光悦57歳の元和元年(1615)、徳川家康にこの地を拝領してのことである。
当時の鷹峯は、京の外れで、「辻斬追いはぎをもする所あるべし」と言われるような土地。その地に遷ってきた理由には諸説あるが、洛中に飽きて、辺陬の鷹峯を所望したという説の他に、家康が当時関係が円満でなかった朝廷との交誼の深かった光悦を洛北の地に追ったという説や、光悦が、大坂の陣において、大坂方に内通した廉で切腹させられた茶人・古田織部正重然の茶の湯の弟子であったところから、これに連坐したというような説、逆に、旧周山街道の警護に当たらしめたとも、洛北から西国大名の動静を監視させたとの説もある。

いずれにせよ、光悦はこれ以降、鷹峯の地に住み暮らし、芸術の世界に一層没頭することになる。
01be539e61371a5114524f0370ce19b235636f8836
光悦たちが開いた鷹峯の芸術郷は、「光悦村」と称されたが、芸術郷の側面の他に、法華宗徒の集落「現世浄土」という面もあった。光悦をはじめ、本阿弥一族・一門は、法華宗を篤く信仰していたからである。
現在の光悦寺は、もともと光悦の閑居であったといわれ、その歿後に彼の菩提を弔う寺となった。当然、現在も日蓮宗のお寺となっている。
013de14176df1cf50fe5441820207be69f66c2c2e1
「延段」の続く参道。両脇に植えられた樹木は、赤く染まった葉末をすでに地面に横たえている。
0194e063715feecd755b3d3d80f41a69aea6b28130
拝観料を払い、門をくぐって右手にある本堂。御本尊は、十界大曼荼羅。
01f9aee4efe69352cad2f4a0aa223c3f0f46902be2
茅葺の鐘楼。
01c192be4c50002ce8e39b0f1f3d4635ab410cbfb9
三巴亭。大正10年に建築された茶室である。一隅に、光悦の木像を安置した一室である「光悦堂」がある。
01e5ef1852c3499b3860cda5b76a39c6fe8c75242b
茶室「大虚庵」。大虚庵はもともと、光悦の居室で、歿したところであるが、現在のものは、大正4年に再建されたものである。
0135ddf3d11e25f2a646dbb55cfcb07a9abb24a464
光悦垣。この写真では判らないが、徐々に垣の高さが変わるさまから、臥牛垣とも称する。
013e9cb1c63a691f3555e3fac99f9ef4c271edbcbe
手入れされた庭園に、冬の陽射しが注ぐ。
0157e744995f2ed352b450973d1717400a59e259a9
光悦の墓所。光悦寺が寺として開創されたのは、光悦歿後約20年、明暦2年(1656)のこと。堀川寺ノ内・本法寺の日慈上人を開山とする。
0151581756291b033d8284e0f9b38a05ae054894f90121c74fd6c17641ce760cbe53f462e71d6cef2961


01e5c03c42991086da32c60aef8ec07e8b86e035cc
茶室「翹秀軒」。
01e41f80b0927a45bcdee84c5cdab33aa778e1a747
鷲ヶ峰。
01bc653ec568da8857b3225eaee3b18c268ef8e6f2
鷹ヶ峯。
01b5a25b8d8dadb2f9102431035eabc006f92a057f
大虚庵を別角度から。
01ac64df46ba6745c7954fd427c4d0dee560246a5f
冬の青い空。
018afdffd75beaf6785d419e8f632a86b251747ef2
赤い色をとどめる。
Scan0095
御首題は、拝観受付にて。

紅葉の時期ならば、人出もさぞかし、と思うが、9時前ということもあってか、人もおらず静か。冬の朝の柔らかい日差しを浴びて、洛北の閑雅を楽しんだ。

2014年12月07日

光明山歓喜院引接寺(千本ゑんま堂/京都府京都市上京区)

醍醐寺から、再びコミュニティバスで、地下鉄東西線の醍醐駅へ。烏丸御池で南北線に乗り換え、北大路駅へ出て、市バスで千本北大路まで。
今日の後半は、東西の通りに入り込みながら、千本通を下がってくる予定である。
千本通、といえば、私もふくめて、観光客にはあまり馴染みのある通りではないが、平安京の朱雀大路がその淵源である。
往時、嵯峨化野、東山鳥辺野と並んで、京の人びとの葬送の場所であった蓮台野は、現在の船岡山と天神川(紙屋川)のあいだの地域であった。そこにつながるのが、今の千本通で、亡くなった人たちの菩提を弔うため、千本の卒塔婆を立てたことが、通りの名の由来となっている。
01720e39d55c4f02ddf1adcdd7abb038b742f01c74
千本鞍馬口交叉点から下がったところにあるのが、高野山真言宗のお寺、光明山歓喜院引接寺(いんじょうじ)。正式名称よりも、千本ゑんま堂(千本えんま堂)の通称のほうが有名であろう。「引接」は、引導と同じ意味である。(お寺のHPは→こちら
京都には、このような「通称寺」がたくさんあって、それらのお寺のなかでは「通称寺の会」を組織しているお寺もある。この引接寺も、通称寺の会に加入している。
01ba37a979d9cdb6c7b425adab9e5148c7083b9795
鐘楼。
内部の梵鐘は、南北朝時代のもので、京都市指定文化財となっている。
当寺は、寺伝によれば、平安時代に。自ら刻んだ閻魔大王像を祀った祠を建てた、小野篁を開基とする。小野篁といえば、禁裏に仕える公卿であり、百人一首にも名を残す歌人でもあるが、伝説では冥界と行き来をなし、閻魔大王の裁判の補佐を務めていたとか。
その篁が、後の盂蘭盆会に発展する「精霊迎えの法」の根本道場として閻魔大王像を祀ったのがそもそもであるという。
01495d72c4ba404ec51344b694869f8e00975137ba
本堂。本尊は、閻魔法王像。現在の像は、応仁の乱の際に焼け、長享2年、仏師定勢によって刻まれたもの。

小野篁の開基後、本格的な仏教寺院としての成り立ちは、寛仁元年(1017)、かの恵心僧都源信の門弟である定覚上人が、開山したことをそのはじめとする。
このときに、「諸人化導引接仏道」の道場とすべく現在の寺名となったが、篁以来の来歴もあることゆえ、通称名のゑんま堂として今も親しまれている。
Scan0101
御朱印は授与所にて。「千本頭」はせんぼんがしらと読み、かつて千本通が朱雀大路であったころ、朱雀のいちばん北詰めを、朱雀大路頭と称したことから来ているものであろう。
通称寺の会霊場の札所になっているのは書いたとおりだが、尼寺霊場の札所にもなっている(詳細はこちら)。

千本ゑんま堂。観光寺院ではないし、広大な寺域であるわけではないが、その歴史は長く、宣教師のルイス・フロイスが「日本史」にその様子を書き残していたり、後小松天皇や足利義満も足を運んで愛でたという普賢象桜、長く受け継がれてきたゑんま堂狂言など、興味深い点も多い。


さて、朝早くからの歩きでかなり疲れてしまった。
その割に、お昼もまだで、今日はこのあたりで打ち止めにして、四条天神川の新福菜館でおそ昼にし、そのまま四条西洞院の宿に投宿することにする。 せっかくの京都、めいっぱい愉しみたいのは山々だが、やはり無理は禁物。アクセルを緩めるときには、ゆるめないと。

