2011年08月

陸前高田市災害ボランティア第2弾 復興街づくりイベント 〜街おこし・夢おこし〜

神奈川災害ボランティアネットワーク主催のツアーに参加し、「陸前高田市復興街づくりイベント 〜街おこし・夢おこし〜」の運営をお手伝いしてきました。

地元商店復興のきっかけの為に、地元の商店をはじめ全国の名産品が出店されていました。2日間で15,000人の来場者を予定したところ、17,500人が来場されたようです。
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動く七夕
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会場は高田小学校のグランドと体育館。高田小学校は街の高台にありますが、150センチ位のところまで津波が来ました。体育館には軽自動車が2台流れ着いたと地元の方に教えられました。
今では瓦礫もきれいに取り除かれ、授業も行われています。
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高田小学校体育館からの景色。震災以前は高田松原、ビル、森があって海は見えなかったそうです。それが、今では海まで遮蔽するものは何もありません。
夏の海の青さが目に沁みます。
破壊された街と海の青さのコントラスト。被災者の人たちにはどう映っているのでしょうか?
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今回私が担当したのは体育館への誘導と館内の案内でした。

体育館の中は大きくは4つに分かれています。
々眦直掌兇両召鮖箸辰得郷綮に安置する大日如来座像を彫る。
⇔α姐眦弔粒絞造澆亮命拭
9眦長盥蚕馥刺堯θ術部の作品展示
ぅードゲーム大会

々眦直掌兇両召鮖箸辰紳臚如来座像を被災者の方に呼びかけ、一人ずつノミを取って一彫りしてもらいます。
また、受付で記入された名札は仏像の中にしまわれるので、供養の為に亡くなられた方のお名前も書いて頂いて一緒にお納めします。
彫った松の欠片はお守りとして、頂く事ができます。
京都との間では大文字の問題があったので、被災者の方の反応が気になりましたが、多くの方は喜んで参加して頂きました。しかし、中には「また放射能が問題で断られないの」と心配する方もいらっしゃいました。
来年3月11日の完成を目指しています。清水寺に安置されたら是非見に行きたいと思います。
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街並みの写真
高田松原の在りし日の写真は、見事な松林だったことを改めて知らされます。
多くの人が関心を寄せたのは震災前と後の比較写真です。地元の方が撮影されたものです。
撮影可とあったので比較写真を撮影してきました。
元の街の姿を知らない私はあまりの落差に言葉を失いました。元の姿を知っている人たちにとっては、懐かしいというより辛い写真かもしれません。
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9眦長盥蚕佚
書道部の作品は一つ一つに新たに出発しようという、若い力強さを感じさせられます。
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ぅード大会
子どもたちが大勢集まり、カードに熱中しています。私にはカードの事は全くわかりませんが、子どもたちが生き生きとしている姿を見るのは嬉しいものです。
大会が終わった後、低学年の女の子が手まり歌を歌いながらボールをつき、一生懸命話しかけてきました。上手くいった時に拍手をすると、はにかみながらすごく嬉しそうにしてとても可愛かった。



外では出店のほかに、メインステージでは高田中学の吹奏楽など数々の催し物がありました。
私は運よく休憩中に川嶋あいのライブをステージ脇から見る事ができました。

青空のもと「旅立ちの日に」を聞くと胸に熱い思いがこみ上げてきます。


「旅立ちの日に」はこんなエピソードがあります。
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東日本大震災の大津波で壊滅的な被害を受けた宮城県南三陸町の戸倉小の卒業生と、
シンガー・ソングライターの川嶋あいさん(25)が4月6日、卒業生らが避難生活を送る同県登米(とめ)市立登米(とよま)中で対面した。

戸倉小学校の卒業生は震災が発生した3月11日夜、避難した高台の神社で、卒業式で歌うはずだった川嶋さん作詞・作曲の「旅立ちの日に…」を歌って励まし合った。
川嶋さんは24日の本紙夕刊でこれを知り「何か力になりたい」と、休みを利用して来た。

 戸倉小は大津波で校舎が損壊、卒業製作のオルゴールや卒業アルバムも流された。
卒業式は8月に延期となり卒業生23人は今、町内外で避難生活を送る。

この日、登米中には卒業生11人と保護者、教員ら計約30人の姿が。
校庭でステージに見立てた階段に立ち、川嶋さんと「旅立ちの日に…」を歌った。
震災当日の夜、雪の降る神社の境内でも歌った曲。歌い終わると、卒業生や保護者らは涙をぬぐった。

