例えば、スタルクアイズを外してヒューゴボスのスーツの上衣を脱いだ鷲津さんがピアノに向かう姿を見た時、あるいは企業再生に奔走する芝野さんの左手に光る結婚指輪を見つけたとき、ドラマとは全く関係ないところでそのキャラクターのことを思ってしまう。ああ、きっと鷲津さんは小さい頃からピアノやってたんだろうなーとか、芝野さんはやっぱり家庭を顧みずに働いちゃっているのだろうか、とかね。
 そう思うとき、ワタシはそこに演じる俳優のことを忘れる。南朋くんや恭兵さんじゃなくて、鷲津さんと芝野さんが本当にいるような気になる。それは白洲次郎や坂本龍馬や緋村剣心も同じで、いせやんやフクヤマやタケルの姿は重ならない。一度物語が始まると、そこにいる俳優は素顔を消し、役柄そのものにしか見えなくなる。そんな魔術が、大友組作品の魅力の一つだと思っている。

 さて、9月9日に東京まで日帰り遠足してきた。
目的は、池袋コミュニティカレッジで行われる「大友啓史の役者論」聴講のため。地元で開催された武士道イベントに参加できず、帰省時に行われたデジハリ講演会は予定がバッティングし、舞台挨拶はTV局主催の試写会だったので応募に外れて見事にかすり…と、なかなか会える機会がなかった。
 
SWITCH Vol.30 No.9 特集:『るろうに剣心』が斬り開く世界
SWITCH Vol.30 No.9 特集:『るろうに剣心』が斬り開く世界

 大友さんはグレーのソフトスーツ+モノトーンのTシャツ姿で登場。昨年映画祭で見た時よりシュッとした感じ。人前にたくさん出たからかなあ。 
 開口一番、るろ剣はNHK時代と同じ演出法で撮ったとか。うん、まあね、それは感じてた。特に龍馬組が「これは龍馬の続編だ」と言ってたもんな。 
 彼が昨年から週刊現代にて不定期連載を始めた「役者論」。優ちゃん、ムネムネ、神山さん、真木嬢、南朋くん、大殿こと近藤さん、中谷さん、そしてタケルとの対談が誌上で繰り広げられてきたが、どれも濃密な対談内容で、巻末にエロいグラビアが載っていようともいつも買ってはじっくり読んでしまう。この企画は大友さんが現代側に持ちかけたそうで、役者をスペシャルなものとして接するとどうしても溝ができてしまう、彼らと人間性が伝わる会話をしたかったとのこと。
 まず、「役者とは何か?」という疑問を投げかけられた。これには様々な意見が現れたが(すまん、ワタシは言わなかった)、これにはいろいろな意見があって当然だという。まあ、絶賛だけだったら確かに気持ち悪い。ワタシも中華趣味方面へるろ剣を強力推薦しているけど、それでも多少の批判は聞く。その度に凹むけど、それは自分のせいじゃないもんね。
 
以下、主観を入れずにセミナーメモをまとめます。
 
  役者が役に近づく方法はいろいろあるけど、次の対象的な方法が最も印象的だった。ひとつは、アクターズスタジオで一般的な技法ー演じるために、自分の中にある余分なものをそいでいくこと。つまり、内面からのアプローチ。この例として、フクヤマが龍馬を演じるに当たって、だんだんそのものになってしまったことを挙げられていたかな?そしてもうひとつは、そのキャラクターを演じるに当たって、キャラクターの背景を考え、それにふさわしい小道具や服装を用意して、外堀から埋めていく方法。例えばファンドマネージャーの鷲津さんなら、どんな世界に生きていて、どんな服を着ているか、どんなものを食べて、どんな人間と付き合っているか。そういうものを感じさせる雰囲気をクリエイティヴなところへ落とし込んでいき、それから演じる人にもその考えを共有してもらって、そこから考えて演じてもらうとか。いずれにしろ、役者に体で覚えてもらわないとスタートできないってことらしい。 
 外堀から埋めることの例をもうひとつ。時代劇なら現代との違いを考え、そのスタイルを見つけるそうだ。龍馬でのキーアイテムは刀だったそうだ。刀を持つか否かで時代はどう変わったか?そこで役者に実際の刀を持ってもらい、殺陣を経験してもらうと、彼らはその意義を肉体的に落とし込んで考えてくれると言う。このように、役者本人は、彼らが思っている役のあり方を求めて、自らトレーニングしていけるという。トムクルやデニーロ兄さんがもし在日米国人サラリーマンを演じるのなら、クランクイン前に2ヶ月滞在して満員列車に乗り続けるんじゃないか?(とか言ってたけど、まあ、それは実現しないか)
 