深雪山醍醐寺(京都府京都市伏見区)

随心院から、旧奈良街道(醍醐道)をバスで南で醍醐寺へ。
ちなみにこの乗ったバスは、「醍醐コミュニティバス」といい、醍醐地域の住民が立ち上げた「醍醐コミュニティバス市民の会」が、総合病院や大型商業施設、そして醍醐寺の協力を得て、行政からの補助金なしで走らせている路線バスである。醍醐地域をかなりくまなく走り、住民の生活の、そしてわれわれ外来者の観光の足にもなっている。
016447e1745a24d4e4e8c7d89b241ab37e4306cf62
深雪山醍醐寺は、世界文化遺産に登録されている真言宗醍醐派の総本山。醍醐山の山麓に200万坪もの広大な敷地を持つ。これは、京都でも有数の広さである。この写真は、総門である。(お寺のHPは→こちら
01462a09848fca0eb9a09adb878c1fd790537f6ae7010e8090485b5f26045e5d52c219b3c833572ddcf3
2本の標柱。
このうち、「西国第十一番霊場登山口」の標柱については、説明が必要だろう。
西国三十三ヶ所霊場の11番札所は、醍醐寺准胝堂であるが、この准胝堂は、醍醐山の頂近く、「上醍醐」と呼ばれる寺域にある。標高は450メートル程度であるが、約1時間ほどの登り道であり、西国三十三ヶ所きっての難所と呼ばれる。

醍醐寺は、貞観16年(874)、弘法大師空海の孫弟子・理源大師聖宝が、上醍醐山上に、准胝観音像・如意輪観音像を安置し、小堂を建てたことに始まる。
ちなみに、このころ笠取山と呼ばれていた山が、醍醐山になり、寺名も醍醐寺となったのは、開山の伝説として、地主神である横尾明神の示現で得た霊水を醍醐水と称したからといわれる。醍醐とは、仏教の最高の真理の意である。

その後、延喜7年(907)、醍醐天皇の勅願寺となり、薬師堂、五大堂が建立され、前後して如意輪堂、准胝堂、開山堂などとともに、醍醐天皇の厚い庇護を受け、上醍醐はその山容をととのえることとなった。
016f09204ff1b7900457c333d2b4675d143e0d6512
「上醍醐」の隆盛と前後して、醍醐天皇によって、醍醐山の山麓にも大伽藍が展開された。こちらを山上の上醍醐に対して、「下醍醐」と称する。
010e915ab49bac71346af1855776ddd5ac38ff13eb
そのうちのひとつ、三宝院門跡。弥勒菩薩坐像を本尊とする醍醐寺の塔頭寺院であり、修験道当山派の総本山を兼ねる。
室町時代には、三宝院門跡が、歴代醍醐寺座主を務めるなど重きを成したが、応仁の乱で荒廃。織豊時代に至り、「醍醐の花見」の縁もあり、豊臣秀吉・秀頼父子の助力で再興した。
写真は、国宝となっている唐門。1599年に創建された。伏見城の遺構と伝わる。「複弁十二葉の菊花紋」と「五七の桐」紋が打たれ、勅使のみ通ることを許された。2010年、創建時の姿に修復された。
01e1199fa48702cdfec97ca4e934f675ae177bc5eb
仁王門。西大門ともいう。平安中期に、西大門として建てられたのが濫觴である。応仁の乱での焼失後、慶長10年(1605)、豊臣秀頼により再建された。豊臣家は、寺社の寄進に熱心であったが、とくに醍醐寺の再興に尽力したのは、一説には、秀吉が関白になったとき、関白を辞してその位を譲ってくれた二條昭実が、醍醐寺80代座主・義演准后の実兄であったから、つまり、関白就任の「恩返し」という要素もあったのでは、とされる(ついでにいえば、皇后・皇太后・太皇太后の三后に准ずる准三后の宣下が義演に下ったのは、秀吉の関白任官の翌日であった。秀吉と醍醐寺の深いかかわりを感じさせるエピソードである)。
01b5b7936d5c4958de8bf0f43d3df9e88bc111b7ce01411e6711dfc8d56d93422833fa4e198898cf3fdd
門内に安置されている金剛力士像は、平安時代後期に、大仏師の勢増・仁増により造られたもので、醍醐寺の南大門にあったものを遷したもの。国重文。
013c86bb54c565f824f4cb8ae42400980aea472cf4
紅葉の時節は、大勢の人が行き交ったであろう参道も、12月の今はだいぶ人も少ない。
010bed0ab6866614633358c746a64062b34583db0f
さはさりながら、名残りの色づきも。
01894d1a1c0fa6a9b1f61298782d1b88a923c3ae33
醍醐寺の総鎮守である清滝権現を祀る清滝宮本殿。国重文。
永長2年(1097)に、上醍醐の清滝宮より勧請。応仁の乱で焼失後、永正14年(1517)に満済准后により再建。011c55a801c47ea01db129df3cbfd5feb62ad577ae
清滝宮拝殿。江戸初期の建立。
01fcaccc64bde4586051578e18a9f47e22dd46d448
醍醐寺の本堂にあたる金堂。国宝に指定されている。最初の建物は平安時代の延長4年(926)に醍醐天皇の勅願により建立し、釈迦堂と呼ばれた。永仁、文明の2回の焼失を経て、豊臣秀吉が、紀州湯浅の満願寺本堂を移築した。本尊は薬師如来坐像。
012a5e8cbbc754a9611f0b1984e870b39c37ce951f
五重塔(国宝)。醍醐天皇の第一皇子・朱雀天皇が、父帝の菩提を弔うため、承平6年(936)に着工し、醍醐帝第二皇子・村上天皇の御代、天暦5年(951)に建立。
高さ38メートルのうち、相輪の部分が13メートルある。
01c3e4858e54b802f658a9e0769016308ff5c85f9e
応仁の乱をはじめ、数々の災厄を受けている醍醐寺だが、この五重塔は、創建のころの様子を今にとどめる。とはいえ、過去には大きな地震にたびたび遭遇しており、天正地震のごときは、塔を傾けたという。しかし、その都度修理を重ね、現在は京都府下でもっとも旧い木造建築物とも、最古の五重塔ともいわれている。
013863ca67e59bf506d00a036510069408484f316e
祖師堂。弘法大師空海と理源大師聖宝を祀る。慶長10年(1605)に、義演准后により建立。
01ea6cdb54fbf4105a7a4f46a0f92d1b30ca27f04b
日月門。上醍醐への入口にあたる。
01d2c5324f56659b6069f825184af7d79796d3dfdb
なお、一朱とどめる木々。
01000ee7e9f0f034529b5e1113feda98efd9b906ca
鐘楼。
0132ee9f9c33f5fcd07b5dcdb13ff7f0b49fdd9d84
観音堂。もとは、大講堂といい、実業家・山口玄洞の寄進により醍醐天皇一千年忌を期して、1930年に建立。真言僧侶の育成道場であった。
ところが、西国三十三ヶ所十一番札所・上醍醐の准胝堂が、2008年8月24日夜の雷災で全焼してしまったのである。このため、札所本尊なる准胝観音像を奉安し、准胝堂再建までのあいだ、仮の観音堂となっている。
したがって、今現在、西国札所を巡っておられる方は、上醍醐まで登らなくても、お参りができる、ということになっているわけである。
Scan0094
御朱印は、観音堂内にて拝受。今回は、真言宗十八本山の納経帳にいただく。
こちらでは、総本山醍醐寺・真言宗十八本山・西国薬師四十九霊場39番札所、神仏霊場巡拝の道126番(薬師如来)、西国三十三所霊場・11番札所(准胝観音)、近畿三十六不動尊霊場23番札所(不動明王)、役行者霊蹟札所(役行者)の御朱印がいただける。


