私ごとですが、この度の韓国行きで、訪ねた球場が400を超えた。一応プロ野球の試合というくくりにしているので、レベルはマイナーよりはるかに高いがアマチュアを名乗っているキューバの2球場、オランダの2球場、プロアマ混成のメキシコ、メリダリーグは含めない。それに加えて言ってはみたものの試合を見れなかった球場も含んでいない。

 アメリカ、メキシコ国境のエルパソ、フアレスの両町は行ってはみたがゲームを目にすることはできなかったところだ。
 とくにエルパソは3回試みてすべて失敗、おととし4度目にしてやっと3Aのゲームを見れた。ただしこの球場は近年ダウンタウンに建てられた新球場だった。

 ここに初めて行ったのは1995年。世界一周の途中でメキシコから入ったのだが、当時2Aのフランチャイズがあり、ユースホステルでスケジュールを見ると、オールスター戦がちょうどホームゲームであるという。同宿になった日本人と球場を訪ねると、これは以前プロが使っていた球場らしく、声をかけてきたメキシカンに5ドルずつ払って郊外のコーエンスタジアムに向かった。しかし、球場はがらんどう。どうもスケジュール表の「ホームゲーム」はエルパソの属する地区のホームでオールスターがあるという意味だったようだ。帰りは頼み込んで、酒を飲みながら運転するメキシカンに元の場所まで送ってもらい、バスで帰ろうとしたら、終バスの運転手が我々を無視して行ってしまい、薄暗い道をとぼとぼ歩いて帰った。意気投合した二人の日本人の間に気まずい空気が流れたのはいうまでもない。

エルパソ・コーエンスタジアム(8.1)

(コーエンスタジアム/エルパソ)

 その後、2006年にこの町を再訪、独立リーグ・アメリカン・アソシエーションの試合がコーエンスタジアムで、翌日には国境を越えたフアレスでメキシコのマイナーリーグの試合という夢のようなスケジュールだった。
ダウンタウンからバスで1時間!!町の思い切り外れにコーエンスタジアムはあった。遠路はるばる行くと、着いたとたんにものすごいスコール。試合1時間前には雨はやんだのだが、結局、球場にいたのは私と、アトラクションをすべく隣のニューメキシコからやってきた芸人さんだけ。スタッフも来ることなく試合はキャンセルとなった。

 そして翌日、当時メキシカンリーグのファームだった「リガ・ノルテ・デ・メヒコ」のフアレスの球場に足を運んだものの、もぬけの殻。球場にいた人に確認すると、この日は100キロほど離れた別の球場でホームゲームをするとのことだった。

シウダーフアレス・エスタディオカルタブランカ(8.2)
 この翌日、この辺りは記録的豪雨に見舞われ、町は水没、チームは移動用のバスを失い、シーズンを切った。
 私はというと、水没する道路をなんとか長距離バスで抜け出し、ソノラ州のソノイタという町でフアレスのチーム、「インディオス」を待ったが、くだんの理由でチームは来ず、試合はまたまたキャンセルになった。

 エルパソにはその後、2013年に訪ねようとしたが、この時は今度は私が、前の訪問地、アリゾナの球場にカメラを忘れるという大失態を犯し、夜行バスに乗れず、結局球場には行けず、2017年にようやくこの町で野球を見ることができた。

 エルパソのチームの名は、2Aの時代も独立リーグの時代も「ディアブロス」。しかし、3Aに昇格した2017年にはチワワズというなんとも微妙な名前に変わっていた。


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――ここ(野球塾の場所)には、最初何もなかったわけですよね。

「そうです。まっさらな土地を借りてこの建物を建てたんです。家から車で56分だったんで」

 

――最初は不安ではなかったですか?

「それはもうむちゃくちゃ不安でしたよ(笑)。こんな辺鄙なところにお客さん来るのかなと。まあ、それでダメならダメで仕方ないなって」

 

――でもある程度蓄えはあったんですよね。当面食えないとか、そういうわけじゃないですよね。

「そりゃまぁ、多少はありましたけど。でも、年が明けた後は、収入0円生活ですよ。でも、プロ野球の世界というのはこれが当たり前ですから」

 

――現役の頃は、そういうことを考えながら生活されていたんでしょうか?

