世界400を超える球場を渡り歩いた筆者が独自の視点で、世界の野球を紹介します。

 今年発足した九州アジアリーグ。3月の開幕戦を取材したが、先日、またまた取材に行った。2チームでのスタートと今ひとつ盛り上がりにかけたペナントレースだったが、ソフトバンク三軍や四国アイランドリーグplus、そして琉球ブルーオーシャンズとの交流戦も個人記録だけは公式記録として扱う「公式試合」とするなど、様々な工夫を行い、初年度シーズンを乗り切った。

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(竹田市民球場)
「荒城の月」で有名な山城、岡城跡のある竹田市での試合の後、総合型地域スポーツクラブにより立ち上げられた大分B-リングスの施設を見学すべく球団スタッフの車に同乗させていただき、大分市郊外の野津原(のづはる)へ。球団を運営するスポーツクラブが指定管理者となっている宿泊施設に泊まり、大分球団のオーナーと語り合った。

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(大分球団を運営するNスポーツクラブ) 

 この球団は、地域総合スポーツクラブが立ち上げたプロ球団で、正直資金は豊富とは言えない中、スタートを切った。その中で球団運営は大変だったようだ。実業団チームが母体だったライバルの火の国サラマンダーズとは戦力差も相当あり、ペナントレースを乗り切るのも四苦八苦していた。それでも、コロナ禍にあって感染者を出さずにシーズンを乗り切ったのは、選手が大分市郊外のスポーツクラブを拠点に活動していたことも大きいだろう。

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 コロナと言えば、沖縄へ遠征した琉球ブルーオーシャンズとの交流戦は大変だったようだ。このチームは、九州アジアリーグとの交流戦のための九州遠征の際、複数のコーチ、選手が夜の街へ繰り出し、コロナを貰って来たようで、彼らのためにチームがクラスター状態になってしまったのだ。この九州遠征に続いて大分球団が沖縄へ遠征して琉球と戦うことになっていたのだが、旅立ちの前にはすでに琉球側に体調不良者がいたというのだ。それで、遠征をやめにしようかと大分の球団代表が申し出たのだが、とにかく来てくれというので、とりあえず飛行機には乗ったと言う。

 この沖縄遠征は、当初から企画されていたものではなく、元々は宮崎・日南で琉球球団主催試合として行われる予定だったものだ。これを沖縄で実施したいと琉球側から打診があったが最初は当然断った。遠征となるとかなりの経費がかかる。しかし、航空券、宿泊、現地での移動と全て出すからと言われ、大分側が応じたのだ。

 ところが、あのコロナ騒動。おまけに沖縄は緊急事態宣言も発令され、試合をしても無観客でしかできない。結局、初戦だけ行ってあとは、琉球球団の活動自粛に付き合わされることになったのだ。

 そういう中、現場からオーナーのもとに、SOSが発せられた。「すぐに帰りたい」。

 現場としては、選手の健康を考えると、そう考えるのも当然だが、琉球球団が用意していた航空券はいわゆる格安キャリアの変更がきかないものだった。結局、オーナーは80万円の身銭を切って新たに便を予約するはめになった。

「あと12時間ホテルで我慢してくれりゃいいのに」とこれにはオーナーも苦笑いだった。そういう苦労もありながら、スポーツクラブを運営しながら、ゼロから球団を立ち上げ、シーズンを乗り切ったオーナーには敬意を表したい。

 大分B-リングス(KAL,2021) (2)

 で、今回の取材で手に入れたのが、このキャップだ。

 

 お値段は4500円。正直高い!球団ではサービスとしてつばの部分に選手の一筆(サイン)を入れてもらっているが、なにも書いていないもののほうが売れているようで、そっちはもう1つしか在庫がなくなっていた。どうしようか迷ったが、せっかくなので、エースピッチャーの岡部峻太投手のサインが入ったものを購入した。