牛皮山隨心院(京都府京都市山科区)

01c546dcd152716fcfbe73098548ce72ffee3a4c07
勧修寺から随心院へ。随心院は、真言宗善通寺派の大本山で、小野小町ゆかりのお寺としても知られる。(お寺のHPは→こちら
01e107fe6657376f60d955c1096668128906973467
総門。宝暦3年(1753)に五摂家・二條家から移築されたと伝わる。
随心院は、正暦2年(991)に仁海僧正が開基した牛皮山曼荼羅寺にそもそもの流れを持つ。
このお寺の名は、仁海僧正が夢に、亡母が牛に生まれ変わっていることを見、牛を飼ったが、その牛が死んでしまったため、それを悲しみ、牛皮に両界曼荼羅図を描いて、本尊としたことによるという。
01be82bcce8b9f51ba270a86854202723d08150b5e
定規筋。曼荼羅寺開山の後、5世住持・増俊阿闍梨が子房として開いたのが、随心院である。
随心院は、順徳・後堀河・四条天皇の勅願所となり、後堀河天皇の御代、寛喜元年(1229)に門跡とする宣旨が下り、以降、五摂家より入寺した。
01d8b3bdc53a87129e33a9216b7788066465dd50a3
薬医門。江戸・寛永年間の造営。摂家の九條家ゆかりの天真院尼なる女性の寄進によるもの、とのことであるが、この女性は、寺域に供養墓のある天真院従二位本光圓成大姉こと、関白九條幸家の北政所・完子(さだこ)であろう。
完子は、羽柴秀勝(豊臣秀吉の甥)と浅井長政の娘・江の子。秀勝歿後、江が徳川秀忠に再嫁したため、完子は江の姉で秀吉側室の淀の方が引き取り、九條家に嫁がせた。
なお、この完子を通じ、現在の皇室には、浅井家及び豊臣家の血が続いている。


さて、おりしも門前の参道では、「随心院小町てづくり市」が開催中。こちらは実行委員会の主催で、お寺は直接かかわっていないが、木工、陶芸、布、紙工芸、アクセサリーなど工芸品、飲み物食べ物に野菜にお花など、多岐にわたるお店が出店。そこまで大きくはないので、見て廻るにもころあいで、アットホームな市である。
0143c03392fad721f5723d4955130abd3e00cfdf69
小野小町の歌碑。百人一首の「花の色は うつりにけりな いたずらに わが身世にふる 眺めせしまに」が刻されている。
山科小野の地は、妹子・道風・篁などを輩出した小野氏の根拠地であると伝わる。小野小町もその一人で、出生地に山科小野の地を擬する説があり、後宮への出仕を退いた後もこの地で過ごしたとされる。随心院には晩年の姿を描いているとされる「卒塔婆小町」像や、化粧の井戸などの遺跡が残っている。
0142db28e4f8e0791f272848f37d681cd9398492ba
庫裏。
01fe60d04af719ff56f439b38cea37e7b484e945ac
輿や長持(写真に写っていないが・・・)などが展示。
0169792c6827d3c860867d33e2ef7de3dd1b6d5912
奥書院。
01592c105f8d23af08413d94b174bdff4a5f4de205
庫裏に面した庭。
01816b405ed0e8fe13a4b04278661551ce70057e3a
縁先に鐘が吊るされている。
016e84c745b1c1d7e7340a7ef39b9e04e1c6b68292
廊下には駕籠が吊るされてある。
018e083501b0345feacd596248026e80146d6e2fa7
大玄関の内側から薬医門方面を見る。大玄関は薬医門と同様、寛永年間に天真院尼の寄進により造営。
01c548cb0f47c4c9bf437c83e674c34c1ce2886ccd
本堂。本尊は如意輪観音坐像。他に、阿弥陀如来坐像、金剛薩埵坐像、薬師如来坐像、釈迦三尊像、不動明王像、弘法大師坐像、仁海僧正坐像などが安置されている。
この本堂は、応仁の乱での焼亡により、寺地を唐橋九条、相国寺前などに遷して後、安土桃山時代の仕舞い頃、曼荼羅寺旧跡に再興された。
01d2ee501c3557f07751175f78c5f1010490fe997e
本堂前のお庭。
013217a18a96e2c1b864104227148a106f9bdf7cbe
石塔も建つ。
Scan0093
御朱印は拝観受付にて。こちらは、真言宗十八本山納経帳にいただいた(11番札所である)。
012e5c1f7e7fcbd45c675a0864202044cf66a9582a
家人へのおみやげに、御朱印帳をお頒けいただく。ベージュ色の洒落た色合い。表紙の触った感じもちょっと独特の感触。


亀甲山勧修寺(京都府京都市山科区)

抱えていた大きな仕事が終わったので、束の間の休息で京都行き。
暗いうちに家を出て、新幹線で一路京都。東海道線で山科へ戻って、地下鉄で小野駅まで。
冬の朝の柔らかい日差しを浴びながら、ぶらぶらと歩く。
0179259f8af13a02f5f083669856e9e5f7dcac1e52
最初に訪れたのは、真言宗山階派の大本山・勧修寺。醍醐天皇を開基とし、開山は東大寺の承俊律師。門跡寺院として重きを成した。
ちなみに、寺名は、「かじゅうじ」と称えるのが正しいが、地名では「かんしゅうじ」と読むものもあり、寺の造営にかかわりあった藤原定方の流れを汲む堂上公卿・伯爵の勧修寺家は、寺に因んで「かじゅうじ」と呼ぶが、古くは「かんじゅじ」と読んだことも記録に残っている。
01f99d9c826a019d628a15fd6f81755969eb4831a5
山門に至る参道と築地塀。
01bec3e0c2f40119bc618c986160a95a68fc349289
山門。勧修寺は、もともとは平安の豪族・宮道弥益(みやじいやます)の邸宅であったが、昌泰3年(900)、醍醐天皇が弥益の孫である、生母・藤原胤子の追善のため寺を建立させたのである。造立には、胤子の同母兄・右大臣藤原定方が命ぜられて当たった。勧修寺の寺号は、胤子の父・藤原高藤の諡号にちなむ。
01006e88d6f1d41394c80dae719ead0fa9dcbc9dfe
さざれ石。学術的には、「石灰質角礫岩」といい、小石の隙間を炭酸カルシウムや水酸化鉄が埋めて、ひと塊になる。
01350b2fbd7bc86c237151abec13424f8d3bd25061
宸殿。明正院の御所・対面所を移築。
応仁の乱での焼亡、豊家による寺領削減、伏見街道の開通による寺地縮小によって衰退したが、江戸時代になって、朝廷と徳川幕府の支援により復興した。
018ccb0f75fd843a2faf34d11c2b26485204a04558
正面が書院(重文)、写真には写っていないが、本堂は左奥にある。
書院は、後西天皇(明正天皇とも)の御殿を遷したもの、本堂は、霊元天皇の仮内侍所を移築したものである。ご本尊は、千手観世音菩薩。醍醐天皇の等身大とされる。現在の像は、室町時代の作。
01e633c7a2dbd90e5a632c4ceed59ed3812ec59c55
冬の日差しを浴びる氷室の池。広さ6600㎡。
01fa1b79b630fb4799e67d1fc50b63fc96e863e17e
奥に観音堂。手前には、水戸徳川光圀寄進の勧修寺型燈籠。
0143d3e1a103910c3c5013184ecfa014f4ab403310
大悲閣(観音堂)は昭和の建造。
0157e0d0e87376ac34fcae724cc11e9a5f8e50f8b1
大悲閣の右奥のほうの見当に五大堂と本堂がある。
01002a42d2ba7fde0596ed81dc2205f6e49ae1b18f
お納経・御朱印は、南側にある佛光院にて。
013e5149440b44b2dfefa2a7155c55123ae56f65d6
佛光院は、自らも災厄のため、双腕を喪った大石順教尼が、身体障害者を救うため、相談所を開き、勧修寺塔頭のあったこの地に、佛光院を開創したことによる。本尊は千手観音。
01f1fc3ffae634d806fd810d205f6710a6a3faec0c
門横には、三世市川寿海の献燈が。寿海は上方の歌舞伎役者で、戦後を代表する時代劇スターのひとり、市川雷蔵の養父である。
Scan0092
今回は真言宗十八本山ということなので、日付はなし。


