シンガポール徒然草

シンガポールに関する食べ物、見どころ、思い出について

黒煙に蔽われるバンコクの空

今日のバンコクは曇り空。相変わらず部屋から西の方向を眺めると、黒い煙が上がっています。さらに昨日とは違った場所からも煙が立ち上りはじめ、バンコクの中心部の空は一面真っ黒になっています。とは言っても強い風が吹いているので、しばらくすると煙は吹き流されて きれいな空に戻りますが、新たな煙がまたモクモクと・・・。そんな繰り返しです。
bkk


なんとか早く平和に解決しないものでしょうか。

バンコクから

突然ですがバンコクに来ています。木曜日までは争いのことはさほど意識するレベルでは無かったのに、金曜の朝から事態がやや緊張感の漂う雰囲気に一変しているようです。現地の人から木曜の4時ごろに「多分今夜あたりから過激化する恐れがあるから、間違っても紛争しているエリアには立ち寄らないこと」と教えてもらったのですが、本当にそのような展開になっています。

おそらく日本のマスコミ報道は少ない手持ちの映像から過激なシーンばかりを繰り返し流して、真実を伝えていないのでしょうね。視聴率を得んがためのニュース報道にはうんざりです。 バンコクは東京のように巨大な街なので、現在占拠されているエリアは全体からみるとほんの限られた地域です。伊勢丹の入っているショッピングセンターや日本人観光客がよく利用するホテルなどが立ち並ぶ目抜き通り街の高速道路の軒下に陣取っています。日陰であることと雨宿りが出来るのが利点だったのでしょう。

 これは貧富の差が大きいタイにおける、ある種の一揆です。貧しい人たちが国に対し、そして世界に対してアピールしている抗議活動です。

バンコクの町中を歩くと見たくないものに出会わすことがあります。歩道橋を渡ろうと階段を登るとそこには小さな子供を抱えた母親が空きカンを手に持ち頭を下げている。更には身体に障害を持つ老人が同様に物乞いしている。高速道路を150キロくらいで走っていると横を通りすぎる古いピックアップトラックがあり、小さな荷台には出稼ぎで地方から出て来たようなお母さんらしき女性と二歳くらいの女の子がボロ切れに身を包んで風から守り吹き飛ばされないように抱き合っていました。その女の子の決意に満ちたような瞳は何を語っていたのだろう。 

タイのような抗議活動が出来る国は未だ良いのかも知れません。中国でこんなことをやったら、即射殺されるか戦車にひき殺されるでしょう。そしてその映像を海外のマスコミに撮られないように鉄のカーテンをひくことでしょう。

シンガポールでもストレイツタイムズの記者が反政府の記事を書いたら投獄された、なんて事が1970年頃にありましたね。権力者にとって気持ちの良い報道だけを許可され、市民には真実が知らされないというような過去の忌まわしい時代に戻ってはいけません。日本のマスコミもバンコクの紛争シーンを無意味に流すだけではなく、抗議活動をしている人たちの真意、背景などの時間を割くようお願いしたいものです。

・・・なんて、少し過激な投稿をしている自分にも反省かな。

Jalan Ilmu No.3 その3

1969年3月のシンガポール。気候は極めて暑い。このJalan Ilmu No.3の家には今まで見たことのない窓がはめられている。20cm x 1mのガラス板が縦に並べられたものを45度回転させて、全開したり閉めたりすることが出来る。全てのガラス窓を全開にすると北、東、南の三方向への風の流れが発生するので、日中でも意外と涼しい。さすがにこのガラス窓だけでは物騒なので、鉄製の面格子が嵌められているので防犯的には安心だろう。

更に各部屋の天井からトロピカルな扇風機がぶらさがっている。大きく長い4本の羽根をくるくる回して室内の空気を攪拌させる。3段階に回転速度を調整することが出来るのだが、3の最大のスピードでブン回すとモーターがウィーンと唸りだして、支柱から外れて飛んでいっていまいそうなのが不気味。

この家にはリビングセット、ダイニングテーブルセット、ベッド、タンス等の家具類は付属されている。しかし食器などはついていないので買いに行くことになった。タクシーを電話で呼ぶと数分でやってきた。あの黒い車体に黄色の屋根のツートンカラー。なんと車種はベンツだ。丸い箱型の車体でシートは茶色の革張り、と思ったらビ二ール張りだった。父がドライバーに目的地を告げるとマレー人のおじさんは無言で車を走らせた。到着したのはこじんまりした2階建てのマーケット。一階に食料品売り場があり、二階に上ると食器類や衣料品などが売られている。

実は日本からお茶碗、汁碗、お箸は持ってきている。事前に父から「シンガポールには日本風の食器類は売っていないからその類は持ってくるように」と指示を受けていたからだ。実際、この店内を見ているとカラフルな中国風や洋風の食器しか置いていない。あれで毎日ご飯を食べるのはしっくり来ないだろう。一番驚いたのはここに置いてあるお箸は1cm角の太長い棒のようなもので、先細になっていない。こんなので細かい料理が摘まめるだろうか? 父がランチョンマットというものを買うという。簀巻きのようなものを広げて食事の際には各自のテーブルに敷くのだとか。ちょっぴり上品でなんだか外国っぽい。私の知る1969年の日本ではまだ見たことのないものだ。

Jalan Ilmu No.3 その2

Jalan Ilmu No.3の門扉を開いて駐車スペースに進む。その右側にはさほど広くはないが芝生の庭がある。家の中へ入ろう。玄関にはガラス戸の手前に格子のドアがある。驚いたことに日本のような玄関スペースというものは無く、ドアから先は、いきなりリビングスペースになっているようだ。おのずとドアの外側で靴を脱いで室内へ入ることになる。

jalan ilmu house-1

リビングには籐製のソファセットがあり、ここに家族4人で腰掛ける。すると奥のほうから女性がやってきた。「はじめまして、私はア・ケイです」と私たちに挨拶をしてきた。私はどうしてこの人がこの家に居るのかさっぱり判らない。母に聞くと、彼女はこの家に以前住んでいた日本人駐在員家族が雇っていたアマと呼ばれるお手伝いさんで、引き続き私たち家族の下で働くことになっているという。彼女は20代の中国系シンガポール人で、片言ではあるけれど日本語が話せるようだ。驚いたことに彼女はこの家に部屋があり、住み込みで働くという。

お茶をのんで一服した後にこの家の中を見て廻る。一階にはリビングの他にダイニングスペースがあり、中国レストランにあるような丸い回転台のついた大きなテーブルがあった。個人の家にこのようなテーブルがあるなんてびっくりした。その奥にキッチンがあり、GE製の大きな白い冷蔵庫があった。ずんぐりした巨体は日本製のきゃしゃな冷蔵庫とはつくりが違う。その横にレンジ台やオーブンがあり、流し台が続いている。背後には壁一面に収納棚がある。日本の台所とは全く異なる雰囲気だ。このキッチンの裏には一階用のトイレがある。このトイレは日本のものでも洋式でもなく、床に丸い穴が開いているだけのシンプルな作りで、和式の丸い"きんかくし"は無い。聞くと中国式のものだとのこと。その奥に三畳くらいの広さのアマさんの部屋があった。

階段を登って二階へ上ろう。まず私の部屋へ入る。そこは8畳はあるだろうか、かなり広い部屋だ。南向きでとても明るい。窓の横にはドアがありベランダへ出ることが出来る。二階にはあと2部屋あり、隣が両親の部屋、そして姉の部屋となる。姉の部屋の向い側に洗面、トイレ、浴室が一体となったスペースがある。浴槽は外国の映画で見たことのある細長くて寝っころがっても沈みそうな長さ。様式トイレと浴槽が隣り合わせであるのには、慣れるのに時間がかかりそうだ。

Jalan Ilmu No.3 その1

一時的に住んでいるこのアパートメントから、これからの住居となる家へ引越しをすることになる。今のアパートメントは姉とベッドルームを共有しているが、今度の家では私の部屋がもらえるという。たった5日間とはいえ、シンガポールに来て初めて暮らした住居なので愛着を感じている。ここを離れるのはちょっぴり寂しい。

まあ、そんな感傷にひたっている時では無いので親に言われるとおり従うしかない。家具から食器に至るまでここのアパートメントに備わっていたので、持って行く家財道具はほとんど無い。家族四人で父のカンパニーカーに乗り新居へ向かう。Jalan Ilmu (ジャラン イルム)No.3というのが新しい住所とか。

車は一旦ニートンサーカスまで行って方向を逆転させて、ブキテマロードを西へ向かって走る。うっそうと茂る木々の下を数分走ったかと思うと南側に大きな学校らしき校舎が見えてきた。ここがSingapore Universityとの事。広い芝生の広場の先に近代的な校舎が建っている。その前にあるUターン路を右折してダニアンロード側へ進み、やがて住宅街の中を走る。
ilmu3