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 品は選手が使用しているものと全く同じらしい。しかし、選手の使用しているものの多くは後ろのアジャスターがボタン式なのに対し、売り物はマジックテープになっている。これは製造時期による違いだろう。製造は国内メーカーだが、実際には中国製だという。特徴的なのは、内側に黒いあて布が施されているいることだ。プレー中にはかなり汗も出るので、それを吸収するためのように思えたが、どうも縫製はかなり雑で、それを隠すためのようだ。つばの部分も通常は何本も縫製がなされているが、これには全くなし。つばに表地をあて、本体との継ぎ目だけ縫われている。実際、現場の評判も決して良くはなかったらしい。私的には決してかぶり心地は悪くないのだが、長くかぶっているとなにかと不都合も出てくるのかもしれない。「実使用モノ」と同質ではあるのだが、質はレプリカ並みである。

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 デザイン的には、悪くはない。チーム名を示すように「B」の文字を白いリングで囲っている。ちなみにこの「B」は大分の旧国名「豊後」にちなんでいる。この発想は、大分で以前からあったようで、大分駅には県のマスコットキャラのハチの小さな像が飾ってあった。「豊後」の「ブン」は大分の「分」の音読みにも通じる。ようするに「ブンブン」だ。B-リングスのマスコットもハチである。

 バックロゴもきちんとついているのは、うれしい。

 ことしは低迷したB-リングスだが、来年はなんとか頑張ってほしいものだ。

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昨年の記録的な低勝率から、球団改革を実施し、地区優勝を果たし、BCリーグのチャンピオンシップに臨むオセアン滋賀ブラックス。今シーズンのチームの快進撃を支えたのが、ドラフト候補の菅原誠哉投手と並んで、12勝で最多勝に輝いたサブマリン投手、吉村大佑だ。その彼にインタビューを行った。

Q:よろしくお願いいたします。まずは経歴がお聞きしたいと思います。大学は東京農大オホーツクキャンパスということですが、理系の大学ですよね。

吉村:自分は指定校推薦で来たので。

Q:野球は関係なしの推薦ということですか。

吉村:一応、高校のときに大学のほうに連絡を取ったところ、指定校推薦で来られるのであればそれで来てくださいみたいな感じで。

Q:じゃあ一応野球部前提の入学ということでしょうか?

吉村:そうです。

Q:じゃあ結構強いチームですね?

吉村:大学自体ですか。

Q:はい。

吉村:そうですね。1回、自分が3年生のときに全国でベスト4に行ったので。

Q:じゃあもうプロに行くとかっていうことを意識しながら進んだという。

吉村:自分自身がということですか。

Q:はい、そうです。

吉村:いや、でも大学入学時点ではそんなことは考えていなかったです。

Q:結構理系だったら勉強のほうも大変なんじゃないんですか。

吉村:一番野球部員が多い学科が、文系と半々ぐらいのところで、ちょっと農業が強い感じのところだったので、そんなに…。勉強は第一だったんですけれども、それなりに野球と半々ぐらいで。

Q:なるほど。でも練習時間ってそんなに割けない?

吉村:そうですね。講義の入っていない時間に練習してという感じでした。

Q:練習量は、そうでもないわけですね。

吉村:いや、結構しましたね。

Q:中身は濃いということなんですか。

吉村:はい。

Q:なるほど。ちなみにユニフォームは東農大と同じ緑色? 緑色ですよね、あそこ。

吉村:そうですね。北海道のほうはブルーです。

Q:それは全然違ったんですね。いや、私も大学のとき野球をやっていたので、あの緑が非常に嫌だった。それで卒業するときにBCリーグへ?

吉村:そうですね。

Q:それはやっぱりNPBというのが頭にあって?

吉村:そうですね。正直そこまで本気では考えていなかったんですけれども、本気で目指すようになったのは、ここに入って柳川監督といろんな話をしていく上で、そういう方向性で頑張ろうというふうに思ったんですね。

Q:じゃあここに来たのはもうちょっと野球をしたいというので?

