トップページ » 2011年06月
2011年06月

国家再建の器

イスラエルの再建に用いられた人たちは、意外なことに正統的ユダヤ教徒ではなく、社会主義の影響をうけた若者たちでした。
その代表格は、ベングリオンです。
彼らはユダヤ民族の伝統を伝える書物としては、トーラー(旧約聖書)を重んじましたが、信仰の書としては受け入れていませんでした。
社会主義の基本にあるのは、無神論です。


聖書には繰り返しイスラエルの再建が預言されています。
しかし、聖書にこだわるはずのオーソドックスジューイッシュは、国家再建でおもだった働きをしませんでした。
むしろシオニズム運動と距離を置いていました。
今でもイスラエルの建国記念日には、イスラエルの国旗を焼くグループがいます。

それには理由があります。
ラビ的ユダヤ教の伝統によると、世界中に離散したユダヤ民族を集めて国家再建を果たすのは、メシアの仕事であって人間がする事ではないと教えたからです。
それどころか、離散のユダヤ人は国家再建の努力を放棄し、今住んでいる国に貢献する事に専念するように教えたからです。
これを最初に唱えたのは、ラビ・ヨハナン・ベン・ザッカイです。AD70年のユダヤ戦争時、チーフラビだった人物です。
この流れを組む人々をラビ的ユダヤ教徒と言います。
彼らは現在のイスラエル共和国を、人間の手による産物として見下しているところがあります。
その国家によって大変な恩恵を受けているのですが。

神を信じて部屋にこもり勉強以外何もしない伝統主義者と、機会を逃さずにあらゆる行動を起こした社会主義者のどちらが聖書預言の成就に用いられたかは、歴史を見れば明らかです。

伝統主義者は必ずしも聖書に忠実だとは限りません。
伝統の中には守るべきよき知恵とともに、捨て去るべき因襲も含まれているからです。
守るべき伝統と改めるべき因襲を見分ける知恵が必要です。
しかし、これは口でいうほど簡単ではありません。
今までずっと続いてきたことを変えるのは、大変な力が必要です。というのは、今まで続いてきたのは、今までの状況下では有効だったという実績があるからです。

しかし、暫定真理は絶対真理ではありません。
正統派の中にも若者たちはたくさんいましたが、伝統の縛りから解放されてはいませんでした。
社会主義の若者たちは、初めから伝統主義者の枠外にありました。
彼らの両親は、多くの場合、伝説的ユダヤ人でした。
両親から受け継いだ良きものと、革命思想がもたらす行動主義が結びついた時、神の摂理の内に用いられたのでした。
私にとっては、実に学ぶところが大きいです。


ダニーボーイgt516  at 11:35コメント(3)トラックバック(0) この記事をクリップ! 

夜明けの見張り人スタート

今は昔の物語です。
高校一年生の夏休み、私はダスキンという会社でアルバイトをしました。
バイトの先輩に大学生Tさんがいました。
彼はクリスチャンでした。
私に決定的な影響を与えた人です。
抜群の営業センスを持ったその人は、他の学生とは違って見えました。
大声を出したり、派手なパフォーマンスをするわけではないのに、なぜか目立つのです。
当時私は創立6年目の新設公立高校に通っていました。
お世辞にも進学校とは言えないその学校に席を置きながら、私は不本意な進学をしたことを後悔していました。
成績はトップクラスでしたが、まるで自信がつきません。
私は医学部目指して、とある通信添削の受験講座に申し込みましたが、教材費がべらぼうに高額だったのでした。
その費用を稼ぐためにバイトをしたのです。
そういうわけで、私の頭の中は高校一年生にして、受験勉強とお金と人生の不条理への疑問でいっぱいに詰まっていました。
私は気がつくとバイト先の先輩Tさんにくっついて、何かと話し込むようになっていました。
この人には、私が見えていない世界が見えているような気がしたからだと思います。
そしてその通りだったのです。

私は同年代の友人たちの中では、かなりの読書家だったと思います。
勉強もそこそこは出来ていたと思います。
しかし、Tさんと語ると何かが自分に欠けていると感じました。
私の知識は、つながりのない断片ばかりなのです。
この先大人になるまで、膨大な書を読み知識を蓄え様々な体験を積んでいけば、自分のことは自分で出来る人間にはなれるでしょう。
しかし、一番肝心な人生の目的についてはわからないまま、知識ばかりを増やして何になるのだろうか?と云う疑問が彼と話すと湧いてくるのです。
彼にあって私達に無いもの、それはバラバラの知識や体験を統合する何かでした。
私は世界の細かい事件を雑学王のように知っていましたが、それらを統合する世界観が無いのです。
ところが彼にはこの世界観、歴史観があったのです。
歴史上の様々な事件や、個人の歴史である人生についてかれは確たる物差しを持っていました。
意外な事に、それは聖書だったのです。

