臨済宗南禅寺派
2014年07月06日
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瑞龍山太平興国南禅禅寺(南禅寺/京都府京都市左京区)
青蓮院を出て、神宮道バス停から5系統で南禅寺・永観堂道バス停まで。歩いて行けるような距離だが、限られた時間が勝負の旅行では、時間と体力の節約も大事。既に市バスのフリー券も買ってあることなれば、迷うことなくバスに乗る。
南禅寺は、正式には瑞龍山太平興国南禅禅寺といい、臨済宗南禅寺派の大本山。鎌倉末期から室町時代にかけて定められた、京都五山・鎌倉五山の上位別格「五山之上」である。亀山法皇を開基、無関普門を開山とする、初の勅願禅寺である。(お寺のHPは→こちら)
中門。細川家の筆頭家老・松井康之が、伏見城内松井屋敷の門を寄進した。のちに禁中から日ノ御門を勅使門に拝領するまでは、この門が勅使門として使われていた。のちには、「脇門」として使用。
もともとこの地には、奈良時代に、近江・園城寺(三井寺)の別院・最勝光院があったが、のちに衰微。鎌倉時代に至って、亀山天皇により、禅林寺殿という離宮を開いた。この地の北にある永観堂禅林寺にちなむ。
この離宮の中に、持仏堂が置かれ、南禅院と称された。現在の南禅寺の塔頭・南禅院は、この後身である。
南禅という言葉自体は、中国の「南宗禅」に因んでいるから、とされる。
勅使門を内側から。慶長年間に内裏に造営された日ノ御門を寛永18年に移築。総欅造の国重要文化財。
三門。「天下龍門」とも称せられ、京都三大門のひとつに挙げられる国指定重要文化財。寛永5年(1628)に伊勢安濃津藩主・藤堂高虎が大坂の陣での死歿者供養のため、寄進したものである。
南禅寺三門といえば、石川五右衛門。歌舞伎「楼門五三桐」で、「絶景かな、絶景かな。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ。この五右衛門の目からは、値万両、万々両」の名せりふを吐いたのが、この三門である、といいたいところだが、史実では、五右衛門とこの三門は出逢っていない。五右衛門が処刑されたとされるのが文禄3年(1594)、現三門は、それから約30年後の寛永5年(1628)造営だからである。
現在、高さ約22メートルの三門には、拝観料を払って2階部分に上がることができる。五右衛門の心持ちを味わうのもオツなもの、といえようか。
いわゆる五間三戸の形式。その大きさには驚かされる。知恩院、東本願寺とともに京都三大門のひとつに、また、諸説あるが日本三大門のひとつにも挙げられる。
三門から勅使門方向を眺める。
法堂。仏殿ともいう。南禅寺の中心的な建物。ご本尊の釈迦如来と文殊菩薩、普賢菩薩を安置している。
1606年、豊臣秀頼の寄進による法堂は、1895年の火災で焼失。明治42年(1909)に再建。
直接お寺の構造物ではないが、いまや南禅寺の見物のひとつ、水路閣。鉄道唱歌にも「琵琶湖を引きて通したる 疏水の工事は南禅寺 岩切り抜きて船をやる 知識の進歩も見られたり」とある。
明治初頭、奠都後の京都の産業振興を図るべく開鑿された琵琶湖疏水。本流の蹴上から、京都市東郊を反時計回り状に流れる疏水分線の一部分が、水路閣である。
明治初期、寺院である南禅寺の境内に疏水を通すにあたり、景観に配慮してこのような煉瓦造りしたという。工事の際には反対もあったというが、現在では、南禅寺のひとつの見物、テレビの2時間ドラマなどでもたびたび登場する有名スポットとなった。
本坊入口。方丈庭園の拝観はこちらから。
定規筋の塀の向こう側が国宝の方丈。