吉村:そうですね。高いレベルで野球をしたかったというのが。

Q:もちろん大学のときはエース?

吉村:いや、全然。

Q:じゃなかったんですか。

吉村:ベンチは3年生から入っていたんですけれども、同級生で1人ソフトバンクに育成(中村亮太)で行ったり、全然自分が投げるほどもないぐらい結構いい選手がそろっていたので。

Q:逆に普通に就職しようとは思わなかったんですか。

吉村:一応就職活動もしていました。独立リーグが駄目だったときとかのためにしていたんですけれども、やっぱり野球が不完全燃焼のままだったので。

Q:それはやっぱりずっと投げられなかったというか、試合になかなか…。

吉村:そうですね。

Q:親御さんは反対しなかったんですか。

吉村:いや、反対はしなかったですね。好きなところでやりなさいと。

Q:それでこっちに来て。ちなみにアンダースローっていつからなんですか。

吉村:アンダースローは高校2年生です。

Q:そのきっかけというのは?

吉村:最初はずっと内野をやっていて、高校のときの同級生がピッチャーが最初3人とかしかいなくて。小学校のときにピッチャーをやったことがあったんですけれども、やったことあるやついないかみたいなことになって、それで手を挙げたらピッチャーをやってみるかとなって、背も低かったので最初からじゃあもうアンダースローでやってみようということになって。

Q:それは指導者のほうからアンダースローでと?

吉村:はい。

Q:なるほど。でもぴんとこないですよね。

吉村:そうですね。

Q:アンダースローのピッチャーって例えばぱっと浮かんだりはします?

吉村:今ですか。

Q:その当時、高校生のときに。年代的に渡辺俊介さんぐらいしか。あと牧田さん。

吉村:知ってはいたんですけれども、自分からやろうとはたぶん思っていなかったですね。

Q:アンダースローの存在は知っていたんですか。

吉村:存在は、はい。

Q:例えば『ドカベン』とかは読んだことはありますか。

吉村:『ドカベン』は全部読みました。

Q:じゃああの里中投手みたいなのは知っていたんですよね。

吉村:はい。

Q:あの頃ってもう、昔はアンダースローはいくらでもいたので。でもその投げ方というのはどうだったんですか。すんなりすぐ投げられたんですか。

吉村:いや、最初は全然投げられなくて、ちょうどその頃藤嶺藤沢高校というところなんですけれども、臨時コーチで石井貴(元西武)さんという方が来ていらっしゃって、コーチ時代に牧田投手を教えていたので、そのときにやったトレーニングとかを教えてもらって、それでちょっとずつという感じです。

Q:それでこっちに来て、ぼんぼん勝てていったわけですけれども、何か変わったんですか。

吉村:急に何かが変わったというわけではないんですけれども、大学のときから結構走っていて、厳しい練習で、こっちに来てからも結構厳しい練習で、その成果が出てきたのかなというのと、あと自分で一番大きいなと思っていたのは、コロナ期間で大学に行けなくて家で自粛期間になっていて、そのときに時間がすごくあったので自分のフォームとかいろいろ考えていたら、ちょっといい感じに変わったということでしょうか。

Q:なるほど。レベル的には、大学でやっていたときのレベルとこっちだとどっちが高いんですか。

吉村:大学で公式戦で正直1回しか投げてないので、どっちかというのはちょっと分からないですけれども。

Q:その大学で投げたというのは地元のリーグ戦ということ?