どうして聖書に歴史観があることが意外だったのかと言いますと、私が幼い頃に聞いた聖書のお話にそんな内容はなかったからです。
私は小学一年生から中学に上がるまで、ほぼ皆勤で日曜学校に通っていました。
日曜学校とは子ども向けに聖書のお話などをするプログラムです。
私はある考えの下、日曜学校に行くのを止めました。
だんだんと魅力を感じなくなったからです。仮にも6年間日曜学校に通った私は、聖書の内容については一通り分かったつもりでいたのでした。

聖書を読むことを勧めるTさんに対し私は答えました。
「私は宗教というのがどうも抵抗があって…。私は聖書を読んだことがあります。しかし、信じるというこに引っかかるんです。今は神さまを信じていないので結構です。」

Tさんの答えは衝撃的でした。「君は神さまを信じていないのではないよ。神さまはいないと信じているんだよ。それだって信仰じゃないか?君は神さまいない教の信者だよ。
世の中には2つの信仰があるんだ。神さまがいると信じる信仰と神さまはいないと信じる信仰だ。君は何かの根拠があって神はいないと信じているんだよ。ところでその根拠を説明してくれないか?」
私は答えに窮しました。
しどろもどろになりながら「まずTさんから神さまがいる根拠を説明して下さいよ。」と反撃しました。

「神さまが生きて働く方だという証拠を一言あげよ、というならば、それはユダヤ人です。」
そこから、彼の聖書預言の講義が始まりました。

彼の世界観を一言で言うなら、「世界は創造主から離れて崩壊しつつある、創造主は壊れ始めた人類と世界をリフォームするプランを立てられた。創造主は人類世界立て直しの手段としてユダヤ民族が選ばれた。だから誰もユダヤ人を滅ぼすことはできなかった。かえってユダヤ人を滅ぼそうとしたものたちはことごとく滅びていったんだよ」という事でした。

私は夢中になって彼の話に聞き入りました。聞けば聞くほど驚くことばかりでした。
私の回りに創造主とか、人類救済計画とか、中東和平などという話題を語ってくれる人は皆無だったからです。
恥ずかしい話ですが、私はその時イスラエルという国が世の中にあることすら知りませんでした。
そもそも私の関心事の外側にある話だったのです。

私はTさんの博学に圧倒されました。
しかし、それは皆彼のオリジナルではなく、聖書預言に記されていると言うのを聞き、聖書を学んでみたい、いや、聖書を避けている限り私の人生に夜明けはないと、直感したのでした。

これが私と聖書の本格的出会いの始まりです。
私にとって聖書預言による神の証言ほど、私を打ち砕くものはありませんでした。
それは有無を言わせぬ力でした。

多くの日本人は、聖書の死生観や、キリストの生涯、さまざまなクリスチャンの証しを聞いた時、「いいお話」としては聞きます。
しかし、それ以上ではない。
キリストや聖書は悪いものではない、心を豊かにする上で役に立つ、しかしそれだけのことです。
クリスチャンの考え方を知る上では聖書は必読書だが、私には私の考えがある。
人それぞれいろんな考え方がある。
聖書もたくさんある考え方の一つに過ぎない…。

しかし、聖書預言にはそのような相対的な見方を許さぬ権威があります。
人が聖書を信じても、信じていなくても、聖書預言の通りに世界が動いていくからです。
このブログでは、聖書預言に関わることを書いていきます。
時々刻々移りゆく国際情勢についても、折に触れてコメントします。
そういうわけで、時系列にまとまったブログにはなりません。
私の覚え書きのようになりますが、よろしければお付き合いください!


「私は夜明け前に起きて叫び求めます。私はあなたのことばを待ち望んでいます。

私の目は夜明け前の見張りよりも先に目覚め、みことばに思いを潜めます。」詩篇119篇147-148節。


ダニーボーイgt516  at 21:30コメント(7)トラックバック(0) この記事をクリップ!