車が停まった。どうやら家に着いたようだ。車から降りて辺りを見渡す。二階建ての家が繋がって並んでいるのが見えた。「こっちだ」と父に言われた通りの反対側を見ると、そこは向い側とは違って大きな家が真ん中で仕切られいるようで、駐車スペースもフェンスで区切られている。セミデタッチという様式なのだとか。家の前にはやはり黒い大きなバケツが置かれていてNo.3と書かれている。ここがこれから住む家なんだ。

ilmu1

※写真は最近のJalan Ilmu No.3の様子。改築して昔は二階のバルコニーだった部分を建て増し部屋にしている。

昔のタクシー

YouTubeで検索していると面白い動画を発見することがあります。
下のものはシンガポール航空の1973年頃(と思われる)に放映されたテレビコマーシャルです。キャビンアテンダントが乗り込んだタクシーはMORRIS のOXFORDという車種で、黒い車体に黄色い屋根のカラーリング。1971年まではこの色のタクシーしかありませんでしたが、NUTCがタクシー業を始めて水色のタクシーが走り出し、街の通りの眺めが変わりはじめました。

見どころは、スタート後15秒くらいに映るオーチャードの雰囲気です。歩道のプロムナードがまだ整っていないし、街路樹も今のように背の高いものではありませんね。ヒルトンホテルの背後に見える黄色い屋根のマルコポーロホテル(現オーチャードパレードホテル)には、ターバンを巻いたインド人のドアマンが豪華な衣装で格式の高さを顕示していました。今のラフルズホテルに立っているドアマンはあれを取り入れたものでしょう。更にタクシーはシンガポールリバーを渡りチャイナタウンを(無理やり)通過して、やがてパヤレバー空港に到着します。

彼女の乗車場所はクリフォードピア辺りなので、パヤレバー空港までの道順としては有り得ないものです。ただ当時のシンガポールを象徴するランドマークとして、シンガポール初の高層ホテルであるヒルトンや歴史のあるチャイナタウンを映したかったのでしょう。私的にはグッドウッドパークをホテルに選んで欲しかったのですが・・・。

タクシーのマレー系ドライバーさんの口ひげが当時の雰囲気でてます。シートに白い布カバーが掛かっていますが、そんなタクシーは無くてツルツルしたビニールのシートだった。もちろん冷房なんか存在してない車内は暑いけれど、前席ドアの三角窓から流れ込んで来る風は爽やかでした。私んちの自家用車はこれと同じスタイルのAustin Cambridgeだったので、とても懐かしくなる映像です。
こんな昔のシンガポールの景色が見られるなんて有難いものです、YouTubeって。

私のシンガポール生活 その7

singapore

青い空、オレンジ色の屋根、白い外壁そして椰子の木と芝生の緑。ここスイスコテッジのイメージを表わす色だ。なんて落ち着いた雰囲気なのだろう。時間が止まったかのような静けさ。もしかしてこの建物のうちのどれかが日本人学校なのだろうか。向かって右側のほうへ向かって歩きはじめると、窓越しに白人の男性の姿が見えた。ここは違うようだ。では左の方へ行ってみよう。

この左側の建物の前には芝生で囲まれた赤土のテニスコートがあった。そして建物の車寄せの前には背の高い椰子の木が一本そびえ立っている。恐る恐る近づいて車寄せの玄関前まで歩み寄る。なんとその入り口横に「日本人学校」と書かれた高さ2メートルくらいの木製の板が立ててあるではないか。やはりここが日本人学校なんだ。

立派な洋館の大邸宅とは言え、こんな小さな校舎だとは以外だった。いったい何人の生徒がいるのだろう。今の時期は春休み期間中なので生徒は登校していないみたいだ。先生らしき姿も見えない。建物の中を見学してみたかったけれど、さすがにこれからお世話になる学校に無礼なことをするのはマズイかと思い、そのまま車寄せを通り過ぎて建物全体が良く見える場所まで移動した。
japanese school-1

白い壁、オレンジの屋根、青く澄んだ空。そして建物の前に一本の椰子の木。この景色を見て異国の地、シンガポールへ来たのだということを改めて実感する。これから自分が毎日通うことになる学校が、日本では当たり前のように見ていたコンクリートの大きな校舎ではなく民家を利用した小さな校舎であること。一周400mのトラックがつくれる広い運動場ではなく、民家のテニスコートの空間であること。

今まで当たり前のように考えていたことが、全く異なる次元の現実になる。これから始まる小学6年生としての生活に大きな不安を感じる。

私のシンガポール生活 その6

シンガポールの地図を見るのはとても楽しい。
4月から通うことになる日本人学校はこのアパートメントからさほど遠くない、と聞いていたので入学案内書に記されている住所からその位置を地図で確かめてみた。Swiss Cottage Rd.と書いてある。えーっと、スイスコテッジ・・・あ、こんなところにある。ここなら歩いて10分くらいじゃないか? などと明日の計画を立ててみた。

そして翌日。今日も朝から良い天気で暑い。昨日と同じように朝食を食べ終えた後、しばらくしてから家を出る。母には2時間くらいで戻ってくる、と言い残しておいた。昨日と同じように坂道を下りDunearn Rdまで出た。今日は右へ向かって歩き出す。方角的には西へ向かっている。背の高い南洋樹の陰が道路を覆っているので、日差しは和らいでいる。でも蒸し暑いのには変わりは無い。

歩道を歩いていると北側の丘陵に住宅地が見えてきた。そこへ繋がる道路名にはGOLDHILL AVENUEと書かれている。ゴールドってことは、ここでは金が採れたのだろうか?二階建てのおしゃれな感じの住宅が続いている。まだ新しい家なので新興住宅地なのかもしれない。

その住宅地の向こう側に緑の小高い丘が見える。地図で確認していた位置関係ではあの辺りに日本人学校があるはずだ。GOLDHILLの住宅が途切れたところに北へ登っていく道路があった。SWISS COTTAGE ESTATE、そうだこの道だ。しかし道路名の後ろにつくROADとかSTREETというのは馴染みのある名称だけれど、ESTATEとかAVENUEっていうのはあまり聞いたことがない。どういう違いがあるのか、今度調べてみよう。
swiss-co
このSWISS COTTAGE ESTATEは舗装こそされているけれど、道幅は狭くて両側はうっそうとした草と木々が生えている。この先にはどんな景色があるのだろう? 上り坂を歩いていくと道は大きく左に曲がり突然開けた景色が目に飛び込んできた。

そこには白と黒のカラーリングで重厚な佇まいの大きな邸宅があった。芝生の広い庭が廻りを取り囲み、背の高い椰子の木も沢山ある。昨日見た日本倶楽部にも似ているが、あれよりも大きくゆったりした造りだ。もう少し歩くとやや離れたところにまた同じような邸宅があった。「プランテーションを営む英国紳士の住むお屋敷」といった感じで、今までみたシンガポールの雰囲気とは全く違う世界がそこにはあった。

いったい日本人学校はどこにあるのだろう? そんな疑問が思い浮かぶ。学校らしい建物なんてどこにも見あたらない。よく観察すると緑に囲まれた広大なこの辺りには同じような邸宅が3つあるようだ。

私のシンガポール生活 その5

手にしていたサザエさんの漫画本を書棚に戻していると、日本人の男性達はソファに腰を下ろして仕事の話をはじめた。どうやらお昼ご飯をここでとるようだ。ここのレストランでは日本料理などが食べられるらしい。ここでは日本の丸くて匂いの無いお米が出されるのだろうか? なんて考えていると更に日本人のグループが二階にやってきた。さあ、もう家に帰らないと。

静かに階段を下りて建物から出ると、先ほどのBUKIT TIMAH ROADへ戻る。やって来た道を逆戻りしてアパートメントを目指し早足で歩く。もう昼近い時間なので屋外の気温はかなり上っている。暑い。汗が流れ落ちる。ニュートンサーカスをぐるっと周りしばらく歩くと見覚えのある丘へ続く小道が目に入る。そうだ、ここを上ったら家にたどり着く。やはり炎天下の登り道は堪える。

ようやく白いアパートメントが見えてきた。ドアを開けて家に入ると「どこへ行ってたの!」と母の強い口調の声が響く。確かに日本から異国のシンガポールへやって来た小学生が、第一日目から一人で歩き回るのは心配をかける行いだろう。「ごめんなさい」と素直に謝り、見てきたことを話しながら昼食をとる。お昼ごはんは朝炊いた現地のロングライスを使ったチャーハンだった。これはこれで美味しい。マズイと感じたものでも工夫で美味しくすることが出来ることを実感。いや、日本の食べ物に固執しないで、現地のものに慣れるように努力しないと。ここはシンガポールなのだから。

昼食後もどこかへ出歩きたかったのだけれど、また心配をかけるのも申し訳ないので、日本から持ってきた勉強のドリルをやることにする。とはいえ直ぐに飽きて、リビングのソファにねそべって、これも日本から大事に持ってきた「巨人の星」の単行本を読み始める。ここにはクーラーはないので窓は開けている。庭から流れてくる風はなま暖かく快適とは言い難い。

