「来年もアメリカでやりたいですね。28って年齢はそろそろ次のこと考えなければならばならない時期なんでしょうけど、今のところ自分の中では辞める理由がないんですよ。まだうまくなれるって思っているうちは辞めることはできませんね」
 小野真悟(四国IL/愛媛→ペコスリーグ/ラスクルーセス)は、アメリカでのファーストシーズンを終えて、自身の今後をこう語った。

 大阪の高校野球の名門、東海大仰星高校から八戸大に入るまでは順風満帆の野球人生だった。シニア時代の同期には、今をときめく大引(オリックス)、西岡(元ツインズ)などのスター選手がいるが、彼らと比べても自分が引けを取るとはこの頃は思いもつかなかった。
「あいつからは、2打席連続ホームラン打ちましたよ。それで覚えています」
 後の巨人のドラ1、村田透(現インディアンス・マイナー)についても、さらりとこう言ってのける。彼らと同じ舞台に立つことは、小野にとって必然であった。

 彼が野球のエリートコースを外れた原因も、また、他の多くの独立リーガー同様の野球界にはびこる「体育会気質」だった。
「実のところ、正式に入学する前からいやになってました。特待メンバーだったんで、もう(高校3年の)年明けくらいから練習に参加していて、キャンプにもついていったんですけど、この時点で指導者とはうまくいってなかったですね」
春のリーグ戦が終わると、大学を辞めた。野球でプロに行くため進んだ大学に野球を辞めた以上いる理由はなかった。
「高校でも、先輩が後輩に対して、しごきってのは、多少ありましたよ。でも、大学のはやられ方がひどかったですから…。大学に入ってまで、こんなことに耐えなければならないっていうのは、考えられませんでした。寮生活だったんですが、ここにもコーチが住み込んでいて…。寮っていうより「おりの中」って感じでしたね」
 
 大学中退後は、大阪に戻って「ぶらぶら」していた。プロ野球選手になるという夢は、小野の頭からはすっかり消えていた。
「このころは野球がすっかり嫌いになってました」
 野球の神様は、そんな小野を見放さなかった。
「8月頃だったかな。草野球に誘われたんですよ。そのチーム、葬儀屋さんがやっていたんですが、そこの社長さん、軟式のA級からC級までチーム持ってるくらい野球好きだったんですよ。それで、僕のこと気に入ってくれて、明日から就職しろって…」
 嫌いになった野球のおかげで、小野は職を得ることができた。
 軟式とは言え、再びフィールドに立った小野は、子供の頃抱いていた夢を思い返すようになった。いつしか、出身校のグランドでひとり練習するようになっていた。
「このとき、僕を大学に紹介してくれたNPBのスカウトさんに再会したんですよね。その方のおかげで大学行けたのに、辞めた時、その人に報告できなかったんです。グランドで顔を合わせて、もう一度野球しますって言ったら、その方、そうかって言うだけで…。本当は言いたいこともいっぱいあったんだろうけど、本当にありがたかったです」
 そのスカウトは現在では第一線を退いているというが、二人の関係は今も続いているという。
 
 再び硬球を握ることにした小野はプレーの場を探さねばならなかった。しかし、大学を1年も経たずに中退した男がプレーできる場は限られていた。
「最初、(社会人野球の) NOMOクラブに入れないかなって、練習見に行ったんですよ。クラブチームなら働きながら、プレーできますしね。それで、監督さんに入りたいって声を掛けたら、もう一方おられて…。その方が、甲賀医療専門学校の方だったんですよ」
数日後、連絡が入った。NOMOクラブからではなく、甲賀からのものだった。
「ウチに来ないか」
 金を払ってまで、野球を続けることはできないと思っていた小野だったが、特待生という条件に決心を固めた。
 近年増加しているスポーツ系の専門学校。午前中はスポーツ医学や、スポーツスポーツリハビリの講義を学生として受け、野球は昼からというスケジュールだった。