 川嶋さんからは“卒業記念”の木製のオルゴールキットが一人一人に。
川嶋さんは「絵を描いて、私に送り返してください。メッセージを添えて再びプレゼントします」と伝えたという。
また卒業生が「よかったら8月の卒業式に来てください」と誘うと「必ずスケジュールを空けて来ます」と答えた。

そして、約束通り21日の卒業式に出席し、「旅立ちの日に…」を弾き語りで合唱した。
号泣しながら「震災というつらい経験を乗り越えたことを糧に、今後もあきらめないで」とエールを送った。
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最後に地元の方と1時間近く話を聞く事ができたので、その事について書きます。

体育館で案内をしている時に地元の60代位の女性2人から、貴重な話やまた考えさせられ話を聞く事ができました。

一つは津波当日の地元の様子です。
津波が来た時に街の防災無線が「津波が来ます。早く逃げてください」と連呼していて、最後に津波で電気系統がやられてブツブツと切れる音まで聞こえたそうです。
そして、今でもあの声が忘れられないと。
一人でも多くの人を救おうと自分の命を顧みず津波が来るまで無線で呼びかけ続けた人には頭が下がります。運よくアナウンスされた方は無事だったそうです。本当に良かった。

高田小学校も児童は全員校庭に避難していて、先生が校舎の3階から津波を監視していました。しかし、現在の見晴らしと違い当時は3階からでは高田松原の様子も見る事ができなかったそうです。
一人の消防団の方がおばあさんを担いで上がって来て、「津波が来てる。こんなところに居たらダメだ。山に登れ」と言ったそうです。おかげで皆はすぐに裏山に駆け上がり助かりました。
消防団や市役所職員の防災に関わる方たちの命を顧みない懸命の救助が、多くの方の命を救ったという事について、新聞記事でなく生の声を聞くことで新たな感動を覚えました。


二つ目は「てんでんこ」についてです。
今回の津波でお年寄りを助けようとして若い方が多く亡くなられました。親や祖父母を助けようとした方たちです。
お年寄りだけが助かり、助けようとした若い方が亡くなったケースも多いようです。
自分だけが助かり、自分を助けようとして息子や娘そして孫が亡くなった。残った方はどんなに辛い気持でしょう。
自分が居なければよかったという気持ちに苛まれていると思うといたたまれない。

三陸地方に伝わる「てんでんこ」という言葉。「てんでんばらばらに」という意味です。
津波が来たら、親だろうが子どもだろうが構わずに自分一人で逃げる。
それ位の覚悟がないと津波から逃げられない。
一人でも多くの人が生き残る為の、非情かもしれないが仕方ない選択。
これは大津波を経験した昔の人たちからの言い伝え。大津波を経験したことのない人にはこの本当の重大さがわからなかった。

どこから来たのと聞かれ横浜と答えると、横浜もいつ津波が来るかわからないんだから、家族の間で普段から「てんでんこ」に逃げるということを話し合っておきなさいと言われました。


三つ目は隠れた被災者についてです。
話をしてくれた方の家は小学校の裏の高台にあり、津波の被害はなかったそうです。しかし、市内の職場は津波の被害を受け、現在失職しています。したがって、お金も無いし、将来への不安があります。
とても悔しそうに話されたのですが、それは家が被害に遭っていない人は被災者の扱いは受けられないということでした。
義援金も1円ももらえない。別に沢山お金が欲しいわけじゃない。2万でも3万でもいい、被災者として認めて欲しいということでした。
家は確かに無事だったけど、職は失くしたし、水道・ガス・電気は数カ月間止っていた。
それなのに被災者とは認めてもらえない。悔しさが話をされているうちに、どんどん高まってきました。
最後に「関係のないあなたにこんな事を言うのは筋違いだけど、聞いてくれてありがとう」と言われました。
多分、地域の中では被害の少ない人は不満をぶちまける場所がないのだと思います。身内を亡くしたり、家を流された方が優先されて支援されるのは当たり前とわかっているけど、
自分たちは誰からも見放されているという孤独感があるのでしょう。

同じ地域の中でも、100人いれば100人状況も違えば、求めることも違うのだという事を知らされました。



イベントの最後には高田松原があった海岸の上に花火が上がりました。
街の明かりが消え、真っ暗な陸前高田の夜空に、空いっぱいに開く大輪の花火や色鮮やかな花火が、街の復興を後押ししているようでした。
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たった1日のボランティアでしたが、地元の方の笑顔や子どもたちがはしゃぎ回る姿を見て癒され、地元の方から貴重な話を聞け、大日如来座像の彫刻に参加し、川嶋あいのライブを見て最後に花火まで見る事ができました。