夕方近くなって窓の外から子供の遊ぶ声が聞こえてきた。目の色の青い6歳くらいの子供2人が木陰でなにやら楽しげに遊んでいる。話しかけたいけれど、英語なんてまだぜんぜん判らないので何も言えない。とりあえず「ハロー」なんて言ってみた。でもそれ以上は会話が続かない。英語の必要性をひしひしと感じる。

リビングのテーブルに置いてあるガソリンスタンドのSHELLが発行したSingapore Street Atlasという地図を広げた。自分が今いる場所のページを探し出した。そして今日歩いた道順を指でたどって、その時々の景色を思い出す。そして明日はどこを歩こうかとエリアを広げて、地理感覚を頭に叩き込んでいく。

私のシンガポール生活 その4

住宅地の小道を下っていくとやがて大きな道路が見えてきた。標識にはDUNEARN ROADと書かれている。一方通行で左方向へ走る3車線がある。道路に沿って河が流れていて、その先には逆の右方向へ走る道路がある。BUKIT TIMAH ROADという名前の道路で、シンガポールの中心地からマレーシアのジョホール近くまでをつなぐ幹線道路だと、昨夜の空港からの車内で教えてもらっていた。

このDUNEARN ROADに沿って右方向へ歩いてみよう。広い道路なので迷子になることもないだろう。この道の両側には大きな樹木が林立していて木陰がある。だから日差しを遮ってくれるので歩きやすい。走り過ぎる自動車を見ていると、馴染みのあるカローラ、ブルーバード、ファミリアのような日本製の大衆車があるかと思ったら、今まであまり見たことのない欧米車も沢山走っている。

なんといっても一番目立つのが黒い車体に黄色の屋根の大型車だ。どうやらあれがシンガポールのタクシーみたい。車種を確認しようと見ているとベンツのマークがフロントグリルに光っているのが多い。ベンツとは言っても相当年季の入った古い車体。他にはMORRISとかAUSTINなんて書いてある車種もある。

一台の自動車が前方に停車して後部ドアが開き、一人が降りようとしている。降りる際に料金のようなものを支払っているのが見えた。タクシーなのだろうか?でも車内にはまだ3人乗っているままで、ドアが閉められるとそのまま走り出した。どうやら乗り合いのタクシーみたいだ。タクシーを停めようとしているおばさんがいた。右手を真横に伸ばして上下に振っている。あれがシンガポール流の停め方なのだろうか。

しばらく歩くと道路の先を走る自動車のスピードが減速している。あのNewton Circusに合流しているのだった。この辺りには樹木は無く見晴らしが開けている。草原の中心にあるニュートンサーカスに向かって6方向からの道路から流れてくる自動車がくるくる回っているのは見ていて面白かった。この時間帯は未だ交通量が多くないようなので、皆さんスムーズに譲り合いながら自分の進みたい道路に向かって走り去っていく。でも中には気の弱そうなドライバーの自動車が2周ほど回っている。

さてどの道へ進もうか。右からSCOTTS RDとCLEMENCEAU RDという道がある。その先を見ると草が茂る草原が見えるだけで、ちよっと心細い。やはりここはこのままBUKIT TIMAH RDに向かって進もう。その先には2階建ての商店が建ち並んでいるのが見えて安心だ。しかし商店と言っても古い建物の一階部分には商品を並べている訳でもなく、何をやっているのかよく判らない。歩いているおじさんを何人か見かけた。ほとんどの人が古ぼけた白っぽいランニングシャツを着て黒いズボンを穿いており、中には裸足の人もいた。そんな貧しい服装の人を多く見かけたので、ここは来てはいけない場所なのでは?と不安にかられたものの、その人たちの表情は明るかった。

しばらく歩くと大きな樹に囲まれた大きな邸宅のような場所があった。運動場のように広い芝生の庭の正面には英国風のお屋敷が建っている。ここはいったい何なのだろうと近寄ってみると「日本人倶楽部」と書いてある。入り口の門は開いているので、こっそり入ってみた。さすがに正面から入る勇気は無いので、裏口へ回ってみた。その建物の裏には厨房のような施設があり、料理の準備をしているのか美味しそうな匂いが漂っている。トイレに行きたくなったので、辺りにいたおばさんに「トイレを貸して下さい」と日本語で聞いてみた。すると特に不審がる雰囲気はなく、その場所まで連れて行ってくれた。用を足し終えて、せっかく建物の中に入れたので見学してみようと思う。

その建物はレンガと漆喰で造られた豪華な洋館だった。一階には重厚な会議室のような部屋があり、二階へ上がる階段の横に大きな振り子時計があり11時を指している。二階へ上がってみよう。開放的なサロンのような空間があり、籐で編まれたソファセットが沢山置かれている。利用している人は誰も居ない。さすがに月曜の朝に来ている日本人は居ないようだ。掃除をしているおばさん達は日本人ではなさそう。彼女達は私の存在を知りながらも何も言わず仕事をしている。

窓際へ行ってみると縁側のような廊下があり、その一角にはテーブルが並んでいて、どうやらレストランになっているエリアのようだ。反対の一角へ行くとそこには書籍が並ぶ背の低い本棚があった。全て日本語の本だ。その中に「サザエさん」や「のらくろ二等兵」と背表紙に書かれたマンガ本がある。一冊を手に取りページを開いたら、漫画のふきだしには旧仮名遣いで書かれている。戦前に発行されたものだろうか。

しばらくして日本人の大人数人がやってきた。さすがに長居するのもはばかられるので、そろそろ退散しよう。

私のシンガポール生活 その3

今日は月曜日なので、朝食が終わると父は出勤するという。マレー系のドライバーさんが運転するフォード・ゾディアックは既にアパートメントの駐車場で待機していた。ここから父の勤める会社のあるジュロンという工業地帯まで、車でおよそ40分ほどかかるという。出社の身支度を終えて7:30ごろに家を出た。会社へ行くというのにネクタイはしているものの上着は着ていなかった。暑い国だからそういう風習なんだなあ、とへんに納得する。 さあ、何をしよう? シンガポールへやってきて初めての朝。明日は父の会社の取引先である日本の商社の駐在員の奥さんがショッピングに連れて行ってくれることになっているが、今日は特に予定は無いと言う。 ソファに座って新聞を読んでみた。ストレーツタイムズと書いてある。英語の新聞だ。私は新学期が始まるとシンガポール日本人学校の6年に転入する。まだ英語は学んでいないので当然読むことは出来ないけれど、アルファベットを見ていると、ところどころに聞いたことのある単語があった。そういう単語をつなげて想像してみるとぼんやりと意味が見える気がした。文法とか難しいことはおいおい勉強するとして、少しずつ英語も勉強しないと、ここシンガポールで暮らすには不便なようだ。 母と姉が家の掃除を始めるというので、私は近所を散策してみようと思う。昨夜は暗かったので、まだこのアパートメント周辺の雰囲気が良く解っていない。ドアを出るといきなり暑い空気が肌にまとわりつく。このアパートメントは大きな木々に囲まれた静かな一角で、木陰がたくさんある。一歩木陰から出ると直射日光が突き刺すように眩しい。左方向へ続く道を歩き始めてみよう。ここは少し小高い丘の上なので、やがて道はゆるい下り坂になる。道の両側には大きな家が立ち並んでいて、どの家の前には立派な門があった。その横に黒い大きなフタ付きのバケツが置いてあり白く番号が記されている。どうやら住所の番地のようだ。そうか、これはゴミバケツなんだ。家の門の横にゴミバケツを置くなんて変っているな。 きれいな花が沢山咲いている家をみつけた。日本では見たことも無い原色の花がとても美しい。そういえばこの町を歩いていて気がついたのだが、景色が日本と違う。目に映る花、木、葉、土など自然のものがイキイキとクッキリして見える。太陽光線の量が多いのだろうか。ふと自分の影を探してみると、足元に小さく重なっている。という事は太陽は真上にあるということか。こんなに暑いということは太陽からの距離は日本より近いのかなあ。さすが赤道に近いだけのことはある。 <位置関係> 赤い★の印にアパートメントがあった。現在はAnglo Chinese Schoolが建っている。 map

私のシンガポール生活 その2

母が記念すべきシンガポールで初めての朝食の支度をしている姿をソファーから見ながら、昨夜の空港からこのアパートメントへやって来た時のことを思い出していた。

ここはニュートンサーカスという交差点から東へ200mほどダニアンRd.を走った北側にある小高い丘にある住宅地。白い5階建てのおしゃれなアパートメントに住む大半は欧米からの駐在員さん達という。父のカンパニーカー、ゾディアックが到着したのは既に夜9時を回っていた。当時の日本とシンガポールの時差は1時間30分だったので、体内時計的にはもう夜の11時に近かった。我が家は日本に居た頃は夜8時には子供は床に就くことになっていたので、長旅の疲れも重なって眠たかったのは仕方のないことだった。