「最後のほうはそうですね」

 

――最近の選手はそういうこと考えてますよね。

「最近の選手のことはよくわからないんで何とも言えないですが、蓄えてますよね。賢いですよ。僕らなんか、やっぱり使ってましたよ(笑)。だから貯金ないです。やっぱり飲み食いですよね。後輩なんかを連れて行って」

 

――それで、お客さんなんかはどうやって集めたんですか。

「ホームページと口コミです。4月にオープンしたんですが、最初は3人ですからね(笑)。それもバッティングセンターで教えてた子が来てくれた、それだけでした。かなり遠いところから来てくれたんですが、週一回だけでした。収入はその月謝だけだったので大赤字ですよ。でもやらなきゃ仕方ないですからね」

 

――当初の予想はどのくらいだったんですか?これぐらいは来てくれるんじゃないかなとか。

「いや、もうそれは考えないようにしてました(笑)。子供らにしっかり野球を教えて、それで入って来なければ仕方ないかなと。立地条件も良くないし送り迎えもしなければならないじゃないですか」


――今はどれくらいいるんですか。

「まあそれなりの人数が入ってくれています」

 

――ターゲットは子供なんでしょうか?

「そうです。それで去年やっとチームをつくりました。もちろん、うちの生徒は、そのチームの子ばかりじゃなく、いろんなチームから来てるんですけれども。ここを開いて4年になるんですけれども、親御さんの方からチームを作って欲しいって言う要望がありまして、でもちょっと無理かなと思ってお断りしてたんですが、結局作ることになりました。チームのほうはボランティアでやらせていただいてます。まあ、結局そのチームの子がうちの塾生になってくれますので」

 

――でもそれじゃ、お休みがないんじゃないですか?

「ありますよ(笑)。基本日曜日は休みにしています。チームの公式戦なんかは顔を出しますけどね。僕は監督じゃなくGMみたいな感じなんで」

 

――それで軌道に乗り始めたのはどのくらいでしたか。

「今も軌道に乗ってるかどうかわからないんですけど、まあ1年後ぐらいですかね」

 

――ちなみにこの「野球心」という名前はどういうかたちでつけたんですか?

「立ち上げの時に『野球』の後にいろいろ字をつけようと書いてたんですよ。やっぱり野球部やってて、メンタルっていうのは鍛えられたじゃないですか。それで『心』という字を思いついたんです。横文字も頭に浮かんだんですけれども相手が子供だし、『心』みたいなのがいいかなと」

 

――では、水口さんとすれば、野球を通じて心を1番鍛えられたと言うことでしょうか?「そうですね。やっぱりメンタル面、中学でも高校でもやっぱりメンタルが強くないとできないと思います」

 

――ちなみに、大舞台、例えば日本シリーズみたいなところで、水口さんは守ってる時にボール来い、と思えるような感じなんですか?

「いや、もう何も考えてないです。無ですね。ボールがバットに当たった瞬間だけに気を使ってます」

 

――なぜこんな質問をしたのかと言うと、先日社会人野球の監督さんに話を聞いたんです。その監督さん、オリンピックにも出られたんですが、俺はボールは来るな、と思ってたっておっしゃってたもんで。

「そう思ったら絶対落とします。気持ちで負けてしまうと、絶対いいこと起こりませんから」

 

――ちなみに、大人の方は受け付けてないんですか?

「いえ、受け付けてますけど、全然来ないですね。基本的に平日営業ですから」

 

――では、今は子供さんをメインに教えていらっしゃるということですが、そうなるとやっぱり将来の夢としてプロ野球選手を育てたいという目標はあるんでしょうか?

「そうですね、それはあります」

 

――アマチュアの指導者講習は受講されたんでしょうか。

「はい出ました」

 

――先程の卒業論文の話に戻りますけれども、日本では、トップのプロでやっていた方が野球を教えるのに非常に制約があるじゃないですか。

「そうですね」

 

――それについてはどう思われますか?