方丈のうち大方丈は、天正年間の内裏清涼殿を遷したとも、女院御所を移築したものともいわれる。
小方丈は、伏見城の遺構と伝えられる。庭は、小堀遠州の手による枯山水の庭園。
小方丈にある虎の間の障壁画、狩野探幽筆と伝えられる「群虎図」40面は重要文化財に指定されている。
このうち、有名な「水呑みの虎」の部分を用いた御朱印帳。
このようなお帳面では、建仁寺の風神雷神図や雲龍図、大覚寺の牡丹図と並ぶものではなかろうか。
障壁図の左面に当たる部分。
右面に当たる部分。
お帳面を包む厚紙がまた渋い。
背面は英語標記だ。
御朱印。真ん中にある金剛王宝殿とは法堂のこと。御朱印帳・御朱印のお頒ちは、本坊の方丈拝観受付にて。
1ページ目には、開山の佛心大明国師(無関普門)の御遺偈が。
お参りを済ませ、参道の茶店で見つけた般若心経の経本。折りたたむと、サイズがカードサイズになる。
南禅寺は、正式には瑞龍山太平興国南禅禅寺といい、臨済宗南禅寺派の大本山。鎌倉末期から室町時代にかけて定められた、京都五山・鎌倉五山の上位別格「五山之上」である。亀山法皇を開基、無関普門を開山とする、初の勅願禅寺である。(お寺のHPは→こちら)
中門。細川家の筆頭家老・松井康之が、伏見城内松井屋敷の門を寄進した。のちに禁中から日ノ御門を勅使門に拝領するまでは、この門が勅使門として使われていた。のちには、「脇門」として使用。
もともとこの地には、奈良時代に、近江・園城寺(三井寺)の別院・最勝光院があったが、のちに衰微。鎌倉時代に至って、亀山天皇により、禅林寺殿という離宮を開いた。この地の北にある永観堂禅林寺にちなむ。
この離宮の中に、持仏堂が置かれ、南禅院と称された。現在の南禅寺の塔頭・南禅院は、この後身である。
南禅という言葉自体は、中国の「南宗禅」に因んでいるから、とされる。
勅使門を内側から。慶長年間に内裏に造営された日ノ御門を寛永18年に移築。総欅造の国重要文化財。
三門。「天下龍門」とも称せられ、京都三大門のひとつに挙げられる国指定重要文化財。寛永5年(1628)に伊勢安濃津藩主・藤堂高虎が大坂の陣での死歿者供養のため、寄進したものである。
南禅寺三門といえば、石川五右衛門。歌舞伎「楼門五三桐」で、「絶景かな、絶景かな。春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ。この五右衛門の目からは、値万両、万々両」の名せりふを吐いたのが、この三門である、といいたいところだが、史実では、五右衛門とこの三門は出逢っていない。五右衛門が処刑されたとされるのが文禄3年(1594)、現三門は、それから約30年後の寛永5年(1628)造営だからである。
現在、高さ約22メートルの三門には、拝観料を払って2階部分に上がることができる。五右衛門の心持ちを味わうのもオツなもの、といえようか。
いわゆる五間三戸の形式。その大きさには驚かされる。知恩院、東本願寺とともに京都三大門のひとつに、また、諸説あるが日本三大門のひとつにも挙げられる。
三門から勅使門方向を眺める。
法堂。仏殿ともいう。南禅寺の中心的な建物。ご本尊の釈迦如来と文殊菩薩、普賢菩薩を安置している。
1606年、豊臣秀頼の寄進による法堂は、1895年の火災で焼失。明治42年(1909)に再建。
直接お寺の構造物ではないが、いまや南禅寺の見物のひとつ、水路閣。鉄道唱歌にも「琵琶湖を引きて通したる 疏水の工事は南禅寺 岩切り抜きて船をやる 知識の進歩も見られたり」とある。
明治初頭、奠都後の京都の産業振興を図るべく開鑿された琵琶湖疏水。本流の蹴上から、京都市東郊を反時計回り状に流れる疏水分線の一部分が、水路閣である。