父が一通り家の中の説明をしていると玄関のチャイムが鳴った。やって来たのはこのアパートメントをテリトリーとする御用聞きのおじさん。父が事前に注文していた米や調味料など当座必要となりそうな食料品を運んでくれた。シャワーを浴びたりした後に、姉と私はベッドが2つある子供の部屋へ行き床に就いた。目をつぶってベッドで横になっていると、体がフワりフワりと揺れているような感覚が。伊丹から-台北-香港-バンコク-KLという多くの空港を経て10時間もかけて辿り着いたシンガポール。耳の三半規管がまだ安定していないのだろう。いつしかぼんやりと意識が闇に消えて、どっぷりと深い眠りに入ったようだった。

「朝ごはんが出来たよ」と母の声が響く。ダイニングテーブルに久々の家族4人が集まり朝食を始める。しかし何かおかしい。変なにおいがする。お茶碗によそってあるご飯が何か違う。米粒が細長い。しかも今まで経験したことのない匂いが漂っている。「これがシンガポールの標準的なライスだ」と父が説明する。「でも美味しくないから研究して日本のようなお米を食べさせるように」と相変わらず亭主関白な父が母に指示をだす。そんな魔法のようなことが出来るもんか、と心の中で訴えるのだが、でもこんなご飯を毎日食べるのも困った事だ。

味付け海苔をビニールから取り出して、醤油をつけてご飯に巻いて食べる。うん、これならちょっとは味覚をごまかせてなんとか食べられる。二枚目の海苔を取り出そうとしたら、なんとさっきはパリッとしていた海苔がしなっとして湿気ている。え、そんな瞬間に?シンガポールって恐ろしいところだな・・・。部屋中にあのお米の匂いが充満していた。

シンガポール生活の前途に不安がよぎった最初の朝の出来事でした。

私のシンガポール生活 その1

ベッドの中で目が覚めて、部屋の中を見回したところ姉が隣のベッドで寝ている。ここはどこなんだろう。今まで暮らしていた日本の家とは明らかに違い、天井が高く広い。そうだった、ここはシンガポールなんだ。姉を起こさないように静かにベッドから起きあがって部屋から出る。そこにはリビングルームがあった。しかし暑い。3月初旬というのに、ここシンガポールは朝からこんなに暑いのか。時計を見ると6時半だった。ソファーに座ってぼんやりと昨日の出来事を思い出してみた。

パヤレバー空港から父の会社のドライバーが運転する車に乗って、二週間ほど滞在するアパートメントへ移動した。既に日が沈んで暗くなった車の外を眺めていると漢字の看板が目に入った。しかし日本の漢字とは少し違う。やたら公司という字が目に入る。アルファベットの英語の看板も沢山あった。交差点で車が停まって歩いている人を見ると日本人と同じような顔立ちの人だった。その隣には茶色い顔で目鼻だちが違う人が居る。あれがマレー人なのか。商店の後ろにはテレビ映画で見た南国のイメージそのままの椰子の木が。そんな町の景色がだんだんボヤけていつしか寝てしまい、アパートメントに着いた途端にベットへ突入したようだった。

リビングから窓の外を見ると南洋樹木の下に数台の自動車が駐車場に停まっているのが見えた。どれも今まで見たことの無いフォルクスワーゲンとかベンツのマークのついた高級車だった。外を歩く白人の大人の人を見て、「あ、ここは日本じゃないんだ」と我に返る。

しばらくすると母が隣の部屋から起きて来て「おはよう、もう起きてた? 朝ごはんの用意をするからね」と声をかけてくれた。このようにして私のシンガポール生活はスタートしたのでした。
1969年3月初旬、10歳の春。

ドナのこと

友達のN君の自宅はブラッデルの高級住宅街にありました。緑多く静かな環境で、一軒あたりの面積もかなり広い家が並ぶエリアでした。彼の家へはよく遊びに行きました。広い庭でかくれんぼをしたり、冷房の効いた彼の部屋で日本から週遅れで届けられた週間マガジンやチャンピオンなどのマンガを読んだりして楽しいひと時を過ごさせてもらいました。

ある日、彼の家の近くにCさんという若夫婦がお住まいで、お邪魔したことがありました。ご夫婦にはまだお子さんがいなかったのですが、そこには3頭の犬がいました。そのうちの2頭は大型犬で、あと1頭はまだ小さな子犬でした。南国には不似合いな、毛がフサフサしているビアデッドコリーという種類とか。旦那さんが船舶関係のお仕事でアメリカを訪れていた時に、港の片隅で捨て犬らしき赤ちゃんだったこの犬を拾ってシンガポールへ連れて来たような話を聞きました。

それからしばらくして、このご夫婦が帰国されるという話を聞きました。そんなある日、日本人学校から帰宅するとCさん夫妻が我が家へ来ているのを見つけました。そしてなんと、このビアデッドコリー君を我が家が引き取るという話になっていると聞きました。「犬を飼う」という経験などそれまで無かったのでとても複雑な気持ちになりました。うまくなついてくれるだろうか。

彼が我が家に来てから私の生活は変わりました。彼の名前はドナ。生後1年未満のまだ可愛い子犬です。白とグレイの長い毛がふさふさと体を覆い、大きな目はその毛で隠れています。初めの頃は、以前のご夫婦が居ないことがとても不安なようで、私のベッドの下に潜ってどんなに呼んでも出てこようとしない時が多々ありました。更に「出ておいで」としつこくすると怒って「ウウー」と唸ることも。

いつしか我が家にも慣れてくると、人懐っこい笑顔で言うことをよくきいてくれるようになりました。毎日午前中に通いで来ていただいていたマレー女性のアマさんはイスラム教の戒律によって「犬に舐められること」が禁じられている為に、私が学校へ行っている間は私の部屋に閉じ込められました。帰宅すると部屋から連れ出して、芝生の庭で二人仲良く走り回って遊びました。夜は私の部屋で二人で寝ました。自分からベッドに上がってくることはしませんでしたが、私が何か悲しい時があった時にはベッドへ上げて添い寝してもらったりしました。彼と私はほとんど兄弟みたいな関係になりました。

彼の大好きだった以前の飼い主や2頭の大型犬のことを思い出したりしていないだろうか。俺はお前の一番の仲良しになって守ってあげるからな、なんて真剣に考えていたのです。ドナはとても優しく従順でお茶目でいたずら好きな子でした。本当に彼には多くのことを学ばせてもらいました。彼の目を見ていると心が癒されて落ち着くのです。彼の何事にも一途に真剣に取り組む姿勢には頭が下がりました。もうドナは兄弟以上に大切な存在になりました。

幸せな日というものは何時までも続くものではないのです。我が家が帰国するという話を親から聞かされました。当然ドナも連れて帰ってくれるものと思っていたら、諸事情で残していくことになっている、と。心がこんなに張り裂けるような悲しみを体験したことはありませんでした。愛別離苦。愛する者と生きて別れることの苦しさ。その日から数日間、私は涙に明け暮れました。親の気持ちを考えると、そんな姿を見せる訳にはいかず、一人で自宅近くの丘の上へ登り、涙でぐっしょりの眼で沈む夕日を眺めていたものでした。

帰国の数日前に、ドナを引き取っていただける日本人の家庭へ母が一人で連れて行ったことを聞きました。母もさぞかし悲しかったことでしょう。思い起こせばドナを我が家へ初めて連れてきた時のご夫婦の気持ちなんて全然考えたことなんて無かった。お子さんの居なかったご夫婦にとって、私なんかよりもっともっと可愛く思っていたことでしょう。今、自分の悲しさを感じることより、ドナの幸せを祈ってあげることのほうが大切なのではないかと、ふと我に返って嘆き悲しむことを止めました。

帰国して数週間が経ち、シンガポールから船便で送った荷物が届きました。その中にドナが寝床にしていたブランケットがあり、すかさず鼻に当てるとあの懐かしい彼の優しい香りが漂いました。でも、もう涙なんか流さない。

あれから30年以上も経ち、もうドナはこの世にはいないでしょう。あの優しさに満ち溢れた笑顔のドナのことはいつまでも忘れないよ。

The Little Nyonya

ここへ書き込むのもとても久しぶりで、投稿の仕方を忘れてしまってちょっと手間取りました。
2009年も残すところあと僅か。今年一年間、いろんなことがあったけれど、そしてそのひとつひとつは来年にも繋がっていくわけで、年が変わるとすべてが更新されるような現実では無いのだけれど、それでも気持ちを正す為にも新年を迎える際には、心の大掃除をしたほうが良いですね。

nyonya


一年前に出会ったテレビドラマ「The Little Nyonya」はプラナカン文化をテーマにした作品でした。このドラマのロケーションはマラッカとシンガポールで、時代背景は日本軍がシンガポールを陥落する前後という混乱の時代です。そのストーリー展開の激しさと随所に出てくるニョニャ料理に惹かれるのか、シンガポールではセンセーショナルなヒット作になったとか。日本からでもYouTubeに投稿されているものを観ることが出来るので、この大作を殆んど毎エピソードを涙を流しつつ鑑賞しました。