吉村:そうですね。

Q:全国大会じゃないですよね。

吉村:全国じゃないです。

Q:じゃあ正直なところ、レベルが下がったから自分が勝てるようになったんじゃなくて、自分自身が伸びたというふうな感じの捉えなんですかね。それか経験をさせてもらっているからというのか。

吉村:下がっているということはないと思うんですけれども、自分が成長はしているかなと。球速を見てもこっちに来てから78キロ球速がアップして。

Q:それはやっぱり指導者のアドバイスとかって大きいんですかね。

吉村:そうですね。

Q:実際の話、BCリーグでやる選手って大学でも結構主力だった選手が多いですよね。そのときに最初気後れとかはなかったんですか。

吉村:正直大学4年間ほぼ投げていなくて、自信はあまりなかったんですけれども、オープン戦とかで投げていくうちに、もしかしたら通用するかもしれないと思い始めて、開幕戦を任せてもらえて、そこで勝てたときにちょっと自信がついたというか。

Q:その自信もやっぱり徐々になんですか。

吉村:そうですね。あと打線がすごく頼もしいので、自分が最低限の仕事ができればという気持ちに余裕があって投げられているので。

Q:このままいくと、もう最多勝はほぼほぼ確実ですね。

吉村:そうですね。

Q:そこが頭に出てきたというのは?

吉村:たぶん8勝目のときに埼玉の由規投手と並んで、そのときぐらいからは意識はしていました。

Q:彼は元プロですよね。

吉村:はい。

Q:それはどうなんですか。

吉村:なかなかそういう方と競えるところもないと思うので。

Q:ですよね。

吉村:正直負けてもともとの相手なので、自分自身、食らい付いていきたいなという感じで頑張っていました。

Q:でも実際に投げ合ったことはないですよね。

吉村:投げ合ったことはないです。

Q:ですよね。それって、独立リーグに来たときに、今ここで自分が主戦ピッチャーで優勝チームで最多勝とかっていうのは想像できました?

吉村:いや、想像できないです。

Q:実際どのぐらいできると思っていたんですか。

吉村:正直大学でもメンバーには一応入っていたので、ある程度の低いラインですけれども自信はあったんですが。

Q:先発というのは考え付きました?

吉村:いや、大学のときはもうほぼずっとブルペン待機みたいな感じで。シーズン前に監督と話して、NPBを目指すのであれば両方できるところを見せておかないとみたいな話になって、まず先発でいってみようかという感じで。

Q:やっぱりその言葉って大きいんですね。正直な話、入ったときってNPBってそんな頭はないですよね。

吉村:そうですね。

Q:でもそこでNPBを経験した監督さんから、プロもあるんだと言われたときに。

吉村:いや、正直そうですね。そこで結構変わりましたね。

Q:それも、基本的に週末か。でもその調整をずっとするわけですよね、間隔を置いて。そういうのも初めての経験ですよね。

吉村:そうですね。はい。

Q:その難しさというのは?

吉村:その調整の難しさはそんなに感じてはいないんですけれども、やっぱりシーズンをずっと戦うというのが初めてだったので、結構今は正直たぶん疲れもだいぶたまってきていて、89月はちょっと調子を落としているので、そういう部分でシーズンを戦うというのは非常に難しいなという部分は感じていますね。

Q:じゃあ最後なんですけれども、最初にお話ししたことですが、これからポストシーズンがありますよね。当然そこでも柱として活躍するんですけれども、本音を言うと、あともう1試合先発したいのか、もう休んでポストシーズンに備えたいのか、どちらなんですか。

吉村:たぶん15日に調整で3イニングぐらい投げるんです。なので先発はしなくてもという感じですね。調整で少し投げて臨みたいという感じの気持ちです。

Q:でもやっぱり勝ちは付けたいなというのは。

吉村:それはそうですね。できれば1人では取りたいですけれども。

Q:1人でね。今日(最多勝争いのライバル、菅原誠也投手が先発)なんかはどういう感じなんですか。

吉村:今日ですか。

Q:勝てと思うんですか、やっぱり。

吉村:それはチームが勝ったほうがいいので、そこは別に。

*ヤフーニュース個人にて吉村投手の記事を配信しております。
BCリーグチャンピンをかけてマウンドに登る、滋賀ブラックスの異色のサブマリンエース

 前回に続いてメキシカンリーグから。モンテレイにメキシコの野球殿堂があると書いたが、初めて訪問した1998年当時、そこではメキシカンリーグ球団のレプリカキャップを売っていた。その際、そこで1つ購入したのがこのキャップだ。

