ブログ005 


僕がピアノを始めたのは小学校2年生か3年生の頃だ。僕には3歳下の妹がいて、最初は妹だけが習っていた。妹は日本舞踊も習っていたが、両方とも長続きはせず止めた。そして大きな(当時はそう見えた)アップライトのピアノだけが洋間に残った。


当時の自宅は平家で、ピアノの置いてある4.5畳の洋間と、4.5畳と6畳の和室と、台所に風呂場(石炭)と和式のボットン便所だ。今の感覚からすれば、とても狭い間取りだ。3DKじゃなくて、4人家族で3Kだからね(笑)


でも卓袱台は簡単に縦位置になり立て掛けられる。勿論、ダイニングテーブルや椅子もベッドもソファーも勉強机もない。家具らしいのは水屋と衣装箪笥と白黒テレビ。母の三面鏡と、そして洋間のアップライトピアノだけである。


親の言うことを聞かないと、押入れに閉じ込められたから、押入れ収納も余裕のスペースだ。そんな訳で、家が狭いと思った事はなかった。宿題は卓袱台の上か、畳にうつ伏せになってするものだった。もっとも宿題をした覚えは夏休み以外は全くない。


庭さえ広く感じた。当時、父は会社から貰ったパブリカに乗っていたが、車庫証明なんてない時代だから自宅前の私道(団地の共有スペース)にまるで我が家の土地の様に占有して停めていた。


尤も、24軒住宅(団地はそう呼ばれていた)で自動車がある家はタクシーの石尾さんか、パブリカの横川さんだけだった。近所で急患があれば父は大泉学園駅近くの病院までパブリカで搬送してあげた。高度経済成長期に色々な地方からやってきた人ばかりの24軒住宅だったが、近所づきあいは皆良かった。


記憶はピアノよりも遡る。練馬の実家に引っ越して来た話だ。僕が幼稚園に入る直前だから3歳の頃に、話が大袈裟な父なので真偽はわからないが、どうやら父がサラリーマン時代に仕事で大きな成果を出したので社長(とは言っても父の群馬大学の応用工学色染科の先輩)がお金を出してくれて、練馬の家を180万円(物価が安かった)で買ってもらったのだ。本当は会社名義にする予定だったらしいが、父が植木等みたいにヨイショして、社長が父の名義にしたらしい。


練馬の大泉学園の小さな家が僕にとっても振り出しだ。そしてパブリカ(興洋産業と会社名が書いてあったが、パブリカも父は会社からもらってしまった)に乗っていた。家と車を興洋産業からもらったら、なんと父は会社をさっさと辞めて独立。
「泉工材加工(株)」を興したのだ。シンジラレナーイ!


当時の実家は平家で、と言うか周囲には平家しか無かった。だから「山並み遠く富士は浮かぶよ(大泉第四小学校の校歌冒頭)と、遊んでいて、いつも、何処からでも富士山が遠くに見えた。


ところが、富士山より高くそびえる2階建の売り家が近所で建った。小学校2年生の時である。その2階建という物件をガキ連中で自転車を漕いで見に行った覚えがある。


僕は幼稚園になる直前に、練馬区の西大泉町に引っ越して来たのだが、その西大泉町(街の面影は無い)は練馬区の北西の端に位置して、その又一番北西の端に実家は位置していた。つまり辛うじて東京23区内ではあるが、其処は最果ての地であり、最寄りの大泉学園駅までは、まず久保新田のバス停まで10分くらい歩いて(しかも農地の私道を突っ切て)、西武バスに30分揺られて到着する。遠い。どんだけ〜!


実は大人になって気づいたのだが、バスのコースは大回りで、大泉学園駅からだと、大人の足で徒歩で30分だ。これならば健康的に歩いた方が良い。しかもバスの待ち時間を考慮すれば断然早い。何せタダである。しかももっと驚いたのは、隣の保谷駅からだと徒歩20分かからない。西武池袋線で池袋駅からは大泉学園も保谷も運賃は同じか、違っても10円だ。なのに僕は、物心ついてから大学を卒業して東京を去るまでの間、保谷駅には全く足を向けなかった。「境界線を超えないこと」は横川家では不文律の掟になっていたからだ。


ところが、保谷市(今は西東京市と呼ぶらしい。京から天子様が江戸に移られたのが東の京で、東京と命名されたのだから、其れに西をつければ京に戻ってしまうのではないか。まあ三多摩郡部の人は田舎者だから仕方ない。と言った調子で侮蔑するのだ)は、23の特別区ではなく、東多摩郡だから、当時の僕だって保谷駅には格下感があったのだろう。そんな意味のない境界意識があってか、当時は保谷駅を利用しなかった。


東京23特別区域以内とは言え、西大泉町なんて、大根とキャベツ畑が殆どで、何丁目なんてなかった。僕の家は1196番地だった。網走番外地よりちょっとマシな1196番地。それが今は偉そうに6丁目である。近所に平家はない。ライオンズのマンションが建っている(笑)


話を戻す。僕の黒歴史であるピアノ時代のころだ。


まさか実家の裏の貞ちゃん(引っ越した)の家を父が購入するとは思わなかった、更にその裏の佐藤先生(年配のご夫婦で奥さんが日舞の先生だった。旦那さんはスペインの駐在武官だった。お嬢さんがピアノの先生である)の家まで購入したのだ。


泉工材加工(株)は、離型剤(発泡プラスチックを型からスムースに取り出す為の化学薬品)を作って販売していた。と言っても神田で父が一斗缶(18L)単位で薬品を仕入れ、庭先の蛇口からホースで水を入れ、薬品の濃度を薄めると出来上がり。


つまり一斗缶を何倍にも増やし(離型剤として機能するにはある程度←そこが泉工材加工の企業秘密、まで薄めた方がいい)て、一斗缶に泉工材加工(株)の紙を貼って、同じ値段で必要な工場に出向いて売るのだ。


僕も小学生だったけど、木の棒で水で薄めた液体を混ぜる仕事をしたり、一斗缶に会社の紙を張ったり、良く働いた。ライトバンに父と一緒に離型剤の納品に行くと、子供が待っているからか、工場の人もさっさと手形を振り出してくれるらしい。働いてボロ儲けする喜びは、幼心に良く覚えていて、今でもあの頃が懐かしい。


今日は時間がないからここまで(笑)