 龍馬では「侍とは何か」という問いを考えながら作っていたと言う。その中の逸話で、龍馬の父を演じた児玉清さんは70代で40代の役を演じたが、いざ衣装合わせをして黒髪のカツラをかぶってもらったら、なんだか悲しそうに見えたと言う。そこでさらに若くすべく塗っていったら、さらに悲しくなっていったので、これは年齢ではなく、児玉さんに似合う装いを考えてキャラクターを作っていったと言う。 
 
 この「◯◯らしさ」の喪失というのは、意識下にも現れるらしい。そこからるろ剣の話。
漫画原作の映画は非常に危ない。それはコスプレか原作が生きたものかのどちらかになってしまうからだ。3.11前後ではワタシたちの考えは変わってしまったのではないか.そして、世の中に起きていることと、人はつながっているのではないか、ということを考えたと言う。
 舞台となる時代はどうだったのか?るろ剣の人々なら明治時代で生きている。それは刀が魂だった人々が刀を捨てて生きていく時代であるということだ。小道具としての刀を捨て、違う扱いをして生きなければならない。 剣心の意識はそこにあり、逆刃刀をどう納刀するかというところまで考えることになる。原作の大ファンだったというタケルが刀を与えられてまずしたことは、延々と素振りをすることだった。慣れていくうちに刀の軌道が大きくなり、抜刀斎から剣心への変化が見られることとなったという。
中盤、清里(またの名をゾンビ清里。演じるは窪田正孝くん)を暗殺した際、抜刀斎が殺意を漂わせ、事をし終えた後に震えていた場面があった。ここは何度斬られてものたうちまわって彼に掴みかかる清里の姿に、剣心の善意を呼び起こしたのではないだろうか。あの場面では特に演出しておらず、タケル自身から自然に出た振る舞いだったという。彼は論理ではなく感覚で演じたというわけだ  
 
 では、賛否両論だった照之の観柳はどうだったか?観客からは「弥太郎を思い出した」との声がちらほら。彼に士族が「飼われている」描写には、身分の逆転と階級の崩壊がある。ここで滑稽な姿を見せながら、士族の扱いで悪意を見せているらしい。この時代、弥太郎は一人で三菱を起こしていたわけだが、いままで身分が低かった人間が、新しい時代のなかでどう自由にやって行くかのエネルギーがあったわけだが、照之がそれを感じながら演じていたかどうかは不明だとか(笑)。もしかしたら、彼は賛否両論を起こさせたいと企んでいたのではないか?なぜなら、観柳のパワーが上がれば上がるほど、彼の周りもそれに対抗すべく、テンションをあげて行くからだ。
 実は観柳は生瀬さんを意識してキャラデザインされたという。余計なことをいわず、とにかく生瀬化させろ!と、そして「どんどんやってくれ!」と背中を押した挙句、ああいうキャラになったらしい。この方法では、振り切るか削いでいくかのどちらかになるが、観柳は前者で、『ゆれる』の稔は後者だとか。照之は本来、演技スイッチを押せばガッといくのが本来の姿で、もしかしてそれ以外は「演技」じゃないのか?とまで思ってしまうとか。
 
 終盤は、技術的な面からの作品の作り方。
まずは実際に絵(ストーリーボードや衣裳スケッチ)を作り、 マンガにリアルさを加えていき、スタッフや役者とキャラデザインを共有していったとのこと。例えば剣心は緋色の着物がトレードマークだが、いきなりあんな派手な色で登場させるのではなく、原作での色合いも確認しながら、抜刀斎の頃には紺色、放浪時には地味な風合い、そして緋色へと変化させて意味を持たせ、さらにオリジナルシーンも加えたという。また、ムネムネは素では「はつ恋」の潤ちゃんに近く、人の顔など殴ったことなんかない。それでも役柄を演じるに当たって元気と相当なトレーニングを積んだ。斎藤一は「ラストサムライ」のイメージで、陸軍の制服は本来は黒だが、あえて白にした…などと、マンガであることを逆手にとって、デザインしていったとのこと。
役柄の内面を作るのは役者の仕事であり、スタッフは 一緒にそれを作るために、衣裳やヒントをいろいろ提供し、彼らに考えてもらって役柄を作ってもらうのが仕事である、ということで、とりあえずタイムアップ。
 