色んな事を感じたり、考えさせられたり、また地元の人一緒に楽しんだり、いつもの清掃とは違った貴重な体験でした。
どれだけ役に立てたかはわかりませんが、次の言葉を糧に今後も出来ることをやっていこうと思います。

川嶋あいさんがある高校生から言われた言葉
「私たちは微力だけど、無力じゃない」



石巻市災害ボランティア第5弾 避難所大掃除

今回は久しぶりにピースボート直々のツアーに参加。

8月17日から19日の3日間、石巻市内の避難所を回って大掃除をして来た。

バス5台総勢150名で新宿を出発。夏休みの会社が多く、大勢のボランティアが集まった。

宿泊は石巻専修大学。石巻市のボランティアセンターが設置され、ボランティアに宿泊地として解放されている。

夕陽に染まる石巻専修大学
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今回の作業は、石巻市で避難所として使用されている小中学校の体育館を回って布団の乾燥や大掃除。

初日は釜小学校、2日目が山下中学、3日目が開北小学校。

30名が2班に別れ、大掃除と布団乾燥を行った。

布団乾燥は一度掃除機で埃やダニを吸い込んだ後、トラックの荷台を密封し熱風を送り込んで乾燥させる。
荷車の上にあるのが、乾燥機と発電機。使用時は荷台から降ろす。
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乾燥させた後、再度掃除機で死んだダニを吸い取る。


大掃除はゴミを取るだけでなく、ダニやカビを退治する。

避難所はテレビで見たのと同じくダンボールで部屋が仕切られている。

大体部屋の広さは一人当たり一畳半〜二畳くらい。

一人暮らしの人の部屋は本当横になったら、服を入れたダンボールで一杯になってしまう。

ベッドはダンボール箱で作られている。

床は青いマットにダンボールを敷いただけ。

大掃除は、荷物を部屋から全て外へ出して、ダンボールを剥がして外へ出す。

床の青いマットは除菌スプレーをしながらふき取り、仕上げにウェットティッシュで汚れも落とす。

外したダンボールも表裏とも、マット同じく除菌と汚れ落としを行う。

そしてダンボールを床に敷き、ガムテープでつなぎ合わせる。

最後に荷物を元通りに戻して完了。

部屋が終わった後は通路の掃除。

通路にも青いマット敷かれていて同じく拭き掃除を行う。次に時間の経過と共にマットが波打って歩き辛くなっているマットを引っ張って伸ばし、ガムテープてしっかり押さえつける。

以上が作業の概略。

避難所1箇所を1日掛けて終わらせる。

毎日移動に使用したバス(元路線バス)
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2日目の山下中学に居たマー君ミニチュアダックスフンド14歳
津波が来た時マー君の2か月分の食料をバッグに詰めて逃げたので、震災直後は人よりマー君の方が恵まれた食生活だったと笑って話してくれた。
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山下中学の隣の石巻工業高校。フェンスに力強い言葉
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山下中学の避難所の壁に張ってあった言葉
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石巻も仮設住宅が急ピッチで建設され、今回の避難所の方の多くも仮設住宅へ移る。

「住むところがないと進歩もないさ」と避難所のおばあさんが話してくれた。
そのおばあさんも9月には仮設住宅へ移るそうだ。

車で走ると到るところに仮設住宅が出来ているが、中には山の中で買い物に行くにも車がないと行けないような場所にあることが結構多い。

老人がこんなところに当たってもとても住めるようなところではない。

若い人にとっても通勤・通学がとても不便だ。

仮設住宅が出来ても場所によっては移りたくない人が居るのもわかる気がする。


最後に今回のボランティアを通じて感じたのは、これからは被災者の方の自立をどうやって支えていくかが重要になってくるということ。

避難所も多くは9月を目処に閉鎖されるようだ。

仮設に移った後は、これまでのように食事が3食待ってれば出てくるわけではなく、光熱費も自分で支払わなければならない。

収入を閉ざされた人達がどうやって生活していくのか。

どうやって生活苦の人達を支えていくのか、次のステップにボランティアも入っていかなければならない。




八ヶ岳単独行

【日程 】  2011年8月12日-14日
【山域】 八ヶ岳
【山名】 天狗岳、根石岳、硫黄岳、横岳、赤岳、中岳、阿弥陀岳
【天気】 12日晴れ、13日曇り一時晴れ・雨、14日晴れ
【メンバー】 単独
【コース】 12日 白駒池⇒高見石⇒中山⇒天狗岳⇒根石岳⇒オーレン小屋
     13日 硫黄岳⇒横岳⇒赤岳⇒赤岳天望小屋
   14日 赤岳⇒中岳⇒阿弥陀岳⇒美濃戸口

