COLUMN 鈴木康明

~悲嘆学とは~
喪失の悲しみ、特に死別の悲しみとそのかかわりについての学びを通し、いのちの尊厳と、人と人とのつながりの大切さを考える。
悲嘆教育(Grief Education)を支える理論的枠組みの一つ。

悲嘆学研究所所長 鈴木康明

 カウンセリングが、クライエントの自己教育力と自己決定力の活性化を図ることで問題解決を目指すのは、人間とは自己実現のために努力できる存在であると理解している(人間観)からにほかならない。このようにカウンセリングと価値観の事柄は、切り離して考えることは難しい不可分の関係にある。



さて昨今のカウンセリングでは、人間観だけでなく、人生観や職業観、結婚観、さらには倫理観、生命観、自然観、宗教観など多様な価値観が、活動のキーワードとなることが増えているのではないだろうか。筆者は、これらの基層をなすものとして死生観の存在を考えるが、その理由の一つは、これまでのグリーフケアとデス・エデュケーションの実践にある。

●死と生

 生きていくことは、獲得と喪失を不連続に体験することである。このうち喪失の体験は、失うこと自体が不愉快であることはいうまでもないが、そこに自らの意思がほとんど関与できないということも我々を傷つける大きな要因となっている。その喪失の最たるものが、人の死である。この誰にでも起きる普遍的な事実は、それを体験する人を悲しみのどん底に突き落とすのだが、そもそも人はなぜ大切な人の死が悲しくつらいのだろう。また翻って人は、なぜこの世における新たないのちの生誕に喚起雀躍するのだろうか。

この死と生にまつわる悲嘆と喜びは、一見相違あるものを装いつつ、実は一つのことを指し示している。それは我々が単独で存在することは不可能な、徹底的に関係性の生き物であるということである。つまり死の場合、故人となってしまったその人とともに培ってきた関係の途絶が悲しいのであり、それが誕生であれば、これから共有できるはずの時間や空間への期待が我々の胸を膨らませるのである。人が死別と誕生というエポックメーキングにおいて、ことさら情緒が揺さぶられるのはこのためである。

ただし、人が死ぬ、生まれるという出来事だけに目を奪われてはならない。そうではなくこのことから理解すべきは、死にしても生にしても、これらが一連の生命の営みという過程のなかに位置しているということなのである。死なない人はいないのであり、生まれて、生きているということ自体がすでに死に向かっている。死に向かいすべてが収れんしていくところの生きている存在、さらにいうなら、それでも生きていかなければならない存在、自らをそのようにとらえたとき、死をタブー視したり、無視したり、またことさら過剰に畏怖や恐怖の対象としたり、さらには面白おかしくもてあそぶのはいかがなものだろう。必要なことは、死を前提に、死を取りこんだ生をどう考えるかということである。

●死生観

観とは、見方、考え方(漢和大辞典;学研、広辞苑;岩波書店)のことであることから、死生観は死と生の考え方となるが、山中(2009)が、「死生観というからには、死をどういう風にとらえ、生をいかにして生き抜くか、が問われている」というように、死そのものも大切だが、それ以上に、死からいかに生きることを考えるかということの方が肝要なのである。

前述したように、我々は死にゆく生を生きなければならないのであり、カウンセリングはそのような人間にかかわる。そんな我々とカウンセリングにとって必要な死生観とはなにか、筆者はひとまず「死と生の事柄に向き合うことで、これからの人生をどのように生きていくかについて考えること」とする。

●参考:高齢者を援助する際の死生観とは 

 黒川(2001)が、老いと死の問題が、援助する側のストレスになる要因としてあげる事柄のうち、高齢者は治癒も成長もしないということと、援助側が生老病死の現実に向き合わざるを得ないということの二点は、自らの死生観を振り返るもしくは形成する際、実に豊かな題材を提供する。もちろん、決して治らないだけでなく、必ず亡くなるであろう存在にかかわる意義と意味を見出すことは、容易なことではない。しかしだからこそ、死ぬまで生きなければならない我々の生をどう考えていくか、かかわる一人一人が向き合わなければならない事柄なのである。これも自己指導でき、自己決定もできる我々にこそ与えられた課題なのである。ホスピスにおける患者の方へのかかわりを見たとき、そこには必ず亡くなる方へ、「だからこそ」の精神が働いており、これは重篤な「障害」を持つ方へのかかわりにおいても同様であろう。今一度、自らの発想の根源や傾向を、死を間近にしつつも現在も生きている高齢者を前に深く問う必要がある。