ブロンコス・デ・レイノサ(LMB)

 黒地に白い縁取りのオレンジ色の「B」の文字の刺繍。なかなかシンプルだ。刺繡も目が粗く「安物」感は否めない。ただしつくり自体はしっかりしている。後ろのアジャスターはボタン式になっている。お値段は55ペソ。当時のレートで870円ほどだ。前回紹介したニューエラのスルタネスキャップが3000円ほどしたことを考えると格安だ。

 

 レイノサはアメリカとの国境の町だ。国境を流れるこのリオグランデの河口はタマウリパス州といい、上流の町ヌエボラレドにはテコロテスというチームがある。

 私がこの町を訪ねたのは1995年。当時は、ヌエボラレド、レイノサともメキシカンリーグのチームがあり、ヌエボラレドに宿をとり、翌日、アメリカ側のラレドに戻ってグレイハウンドのバスでテキサス州のマッカーレンに(ちなみにここにもかつて独立リーグのチームがあった)。そこから連絡バスに乗ってレイノサの町に入った。当時グレイハウンドはアメリパスという乗り放題バスを売っていたので、メキシコ側から移動するよりこの方が安くついたのだ。

 町の中心から球場まではずいぶん距離があった。今調べてみると4キロ半ほどだ。真夏の昼間だったのでずいぶんバテたことを覚えている。途中大きなスーパーマーケットで涼をとった。

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 (
アドルフォ・ロペス・マテオス球場)

 当時は結構な人気で内野しかないスタンドは7割方埋まっていたように記憶している。試合後はセントロに向かうバスがあったのでこれに乗り、車窓にホテルの文字を見つけたのでそこで降りてその安宿で一夜を明かしたのを覚えている。

 当時のメキシカンリーグはマーチャンダイズが未発達で、ここではキャップの販売などは行っていなかったが、1998年に野球殿堂訪問時にこのチームのキャップを見つけたので買った次第である。

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(ブロンコスの選手たち/1998年,モンクローバ)

 レイノサのメキシカンリーグ球団の歴史は、1963年までさかのぼる。本拠地球場、アドルフォ・ロペス・マテオス球場もその際に建設された。このチーム、ブロンコスは1969年に初優勝を遂げたが、1971年にはブラボスに改称。1976年限りで南部のタバスコ州へ去ってしまう。

 2代目ブロンコスは、1980年に誕生。ベラクルス州からコルドバ・カフェテロスが移転し、以前の球団名に改称する。メキシコでは多くの場合、都市名とニックネームは紐づけられているのだ。このチームは1981年の地区優勝プレーオフでライバル、ヌエボラレド・テコロテスを破ってメキシコシリーズに進んだが、翌年シーズン限りで再びこの町を去り、レオンを本拠とする。移転後は、かつて名乗ったブラボスに改称した。

 この町に再びブロンコスが帰ってきたのが、私が訪ねた1995年である。1989年にモンテレイにできた2代目インダストリアレスが移転してきて3代目ブロンコスになったのだ。このチームは2003年まで活動した後、サンルイスポトシに移転し、この町のチームであるチュネロスに改称した。このキャップはこの時代のものである。

 そして2004年から5シーズンの空白期間の後、2009年シーズンにティファナからポトロスがやってきて4代目ブロンコスとなる。このチームは8シーズンプレーするが、2016年限りで廃絶。このチームに変わり新たに承認されたのは、2代目のチームの移転先レオンの新球団だった。この球団は、かつての愛称、ブラボスを名乗って現在に至っている。

 

 チームがなくなった現在も、ライバルチームだったヌエボラレドのテコロテスが試合を行っているようで、いまだこの町のプロ野球の灯は消えていないようだ。


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