 以下、質問より。
―ハリウッドに行って気づいたこととは?
エンタメは目に見えない形で人に力を与えるので、その感動には価値がある。そういう力を体験し、負けたくないという気持ちが芽生えた。
―清里の場面での演出は?
タケルには一切演出しておらず、窪田くんだけしか演出しないで、演出というボールを投げてみた上でああなった。ボールを投げるのが得意な役者と受けるのが得意な役者がいるが、実はタケルは前者である。相手がどう出るかによって役者の芝居が変わるのだが、ハゲタカでは第1話ラストでエキストラに演出をつけた。芝野さんが鷲津さんに「オマエが殺したんだ」という場面でエキストラを大量投入した結果、本来なら強く言えるあのセリフに強さがなくなり、かえって際立ったとか。 
 
 …ふう、だいたいこんなところかな。うろ覚えなところが多いので、間違い等あったら御指摘よろしくです。
「NHKを退局したのは、こういう作り手の話をどんどん発信して、観客とコミュニケーションをしていきたかったから」という大友さんの気持ちがよくわかる、熱のこもった楽しい講演だった。
 普通のドラマや映画だと、多分俳優(たいてい人気俳優とかアイドル)に合わせてのアテがきや演出にも制限がかけられることが多いんじゃないか、だからせっかくいい素材でも、いざ完成すると途端につまらなくなる作品が邦画には多い気がするし、ドラマにも観る気を失わせる。彼のドラマ作りはそういう流れとは全く対象的で、むしろ映画に近い演出法だからこそ、こっちに出てきたわけである。
 最初にも書いたけど、大友組作品の魅力は、一度始まると、出てきたキャラがもうすでにその人にしか見えなくなること、つまりほとんどの俳優が「役を生きてしまう」ことだ。特にワタシが「座付俳優」と呼ぶ面々ー彼の作品に2作以上出た俳優たちを指すーにはそれが顕著。例えば南朋くんは鷲津さんと武市半平太を演じているわけだけど、この二人は全く違うキャラであった。彼を知っている身であれば、ついついその共通項を根底に見出したくなる誘惑に駆られるが、ちゃんと違う人物を演じ分けてしまう。龍馬の放映中、彼が共演者たちと飲みに行った時、店の客に「以蔵をいじめるな!」と罵倒され、同席した勤王党の面々がとっさにガードしたという有名なエピソードがあるけど、それがまさに好例。大友さんの間では、この二つの役を作り上げるまでにいろいろなセッションがあったのだろうし、彼もいろいろと考えながらそれぞれの役を演じていった結果が二つの作品で体現したってことなんだろうな。
   役者自身の内面に迫るのが件の連載なら、今回の講演はエンタメの作り手として役者が演じる役どころの内面を披露したという印象。ハリウッドで学び、そこで得たことをNHKで実践し、評価を収めてきた大友さんのこのメソッドは、これは日本映画では珍しくあっても、海外の映画監督は習得しているものではないだろうか。役者からキャラクターを引き出そうとする演出は、王家衛もやってた気もするしね。

 さて、るろ剣という旅を続ける大友さんが挑む次のステップが「プラチナデータ」なわけだが、この映画の主演はニノ。…う、アイドルか?などと一瞬身を固めたけど(なぜだ)、よく考えればニノは嵐の中でも演技派でならしているし、イーストウッドにもかわいがられたわけだから、ハリウッド的な現場は承知しているわけだよな。なら、大友組にも案外馴染むんじゃないかな、とあまり不安がらないようにしている。まあ、ジャニーズともなると一般マスコミが大騒ぎするわけだけど、あまり変なことは言ってほしくないもの。

 講演会の後はサイン会。花束やお酒を渡している人がいて、いいなーとか思ったけど、重いの持ちたくないからまあ別にいいよな。でも「3年前にもりおか映画祭で声をかけさせていただいたもとはしです」とひとこと言いたかった。そしてどもりながら声をかけたら、「ああ!香港映画の!」と言われました(笑)。ええ、いいんですよ、「香港映画のもとはし」でね。「今度、香港映画でもなにかやりましょうね!」と言ってもらえたのは嬉しかった。期待してますよー。そんなわけでシネマートさんと新宿武蔵野館さんは是非大友さんを香港映画上映時のイベントに招いてください、とここに続いてお願いする次第。

 そうそう、今回は役者論だったわけで、アクションについては話がなかったんだけど、なんと、大友さんからアクションについてのお話が聞けるのですよ、しかも谷垣さんもご一緒に、それももりおか映画祭で!
 うわー、こりゃテンションあがるよー!嬉しいよー!ものすごく濃ーい話をかぶりつきで聞きたいよ!もう香港映画の話もどんどんしちゃってよ、お願ーい。

 …でもこのイベントのおかげで、東京国際映画祭の初日の週末の上京が不可能となりましたとさ、あはははは。まあいいか。