木村晴美著『日本手話とろう文化』(2007年 生活書院)を読んでいて、こんな記述に出会った。

「実際に代用品<八>でやってみると手話母語話者の直感として違和感を覚える。つまり、手話の音韻的制約に違反しているのだ。代用品<八>にも音韻的に違和感を覚えるが、動きを伴うとさらに違反となることが明らかになる。」(p20)

 ここで木村が訴えている手話言語上の「違和感」は、「聴者の手話」がネイティブな(「ろう者」による?)「手話母語」の「代用品」として採用している手話表現(たとえば数字の<八>のあらわし方)が「手話母語」の「音韻的な制約に違反している」ことから感じられる「違和感」だ。

 自分は「ろう者」でもないし「聴者の手話」もしないので実感がわからないのだが、ネイティブな「手話母語者」である木村の実感では、「手話母語」による数字<八>の表現は、親指を「五」の数として、後は人差し指・中指・薬指(それぞれの指が「一」の数を表わす)を「立てる」、つまりは「小指だけを折り曲げる」というのが「音韻的に」正しい表現だ、ということになる。
 ところが「聴者の手話」では、「小指だけを折り曲げる」のが難しい場合、「小指を立てて他の指(薬指や人差し指など)を折り曲げても同じ<八>を表わしていることにしましょう」ということのようだが、木村はこの「聴者の手話」の代替思考(融通さ)が気に食わない。木村の不満は「どうして聴者の人は、せっかくろう者が使っている手話母語があるのに、それを無視するの? それは、ろう者の手話母語つまりはろう文化への敬意がないからではないの?」ということになる。

 ところで、木村の文章に感じた私の「違和感」もしくは「ひっかかり」は、木村が違和感を訴える「音韻的制約」という言葉に対してだ。「手話」(ボディ・ランゲージ)であるのに、どうして聴覚音声的な概念である「音韻」という言葉を使っているのか? という疑問がすぐに湧き起こった。

 「音韻」という概念は、元々は中国語の音節構造「頭子音+母音+末子音(+声調)」の成り立ちを分析するための概念で、「音韻論」というのは、「声母」(頭子および末子=子音)と「韻母」(母音)の組み合わせのパターンを論じる学問だ(Wikipediaより)。「韻を踏む」というのは、特に「母音の並びを整える」(もちろん、子音の並びも関係してくるが)ということにある。それは中国語のみならず「音記号」と「意味=形象記号」としての漢字を導入した日本語の「言語情調」(折口信夫『言語情調論』)である短歌や俳句や詩などでも大切な表現上の技法のひとつで、「声」を出して「詠む」ことば(詩)の「声調」として大切な「音覚情調」(折口:同書)への配慮である。つまり「音韻」というのは、「声」(音)を「出す」人 と その「声」(音)を「聴く」人の存在を前提にした概念だということになる。言ってしまえば「音韻」というのは、木村のいう「聴者」の世界で成り立つ概念だ。

 たぶん木村も、そんなことは承知の上であえて「音韻」という概念にこだわっているのだろう。そこで「音韻」という概念をソシュールのいうような「聴覚イメージ」として捉えた場合に、<イメージ>という概念を媒介にして「音韻」という概念が他の知覚的な概念へ<転換>できるのではないかと考えてみた。

 例えば「ゆっくり歩くかたつむり むっくり起きるだるまさん」という文章があるとする。するとここで「韻」を踏んでいるのは、「ゆっくり」と「むっくり」ということになる。そしてこの「ゆっくり」と「むっくり」」は単に母音の組み合わせのパターンが同じというだけではなく、「ゆっくり」と「むっくり」の《動きに伴う動作のスピードやその姿》にもなにかしらの<同調>を「直感」することができる。たぶん木村の言いたい「音韻」という概念には、「音の変化の動き」と同じような「身体(手・指・顔など)の動きの変化」の<イメージ>が込められているのではないか? いいかえれば、「音(聴覚イメージ)の変化」(子音や母音の「情調」の変化あるいはその「韻」による「リズム」の変化)は「像(視覚イメージ)の変化」へと「イメージ」のベクトルが<転換>(吉本隆明の概念で言えば<ベクトル変容>)しうるのではないか、ということだ。(註1)