●デス・エデュケーション

 筆者はホームヘルパーの死生観形成を中心とする人間性開発プログラムを、心理教育を枠組みとするデス・エデュケーションとして展開してきた。

WAKASAモデル(鈴木康明,1998『共感的態度の形成』川島書店)より

Wwarm-up:準備)関係性と生と死のエクササイズ→A-1awareness1:気づき1)共感性のエクササイズ→Kknowledge:知識)死生学と心理学的知見→A-2awareness2:気づき2)関係性のエクササイズ→Sskill:技術)傾聴技術→A-3awareness3:気づき3)関係性と死と生のエクササイズ。

(1)山中康裕,2009『高齢社会と死生観』老年精神医学雑誌20(12),p.p1422-1427.

(2)黒川由紀子,2001『高齢者ケアにかかわる専門職への心理的サポート』こころの科学90,p.p62-67. 
                                                                                    2015.7.8                     






【はじめに】

 広い宇宙のかたすみにたまたま授かったいのちです。その一つ一つがどれほど愛おしくて大切なものかということについて、何かもっともらしい理由は必要でしょうか。私は、それを当り前の真理として受けとめる、そのことこそが、今を生きる私たちの存在証明ですし、私たちのこの時代は、いろいろな課題はありますが、それが可能であると信じています。

でも現実はそうではありません。いのちは奪っても、そしてまた奪われてもならないはずなのに、残念で痛ましい出来事が後を絶ちません。どうすれば、心の底からいのちのかけがえのなさを理解し、それを育み慈しむ社会になるのでしょう。私はその手がかりを教育に求めたいと考えました。素朴すぎるかもしれません、でも、やはり教育というものに期待を寄せたい、その思いでDeath and Grief Educationをあれこれ探索してきました。

デスは「死」、グリーフは「悲しみ」、どちらも日頃の生活では、あからさまには考えないようにしています。それなのにどうして、教育の主題として向きあうのでしょう。それは、死なない人はいないからです。また、悲しみを体験しないなんていう人生もありえません。つまり「だからこそ」です。死にまつわる多様な事柄を考えることは、限りある生について考えること、また、悲しんでいる人へのかかわりを学ぶことは、人と人とのつながりの大切さを考えること、私たちはそれができるはずではありませんか、ということなのです。

このように志高く始めてはみたのですが、理論的な枠組みや具体的方法も手探りですし、効果の測定もどのようしたらよいか不明です。ということで未だに揺れ動いている状況にあります。それでもいくつか気がついたことがありますので、それを記してみます。


【いのちとは?】

 まず、育み慈しむいのちはどういうことなのでしょうか。私はいのちとは、二つの意味を持つことに気がつきました。

(一つ目のいのち)

 これは、身体的、生物学的な次元に属する事柄で、仮に「生命」としました。その成り立ちとか構造などを知的に理解して、科学として自分の血となり肉となりしていくものです。これまで、家庭教育もそうですが、特に文化伝達を大きな使命とする学校教育が、最重要課題として取り組んできました。

ではなぜ、知識の獲得が大切かというと、そのことによりこれからの社会を担う子どもたちの興味や関心の幅がひろがり、自然のなかの生命体としての人間について、豊かであたたかい視点を持てるようになるのではないかと考えるからです。偏見や差別は無知が大きな原因となります。地球規模での共生を志向するためにも、ぜひ知的な理解を求めたいものです。

(二つ目のいのち)

そしてもう一つ、決して見逃してはならないものが、「自分も含む、生きとし生けるもの、つまり、心を持ち身体を持ち、関係存在として実感できるいのち」(鈴木、2001)です。これを私は「つながり」としてのいのちとしました。生命の教育もそうですが、こちらは特にお題目ではない、実感をともなった生き生きとした理解が必要です。

そのためには、子どもとの細やかなかかわりを基盤とする家庭教育はとても大切ですが、学校も意味のある役割を果たします。なぜなら、もともと学校は集団を対象にしますので、人と人とのかかわりを学ぶ場として最適なのです。

ただし人は個別的な存在です。人は、人とふれあえばふれあうほど、「自分は他の人とはちがう」ということを実感するかもしれません。それはとても寂しいことなのですが、その自覚があるからこそ、今このつながりを大切にしようという思いが確実になるのではないでしょうか。学校はそれを学ぶことができるはずです。

自分と同じ人はいないけれど、でも決して人は冷たくはありません、ふれればあたたかく柔らかいです。


【導き出す】

 もう一つあげます。それは教育についてです。educationの語源を探るとそこには、①引き出すこと、②教え込む、型にはめこむことの二つの意味があるそうです。これを私の試行しているDeath and Grief Educationで考えたとき、教える(伝達する)ことについてはすでに生命のところで述べました。ここでは、死と悲しみからなにを引き出す、導き出すのかということについてまとめてみましょう。

その際私は、善意と品位の二つを考えています。人がもともと持っているこれらを、そっと形にすることはいかがでしょうか。Death and Grief Educationはそれができるものと考えます。そこで参考までに、私が考える善意と品位について補足しておきます。ただし二つを分けることに意味はないかもしれません。

(善意って?)