 2年の修業年限を終えた2006年、小野はクラブチーム、京都ファイヤーバーズに入団した。人生のパイプラインから一度漏れた人間が、ふたたび本流戻ることが難しい日本。大学を中退した選手が、すんなりドラフトにかかることなどなかった。かつて同じフィールドで切磋琢磨した西岡は、その野球センスをもって次第にNPBで頭角を現していた。この年、西岡は千葉ロッテの主力として日本シリーズを制し、初めて行われたアジアシリーズでもこれを制している。
 そんな同級生の活躍を尻目に、小野は、アルバイトをしながら野球を続けた。

 ファイヤーバーズは、前年にアメリカ独立リーグに誕生した日本人によるチーム、侍ベアーズを母体としたチームである。この時期、アメリカで隆盛を極めていた独立リーグブームの波が、日本にも押し寄せてきていた。2005年にリーグ戦を開始した四国アイランドリーグに続いて、北信越BCリーグが発足した。翌年からのリーグ戦開始に備えてリーグはトライアウトを実施したのだが、小野は迷わずこれに参加、見事に合格して、初めてのプロ契約を勝ち取った。

 2007年、小野は新潟アルビレックスの一員としてフィールドに立った。チームの主力として0.274の成績を残したが、チームは敗戦を重ね、記録的な勝率で最下位に沈んだ。
「やっぱり負けが込むと、チームの雰囲気も悪くなるでしょ。正直みんなバラバラでしたね。個々の選手の意識も低かったですし」
 最下位をひた走るチームの中、ひとり溌剌としたプレーを見せていた小野に、優勝チーム、石川ミリオンスターズの監督、金森栄治が目をつけた。
 金森の申し入れにより、小野は独立リーグでは珍しいトレードという形で移籍することになった。新天地の野球は、同じリーグと思えないほど全く質の違うものだった。
「それを消化できなかったんです。バッティングもそう、金森さんの理論も、頭では分かったような気がしても、いざ体で実践しようとするとできない、そんな1年でした。」
出番は激減、わずか30試合にしか出場できず、ヒットは8本、打率0.190にとどまった。小野はシーズン後、退団を申し入れ、了承された。翌年に発足する第3の独立リーグ、関西独立リーグの神戸9クルーズに入団するためだった。
「正直、戦力になってませんでしたから、移籍に問題はありませんでした。神戸に移ったのは、単純に地元のチームでやりたかったからです。BCでやっていて、地元の選手ってけっこう応援されるんですよね。そういうの見て、やっぱりうらやましいっていうか…。関西だと、両親や友達にも見に来てもらいやすいでしょ。もちろん環境を代えて試合に出たいっていうのもありましたが」
 後に財政難とそれにともなう様々な騒動を起こすこのリーグだが、発足当初は日本の独立リーグとしては、破格の20万円の月給が話題となった。しかし、報酬は小野にとって大きな問題ではなかったと言う。
「報酬は、魅力ではありましたけど、気にはあまりなりませんでした。そもそも後で、まともに出なくなりましたからね(笑)。神戸は、それでも最後の月の給料の支給は次の年の2月まで伸びましたけど、一応9か月分、ちゃんと出してくれましたから、まだましな方ですけど…」
 この新天地では、再びレギュラーポジションを獲得、打率も初めて3割をマークし、「プロ初本塁打」を含む、2本のホームランも放った。しかし、ゴタゴタ続きのリーグ運営は、野球に専念できる環境を与えてくれなかった。

小野が次のプレーの場に選んだのは、四国だった。
「以前から四国から縁はあったんですよ。オフに使うジムが、四国だったんです。松山と高松にしかその系列のジムがなかったんで、マンダリンパイレーツとオリーブガイナーズに自分で売り込んだんです。」
 BCリーグに戻るつもりはなかったという。
「BCでの1年目、アイランドリーグの選抜チームと対抗戦があったんですよ。僕も(その試合に)出させてもらったんですが、その時アイランドリーグの方が、レベル高かったんで…。それもあって四国に行くことにしたんです」
 アイランドリーグでは、準レギュラーとして2年間で64安打を放ち、0.270の打率を残した。そして、2012年、小野は新天地としてアメリカを選んだ。