ストーリー展開や演出が、かつての大映テレビ製作「赤いシリーズ」のような、いえそれ以上に過激でこってり感漂う感じがするものです。エピソードによっては、「有り得ない!」と引いてしまうシーンも数多いのですが、それでも大好きなプラナカン文化の詳細について教えてくれる貴重な作品なので、エピソード34まである大作ではありますが、最後までどっぷり漬かって観続けることが出来ました。観終わるまで約2週間ほどかかりました。

主役のJeanette Awさんが演じる母役の黄菊香(Huang Juxiang)と 娘役の山本月娘(Yamamoto Yue Niang)が、とても清楚で気高く美しく、この役にはぴったりのはまり役だなと思います。それ以外の役者さんたちも個性的で、特に嫌われ役の女性陣達の演技は「細うで繁盛記の冨士眞奈美の役」に通じるものがあり(笑)、「そこまでするか!」と観る者を興奮させるのに大きな効果をあげていたと思います。

戦時中のシンガポールがどのような雰囲気だったのか、シンガポールに関心を持つ日本人として、ぜひ観ておきたい作品のひとつではないでしょうか。

言葉はすべて中国語ですが英語の字幕が下に流れますから大丈夫。あまり聞かれない単語がよく出てきますから、その都度停止させ辞書で引けば寄り良く内容が理解できます。

興味のある方はYou Tubeの検索でThe little nyonya ep 1 part 1とタイプしクリックすれば第一話が始まるでしょう。Enjoy!

なんたって18歳

いつの時代も人気俳優やタレントに好意を抱き、一人や二人のアイドルを持つのが若者です。
私の場合は日本の芸能界情報が得られる唯一のメディアが学習雑誌の中一コースでした。海外新聞普及社を通して、毎月日本から送られてくるわけですが、その中に僅かに掲載されている芸能人の話題を読むのが楽しみでした。まだ日本に居たころから人気のあったピンキーとか水前寺清子なんかに混じって、にしきのあきらとか和田アキ子なんて聞いたことの無い名前を見つけては、時の流れを感じたりしました。当時の一番の人気者は岡崎友紀さんでした。奥様は18歳でブレイクした彼女の笑顔に惹かれて、いつのまにか大ファンになっていました。と言っても今のようなインターネットのyou tubeで無尽蔵の動画が閲覧できる時代ではありません。彼女の動く姿も見たことが無ければどんな声をしているのかも解りません。中一コースに掲載されていた写真が唯一の情報でした。

帰国して夕方のドラマ再放送枠で奥様は18歳を放映していることを知って大喜びしました。こんなキャラだったのか・・・と驚きもありましたが、それでも「いいな〜」と思いに変りはありませんでした。そんなある日、なんたって18歳という彼女の番組を見ていたら予告編で「次週は南の島のローマンス、シンガポールを舞台に・・・」というではありませんか!そうです、このドラマの海外ロケ地として彼女はシンガポールへ行ったのです。あと一年早くシンガポールへ来ていれば現地で会えたのに!!!と悔いを残す話ではありましたが、それでも懐かしいシンガポールの景色と友紀ちゃんが同時に楽しめる、と喜びに震えたのです。

さて、そんななんたって18歳ですが、なんと再放送があります。CSのTBSチャネルなのでスカパー契約が必要ですが。50話(8/4) 51話(8/5)が放映日なので見れる環境をお持ちの方にはお薦めですよ。誰かダビングして見せてくれないかな・・・。うちのマンションのアンテナでは映らないもので。
http://www.tbs.co.jp/tbs-ch/lineup/d0310.html

http://skywing731.tudura.com/drama/nantatte18sai/nt50.htm

オーチャードを歩く-その4

マグノリアのミルクバーを出てオーチャードを東へ数メートル歩けばコールドストレイジが見える。お洒落な正面入り口の扉を押し開けて店の中に入ると、そこはまだ開発途上国であるシンガポールとは思えない別世界が広がっている。
coldstorage1

ショッピングカートなんて日本でも未だあまり見かけない1969年のシンガポールにおいて、ここは正にショッピングの「地上の楽園」。まず一階の食料品のフロアを歩いてみる。オーチャードが窓から眺めることが出来る南側の通路に沿って歩く。棚に綺麗に並べられた食料品を見ていると、店内スピーカーから流れてきたのはビートルズの曲。こういう最新の欧米の曲を流すような店って他にはあまり無い。突き当たりの肉のコーナーで目を引くのは、鶏5羽を串刺しにしたものがクルクルとゆっくり回転させてグリルする装置。日本のテレビで見たことはあったけれど、実物を見るのは初めて。なんて近代的なショッピングセンターなんだろう。この店にあるものの多くはオーストラリアや英国からの輸入製品の数々。シンガポール在住の英、濠、米等からやって来ている白人達にとっては、我々日本人が富士屋へ立ち寄った時に似た安堵感があるのだろう。

2階には各種の専門店があるので上がってみよう。店内から見て入り口右側にエスカレーターがある。なんとシンガポールにはこの時代には未だエスカレーターを設置した場所が少なかった。裕福な人とか欧米人や日本人ならエスカレーターに乗ることに迷うことは無かったけれど、ローカルの一般人、特に年配の人は、どのタイミングでエスカレーターに乗ってよいのか判らず、手間取っているのをよく見かける。

さあ、2階にやってきた。私がよく行くのは本屋、プラモデル屋そして靴屋さん。ここの本屋は広くはないけれど、洋書がぎっしりと並んでいる。難しい英文の本は読んでも解らないので、もっぱら植物図鑑とか昆虫図鑑なんかのコーナーで立ち読みをする。ちなみに日本語の書籍など一冊も置いていない。
その隣にはBataがある。Bataで靴を買うときは、ソファに腰掛けて店員がやって来るのを待ち、足のサイズを測定する機械で足の幅と長さを測ってもらうところから始まる。小学生の子供でも測ってくれるのがとても嬉しい。Bataブランドの緑色ラバーソールの生成キャンバス地のスニーカー(運動靴)を履くのが、シンガポールの子供のスタンダード。本当はカッコ良いコンバースのハイカットを買ってもらうのが夢なんだけれど。
次は一番のお気に入り、プラモデル屋さん。ここにはRevellなどの欧米製の他にタミヤが置いてある。それも沢山の種類が。戦車、戦闘機、軍艦などの戦争ものが人気のようだ。レーシングカー系の品揃えも多い。さて、今日はポルシェ917を買って帰ろうか、それともドイツ軍の戦車ハンティングタイガーにしようか・・・と、1時間も2時間も立ち尽くすのでした。

店内の時計を見ると夕方5時を差している。そろそろ帰らないと夕食に遅れる。2階にあるレストランのSALAD BAWLの横にある階段を下り一階へ。外へ出ると日が沈みはじめている。コールドストレイジの南側にある小さなパーキングスペースでは夜の屋台の準備を既に始めている。日本のラーメン屋台のようなものをどこからか運んできては組み立て、炭に火を入れたりと仕込みに忙しそうな屋台のおじさん達。美味しそうなホッケン・ミーのスープの香りが漂っている。

さあ、来た道を引き返して帰宅するとしようか。

オーチャードを歩く-その3

既に建設工事が始まったばかりのマンダリンホテルを横に見ながらオーチャードを東へ向かって歩く。マンダリンホテルは相当な高層ホテルになるとの噂で、ヒルトンよりも高くなるとか。ヒルトンの西にはミンコートというホテルが予定され、シャングリラという「地上の楽園」なんて凄い別名を付けるホテルも近く建設されるらしい。いったいそんなに沢山のホテルを造って宿泊客はいるのだろうか?と疑いたくなる。

シンガポールへやって来る日本からの父の仕事関係のお客さんを連れて行く観光地と言ったら、タイガーバームガーデン、ワニ園、マウントフェーバー、マンダイ蘭園、マクリッチ貯水池、ヒスイの館・・・他にあるだろうか? どこも観光地としての魅力や面白さに欠ける。

ジュロンに日本庭園が出来るという噂を聞いたことがある。その近くにある父の会社の工場の向かい側の丘にはバードパークという、鳥類だけのテーマパークを造るという話も聞いたことがある。どうやらシンガポールを観光で稼げる国にする大規模な計画があるみたいだ。それらが実現すれば確かにホテルの需要は増加するんだろう。今は想像もつかないけれど。

マンダリンホテル建設現場の斜め向かい側には古いビルが建っている。その角にあるお店の壁にはベートーベンの肖像画が掲げられている。ここはシンガポール屈指のクラシックレコードショップ。日本人学校の山田先生ご愛用のお店。シンガポールではまだ一般人は食べることが優先という時代。音楽教育なんてまだまだ先の話でしょう。そんな中でこういうレコード店が存在するということは、西洋人のお得意様が大勢いるのかな。
img0072