2014年09月06日

居木神社(東京都品川区)

JR大崎駅そばの居木神社(いるぎじんじゃ・神社のHPは→こちら)にお邪魔する。
01e84154f70914b7e7f23a0bfe42d51ccb4689257c
居木神社は、その創建の時期は不詳ながら、往古は、JR大崎駅をはさんで反対側、目黒川にかかる山手通りの居木橋のたもとにあったといわれる。「居木」という地名の由来は、そのころのお社のそばに、「ゆるぎの松」という大松があり、後世転訛して「いるぎの松」となり、そこから、地名になった、ということのようである。
01bbba53c229dec166ae9831688d97de1f93d4c3dd
表参道の入口。
神社は、江戸初期に、目黒川の溢水を避けて、当地に移動したといわれる。その際、村内に祀られていた貴船明神、春日明神、子権現、稲荷明神を合祀、五社明神と称した。現在の居木神社の名前になったのは、明治に入ってからである。
01466b5cc64e56b60823144c9f0f3a561aa88f25c5
表参道を進んでくると、鳥居と社殿が見えてくる。
013a979d4069b6b18372f8a980f44435a56cfbf65a0116f503f6867c3dd552be690b116a50fbe10dc076
狛犬一対。
01bd3dc5d777fee4c3e7a3527ebf78673036aba9fa
社殿。ご祭神は、日本武尊を主祭神とし、高龗神、大國主命、倉稲魂命、天兒家根命、菅丞相を配祀し、手力雄命、淀姫命、大山咋命を合祀している。社殿は、戦災で焼失後、昭和53年に再建成ったものである。
011bfbc86ebfe152ad4dc4c2b796d2ff97bf32fb2f
「成長のあかし」の石碑。ここには、1センチ刻みで目盛りが刻まれてい、基礎には足型のしるしがついている。お参りの際にここで身長を測りっこしたり、写真を撮ったりする、ということだろう。
昔ならいざ知らず、賃貸のマンションなどに住んでいる人は、家の柱に背比べの傷を付けるわけにもいくまいから、人生の通過儀礼の際に足を運ぶことも多い神社にこのようなものがあるのはなかなかいいことだ。
Scan0107
御朱印は、授与所にて。御朱印単独だと、初穂料は500円。
Scan0089
御朱印帳。表面は春の社頭。
Scan0106
裏面は、秋ということか、ご神木の公孫樹の葉をあしらってある。初穂料は1000円。


西五反田氷川神社(桐ヶ谷氷川神社/東京都品川区)

東急目黒線・目黒駅からひと駅の不動前駅で下車。住宅街を5分ほど歩くと、西五反田氷川神社に到着。
01a2f6eb67fc21e003cf7069dc0ee2712c0438343c
当地は、往時桐ヶ谷村と呼ばれた場所(現在も、近在には著名人の折れ口の際に名を聞く「桐ヶ谷斎場」もある)。この氷川神社は、桐ヶ谷村の鎮守、現在も西五反田一帯の鎮守である。
現在の住居表示をとって、西五反田氷川神社と呼ぶことも、旧の地名である桐ヶ谷氷川神社と呼ぶこともあるようである。
018e29342f4afaa880c54a7bb9ba8eba62477fc196
鳥居。
当社は、創建の年代は諸書に詳らかではないが、新編武蔵風土記によれば、元禄年中に社地免除との記述があるところから、少なくとも、それより以前には創建されていたと推定される。氷川神社であるので、大宮氷川神社から分祀されたものであろうか。
0139bbf77d881efccb06387dcfe0982ed2f0bb75ca
神楽殿。
017b0c4102f44e4f6d0acb0df52f11694dc814ba69011a964d13497a9f2079f572a5fecf38f2bd00f381
狛犬一対。
0125e62c91447de8b78fba9ee6cb1d3a668c1f7766
昭和13年造営の社殿。ご祭神は、主祭神を素盞嗚尊とし、明治41年に村内各社から合祀された誉田別尊・建御名方命・於母陀流神〔面足命〕・阿夜詞志古泥神〔惶根命〕を配祀する。 
017e73d52a960768e88802c5e1b6f73a41c4715a3b
「氷川の滝」の名残り。社殿の右崖下、往時は湧水が滝をかたちづくっていた。水量豊かで、氷川の滝とも、氷川の懸泉とも称され、江戸七瀑布のひとつに数えられていたというが、今は、湧き水がわずかに染み出す程度である。
01221093a6eb358c107286e08db7d50e74dc4344f7
鉄砲石。幕末の志士が、品川宿御殿山の料亭・観桜館の庭にあった石を鉄砲を撃つ標的にしたものという。
Scan0108
御朱印は、社務所にて。氷川の氷の文字「冰」である。


赤城神社(2回目/東京都新宿区)