「やっぱり、それ取り払ってもらってほしいですね。他の国ではそういう制約は全くないでしょ。元プロ野球選手というのは、ある一定レベルまで行って、いろんな知識もあるわけだから、それを高校生や大学生に伝えるということは、日本の野球界にとってもいいわけじゃないですか。国を挙げてやっているスポーツなのに、そういう制約があるのは何か悲しいですよね。本当はもっとレベルが高くなるはずなのに、どうしてそういう制約があるのかな

 

――ちなみにその講習というのは、どんなことをするのですか?

「アマチュアの指導者の方の話を聞く、まあ、それなりに参考にはなりますけど」

 

――この野球塾では、生徒さんに勉強させてますけども、それはどういう意図なんでしょうか?

「うちに来てる子は中学生、だから野球もしなくちゃならなならないけれど、やっぱりまず勉強しなければならないでしょ。高校にも行かなあかんし。野球だけやってても仕方ないし、ある程度勉強はやってもらわないと困るし」

 

――でも日本では昔から一芸に秀でた人間は、その一芸を伸ばすっていう風な風潮がありませんでしたか。

「いや、でももう大学のほうも、一芸だけじゃダメになってきてますよね。文科省(の方針)も変わってきているという話を聞きます。そういうふうに、今では一芸に秀でたいるだけでは大学にも進めなくなってきてますし、僕の中では勉強をしないとだめだなというのがあります」

 

――それはやっぱり今までやってきた中でのご自身のポリシーと言うことでしょうか?

「野球だけやっていてケガしたらどうすんねんいうことですよ。高校で野球やってました、肩壊しましたってなった後、高校生活どうすんねん。

 ちゃんと勉強さえしていれば、もし野球でダメになってもトレーナーとかそういう別の日で野球に関わって生きていけるじゃないですか。自分の高校時代を振り返っても野球を一生懸命やってダメになってそのままやんちゃな道に走った人もいましたから。そういうこともあってやっぱり勉強は絶対やっとかなあかんなと」


――ありがとうございました。




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トレーニングウェブマガジン VIT UP!に水口栄二さんの記事が掲載されています。合わせてご覧ください。

http://vitup.jp/20190416_mizuguchi_03/

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――それで入ってみてどうでしたか?

「いやー。びっくりしましたよ。もうバッティングが違いました。距離も違うし、打球の速さも違うし。今まで何やってきたのかなあと。環境も全く違いますしね」

 

――その時現役をずっと続けられると思いましたか?

「いや、全く。3年で終わるじゃないかと思いました。 3年で終わってもしゃあないなって」

 

――そのプロ入への背中を押してくれた人に騙されたと思ったとか(笑)?

「それはないですね(笑)。そこは自分の判断ですから」

 

――でもまあ、結局は長い間現役を続けてこられたんですけれども、レギュラーを取るまでには、大石大二郎さんとかかなり大きな壁があったじゃないですか?

「そうですね。あの頃、めちゃくちゃいい選手がいましたから。それを超えるのは、無理ですよね(笑)」

 

――無理だと思ったんですか?

「それはそうですよ。当時、大石さんなんかバリバリでやっていらしたから」

 

――何がすごかったんですか。

「すべてですよ。足も速かったし、守備はうまいし、バッティングはいいし、こら勝てんなと」

 

――でも、足に関してはあの頃もうベテランに差し掛かっていたんじゃないですか?

「いや、もうバリバリですよ。まだ中堅くらいじゃないですかね。そんなにベテランっていう感じはなかったです。まあ、それでもショートのほうは結構入れ代わり立ち代わりだったんで。僕は当時ショートでしたし」

 

――後にショートからセカンドにコンバートされましたよね?

「あれは肩壊したんですよ。もう全然投げられなくなって、ショートは無理だからセカンドやれっていう感じでした。もうその時は大石さんはかなりベテランになっていました」

 

――それで長らく現役をされてきたわけですけれども、その現役生活の中で1番印象に残っていることっていうのは?

「やっぱり優勝ですよね。日本シリーズはやっぱりなかなか経験できないことですからね」

 

――私も何人かの方にお話を聞いたことがあるんですが、やっぱり日本シリーズというのは全然違うんですか。

「それは、どうですかね。僕の場合は、開幕戦の方が緊張しました。何年経っても足がガクガク震えるんですよ。その、日本シリーズはシーズンを戦っている流れそのままの試合なので試合慣れしてますよね。だから、(プレーが)できるかどうかっていう不安はないですよね」

 

――それであの優勝があった後に合併がありました。優勝した数年後にあんなことになるとはもちろん思いませんでしたよね?