オーチャードのこの辺りから東方面は、両脇にショップハウス群が連なる街並みに一転する。マンダリンから数十メートル東へ行った辺りのショップハウスの中に富士屋という日本食料品店がある。店内は狭くて陳列も粗末な店構えではあるが、ここの木製の棚に並べられているのはまぎれも無く日本語で書かれた品々。懐かしさが込み上げてくる。醤油、味噌などの調味料や乾物類などが置かれている。しかし生鮮食料品なんかはもちろん無い。値段はローカルの品と比べるととても高い。はるばる日本から送られてくるのだから仕方が無いとは言え、賞味期限は切れていそうな品質でこの値段はちょっと手を出しにくい。

我が家のある地域は日本人家族が多く住んでいる住宅地。Trevose Cres.という通りに源正發という雑貨屋さんがあり、キッコーマン醤油、サントリーオールド、日本酒とかオーストラリア産の日本米なんかを電話で注文するとフォルクスワーゲンのType2という商用バンで持ってきてくれる。日本流で言う御用聞き。ここのおじさんは大きなお腹でニコニコと愛想よく片言ながら日本語も話せるし、富士屋さんよりもよっぽど重宝する。

という訳で富士屋さんは素通りしよう。しばらく薄汚れた壁のショップハウスの軒下を歩くと小さなガラス屋さんがある。以前、日本人学校の窓ガラスを割ってしまったことがあり、先生に言うのも躊躇われ、自分で寸法を測ってこの店でガラスをカットしてもらい、そっと修理しておいたことがある。ガラス屋さんのおじさんも日本人の小学生が一人でやって来ておかしな注文をしたことに驚いていた。

エメラルドヒルに近づいてくると、街並みもちょっと小奇麗になってくる。オーチャードの北側へ渡るとそこにはマグノリアのミルクバーがある。ショップハウスを改装したお洒落な喫茶店、というよりカフェと呼ぶべきか。ここの裏手にはマグノリアの乳製品加工工場があり、そのアンテナショップみたいなもの。店内はシンガポールでは珍しいハイカラなインテリア。隣にあるコールドストレイジでお買い物をした後に、一休みするためによく立ち寄る憩いのスポット。はっきり言って、当時のローカルの人には贅沢なスポットだったろう。

ここでの私のお気に入りはミルクセーキとカリーパフ。長細く大きなゴブレットにたっぷり入れられたミルクセーキは冷たくて甘くて・・・最高に美味しい。カリーパフはリトルインディア辺りで売っているインドの本場ものとは違って、ロシアのピロシキみたいなさっくりした生地の中に詰められたカレー味のジャガイモとミンチ肉の調和が素敵に美味しい。この甘辛のコンビネーションが大好き。

お腹も満足したところで、いよいよコールドストレイジへ行こう。

1969年オーチャードを歩く-その2

さて、C.K.Tangの重厚な扉を押して外へ出ると、冷房の効いた室内とは全く違う湿気と熱気の空気にひるみそうになる。このあたりのオーチャードには街路樹は数十メートル間隔にポツン、ポツンと植えられているだけなので直射日光をさえぎるものは無い。
orchardroad01
(C.K.Tangの通り向かいにあったアパート)

道路の南側を見るとちょうど正面に6階建ての古いアパートが建っている。白と赤の色が鮮やかな巻きすだれが各戸の窓に掛けられている。そのアパートの西側から70年のオープンを目指して建設が始まったばかりのホテル・マンダリンまでの間には雑草が茂る緑の空き地が広がっている。ここは斜面になっているので、その空間を利用したコンサートなどの催しものが行われたりもする。先日はKickapoo Joy Juiceという緑色のビンが印象的なジュースの販売促進イベントが行われていた場所だ。シンガポールはペプシとセブンアップが優勢な国なのでコカコーラでさえあまり見かけない。そんな中でKickapoo(キッカプー)なんて呪文のような声を高らかにイベントをしても人気を得るのは難しいだろうな。

C.K.Tangを出て東方向へ歩くと隣の3階建てのビルとの間の狭い通りがある。ここを北方面に入っていくとC.K.Tangの真裏にバティック・インという屋外レストランが見えてくる。ここはスチームボートやサテー等のローカル料理で有名なお店。炭火の鍋から立ち上る湯気と炭の香りが食欲をさらにかきたてる。暑いシンガポールとは言え、スチームボートは屋外で食べるのが最高です。難を言えば、ここは高級レストランなので、ウェイターさん達がテーブルの周り大勢控えており、子供にとっては観察されているようでちょっと息苦しいかな。

またオーチャードへ戻り東方向へ。前述の3階建てのビルの一階にレンガ造りのおしゃれなスパゲティのレストランがある。オーチャードに面した西洋風レストランはあまり無いので貴重な存在。ここでスパゲティを注文すると、赤いガラスの壷にパルメザンチーズがたっぷり入ったのが添えて出される。このチーズの香りがなんとも言えないイタリアーノな雰囲気で、いつもたっぷり振りかけて食べる。窓の外に見えるオーチャードを走る車を眺めながら。

このビルの中にはアラビア絨毯のお店が数軒あり、アリババの絵本で見覚えのある模様の絨毯が店内を飾っている。店の中を覗くと怖い目つきのおじさん達が睨んでくるので、さっさと通り過ぎよう。
1976-fitz
(この写真は少し新しくて1976年頃のものです)

向こうに見えるのはフィッツ・パトリック。ここは西洋式のスーパーマーケット。オーチャードには東のコールド・ストレイジと西のフィッツ・パトリックという2大スーパーマーケットがある。はっきり言うと、シンガポールにはこの2軒くらいしか洒落たスーパーは無い。フィッツ・パトリックは幅広い食料品と特に雑貨類が充実している。けっこう敷地が広いのでワンフロアだけの店舗でもかなり見応えがある。

1969-orchard-map



1969年オーチャードを歩く-その1

今日は1969年のある日曜です。
天気も良いのでさあ、オーチャードを散歩してみましょう。
まずブキテマRd.から背の高いホテル・エクアトリアルを右に見てスティーブンスRd.へ進んで行くと、YWCAの静かな佇まいの建物が左手に見えてきます。やがてうっそうと茂った木々の下を走る狭いスティーブンスRd.を抜けると、スコットRd.への分岐点へたどり着き、信号が無いので自動車に気をつけて通りの東側へ渡ります。すると左手にはとんがり屋根のグッドウッド・パークホテルの美しい姿が見えます。このホテルのロビーにあるカフェレスプレッソのバナナスプリットはシンガポール1美味しいデザート。通りの向かいにはアメリカン・クラブの現代的建物のクラブハウスがあり、我らがジャパン倶楽部のコロニアルな邸宅とのコントラストに複雑な思いが湧きあがります。更にオーチャードへ向けてゆるい下り坂を歩いていくと、シンガポールでも有数の大型キャバレー、トロピカーナの看板が見えて週末の飲茶ランチを思い出しお腹が空いてきます。そのまま下っていくと左手にヨーク・ホテルがあります。ブラック&ホワイト風の邸宅を利用したような老舗旅館のような建物はグッドウッドには見劣りはするものの、古きよき時代を感じさせます。その背後には福寿さんや堀口さん達の住むJl.ジンタンの高級マンションが見えます。

オーチャードの交差点までやって来ました。
交差点から通りの右手を眺めると、Show Houseのビルがあり隣の映画館、リドでは「Krakatoa - East of Java」が上映中です。オーチャードを挟んだ南側にはベンツのショウルームがあり、半地下に入っているショッピングセンターのメトロが見えます。ここの4階にはトロイカという高級レストランがあってシャシュリックという肉料理が有名。さらにその西側にはシンガポール・ヒルトンというホテルの建設工事が進んでおり、シンガポールで一番となる地上27階建てということで、これがシンガポール高層ホテル時代の魁となる予感がします。その隣に建つ老舗のホテルシンガプーラは老朽化でいつか淘汰されて無くなってしまうのだろうか・・・。この一角の南側には戸室さんのお宅がありました。

さて、ではオーチャードを東方面へ向かって歩き始めましょう。
交差点の北東の角には古くて寂れた建物がありますが、しばらく歩くとC.K.タンの中国風な建物が見えてきます。ここは冷房が効いている数少ない百貨店なので少し涼んでいきます。グランドフロアの突き当たりの階段の右横にあるのがカメラ関係のショップ。家のカメラは自由に使わせてもらえないので、自分用のカメラが欲しくてお金を貯めているのだけれど、まだまだ足りず、とりあえず品定めにしばしば訪れる場所。ショウケースの中には立派なカメラが並んでいるけれど、隅っこに飾られてある小型カメラのRollai35というのが気になる。S$80という価格が安いのか高いのか判らないけれど可愛い姿に憧れる。テレビでやっているドラマの「Mission Imposible」「The Courtship Of Eddy's Father」「The Twilight Zone」「Get Smart」「Combat」「It takes a thief」などが夜の8時から10時ごろに放映されていて、その主題歌を録音する為のカセットテープを買って帰ろう。カセットはまだ最新式のメディアなので、こういう百貨店でないと生カセットは売っていない。日本ではAiwaやSonyの小型カセットレコーダーが受験生に大人気だと海外新聞普及で配達してもらっている一日遅れの日経新聞に書いてあった。 C.K.タンには4階におもちゃ売り場があり、日本製のプラモデルを売っている穴場。

