『恋愛』という熟語を新明解国語辞典で調べてみたら、こんな記述がされていた。

特定の異性に特別の愛情を抱き、高揚した気分で、二人だけで一緒にいたい、精神的な一体感をわかちあいたい、出来るなら肉体的な一体感も得たいと願いながら、常にはかなえられないで、やるせない思いに駆られたり、まれにかなえられて歓喜したりする状態に身を置くこと。

 …うーむ、日本では慣例的に異性愛至上主義と聞いてはいたが、この記述はそれをまさに端的に表わしているような。多様性を尊ぶ教育者(こらこら)としては、是非とも修正していただきたいと思うのだがいかに。…と本気になって三省堂にクレームのメールを出すなんてことはもちろんしないけど、自分の性的傾向はやはり異性愛なんじゃないかと自覚しているワタシは、恋愛経験があまり多くないので、恋と恋愛と愛の比重の重さというのがイマイチよくわからない。だけどそういいながらどこかで愛を求めていたりする(うわー、くさいぞ)。でも、自分が求めているその愛というのは決して恋愛でもなければもちろん結婚でもないよなーなんて思っては悩んでいる。まわりを見回せば、それこそ恋愛話はあれこれ転がっているが、自分がこんな恋愛をしたいかと思えばとてもはそう思えないものばかりで、どこかうそくさかったり、薄っぺらに感じてしまうものが多いような気がする。それだからこそワタシはラブストーリー嫌いになってしまい、今ではすっかりやさぐれて、冬のなんちゃらが何だい、世界の中心で勝手に愛でも叫んでろ、そんでもってあーいのルケーチ♪(ここだけクインシー・ジョーンズ風にお願いします)に流されちまえなんてささくれだっているのである。
 だけど、そんなやさぐれもとはしだって、年に何回かは恋や愛、恋愛について、真剣に考えることがある。その機会を久々に得たのは、『ブロークバック・マウンテン』を観たからである。尊敬する李安(アン・リー)監督が2本の大作の後に作り上げたこの小さな映画が、昨年のヴェネチア映画祭で金獅子賞を得たと聞いた時からずーっと観たくて仕方がなかったし、観てよかったと思う映画だった。

 1963年夏、ワイオミング。茶色の髪のイニス・デルマー(ヒース・レジャー)と灰青色の瞳のジャック・ツイスト(ジェイク・ギレンホール)の二人の青年は季節労働の職を求め、ブロークバック・マウンテンにて羊の放牧の仕事を得る。寡黙なイニスと陽気なジャックは性格こそ正反対だが、すぐに意気投合して仕事に励む。イニスには地元にフィアンセのアルマ(ミシェル・ウィリアムズ)がいて、秋に結婚すること、ジャックはロデオで賞金稼ぎをしていることなどを互いに打ち明け、友情を深めていく。
 ある寒い夜のこと、テントで眠っていた二人は性的衝動に駆られ、発作的に肉体を結んでしまう。自分たちは決してホモなんかじゃないと惑いつつも、その思惑に反して互いへの思いを強めていく。そして、仕事が終わって別れた後、イニスはジャックへの愛を明確に自覚してしまい、物陰でむせび泣くのであった。
 イニスはアルマと結婚して二人の娘をもうけた。ジャックはテキサスのロデオイベントで出会った大手農耕機販売会社社長の娘ラリーン(アン・ハサウェイ)と結婚して息子を得た。そんな二人はあの夏から3年後に再会を果たすが、それは悲劇のほんの始まりに過ぎなかった…。

 やや腐女子傾向のある自分としては、こういうシチュエーションならばもちろん観るよ!って勢いで劇場に向かったのはいうまでもないし、26歳にしては顔が渋いヒース(あー『チョコレート』でビリー・ボブの自殺してしまう息子役か!)と大きな眼と長いまつげでちょっとファニーフェイスなジェイク(お姉ちゃんのマギーの出演作はいくつか観たことあるけど、本格的に演技を見るのはこれが最初だ)という、美形だという一言ではすませられないこの二人がカウボーイハットをかぶってワイオミングの山の中(ロケはカナダだけどね)に佇んでいる画を観るだけで、うーん、いい絵柄だわーなんて思ったりして(笑)。二人が羊の大群と共に山の斜面を登る絵なんて観ていて圧倒されたし。(なんでオスカーで撮影賞が取れなかったんだ!)心配していた男同士のラブシーンも不自然ではなかったし、むしろイニスの行為が『ブエノス』のファイと同じだったのに感心したくらいで、偉いぞヒース、キミ『ブエノス』観たやろ?なんてつっこみたくなったっけ(笑)。偉いといえばドドンと脱いで上半身をさらした20代半ばの女子二人、アンとミシェルもだ。アンといえば『プリティ・プリンセス』シリーズが当たり役のアイドルで、ミシェルはこの映画がきっかけでヒースとラブラブになったとはいえ、まだ『ランド・オブ・プレンティ』が記憶に新しかったので、あのみずみずしいラナ役はもう昔のことなのね…と思わず遠い目をしてしまったくらいだもの。

 でも、そんなミーハーな部分をすっかり取り除いてシリアスな気持ちになっても、この映画についてはいろいろ考えさせられる。
台湾人(外省人だけどね)の李安さんの作品には、もともとアメリカで映画を作っていたということもあって、中華的な要素は薄いように思えるのだけど、特に欧米人キャストで構成される欧米映画を撮ると、アメリカ映画にありがちな何も考えてなさそうな楽天的な部分がない、生真面目なものに仕上がるような印象を受ける。それは李安さんが異邦人であるからってのもあるだろう。そんな李安さんだからこそ、この映画が作り上げられたのじゃないかと思う。
カウボーイというアメリカを象徴する存在には、タフでマッチョな男らしさが秘められている。それはもう過去の遺物になっているのかもしれないが、古い価値を尊ぶ保守的な人々には、その象徴が、彼らの常識の範疇には納まらない、自然の摂理に適わぬ愛で結ばれてしまうということが屈辱だったのだろう。だから、中西部では上映が拒否され、アカデミー賞の最優秀作品賞からは落ちてしまったというのはなんとなく理解できる。
 しかし、愛の形はさまざまであり、価値観も時代によって変化する。ジャックとイニスの愛は40年以上前のアメリカの山間部では許されざる愛だったけど、彼らの愛の尊さは21世紀の一部の世界は理解が得られるし、困難な時代に20年以上も愛を育んだその勇気には大いに敬服する。愛する者が男であれ女であれ、こういう一途な愛は、やっぱりどこか理想的だなと思うので。(現実的に見れば、捨てられたり残された家族にとっては充分に迷惑だってーのはよくわかっているんだが)

 なんだかあれこれ書いていると長くなるのでこのへんでまとめなきゃと思うのだが、この映画を観ていて思ったのは、やっぱりといわれそうなんだけど、この映画に抱く感情や話の雰囲気が『ブエノスアイレス』によく似ているなと思うこと。もちろん、王家衛と李安さんの個性は違うし、表現へのアプローチは全く違うけど(そーいやー、パンフにあったけど『スクリーン・インターナショナル』のリー・マーシャル氏はこれと比較して『ブエノス』を批判してたな)、物語の根底に流れているものはよく似ているし、イニスとジャックの陰にどこかウィンとファイを思い出さずにいられなくなったものだもの。

 とまあとりとめもなくなってしまったけど、李安さんが21世紀の始めにこんな物語を紡ぎだしてくれたというのは、同じアジア人としてとても嬉しい。彼の今後の作品も大いに楽しみだし、そのうちやっぱり中華圏でも何か1本いいドラマを…と期待してしまうのであった。