土曜出勤、だが、昼で用務は終わったので、仕事場を出る。
その仕事の関係で、願掛け、というのは大仰だが、お願いしたいことがあったので、神楽坂上の赤城神社へうかがう。(神社のHPは→こちら
01075143129c799fca49c2c10a4af66f8d4de6aa82
鳥居。
012a32f2d4f258d2aa13b49885f489ca064525c738
赤城神社は、鎌倉時代の正安2年(1300)、上野(現在の群馬県)在の大胡彦太郎重治という人物が、牛込早稲田の地に移住した際に、郷里の赤城神社を勧請して創建したものである。その後、太田道灌による牛込台への移転に次いで、弘治元年に現在地に鎮まった。牛込総鎮守として周囲の崇敬をあつめてきた。
018a6d89c5ceb30d8bbecb16e4b2678b4ace9473ca
うっそうと聳えるご神木。こういう大きな木は、写真に収めるのがむずかしいですね。
01873749ea2bd1f76e7796e1bdf291f2ae4f4810f5
社殿と集合住宅。前回の参拝の際にも書いたが、これは、2010年に完成した「赤城神社再生プロジェクト」によってできた分譲マンションである。社殿の老朽化建て替えと、境内にあった幼稚園の閉園に伴い、境内にマンションができた。定期借地権を設定した建物なので、70年後には、取り壊され、杜に戻されるとのこと。息の長い話である。
01bd4f23ba113229ce72ff7fdc574b871cd3bda259 0124dc56f616359eaeeee5afbc91764af6cdfce229
江戸時代に流行った型であるという狛犬。
012b23c32e99337799abbaac700b98a7e55562084b
社殿。ご祭神は、岩筒雄命。相殿には赤城姫命が祀られている。
013d7b4a5d1b64ef98080607f6a5077991de91fcd8
蛍雪天神。菅原大神を祭神とする。もともと境内社で戦災で焼けたあと、復興できずにいた北野神社を、ご近所にある旺文社の寄進により再興した。蛍雪の名は、もちろん受験進学情報誌の「蛍雪時代」に因む。
Scan0084Scan0085
授与所を覗いたら、オリジナルの御朱印帳が奉製されていた。市松梅と・・・
Scan0103Scan0104
雪うさぎ、そしてもうひと柄、「古典」という柄。迷って、市松梅と雪うさぎのものをいただく。
Scan0098Scan0086
御朱印帳には既に御朱印が捺されてあり、日付だけ入れてもらうようになっている。

お参りを済ませて、神楽坂駅に戻ろうとしたら、出入りの印刷会社の営業さんとばったり。聞けばあちらも休日出勤との由。お互いご苦労様です。


2014年08月16日

屏風浦五岳山誕生院善通寺(香川県善通寺市)

京都から新幹線で岡山へ。岡山から特急南風に乗り継ぎ、瀬戸大橋を渡って四国へ入る。京都から2時間少しで、JR土讃線の善通寺駅に到着。

駅前でタクシーを拾って5分足らず。善通寺に到着。少々ややこしいが、善通寺は寺名であり、市名であり、駅名でもある。
で、タクシーで赴いたのは、お寺の善通寺。真言宗善通寺派の総本山にして、弘法大師空海の「御誕生所」として、東寺、高野山金剛峯寺とともに、弘法大師三大霊跡のひとつに掲げられている。(お寺のHPは→こちら

IMG_0691
「東院」の南大門。永禄元年(1558)の兵火にかかって焼失。明治中期に再建された。
善通寺は、大同2年(807)に、讃岐の豪族・佐伯直田公善通(さえき・あたいのたぎみ・よしみち)の開基によって、弘法大師空海が開いたお寺である。空海の出家前の名は、佐伯真魚。佐伯田公は、彼の実父である。
IMG_0693
大きく「東院」と「西院」に分かれる善通寺。「東院」を伽藍といい、「西院」は誕生院とも呼ぶ。もともと西院のあった土地は、佐伯氏の屋敷があったところで、鎌倉時代に寺が建立された。明治時代までは、善通寺と誕生院は別のお寺であったそうだ。
IMG_0694
善通寺市のゆるキャラ「むぎゅ~ちゃん」。讃岐のもち麦・ダイシモチの宣伝PRに当たるのが役目だそうだ。今回は、イベント「四国霊場88サイクル駅伝」のゴールでのお出迎えが任であったようだ。
IMG_0700
総欅造、高さ45メートルの五重塔。現在のものは、仁孝天皇の命により、弘化2年に再建を着手、明治35年に完成したもの。
IMG_0696
鐘楼。
IMG_0699
釈迦如来をまつる常行堂(釈迦堂)。もともとは、延宝年間建立、西院にあった御影堂の建物であったが、天保年間移築された。
IMG_0702
善通寺の本堂である金堂。丈六(約3メートル)の薬師如来坐像を本尊としてまつる。戦国時代の永禄年間に兵火にかかってのち、江戸・元禄年間になって再建された。
IMG_0703
中門。西院へとつながる参道に立つ。
IMG_0705
「西院」の正門である仁王門。
IMG_0706
御下賜金を示す石柱。その隣は、旧讃岐高松藩主家の松平頼寿伯爵からの寄進を示す。
善通寺は、古くは天皇・上皇の庇護などを受け、本寺を東寺、大覚寺、随心院と更めつつ、戦国の兵火に衰微したこともあったが、織豊大名の生駒氏を皮切りに、江戸時代の高松藩主松平家、丸亀藩主京極家などの庇護を受け、近世の隆昌をみた。現在のような寺域のかたちが固まったのは、この江戸期といってよい。
IMG_0707
仁王門から御影堂へ向かう回廊。
IMG_0708
御影堂(大師堂)は、佐伯家の屋敷あとに建ち、すなわち弘法大師生誕の地、「御誕生所」であり、善通寺の奥の院である。お大師様の自描と伝わる「瞬目(めひき)大師像」をご本尊としてまつる。
IMG_0709
左から、護摩堂と親鸞堂。
IMG_0710
左から親鸞堂、鐘楼、その奥が納経所。四国八十八箇所の御朱印はこちらでお書きいただける。
Scan0053
こちらはご本尊・薬師如来の御朱印。四国八十八箇所霊場の75番札所である。平成26年は、霊場が開創して1200年の節目にあたり、その記念の印が捺されている。
Scan0051
こちらは、お大師様御誕生所の御朱印。
真言宗十八本山や、さぬき三十三観音霊場(札所番号のつかない「総本寺」という位置づけ)の御朱印は、御影堂内の授与所でいただくことができる。

つつがなくお参りを済ませ、タクシーで善通寺駅へ。
途中乗換えをしつつ、無事夕景には高松へ到着。

その後、仕事で2泊の滞在。滞在中には、讃岐うどんを食べまくる。
10612973_535267163268785_2387353852925546839_n
兵庫町・うどん市場の肉玉おろしぶっかけ。
10612973_535267166602118_8131000021725136069_n
大工町・川福本店のぶっかけ。
IMG_0711
中央通から瓦町方向に入ったうどん棒本店のぶっかけ。
IMG_0713
県庁前・さか枝でかけにちくわ天。

高雄山神護寺(京都府京都市右京区)

高山寺を出て、周山街道を徒歩で下る。折から霧がまとわりつくように降っていた雨脚が、少しずつ強さを増してきた。風情があるのはよいが、さすがに、京都駅での晴れ間を見ての選択は、過てり、であったか、と思う。

途中から周山街道を離れ、清滝川左岸沿いの県道を歩く。気候がよければさぞかし楽しいハイキングになるのであろうが、雨に降り込められてはなぁ。それでも、川と緑が醸す嵐気は、決して快くないわけではない。

歩みを進めてきたところで、道は清滝川を高雄橋でまたぐ。
IMG_0656
その高雄橋のたもとに、「山内女人禁制」の石碑が建っている。江戸・万治年間ごろのものという。
IMG_0657IMG_0659
高雄橋から清滝川の流れを見る。右岸側の石垣からは方々から雨水が川に流れ落ちていた。