さあ汗もひいたので、またオーチャード歩きの再開です。

シンガポールで散髪

昨今は1000円カットの散髪屋さんが人気のようですね。不況の影響もあるのでしょうが、待ち時間が無ければ10分で完結するというのは忙しい時代にマッチしているようにも思えます。

このまえ、若者達で賑うブギスの地下ショッピング街を歩いていたら、東京で見慣れたQB Houseと書かれた看板があり、赤、黄、緑のランプ(注)の緑が点滅していた。ちょっと伸びていた髪の毛が気になっていたので迷わず店内に飛び込んでしまいました。事前にS$10のチケットを自販機で買って、案内されたシートにつくと「全体を2cmm程度短く整えて下さい」ってオーダー。シートの前には液晶ディスプレイが埋め込まれていて、ニュースとか表示されるので暇つぶしになる。せっかちなシンガポールの人達に受け入れられたのか、HPを見たところ既に20店以上もシンガポールのあちこちに出来ている。凄い・・・。
(注)待ち時間の目安がランプの色によって、店外でも認知することが出来るシステム。 赤: 15分以上、 黄: 5-10分程度、緑: すぐにカット可能

1969年頃のシンガポール。当時の日本人の皆さんは何処で散髪をしていたのでしょうか?
小6だった私の行きつけだったのは、オーチャードのインターナショナル ビルディングの地下フロアにあった散髪屋さんです。このビルには2階にChinese Emporiumという中華百貨店が入っており、また3階にはMay Flowerという中華レストランがあり、週末の飲茶ランチはとても有名でした。

まだ殆んど英語なんか話せない小学生だったのたで最初の頃は母に連れられて行きましたが、3回目辺りから自分ひとりで歩いて行きました。スタッフ達も私の顔を覚えてくれていて、黙って座れば毎回同じ髪型にカットしてくれるので困ることはありません。

シートに座ると、この店では袖のついた前掛けをしてくれます。そして数冊のアメリカンコミック誌を手渡される。バットマンやスヌーピーなんかの、もちろん英語のヤツでした。マンガを読みながら散髪をしてくれるシステムというのは有り難かったのですが、当時は「巨人の星」「あしたのジョー」なんかが連載されていた時代だったのでアメリカンコミックでは物足りなさを感じたものです。もっとも、気持ちよくなってものの10分も経ったら眠ってしまい、おじさんに肩をたたかれて「終わったよ」って声で起こされたものですが(笑)

日本人の子供なんて未だ100人もシンガポールに居なかった時代です。

子供にはお菓子が必要

セブンイレブンもファミマも無い時代のシンガポールで、日本人の子供がお菓子を手に入れる方法は?

第一に思い出すのが自転車で鐘の音と共にやって来る、アイスクリーム屋さん。それはMagnoriaとWallesの2大アイスクリームメーカーが、それぞれ青色と赤色のパラソルを施した特殊仕立ての三輪自転車にアイスクリームの入った箱を載せて住宅街を売り歩く(走る?)ものでした。チョコレートバーのスティックが笛になる20セントのものが美味しかった。でも一番好きだったのは、バニラやストロベリーの四角い箱を2cm幅に包丁でカットしウェハースで挟んで手渡してもらうヤツ。

第二はインディアンショップ。住宅街の外れには地元民しか利用しないであろう小汚い小さな商店が数軒並んでおり、その中にインド人が経営する畳半畳ほどの狭い「何でも屋」さんがあったものです。薄汚れたガラスの小さなケースの中にはインドスィーツが入っている。ヒーナッツや各種豆類が豊富にあった。そうかと思うとおじさんの後ろの壁には缶詰食品やジュース類などが並べられ、更に天井からプラスティックの玩具ピストルとか安っぽいおもちゃ類が吊るされている。インド人のおじさんの目は非常にキツイので、店の前に立ち止まってお菓子とかおもちゃなんかを眺めるのには勇気が要ったものです。

第三として、住宅街の通りで週一くらいのペースで開催される夜店市(ナイトマーケット)があった。リンゴやオレンジ等のフルーツが10個で50セントで買えたりしてお土産に買って帰ると母に喜ばれた。ピーナッツと砂糖を挟んだパンケーキは絶品でした。二つで10セントなんて今じゃ有りえない。ツパメの巣を刻んだヤツを入れた透明のジュースと相性ぴったり。日本の夜店の今川焼きと冷やしアメをイメージしてもらうと似ていると思う。

あとはオーチャードまで歩いて行って、フィッツパトリックかコールドストレイジの食品売り場で買い求めるしか無かった。そういう欧風の高級ショッピングセンターのレジで子供が一人でお金を出して買うという行為は、なんとなく不審がられているようで居心地悪かった。

コンビニで気軽になんでも買い求められる今の時代は、日本人の子供達にとってはありがたいものでしょうね。

		

シンガポールで剣道を

「日本へビートルズがやって来る」なんていう時代(1966年)、私は小学3年生の頃から剣道を習っていました。通っていた小学校の体育館を使って近隣からボランティアの剣道の先生が教えてくれるという小さなスポーツサークルでした。当時の体育館には当然空調のような気の利いた設備は無かったのですが、夏の暑い日も冬の足先がしびれるほど寒い日も休まずに通ったものです。剣道着と防具を身に付けるカッコ良さに憧れてはじめたものの、次第に剣道を通して精神的な強さが鍛えられ、スポーツとしての面白さにどっぷり浸かっていました。
そんなある日、シンガポールへ家族で引っ越すぞ、という話を母親から聞かされてかなり落ち込みました。竹刀を振る力加減や、すり足での身の動かし方が判ってきて、実戦の楽しさにたどり着いた矢先だったので、剣道が出来なくなることはかなり悲しいことでした。とは言っても、そんな理由で「僕は行かない」などと言える立場でも無かったので、しぶしぶ諦めざるを得なかった訳です。親の都合で転勤に付き合わされる子供の辛さは、今も昔も変わらないのです。

シンガポールへ移り住んで、スイスコテッジの日本人小学校へ通いはじめて数ヶ月が経ったある日、剣道をやらないか、という話をどこかで聞きつけて「やりたい!」という衝動にかられて始めることになりました。実はこのきっかけについてはあまり記憶が無いのです。まだ母を亡くす前に「お母さんは誰にあの剣道のことを教えてもらったの?」と母に質問したところ、「あれはあなたがどこかで知り合った人と剣道に参加することを決めてきたことで、お母さんは知らない」と言うのです。「毎週2回、Whitleyの警察学校へ自分でバスに乗って通っていたでしょ、お母さんは警察学校の守衛を通り抜けて入って行って本当に大丈夫なのか心配していた」と。

どうしてシンガポールの警察学校の剣道部に参加させてもらい一緒に練習をすることになったのか、深い記憶の中からたどり着いたのは、ジャパンクラブでの何かの集まりにローカルの人たちが剣道をしている場があり、その時に「剣道の型」を私が知っているということを誰かに言ったら「ぜひ型を教えに来て欲しい」と言われたような・・・正確な記憶では無いけれど。

Whitlyの警察学校はトアパヨの南にある緑の丘に建てれた広い敷地を有する立派な学校でした。私の家からは歩くと約30分、バスを利用しても20分くらいの距離。Whitly Rd.に面したゲートには恐い顔つきの守衛さんが数人居て、チェックを受けて入門することになります。私が「Mr. Leeの剣道クラブへ行きます」と言うとニコヤカに通してくれました。このLeeさん(という名前だったと思うけれど)が、この剣道クラブを主宰しており、指導者としても剣道を教えていました。後日聞いた話では、この警察学校では相当位の高い人だったそうで、戦時中に日本人から剣道の手ほどきを受けたことがあったそうです。Leeさんは中国系で50歳代くらいだったと思いますが、とても体格が良くいつも厳しい顔をしていました。練習が終わってオフィスへ連れて行ってくれると熱い中国茶を淹れてプラナカン風の甘いお菓子を食べさせてくれました。Lapis Saguというカラフルな虹色のお餅が私のお気に入りでした。そんな時のMr. Leeはとても優しい顔つきで、いろんな話を聞かせてくれました。