11日
22:30竹橋毎日新聞社前出発し、深夜バスで八ヶ岳へ向かった。バスはほぼ満員、山ガールが半分位居たのには驚いた。

12日
バスは途中美濃戸口や桜平など登山口で人を降ろしていく。自分は終点の白駒池まで。
白駒池は静かな森の中にひっそりと佇む神秘的な池。

白駒池から高見石までは緩やかなのぼりを1時間位歩く。
高見石は大きな石が積み重なった展望台。白駒池が一望できる。
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高見石から中山までも緩やかな登り。
中山も大きな石が並び、北アルプスの展望が開ける。
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しかし、ここで落とし穴。案内標識を確かめずに思い込みで踏み跡らしき道を進んだらハイマツに行く手を遮られ、無理に進むうちに戻るに戻れなくなった。
強引に戻ったら30分のロス。疲れた。

中山から天狗岳へは岩場の急登はあったが、景色もよく気持ちよく登頂。
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11時と少し早かったが、ここで昼食。レトルトごはんとボンカレー。
根石岳への途中で真っ白い雪のような砂が一面に現れた。
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根石岳で1時間ほど音楽を聴きながらウトウトと昼寝。
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本日の宿オーレン小屋は夏沢峠から少し下った所にある。
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風呂付という贅沢な山小屋です。
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檜風呂って贅沢
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余裕の大部屋
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食事もおいしい
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13日
今日のコースは時間に余裕があるので朝6:30硫黄岳目指して出発。
石が積み重なったガレ場が続く。1時間で登頂。
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写真で見るとお疲れモード
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あいにく山頂はガスって何も見えない。時間は十分あるので晴れるのを待つことにした。
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非難小屋の前で風をしのいだ。コーヒー忘れたのがショック!
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とても寒い。ロングT、Tシャツ、山用シャツ、ヤッケを羽織っても風にあたると寒い。
30分待ってようやく晴れてきた。
絶景!
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山頂で1時間位滞留した。

横岳への道はスリル満点。
岩を掴みながらの横歩きや岩に這いつくばって岩登り。
ここで手か足を滑らせたら谷底へさようなら。
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なんとか無事横岳へ登頂。
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横岳からは今日の宿泊地、赤岳天望荘へ向かう。
途中三叉峰で休憩中に同年輩位の女性と話して、赤岳天望荘まで同行。
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赤岳天望荘で一緒に食事をしながら山の話が弾む。
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赤岳へ
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食後、彼女はそのまま赤岳へ、自分はチェックインして、荷物を預けてから赤岳を目指した。
空身で登るとどんな急登も苦にならない。
山頂はガスっていて見晴らしは良くない。
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岩場で鳥を発見。あとでイワヒバリだと教えてもらった。
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雨が降り出したので急いで下山。
空身とはいえ念のためレインウェアだけは持ってきていてよかった。
山小屋にもどってから雷が激しくなった。
もう少し遅れたら大変な目に会うところだった。

赤岳天望荘は激混み。大部屋は満員で寝袋の幅に一人。横になったら30センチ隣に人の顔。
五右衛門風呂は一度に5人が入れる大きさ。皆の汗と垢で濁り湯(笑)

談話室でIさんやアメリカ人女性のHさんと知り合いになり、楽しい夜を過ごせた。
寝袋の幅が一人分
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通路にザックが散乱
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14日
4時に起床し、ご来光待ち。
ご来光もきれいだったけど、雲海も幻想的。
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朝食後、赤岳までHさんと同行。ザックを背負うとやっぱりキツイ。ゼエゼエ言ってる自分の横でHさんは息ひとつ乱れていない。彼女は北岳登ってそのまま八ヶ岳へ来た。健脚すぎるよ。
再度赤岳へ
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Hさんとガッツポーズ
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雲海の向こうに富士山
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赤岳の下りはまたまた、岩場を這いつくばっての下山。キレット小屋へ向かう人達。
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赤岳からの下り。足滑らせたら、さようなら!
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赤岳を下ったところでHさんともお別れ。