「それはね、やっぱり戻るところがないって言うのは寂しいですよ」

 

――ちなみにその前の藤井寺から大阪ドームに移ったときっていうのは?

「それはもう球場は新しくなるし、雨の心配もなくなるし。それでそういう新しいところに移って優勝して、お客さんも入るようになってっていうときの合併ですからね。それはほんとに残念ですね」

 

――あれはやっぱり突然だったんですか。

「はい、突然でした」

 

――でも、(当時の)梨田監督なんかは、うすうすそういう話は聞いていたみたいなことを言っておられますけれども。

「僕らも噂は聞いてたんですけれども、まさかとは思いました。大きい会社でしたし」

 

――それで合併後、違和感なんかもなかったんでしょうか?

「違和感ねえ。でも結局は野球やればいいことですから。僕はあまり感じなかったです」

 

――メンバー的にも、近鉄は豪快でかなり飛ばすイメージがありましたけれども、オリックスはそうでもなかったですよね。

「いえ、オリックスにも飛ばす選手はいましたよ。レベル高かったですし、そういうのってもう紙一重っていうか表現するのが難しいんですけど、野球のレベルはほとんどみんな一緒ですからね」

 

――チームカラーっていうのは、やっぱり違ったんですか。

「うーん。よくそういう話されるんですけど、チームカラーっていうよりも、個人個人、僕は谷なんかとは、チームが違う時も話してましたからね。僕は違和感なかったですね。まあ、最初は元いたチームの選手同士で集まってましたけど、シーズンに入って勝ったり負けたりしていたら、もうそれはなくなってきました」

 

――では、やっとチームが1つにまとまったってのはいつ頃だと思いますか?

「さあ、どうだろう。僕の場合、年齢がいってましたし、監督が仰木さんだったでしょ。だから仰木さんをなんとかしたいって言う気持ちが強かったですね。だからチームが1つになったなっていう感じはなかったですね。とにかく仰木さんをなんとかしたいっていうのが強かったです」

 

――そう言えば、キャンプの初日に水口さんと谷さんを指名してお前らが引っ張って行けって言われたんですよね。

「その前に怒られましたけどね。仰木さんが円陣作ってるとき、他の選手はダーって走っていってるのに、僕と谷だけは歩いて行ってたんですよね。それでお前ら何してんだ!って。ああ、怒られたなあと思って(笑)。

 

――でも、時間通りには行ったんですよね。

「でも、チンタラ歩いてましたから」

 

――で、その合併の頃には、もうそろそろ引退っていうのも頭がちらついてたんでは?

「そうですね。結局、オリックスでは3年でしたから。まあ考えますよね。もちろん合併したときには頑張ろうと思ってたんですけれども、もうなかなかレギュラーでは出ることができなくなってましたからね」

 

――引退を決めた瞬間ていうのはあるんですか?

「いや、それはないです。会社の方からもう来年の契約は無いからって。亡くなられたGMの中村さんから言われましたね。呼ばれて契約のこと言われて、その数日後にそのかわりバッティングコーチどうだって」

 

――それでコーチを1年されて、その後退団でしたよね。

11月にコーチを辞めて、それからどうしようかなって考えたんです。それで野球の指導をしたいなあ、とくに子供たちに指導したいというのがありまして」

 

――その気持ちは、現役時代からおもちだったんですか?

「そうです。僕はプロに入って最初全然打てませんでしたから。それでバッティングに関してノートを1冊作って、ずっとメモしていたんです。それで自分なりの理論っていうのを構築したんですけれども、それを今度は子供たちに伝えたいなと思いました。だったら、野球の教室を開こうかっていうことになったんです。開くまでは、半年位かかりましたけど」

 

――コーチの解任を言われた時は突然ですよね。

「そうです。それでクビになってしばらくは、知り合いのバッティングセンターに指導しに行ってたんです。そこで子供たちに教えて、ああ、面白いなって」

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(続く)

トレーニングウェブマガジン VIT UP!に水口栄二さんの記事が掲載されています。合わせてご覧ください。
http://vitup.jp/20190416_mizuguchi_03/

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