明治初期、寺院である南禅寺の境内に疏水を通すにあたり、景観に配慮してこのような煉瓦造りしたという。工事の際には反対もあったというが、現在では、南禅寺のひとつの見物、テレビの2時間ドラマなどでもたびたび登場する有名スポットとなった。
本坊入口。方丈庭園の拝観はこちらから。
定規筋の塀の向こう側が国宝の方丈。
方丈のうち大方丈は、天正年間の内裏清涼殿を遷したとも、女院御所を移築したものともいわれる。
小方丈は、伏見城の遺構と伝えられる。庭は、小堀遠州の手による枯山水の庭園。
小方丈にある虎の間の障壁画、狩野探幽筆と伝えられる「群虎図」40面は重要文化財に指定されている。
このうち、有名な「水呑みの虎」の部分を用いた御朱印帳。
このようなお帳面では、建仁寺の風神雷神図や雲龍図、大覚寺の牡丹図と並ぶものではなかろうか。
障壁図の左面に当たる部分。
右面に当たる部分。
お帳面を包む厚紙がまた渋い。
背面は英語標記だ。
御朱印。真ん中にある金剛王宝殿とは法堂のこと。御朱印帳・御朱印のお頒ちは、本坊の方丈拝観受付にて。
1ページ目には、開山の佛心大明国師(無関普門)の御遺偈が。
お参りを済ませ、参道の茶店で見つけた般若心経の経本。折りたたむと、サイズがカードサイズになる。
2011年11月14日
gosyuin_walker at 11:00 Permalink
勝林山金地院(東京都港区)
今日は、東京南部を中心に御朱印をいただきに伺う。
まず最初に足を運んだのは、東京タワーのほぼ直下にある、金地院。江戸三十三ヶ所の第28番札所である。
金地院といえば、同名の京都・南禅寺の塔頭寺院が有名であるが、 こちらも臨済宗南禅寺派に属し、南禅寺の東京出張所を兼ねている。開基は、京都金地院住持を務めた本光国師・以心崇伝。
崇伝は、徳川家康の宗教顧問として、あるいは外交関係にも力を振るって、「黒衣の宰相」とまでいわれた人物で、京都と江戸の両金地院を足場に、絶大な権力をふるった。
本堂。伽藍及び御本尊の観音像は、昭和20年3月の空襲で灰燼に帰してしまったため、戦後の昭和31年に再建され、御本尊も新たに安置された由。往時の面影はもちろんないが、本堂に上げていただいたので、御本尊を拝ませていただいた。
御朱印は、寺務所にていただける(本堂に上げていただけた場合は、お参りをしている間に書いていただく、という形になるだろう)。
門前から東京タワーがこんな感じで見えるほどそばにある金地院。
それもそのはずで、戦災で焼失する前は、現在の東京タワーのあった場所も金地院の一部だったのだそうである。
まず最初に足を運んだのは、東京タワーのほぼ直下にある、金地院。江戸三十三ヶ所の第28番札所である。
金地院といえば、同名の京都・南禅寺の塔頭寺院が有名であるが、 こちらも臨済宗南禅寺派に属し、南禅寺の東京出張所を兼ねている。開基は、京都金地院住持を務めた本光国師・以心崇伝。
崇伝は、徳川家康の宗教顧問として、あるいは外交関係にも力を振るって、「黒衣の宰相」とまでいわれた人物で、京都と江戸の両金地院を足場に、絶大な権力をふるった。
本堂。伽藍及び御本尊の観音像は、昭和20年3月の空襲で灰燼に帰してしまったため、戦後の昭和31年に再建され、御本尊も新たに安置された由。往時の面影はもちろんないが、本堂に上げていただいたので、御本尊を拝ませていただいた。
御朱印は、寺務所にていただける(本堂に上げていただけた場合は、お参りをしている間に書いていただく、という形になるだろう)。
門前から東京タワーがこんな感じで見えるほどそばにある金地院。
それもそのはずで、戦災で焼失する前は、現在の東京タワーのあった場所も金地院の一部だったのだそうである。