また、単独行で横岳を目指す。
横岳は赤岳と阿弥陀岳に挟まれた小山。

阿弥陀岳の登りもまたまた急登。岩場に這いつくばっての登りも慣れてきた。
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阿弥陀岳の登った道を下り、行者小屋へ向かう。
行者小屋から美濃戸山荘までは、苔に覆われた緑の濃い森で心が癒される。

美濃戸山荘から美濃戸口までの車道は歩きやすいが、興ざめする道だった。

バス乗り場の八ヶ岳山荘に到着。
食堂へ入ったら、Hさんと再会。しばし、歓談しまた一緒に山に行こうと約束。

牛丼食べて、風呂入って、野球を見ながらバスを待った。

自然を満喫した3日間。
自然の美しさに心を癒されたり、圧倒されたり。
山の素晴らしさを言葉で表すことは出来ない。
行った者にしかわからない魅力。それが登山だ。

八ヶ岳出会った花(名前はこれから調べます)
花1

花2

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花4

花5

花6

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アルケミスト 夢を旅した少年

「アルケミスト」を久しぶりに読んだ。


羊飼いのサンチャゴが宝物を探してピラミッドに向け旅をする。

旅の途中、王様や錬金術師などさまざまな人と出会い別れを重ねていく。

そこで交わされる会話には夢に関する多くの教えが含まれている。

「時がたつうちに、不思議な力が、自分の運命を実現することは不可能だと、彼らに思い込ませ始めるのだ」

「おまえが何かを本当にやりたいと思う時は、その望みは宇宙の魂から生まれたからなのだ。それが地球におけるおまえの使命なのだよ」

「結局、人は自分の運命より、他人が羊飼いやパン屋をどう思うかという方が、もっと大切になってしまうのだ」

「僕は他の人と同じなんだ。本当に起こっていることではなく、自分が見たいように世の中を見ていたのだ」

「おまえはわしに、今まで知らなかった富と世界を見せてくれた。今、それが見えるようになり、しかも、自分の限りない可能性に気がついてしまった。そしておまえが来る前よりも、わしはだんだんと不幸になってゆくような気がする。なぜなら、自分はもっとできるとわかっているのに、わしにはそれをやる気がないからだ」


これらの言葉は私の心に突き刺さる。

思い悩んだ20歳の頃から30年の時を経て、今なお私の心に問い続ける。

本当にやりたいことをやっているかと。

何がお前を立ち止まらせるのだ。

将来への不安、家族の願い、世間の目、プライド等、等、等、


安定した生活

ゆとりある生活

10数年にわたる計画を立てようやくゴールが見えてきた。

定年まで残り10年を無事に過ごせば、手に入れることができる。

ゴールが見えた途端、そんなゴールを望んでいない自分に気が付いた。


当分葛藤の日々が続く。


最後にこの言葉を

「私たちが良くなるか悪くなるかによって、私たちの住む世界は良くも悪くもなります。そして、そこで愛の力が役に立つのです。なぜなら、私たちは愛する時、もっと良くなろうと必ず努力するからです」



故郷

帰省してもいつも車で出掛けて、近所を散策することはあまり無かった。

今日は何十年ぶりかで実家の周りを遠い記憶を思い出し歩いてみた。

少年時代によく遊んだ裏山は住宅地に変わり、少し残った林も立ち入り禁止になっていた。

池で釣りをしたり、木に登って遊んだあの頃の面影はどこにもない。

小学校の通学路を探してみたが、新しく出来た道路に遮られたり、新しい家が建っていて、記憶に残る通学路は見つからなかった。

家と家の隙間を流れていた用水路だけが、昔の記憶に残る唯一の記念物。

あの頃は用水路がもっと大きく感じたが、今日見た用水路は軽く飛び越せるほど小さな用水路だった。

そういえば、町全体が小さく感じられる。

わずかに残ったあの頃のままの塀や建物。

全てのスケールが一回り小さくなっている。


30年前に故郷を出て、数年に1度は帰っていたので、町の変化は見てきたつもりだった。

しかし、実際に歩いてみるとそこは全く知らない町になっていた。

近所の幼馴染もみんな町を出て行ったらしい、そして家だけが残され、住む人の居ない家は朽ち果てている。

今は両親が住んでいるので故郷に帰ると素直に言える。

しかし、両親が居なくなった時、そこは故郷と呼べるのだろうか。

戻るべき家も、会う幼馴染も居ない町。



裏山があり、池があり、田んぼがあり、用水路がある。

それが、自分の記憶の中にある故郷。

今ある実際の町はもう私の中では故郷ではないのかもしれない。

故郷はきっと自分の記憶の中で生き続ける。





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