本来であれば、橋を渡ったところから石段を登っていくことになる。
ところが、石段の中途で倒木があるとのことで表参道は通行止め。少し廻ったところにある、舗装の「防災道路」から迂回せよ、とのこと。グネグネとうねりながら高度を上げる道路をふうふう言いながら上がっていく。息が上がる。だが、立ち止まると、動けなくなりそうで、ひたすら歩を進めるより他なく、鈍った身体には「荒行」としか言いようがない。
0107d0c71b16b4032c881aff7ff088ae93435e89f3
本来ならば、この石段を上がってくるはずであった。防災道路とどちらが楽であろうか・・・。
01cfa3bd5a3426ab5ffb7b992276bd801007d4dce8
高雄山神護寺は、高野山真言宗の遺迹本山である。もともとは、神護国祚真言寺を正式名称とするが、通常は神護寺の名がもっぱらである。空海、最澄などにもゆかりのある名刹である。(お寺のHPは→こちら
01fa0ad4c2b5ab7cb0435ac6b8cef261c1f4a4eb3e
楼門(山門)は、諸説あるが、現在の山門は元和9年(1623)の建立とされる。
019f340632084442c0d33899db0167c2df8beb581a
山門をくぐると、これまでの登りがなんだったのだろうと思うような平坦な広場が現れる。
018d711d0f8bb7db5f1aac43699c1ec9ce4cf01f31
書院入口の門。
01e39db59b9f74a7a4db4457f8ce2ad9ee17572d25
和気清麻呂公霊廟。
和気清麻呂公は、当寺の開基とされている。
当寺はもともと、和気氏の私寺であった「神願寺」と「高雄山寺」が、天長元年(824)に合併してできたお寺である。神願寺は、8世紀後期に立てられたお寺で(場所は、河内国など諸説あり)、いわゆる道鏡事件ののちに、清麻呂公が建てたものである。
一方の高雄山寺は、山岳信仰ともかかわって、古くからこの土地にあったとみられるお寺であり、和気氏ともかかわりが深かったものとみられる。
高雄山寺には、和気清麻呂公の姉・広虫の三回忌を営むに当たり、最澄が招かれて法華会を執り行ったほか、空海もこの寺に在り、灌頂を執り行った。その記録は今も現存し、国宝となっている。
01221b945656d304aefb5fa83b2a32dfd6d1dceb06
鐘楼。建物自体は、元和年間のものだが、2階楼上に架かっている梵鐘は、貞観17年(875)の作で国宝。鐘の銘文は、詞を文人の橘広相が、銘を菅原是善(道真の父)が、歌人で能書家の藤原敏行が字をそれぞれ手がけたもので「三絶の鐘」と称されている。
0149b900ac9b5d4810e385da254ac6a34a2f29a272
明王堂。
もともと神護寺には、弘法大師御作の不動明王像が安置されていた。それが、天慶3年(940)に東国に発した平将門の乱の鎮圧を図るべく、東国へ”出張”。この不動明王は、こちらに戻ることなく、かの成田山新勝寺のご本尊となった。
現在の明王堂におわす不動明王像は、平安中~後期の作とみられる。お堂の扁額は、上記のような経緯からか、成田山を信仰して止まなかった成田屋・七世市川團十郎の手によるものである。
01483cb280d0a179d85b15140492adf63b37d8d4b3
大師堂。国重文の仏堂で、弘法大師の住房を復興したもの。現在の建物は、近世初期の再建である。正安4年(1302)作の板彫弘法大師像を安置する。大師像は国重文で秘仏である。
017d59fa9acbec7e281a946242865a153de71214ef
大師堂の傍らにある石造転法輪。1回まわすにつき、六万遍念仏を唱えた功徳があるという。
01fc14a1aea8acc8cb3ef10771179232c611ab8a7e
毘沙門堂。元和9年(1623)の建築であり、現在の金堂ができるまではこちらが金堂であった。そのころにはご本尊も安置されていたが、現在は、平安時代の毘沙門天立像(重文)を安置する。
01130f3f06abce863b45f06d2a012e4717afe48e19
五大堂。毘沙門堂などと同じ元和9年の造立。もともとは、平安時代の天長年間に、淳和天皇の勅願により建立されたものという。五大明王像(不動明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王)を祀る。当初は平安時代、天長年間(824-834)に第53代・淳和天皇御願により建立されたという。
01b30ccfbc79b03db8fb547c47da00ed7f9cfdcf59
金堂に向かう石段。
010020521cc119b7d92dfd2d88c0d85817a8a1a5b8
秋になれば、すばらしい景となろう。
0192d5164fef2b2721d0e0e77e5fd4f09154608574
金堂。意外に新しく、1934年の造営である。大檀越は実業家で、慈善救恤や寺社への寄進などで「寄付金王」とも呼ばれた山口玄洞。
ご本尊の木造薬師如来立像(国宝)のほか、日光月光菩薩(国重文)、四天王、十二神将などが祀られている。
Scan0045
御朱印は金堂内の授与所にて。
BlogPaint
御朱印帳をいただいた。神護寺境内の絵図があしらわれている。
BlogPaint
御朱印帳の題戔には、名前を入れてくださる(ここでは消してある)。
Scan0043
素敵な御朱印帳である。
なお、当寺は神仏霊場巡拝の道第90番(京都10番)札所であり、西国薬師霊場の第44番札所、仏塔古寺十八尊霊場の7番札所でもある。

お参りを終えて、防災道路を下ってくる。高雄橋の手前にある高雄観光ホテルの喫茶室に入る。と、いきなり激しい雷鳴とともに、車軸を流すがごとく雨が激しさを増した。そのうち停電。ホテルのお子さんが怖がること。
氷を食べてひと心地、バスの時間を見計らい、周山街道の高雄バス停まで歩く。
IMG_0682
周山街道に面した寺名標。
IMG_0686
山の天気は変わり易いとは言い条、今日の京都は市内の天気もすごかった。市内(写真は五条大宮付近)もバケツをひっくり返したような雨。道路は水浸しである(中京区のアメダスでは、16 日 12 時 46 分までの 1 時
間に 87.5 ミリの降雨が記録されたとか。。。)。
IMG_0690
ようやく京都駅に着き、ポルタのイノダコーヒでお昼ご飯。ビーフピラフ、美味。


栂尾山高山寺(京都府京都市右京区)

先夜の天気予報で、明日の天気の悪いことを知る。雨が降りそうなのだ。

予定では、明日は夕方に高松に着いていればよい。午後は、足を伸ばして、弘法大師ゆかりの善通寺にお参りをすることにしているので、逆算すると、昼過ぎに京都を出れば間に合う。

さて、どこへ行くか。
ガイドブックをめくりつつ、思案投げ首。しかし、なんとしても天気が気になり、決めきれぬまま、眠りに落ちた。

明けて、朝。
何はあれ、とりあえず地下鉄で京都駅へ出る。どこにいくにはせよ、荷物を預けて身軽になりたかったからだ。

空模様を見ると、なんとまあ、薄日が射している。
そうなると、きのうの検討の段階で立ち消えた、高雄行きを思い立つ。
IMG_0684
京都市域の北のほう、高雄地区へは、JRバスが便利だ。案内所でフリー乗車券を買う(このチケット、前売りはないわ、駅の案内所でしか買えないわ、とかく使い勝手が悪い)。

京都駅を出発したバスは、七条から大宮通、さらに千本通と北上、北野、立命館大学と進んで、きぬかけの道を龍安寺、仁和寺と過ぎて、周山街道にかかる。少しずつ山間に向かい、ヘアピンカーブを越えると、いよいよ三尾。高雄(高尾)、槙ノ尾と進んで、栂ノ尾でバスを降りる。
IMG_0655
栂尾山高山寺。天台宗から華厳宗、真言宗御室派を経て、現在は真言宗系の単立寺院である。
(お寺のHPは→こちら なお、お寺のHPを見ると、高山寺の高の寺は、はしご高=髙が正しく、読みも「こうさんじ」が正しいようである。)