 ちょっと耳慣れない言葉だが、「視覚韻」(Eye rhyme)という概念がある。これも手身近にWikipediaを覗いてみると、次のように説明されている。

 「視覚韻(しかくいん、Eye rhyme aka visual rhyme, sight rhyme)は、発音は異なるが、綴りが似ている韻のこと。それゆえに、聴覚韻ではない。「read」(過去時制でない)と「dead」がその例である。
古い英語詩、とくに中英語で書かれたものやルネサンス期のものは完全な韻を踏んでい(る?;註M)が、現代の読者が読むと、大母音推移のため発音が変化し、視覚韻になってしまう。他には、次のようなものがある。•height : weight •sew : blew, hew, new, crew, dew, few, •brow, now, how, plow, wow : sow, crow, mow, row, slow, show, •said  : laid, paid, •their : weir •dough : rough, tough, enough : ・・・」(Wikipedia「視覚韻」)

 実は木村の上記の文章を読んだとき、「音韻」というよりは「視韻」もしくは「視覚韻」と言った方がいいのではないか?と思ったものだ。それは南画家の横田春畝の絵「樹韻」(「tree rhyme」と私が勝手に英語表記した)を解説するために、この「視覚韻」(eye rhyme)という言葉と出会っていたからだ。「rhyme」には、いわゆる「韻」(脚韻・押韻・韻文・詩など)の意味がある。そして、「rhyme」は「rhythme」(律動・韻律、いわゆるリズム)を含み込んでいるというのが、そのときの私の「直感」だった。

 木村の「音韻」への「違和感」が解消されたところで、ここでの「論点」(<聴覚イメージ>の<視覚イメージ>への「ベクトル変容」)は明らかになったと思う。本当は「言語」についても触れなければならないのだが、「論点」が「〜論」になり、長くなるので割愛した。それはまた別の機会に譲りたいと思う。ただひとつ、この文章を書きながら吉本隆明の「舞踏論」が私の脳裏に去来したので、その書き出しを引用しておきたい。

「耳から身体にはいるリズムがどこかで堰き止められ、失調している。また音階が入ってきても身体をうごかす言葉になるまえに、あとかたもなく消えてしまって、身体が律動からとりのこされる。わたしはそのため舞踏にちかづいたことはない。あれは人間のやることでも、人間にできることでもないという先入見がとりのぞけないからだ。言葉だけの舞踏論があるとすればそれしかできないし、それはやってみたい。言葉は定型によって舞踊するが、暗喩によって舞踏するといってよい。」(吉本隆明「舞踏論」(1989年)『ハイ・イメージ論Ⅲ』1994年所収) 

(註1)「言語」の成立が、視覚野と聴覚野との脳領野的な「構造」(各一次中枢の関係性)の存在から可能であることを、養老孟司は『唯脳論』で解剖学的にあきらかにしてくれている。ちょうど視覚野と聴覚野のそれぞれの「情報」処理の逐次的な展開が「波状」として干渉し合うところに言語領野が存在する、というより「形成」されている。そのことを「皮質の地図」として養老は次のように述べている。

 「視覚の一次中枢は後頭葉に、聴覚の一次中枢は側頭葉にある。それらの前方中央寄りに、聴覚性言語中枢すなわちウェルニッケの中枢がある。その上部、頭頂葉には、角回すなわち視覚言語に関する中枢がある。両者からの繊維は、中心溝の前方下部にある運動性言語中枢すなわちブローカの中枢に入る。これがもっとも一般的な言語中枢の表示である。この図から、感覚性の言語中枢が、視聴覚の一次中枢の間に介在する位置にあることは、明瞭である。」(養老孟司『唯脳論』ちくま学芸文庫版 p164)