中国では古くから冷たい飲み物は健康の為に飲まない。どんなに運動後の汗にまみれた状態でも、決して冷たいものは飲んではならない。こうして熱いお茶を飲むと次第に体が安らいでいくのです。そして甘いお菓子を食べてゆったりと語らうことで、回復していくのです。これは説得力があります。私は今でもこの教えに従って、スポーツ後には冷たい飲み物は飲まないようにしています。ところが最近のシンガポールでは、中国系の人たちでさえ冷たい飲み物をガブガブ飲んでいるようですね・・・。いかんな〜

この剣道クラブへは約1年間くらい通ったと思います。多くのローカルの警察官の方々と、共に汗を流して竹刀を振ったり、休憩時間に過ごした時間はとても貴重な体験として記憶に残っています。
		

あけましておめでとうございます

丑年の2009年がスタートしました。

振り返ると、1970年のお正月は海外で過ごす初めてのお正月でした。南国シンガポールの一月はもちろん暑い。汗をかきながらのお正月という経験も面白いものでした。当時のシンガポールで日本のテレビ番組が見られるなどという事は夢にも思わなかった。今やNHK紅白歌合戦が生放送で見ることが出来る。世の中進んだものですね。当時は日本から送られてきた紅白歌合戦の映像をジャパンクラブの屋外特設会場で映写機を回して小さなスクリーンに映し、100人ほどの日本人が集まって楽しんだのでした。たしか1月10日辺りの夜だったと思う。その翌年にはクリフォードピア辺りのホールを借り切って少し規模の大きな映写会になりました。シンガポールに暮らす日本人も1971年頃から徐々に増加しはじめたのですね。

私の家の隣に松下電器の駐在員のご家族がお住まいになっていたのですが、海外駐在の社員用に紅白歌合戦が録音されたカセットテープが配布されるシステムがあったらしく、1月初旬にはお借りして拝聴させていただいたことがありました。さすが社員に優しい松下さん。

2008年 年の瀬に

なんだかんだと忙しい年でした。

額に汗して働くことを低賃金の中国へ廻して、当地はホワイトカラーの管理業務。2008年前半までは好景気が続いていたけれど、金融に依存するウェイトが重くて製造業に乏しいシンガポールにとっては厳しい時代になったものです。

世界最大の観覧車という鳴り物入りで今年から運行開始したSingapore Flyerが先日の電気系のトラブルにより12月31日まで営業を停止しているとか。この先のシンガポールを暗示しているような気がします。

ここにに書きたいことは沢山あったのだけれど、もう今年もあと少し。来年はもうすこし頻繁に投稿することを心に誓い、2008年最後の書き込みとします。

2009年が皆様にとって素晴らしい年でありますように。

それぞれのシンガポールの記憶

シンガポールへ家族で渡って暮らし始めた時から今年で40年が経とうとしています。
小学6年生だった当時の出来事でも未だに鮮明に記憶しているのはどうしてだろうか。
パヤレバー空港に降り立って冷房の効いた到着ロビーからドアを開けて、外の空気に接した時の驚き。翌日、新居の付近を一人で歩いた時に、真上から降り注ぐ太陽の熱と、道路脇に生える植物や花の色の濃さ。あらゆる自然環境の違いに戸惑いを感じたものです。

ローカルの人達といろんな状況で接する機会があったけれど、我々日本人に対する冷たさをまざまざと感じる事が多かった。もちろん親の仕事関係のローカルの人達はとても優しく接してくれたのだが、マーケットで買い物をする際など、ごく一般的なシンガポールの人達と接する際には異なった対応を受けたことが多々あった。

1942年から1945年の間、シンガポールは日本軍によって占領されていました。その3年半の間に日本軍の軍人達がシンガポールに居たローカルの人達や英国、オーストラリアの軍人およびその家族達にどんな仕打ちをしたのだろうか。英、濠兵士がチャンギー刑務所に収容され、粛清による抗日中国系の人達が受けた扱い、そして普通の庶民が過ごした苦痛の日々。その時代は私達が暮らしていた1969年頃、当時のシンガポールはまだ戦後24年しか経っていませんでした。

40年前の平和な時代の記憶と、24年前の屈辱と熾烈な記憶。
私には理解できます。当時のローカルの人達や隣家のオーストラリア軍の家族達が、素直に打ち解けて接してくれなかった気持ちを。

自分の父親や祖父たちが、戦時中とは言えどもアジアの戦地で悪行を行なってしまったとしても、そんな事を聞きたい家族はいないだろうし、話したくも無いだろう。西洋諸国の搾取からアジアを開放するはずの日本軍が、結局自分達も同様の行いをした、という矛盾に満ちた占領時代。一握りの上層部が率いた戦争によって、多くの下級兵士の無駄死にと、民間人を苦しめる結果に終わった戦い。

被害を受けた者はその体験をいつまでも記憶して受け継いでいくでしょう。日本に落とされた原爆の悲惨さ、空襲を受け逃げ惑い失った命の尊さ。シンガポールでの日本軍による被害者達も決して忘れることは無いでしょうし、その記憶は受け継がれるべきです。
しかし加害者は言い訳をし、あげくの果ては自らの過ちを正当化して開き直る。原爆で戦争を終わらせた、日本軍はアジアを西洋から救おうと努力した、日本軍はそんなに大勢の民間人を殺していない、などと。

益々グローバル化していく国際社会において、今の若い世代達の過去の認識度の違いによって、いつかまた大きな紛争、戦争の引き金にならないか とても心配してしまう 2008年の8月15日です。

syonanto












日本のシンガポール占領
証言=「昭南島」の三年半
凱風社

シンガポール日本人学校OB&OGハイティ

今年のシンガポール日本人学校のOB&OG懇親会が下記の通り開催されます。
(1)日程:平成20年6月14日(土)15時から17時まで
  /受付14:30スタート
(2)場所:シンガプーラテラス
  (4月からラッフルズテラスから名称変更)   
  中央区銀座2-2-14マロニエゲート11F 地図はこちら
会費は一律 2,000円で海南チキンライス・スイーツ・ソフトドリンクなどが用意されています。アルコール類は別料金となっていますがタイガービアがあるそうです。   

SJSで過ごした経験のある方々の集いの場として、本場のチキンライスが楽しめるシンガプーラテラスは最適なロケーションですね。会費も手頃なので、ぜひ参加したいと思います。


ALWAYS シンガポールの夕日

ALWAYS 続・三丁目の夕日という映画を観ました。前作に引き続き昭和の時代に生きる人々の思いと文化や建造物などを克明に再現する素晴らしい映画だと思います。六本木の小さな映画館だったので、観終わった後に東京タワーの姿を目の前に見上げられるというロケーション。これは観劇の余韻へ更にインパクトを与えてくれました。

stanford-1














当時のシンガポールではテレビは未だ普及しておらず、やはり庶民の一番の娯楽は映画でした。中国語の香港映画などはチャイナタウンや各地の小さな上映館がありましたが、洋物はリド、キャセイ、オデオンそしてキャピトルなどの大きな映画館で上映されました。

キャピタルはスタンフォードロードの西の端にあり、セントアンドリュース教会を経てやってくる海からの潮風が香る場所に位置していました。写真のように、今もキャピトルのビルは残っています。キャピトルからMPHの建物までの間は今も当時の面影を残す3階建てのノスタルジックな建物が維持されています。

stanford-2














そんなキャピトルの向かいにそびえるラフルズシティとスイスホテル・ザスタンフォード。73階の超高層ホテルがシンガポールの景色を一変させ、風の流れも異なってしまいました。古いものと新しいものを共存させて、なるべく貴重な遺産を残してくれることを望むばかりです。

2008年1月の景色

以前紹介したオーチャード・ターンと呼ばれる新しいビルの工事が進んでおり、オーチャードとパターソンの交差点周辺はその騒音が相当響いています。 私は交差点の角にあるマリオットの一階にあるCrossroads Caféでのんびり通りを歩く人達を眺めながらお茶するのが好きだったのですが、今の状況ではとても寛ぐことは無理です。 まあ常に進化し続けるシンガポールなので、工事の騒音などに戸惑っているようではいけないのでしょうが(笑)

marriot
















OVER SINGAPORE 50YEARS AGO

2008年1月末に訪星しました。チャンギー空港にはターミナル3が正式運営を始めており、更に利便性の高い空港として進化・拡張していました。そんなT3の中を歩いていたら本屋の店頭にこんな本を見つけました。

over50
















OVER SINGAPORE 50YEARS AGO
An aerial view in the 1950s

これは1950年代に撮影されたシンガポールの航空写真と街角を撮った写真とを関連付けて、当時のシンガポールの街並みを鮮明に紹介するというもの。私が暮らしていた頃よりも更に約10年くらい前の時代ではありますが、それでも記憶の片隅で薄れかけていた当時の景色を鮮明に蘇えらせてくれる写真が沢山あり、S$45とやや高価ではありますが、思わずレジへ向かったという次第です。

この本を開いていると、あの頃に歩き回った道を思い出し、時の経つのを忘れて見入ってしまいます。


月別アーカイブ
最新コメント
最新トラックバック
訪問者数

  • ライブドアブログ