たとえば、身近な人間関係の中で、人を無視しないで、自然にその様子や状況を気にかけることができる人がいますが、その人は善意の人ではありませんか。

(品位って?)

人を、文化や宗教、経済、能力、性別、さらには病気や障害の有無などで区別することに意味がない、本質的に、同じ存在意義を持つ生き物だということに気づいている人がいますが、それを品位の人とさせて下さい。さらに、人と人との関係は力ではかることなどできないということに気がついている人もいますね、その人も含めましょう。


【おわりに】
 実はここでは関係性、つまり人間は単独では存在できないかかわりの生き物だということに触れることはしませんでした。それをさしおいて、悲嘆の教育はあり得ませんので、丁寧に考えていきましょう。
 さて最後になりますが、死と悲しみについて子どもに教えを請いながらいっしょに歩まれてはどうでしょうか。子どもたちが感じていること考えていること、たとえば、わからないことや怖いこと、さらにはどうしても知りたいことについて「ともに」考えていくのです。わからないことを一番わかっているのは子ども本人ですから、それは無責任でも放置でもありません。ただしそのため大人には、人としてのたくさんの引き出しが必要となるかもしれません。
(診断と治療社 『チャイルド・ヘルス』2012,11 一部加筆)
                                                                                   2015.5.30

私が、カウンセリングの研究と実践にかかわるようになり30年が過ぎましたが、実は「死と悲しみ」の主題は、当初教育から始まりました。具体的には1996年に始まる東京医科歯科大学「人間科学:心理学系」、および1997年に開講した東京外国語大学「死の教育」がそれです。そして受講学生と交流をするなかで、必要に迫られ、心理臨床の領域にも拡大していったのです。ですから心理を専門とする人間としては、少しですがねじれた展開をしています。ちなみに外大の講義タイトルは後に、「死と悲しみの教育」としました。

さて、ここでは、その死と悲しみについて、簡単ですが思うことをまとめてみましょう。

私は、生きていくことは、獲得と喪失を不連続に体験することだと考えています。このうち後者は、まず失うこと自体が不愉快なのですが、そこに自らの意思が関与していないということも私たちを傷つけます。その最たるものが、人の死です。この誰にでも起きる普遍的な事実は、それを体験する人を根底から揺さぶりますが、そもそも人はなぜ大切な人の死が悲しくつらいのでしょう。また翻って人は、なぜこの世における新たないのちの生誕に歓喜するのでしょうか。

この死と生にまつわる悲しみと喜びは、一見相違あるものを装ってはいますが、実は一つのことを示しているのではないでしょうか。それは私たちが、この世界に単独で存在することは不可能な、徹底的に関係性の生き物であるということです。つまり死の場合、故人となってしまったその人とともに培ってきた関係の途絶が悲しく、それが誕生であれば、これから共有できるはずの時間や空間への期待が私たちの胸を膨らませるのです。

人が死別と誕生というエポックメーキングにおいて、ことさら情緒が動くのはこのためだと思います。

ただし、人が死ぬ、生まれるという出来事のみに目を奪われてはならないと思います。そうではなくこのことから理解しなければならないことは、死にしても生にしても、これらが一連の「生命の営み」という過程のなかに位置しているということなのです。デーケンの言うように、私たち生き物の志望率は100%です。死なない人はいません。  

生まれて、生きているということ自体がすでに死に向かっています。死に向かいすべてが収れんしていくところの生きている存在である私たち。さらにいうなら、それでも生きていかなければならない存在、自らをそのようにとらえたとき、死をタブー視したり、無視したり、またことさら過剰に畏怖や恐怖の対象としたり、さらには面白おかしくもてあそぶのはいかがなものでしょう。

必要なことは、死を前提に、死を取りこんだ生をどう考えるかということではないでしょうか。私はデーケンのDeath Educationはそのようなものだと考えて実践しています。 
(東京・生と死を考える会 『カイロス』 一部改編)
                                                                                   2015.3.25 

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