この碑は、儒学者で文人の富岡鉄斎の筆になるもの。
山深いこの地には、いにしえより山岳信仰の小寺などあったようである。
伝わるところによれば、奈良時代の宝亀5年(774)に光仁天皇の勅願により開創されたと伝わり、「神願寺都賀尾坊(じんがんじとがのおぼう)」と称した。平安時代には、近隣の神護寺の別院とされ、「神護寺十無尽院(じゅうむじんいん)」と称されていたという。
IMG_0654
 鎌倉時代の建永元年(1206)、後鳥羽上皇の帰依を得た僧・明恵が栂尾十無院を贈られ、華厳宗の根本道場として再興した。寺名の高山寺は、この時に改められたもので、与えられた勅額「日出先照高山之寺」(日出でて先ず照らす高山の寺)による。明恵は実質的な開山、中興開山となっている。
IMG_0653
1994年、古都京都の文化財として、世界文化遺産に指定。
IMG_0652IMG_0651
かつて、この石灯籠のあった位置に、仁王門があった。1881年の火災で焼失。
IMG_0649
樹間に17枚の石板が敷かれている表参道。
IMG_0636
バス停の脇から、境内に抜ける裏参道。
IMG_0638
とても趣き深い参道である。
IMG_0639
石水院への門。
IMG_0640
高山寺は、山中の寺であるが、天文年間の兵火をはじめ、江戸時代の火災などで、中興当時の建物はほぼ残っていない。
IMG_0641
その中で、この石水院は、境内で場所を遷しながら、鎌倉時代からの歴史を今に伝えている。
IMG_0642
石水院は、鎌倉時代の初期の建物で、国宝。後鳥羽上皇の御学問所を下賜されたものとも伝わる。もともとは明恵上人の住房であったともいい、長い間経蔵として使われてきたが、明治22年に現在地に移築され、住宅様式に直された。
「名をかえ、役割をかえ、場所をかえて残る、明恵(みょうえ)上人時代の唯一の遺構である。」(お寺のHPより)

この写真は、西正面の「廂の間」。もともと、春日・住吉明神の拝殿であったところ。欄間には富岡鉄斎筆「石水院」の掲額。板敷きには、善財童子像が置かれている。明恵上人が敬愛した善財童子。現在の像は、西村虚空作の一木造り。   
IMG_0643
石水院から見える山々。小雨に煙り、幽邃な風情を醸す。
IMG_0645
深い緑に囲まれる。
IMG_0644
お庭。

IMG_0646
開山堂。明恵上人が晩年を過ごした「禅堂院」の跡地に立つ。明恵上人坐像(重文)が安置されている。室町時代の兵火、江戸時代の火災などを受けて、江戸時代中期に再建されたものである。
IMG_0647
かつての本堂の位置に立つ金堂。承久元年に完成の本堂は、室町時代に焼失。現在の金堂は江戸・寛永年間に御室仁和寺からお堂を移築したものであるという。釈迦如来像を本尊とする。
Scan0036
高山寺といえば、鳥獣戯画であろう。全4巻、「日本最古の漫画」とされる。現在は国宝で、原本は、東京・京都の国立博物館に寄託されている。
その鳥獣戯画をあしらった御朱印帳。色もさまざまある。
Scan0037
今回は水色のものをいただいた。
Scan0038
御朱印はご本尊の釈迦如来。
Scan0039
押さえ紙に鳥獣戯画のうさぎがあしらわれていた。


2014年08月15日

錦天満宮(京都府京都市中京区)

銀閣寺を出て四条河原町まで出る。オーパの裏手にある手拭いを売っているお店で、前から目に付けておいた手拭いを買う。
BlogPaint
裏道をウロウロとしていたら、寺町通へ出る。
少し上ると錦天満宮の有名な鳥居が見えてくる。
錦小路通寺町を東に入ったところにあるこの鳥居は、両端のビルに「刺さって」いる。
これは、区画整理の際に、柱の根元の幅で道路幅を決めてしまい、上部の幅を考慮していなかったため、ビルの中に鳥居がめり込むかたちになってしまったのだそうな。

というわけで錦天満宮。(神社のHPは→こちら
長保5年(1003)、菅原道真公の父・菅原是善公の旧邸を移築して創建された歓喜寺の鎮守として天満天神を祀ったのがその起こりである。
時代下って、天正15年(1587)、豊臣秀吉によって、歓喜寺とともに、現在地に移転。鎮守は土地の名前から「錦天満宮」と呼ばれるようになった。明治になり、神仏分離で歓喜寺は東山五条に移り、錦天満宮は現在地に残ったのである。
BlogPaint
こちらは、新京極に面した入口。
寺町通と新京極の関係だが、寺町通は、古くから都の東端の大路で、天正年間に豊臣秀吉の都市改造により、寺が集められたことから寺町通と名づけられた。
寺町通の東側に位置する新京極は、明治になって作られた新しい通りである。もともとは各社寺が、寺町通りまで広い参道を有し、広大な寺域を持っていたものが、時代の変転で整理されたのである。新京極の名は、寺町通のこのあたりを寺町京極と称していたことによる。
IMG_0628
撫で牛。観光客が蝟集する新京極と錦小路通の交わるところにある神社だけあり、参詣する人が絶えない。
IMG_0630
社殿。ご祭神は菅原道真公(天満天神)。
Scan0055
御朱印は書置きのものを頂戴する。

016f97b0f9a3833c3fbf465cde051c48b0823605ec
お参りを終えて、四条河原町から四条通を西へ。天神川四条まで出て、新福菜館の天神川店で夕食。中華そばの麺硬め、ねぎ多め。
IMG_0635
四条烏丸に戻り、行きつけになったショットバーへ。スイカのソルティドッグ。


東山慈照寺(銀閣寺/京都府京都市左京区)

東福寺駅に戻り、京阪電車に乗って、三条駅まで。三条大橋のたもと、三条通川端ということになるが、地名としては「三条京阪」が一般的である(厳密にいうと、三条通と川端通の交叉点は「三条大橋」交叉点で、「三条京阪」交叉点は、その1個東方の交叉点の名称になっている)。
「土下座像」として有名な高山彦九郎の御所遥拝像を見つつバスに乗り、銀閣寺道まで。
そこから人でごったがえす、銀閣寺への道を進む。夏休みであることに加え、明日は五山の送り火。銀閣寺は、いわゆる「大文字山」を後背に背負う。
IMG_0605
銀閣寺は、正式名称を「東山慈照寺」といい、臨済宗相国寺派大本山である相国寺の境外塔頭寺院である。金閣寺や清水寺と並んで、京都の観光地の代表格であることは言うまでもない。ユネスコの世界遺産にも指定されている。
IMG_0604
総門。
IMG_0606
銀閣寺垣がたてられた参道。

銀閣寺は、もともと浄土寺という天台宗のお寺が応仁の乱で焼けた跡地に、室町幕府8代将軍の足利義政が山荘を築いたことが起こりである。8年にも及ぶ造営期間には、応仁の乱で疲弊した京都の人々は多大な負担をこうむったとされるが、義政はこの山墅を気に入ったようで、造営中から、常御所に移り住んだ。
義政の死後、その菩提を弔うべく、延徳2年(1490)に東山殿を寺とし、相国寺の末寺として創始されたのが寺としての嚆矢となる。寺名は、義政の法号「慈照院殿喜山道慶」から来ている。
このようなところから、開基は足利義政で、開山(勧請開山)は、夢窓疎石である。
IMG_0607
木の奥には、庫裏・方丈への玄関がある。
IMG_0608
夏の夕、浴衣着の人もちらほらと。
IMG_0610
唐門の花頭窓。
IMG_0611
銀沙灘(ぎんしゃだん)。銀閣寺のハイライトのひとつである。
IMG_0612
こちらは銀沙灘、向月台、そして銀閣。
IMG_0614
東求堂前の庭園。禅寺の様式が取り入れられており、義政の世界観を体現している。
IMG_0616
庭園は、錦鏡池を中心とする回遊式庭園。
IMG_0617
洗月泉。
IMG_0618
東求堂。文明18年(1486)の建立で、銀閣とともに、東山殿時代から残る数少ない遺構のひとつ。もともとは足利義政の持仏堂である阿弥陀堂で、江戸時代に現在の本堂である方丈(ご本尊は宝冠釈迦如来坐像)ができるまでは、東求堂が仏殿であった。国宝。
IMG_0620
庭園の東方は小高い丘になっており、寺域を一望にする事ができる。
右手に、東求堂、方丈(本堂)、庫裏、書院、銀沙灘を挟んで、左手に銀閣。
IMG_0621
こちらから見えるのは、衣笠山の方角だろうか。
IMG_0622
こちらは吉田山の方角であろう。
IMG_0625
銀閣。長享3年(1489)上棟の木造2階建てで、正式には観音殿。国宝。
銀閣の名は、江戸時代に入って、同じ相国寺の境外塔頭である鹿苑寺金閣に擬えて言われるようになったとされ、実際に銀箔が貼られたことはない(貼る計画はあった、という説はある)。
銀閣の初層を「心空殿」、上層を「潮音閣」と称する。「心空殿」には地蔵菩薩坐像と千体地蔵菩薩立像が、「潮音閣」には観音菩薩坐像が安置されている。
Scan0035
御朱印は、拝観入口のわきにある御朱印所にて。
なお当寺は、神仏霊場巡拝の道第109番(京都29番)札所である。
Scan0033
御朱印帳もお頒かちいただいた。1000円。
Scan0034
銀閣寺の御朱印には、当て紙として書いてある内容の説明があるが、英文入りというのはさすがは世界遺産らしい。


慧日山東福禅寺(東福寺/京都府京都市東山区)

泉涌寺・雲龍院を出て、ガイドブックの指し示すままに歩く。住宅地や清水焼の工房などが立ち並ぶ閑静な住宅地の路地、ときには家の庇を掠め、勝手口の扉が開いたら触れるような細い道を歩いて(単に迷っただけかも(^^ゞ)、東福寺に至る。

慧日山東福禅寺は、通常は「東福寺」と称する臨済宗東福寺派の大本山。京都五山の第四位に列し、妙心寺の項で書いた「○○づら」でいえば、「伽藍づら」と称される大寺である。往時は70をこえる塔頭を有し、現在でも25の塔頭寺院を抱える。九条道家を開基、聖一国師・圓爾を開山として、嘉禎2年(1236)に創建。寺名は、奈良の東大寺と興福寺から1字ずつ採ったものである。(お寺のHPは→こちら
IMG_0587
伽藍の東福寺は、寺域を流れる渓流にかかる通称「東福寺三名橋」でも有名。上流から偃月橋・通天橋・臥雲橋。JRの「そうだ 京都、行こう。」やら、「鬼平犯科帳」のエンディングで採り上げられるなど、ある意味で東福寺のシンボルのひとつであろう。
この橋はもっとも下流に位置する臥雲橋。
IMG_0588
この風景、一度は見覚えがあるはず。臥雲橋から見える通天橋。
康暦2年/天授6年(1380)に春屋妙葩が架橋。南宋径山の橋を模したものであるが、昭和34年(1959)の伊勢湾台風で倒壊、2年後に再建されたのが現在のものである。
IMG_0589
3つの橋がかかる渓谷を「三の橋川」というが、偃月橋から臥雲橋までのあいだを特に「洗玉澗」と呼ぶ。
IMG_0590
日下門。寺の通用門に当たる。
ちなみに、東福寺の寺域には、もともと法性寺というお寺があった。これは、延長2年(924)、藤原忠平(時平の弟。兄が失脚させた菅原道真とは親交があり、道真の怨霊のなせる業ともいわれる時平の早世後に藤原北家の嫡流を継いだ)が、藤原氏の氏寺として創建したものである。これとて、かなり大きなお寺であったようだが、そこに、子孫である九条道家が、五丈(約15m、メートル)の釈迦像を安置する大伽藍を建てることを志して、東福寺を建立した。
その後、法性寺は衰微し、寺域は東福寺に含まれていくことになる。法性寺自体は、近代に入って再建され、JR・京阪の東福寺駅から東福寺に向かう途中、伏見街道に静かな佇まいを残しているという。
01c519c7324987fc6a6d697c2e050de4a83dd0e756
三門。東福寺はたびたび火災に遭っているが、明治14年にも火災があり、多くの伽藍を焼いた。その中で、残った堂宇のひとつが、この三門である。応永32年(1425)に室町幕府4代将軍の足利義持が再建造立。上層には、釈迦如来と十六羅漢が安置されている。国宝。
010160638a52d1394aee2ae62902942120827ce617
本堂。ご本尊は釈迦三尊像。
先に述べた明治14年の火事で焼けた仏殿と法堂を兼ねる建物として、17年の歳月をかけて、昭和9年完成。高さが25.5メートルで間口41.4メートル。昭和期の木造の建物では最大級の大きさである。
ちなみに、ご本尊も火事で焼けており、現在のご本尊は、同じ京都五山・万寿寺から遷したものである。
IMG_0601
禅堂。貞和3年(1347)に再建された、僧が座禅等の修行をする場。中世より残る最大最古の禅堂と伝わる。国指定重要文化財。
01a97bbcb0dc9e6414e330067729d93358ed3bff1b
東司(とうす)。早い話がお手洗いである。これまた、日本で最大最古の禅宗式の東司の遺構。中では100人の僧が用を足すことができたことから、百雪隠ともいわれた。禅寺では、用便もまた、修行のひとつであったのである。国指定重要文化財。
IMG_0603
経蔵。
IMG_0592
本堂の裏手方にある庫裏の入口で拝観料を払い、方丈を拝観する。
方丈の南庭と方丈の正門である勅使門(唐門)を内側から。
方丈は、明治23年再建。勅使門は明治42年に昭憲皇太后から下賜された。
01039f808a774f07612a45171f94ec64cd49ffcdd7
方丈北庭。苔と石畳の美、市松模様は西から東へとぼかされている。イサム・ノグチは、この庭をオランダの抽象画家・モンドリアンに先駆けた構成美と評した。
01eb6dc053e5a8d9f94d8447971177cee05238108b
方丈から通天橋を見る。
0108d752d5680621716ec89345dc18e35d7e4b6ea4
秋になると、紅葉に染まる。当然人出もすごいそうな。
コピー ~ Scan0053
御朱印は庫裏の入口、拝観受付の窓口にて。御朱印料は500円である。